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稲葉の露その他、 の巻 [折々散歩]

ご近所から、鯛や桃を頂いたというので、お裾分けを頂戴しに郷里の実家に帰ってきました。
ついでに、少々草刈りをするつもりで、早朝6時過ぎに出発。さすがに車の通行は少ないとはいうものの、ほどほどの車間距離で、ずっと車列は続いています。暑さを避けて行動したい心理でしょうかね。
8時過ぎ、実家に着いてみますと、すでに数人の方が傘刈りなどの作業を始めておられます。シルバー人材センターの方だそうで、ご近所さんの依頼で、お盆を前に、庭や農道、畑などの草刈りを、二日がかりで続けておられる由。お見受けするところ、七〇~八〇歳代のまさにシルバー世代で、炎天下の作業、頭が下がります。お達者そのものですが、暑さにはお気をつけください。
町内放送で、熱中症の注意が呼びかけられていました。連日のことだそうです。
朝方、少し曇り気味で、幸い気温の上昇が思ったほどではありませんが、私自身は、一時間ほどで作業をやめ、早々にシャワーを浴びて休息しました。それでも汗が噴き出ます。作業じまいを促しても、老母は、刈り払った草の後始末やら、目につく草の引き抜きやら、、私の作業衣の洗濯やら、あれやこれや休むことなく動き回ります。
日本の農村は、総じてこのような高齢者の汗によって担われています。
そして、このような高齢者が、後継を得ないまま次々と姿を消し、かつて田畑であった場所が大自然の浸食にさらされ、瞬く間に山林原野にもどっています。
電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんな政治が悪いのよ!と短絡するつもりはありませんが、昨今の、有害獣によるあいつぐ被害、未曾有の豪雨・土砂災害の頻発、、、、、、これらは、大企業優先、農業・農村・地方軽視の歴代保守政治の貧困と、決して無縁とは思えません。
こうした現状どこ吹く風の、アベソーリの脳天気なセリフが、白々しく思い出されます。

四季の移ろいの中で、きめ細やかに育てられた、日本の農産物。世界で豊かな人が増えれば増 えるほど、人気が高まることは間違いありません。そのためにも、「攻めの農業政策」が必要です。日本は瑞穂の国です。息を飲むほど美しい棚田の風景、伝統 ある文化。若者たちが、こうした美しい故郷(ふるさと)を守り、未来に「希望」を持てる「強い農業」を創ってまいります 。
(首相官邸HPより、第183回国会における安倍内閣総理大臣施政方針演説、動画をご覧になりたい方はこちら

「息を呑まなくてもいいから草刈ってくれ」という揶揄も、あちらこちらから聞こえて来ます。
「月間日本」hpの鈴木宣弘 大企業による大企業のための農業改革という記事
は的確にこう指摘しています。

大企業の、大企業による、大企業のための農業改革

―― 安倍政権は農業に市場原理を導入する農協改革法案を閣議決定しました。これは、昨年5月に規制改革会議の農業ワーキングループが提出した「農業改革による意見」に基づいています。そのメンバーは大企業の役員です。また産業協力会議の農業分科会では、前ローソン社長の新浪剛志氏が主査を務めています。

鈴木 そもそも、この農協改革は誰のため、何のためにやるのか。その内容を見れば一目瞭然です。「今だけ、カネだけ、自分だけ」という私利私欲に塗れた大企業の、大企業による、大企業のための農業改革だと結論せざるをえません。これは「大企業が儲かる農業」をつくるために、農協や農家を中心とする「大企業が儲からない農業」をぶち壊すという改革なのです。

 安倍総理は「もはや、農政の大改革は、待ったなしであります。何のための改革なのか。強い農業を創るための改革。農家の所得を増やすための改革を進めるのであります」と謳っていますが、農家を殺そうとしているとしか思えない。農産物の販売価格と生産コストの赤字を補てんする「戸別所得補償制度」は撤廃する、減反政策を転換して米価は戦後最低水準に暴落する、農家を国際競争に晒すTPP参加を目指す、これで農家が潰れないわけがないではありませんか。

 安倍総理は「日本は瑞穂の国です。息を飲むほど美しい棚田の風景、伝統ある文化。若者たちが、こうした美しい故郷を守り、未来に『希望』を持てる『強い農業』を創ってまいります」と謳いながら、稲作を至難の業にし、コメ農家を窮地に追い詰め、コメ農家の後継者を絶望させているではありませんか。

 結局、安倍総理は本音では99%の農家は潰れてもいい、1%の企業の農業事業が儲かればいいと思っているのでしょう。「農家の所得を増やす」といいますが、その「農家」とは既存の農家ではなく、農業に参入した企業のことだというにすぎません。(後略)


今朝は六時前に家を出て、ブラブラ散歩です。
雲の間から朝日がのぞき、暑さの前触れが伝わってきます。







今朝の常山です。

稲葉の露に息を呑みました。
というのも。呼吸をすると、カメラがぶれるので、じっと我慢してピントをあわせ、静かにシャッターをおさなくてはなりません。
稲葉の朝露
稲葉の朝露 posted by (C)kazg 稲葉の朝露
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稲葉の朝露 posted by (C)kazg 稲葉の朝露
稲葉の朝露 posted by (C)kazg
父によると、先日津山の町に、「178」のナンバープレートの自動車が、全国から集まったそうです。
7月22日、津山市でB'zのボーカル稲葉浩志さんの公演があったため、全国からファンが駆けつけたというのです。。
津山市のHPにこんな記事がありました。



  津山が誇る世界的なミュージシャンで、B’zのボーカリスト稲葉浩志さんが津山で公演を行います。
津山市にとって数十年の悲願だった待望のライブが開催されるという朗報を受け、市内では喜びの声が湧き上がっています。
 
「B’z SHOWCASE 2017 -B’z In Your Town-」 津山公演
と き 7月22日土曜日 午後6時開演
ところ 津山文化センター
津山市で生まれ育ち、高校生までを過ごし、ロック魂の礎を育んだ稲葉さん。昨年発刊した津山市市勢要覧でも「歌い手としての稲葉も「津山産」だと胸を張って言えます」と津山への熱い郷土愛に満ちたメッセージを寄せていただいています。
誰もが望んではいるけれども、なかなか実現しなかった夢。ますます大きくなって手の届かない存在となったB’zの公演がついに現実のものになります!
今回の凱旋公演が、より多くの市民にとって稲葉さんの偉大さや郷土への誇りを再認識できる機会となり、津山のまちに新たなエネルギーが吹き込まれることを願っています。

稲葉さんの故郷として心から歓迎します!

鯛は、ご近所さんが釣ってこられたものを、鱗や内臓を取って調理した状態でくださり、冷凍保存してあります。今日は、そのまま焼いて、鯛飯に炊いて食べました。長男長女の一家にもそれぞれお裾分けできましした。


追伸。
最後は、稲葉ではなく、もはや飽き飽きの稲田のお噂です。
南スーダン国連平和維持活動(PKO)部隊の日報の隠蔽問題の責任を問われて、岡部 俊哉陸上幕僚長、黒江哲郎防衛事務次官がそれぞれ退任。現場だけに責任を取らせることへの不満が噴出する中、稲田サンもついに辞任という選択肢しか残らなかったものらしい。姑息なのは、辞任の発表時期で、民進党蓮舫さんの辞任発表のタイミングに敢えてぶつけることで印象を薄めようとした、、、というのがもっぱらの噂ですネ。
このドタバタの隙を突いて、北朝鮮がICBM(大陸間弾道ミサイルらしきものを発射とな。物騒至極ですな。

ところで、このICBMが発射されたのが、朝鮮北部の慈江道(チャガンド)からだと聞き、ある感慨を覚えました。この地名は一度だけ話題にしたことがありました。去年の冬の記事でした。

縁は異なもの、「青頭鳥」再考、の巻


 実は、父の出生地は、植民地時代の朝鮮半島でした。5才の頃までそこで育ち、冬の寒さ、松の実をよく食べた記憶、オウリョッコウが近かった記憶、など、いろいろとかすかな記憶があるようです。かねがね、一度は訪ねたいと思ってきたが、もう今となっては無理ながら、せめてどんな場所だったか、地図があったら探してほしいと、ずいぶん前、頼まれていました。
戸籍簿の記述に、朝鮮平安北道江界郡云々とあるのを頼りに、地図を参照してみますが、なかなか難渋しました。

なにしろ、国交断絶状態にある北朝鮮に属するだけに、余計に地図情報などが入手しにくい事情もあるのかも知れません。観光旅行向けの案内書や地図のようなものも見あたりません。アマゾンで、地図を入手し、中身も確かめないで送っておいたのですが、「平安北道江界郡」なる場所は見つかりません。
先月、一番下のゼロ歳児の孫とその母親(私の長女)と一緒に田舎を訪ねた際、ことの次第を話していると、長女がスマホで、ちょこちょこっと検索ながら、「オウリョッコウって、鴨という字を書く?」と尋ねます。父も私も、とっさには返答できず口ごもっているあたりで検索作業はお預け、話題が他へ移りました。
「オウリョッコウ」は「鴨緑江」。疑う余地はないはずなのに、いざ問われると、動転して迷ってしまう。
ウィキペディアにこうあります。
 鴨緑江(おうりょくこう、北京語:Yālù Jiāng、ヤールージャン、満州語:ᠶᠠᠯᡠ
ᡬᠢᠶᠠᠩ 転写:Yalu giyang、朝鮮語:압록강[2])は、中華人民共和国(中国)東北部と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との国境となっている川である。白頭山(中国名:長白山)に源を発し黄海に注ぐ。水の色が鴨の頭の色に似ていると言われたことからこの名前がある。(中略)
さらにこうもありました。
 日露戦争時には日本軍とロシア軍が激戦を繰り広げた(鴨緑江会戦)。また、朝鮮戦争時には北朝鮮軍を支援する中国軍が鴨緑江を越え、国連軍が両国を結ぶ鴨緑江沿いの要衝に爆撃を行った。
そうでした。なぜとっさに思いださないのでしょう。地理音痴、歴史音痴の面目躍如です。
「朝鮮平安北道江界郡」を地図上で確かめることにしばし難儀したのですが、結論は次の通りと考えて良さそうです。
「江界郡」をウィキペディアで調べると、「 江界市」に行き当たります。
 江界市(カンゲし)は、朝鮮民主主義人民共和国の慈江道の道都。人口約22万人(1993年)。
おや?「平安北道」ではなくて「慈江道」?
ヒントは同じくウィキペディアのここにありました。
 平安北道 (日本統治時代)

平安北道(へいあんほくどう、ピョンアンプクト)は、日本統治時代の朝鮮の行政区画の一つ。現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平安北道・慈江道を合わせた地域にあたる。道庁所在地は新義州。

旧平安北道が、今は平安北道と慈江道に分割されていて、江界郡(現江界市)は慈江道に属するということですね。
我が家の古い「平凡社百科事典」をひもとくと、こうありました。
  慈江道 Jakangdo 朝鮮北部の道。鴨緑江をへだてて中国に接し,他は両江道,威鏡南道,平安南・ 北道の4道にかこまれている。
1949年新設された道で, もとは平安北道と咸鏡南道の一部に属していた。面概約15,400㎞, 首都は江界市。
〔自然〕 (中略) 鴨緑江およびその支流と清川江の流域が道のほとんどを占めており鴨緑江の本流の過半(約4ookm)は道内を流れている。気温は北部の中江で年平均3.6
℃, 1月平均-21.1℃, 8月平均21.6℃である。南部の熙川(きせん)地方では,年平均7~8℃, 12~3月間は月平均0℃以下である。
中江は朝鮮の最低記録地で. 1933年に一43.6℃を記録した。雨量は年平均800mm以下で, 熙川地方は年1,300mmで最も多い。
〔産業〕土地利用率は7%で, そのうら水田面積の比率は10%未満である。 耕作地の大部分は火田で, 蓋馬台地, 茂山高原の火田が大きな比重を占めている。
そのうえ,生物の成長期間が短いので農業はふるわない。農作物は耐寒作物を主とし, トウモロコシ, ダイズ, アワ,亜麻.、大麻, タバコを産する。畜産業も盛んで、慈城・満浦・中江郡には国営農牧場・種畜場があり,羊,豚, メンヨウが多い。(後略)
知れば知るほど、鴨緑江と深い縁がありました。

今日はこれにて。

ヨーチョー三昧、の巻 [折々散歩]

さっき、孫たちが長旅から帰ってきました。
早速、姫二人が、ただいまのあいさつにやってきました。
発熱以来、機嫌の悪かった二歳児は、体調が良いのかにこにこ、お利口さんになって帰ってきました。
最近、鳥の写真が撮れません。
ご近所散歩でよく出会うのは、アオサギ。

こちらは少し姿が違いますね。
アオサギの幼鳥とお見受けします。



先日、深山公園で写した鳥といえば、、、。
珍しい鳥!と思ったら、これは雀(スズメ)の幼鳥?



