大晦日の蘊蓄 その他 [今日の暦]
大晦日と言えば、井原西鶴の句が浮かびます。
モラルハザード、偽装表示、公約違反、ウラガネ受領etc.「定めなき世」を地でいくエピソードには事欠かぬ昨今ですが、時間の推移という「定め」は揺らぐことなく、今年も最終日となりました。
西鶴といえば、『大晦日あはぬ算用』という面白い小品があります。
「二十八日まで髭をそらず、朱鞘の反りを返して、春まで待てと云ふに、是非に待たぬかと、米屋の若い者を睨み附けて、直ぐなる世を横に渡る」という貧乏浪人原田内助は、窮迫して、医者である義兄(女房の兄)半井清庵に無心します。清庵は、金子十両を包み、「貧病の妙薬金用丸万づによし」と上書して送ってくれたので、内助は親しい浪人仲間七人を呼んで年忘れの宴会を開き、小判十両の由来を披露します。浪人達は大いに感心し、杯を重ねて、宴も終わりにさしかかった頃、後片付けとともに小判を集めたところ、一両不足しています。さてこれは、、、。という騒ぎの顛末は?
大岡裁きのように痛快でしみじみ温まるラストです。
太宰治は、これを下敷きに『新釈諸国噺』の冒頭に、『貧の意地』と題する作品を載せています。
その、『新釈諸国噺』の凡例に、太宰はこう記して西鶴を絶賛しています。
「西鶴は、世界で一ばん偉い作家である。メリメ、モオパッサンの諸秀才も遠く及ばぬ。私のこのような仕事に依(よ)って、西鶴のその偉さが、さらに深く皆に信用されるようになったら、私のまずしい仕事も無意義ではないと思われる。」
落語にも、大みそかを扱ったものが数あるようです。
「掛取」とか「掛取万歳」とか呼ばれる演目は、年末に押しかける「掛取」=借金取りを、しての趣味や性格を利用して撃退するという痛快なハナシ。
たとえば、狂歌の好きな大家さんには、「貧乏のボウ(棒)も次第に長くなり 振り回されぬ年の暮れかな」「貧乏をすれど我が家に風情あり 質の流れに借金の山」などの歌を並べると、大家は感心して、「貸しはやる 借りは取られる 世の中に何とて大家つれなかるらん」(歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』に登場する「梅は飛び桜は枯るる 世の中に何とて松のつれなかるらん」のパロディ)と引き下がる。他にも、芝居、義太夫、三河万才など、相手の趣味に応じてあの手この手。次々と繰り広げられる「コント(寸劇)」のようなおかしさが楽しい演目です。
昔の決算時期が年末だったことから、大みそかには集金人が大挙してあらわれる。年を越すとひとまず催促は猶予されるという、当時の社会・経済の仕組みがうかがい知れます。
「芝浜」という人情話も、年末が舞台。
腕はいいが酒好きの魚屋熊五郎(演者により活五郎、勝五郎、勝など多様)が、ある朝、魚河岸のある芝浜で、財布の落とし物を拾いますが、、、。
ところで、「大みそか」とは、「大」+「三十日」。正確には三十一日ですから「みそひとか」とか「みそひとにち」とか呼ぶべきでしょうが、そんな呼び方は聞きませんね。
「大みそか」は「大つごもり」とも呼びました。月末は、「月隠り(つきごもり)」から転じて「つごもり」と呼びますから、その最大のものが「大つごもり」です。パソコン入力で、漢字変換してみると。「おおつごもり」も「おおみそか」も「大晦日」と、同じ漢字に変換されてややこしいですネ。
「大つごもり」といえば、樋口一葉の小説。
デジタル大辞泉では次のように解説されています。
「大つごもり」:樋口一葉の小説。明治27年(1894)発表。大みそかを背景に、女中奉公をしている薄幸の娘お峰の哀感を描く。
というわけで、今も昔も慌ただしい大晦日に、のんびりブログなんか書いてる場合か?という突っ込みが入りそうなのでこの辺でまとめに入ります。
今日は散歩してません。
昨日の散歩が今年の歩き納め、撮り納めになるでしょうか?
我ながら、見せびらかしたい画像がゲットできました。
今年の年越し蕎麦は、手作りにチャレンジ。
蕎麦粉は、故郷の実家の畑で取れた今年の蕎麦粉です。
さっきまで、こねて切って、悪戦苦闘の結果がこれです。
夕食にゆでて食べます。
では、良いお年を。
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妻の作品 ヤブマオ製の特製手編みバッグ [趣味]
福島県奥会津の昭和村に「からむし織」と呼ばれる伝統工芸があります。
妻がこのことに興味を持って、「からむし織の里」を訪ねたのは、去年の6月でした。
私は、つきあいで同伴し、自由時間の間、矢ノ原湿原などを歩いたり、会津白虎隊の戦跡・史跡を訪ねたり、野尻川沿いの散策でカジカの姿と鳴き声を楽しんだり、と、贅沢な時間を堪能しました。
震災・原発事故の傷はまだまだ癒えていない頃でした(いえ、今なお苦しみと不安は続いているのですが)けれど、奥会津地方では、震災・津波の被害も、放射能被害も
軽度であったそうで、平和なたたずまいに抱かれて、のんびりしてしまいました。地酒も、郷土の食材を使った料理も、たいそう美味でした。
その後、NHK大河ドラマになった「八重の桜」は、会津が舞台でした。
旅の終わりに、会津城若松城(鶴ヶ城)も見てきました。7層の天守閣が青空にそびえ立つ様は、勇壮かつ厳かな気品を漂わせています。
誰しも、白虎隊の悲劇を 連想するので、なおさらその思いがつのるのでしょうか?
