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「宵待草」異聞、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

今日の話題は、先日の愛酒の日?の巻のつづきです。最後に、こう書きました。

ところで、「宵待草」の歌は、1910年(明治43年)、夢二27歳の夏、避暑旅行中に遭遇した長谷川カタとの淡い恋をモチーフにしているそうです。恋多き夢二の、青春のひとこまです。
それはそうに違いないのでしょうが、夢二のもう一つの側面に目を向けることによって、宵待草に別の解釈を与えることも可能なようです。
と、思わせぶりな文句を書いて、以下次号といたします。 

安田徳太郎氏の著作「『思い出す人びと』には、「夢二さんは日本で最初の社会主義画家としてメーデーを描き、〈まてどくらせどこぬひとを 宵待草のやるせなさ こよいは月もでぬさうな〉という詩に托して、社会主義の到来を待った社会主義詩人であった〈竹久夢二〉」との記述があります。
安田徳太郎とは、こんな人です。

 

安田徳太郎
やすだとくたろう
(1898―1983)

医師、社会運動家、著述家。京都生まれ。三高を経て京都帝国大学医学部卒業。京大在学中から従兄(いとこ)の山本宣治(せんじ)らと産児制限運動を行い、医療を通して社会運動に参加していった。1930年(昭和5)上京、31年東京・青山に内科病院を開業し、多くの活動家の診療に努めた。32年には共産党中央委員岩田義道(よしみち)の遺体を引き取り、病理解剖に立ち会い、また33年の小林多喜二(たきじ)の拷問死に際しては遺体解剖のため奔走したが警察に妨害されて果たせなかった。同年、共産党シンパの容疑で検挙されたが釈放。その後、転向者を含む獄中被告の救援活動に尽力。42年ゾルゲ事件に連座し、44年懲役2年執行猶予5年の判決を受けた。敗戦後、共産党公認で京都から衆院選に出馬したが落選。その後離党して文筆活動に入った。著書に、『世紀の狂人』、ベストセラーとなった『人間の歴史』全六巻、日本人の起源を推理して話題をまいた『万葉集の謎(なぞ)』、自伝的回想『思い出す人びと』など。おもな訳書に、戦前から戦後にかけて改稿を加えたダンネマンの『大自然科学史』全11巻別巻一がある。『山本宣治全集』『同選集』の編集にもあたった。[小田部雄次]
『『思い出す人びと』(1976・青土社)』
出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

ちなみに、その安田氏の義弟、高倉輝(タカクラ・テル)氏は、作家で戦後、衆議院議員、参議院議員となるがマッカーサー司令で公職追放された波乱の経歴の持ち主。そう言えば、先日市民劇場で鑑賞した演劇「春、忍び難きを」(俳優座)で、初めて選挙権を得た、文字の書けない農村女性サヨが、「タカクラテル」の文字を一所懸命覚えて投票する場面がありました。
朝日新聞degital2009年5月19日付け記事に夢二と社会主義との接点が、こう触れられています。

 夢二は反戦画家だった
東京・本郷から言問通りをちょっと下っていくと、赤いれんが造りの竹久夢二(たけひさ・ゆめじ)美術館がある。(中略) 
夢二といえば、大正ロマン、愁いを含む美人画、「宵待草」の歌で知られる。そう、夢二作詞の、あの哀切な歌である。

 まてどくらせどこぬひとを

 宵待草のやるせなさ

 こよひは月もでぬさうな。

 美術館の学芸員谷口朋子(たにぐち・ともこ)(40)は13年前にここに来たとき、「夢二ってあんまり好きじゃない。甘く情緒的」と思った。

 夢二が生きたのは明治から大正、昭和にかけての49年間である。日清・日露戦争、大逆(たいぎゃく)事件、大正デモクラシー、関東大震災、そして満州事変まで日本は激しく動く世情の中にいた。