これは山雀(ヤマガラ)。

自然環境体験公園では、、、。
河原雀(カワラスズメ=セキレイ)ですね。ハクセキレイ?

これなあに?と思いましたよ。
すぐ目の前の小川で、水浴びしてます。



黄色いおしりが見えてるよ。

枝の上に飛び上がりました。












ははあ。カワラヒワの幼鳥と見ました。
水鳥の姿も減り、目に入るのは、オオバンくらいでしょうか ?
カイツブリの幼鳥。大きくなりました。

自然保護センターの池。
まさに夏景色です。

手前はネムノキです。

アンリ・ルソーに、こんな雰囲気の絵がありません?



タンチョウノヒナ誕生のニュースを知っていました。
残念ながら、親の姿しか見えませんでした。




これは、3年前の記事です。

タンチョウの雛健やかや梅雨晴間


 タンチョウの夏」という語呂合わせが浮かびます。はたまた「タンチョールのせいだよ、オラしっちょーる」とか(オソマツ)。

 

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今日はこれにて。

虫の原っぱ虫三昧、の巻 [折々散歩]

昨日、郷里の実家の庭で、ハグロトンボを何尾も見ました。

黒い羽根とメタリックな胴、ひらひらと優雅に飛ぶ姿が魅惑的で、ついつい、追いかけてしまいます。

















帰り道の途中で、和気町の自然保護センターに寄ってみました。

耐えがたい暑さが、気持ちを萎えさせましたが、いざ歩いてみると木陰もあり涼風も時折吹いてしのぎやすい散歩道です。

「虫の原っぱ」へ向かいます。

期待したのは、希少な蝶や、ハッチョウトンボとの出会いでしたが、それはかないませんでした。

草原にバッタがいます。



















これはオニヤンマ。



ギンヤンマも、からかうように目の前を旋回しますが、カメラには収まってくれません。

イトトンボ。



シオカラトンボ。



これは?何トンボ?



セミの鳴き声もよく聞こえますが、さすがに山深い土地なのでしょう、クマゼミが聞こえません。

ニイニイゼミのどちらかというと控えめな鳴き声が、目立つほどです。







あと、実際に姿を見つけることはかないませんでしたが、ヒグラシのカナカナカナという哀愁漂う鳴き声が、しきりと聞こえていました。

ホタルブクロも涼しげです。



稲田サン、辞任か?というニュースを耳にしました。

蓮舫さんも辞任ですか?

悪事や過ちの責任を取って辞任、は当然。遅すぎたくらいです。

「力及ばす敗北」の責任を取って辞任、はいささか無責任では?辞めて終わりでなく、敗北の原因を明らかにし、それを打開する道筋を示す責任がありませんか?国民はそれを望んでいるはず。

今日はこれにて。

元気カニ?の巻 [家族]

昨日の朝、長男一家は、ママのお里帰りに合わせて、自動車でプチ旅行に出発。 我が家界隈の人口密度が減りました。

その代わりというわけでもないですが、長女と1歳児の孫が来訪、父ちゃんの帰りが遅いというので、、夕食を食べて帰りました。

こんなカボチャを見せると面白がっていました。





夜になって土砂降りがやってきて、雨の中を帰るはめになりました。また来てね。

夜中から朝方にかけて断続的に強い雨。少し涼しくはなったようです。

朝からまた青空がのぞき、暑くなりそう。お盆前にお墓周りの草刈りをと考えて、朝6時過ぎに出発して郷里へ向かいます。

ツバメの家族?を見かけました



郷里の朝は、もう強い日射しです。1時間ほど汗まみれになって作業して、まずは試合終了。

ご近所の光景。あちらもこちらも空き家です。お盆にはお墓参りに帰られるでしょうが、、、。



庭のオニユリ。

ゴーヤの葉っぱの陰から、、、






脇の溝に、今日も沢ガニがいました。

元気カニ?

水が白く濁っているのは、昨夜の雨のせいでしょう。

腕相撲かじゃんけんか?

ドラえもんとじゃんけんしたらどっちが勝つ?



今日はこれにて。

またまた、蓮にまつわる蘊蓄話、の巻 [文学雑話]

以前こんな記事を書きました(2014年12月)。

降り敷くは唐紅の錦かな(語彙貧困、安直無類、真情不在、拙劣至極)


 今日、仕事から帰って見ると、ゆうメール便で書籍が届けられていました。教科書、参考書、辞典等教育系の出版物を発行している出版社B堂からでした。
思えば、私自身も、中学・高校生時代この出版社の問題集のお世話になりました。
中身は、特にお正月シーズンを目当てに、各社から例年のように発行される百人一首の解説書です。 百人一首のすべての歌が、過不足のない、わかりやすい解説とともに歌ごとに美しい写真も添えられて、あたかもミニ写真集という趣の冊子です。

付録には朗詠のCDも付いていて、至れり尽くせりです
なぜこんな書籍が送られてきたかというと、実はこの中に、ずっと以前に私の撮影した澪標の写真が、無償ですが(笑)、1枚採用され、その記念に献本をいただいたという次第です。

ご縁のはじまりは、このブログの写真を編集者の方が見つけてくださり、使用を打診してこられたのでした。澪標などという題材は、よほどレアなものであるようです。

妻に自慢していますと、「早速、ブログに載せたら?」とからかいます。

自慢話になるのも気が引けますし、個人情報の問題もあって、いったん躊躇はしましたが、ブログネタの一つとして紹介させていただく事にしました。。


事の発端は、こちらの記事のこの写真でした(2013年8月)。

夕映えの倉敷川に澪標(みおつくし)


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自慢ついでに、その書籍もご紹介させていただくことにします。

原色 小倉百人一首 (シグマベスト)

原色 小倉百人一首 (シグマベスト)

  • 作者: 鈴木 日出男
  • 出版社/メーカー: 文英堂
  • 発売日: 2014/12/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

この本の40ページに、澪標の写真が掲載されています。
よくよく過去記事を探ってみると、この記事に該当の歌を少し紹介しておりました(2016年1月)。

ヨシガモでした、の巻


 わびぬれば 今はた同じ 難波(なには)なる  みをつくしても 逢はむとぞ思ふ    元良親王(20番) 『後選集』恋・961

〔解釈〕 どうしてよいか行きづまってしまったのだから、今となってはもう同じことだ。難波にある澪標ではないが、身を尽くしても逢おうと思う。

その隣の41ページには、素性法師(そせいほうし)の歌が紹介されています。

 21 いま来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ちいでつるかな    素性法師

この歌は私の過去記事でも話題にしたことがありました(2013年10月)。

有明の月 たそがれの月 散歩かな (字余り)


 以下は、いずれも小倉百人一首に歌われた「有明の月」です。

21 いま来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ちいでつるかな    素性法師
30 有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし       壬生忠岑
31 朝ぼらけ有明の月とみるまでに 吉野の里にふれる白雪        坂上是則
81 ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる      後徳大寺左大臣


【解釈とコメント】
21 「すぐに会いに行きます」とあなたが言ったばかりに、秋の夜長をひたすら眠らずに待っているうちに、夜明けまで空に浮かぶ有明の月が出てくるのに出会ってしましまし他よ。あなたには会えないのに。
長月は旧暦の9月。7・8・9月が秋ですから、晩秋になります。

30 男女の逢瀬の終わりの時間を告げるかのように、有明の月がそっけなく空に浮かんでいたあの別れの時以来、
有明の月がかかる夜明けほどつらいものはありません。
この歌は、「2001年度センター試験 国語Ⅰ・Ⅱ 追試験」で、長野義言(よしこと)『歌の大むね』の文章の一部として出題されましたね。長野義言は、この歌の主は、「後朝(きぬぎぬ)の別れ」を恨めしく思う心で空の有明の月を眺めたとする通説を批判して、有明の月を見て女性に会わないまま、帰ったと解釈すべきだと主張していました。

31 明け方、有明の月かと思うほどに明るく、吉野の里に降っている白雪であることよ。
この歌では、有明の月は実際には出ていません。

81 ホトトギスが鳴いたと思って、そちらの方を見るとすでに鳥の姿は、どこにもなく、ただ、夜明けの空に月が残っているだけであった。
古典の文章では、ウグイスと並んで愛された鳥ですが、ホトトギスは夜鳴くことで珍重されました。

「有明の月」とは、十六夜以降、明け方になっても空に残っている月を言います。
月齢を見ると、今夜の月が16日。昨日の月は15日ですから、今朝空に輝いていた月を『有明の月』と呼ぶのは厳密には正しいかどうかわかりませんが、見事な月でした。

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さてここまでが長い長いマクラで、今日の記事の主題はやっとここからです(汗)
21番の歌の作者、素性法師は、僧正遍照の子です。
この本の30ページに、僧正遍照の次の歌が載っています。

12 天つ風(あまつかぜ) 雲の通ひ路(かよいじ) 吹き閉ぢよ   をとめの姿 しばしとどめむ            僧正遍照
【歌意】空吹く風よ 雲の通ひ路を閉ざしておくれ天与の舞姿をしばらくこの地上にとどめておくことにしよう。   

僧正遍照は、平安時代前期の歌人。六歌仙、また、三十六歌仙の一人にも数えられます。俗名を良岑 宗貞(よしみね の むねさだ)といい、大納言良岑安世の子、桓武天皇の孫に当たります。従五位上蔵人頭の時、仕えていた仁明天皇の崩御を悲しみ、出家。天台宗の僧侶となりました。
ウィキペディアにはこんな記述もあります。

 在俗時代の色好みの逸話や、出家に際しその意志を妻にも告げなかった話は『大和物語』をはじめ、『今昔物語集』『宝物集』『十訓抄』などに見え、霊験あらたかな僧であった話も『今昔物語集』『続本朝往生伝』に記されている。江戸時代に製作された歌舞伎舞踊『積恋雪関扉』では良岑宗貞の名で登場。

小野小町とも交流があり、歌の贈答があったとされます。
『 後撰和歌集』巻17 雑 にこんな記事があります


石上(いそのかみ)といふ寺にまうでて、日の暮れにければ、夜明けてまかり帰らむとて、とヾまりて、「この寺に遍照あり」と人の告げ侍りければ、物言ひ心見んとて、言ひ侍りける
 小野小町
 1195 岩の上に 旅寝をすれば いと寒し 苔の衣を 我に貸さなん

 かへし   遍昭
 1196 世をそむく 苔の衣は たゞ一重 貸さねば疎し いざ二人寝ん

   【解釈】
石上という寺に参詣して、日が暮れたので、夜が明けてから退出しようと思ってそこにとどまり、「この寺に遍照法師がいる」と教えてくれる人がありましたので、言葉を交わし、気持ちを探ってみようと思って、歌を贈りました。
小野小町
 1195 石上ならぬ岩の上に、旅寝をしているのでたいそう寒いことです。あなたの苔の衣(=僧衣)を、私に貸してほしいものです。

  (遍昭からの)返歌

  出家したわたしの僧衣はただ一重だけですが、貸さないのも失礼ですから さあ一緒に二人で寝ましょうか?