桜の咲く会津城も、訪ねてみたいものです。
さて、今日の話題は、その「からむし」に似た「ヤブマオ」。
実は、「からむし」の写真を見て、ああ、この草なら故郷のどこにでも普通に生えているじゃないかと思ったのですが、実際に昭和村で、栽培されている色々な品種の「からむし」をみて、やっぱりこれなら熟知している草と同じだと確信しました。
さらに、途中で妻の言うには、これは近縁種だけれど、「からむし」とは別種の「ヤブマオ」かも知れないと、プロジェクトからの撤退を宣言する始末です。
そうはいうものの、田舎の老父が暑い中刈り取り、庭の池に浸したこの草を、妻は、薄くそいで乾燥させ、繊維をとるという手間をかけたものを捨ててしまうわけにもいかず、少しずつ編み棒をお動かしてい増した。最近になって、やっと、、完成したからブログで公開するようにと命じますので、ここにご紹介します。
ヤブマオの茎の皮をそいで、取ったた繊維の束です。
ヤブマオ製の特製手編みバッグ
野趣に富んで、自己アピールしています。
(注)作品は、一つだけです。撮影方法で、表情が変わって見えますか?
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年の瀬や人は東にまた西に [家族]
今年も余すところわずかです。
長男一家が、13時過ぎの新幹線で、嫁さんの実家に里帰りというので、新幹線駅まで、送りました。雪の影響はどうだったでしょうか?
私たち夫婦は、その足で、田舎に向かい、お餅と野菜をもらって帰りました。シクラメンの花が咲いていました。
「小鮒釣りしかの川」をのぞいてみました。数日前には、鴨の群れが渡ってきていたというのですが、見あたりません。
がっかりしているところに、にわかに飛び去った鳥があります。目で追うと、遠くの草原に一休みしています。カワセミです。
子供の頃から、この川は、馴染んだ遊び場でしたが、ここでカワセミを見たのは、実は初めてです。
望遠レンズは、マニュアルレンズしか持ってきませんでしたので、距離があるとなかなかピントが合いません。残念。
大阪に住む二男は、赤ちゃんとお嫁さんのいる実家へ、車で、移動します。年の暮れをそこで過ごし、正月には、こちらにも顔を見せるようです。
そんな話をしていると、長女の婿殿が殻付きの生牡蠣をもらったので、立ち寄るようにとのTELがあり、どっさり重いトロ箱(発泡スチロール箱)に入った生牡蠣をいただいて帰りました。
余りにたくさんいただいたので、ご近所さんにお裾分けしました。
それでもこんなにたくさんのカキ。夫婦二人にはぜいたくすぎましたが、 今日は半分ほど、「焼きガキ」と「レンジガキ」でいただきました。
冬至の日にいただいた柚子がまだ残っていましたので、この果汁を振りかけて食べると、天下一品。こたえられません。
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水鳥も家族で憩う年の暮 [家族]
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冬晴れやカメラ故障も味のうち [折々散歩]
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律儀にも今年も咲くや桃シャコバ [園芸]
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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第14回(最終回) [木下透の作品]
このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。
木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。
高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第14回目。最終回である。
郷愁という名のメルヘン
カルロス爺さんの思い出
連載第14回(最終回)
銃を持つのを嫌がったぼくが非国民なら、銃を持って 敵兵を撃った奴は何だ――非人間!!そうとも。貴様らの撃った相手は、本当に貴様らの敵だったか。否。それは、貴様らと同じ農民であり、労働者であり、優 しき父であったり、頼もしき兄であったはずだ。貴様らの撃ったのは、貴様らの直接の敵じゃない。ならば、貴様は、何故に銃をとるのだ。国のため?国を守 る?家を守るように?ヘドだ。ぼくらが守りたいのは、自由と平和であり、ぼくらの家であり、妹や子供達の命であるのだが、貴様らが「守れ!」と命令された のは、国土であり、国家秩序であり、資本家達の営利・・・だったわけさ。
貴様らだってわかっているはずだ。わかっていながら、ぼくのことを国賊だ、臆病だとののしるってことは、どういうことだ。つまり、臆病なのは、貴様らの方だってことじゃないのか。そして、ぼくだって、もしも徴兵に応じていれ ば、やはり、立派な臆病者になれていたってわけさ。
案の定、ぼくは捕えられ、今、刑務所の固い寝台の上に座って、こうして昔を想っている。
学校での仲間たちは、今、戦場にいる。
ぼくは、こうして、非国民として牢獄の中にいる。
ばくはさんざんの非難と嘲笑を受けながら生きている。
ぼくの家族達も、きっと、村人達に白眼視されながら、ぼくのことを恨んでいるだろう。(けれど、母さんは、ぼくに言うだろうか。立派に殺して、死んでおいで・・・と)
ぼくは、今、とっても寂しい。そして苦しい。けれど、何だか快い。少しも自分を責めてはいない。
ぼくはとにかく戦った。とうてい歯の立たぬ相手ではあったが、そして、敗れはしたが、とにかくぼくは戦った。
爺さんも言ってたっけ。
「負けてもいいから戦え」と。
「負けたら泣けばいいんだ」と。
ぼ くには力がなくって、ぼく一人じゃなんにもできなかったけれど、どうか君。君もいつまでも、育児なく逃げ回ることはおよしよ。そして、はっきり見つめてご らん。君の目の前にいる本当の敵を。弱者同士、傷つけ合うのを喜んで眺めている輩を。人を傷つけなけりゃ、自分の幸福はあり得ないと、主張する輩を。ぼく ら弱者の血で、身を肥やしている輩を。そして、奴らに追従しようとしていたぼくら自身の卑屈さを。両のこぶしを固く胸に握りしめて、しっかりと目に留め て、忘れちゃならない。(つづく)