    ◇

 そんな時代を夢二は、たまきさん、彦乃(ひこの)さん、お葉(よう)さん、何人もの女性を愛し、美人画を描いて過ごしたんですね。

 「ええ、純粋だったからか、あるいは自分をさらけだす人だったのか。でも、夢二は反戦画家でもあったんですよ」

 美術館所蔵の明治の新聞「直言」の合本をめくる。1905(明治38)年6月の紙面のコマ絵、いまでいう政治漫画は、白衣の骸骨(がいこつ)と泣いている丸髷(まるまげ)の女が寄り添う姿である。「日露戦争の勝利の悲哀を描いている。夢二が描いた最初の政治風刺画だろうといわれています」

 当時、ナショナリズムを高揚させた日露戦争に対し、反戦論、非戦論が台頭していた。内村鑑三(うちむら・かんぞう)はキリスト者として、幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)、堺利彦(さかい・としひこ)ら社会主義者は「平民社」をつくって「週刊平民新聞」を発刊、世に訴えた。廃刊の憂き目にあうと、「直言」「光」「日刊平民新聞」などが後を継ぐ。

 「夢二はこれらにコマ絵を寄稿しているんです。けっこう、どぎつい絵ですよ」

 この絵、先頭は凱旋(がいせん)の楽隊、でも続くのは負傷兵、悲しむ女、後尾は得意顔の村長ですよ。ほう、これも戦争の悲哀ですね。こちらは資本家と労働者、これは成り金と女の図柄です。これは墓前で悲しむ女。はあ、夢二はこんな絵を描いたんですか。反戦と美人画。夢二はどんな人だったんでしょう。

 夢二は1884(明治17)年、岡山で生まれた。母と姉にだけ打ち明けて家出して上京、早稲田実業学校に入る。平民社に出入りする荒畑寒村(あらはた・かんそん)、岡栄次郎(おかえい・じろう)とともに下宿して社会主義に傾斜する。

 彼らの薦めで寄稿したコマ絵は、女性や子どもへの同情に満ちていた。反戦と美人画、いずれも遠い母や姉への思慕からはぐくんだものかもしれない。

 1911(明治44)年1月24日、号外売りが街を走る。夢二宅に出入りする女子学生神近市子(かみちか・いちこ)は、その号外を夢二に届けた。そこには、幸徳秋水ら大逆事件の死刑囚処刑のニュースが書かれていた。

 夢二はフーンとうなり、秋水らとは旧知であることを明かし、「みんなでお通夜をしようよ。線香とろうそくを買ってきておくれ」と神近に告げた。神近は、5年後、アナーキスト大杉栄(おおすぎ・さかえ)を愛情のもつれから刺す日蔭茶屋事件を起こし、戦後は社会党衆院議員になる。

 大逆事件は、天皇の暗殺を企てたかどで12人が死刑、12人が無期懲役になり、天下を震撼(しんかん)させた。だが、ほんとにそんな計画があったのか、社会主義者らを一網打尽にする権力の陰謀ではなかったのか。


「宵待草」の歌が発表された明治45年(1912)は、大逆事件被告処刑の翌年でした。「〈まてどくらせどこぬひとを 宵待草のやるせなさ こよいは月もでぬさうな〉という詩に托して社会主義の到来を待った社会主義詩人であった」(安田徳太郎)という指摘も、あながち頓狂とはいいきれないのではないでしょうか?
『宵待草』の詩のモデルとされる淡い恋の相手、長谷川カタは、夢二との交際をはばかった両親の計らいで明治45年(1912)年4月に音楽教師・須川政太郎と結婚し、東京、鹿児島で暮らし1男3女に恵まれ、今は、須川の出身地である和歌山県新宮市の墓地に眠っているそうです。奇しくも、その墓の隣には、大逆事件〈幸徳事件)で処刑された石誠之助の墓があるそうです。
大石誠之助のことを、これまでこんなに度々書いてます。我ながら驚きでした。