僧侶の身でありながら不謹慎ともいえるプレイボーイのセリフですが、 歌の贈答につきものの、大人の戯れ、一種の洒落であったようです。
二人の関係は決して深刻な男女の関係とは思われませんが、この僧正遍照を、小野小町に恋い焦がれて99日間通い続けた深草少将のモデルとする説もあるようです。深草少将の百夜通い(ももよがよい)について、ウィキペディアにはこう紹介してあります。


 百夜通い(ももよがよい)とは、世阿弥などの能作者たちが創作した小野小町の伝説。
小野小町に熱心に求愛する深草少将。小町は彼の愛を鬱陶しく思っていたため、自分の事をあきらめさせようと「私のもとへ百夜通ったなら、あなたの意のままになろう」と彼に告げる。それを真に受けた少将はそれから小町の邸宅へ毎晩通うが、思いを遂げられないまま最後の夜に息絶えた。
中世以降、百夜通いは小野小町の恋愛遍歴を象徴するエピソードとして民間にまで広く流布した。(後略)

さて、ここからがやっと本論。
昨日の蓮の葉の記事に、僧正遍照のこの歌を付け加えておきたかったのです。

  蓮葉のにごりに染まぬ心もてなにかは露を玉とあざむく(巻三夏歌165)
(はちすばのにごりにしまぬこころもてなにかはつゆをたまとあざむく

【解釈と鑑賞(学研全訳古語辞典より)】
[訳] はすの葉は、周りの泥水の濁りに染まらない清らかな心を持っているのに、どうしてその上に置く露を玉と見せかけてだますのか。
【鑑賞】
仏教では清浄な心を持っているはずの蓮が人を欺くという、機知的な趣向に妙味がある歌。「欺く」は係助詞「か」の結びで、動詞「欺く」の連体形。

「泥中の蓮(でいちゅうのはす)」という故事成語があります。
蓮は汚い泥の中でも、清らかな花を咲かせることから、汚れた環境の中にいても、それに染まらず清く正しく生きるさまのたとえとして用いられます。(出典:『維摩経』 }

清らかなはずの蓮が、どうして玉と見せかけてだますのか?と恨み言を言いながら、蓮の葉の露への愛着を率直に表明した歌といえるでしょう。
去年の写真です。
雨の日のハスの花
雨の日のハスの花 posted by (C)kazg
今日はここまで。

蓮の露あれこれ、の巻 [折々散歩]

レンコン田のハスの花を、これまで何度もご紹介しています。
一番最近には、サナエでしょうか?の巻の記事で一枚だけ画像を載せましたが、その時写した水玉を宿した蓮の葉と花の写真です。
土の中の蓮根(レンコン)を食用にするために栽培されている蓮ですから、観賞用の花ではありませんが、純白で清楚です。



ほんのりピンク色の花も咲いています。









更に濃いピンクもあでやかです。















ハスの花にまつわる蘊蓄もあれこれ書き散らしたような気がします。2013年8月の「蓮の花あれこれ」という記事の一部を引用させていただきます。

 最近では栽培農家も減少しているようです。
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この写真は、蓮の実。姿が蜂の巣に似ていることから「ハチス」と呼ばれ、転じて「ハス」となったとされますね。この蓮の実、昔から食用に供され、今でも東南アジア等では一般的な食物らしい。
「源氏物語」にも、「あの世でも、きっと蓮の葉の上で一緒に暮らしましょ」なんて台詞がよく出てきます。「蓮の実」も、薫と匂宮という二人の貴公子との愛の板挟みとなって入水自殺を図った「浮舟」が、横川の僧都の妹(尼君)のもとに身を寄せていた時、来訪した中将(尼君の死んだ娘の夫)を尼君がもてなす場面で「人びとに水飯などやうの物食はせ、君にも蓮の実などやうのもの出だしたれば、馴れにしあたりにて、さやうのこともつつみなき心地して」 などとありました。にわかな来客へのとっさのご馳走という感じですかね。ドライフルーツだったのでしょうかね。
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蓮の葉に羽を休めるヤンマトンボ。ギンヤンマでしょうか?
来む世にも 逢うこともがも ギンヤンマ



「蓮の露」と書いて「はちすのつゆ」と読む作品があります。良寛和尚の晩年の弟子で、淡い恋愛関係にあったかとも言われる女性貞心尼(ていしんに)の自筆の歌集です。

良寛和尚については、こんな記事を書いたことがありました。

マクロスライド?なんのこと?---消えた傑作の巻?

 「世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる」(良寛)という境地が、私の目下の心境に近いのですが、時には「世の中にまじる」のも、「アリ」だと感じたひとときでした。

この歌は、ずっと昔、M師から教えられ心に残っている歌です。

良寛和尚、ほかにも、軽妙で、それでいてしみじみとした歌や句を、沢山残しておられます。

この記事でも少し触れました。

散る桜残る桜も放哉忌(意味不明)


  今朝の地元紙『山陽新聞』のコラム「滴一滴」は、〈散る桜残る桜も散る桜〉という句を引いて、「美しく輝く命にも、終わりは等しくやって来る。そんな思いを桜に託したのだろうか▼出撃した兵士たちがしきりに口にしたのが、この句だったという。」と紹介し、終戦四ヶ月前の1945年の今日、帰るあてのない「水上特攻」として、沖縄へ向かう途中の戦艦「大和」が、米軍の猛攻を受けて沈んだエピソードに触れています。(web上の新聞記事はこちら)
コラムは、
犠牲者は大和の乗組員約3千人、護衛艦を含め約4千人に上る。大和は今も東シナ海の深さ350メートルの海底に眠っている▼先月は、フィリピンの海に沈ん
だ戦艦「武蔵」とみられる映像を無人潜水機が中継して話題になった。戦後70年。空襲、原爆、終戦…と節目の鎮魂が続く。悲劇を忘れてはならない。

 と、結んでいます。

 この記事で、改めて意識したのですが、この〈散る桜残る桜も散る桜〉という句は、倉敷市玉島の円通寺ゆかりの禅僧・良寛の句だと言います。

円通寺には、これまでも幾度か訪れたことがあります。

正確には、円通寺に近い国民宿舎「良寛荘」を利用したことが、何度かあり、そのついでに、円通寺と、それを中心とする円通寺公園も、ぶらりと見学したことがあります。

そこには、いくつもの記念碑が建てられており、良寛の辞世の歌とされる「形見とて 何かのこさん 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉」や、いかにも良寛さんらしい「霞立つ 長き春日を 子供らと 手毬つきつゝ この日暮しつ」の歌碑もあります。

思い返せば、一昨年の4月に亡くなった畏友H氏の案内で、西行ゆかりの地を訪ねるツアーで訪れたのが、一番最近の訪問だったかも知れません。


その良寛和尚を敬愛していた貞心尼は、初めて歌を贈ります。(「蓮の露」)

 師つねに、手まりを、もてあそび給ふ、と、ききて奉るとて、貞心尼
  これぞこの、仏の道に、あそびつつ  つくやつきせぬ、みのりなるらん
【解釈】良寬様は常に、仏の道を学ぶ手段として手鞠をついて遊んでおられますが、いくらついてもつき終わる ことがないのが、仏道の教えというものなのでしょうか。

 これに良寬ははこう返します。

 つきてみよ、一二三四五六七八 九十 (ひふみよいむなや、ここのとお)
十(とお)とおさめて、またはじまるを
【解釈】無心に手まりをついてごらんなさい。一二三四五六七八九十で、十までついたらまた一から始めます。仏道修行も同様で、これで終わりということはなく、得られたと思ったところから、またさらに始まるでしょう。

以後、良寬和尚が亡くなるまで、二人の間には、数々の歌のやりとりがありますが、蓮に関わる部分を少し引用します。

 ある夏の頃まうでけるに何ちへか出で給ひけむ見えたまはず
ただ花瓶に蓮の挿したるがいと匂ひてありければ                  
来て見れば人こそ見えね庵守りて匂ふ蓮の花の尊さ


【解釈】ある夏の頃、良寬様をお訪ねしたところどこかへお出かけ中でしたろうか、姿がお見えになりませんでした・ただ、花瓶に蓮が咲いてあるのが大層美しうございましたので、こんな歌を残して帰りました。
来てみれば、お姿は見えませんが、庵を守って美しく咲きにおう蓮の花の尊いことです

御かへし                     
御饗(みあへ)するものこそなけれ小瓶なる蓮の花を見つつ偲ばせ
【解釈】
(良寬様からの)お返歌
貴方をもてなすご馳走もありませんが、小瓶にある蓮の花を見ては私をお偲びくださいな

                     
御はらからなる由之翁のもとよりしとね奉るとて
極楽の蓮の花の花びらによそひて見ませ麻手小襖
【解釈】
ご兄弟の由之翁から、布団をくださるということで
極楽の蓮の花の花びらになぞらえてご覧くださいませ、この夜具を

御かへし                     
極楽の蓮の花の花びらをわれに供養す君が神通
いざさらば蓮の上にうち乗らむよしや蛙と人は見るとも
【解釈】(良寬様からの)お返歌
極楽の蓮の花の花びらを私に贈ってくれる貴方の神通力は、たいしたものだ
さあそれなら、仏の蓮の台(うてな)のような布団の上に乗りましょう。たとえ人々が蓮の葉に乗る蛙のようだと見るとしても


昔、妻が、こんな絵を描いたのを思い出しました。



蓮の葉の真ん中あたりに、アマガエルがちょこんと座っています。





今日は両親もジジババも出勤で、中2と小4の兄弟は留守番。小一生は学童保育へ、二歳児は保育園へ預かってもらいました。元気回復で、ほっとしました。

今日はこれにて。



セミとカワセミと、アカトンボと桑の実と、エトセトラエトセトラ、の巻 [折々散歩]


昨日今日と、基本的に孫守から「解放」されて、自由時間を得ました。とはいえ、この暑さでは、どこへもお出かけする気も起こりません。

少しだけ朝散歩をと、7時過ぎに家を出て歩き始めましたが、もう強い日射しです。

蝉の声が、朝から最高潮です。

アブラゼミ。









クマゼミ。







これはカワセミ。(2番煎じのオソマツ)

レンズが18mm-250mmズームですので、望遠が足りません。大幅トリミングします。

































マクロレンズを主に使うつもりで歩いたのですが、こんな時に限って望遠レンズを用意しなかったことが悔やまれます。

露の雫も、日射でかなり蒸発してしまっているらしく、わずかしか見つかりません。もう少し早朝に歩かなくてはいけません。











フヨウ。







キバナコスモス。









タチアオイ。





やはり散歩には、望遠系が必須ですね。

ウチワヤンマ。

250mmではちょっと遠いです。



トリミングします。







アカトンボ。アキアカネでしょうか?

ノートリミング画像はこの程度。



トリミングします。







稲の葉に止まっていました。



逃げた後をよく見ると、脱皮の後でしょうか?


アカトンボについては再三記事にしてきました。古いところでは、忘れ得ぬ故郷(ふるさと)永遠(とわ)に赤とんぼ(2013.9.23

 一
夕焼、小焼の 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か


山の畑の 桑の実を
小籠(こかご)摘んだは まぼろしか


十五で姐(ねえ)やは 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた


夕焼、小焼の 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

三木露風は、数え年七歳で母と離れ、可愛がってくれた「姐や」も嫁いでゆき、寂しい幼少年時代を送ります。
この歌について、後に作者自身、こう語っています。

「思ふに、だれにとってもなつかしいのは幼い時の思ひ出であり、また故郷であらう。幼年の時故郷にいない者は稀である。幼年と故郷、それは結合している。であるから、その頃に見たり聞いたりしたことは懐旧の情をそそるとともに、また故郷が誰の胸にも浮かんでくるのである。
 私は多くの思ひ出を持っている。「赤とんぼ」は作った時の気持ちと幼い時にあったことを童謡に表現したのであった。
 「赤とんぼ」の中に姐やとあるのは、子守娘のことである。私の子守娘が、私を背に負ふて広場で遊んでいた。その時、私が背の上で見たのが赤とんぼである。」(露風 「赤とんぼの思ひ出」 『日本童謡全集』 より)

夫の放蕩がもとで離婚し、故郷の愛児と別れて生地の因幡に去ることになった露風の母は、後に、鳥取県の生んだ女性解放運動の先駆者として知られる「碧川かた」と言う女性でした。ウィキペディアの記事
(中略 )
「赤とんぼ」の歌にまつわる、次のエピソードも忘れられません。
《「赤とんぼ」には、伝説化した話がある。56(昭和31)年、東京・立川の米軍基地拡張に反対した砂川闘争で、警官隊と立ち向かった学生や農民たちからわき出た歌が「赤とんぼ」だった。「日本人同士がなぜ戦わなければならないのか」と歌声は問いかけた、と伝えられる。
当時、動員された学生は3千人。雨の中、警官隊と肉弾戦となり負傷者が続出した。最後に向き合ったのは学生ら50人と、警官150人だった。「今だから話しましょう」と、全学連の砂川闘争委員長として現地で指揮した政治評論家の森田実さん(75)はこう語る。
「警官があと半歩出れば私たちは負ける状況で、獰猛な相手を人間的な気持ちにさせようとした。勇ましい『民族独立行動隊』を歌えば警官も勢いづける。そこで『赤とんぼ』を選び、日没までの30分、繰り返し歌った。警官隊は突撃して来なかった。私たちは人道主義で戦った。警官にも純粋な気持ちがあった」
母のぬくもりを懐かしみ、郷愁を誘う「赤とんぼ」は、自らの人間性を思い出させる歌でもあった。この美しい感性を、日本人は持ち続けられるだろうか。
「赤とんぼ みな母探す ごとくゆく」(畑谷淳二)》(朝日新聞2008.9.20記事)


砂川闘争の話題は、次の記事でも書きました。

赤とんぼと桑畑とムクドリと。

 「砂川闘争」(1955年から1960年代まで続いた、在日米軍立川飛行場の拡張に反対する住民運動)の際、、警官隊と対峙する住民と支援者館の中から、この、「赤とんぼの歌」がわき起こり、警官達も、ともに口ずさんだというエピソードも、前回紹介しました。
今日の話題は、「砂川闘争」にまつわるもう一つの歌について。
学生時代、仲間達がことあるたびに歌い、八月にひらかれた同窓会でも、自ずと合唱がおこった曲です。