- 作者: 住井 すゑ
- 出版社/メーカー: 新潮社
君死にたもうことなかれ―与謝野晶子の真実の母性 (詩人の評伝シリーズ)
- 作者: 茨木 のり子
- 出版社/メーカー: 童話屋
- 発売日: 2007/04
- メディア: 単行本
-
「君死にたまふことなかれ」と『きけわだつみのこえ』・「無言館」―近代日本の戦争における個人と国家との関係をめぐって
- 作者: 幸津 国生
- 出版社/メーカー: 文芸社
- 発売日: 2001/12
- メディア: 単行本
-
- 発売日: 1992/05
- メディア: 単行本
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり
君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ
あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる
暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ
- 作者: 宮本 顕治
- 出版社/メーカー: 新日本出版社
- 発売日: 1983/01
- メディア: 文庫
だが、「戦争が終わってぼくらは生まれた」わけで、「戦争を知らない」世代としては、 戦争に反対して投獄、という設定がリアリティを持ちにくくて、この先を書けないまま、中断しているという次第だ。
先ほど、リアリティに乏しいと一旦書いたものの、朝日歌壇に載った次の短歌は、しかしリアリティ十分だった。
徴兵は命かけても阻むべし母・祖母・おみな牢(ろう)に満つるとも 石井百代
この歌の作者について述べた記事を見つけたので、引用・紹介しておく。
〈問い〉 以前、「徴兵は命かけても阻むべし…」という歌があったと記憶していますが、作者はどんな人でしたか?(福岡・一読者)
〈答え〉 「徴兵は命かけても阻むべし母・祖母・おみな牢(ろう)に満つるとも」
石井百代(ももよ)さん(1903年1月3日―82年8月7日)が、78年にこの短歌を詠んだのは75歳のときでした(同年9月18日付朝日新聞「朝日歌壇」に掲載)。福田赳夫首相が有事立法の研究を指示した情勢のもとで詠まれました。
選者の近藤芳美さんは選評で「…『母・祖母・おみな牢(ろう)に満つるとも』という結句にかけてなまなましい実感を伝えるものがある。一つの時代を生きて来たもののひそかな怒りの思いであろう」と書きました。
戦争中は東京都に住み、3男4女の母でした。夫・正(ただし)さんは軍医としてマニラに。病弱だった大学1年生の長男・立(たつ)さんは火薬廠(しょう)に動員されます。二男は陸軍幼年学校、士官学校、航空士官学校を経て外地に。戦後、立さんが出版社に勤め労働組合運動に参加するようになり、その影響もあって夫婦は進歩的な考えを持つようになります。
51年4月、夫は、静岡県相良町(さがらちょう。現・牧之原市)で耳鼻科の医院を開業。百代さんは、夫と一緒に読書会、映画研究会に入って地元の青年たちと交流。夫婦で日本共産党後援会の世話役もしました。
「しんぶん赤旗」日曜版の「読者文芸 にちよう短歌」にもしばしば投稿。「マルクスの読書会終えわが夫と帰るこの夜の月澄みまさる」(65年12月5日号)と読書会のことを詠んでいます。
69年8月に夫が亡くなってから、東京都世田谷区に住むようになりました。
「徴兵は…」の短歌が発表されてから本紙記者が百代さんにインタビューしたとき「私は兄、おい、二人のいとこ、義弟を戦死させています。息子は病気で徴兵をまぬがれましたけど…」「でも私はあの戦争を聖戦と思い込んで、息子を戦争に差し出そうとしていたんです」と語っていました。
罪ほろぼしのつもりで、と百代さんは女性の団体「草の実会」で平和問題などの学習をすすめます。そのなかで知った有事立法の動き。この短歌は体を張ってでも孫たちを戦場には送らないという彼女の決意でした。この歌は草色のスカーフに白く染め抜かれ、人々の口から口へと伝えられました。当時、自民党政府は有事立法に踏み切ることはできませんでした。
選挙では日本共産党を応援しました。80年6月の衆参同時選挙の時、「投票は誰にしてよいか分からないのでいくまいと思う」という女性に、百代さんは「平和を守るために、ぜひ共産党へ投票なさい」とすすめています。(義)
〔2006・6・10(土)〕
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愛(は)しけやし孫の手作りケーキかな [家族]
小4、年長組、年少組の三人の孫達が、ケーキのデコレーションづくりを楽しんだ由。
カレーライスの晩餐にお呼ばれし、ケーキのご相伴にあずかりました。
孫達の手作りケーキの賑やかさ
「はしけやし」とか「はしきやし」という表現は、古事記や万葉集に出てきます。形容詞「は(愛)し」の連体形+間投助詞「やし」という成り立ちだそうですね。ああ、愛しい事よ、ああ、懐かしい事よ、といった意味ですか。万葉語を俳諧に導入した人っていましたっけ?
一足早いクリスマスプレゼントに、「叔母なる人」=私の長女が、トランプや、粘土、噛みつきワニゲームなどを持ってきてくれて、ひとしきり大喜びでそのおもちゃで遊び、楽しく和やかに、平和なクリスマス・イブ・イブを享受することができました。
この飾り付け、孫達の作品だそうです。
病窓の彼方の空に冬の虹
病窓の初日さやかや吾生きたり
生き延びて迎える朝や空まぶし
病室の窓晴れきって歳替わる
厭わしき蛇の頭の姿して吾が頭蓋深く動脈瘤肥えをり
「血栓化未破裂巨大動脈瘤」まがまがしきは吾がやまひかな
病棟の未明の廊下静まりて ナース黙々と汚物処理しをり
黙々と汚物処理せるナースあり 背に会釈して吾はまた寝に就く
なにくれと労りの声かけくれし夜勤ナースの目の隈いたわし
微かなる時雨の音して9階の吾が病室の夜は更けんとす