「大逆事件シリーズ」補遺、管野スガの巻


これから気楽に寝られます、か?の巻


コートクシュースイナワデンジロー、の巻


悠々自適の道草迷路、の巻
記事の一部をちょっとだけ再掲しておきます。


 これから気楽に寝られます、か?の巻
ところで、大石誠之助の友人だった詩人がもうひとりいました。与謝野鉄幹=寛です。かれは、大石をこう詩に歌っています。
誠之助の死   与謝野寛

大石誠之助は死にました、
いい気味な、
機械に挟まれて死にました。
人の名前に誠之助は沢山ある、
然し、然し
わたしの友達の誠之助は唯一人、
わたしはもうその誠之助に逢はれない。
なんの、構ふもんか、機械に挟まれて死ぬやうな、
馬鹿な、大馬鹿な、わたしの一人の友達の誠之助。

それでも誠之助は死にました、
おお、死にました。

日本人で無かつた誠之助、
立派な気ちがひの誠之助、
有ることか、無いことか、
神様を最初に無視した誠之助、
大逆無道の誠之助。

ほんにまあ、皆さん、いい気味な、
その誠之助は死にました。

誠之助と誠之助の一味が死んだので、

忠良な日本人はこれから気楽に寝られます。
おめでたう。
これまた「反語的な表現」で、愛する親友が無惨に奪われてしまった理不尽への慟哭が、胸に迫ります。
「誠之助と誠之助の一味が死んだので、/忠良な日本人はこれから気楽に寝られます。/おめでたう。」
何という皮肉でしょう。このあと、絶対主義天皇制の強権支配と、とめどのない軍国化が急速に強まっていき、「忠良な日本人」にとって、気楽に眠れるどころか、堪え難い「時代閉塞の状況」(石川啄木)が、しのびよっていったのですから。

午後はさすがに30度を超えて、暑さを感じましたが、午前中は25℃前後と、いつものエアコン設定温度よりはるかに低い涼しさでした。午前中職場で短時間用事を済ませ〈無給です!)、 午後短時間散歩に出ました。
栗イガも大きく育っています。

青空が、秋の気配です。



今日久しぶりに持ち出したカメラは、PENTAXK10Dですが、残念なことに青空などを写すと、撮像素子の汚れがもろに映り込みます。



レタッチソフトで何とかごまかせなくもないし、被写体によってはまったく目立たないで済むのですが、やはり不快感がつきまとうので、「ぺったん棒」でクリーニングして、もう一度撮影実験してみました。






レンズも代えて出かけたのですが、気持ちの良い撮影が出来ました。







雲の上に月が見えています。

トリミングしてみます。

キバナコスモスです。

道端で毎年散歩者を迎えてくれるコスモスは、この夏の熱射のせいか、葉が赤茶色に焼けて萎れた姿が、痛々しい限りです。もう少し涼しくなるか、雨でも降ると蘇ってくれるでしょうか?
今日はここまで。


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続夏の終わりの蝶と蝉、の巻 [折々散歩]

昨日の記事で「特定健診」を受診すると書きましたら、郷里の父が「特定健診とは何か」と尋ねてきました。そう言えば、案内状をもらったから受診手続きをしただけで、詳しいことはよくわかりません。
確かめてみると、厚生労働省のhpにはこうありました。

 特定健診とは
日本人の死亡原因の約6割を占める生活習慣病の予防のために、40歳から74歳までの方を対象に、メタボリックシンドロームに着目した健診を行います。
特定保健指導とは
特定健診の結果から、生活習慣病の発症リスクが高く、生活習慣の改善による生活習慣病の予防効果が多く期待できる方に対して、専門スタッフ(保健師、管理栄養士など)が生活習慣を見直すサポートをします。
まだ受診されていない方はご自身が加入している医療保険者(自営業の方は市区町村へ、会社等へお勤めの方(被扶養者を含む)は、お勤め先)までお問い合わせ下さい。
※お勤めの方で、事業者健診(お勤め先で実施する健診)を受診された方又は受診予定の方は、新たに特定健診を受診する必要はありませ