桑畑
作詞 門倉 訣
作曲 関 忠亮
1.桑畑の しげる葉は
  亡き母の 背におわれ
  苗植えた 昔から
  とぶ鳥さえ なじんでたが
2.桑畑は 今荒れて
  爆音は ワラ屋根に
  さける程 たたきつけ
  桑畑は 吹きさらし
3.桑畑は 握りこぶし
  振り上げて ならび起ち
  畑守る この私と
  芽ぐむ春を もとめうたう
4.春になったら 枝を伐り
  かおる葉を カゴにつもう
  むく鳥よ 高く舞い
  このよろこび 告げてくれ

桑の葉を蚕の餌に利用するため、養蚕が盛んな地方では、必ず桑の木が栽培されていました。
古くは、中国の詩人陶淵明の「桃花原記」では、俗界から隔絶した「桃花原」=桃源郷=理想郷に立ち並ぶ農家も田畑も池も、桑畑もみな立派で美しい所だったと記述されています。養蚕と絹織物は、満ち足りて平和な自給自足の村の象徴でもあり、桑畑はその象徴でもあったのです。

桑の実は「マルベリー」と呼ばれ、西洋では、ベリーの中でも最上級の味覚として珍重されるそうですが、厳密には食用の西洋桑と、蚕のエサのにする山桑とは、品種が異なるとか。

しかし、熟した桑の実は、生食しても甘酸っぱく美味ですし、果実酒にもよく会います。かつては、子どもたちの貴重なおやつだったようです。

この写真は、去年の6月、福島県奥会津で見かけたものです。今年、近所で写した画像もあったはずなんですが、見つかりません。失礼。

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「赤とんぼ」の歌にも、「山の畑の桑の実を小篭に摘んだは幻か」と歌われています。


蚕の餌として桑の葉を収穫した後の、茎の部分は、姿が握りこぶしに似ているのだそうです。砂川・立川基地のある東京多摩地方には、桑畑が多く、拳を振り上げて立ち並んだ桑の木々の上空を、米軍機は爆音をとどろかせて、我が物顔で行き交ったのでした。

「ムクドリよ高く舞いこの喜び告げてくれ」という結びの歌詞を、私は好きでしたが、ムクドリがどんな鳥かを知ったのは最近のことです。

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今日も、ブラックベリーがこんなに採れました。







果実酒はつくっているのですが、子どもにも提供できるように、ジュースにしてみました。桑の実サワーシロップ(酢+砂糖)とブレンドしてみました。



これにさらに果実酒をブレンド。



やはり、大人味でした(笑)。

気づかずにいるとこんな巨大キュウリが出来ました。

30cm定規と比べています。



金瓜も採れましたが、貧相。



今日はこれにて。


瑞穂の国の稲田し美はし、の巻 [折々散歩]

梅雨明けのカンカン照りの日射を全身に浴びて、稲がすくすくと生長しています。美しい稲田の光景は、日々刻々と変化していきます。

一方こちらの稲田サンは、お名前にまで「美」の字を戴いていながら、ちっとも美しくありません。(先日の記事美しい稲田と早苗、そして、、、の巻と同工異曲でした。オソマツ)







念のために申し上げます。「美しい」「美しくない」は、決して容貌への評価ではありません。
男性女性を問わず、いやしくも政治家たるものにとって、容姿容貌が何かの価値を持つとは思いません。もちろん、市井の民以上に、公衆の面前に姿をさらすことが避けられない仕事柄、容姿容貌がまったく無視されることは、たしかにあり得ないでしょう。でも、その際、基本的にものを言うのは、内側からおのずとにじみ出す、知性や意志力や、思慮深さや共感力、献身性、真摯さ誠実さ正直さといったもの、要するにその人の人間性のレベルであって、それこそは、政治家の価値を判断する大きな根拠とはなり得るでしょう。
しかし、それすらも、受け手の嗜好や趣味、主観に大きく左右されるものですから、絶対的なものではありません。
それなのに、なぜ、「美しくない」などと何度もケチをつけるのか?
地元紙『山陽新聞』の昨日(7/21)づけ朝刊にこんな記事が載っていました。

一部を拡大してみます。

これは氷山の一角。
日本国憲法遵守義務を負った「公僕」=国民のしもべ、国民の代理人たるべき国会議員(のみならず閣僚)の職を、思うままに私物化して特権にあぐらをかき、重ね重ねのやりたい放題。その不適切な言動が発覚して批判をあびても、「ああいえば、上祐」(古い!)ばりの詭弁で言い抜けようとする姿勢が、そもそも美しくないんです。潔くないんです。汚いんです。
「地位に恋々としがみつく」(スガ官房長官のセリフ)というのは、前川さんにじゃなく、こんなヒトにつかうべきじゃないんでしょうか?もちろん、ほかならぬ親分がソックリさんなんで、致し方ないとはいうものの、子どもたちにしっかり市民道徳を身につけさせたい国民の願いを、嘲笑うかのような非道徳のお手本。困るんです。
稲田サン、辞任の意思を問われて「やるべきこと、なすべきことをする」と辞任を否定なさったそうですが、「やるべきこと、なすべきこと」とは、真実を明らかにして潔く辞任なさることではありませんか?

一連の報道の中で、どうにも理解が出来なかった部分があります。自身の「認知力」「理解力」の衰えに、まったく自信を失っている昨今だけに、ニュースを聞き、繰り返し記事を読んでも、単語の羅列が堂々めぐりするだけで少しも理解できないもどかしさに、気持ちが落ち込みました。
それは報道の「稲田防衛大臣は、破棄したとしていたPKO部隊の日報を陸上自衛隊が保管していた問題をめぐって、21日夕方、事実関係の解明を進める防衛監察本部の聴取に応じました。」という部分です。
そもそも「防衛監察本部」ってなに?国権の最高機関である国会の場ですら、真実を覆い隠し「知らぬ存ぜぬ」を貫いている厚顔な人物の口を割らせて、真実解明を進めるような権限と能力が「防衛監察本部」があるの??????
けれども、「東京新聞」のこの記事を読んでようやく合点がいきました。

 防衛相直轄組織が稲田氏聴取  日報「隠蔽」 解明に疑問
二十一日に南スーダン国連平和維持活動(PKO)部隊の日報隠蔽(いんぺい)問題を巡る特別防衛監察の聴取を受けたと記者団に明かした稲田朋美防衛相。防衛監察に全面的に協力する姿勢を示すことで、自らの疑惑を払拭する狙いがある。ただ、監察を行う防衛監察本部は防衛相直轄の組織。組織的隠蔽を了承したと指摘される稲田氏の関与の有無を解明できるのか疑問が残る。
(中略)
 報告書の公表は来週中とみられる。その直前に稲田氏から短時間、事情を聴いたからといって、稲田氏がこれまでと同じ主張を繰り返すなら、全容解明が進むとは思えない。稲田氏の隠蔽への関与が指摘されて以降、政権幹部は防衛監察で事実関係を明らかにすると繰り返している。
 防衛監察は防衛相の職員に対する監督権限を監察本部に委任する仕組みで、本来は監督者である防衛相らは調査対象にはならない。実際、監察の開始からこれまでの約四カ月間、稲田氏の聴取は行われていなかった。二十一日も、あくまで稲田氏が聴取に「協力」した形だ。
(後略)

やっぱりそうだ。
国会を上回る特別な権限を持った(こんなものあるはずもなく、あってはなりませんが)第三者機関などではまったくなく、「防衛相直轄の組織」じゃありませんか?
念のために関係法令も調べてみました。

 防衛省設置法
(昭和29年法律第164号)
第三章
本省に置かれる職及び機関等
第五節
特別の機関
(防衛監察本部)
第二十九条
防衛監察本部は、職員の職務執行における法令の遵守その他の職務執行の適正を確保するための監察に関する事務をつかさどる。
2防衛監察本部の長は、防衛監察監とする。
3防衛監察監は、防衛大臣の命を受け、第一項の監察を行う。
4防衛監察本部の内部組織は、政令で定める。
5防衛監察本部の位置は、防衛省令で定める。

第29条3項に「防衛監察監は、防衛大臣の命を受け、第一項の監察を行う。」とあるとおり、防衛大臣が任命する「部下」ですよ!どう逆立ちしても、上司が隠したがっている秘密を暴いたりなどできるはずもなく、暴くつもりもあるはずがない。そう理解して、やっとこの茶番の低レベルさを合点したのでした。それにしても不思議なのは、どうしてこんな低レベルな茶番で、国民をだましおおせると思うのか、という点です。
それともこちらの理解が致命的にまちがっているのか?考え始めると、悩みが尽きません。
体温に近い不快な暑さと、ひっきりなしにダッコをせがみ、ダッコしていてもすぐに機嫌を損ねて大声で泣く発熱幼女と、一歩外に出るとわんわんしゃんしゃんと襲いかかってくる蝉時雨のけたたましいうなり声に妨げられて、落ち着いて考えることができないのも、いらだたしい限りです。
きのうは、日中、孫殿の要求(脅迫)に応えて、ダッコしてママを探しに炎天下を歩いたり、自転車に乗せて走ったり、ショッピングカートに乗せてスーパーの店内を歩いたり、、、、で、歩行・自転車走行距離はある程度かせぎましたが、快適さにはほど遠いので、 隙を見て、夕方、プチ散歩にでかけました。
アブラゼミ。



ニイニイゼミ。

クマゼミが写せませんでしたので、今日の画像を補足します。



ツクツクボウシの声も聞きましたが、姿は発見できませんでした。
空蝉。



そしてこのチョウは?
キアゲハでしょうか?








アオサギ。


二歳児の熱はほとんど下がりましたが、体調は万全ではないのでしょう、終始ご機嫌斜めで、声をからして泣き続けます。虐待通報を恐れるほどです。
今朝は、パパとママがそれぞれちょっとお出かけで、午前中短時間預かりましたが、その後は解放されましたので、ちょっと長い記事が書けます。
昼食後の腹ごなしに、畑に出てみてたあと、自然環境体験公園に足を伸ばしました。
畑は恐ろしい勢いで雑草が生い茂っていますが、抵抗を諦め、トウモロコシとオクラを収穫して帰りました。



ほったらかしでこんな恵みを受けられるなんて、ちょっと気がとがめます。
自然環境体験公園での画像は後日に譲ります。
今日の付録。
先日小1の女の子が、ひいじいちゃんにかいた絵はがきです。
「おじいいちゃん」とい「い」が一文字多いことを指摘すると、いったん書きなおしかけましたが「これでいい」と、すぐに決断しました。細部にこだわらない神経は、見上げたものです。
お昼御飯に回転寿司をごちそうになりました。
彼女の好物は卵焼きです。いえ、卵焼きしか食べません(左端)。
デザートはチョコバナナ。
先日、畑で採れたスイカの絵など書きました。


暑さにお気をつけください。
また天候の急変にもご用心。
今日はこれにて。

朝日に輝く稲葉の露、の巻 [折々散歩]

小中学生の孫たちは今日から夏休み。末の二歳児は高熱が、上がったり下がったり。親たちは仕事、私もアルバイト日ですので、パートが休みのバアバが子守をした一日でした。
中学生は部活があったり、小4生は自分でプールに行ったり、小1生は宿題やお絵かきや、学校ごっこや、ビデオや、妹の世話で、一日を送れますが、問題は二歳児。体調が悪いと、機嫌も悪く、四六時中おんぶやだっこを要求して、手
がはなせません.
夕方、何かの弾みで、少し機嫌が良くなりました。熱も平熱にもどっています。このまま、奇跡的に回復してくれるか?明日もまたスリル満点です。
さて、今朝は、灼熱地獄になる前に、短時間の散歩。

OLYMPUSE620に先日中古購入したマクロレンズをつけて歩きます。ミラーレスシステムの比ではありませんが、お散歩カメラとしては十分軽くてコンパクトです。

画像はすべてノートリミングです。





蝉の鳴き声が、朝早くから絶頂です。
空蝉。

クマゼミ。



アブラゼミ。



朝日を浴びるネコジャラシ(えのころぐさ)。



朝日を浴びるピンクのコスモス。

稲葉の朝露。












朝日を浴びるムクゲ。


朝日を浴びるフヨウ(アメリカフヨウ?)