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柚子の香や一陽来復揺るぎなし [今日の暦]
今日は冬至。(北半球では)1年で一番昼が短い日です。
これからは、どんどん日が長くなっていくことから、「易経」では、「一陽来復」といいます。古い中国の暦では陰の気で覆われていた運気が、冬至を境に長くなっていく とされてます。衰えていた太陽の力が再び勢いを増してくるというのです。悪いことが続いた後に幸運に向か うという意味も込められているます。
冬至といえば、柚子(ゆず)湯。江戸時代以来の風習だそうで、「融通」が利くように「ユズ」湯に入るとか、冬至=「湯治」の語呂合わせとも言われます。
また、この日カボチャを食べる風習も南瓜(なんきん)は「ん」がつくことから、冬至には、にんじん、だいこん、れんこん、うどん、ぎんなん、きんかんなど、「ん」のつくものを食べると「運」がつくという語呂合わせ。
でも、寒い盛りに、血行促進作用やリラックス効果のあるゆず湯に入ったり、ビタミンAやカロテン含有量の多いカボチャを食べることは健康にもいい利にあった伝承と言えます。
経は、年賀状の準備を途中で投げ出して、深山公園を散歩。でも、歩き始めたのが、夕方四時前で、寒いし薄暗いし、なかなか鳥にも会えません。
セキレイ。
アオジも見ましたが、暗すぎて上手く撮影できません。
後ろ姿で失礼。
これで健康間違いなし。
柚子の香や一陽来復揺るぎなし
柚子の香や一陽来復疑わず(改)
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冬晴れの後楽園のクスノキの頂きの実をユリカモメ食む [折々散歩]
今日の鳥 シロハラの巻 [折々散歩]
今日の鳥 カラスの巻 [折々散歩]
県内も、北部では大雪注意報、着雪注意報、南部でも強風注意報、波浪注意報などが発令され、全域で雷注意報という物々しい予報でした。
4~5時間、外で時間を費やす都合があり、手待ち時間の唱歌のために、散歩場所を考えあぐねました。
それでも、薄日は射しているようなので、ちょっと足を伸ばしてみようか、と走っている途中、にわかに舞い始めた雪花が、だんだんと勢いを増して来ました。とりあえず予定変更し、引き返すことにしましたが、これと言って良案も思い浮かばず、何とはなく、後楽園へ向かいました。
さすがに、今日はお客も少なく、貸し切り状態に近い贅沢な散歩ができました。
雪、みぞれ、雨の気配もありましたが、まもなく上がり、青空ものぞき、「絶景」が堪能できました。
寒い、、、けど。
今日の鳥 アオサギ、ホオジロ、ミサゴ、バン の巻 [折々散歩]
Tokina 単焦点望遠レンズ Reflex 300mm F6.3 MF MACRO マイクロフォーサーズ用 マイクロフォーサーズ用
- 出版社/メーカー: Tokina
- メディア: 付属品
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私の病気自慢 再び2007年問題 [健康]
今日は、一日雨で、散歩も撮影もできませんでした。
昨日行きそびれた実家に、野菜をもらいに行ってきました。
氷雨に濡れる南天の実。
さて、先日の日曜日に、定年退職する方々に退職前後の体験を話すという機会を与えられ、準備している中で引っ張り出した資料がありました。
結局、紹介しないままに終わりましたが、我ながら思い入れのある文章ですので、備忘的な意味を込めて掲載させて戴きます。
今年の3月 退職まぎわに、機会を与えられて生徒に話した話の抜粋です。
おととい後楽園を散歩していましたら,去年の卒業生にバッタリ出会い、声を掛けてくれました。うれしい「縁」を感じました。
後楽園は,桜のつぼみがふくらみはじめた状態でしたが、色とりどりの梅や椿が咲きそろい、タンポポやナズナやオオイヌノフグリといった野の花が、春を謳歌していました。
ふと、37年前の同じような春の日、友人と後楽園を訪れたことを思い出しました。
私は、その春、新採用でT高校へ赴任することになったので、学生時代を過ごしたK県から,T市の下宿先まで引っ越し荷物を運ぶ必要がありました。
私は当時、運転免許も車も持っていなかったので、借り物のおんぼろワゴン車を友人に運転してもらって,T市へ向かう途中、後楽園で一休みしたのでした。
まだ瀬戸大橋も高速道路もない頃で、大歩危小歩危などという有名な難所を越え、宇高フェリーを使っての長い旅でした。友人は、岡山には用事もゆかりもなかったのですが、友情を発揮して,ドライブがてら私の引っ越しの手伝いを引き受けてくれたのでした。大原美術館にも寄ったりしながら、,T市まで私を送り届けてくれて、彼は、K県に引き返しました。教師生活のはじまりから、こうして人のお世話になり続けて37年経ちました。
それから37年間、教え子と同僚になったり、教え子の子どもがまた教え子になる例も、ままあり、不思議な巡り合わせを感じます。私はおととい、しみじみ「縁」という言葉を想いながら後楽園を散歩しました。
さて、その後楽園を散歩しながら、もう一つ気づいたことがあります。私は授業で松尾芭蕉の号が、植物の名前だと説明したついでに、後楽園に芭蕉が植えてあるエリアがあったはずだと言いました。しかし、それは勘違いで、後楽園に植えてあったのはソテツでした。お詫びして訂正しておきます。
その芭蕉の「奥の細道」に「平泉」という章があり、授業では省略しましたが,その冒頭は、「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」という文で始まります。
奥州平泉は、今の岩手県にあたります。藤原清衡、基衡、秀衡の三代にわたって奥州藤原文化と呼ばれる黄金の文化を築いたのですが、源義経をかばったために頼朝の鎌倉幕府に滅ぼされます。栄耀栄華も、うたた寝の間に見る夢のようにはかないというのです。
この元ネタは漢文にあって、「邯鄲の夢」[盧生の夢]「黄梁一炊の夢」等たくさんの故事成語の元になっています。
私の今の心境を一言であらわそうと思うと、これらの故事成語があてはまりそうです。これらは、人の営みは「はかなくむなしい」という点にウエイトがあるのですが、私の場合はそうではなくて、「あっけないほど短い」という点にウエイトがかかります。