そうか、メタボリックシンドロームに着目した健診なのですね。
岡山市のHPにはこんな案内がありました。
岡山市国保特定健診について
PDF平成29年度「特定健診」案内パンフレット(PDF:1.4MB)

職場の健診を受けていた頃には必要なかったのですが、このような公的な健診機会は利用しなくっちゃ、という単純な動機からですが、やはり受診しておいて良かったと思います。オプション(割増料金)で、胃がん、大腸癌、前立腺癌の検査もしてもらいました。わずか1時間余りで検査は終わり、せっせと下剤と水と牛乳を飲んでいるところです。バリウムが何日もお腹に貯まって辛い思いをするのはこりごりですから。

北朝鮮のミサイル騒動と、Jアラートの空騒ぎには、言いたいことが沢山ありますが、一言ではまとまりません。
その裏で、こんなニュースもありました。

 大分県国東市の大分空港で29日に緊急着陸した米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)所属の輸送機オスプレイが、着陸後に白煙を上げていたことが、政府関係者への取材でわかった。
 大分県は30日、緊急着陸の原因究明などを米軍側に求めるよう、九州防衛局に要請した。
 政府関係者らによると、同機は29日、米軍岩国基地を離陸して沖縄方面に向かう途中、大分空港に着陸した。その後、右エンジン付近から白煙が上がり、さらに炎も出たという。在日米海兵隊は防衛省に対し、「警告灯がついたので、通常の手順に従って予防着陸をした」と説明している。
  • 017年 08月30日 12時55分
  • 提供元:読売新聞

これも住民に対するアラートと避難指示が必要では?とおっしゃった方があります。まったくです。大気圏上を通過した飛翔体より、煙を噴いて近づいてくる欠陥機の方がよっぽど危険じゃありません?

バリウム排泄のために、腸の蠕動運動を促したいので、ちょっくら散歩してきました。往時ほどではありませんが、やはり暑いです。
セセリチョウ。イチモンジセセリですか?








ヘクソカズラの花がお気に入りです。

シジミチョウ(ヤマトシジミ)もヘクソカズラが大好き。





この花は何でしたっけ?蝶がよく集まってきます。

ニラの花にベニシジミ。満身創痍です。



アゲハチョウ。ナミアゲハだと思うんですが。
柑橘の枝のまわりにいますから。



これもナミアゲハ。



ヘクソカズラの蜜もお好き?







飛翔体です。

こちらはキアゲハでしょうか?
キバナコスモスに戯れています。



またまたこの花。







地面に舞い降りると、ゆっくり写せますが、、、。

葉陰のクロアゲハ。

ヒメジャノメのペア。


アブラゼミとツクツクホウシの声が聞こえますが、目で確認できるのはアブラゼミ。



立ち止まり立ち止まりの、道草ばかりでは、腸の蠕動運動も期待できません。
それでも水と牛乳をがぶ飲みしたおかげで、少しはお通じがありましたが、まだまだ白い塊が、腸に滞っている模様です。厄介なことです。
今日はこれにて。

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夏の終わりの蝶と蝉、の巻 [折々散歩]