孫たちの夏休みは、楽しく順調な滑り出し。発熱の保育園児も、熱はかなり下がった様子。さて明日はどうなりましょうか?
今日はこれにて。

梅雨明けし日も孫守のてんやわや [折々散歩]

昨日の記事にお寄せいただいた majyo様のコメントを読んで、思い出しました。
一昨年の一〇月に、この記事とんぼのめがねで、わかりやすい紙芝居(http://www.fukutoku-group.co.jp/fukutoku-pics/10004003.pdf)の紹介とともに、「とんぼのめがね」の歌と額賀医師のことを書いてくださっていました。
一部引用させていただきます。

 額賀氏は昭和26年にお亡くなりになるまで、とんぼのめがねに代表されるように
広野町の原風景を元に日本の良さを広く伝える歌をいくつも作られました

この歌の原風景となったのは、福島県の広野町です。豊かな地域ですが
福島第一原発から20キロで避難指示となり、その後は解除されましたが、
今では原発で働く方が町民の2倍で、戻らない人も多いと言われています。
とんぼのめがねの里は、今や日本の命運を決める福島原発の最前線基地となりました。


広野町のHPを訪ねてみると、震災と原発被災の傷跡が生々しく伝わってくる気がしますが、観光情報のこの記事には、ほっとなごみます。
とんぼのめがね歌碑

 とんぼのめがね歌碑
更新日: 2014年5月10日

平成6年より童謡の里として「ひろの童謡まつり」を初めて開催し、これを記念して平成7年11月、築地ヶ丘公園(広野町大字下浅見川字築地・広野中学校東隣)内に歌碑を建立しました。歌碑の文字は、「とんぼのめがね」作曲者、平井康三郎先生により書かれています。
「とんぼのめがね」は、昭和23年に上浅見川箒平での情景を作詞されたものです。

この作品は、広野町に住む医師で、高名な童謡作家であった額賀誠志(誠)が、戦後の混乱した中でも、子供達には童謡を通し明るく育って貰いたいと願い創作したもので、NHKのラジオで全国放送され、今も子供達に愛唱されている童謡の代表作です。

二歳児の熱は上がったり下がったりで、今日の午前中はママが休みを取って子守をしましたが、午後は、終業式を終えた小中学生とともに、ジジババが見ルことになりました。一昨日38度越えの熱を出した小1の女の子は、今日は元気に小学校へ行って帰り増した。初めての通知簿をもらって帰って、ちょっと興奮気味でした。
二歳児の歌のレパートリーはどれくらいあるのでしょう。蝶を見ると「チョウチョチョウチョ菜の葉にとまれ」と歌い、夜に空を見上げては「きらきらひかる おそらのほしよ」と歌います。
そう言えば、先日、兄姉がたちが田舎塀って帰った日、ママと留守番をしていたお土産に、百円ショップでシャボン玉セットを買って帰りましたら、すぐに大喜びで遊びました。(その時は元気いっぱいだったのですが、、。)

「シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた」
の歌も、うろ覚えに口ずさみます。

wikiから引用します。

作詞に関する説

 
歌詞にはシャボン玉で子どもが遊んでいる様子が描かれているが、これに夭逝した子供への鎮魂の意を見出す説もある。
1908年、雨情は後に協議離婚に至った妻のひろとの間に、長女「みどり」をもうけた。人形のように愛らしい赤ん坊であったが、産まれて7日目に死んでしまった。当時は、乳幼児が死ぬのはさほど珍しいことではなく、2~3割の子供が学齢前に死亡していた。そのため、夫婦は子供を何人も産み、一所懸命育てた。雨情もその後何人かの子供を授かっているが、長女の死を後々まで悔やんでいたという。 雨情は後に生まれた娘・恒子も亡くしている。当時、2歳。1924年(大正13年)9月のことである。
そしてある日、村(茨城県多賀郡磯原村)の少女たちがシャボン玉を飛ばして遊んでいるのを見た雨情が、娘が生きていれば今頃はこの子たちと一緒に遊んでいただろうと思いながら書いた詩が、この「シャボン玉」だというのが最もよく知られる説である。しかし、これを裏付けるような決定的事実は無く、説の段階を越えていないとも言われている。
以上の鎮魂歌説は、テレビ番組において定説であるかのように放送されたため、一般に広まった。しかしその他にも、時期的な観点から実子ではなく親類の子への鎮魂歌であるという説や、特定のモデルはなく子どもの死一般を悼んだものとする説、特に鎮魂の意は無いという説など、諸説存在する。 なお、雨情自身が子どもの死との関連について触れている資料は一切無い。雨情の遺族の間でも意見が分かれており、現状では鎮魂歌説を含めいずれの説も確たる根拠を欠いていると言える。

歌詞
著作権法の規定により、1995年末に著作権が失効している。
シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた

シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
産まれてすぐに
こわれて消えた

風、風、吹くな
シャボン玉飛ばそ

「鎮魂歌説」のバリエーションとして。私たちは学生時代、これは貧困のため我が子をも「間引き」せざるを得なかった農民たちの嘆きの歌だ、という説を信じていました。これは、フォークシンガー高石ともやさんが、伝聞をもとにコンサートなどで広めた野が始まりだそうですね。

フォークシンガー「高石ともや」の解釈

 ただ、高石の解釈は、それともまた少し違っていた。
 彼によると、この 「シャボン玉」 というのは、日本がまだ貧しかった時代に、口減らしのために 「間引きされた子供たち」 のことだという。 
 昭和の初期まで、日本では大飢饉などに襲われたときは、産んだ子供に十分な食糧を与えることができなかった家庭では、泣く泣く、親たちが産まれたばかりの子供をぼろ布などに包んで圧死させる風習があった。
 そうしないと、一家全員が、食べていけないこともあり得たともいう。 
 「シャボン玉」 は、そのような一家の犠牲にならざるを得なかった嬰児たちを弔う歌であると、彼はいうのだ。


真偽のほどは別として、シャボン玉の儚さを、嬰児の命の儚さに重ねあわせることは、無視できないリアリティをもって心をとらえずにはいません。人間の、ことに嬰児の命は、壊れやすくもろいものであって、ささやかな暴力の前にも、ひとたまりもありません。貧困は、それ自体、抗しがたい暴力とも言えます。そして言うまでもなく、最大の暴力は、戦争です。

「風、風、吹くな
シャボン玉飛ばそ」

自然現象としての風や雨には、吹くな、降るな、と願うしかないかも知れませんが、人為的所為であるはずの貧困や迫害や戦争には、人知による制御をくわえることが可能ですし、また不可欠です。政治の役割が思われてなりません。

ところで、荒々しい自然の猛威を見せつけた豪雨災害の爪痕も癒えませんが、関東から中国地方で梅雨明けが発表されたようです。
文字通りの夏の雲が発達しています。

先日深山公園で撮影したアジサイの花も、そろそろ時節はずれになりましょうか?














これはペンタスでしたっけ?
ペンタス(Pentas)は、ギリシア語で数字の「5」を意味するPente(ペンテ)が語源で、ペンタスの花びらの数が5枚であることに由来しているそうです。。
そういえばペンタゴン(アメリカ国防総省本庁舎)も、5角形、5階建てだそうですね。ーーーテナことを過去記事でも書いておりました(汗)。(懐かしの切り抜きメモ、の巻)



蟻も、活発にうごきまわっています。


これはヒメウラナミジャノメかな?


トリミングしてみます


これも?

これは、ヒメジャノメ?

二歳児も、雨の日には、
「あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン」
とうたいます。

以前、過去記事「あめあめふれふれ」のこころだ!で、こう書きました。

歩きながら、自然と「♪雨雨降れ降れ」というフレーズが、頭に浮かぶ。「♪雨雨降れ降れもっと降れ」とい八代亜紀が歌った「雨の慕情」(作詞 阿久 悠 作曲 浜 圭介)ではなく、童謡の「あめふり」だ。

「あめふり」
北原白秋作詞・中山晋平作曲

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

蛇の目傘は、傘の中央にヘビの目のような輪の模様が描かれた、おしゃれな和傘で、装飾的用途で目にすることはあるが、実用の記憶はない。私の幼少期の記憶には、番傘があるだけだ。当時でも、一般家庭では、こうもり傘が優勢だったと記憶するが、小学校に常備してあった「置き傘」は、番傘だった。小学生の手には、ずっしり重く、油紙特有のにおいが印象に残っている。

蛇の目の模様を持ったチョウ。ジャノメチョウが、イノコズチの葉にくつろいでいた。

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 シジミチョウも、クローズアップ撮影。

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「あめふり」の歌は、比較的恵まれた、小市民的な幸福に包まれた家庭で、健やかに育った子どもの、健全なヒューマニズムがにじみ出ていて、好ましい。トルストイの「幼年時代」「少年時代」などにも通う所があるかも知れない。
  (中略) 
が、同時に、私は「雨雨降れ降れ」のフレーズに対する条件反射のように、次の歌を想い出す。
 
日雇い母さんの歌


雨が降ると母さんの
「お帰り」って声聞けて
うちはうれしいけど
今日のごはんに困ります

夜もふけて母さんに
「ねなさい」ってしかられて
うちはつまんないねえ
封筒はりが手伝えない

朝も早く母さんに
「がんばれ」って手を振って
うちは考えるなぜ
働くものは貧しいの

うちは考えるなぜ
はたらくものは貧しいの

うろ覚えなので、ネットで検索してみたが、見つからない。この夏の、高知で開かれた学生時代のサークル仲間の「同窓会」で配られた、「記念歌集」に採られていたので、引用させていただいた。

作詞者も作曲者もわからないが、あるいはこの記事で「日雇いの母さん」と記述されている歌がそれかも知れないと、勝手に推測しているが、正確の所をご存じの方が会ったら、ご教示を願いたい。


百円玉二個と十円玉四個の賃金なので「ニコヨン」と呼ばれたと、小学校の社会科で習った。雨が降ると仕事がないので、暮らしに窮する。

当時は丸山明宏)の 「ヨイトマケの歌」の世界と二重写しになる。野太い美輪明宏の歌声も、迫力十分だが、意外にも?、大竹しのぶのCDに収められたそれが、情感が深くて素敵だ。  


またまた話が広がり、収集がつかなくなりました。
今日の付録です。
先日採って帰った畑の黒玉スイカ。
熟れていいい色でした。
子どもたちにも、甘いと好評。

トマトがたくさん熟れます。



出来損ないトウモロコシも、甘さではまけません。
今日はこれにて。

サナエでしょうか?の巻 [今日の「これなあに」?]

昨日は二歳の女の子が熱を出したそうです。
午後になると退屈したらしく、遊びに来ました。「ばあばはいないよ」とママが言っても、「じいじがいるからいい」といって、しばらく滞在して帰りました。
ひどい暑さなのですが、エアコンを付けていない部屋の窓をあけると、網戸越しに風が吹き込みます。熱風なので、涼しいとは言えませんが、むっと熱気が籠もった部屋よりは。少しだけしのぎやすく感じます。
この年頃の知恵の付き方は驚くほどで、ときどき複雑な言い回しでおしゃべりをしたりします。歌詞はアイマイですが、それでもいくつかのフレーズを続けて歌える歌も、レパートリーが増えたようです。
窓の外を指さして、「トンボが飛んでるねえ」といい、「トンボのめがねは水色めがね」と歌い始めました。
「歌声喫茶のび」のhpに、歌詞とmidi音源が掲載され、こんな紹介記事がありました。とんぼのめがね

 作詞の額賀誠志(1900-1964)は、福島県広野町の開業医さん。
「医は仁術」を地で行くような方で、病に苦しむ人がいれば深夜でも往診に駆け付けたそうです。
49歳の時、往診に出かけた山村で、子どもがトンボと遊んでいる姿を見て、この詩の構想が生まれたとのこと。
「戦後の日本の子供たちは、楽しい夢を乗せた歌が歌えなくなった。子どもが卑俗な流行歌を歌うのは、あたかも、子どもが煙草の吸い殻を拾って飲むと同じような悲惨さを感じる」と作者が童謡を作ろうとしたきっかけを述べてます。(読売新聞社「愛唱歌ものがたり」)
そして発想のヒントを「赤い鳥、小鳥、なぜなぜ赤い、赤い実をたべた」という北原白秋の「赤い鳥小鳥」から得ています。更に、この詩が収録されていた詩集の名前は、「トンボの眼玉」。

作曲の平井康三郎。
「戦前の童謡は、悲しげで重々しい旋律が多いため子どもも喜んで歌わなかった。」として、「スキー」などの明る感じの童謡を沢山作っています。

 



なお、「歌声喫茶のび」のHPへの入り口はこちらです。

http://www.utagoekissa.com

撮りためていたトンボの画像を少しご紹介します。
五月の終わり頃、自然保護センターでの写真です。
シオカラトンボ?




シオカラトンボ?のペア。

イトトンボ?のペア





イトトンボ?