私は教師として,これまで、「悔いのないようにがんばれ」というメッセージを常に送ってきたと思います。次の文章を引用したこともありました。
岩波文庫の訳で紹介します。
「人間にあって、もっとも大切なもの──それは生命だ。それは一度だけしかあたえられない。だからあてもなく過ぎ去った歳月にいたましい思いでを痛めることのないように、いやしく、くだらなかった過去に、恥で身を焼くことないように、また死にのぞんで、生涯を一貫して、持てるすべての力が、世の中でもっとも美しいもの──人類解放のたたかいのために捧げられたと言いきれるように、この生命を生き抜かなければならない。」
ロシアの革命運動に参加した作家であるオストロフスキーが、作者の分身ともいえるパーベル・コルチャーギンという登場人物に語らせている言葉です。
これにはさらに続きがあって、「しかも急いで生きなければならない。いつ偶然のアクシデントによって、突然生命が絶たれることがあるかもしれないからだ」という趣旨のことを付け加えています。
実は、近年私は、「がんばれ」という言葉を封印して、滅多に使わないようにしてきましたし、さっきのオストロフスキーの言葉も,長くお蔵入りさせていました。
というのも、私の長男が高校時代、不登校の長いトンネルに迷い込み、親子共々非常に苦しい経験をしたことと、前任校である夜間定時制のS高校でも、多くの不登校経験者と接する中で、「がんばれ」という言葉が、時に人を追い詰め、責めたて、ひどく傷つける場合があることに気づいたことも、きっかけでした。
しかし、今年は最後だからという思い入れからか、授業などでも例年以上にがんばれメッセージを発する機会が増えているかもしれません。そこを汲み取って受け止めてくれたらうれしいと思います。
さて、授業に皆さんには、4月の最初の自己紹介で話しましたが、2007年の暮れに、私は、脳動脈瘤という病気の手術を受けました。
ボールペンの先ほどの太さの脳の血管が直径3センチほどに、タマゴを飲んだヘビのようにふくれて瘤になって、他の組織や神経を圧迫するのです。何年か経過観察するうちにそのスピードが速まってきたので、手術しましょうということで、当時担任していた3年生の推薦入試の時期でしたが、急いで推薦書や必要出願書類は作り上げて、緊急に入院手術ということになりました。クラスの生徒が受験準備のさなかに折ってくれた千羽鶴,病室に飾って励みにしました。
心のこもった鶴を見て、看護師さんたちもしきりに感心してくれました。そんな彼らの卒業式にも出席できないまま、お別れしてしまい、心苦しい思いが残っています。
初めての入院手術が命がけ
大手術控えて心境まとまらず
これきりと言われちゃ困る命かな
『まあだだよ』『まだまだだよ』と口ずさみ
川柳風に心境を詠んでみました。最後の、「まあだだよ」というのは、夏目漱石の弟子で岡山出身の文学者内田百間をモデルにして、「七人の侍」で知られる世界の黒沢明監督が作った映画の題名です。「もういいかい」とあの世からのお迎えが呼びかけても「まあだだよ」と返事をする,という軽妙洒脱な生き方が、愉快に描かれています。私は、入院中、先ほどのオストロフスキーの文章を思い浮かべる一方で、この映画にあやかって、声を張り上げて「まあだだよ」を唱え続けたいと思ったことでした。
幸いに,命をとりとめて、こうして退職の時を迎えることが出来るのは、暖かく励まし支えて下さった同僚の先生方や、素直で優しくひたむきな生徒の皆さんのおかげと感謝しています。改めて「ありがとう」を申し上げます。
今
こうして、夢のように過ぎ去った教師生活をふり返って、「悔いはないか」と自問しても、なかなかYESとは答えられないことを恥ずかしく思いながら、今も
「まあだだよ」と繰り返しています。私自身「がんばろう,悔いなく生きよう」と思いながら、「だけどそれが難しいんだよね」としょげることの繰り返しでし
た。でも、人生の味わいは、その葛藤の中にあるのかもしれません。相田みつをさんなら、「だって、人間だもの」といってくれるかもしれません。
100点満点ではないけれど、納得の出来る教師生活だったと思います。
昨日準備していたお話はここまででした
今日ここで思いついて、一点訂正させてもらいます。
おあとがよろしいようで。(2013.3月)
後日談ですが、37年前に私と引っ越し荷物をワゴン車に乗せて運んでくれた友人と、今年になって、ブログ上で、そしてfacebook上で、再会することができました。
彼の専攻は物理学でしたから、科学の波を乗りこなしていることは自然でしょうが、生粋の「文系」だった私が、CPUだのLANだの、インターネットだので遊んでいることは、意外だったようです。なにしろ、当時の勢いでは、自動車運転免許さえ、下手すると一生取りそうになかったですものね。
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郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第13回 [木下透の作品]
このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。
木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。
高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第13回目。
物語は、ほぼ終息に向かう。
「青臭い」長広舌が続くが、実は、今でも私の思いは、あんまり変わってないのだ。
前回までの掲載分も、文言や表記に若干の微細な補正を施してきたが、今回の部分は、高校生の私の限界から、 世間に公表するには、訂正を施したい箇所が少なくなかったが、ひつよう最小限の補正に留めた。文章中の斜体の部分がそれである。あらかじめ、お断りしておきたい。
郷愁という名のメルヘン
カルロス爺さんの思い出
連載第13回