北朝鮮が日本列島上空を越えてミサイル発射実験を行ったとして、今朝はテレビがそれ一色でした。聞くところによると、NHK朝ドラ「ひよっこ」も、放送休止になったとか。異例の対応です。
「聞くところによると」と書いたのは、その時間、私は「特定健診」を受診するため、ご近所の医療機関へ徒歩で向かっていました。昨夜から絶飲食で過ごしてきましたから、朝の徒歩は少々体に応えます。少しずつ朝夕は秋めいてきたかと感じていた矢先、今朝は早朝から真夏の暑さです。
開院時刻より早く着いたので、少し周囲を散歩して時間調整をしたのち、待合室で受け付け開始を待ちます。ようやく汗が引いた頃、持参書類等を窓口に示して受付をお願いしたところ、ややあって、看護師さんが笑いながらおっしゃいます。
「予約は明日の30日になっていますが、、、」。あれま、オソマツ。
すごすごと、もと来た道を引き返し、シャワーを浴びて朝食を摂りました。
朝から何だか拍子抜けの出だしで、調子狂っちゃいます。
ここ2,3日、借りてる畑の草ぬきやら堆肥投入やらをちびりちびりすすめて、秋じゃがをほんの少し植え付けましたが、ハクサイは、まだ苗ポットに芽が出たばかりで移植に適するまでには育っていません。というわけで、有為な農作業も思いつきませんので、庭の草取りをしながら、しばし、農作業計画を思い巡らしました。庭のトマトはほとんど終わり欠けていますが、熟れかけの実に続いて、まだ青い実もつき、花も咲いていますので、撤去してしまうには惜しいので、庭の菜園の大部分はふさがった状態です。くわえて、庭中をカボチャの蔓が這い巡り、雑草とまじりあって、手のつけようがありません。隙間に蒔いたダイコンも、やっと芽を出したばかり。 
ほんのわずかのスペースを整地し、何か青物を植える準備でもしましょうか?それだけの作業でも、すっかり汗びっしょりで、今朝二度目のシャワーです。
小さなカボチャを3つほど収穫しました。
先日から毎日カボチャの煮付けをつくって、孫たちにも無理矢理食べさせていますが、2歳児が一番喜んで食べます。味付けは、めんつゆがメインで、あと気が向いた調味料を少々。砂糖は使いませんが、あまくておいしいです、 

世間を騒がせているミサイル問題には、今日は触れません。
我が家の玄関を訪問のミスジチョウ。



これは ?ナミアゲハ?

どの個体も、翅がすっかり傷ついています。



キアゲハ。

イチモンジセセリ。

アブラゼミ

今日はこれにて。

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今日もカニ? [折々散歩]

昨日の記事の大部分を占める写真画像が、フォト蔵のトラブル(メンテナンス)によって見えなくなっています。申し訳ありませんが、メンテナンス終了後、再度訪ねてみてください<(_ _)>

 

フォト蔵はメンテナンス中です

ただいまフォト蔵はメンテナンス中です。
ご迷惑をおかけいたしますが、今しばらくお待ちください。

詳しい情報につきましてはフォト蔵からのお知らせフォト蔵公式Twitterをご覧ください。



平家蟹のお噂、いかがでしたでしょうか?
バアバのスケッチを内緒(!)で掲載します。

水木しげる風のデッサンで、孫たちは「怖い!」と大受けでした。
そう言えば、水木しげるさんの妖怪キャラクターに、蟹坊主というのがいましたっけ。

下は、水木しげるロードのブロンズ像。

さかなと鬼太郎のまち 境港市観光ガイドにはこんな紹介がありました。

 

蟹坊主(かにぼうず)

蟹坊主(かにぼうず)
ブロンズ像
    甲斐の国(山梨県)の寺に坊主の姿をして隠れ棲んでいた、畳二畳敷きもある大蟹。寺に来る住職を次々と食べ恐れられていた。ある旅憎がその寺に泊まったとき、蟹坊主が「両足八足大足二足横行自在両眼大差、これなんだ?」と問答をしかけると、旅憎は「かんにん坊、かんにん坊」と答えた。すると僧の姿は消えた。寺の裏にある池の水を抜くと、大蟹の姿をした蟹坊主と多数の骸骨があらわれ、旅憎は蟹坊主を成敗した。ちなみに境港は蟹の水揚げ日本一だって知ってました?  