これより下の写真「きょうのこれなあに?」です。
オニヤンマよりは、かなり小型です。






そしてこれは、六月一〇日深山公園にて。

下の三枚は7月15日、深山公園にて。






どれも、サナエトンボの仲間のように見えるのですが、わかりません。
サナエトンボ関連で、過去にもこんな記事を書きましたが、相も変わらず見分けられません。

いにしえの故郷遙か秋茜


秋立つやなまあたたかきかぜなれど
トンボの季節になりました


子どもの夏


キイロサナエ、ヤマサナエ、ミヤマサナエ等の名前が浮かびますが、深山公園だからミヤマサナエ?てなワケはないでしょうね。
美しいサナエと美しくないサナエの話題は、この記事の二番煎じになりますから、j繰り返しません。

美しい稲田と早苗、そして、、、の巻


もう一つ、美しいサナエを発見しました。
いや、ほとんど毎朝見ていたのですが、名前を確認したのは今朝です。
朝番組を何気なく見ておりましたら、NHK「あさいち」にゲスト出演されてたのが、朝ドラ「ひよっこ」で久坂早苗を演じるシシドカフカさんでした。


シシドカフカさんと言えば、「前髪ぱっつん」のクールな美女として人気だそうですが、わが家の二歳児も、前髪ぱっつんですよ(笑)。
二歳児の熱は微熱に下がりましたが、姉も発熱で、今日は学校と保育園をお休み。ママが休暇を取ったようです。
今日はこれにて。

追伸

きのうの「これなあに?」について、M師が「ニゴイでは?」と教えてくださいました。

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「ニゴイは最大60cmにもなるそうです。食べれないことはありませんが小骨が多いので食用にはしないそうです。」とありました。

そう言えば、以前、こんな記事を書いたことがありました。


 ニゴイ。子どもの頃はイダゴイと呼んでいました。カマツカの近縁種だそうで、地方によって、ミノ(青森県)、セータ(関東地方)、アラメ(長野県)、マジカ(滋賀県、京都府)、キツネゴイ(大阪府)、ヒバチゴイ(奈良県)、イダゴイ(岡山県)などの呼び名があるそうです。
 
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サイズ感が違うせいか、とっさにニゴイとは思いつきませんでした。
以前同じ用水路で、今回の魚と同じくらいのサイズと色の魚を釣ったことがあり、しばらく水槽で飼育しました。他の魚を食べるので、フィッシュイーターだと推定し、「ハス」という魚ではないかと目星をつけました。
ウィキペディアにはこうあります。
ハス
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日本国内の自然分布は琵琶湖・淀川水系と福井県の三方五湖に限られる。しかし20世紀後半頃からアユなど有用魚種の放流に混じって各地に広がり、関東地方や中国地方、九州などにも分布するようになった。
ハスと言っても、このハスじゃありません。
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今日のにわか雨に濡れた、レンコン田のハスの花です。

「海の日」に小川で釣りをする、の巻 [今日の「これなあに」?]

今日は、私の週二回のアルバイト曜日ですが、今日はお休み。なぜお休みなのか確かめずにいましたが、「海の日」ですね。
「海の日」って何だっけと、記憶をたどりますが判然としません。が、以前過去記事で話題にしたことをぼんやり思い出しました。

幻の記事??の巻


海の日を海に遊べば日は長き


もっともらしいことを書いています。

  今日は「海の日」 でした。
「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」日なのだそうです。
「シーレーン」の防衛だとか、「ホルムズ海峡での魚雷掃海活動」 などというきな臭い話題に結びつけられては迷惑だなと、ふと思っていたら、案の定、そんなことをまことしやかに発言されているお方があり、ワロタwww(お下品でした)。
 
「産経ニュース」の2014.7.21 03:20付け主張 から、一部引用させていただきます。
 
大小6800余の美しい島々からなるわが国は、国土の総面積はごく狭小ながらも、領海と排他的経済水域(EEZ)を合わせた海洋面積では世界第6位を誇る。

 四囲の広大な水域は魚介類や鉱物を豊富に蔵し、変化に満ちた海岸線の風光は国の貴重な観光資源となっている。この海を通じてわが国は古来、外国の文物を手に入れるとともに、海運による貿易で栄えてもきた。「海洋国」の名にふさわしく、海とともに生きてきたのである。

 そんな海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を願う日が、きょうの「海の日」である。
(中略)
顧みて現在、わが国領海では国の主権や国民の安全などが重大な危機にひんしている。尖閣諸島周辺では、「核心的利益」を掲げる中国が領海侵入を重ね、ルールを無視した海底資源開発にも有効な手立てを打てていない。

集団的自衛権の行使容認を抑止力の強化につなげる法整備もこれからだ。海に守られてきた日本国民は今こそ、自ら海を守る決意を高らかにうたうべきだ。 

もうひとつ、経団連の機関誌「月刊経団連」7月号の巻頭言

「海の日」に思う 宮原耕治(みやはら こうじ)経団連副会長/日本郵船会長

 (前略)

あらためて言うまでもなく、わが国は海洋国家であり、日本経済・国民生活を支えるエネルギー、資源、食糧の多くは海上を運ばれて来る。特にエネルギーについては、原発停止中のため化石燃料への依存率が現在90%にも達しているといわれるが、LNGも石油も石炭もそのほとんどすべてが輸入である。

ホルムズ海峡、マラッカ海峡などシーレーンの安全保障が脅かされれば、わが国は、一日たりとも正常な国民生活や経済活動を継続することが困難になる。その意味で、国連安保理決議に基づき米、欧、露、印、中、日など20カ国以上が共同して、ソマリア沖で海賊からの護衛活動を継続していることは心強い。

わが国においても集団的自衛権など、安全保障をめぐる議論が活発化しているが、こうしたわが国の現実を踏まえ、「海の日」が国民一人ひとりにとって海洋・海上輸送に関する安全保障を考える契機になればと願っている。

 やっぱりこう来ましたか。
以前、海なし県の知人がおっしゃっていましたが、列車に乗って海が見えると、海側の座席に座る。座席が空いていなくても、みんな一斉に海を見つめる。
それ以来、それとなく観察していますと、確かに大抵の方はしばし、心を奪われている表情で、海を眺めていらっしゃいます。
かくいう私もそうです。自分が山間部育ちのせいであるだけではなく、海は私たちにとって特別な存在であることは否定できません。(「私たち」と書いて、一瞬「私たち日本人」とすべきか迷いました。あるいは「私たち人間」と書いても妥当性が担保できるのではないかとも思いました。しかし、思いついただけで、検証ができていませんので、あいまいに「私たち」と書いておきました。)
私たちのもつ、海へのこのような自然な憧憬、思慕、愛着、親愛の感情を、ことさらに、即物的・実利的・政治的な方向に引っ張って行かれることは、不本意至極で、イヤだなあ。

さて、この記事では、当時小1だった孫と一緒に、海釣りに行き、坊主だった顛末を書いています。この子は、現在小4になりました。昨日は田舎に同行して夕方帰った後、この小4生と中2の兄は、仕事帰りのパパに、海釣りに連れて行ってもらったようです。
今朝聞くと、残念ながら坊主だったそうで、今日は近くの小川(農業用水路)でリベンジしたいと言います。妹もついて行きたいように言うので、竿や仕掛けの用意をしてお待ちしておりますと、9時過ぎでしょうか、お見えになりました。結局、行くのは小4の孫一人だそうで、釣り具一式と水筒とバケツを持って、いざ小川へ。
ただ、問題は餌がない?パパのタックル箱には、海用の疑似餌や、ブラックバス狙いのルアーなどはありますが、どうもここの小川の魚には向きそうにない。というわけで、現地調達で、ミミズを探すところから始めます。
やっとの思いで、小さなミミミズを3~4匹捕まえて、餌にします。
一投目、程なく孫の浮きが動きます。「あげてみたら?」というと、ためらいがちに竿を動かします。と、突然竿先が大きくしなって、水面を白い魚影がはねたと思うと、素早く逃げていきました。逃がした魚は大きいという言葉通り、想定を超えた大きさでした。
次に私の浮きが動き、白い魚を釣りあげます。続いて孫、さらに私と、平等に楽しませてくれ、3匹の獲物がバケツで暴れます。孫はなおも粘りますが、餌のミミズもなくなり、いったん休憩といたしました。(再開予定は未定です)

プレコ亡き後、庭に置いて、川魚や川エビを住まわせ、睡蓮鉢代わりにしている
90cm水槽に入れてやりましたが、すでに弱っていたらしく2匹は生きませんでした。

ポリバケツはサイズが「5型」と表示されていますから、直径25cmmあります。このオサカナ、身体を伸ばした状態では入り切りませんので、相当の体長になりますね。これなあに?
今日はこれにて。

蝉時雨浴びてしとどに濡れにけり [折々散歩]

暑くならないうちにと、早朝散歩にでかけてみました。6時前に家を出たのですが、もうとっくに日は昇って、さかんに輻射熱を放出しはじめています。ちなみに、後で調べてみると、今朝の日の出は5時04分だそうです。明るいわけです。
ソリッドモノカラ-でお届けします。緑色だけをカラーにする設定ですが、、、画面全体が緑です(笑)






歩き始めた頃には、まだ蝉の声も聞こえず、早朝の静寂を味わうことが出来ましたが、それも束の間。ふと気がつくと、あちらの木こちらの茂みに、蝉時雨がうねりのように響き渡ります。
一週間前、今年初めて蝉を見たという記事を書きました。その日に見たのは、ニイニイゼミだけでしたが、その後、家の周りにも沢山の抜け殻を見るようになりました。

下は、昨日、深山公園の散歩で、見つけた空蝉です。

泥をまとったこの空蝉は。ニイニイゼミのようです。
この日も、我が家の近くではクマゼミの声が大きく鳴り響いていましたが、不思議に、深山公園ではニイニイゼミの声しか聞きませんでした。少し涼しいのでしょうかね。
苔に差す光も、涼しげです。

マクロレンズで地面の苔を写したつもりが、意図に反して遠景にピントが合ってしまいました。

ムクゲの花も、すずしそう。

一方、今朝の散歩道では、アブラゼミとクマゼミが、圧倒的に優勢と感じられました。







アメリカ芙蓉。

オシロイバナ。

キバナコスモスとネコジャラシ。

グラジオラス。

けたたましい蝉時雨の中を、短時間一歩きしてきただけの朝散歩でしたが、汗びっしょりで、朝からシャワーを浴びて着替えが必要でした。

蝉時雨浴びてしとどに濡れにけり


と、のんびりこんな記事を書きかけていますと、急に、田舎へご機嫌伺いに出かけるはなしがまとまりました。最初は長女とムコドノが、一歳児を連れて出向くはなしでしたが、ついでにジイジバアバと、小学生の孫二人も合流しようということになりました。

私個人としては、一昨日行ったばかりですが、他の面々は普段、なかなか予定があわず、久しぶりです。


捕虫網と虫かごを用意していきました。









虫を捕まえて入いる途中、家の前の小溝で、沢ガニを見つけました。


虫かごを開けて、昆虫たちを逃がし、その後に、沢ガニを入れることにしました。

持ち帰りたいところですが、飼育に苦労した経験がありますので、また来たときに観察することにして、元の場所に逃がしてやりました。

慌ただしい一日でした。何度も汗びっしょりになり、何度もシャワーし、何度も着替えました。

夕方、庭のトマトを収穫すると、色とりどりです。

黄色いトマトは、熟れ具合がわかりづらいですが、赤色よりも栄養価が高いのだとか?