ぼくはついに思い知らねばならなかった。いつまでも逃げてはいられないのだ。今までぼくは、逃げて逃げて、そして逃げることのできない袋小路に追い詰められてしまった。さあ。どうすればいい。
どん底にあって、初めてぼくは知った。敵というのは、本当の敵というのは、他の誰でもない、ぼく自身だったのだ、と。こんなに弱いぼくが、こんなに手強い敵だったとは。こっけいではあるが、事実だ。
さあ、それではどうするのだ。さあ、ぼくはどっちを選べばよい。
このまま素直に銃を持って、愛国の勇士として戦うか。それとも、死を怖れる臆病者と言われながら、それを拒否するか。
ぼくは、確かに、死ぬのはこわい。
そして同時に、卑怯者、臆病者とあざけられる立場に身を置くことは苦しい。
さあ。それなら、どうすればよい。神よ。ぼくはどうしたら。否。神はそんな事には無関与だ。実際、神は至って無頓着だ。
《いったい、神は我々人間がどのようにふしだらに生きようと、あるいはまた、我々がいかにないがしろにしようと、そんなことはまるで無頓着だ。神は我らのいかな行為にも、それどころか神自身の存在に関してさえも、無頓着だ。オロオロしながら、その名を唱えればすばらしい回答を与えてくれた古(いにしえ)の神は、妄誕だ。神は、ぼくらに、己の欲するままに生きることを許された。――ぼくらはいつでも、自分で、自分だけで生きなければらない。――あくまでも自分で、自分の全良心、全霊かけてなされた行為ににこそ、神の意思はあるのかも知れない。・・・なくったっていい。――神は他の何処(いづこ)にもおわしはしない。神はほかの何者でもない。神は我らのうちに、だ。神の本質は“愛”だ。神は、我らの内なる“愛”だ。――
この認識は、ぼくにとって、決して新しい発見ではなかった。そう、爺さんから学んだ教訓のうちに、いつでも見いだせる認識だった。――爺さんの神、爺さんにとっての神は、やはり爺さんの性の奥底からあふれ出る愛だった。――生命あるものへの愛、自然への愛・・・大抵の人からは失われた、人間にとって最も懐かしく、そして善良な感情――。そして爺さんこそ、自分の神に最も忠実に生きた人だったかも知れない。―――このことは、子供の頃からいつでも感じていたことだのに、今になって改めて気づいたことのようにぼくを驚かせる。》
自己の内面に問いかけ問いかけて、最後の決定は自分自身で為されねばならない。
さあ。それなら、ぼくは、どうすればよい。
今度の戦争が始まる前に、ぼくらの学校でも、幾人かが立ち上がり、「戦争を始めちゃいけない。」と叫んで石投げて逮捕(つかま)った。
その自分、ぼくは仲間と一緒に酒場でワインをあおって騒いでいた。戦争なんて知らぬことさと、そっぽ向いて、女の噂や、明るい将来を話して騒いでいた。
そのうちに、知らぬ間に今度の戦争、始まっていた。
原因は定かには知らされなかったが、いつものように悪いのは相手国だった。(ぼくらの国はいつでも正しいのだから。)
ぼくの村――爺さんとぼくの村――あの水車小屋はもうないが、丘の上には爺さんのお墓がある――あのぼくらの村に、軍の基地ができた時の話を、風の便りに聞いた。
村の一部の人たち――なかでも、最も貧しい人たち――ぼくの親父や、他の小作人や、工場で働く労働者達――は、それに反対してクワやカマやむしろ旗を持って「おれ達の村から出て行け」と叫んだ。全くそれは、無理のないことなのだった。全生活の糧である狭い田畑や、やせた小作地さえ奪われては、彼らは生きていけないのだから。一握りの補償金が何の助けになったろう。
その基地がどんな用途に用いられるかは、誰にも知らされなかったが、 驚くほど広大な敷地が立ち入り禁止にされ、何でも、秘密の新型兵器の開発と貯蔵が行われているらしかった。村の自然と安全がおびやかされるだけでなく、真っ先に、敵の報復攻撃の対象とされることは容易に想像できた。
そういう思いから、最後まで戦い続けた村の人々のことを話題にして、ぼくのいるこの都市(まち)では、こんな風にささやかれた。
「国の大事な時なのに、わがままはよせばいいのに。」
「そんなに国を愛せない奴らは、力尽くでも追い出して、敵を向かえなきゃ、国が危ない。」
「こんな時だから、国のためには少しのことは我慢しろ」・・・と。
――「国のために・・・」は、聞かせるね。国民の生活や安全を考えない国ってのがあるかい。それとも、貧乏人や少数者は国民じゃないのだろうね。
これは、弱者にとっては、いつも成り立つ命令だ。
「国のえらい人やお金持ちのために、食うことを我慢なさい。私心は捨てて、生きることも我慢なさい。わがままはよして、早くお死になさい。」
余儀なく銃を持たされた弱者達と、何も知らずに撃たれる弱者達。
撃たなきゃ殺される弱者達と、撃たれて死ぬ弱者達。恨みもないのに銃を撃つ弱者達と、恨みながら死んでいく弱者達。
父や母や兄を殺されても、誰を恨んでいいかわからない子供達。
そのすすり泣きに耳ふさぎ、折り重なった死体から目をそらして、さらに前進する兵士達。
今も。
まさに。
血を震わせる銃声。
甲高い悲鳴。
弱々しく止んで、静寂。
弱者の血。弱者の涙。
そして、なおも、銃持って戦地に送り込まれる若者達。
死体となって送り返される若者達。
――何も知らぬふりして、遊び興じる若者達。
――それらすべてを、ほくそ笑みながら眺めている、愛国的指導者達、愛国的お金持ち達。
いま、ぼくのしなければならないことは、――遅すぎる。遅すぎるけれども――いま、ぼくにできることは・・・奴らの手先になることを拒否するという、消極的な行為のみ。
だから、だからぼくは、徴兵を拒否した。
先日M先輩が、「ルリビタキ」「アトリ」「ミヤマホオジロ」などの画像を送ってきて下さいました。「環境保護センター」で撮影されたとの由。
私は、そこを訪ねたことはなかったのですが、実は、ちょいと足を伸ばせば郷里で、その経路沿いに、案内表示があることのを目にしながら、通り過ぎたことはありました。
この冬は、「ルリビタキ」「アトリ」「ミヤマホオジロ」いずれも、目にしていません。過去の写真も、ブッシュの中や薄暗い木陰、高い枝先など、悪条件の撮影で、満足できるものがありませんので、にわかに思いついて、出かけてみました。ラッキーな出会いに、淡い期待を抱いて。
走行距離は、片道およそ50Kmという感じでした。
結果は?