今日はこれにて。

クマゼミの蝉時雨を聞きました、の巻 [折々散歩]

暑い日が続きます。

でも、これは畑作業には好適と、昨日は郷里の畑の草刈りと耕耘をしてきました。前回言ったときには、雨続きで畑の泥が水を含み、耕耘機が動かせそうもないので、作業をあきらめて帰ったのでした。

昨日は打って変わって上天気。涼しいうちにと思ったのに、通勤渋滞の影響もあって、到着が9時過ぎになりましたから、もうかんかん照り。一時間あまりの作業で、汗びっしょりになりました。

老簿と二人で作業をしておりますと、見かけたご近所さんが缶ジュースをさしいれてくださったり、近寄って話しかけてこられたり、田舎の人情を感じます。過疎・高齢化の進む山村は、耕作放棄状態の田畑が荒れ、人手の隙を突くようにして、たけ高い草が思うままに浸食してきています。「自然の猛威」は。こんな場面でも痛感させられます。

昼食を食べに出かけた先で、同じ集落の「同級生」のM君にばったり出会いました。何年ぶりでしょう。体をこわしていて、同窓会などでもしばらく会っていませんから、本当に久しぶりです。週三回の透析生活と、聴力が不自由を嘆きますが、想像以上に元気そうで、ちょっと嬉しい出会いでした。

きょうも朝から灼熱地獄。

クマゼミがシャシャンシャンと大合唱していることに気がつきました。その蝉時雨に覆われた近所の散歩道は、太陽光の直射が厳しそうですので、ちょっと敬遠し、きょうは木陰のある深山公園を散歩する個にしました。特に物珍しい出会いはありませんでしたが、写真を整理してから記事を書こうと思っているうちに時間切れ。文字だけの記事になりました。




最後に、友人から次のような緊急の転送メールをいただきましたのでご紹介します。

「浅田達雄さんを支える会」からの訴えです。

 「ささえ69号」を送ります。7月19日の第20回口頭弁論結審(予定)の傍聴希望者は急ぎ事務局へメール・電話でご希望ください。福山から4人、東京から一人の予約が届いています。

ネット署名を19日当日までに1000人にできるだけ近づけたいです。団体の事務局関係者の中でまだネット署名が終わってない方、ぜひご協力をお願いします。下記アドレスをCtrlキーを押しながらクリックしてください。署名ができます。

https://www.change.org/p/65%E6%AD%B3%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%A8%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E8%80%85%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E6%94%AF%E6%8F%B4%E3%81%97%E3%81%A6%E3%82%82%E3%82%89%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%82%8B-%E9%87%8D%E5%BA%A6%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E8%80%85%E3%82%92%E5%91%BD%E3%81%AE%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E3%81%AB%E3%81%95%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%9F%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E5%85%AC%E6%AD%A3%E3%81%AA%E5%88%A4%E6%B1%BA%E3%82%92%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%BE%E3%81%99?recruiter=383893112&utm_source=share_petition&utm_medium=copylink&utm_campaign=share_petition


「浅田訴訟」については

T4ってなんだっけ?の巻

の記事で話題にしました。

誰もが、65歳になり得ます。そして、誰もが障害者になる可能性があります。
浅田さんのたたかいは、浅田さんひとりの問題ではありません。応援したいです。今日はここまで。

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さても恋しやマクロレンズ、の巻 [趣味]

愛用していたマクロレンズ ズイコーデジタル 35mm F3.5 Macroが、しばらく前から故障していました.AFでピントを合わせようとする動きが、モーター音ばかり響いてまったく空回りしている感じで、使い物になりません。修理に出しても、相当の費用がかかりそうで、マクロ撮影は、ペンタックス機に任せることにしようと、言い聞かせてきました。でも、昔の幸せなりし頃の記憶が、時々蘇るのです。
たとえばこんな記事を書いたのは、2013年の八月でした。一部引用します。

マクロレンズは楽しいな


 ところがお立ち会い。ここにとりいだしましたるこのレンズは、ここにあるあそこにあるという、ありきたりのレンズではござらぬ。ほかのレンズとどこが違うかと申すに、①安い(マクロレンズとしては)、②軽い。③写りがよい。
OLYMPUS ZUIKO DIGITAL35mm1:3.5MACROです。(この写真は、1.4倍テレコンバータをつけているので、少し長く見えますが、レンズ本体は、すごくコンパクトです)
macro.jpg
(中略)
最近滅多に持ち出すことのなかったE420に、軽いマクロレンズを装着してみてはどうかという誘惑が頭をもたげ、PENTAX機+トキナー90mmMACROというお気に入りのコンビと競合するシステムに手を染めてしまったのです。
いつもながらに自己嫌悪とともに使い始めたこのシステムでしたが、、、、とてもいいです。
バッグに、もう一台K5Ⅱ+望遠ズームを入れて出かけても、軽装の範囲内です。
肝心の写りは?マクロレンズとしても、標準レンズとしても、申し分ありません。解像度といい醸し出す表情といい、所有レンズのなかでトップクラスと思えます。ここ23日の散歩に持って出ましたので、画像を少し紹介します。
ここまでの、知ったかぶりのウンチクは読み飛ばして、マクロの世界を楽しんでください。
実がはじけたゴーヤです。
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赤ピーマン。鮮やかな赤と緑のコントラスト。
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ウチワヤンマも、こんな写り方をする。
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朝の光線のもとで輝くクヌギの若い実。神秘的なムードが漂いません?
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ネコジャラシのある風景。
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ネコジャラシの穂に止まるセセリチョウ。
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こんな記事に郷愁をかきたてられ、ヤフオクやら中古ショップやらをネット検索していましたら、たまたま八千円余りで販売されていました。金欠生活には、痛い出費ですが、誘惑に勝てず、ポチってしまいました。
昨日は,e620に装着して散歩しましたが、今日は、重いE-3に付けてみました。
午前中涼しいうちに、畑の草取りの続きにチャレンジ。
草むらからカボチャが採れました。

甘いトウモロコシも採れました。

ピーマン、トマトもどっさり。

パセリの葉を食い尽くしたキアゲハの幼虫は、さなぎになっています、、。

ところで、このカメラolympusE-3に、未処理の画像が残っていました。
日付を見ると、七月一日に撮影しています、時間の経つのは早いです。
蓮田を1.4テレコン+75-300mmのズームレンズで写しています。




ケリがいました。











アオサギです。



シロツメクサにヤマトシジミ。

白いキキョウ。

下はE620+18-180mmです。(トリミング)







今日はこまで。

「子どもを守る歌(最終章)」から始まった、の巻 [折々散歩]

退職同業者の今年度の総会が終わり、これに合わせて開催されていた作品展も終了しました。
去年と一昨年の総会については、↓この記事に書きました。

「一本の鉛筆」から始まった、の巻

桑畑の歌から始まった、の巻

今年の総会も、H先輩のアコーディオン伴奏で「子どもを守る歌 (最終章)」の合唱から始まりました。H先輩の紹介は、上の記事にこう書いています。
 伴奏してくださるH先輩は、実は専門は理科(生物)なのですが、美術も絵画も堪能で知られています。お噂で聞き及んだところでは、若かりし頃は、平均台の上で横転も軽々こなされたとか。天は二物も三物も与えられるものですな。

今年の作品展にも二点の絵画作品を出展されていますし、毎年欠かさず、数点ずつの作品を発表してくださっています。
ところで、「子どもを守る歌」(最終章)の歌詞は、こうです。
【作詞】上野 博子
【作曲】荒木  栄

国の隅々から 湧き上がる声は
子供を守る父母の 教師の叫び
初めて巻いたはちまきの 鮮やかな白さ
初めて組んだスクラムの力強さ

私は起ち上がった
みんなは起ち上がった
この闘いが平和を守る
「勤評反対!」
「戦争反対!」
子供達を 戦争へおくるな!  
曲の紹介で、H先輩もおっしゃっていたとおり、この作品がつくられた一九五〇年代後半の社会情勢を色濃く反映した「勤評反対!」という文言以外は、まったく現下の情勢をそのまま表現しているようではないかと、参加者一同、深く感じたところです。

ただ、念のために付け加えると、私個人としては、この最終章は、生硬なアジテーションの趣が強く、全体から切り離してこの箇所だけを取り出すと、いささか感情移入しにくいきらいがあると感じます。

やはり、この曲には、この優しくやわらかな歌い出しが、不離不可分と思えます。
子供達よ 健やかに育ちゆく 子供達よ
「先生!」と呼びかけて 今日も集まる
54人のつぶらな瞳 私の愛する 子供達よ
どう教えたらよいのだろう どう知らせたらよいのだろう
私の上に みんなの上に 覆い掛かる暗い影を
この影をこの暗い影を

一クラス54人という学級規模に、時代を感じます。108の瞳というわけです。それはさておき、子どもたちと教師とで織りなすささやかな平穏が、得体の知れない脅威によって脅かされている。その不安といたたまれなさを皮膚感覚として共感するところから、この曲は私の心に刻まれています。
過去記事で、この「子どもを守る歌」を話題にした最初は、2013年11月のこの記事だったと思います。一部引用します。

だまされも だましもせぬと 誓うた日 

 この詩(「戦死せる教え児よ」竹本源治)と重なって、しきりに頭をよぎる、歌の一節があります。

「子供を守るうた」

(【作詞】上野博子【作曲】荒木栄)

ねえ、みんな 

この中に一人でも 

わけも分からず 

怒鳴られたり 笑われたり


人を蹴落として 自分だけがいい子になろうとしたら 

どんなに どんなに 悲しいことだろう

御(み)国(くに)の為に 死ねと教えた昔 

命を散らした教え子の顔が 

目に浮かぶ 目に浮かぶ 

良心の呵責が弱さを支え 

平和を守る心が 私を鍛えた

明るい太陽の その下で 

すくすくと伸びる子供達よ 

笑い顔 おこり顔 おどけた顔で 

野の花のように 

美しく育てよ育て 

平和な未来を 築くために

 「勤評(キンピョウ)は戦争への一里塚」という合い言葉のもと、教師の「勤評闘争=勤務評定反対闘争」が、戦後間もない1950年代にたたかわれました。

日本が再軍備に向かう「逆コース」と呼ばれる一連の動きの中で、憲法と教育基本法(1947年版)の理想を諸改革が、次々と進められました。

その一環として、「勤務評定」により教師を序列化し、待遇に差を付け、お互いを競争に駆り立て、ひいては「お上」「御国」に盾つかない忠良な教師をつくり、子供の「人格」形成よりも 、「お上」「御国」に役立つ「人材」育成に専念させようとする動きがありました。(安倍さんと一緒やね。)

これにたいする「勤評反対」のたたかいは、「再軍備反対、戦争反対」のたたかいと一体のものでした。「子どもを守る歌」はこのたたかいを題材にし、それを励ますものでした。

この歌を、今の世に再び蘇らせなければならないのは悲しいことですが、子どもたちが、「野の花のように美しく」育つためには、知る権利と言論表現の自由、平和と真実の教育の自由が死活的に必須だと、改めて思うのです。


さらに、去年の8月の記事御国のために死ねと教えた教科書、の巻 では、こんなことを書きました。 
 先日の日本よい国 きよい国 に思う、の巻の記事のつづきです。雑誌「人権21」掲載の吉永隆光先生の「戦時中の国民学校教科書の実相」という文章から、「芸能科音楽」の話題をたどります。
(中略)
 これらの歌は、なにがなんでも「国のために死する」ことを最高の美であることを知らしめ、「無言のがいせん」では「おぢさんあなたが手本です」と死をすすめるような内容にまでになっている。「特別攻撃隊」は、緒戦のハワイ真珠湾を奇襲攻撃した特殊潜航艇で戦死した乗組員が、 後に九軍神として英雄視された事を讃美したもので、歌うことによりその忠勇に感激させ忠君愛国の精神を養わせるものであった。
このように教材の多くは神国日本を礼讃し、大東亜戦争を聖戦とし児童を皇国民として錬成する役割を受けもったのが音楽科であったのである。
子どもたちにとって、最も信頼すべき学校・教師が、その権威の力を背景に、子どもたちを勇んで戦場におもむかしめる魔法の刷り込み。これこそ『洗脳』というべきものでしょう。これに疑問を覚えたり、異を唱えたものには「非国民」として排斥・迫害され、その声も消し去られてしまったのですから、『洗脳』の効果は絶大といわねばなりません。



上野博子作詞、荒木栄作曲「子供を守る歌」の一節が、脳裏をめぐります。

「御国の為に 死ねと教えた昔
命を散らした教え子の顔が
目に浮かぶ 目に浮かぶ」

過去にもこれらの記事で触れました。
◇さらにもう一つの11月3日、の巻
◇だまされも だましもせぬと 誓うた日 
◇八日目の蝉もをるらん原爆忌 

この曲の歌詞とメロディが、うたごえサークルおけらのhpに掲載されていますので、この際紹介させて戴きます。
今、このような歴史を美化し、その再現をはかろうとする勢力が勢いを増しています。くどいようですが、イナダ防衛相の過去の発言を、majyo様の記事から引用して再掲します。
ここまで来たか防衛大臣
 新聞やテレビでは伝えていないのだろう
彼女の発言を列挙するけれど 知らない方は驚く
極右のタカ派です

命を捨てて国を守れ
国民の一人ひとり、みなさん方一人ひとりが、自分の国は自分で守る。そして自分の国を守るためには、血を流す覚悟をしなければならないのです

靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでないといけないんです

祖国のために命を捧げても、尊敬も感謝もされない国にモラルもないし、安全保障もあるわけがない。そんな国をこれから誰が命を懸けて守るんです

「教育体験のような形で、若者全員に一度は自衛隊に触れてもらう制度はどうですか」「草食系」といわれる今の男子たちも背筋がビシッとするかもしれませんね」

どこの世界に自国を自分で守らないと宣言する国があるでしょうか

もちろん核武装論者です

 



報道によると、さすがに、次の内閣改造では、イナダさんを外すらしいですね。でも、大もとのアベさんが反省もなく頂点にある限り、国民の不安と不信は和らぐことはなく、ひきつづく支持率低下はとどめようがないでしょうが。

なお、この記事でご紹介した「戦時中の国民学校教科書の実相」(吉永隆光氏)の論文の抜き刷りも、作品展の「論文」コーナーに展示していただきましたことを付記しておきます。




さて、本題の「総会」の記事のもどります。
午前中は、活動の経過や新年度の計画、予算・決算案が提案され、承認されました。

「人生を語ることは、憲法を語ること。自分自身満州に生まれ、引き揚げ後は、憲法と共に生きてきた」(副会長開会あいさつ)「歴史に残る時代。こんなひどい政権はかつてない、国民の声を聞かないだけでなく、ウソを言う。憲法があぶない。」(会長あいさつ)という情勢のもと、日本国憲法をまもれ、政治に生かせ、戦争法の廃止と立憲主義の回復、市民と野党の共闘を拡大・発展させる、などのとりくみの大切さが強調されました。
午後は、岡山教育文化センターの田中博さんを講師に、「教育勅語と道徳の教科化」というテーマで講演を聞き、その後自由な意見交流が交わされました。
印象にのこったご意見を列記します。

「森友学園問題を契機に教育勅語がクローズアップされ、学校でこれを教えてもよいという閣議決定がなされたことを逆手にとって、子ども・国民を戦争に駆り立てるために教育勅語がいかに利用されたかをきちんと教えることが大切だ。ある意味、これはチャンスだ、とある機会に発言したところ、年配の参加者から、教育勅語はそんなに甘いものではないと、強い反論があった。」(HT氏)

「教育勅語の刷り込みは、背後に暴力を伴う強制がつきものだった。」(ST氏)

「戦時中、自分が通っていた小学校では、暗唱教育を受けていなかったが、空襲を受けて転校した先では、熱心に暗唱指導がなされており、自分以外は全員暗唱でき、肩身の狭い思いをした。」(ST氏)

「教育勅語は、日本語としても美文と言え、言語のちからとして、その浸透力は侮れないのではないか。」(HM氏)

「教育勅語は、古来の大和ことばによるのではなく、もったいぶった響きのある漢文訓読の文体。アベの大嫌いな中国で生まれた儒教を元に、明治政府が考案したものだ。」(CS氏)

「『一旦緩急あれば』以下の部分が本質だと、切って捨てることはできない。日本人に色濃く存在する、義理・人情的な情緒を刺激する面があるのではないか?」(HM氏)

「義理人情は自分も否定しない。」(HI氏ほか)

「教育勅語を中心とする戦前の道徳教育は批判してきたが、私たち自身の道徳教育はどうあるべきかの論議は足りなかったのではないだろうか?」(EK氏)

「我々の道徳は、憲法の理念に基づく人権・民主主義を基本にした、近代的市民道徳だ」(CW氏ほか)

「生徒に与謝野鉄幹の『妻をめとらば(人を恋ふる歌)』を教える時、『友を選ばば書を読みて 六分の侠気 四分の熱 』に着目し、『侠気』とは、世のため人のためにはたらく精神だと語る。」(SI氏)

などなど、多彩な意見が相次ぎ、予定の時間があっという間に経過するほどでした。



ところで、満州で終戦を迎え、無事引き揚げることができたことを僥倖だったと話されるAN女史は、教育勅語の暗唱は、国民学校の5年生から始められたと教えてくださいました。私にとって、それは意外で、驚きでした。これまで私は、教育勅語は、森友学園の幼稚園児さながらに、年端もいかない幼児に、無理矢理頭ごなしに暗唱させたのだと思い込んでいました。しかし、戦前の軍国教育は、もう少し手強い存在だったのではないかと思い知らされたことでした。つまり、「洗脳」教育が最も有効に機能する発達段階を待って、確実に忠君愛国の少国民を育てるシステムが周到に用意されていたのだと、改めて戦慄を覚えたのでした。

今朝は雨が上がっていましたので、短時間散歩しました。

芙蓉の花が咲いています。















稲苗がますます元気です。



朝食を済ませて、ちょっとパソコン作業をしてから、思い立って畑へ行ってみました。

雑草で、大変なことになっていました。



草取りに挑戦しましたが、暑さに負けて、諦めました、

ビフォア&アフターの写真をお見せしたいところですが、アフターはまだ途中やめです。

草の間から、トウモロコシとスイカを収穫して帰りました。





実は娘の嫁ぎ先から、立派なスイカを二つもいただき、一つはほとんど食べきりました。大きくて甘いスイカです。

残りの一つを並べて大きさ比べをしてみます。



我が家のスイカも、小玉スイカというわけではなく.ちゃんと大玉の苗を植えました。やはり雑草の陰では大きくなれなかったようです。

切ってみると、真っ赤に熟れてはいました。





庭のトマトはこんな具合。雨に打たれて実がはじけてしまいます。




収穫の喜びは十分味わっていますが、素人農園も、なかなかむずかしいものです。

今日はここまで。


五月雨と飛沫くは蝉のいばり哉 [折々散歩]

退職同業者の作品展を、続けてご紹介しています。
今日は、そのお仲間の年次総会が開かれ、作品展も夕方には終了します。
昨日の記事では、私が出品した写真作品を掲載させていただきました。
今日は、プリントまで試みながら、最終セレクトでボツにしたものを、ちょっと不憫に思えて、未練の余りに、ここに掲載させていただきます。自己満足の極みですが、、。

花と虫





田園の四季
















夕映え














オソマツでした。

昨日は、雨が降ったり、強い日ざしが照りつけたりで、蒸し暑い一日でした。
じっとしていても大汗が吹きますが、夕方、ちょっとだけ散歩しました。
田圃の稲苗が、すくすく伸びています。

持ち歩いた機材が、OLYMPUSE620+zuiko18-180mmという中途半端なスペックなので、見つけたものが小さくしか写せません。
下の写真は、すべて大幅トリミングしています。
オオキンケイギクにベニシジミ。

初ゼミ、見ました。
ニイニイゼミです。

五月雨と飛沫くは蝉のいりかな(さみだれとしぶくはせみのいばりかな)
【解釈】
あたかも梅雨の雨のように、宙に飛沫をあげるものをよく見ると、蝉の尿であったよ!

我が家に帰り着く直前、用水路に、青い鳥を見かけました。
その時の
小4の孫に下の写真を見せて、これは何?と問うてみますと、「カワセミ」と答えました。









付け加えて、「川の蝉」と申します。
お後がよろしいようで。

枯れ木も山の賑わい、の巻 [趣味]

現在開催中の、退職同業者の作品展に、枯れ木も山の賑わいで、私も写真を出品しました。しかも、怖いもの知らずで、どっさり出品してしまいました。所詮、月日は百代の過客。旅の恥は掻き捨てともいいます。
私は写真を撮るのは好きです。が、その善し悪しがわかりません。それは自分小作品にたいしてもそうですし、ほかの方のものに対しても同様です。つまり、批評眼、鑑賞眼が育っていないので、少しも上達しません(涙)。
ただ、率直に、好きな作品、いいなあと思う作品はあります。そのアマチュアリズムを通すしかなかろうと居直っています。
その意味で言うと、やはり自分の作品は可愛いので、厳しいチェックが出来なくて、あれもこれもご披露したくなり、後で恥ずかしい思いに囚われるのが常です。そもそも、当ブログの存在自体が、それですから(汗)
予告通り、きょうは、私の「出品作品」をご紹介させていただきます。どれも、当ブログで、過去に掲載したものばかりで、新鮮味はありませんが、、、。

花と虫














田園の四季












水郷の四季








「四季」と名付けたものですから、どの写真がどの季節?五枚あるけれど?掲示の順序はどうすれば良い?などと、私の外出中、掲示方法をめぐって物議を醸すひとこまもあったそうです。毎度の大雑把さで、お騒がせしました(汗)


「惨劇」










これだけの作品でも、ストック画像の中からセレクトし、プリントを注文し(我が家のプリンターは、性能上、写真作品に適しません)、更にセレクトし、額に入れて掲示の準備をするのは、大仕事でした。
辛気くさいこの作業が、しかし、まったく負担に思えないのは、「趣味」(道楽?)というものの不思議ですね。道楽の「楽」は、「ラク」の意味ではなく、「たのしむ」という意味なのでしょうね。くさかんむりをつければ、「薬」になります。まことに元気の薬、長生きの薬でありましょう。
今日はこれにて。

笹の葉の雫もゆかしき逢瀬かな [今日の暦]

七夕の今日は、朝から雨。

畑仕事ができればと、早朝から郷里へ向かいました。

雨脚は、激しくなったり緩んだりですが、畑土は水を含んで耕作には向きません。

伸び放題の草を刈り払う仕事も、コンディションが悪い模様。

することもないので、思うままに生い茂った庭木の剪定などをして、お茶を濁しました。

ツユクサが、雨に洗われて潤いを増しています。

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これはショウガの花。
よく見るとまん中あたりに写っているのは、蟻ですか?
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擬宝珠(ギボウシ)の花。
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ヒオウギズイセン(姫檜扇水仙) でしょうか?
クロコスミア モントブレチア、トリトニアヒメ等の別名もあるとか。
またまたソリッドモノカラーで遊びます。
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昼過ぎには雨が上がり、日射しもあらわれるとともに、気温もうなぎ登りに上昇してきました。
作業できる余地はないかと畑を見回ってみると、なんと、すくすくと育って花をつけ実もなり始めているサンド豆(インゲン豆)のはが、何者かにすっかりむしり食いされています。土の上の残った足跡を見るとどうやら、鹿の仕業らしい。
例年、鹿やイノシシによる農作物被害があるので、畑の周りには防護網を張ってはいるのですがそれを押し破るか飛び越えて侵入したらしい。熱中症警報が法相で流されるなか、汗をかきながら少々網の補強をしてはみたのですが、気休めに過ぎません。
ご近所さんいお裾分けにいただいたという初物の桃。
甘くみずみずしいお味でした。
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いつものように野菜をどっさりもらい、今日は七夕ですので、竹笹の枝を少しばかりもらって帰りました。
どうやら、せっかくの七夕も、夕方から夜にかけて、雨雲に覆われている模様です。
さて、既報の通り、退職同業者の作品展が日曜日まで開催されています。

一昨日は、受付案内係を半日つとめながら、じっくりゆっくり鑑賞させていただきました。

出品者には、顔見知りの方も、そうでない方もおられますが、どの作品も、人生を楽しみ味わっておられる姿がにじみ出ていて、あやかりたいあやかりたいという思いが湧きました。

詳細なご紹介もできませんし、個人情報を配慮して、お名前の紹介も控えつつ、全体の雰囲気だけをお伝えします。

絵画や写真や書。

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工作、工芸。
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手芸、服飾など、多彩な作品が独自の世界をつくりだしています。
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私も、写真作品を出品しました。
そのご紹介は、、、、はずかしながら次回に。
今日はこれまで。

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踏んだり蹴ったり、の巻 [雑話]

昨日のことわざ・慣用句の続きです。

「踏んだり蹴ったり」

「一難去ってまた一難」

昨日の昼間の段階では、島根県を中心とする中国地方の災害を案じておりましたら、なんと九州地方の豪雨災害が容易ならざる事態になっています。

熊本大地震の傷跡も癒えないうちに、相次ぐ災厄。たまったものではありません。少しでも被害が軽からんことを祈ります。

当地の方は、並みのレベルの土砂降りはあったものの、災害につながるような規模のものではなく、酷暑がしばし緩んでありがたかったくらい、、、、と言うと、罰が当たります。

打って変わって、今日は、またまた真夏日の暑さ。日中は、とても屋外に出る気がしません。

昨日は、トウモロコシの初収穫。

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痩せてはいますが、粒が揃いました。塩を降って蒸し器で蒸して、孫たちに一切れずつ与えると、二歳児が「甘くおいしい」と、回らぬ舌で一人前のことを言います。

トマト、きゅうりも、もぎたてがごちそうです。(写真撮影忘れました)

この季節、友人、知人からも、ナスやきゅうりといった新鮮野菜を沢山いただきます。文字通り、自然の恵みです。慈愛深い自然が、うって変わって牙をむく。恐ろしいことです。人間のか弱さが浮き彫りにされます。英知を尽くして、自然と折り合うすべを探らなければ、と痛感します。

核開発や戦争準備や、人間同士愚かな争いに労力を費やしている場合ではありません。

一歳児の孫が、最近「初海!」を体験したそうです。

こんなささやかな幸せが、乱暴に踏みにじられるようなことがあっては困ります。

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庭のキアゲハの幼虫はますます成長し、パセリの葉は、ますます丸裸になっていきます。

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今日はここまで。




 

フォト蔵にアップしている私の写真はこちらです。

写真販売サイトにも画像を掲載しています。
写真素材 PIXTA