残念ながら、お目当ての小鳥には会えませんでした。
夕方、所用があるので、今日はここまで。
また今度の機会にと、期待を残して、散歩の快い疲れを土産に、現地をあとにしました。
ちょっと足を伸ばせば実家なのですが、これもまた日を改めることにしましょう。
郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第12回 [木下透の作品]
このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。
木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。
高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第12回目。
連載第12回
爺さんの墓の周りには、毎年秋になると小さな白い雑草(くさ)の花が咲いた。
ある日ぼくは、一人の見知らぬ人をそこで見かけたが、それが誰だったかは、誰も知らない。
菜っ葉服を着た若い人――ちょうど、ぼくの父さんと同い年くらいの――で、右足が悪いらしくて、松葉杖をついていた。
爺さんの墓に向かって涙しながら、こんな風につぶやいていた。
「昨日戦地から帰りました。戦争は、まだ終わりません。母さんを奪ったのは、敵の誰でもなく戦争そのものだったことを、今になって知りました。」
君は今でも覚えているだろうかい。カルロス爺さんのこと。
あゝ、あれは、みんな、もう今から十年も昔のことだ。
そして、ぼくはもう二十歳(はたち)。
ぼくは今、とっても寂しいけれど、なんだか快い。
爺さんの教訓は、ぼくには難しすぎた。
学生時代を通して、ぼくは全くの逡巡者だった。いつもしりごみばかりして、できるなら、何事もなくあれかしという風だった。だからぼくは、いつでも易きを取るという卑屈な手段を取った。そんな自分を嫌悪しながらも。
なにしろ、ぼくには、何をしたらいいのかということさえわからなかった。
爺さんは、神と己をけがす敵と戦えと言った。
少年時代、ぼくは確かに戦った。体中をキリキリ尖らして、ぼくに近づく誰彼かまわず戦った。ある時は、それは親であり、幼友達であり、先生であったりもした。そのような戦いは、いつも必ず他愛なく始まり、そして必ず気まずく終結するのだった。
「独善」・・・いつでもそうだった。おまえが敵だとして戦った相手は果たしておまえの敵だったのか。そうではなくて、むしろおまえを愛してくれてさえいる味方ではなかったのかしら。――いつでも、ぼくの独りずもうだった。
ぼくには全くわからなくなっていた。果たして、敵とは、本当の敵とは、一体何なのだろうか。
それでもまだ、ぼくはしばしば戦った。そしていつも、あとに残るのは、やりきれない後悔だけだった。果たしてそれが、おまえがそれほどまでに武装して戦わねばならぬ敵だったのか、と。
そのうち、ぼくは、戦えば戦うほど一人っきりになっていく自分に気づいた。寂しかった。楽しそうに談笑している友人達を羨望した。
そんなわけで、ぼくは、しだいにあの屈辱的な処世法を身につけていた。 できれば争わずにすます――協調・・・とんだ道化だったが、浮かれて騒ぐことは楽しかった。
ぼくは信じ始めていた。人には敵などありはしないのだ。 誰だってみんな仲間なんだ。小作人の息子と大地主の息子だって、日雇い労務者のせがれと工場主の子供だって、資本家の御曹司だって、みんな仲間だ。同じグラスでワインをあおり、女の話をする。みんな仲間だ。
この考えは、ぼくをうっとりさせた。しかし、その時のぼくは、大切なことを忘れていた。
そう。自分を圧し殺してえた強調は、決して真の平和には結びつかない。そしてまた、自分を主張して、自己を思い切り生かして、誰もが互いを尊敬し合うことができて初めて、神の望んでいらっしゃる「平等」が生まれるのだとは気づかずにいた。
しかし、とにかく、そんな風にして、ぼくは学生時代を何をするのでもなく、のんびりと過ごしていた。
だが、そのような退廃的な享楽に溺れていても、ぼくは何だか物足りなさを感じずにはいられなかった。聞き苦しい焦燥感さえ感じていた。
所詮、いつわりののどけさは、いつまでも続きはしなかった。終局は、当然予期されるべき方法で訪れた。ぼくだって予期せぬわけではなかったが、忘れていたかった。
――徴兵・・・・
今日は診療予約日。まず胸部のCTを撮って、受診。
予約時刻を過ぎても、なかなかお呼びがないと、画像診断に何か手間取っているのではないか、治療方針の見直し検討に時間がかかっているのじゃないか、などなど、あらぬ思いがふつふつと沸いて落ち着かない。
たまたま、昨日は、今年度退職予定の十数人の方々を前に、近況を話す機会があった。その大部分を、「病気自慢」に費やしたが、脳動脈瘤と肺腺癌という相次いで経験した「大患」を、平常心で切り抜けたかに振る舞ったけれど、なぜか、終わったあとの消耗感が拭えない。
考えてみると、実際の所、ここ何ヶ月かの日常生活の中で、人と接することだけでも思わぬエネルギーを要するのに、昨日は、無意識のうちにも「元気」を演じて人を「元気づける」ベクトルが働いたらしく、それは自己の「自然」にそぐわない、キャパシティ以上の負荷を加えたものらしい。それと、何を話したか話の中身は正確に思い出せないが、言わずもがなの放言を羞じる気持ちが、後味悪く、澱のようにまといつく。
そんなビミョーな心境で、診察を待ちながら、こんな句を戯れてみた。
結局、診察は経過順調ということであっさりとすみ、CT検査の余禄として「脂肪肝」が指摘されたというオチで、お後がよろしいようで。
「脂肪肝」解消も目指して、午後、深山公園を歩く。
メジロ、シジュウカラ、アオジといったところを見かけたが、撮影はできず。
帰り際、夕暮れ近き「赤松池」の鴨たちを記念撮影して満足して帰る。
郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第11回 [木下透の作品]
このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。
木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。
高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第11回目。
郷愁という名のメルヘン
カルロス爺さんの思い出
あれは、そう、随分曇って、今にも降り出しそうな気配の夏の夕方。むし暑くって、風もなくて、何もかもが重苦しくおさえつけられているような、イヤな日だった。
僕はその日も、じいさんにお話ししてもらおうと思って、爺さん家へ出かけた。
あれ以来、ぼくの欠かせぬ友達になったあのチビ公を釣れて(チビって名をつけたけれど、もうたくましい成犬で、ふざけてじゃれついてはぼくを押し倒すくらいになっていた)。
チビ公、爺さんにすっかりなついてて、いつも真っ先に駆けてって、小屋の前に腰を下ろしている爺さんにじゃれついて遊んでいるんだが。
その日は、ぼくがおやつの黒パンをほおばりながら水車小屋まで駆けてった時、外には爺さんお姿は見えなかった。
どうしたのかなと思って、小屋の内に入っていくと、チビ公が急に悲しげに花を鳴らし始めた。
爺さん、ベッドのそばにひざまずいて、お祈りしているようだった。ぼくが声かけても、身動きしないので不思議に思って近づくと、爺さん・・・死んでた。
両手を組み合わせ、目を閉じて、その口元には、柔和な笑みさえたたえていた。
血の気の引いた青白い頬の色は、爺さんの顔をかえって気高くして見せた。
ぼくはちっとも恐ろしくはなかった。
ただ、とっても悲しかった。
もう、これっきり爺さんに会えないのだ、ということがわかりきるまでには、時間がかかった。
爺さんお葬式は、次の日ひっそりと行われた。
激しく雨が降りしきる中を、爺さんのひつぎはゆっくりと運ばれた。
むらの、大人達は、それを見送りはしなかったが、 子どもたちはみんな、その後をついて歩いた。びしょ濡れの服にかまわず、ひつぎを乗せた車を、黙々と押した。
村が見渡せる丘の上に、小さな白い十字架が立てられると、本当にもうこれっきりなのだと、初めて僕らは泣いた。ニールスも泣いた。
碑には、僕らの手によってこう刻まれるべきだった。
「勇気ある聖人ジーベル=カルロスここに眠る」
今日は、所用があって、日課の散歩は未遂。従って、本日撮影の画像はなし。
郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第10回 [木下透の作品]
このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。
木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。
高三の時に書いた「短編小説」を、連載で紹介したい。今日は、その第10回目。
郷愁という名のメルヘン
カルロス爺さんの思い出
それから十数年が経った。
わしはヘンニィルを町の大学にやろうとした、どんなに貧乏してもヘンニィルには、好きな学問をやらせたかった。
しかし、ヘンニィルはそれを断った。
ヘンニィルは――馬鹿なヤツだ――わしのことを思って、ふふふ・・・、町の工場で働きたいとぬかしやがった。
わしに苦労をかけたくないからって、
「それに、学校なんか出なくっても、ぼくは立派に生きられる。神をあざわらうことなんか決してしやしない。」
とぬかしやがって、ヤツは本当に町に働きに出た。
そして月々決まって幾ばくかの銭を仕送ってくれた。
そして何年かの後、
「結婚もして子供もできたから、どうか父さんも町へいらっして下さい.一緒に暮らしたいと思っています」という便りが届いた。
わしはそれは会いたいとは思ったが、この町を離れる気は毛頭ないことを告げた。
実際こんなに暮らし良い村は他にはない。
小鳥のさえずりと小川のせせらぎ、それに可愛い素直な子供達。ねえ、ぽうや。爺さんは君たちから離れたくはないんだよ。・・・
そんなわけでヘンニィルとは、もう何十年も会っていない。けれどもきっと、平和に暮らしているだろうと思っている。
そう言って、爺さんのお話は終わった。
寂しいけれどすがすがしい笑い声が、爺さんの小屋に響いた。
外はもう、すっかり暗くなっていた。
ぼくを家まで送ってくれる爺さんの顔、月明かりでとっても気高く見えた。
夢に見るイエス様に、どこか似ていた。・・・
日記がわりに始めたこのブログだが、 几帳面な管理ができないので、用意した画像がいつ何処での撮影だったかをすぐに忘れてします。
ま してや、その時の機材の記憶は、すぐに曖昧になる。exifで確かめれば?というご意見はもっともだが、オールドマニュアルレンズや、リアコンバーターを 多用しているとmEXIFに記録が残ってくれない。なので、このブログ記事として記録しておけるといいかなと、最初の内は目論んでいたが.いまや画餅と帰 してしまった。
最近、メインで使っているXPパソコンの動きが怪しいので、HDDのプロパティをのぞいて みたら、残り容量がヤバイ状態。この中古パソコンは、PENTITIUM4,2.66gというスペックのビジネスパソコンOS付きを、1万数千円で買い、 memoryを、1Gの増設、HDDを40Gという非力な者を思い切って1テラに載せ替えたので、世代遅れの中古パソコンながら、有り余るスペックるス ペックという思いで使ってきたのだが、何年分も画像ファイルをため込むと、どんな大きな器も埋まってしまうということか?
ここ何日かかけて、久しぶりにファイルの整理整頓と、デフラグなるものをやって、少し持ち直した感じだが、その過程で色々なことを痛感した。
その第一は、デジカメ画像は、撮影日を即時に確かめことができるのは有り難いことだが、オールドレンズを多用すると、レンズ情報、露出データなんかが残らないので、それに関する記憶の欠落とともに、自己の過去も剥離・欠落していくような心細さにとらわれる。
そのようなわけで、できるだけこまめにメモしておくのがいいかなと思ったりしてみる。もちろん、三日坊主に終わるのだろうが。
一昨日(12月12日)、龍ノ口グリーンシャワー公園の入り口あたりを散歩した時に撮影した、楓(フウ)や楓(カエデ)、ナンキンハゼなどの紅葉と落葉。
強風注意報下の散歩は寒かりき [折々散歩]
寒い一日でした。
朝は、冷たい雨が降っていました。
家の前の水たまりには、薄氷がはっていました。
今日は散歩をあきらめようかと思いましたが、だんだん晴れ間ものぞいて来たので、少し歩いてみました。
先日ミコアイサを目撃した阿部池に、望遠レンズの実験かたがた、出かけてみました。
「強風注意報」も出ていて、激しい風に閉口しながら、とりあえず今日の実験終了。
1)pentaxk5Ⅱ +ビクセン ジオマIIED52-S
センダンの実に群がるムクドリです。
2)pentax x5(ネオ一眼に分類される)コンパクトデジカメ。
風は強いが、空は晴れています。
35mm換算22.3mmまで広がる広角の効果は面白いです。
コンパクトで、 35ミリフィルム換算で約22.3~580mm相当という画角は、これ一台でほとんどの場面に対応できるというわけ。しかも廉価で、コストパフォーマンスは高いです。
ただ、画質は、スペック相応ですから、よほどの場合でない限り、一眼も持って歩きたくなる。と、かなり重い荷物になる。悩ましいことです。
3)pentaxk-m+dal55-300mm
荷物を軽くしたかったので、 望遠ズームのお相手に、最近お蔵入りだったpentaxk-mを持ち出してみました。
非力なお手軽一眼ですが、まだまだつかえそう。今日の組み合わせの中では、画質的にはトップでした。
dal55-300mmが、コストパフォーマンスの高いレンズなのですね。
ムクドリ七変化
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