その蟹の大きさは、3mとも4mとも伝えられています。わずか2cmほどの平家蟹とは大違いですが、不気味さでは甲乙付けがたいところがありますね。
話変わって、夏休み最後の日曜だった昨日、小学生の孫が電話してきて、「海へ行く約束はどうなった?」。バアバとの間でそんな約束を交わしていたようです。
さっと行ってさっと帰る約束で、近くの海までつれていきました。
この記事プライベートビーチの昼下がり、残暑と言うには余りの暑さ、の巻の時には、貸し切り状態の海岸でしたが、今回は、若者グループや家族連れで賑わっていました。水上スキーやモーターボートの規制が、大規模海水浴場ほどではないため、マリンスポーツ愛好家の「穴場」となっているのかも知れません。そのぶん、小学生の水遊びには、いくらか肩身が狭く、安全安心にもやや難がある感じがします。
遊泳に適したビーチは、先客で満杯なので、そこを避けて、岩場の隙間の砂浜で水遊びをします。
魚眼レンズで写してみます。







兄は、小魚を追います。

次は、ズームレンズの画像です。
足先だけを濡らす水遊びを楽しむつもりが、海ですからどんどん深みに入りたくなります。








蟹がいます。

網で追いかけます。



小さいのをゲット。


もっと大きいの、、、、。








磯ガニだそうです。
今日はここまで。



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晩夏あれこれ、の巻 [折々散歩]

連日猛暑日が続きますが、それでも少しずつ日が短くなってきていることに気づきます。
ここ何日かの,田園散歩の眺めです。
晩夏

晩夏 posted by (C)kazg

























momotaro様が、ムーサシーノのシラサギと稲穂を紹介してくださっていましたが、こちらのシラサギも元気そうです。

ハクセキレイ。

ツクツクホウシ。

これは孫たちが拾ってきた蝉の死骸ですが、小さく華奢です。ヒグラシでしょうか?

昨日の日曜日は、小学生の孫と一緒に、田舎へ帰ってきました。バアバのパートがお休みだと聞いて、彼らは前の夜から我が家にお泊まりで、そのまま一緒に朝食後すぐにお出かけしました。それでも、着く頃にはかんかん照りになろうかと覚悟しておりましたが、少し曇り気味でいつもは度には気温が上がらなかったので、草刈りと耕耘を少しだけやったのですが、それでもすぐに汗だくで,作業効率が悪いことおびただしい限り。
途上、車窓から、小川に憩うシラサギの群れを見ました。運転中ですから,写真はもとより,詳しい観察も出来ませんが、孫が数えたところでは、十数羽いたようです。ほんの少し行くとまた,シラサギたち。同じくらいの集団で、悠々と小魚を漁っているようでした。
見たところ、ダイサギも,コサギの姿もあったようです。
退屈な車中、いろいろな話をしているうちに、バアバがふと「昨日の蟹,凄かったね」という話題を持ち出しました。何のことかと訝しがっておりますと、「ジイジには見せてなかったっけ?」と、孫たちと話が弾んでいる様子。
「あの蟹の名は?」とバアバが振ると,孫たちは思い出せない様子。
「へ」、「へー」とヒントを出しているので、「平家蟹?」と当て推量で言うと,そうだと言います。
スーパーの鮮魚コーナーでパートをしているバアバは、時々、売り物の魚介の中に紛れている珍奇なゲテモノを、面白がって持ち帰ってくることがあります。しらす干しのパックの中だかにまぎれていた2cmほどの小さな蟹だそうです。
車の中で、小4生が思い出しながらノートに描いてくれました。

縦縞は,ノートの罫です。
帰ってから、実物を見ると、こんな蟹でした。

平家蟹という名前は聞き知っていましたが、もっと大きな蟹を想像していました。2センチあるなしの,小さな蟹ですが、その甲羅には、,確かに憤怒の形相の人面が刻まれています。恨みを残して海中に沈んだ平家の武者の生まれ変わりだそうな。
ラフカディオハーン(小泉八雲)の「耳無芳一の話」を、青空文庫から引用します。

 青空文庫
耳無芳一の話
THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI
小泉八雲 Lafcadio Hearn
戸川明三訳

 七百年以上も昔の事、下ノ関海峡の壇ノ浦で、平家すなわち平族と、源氏すなわち源族との間の、永い争いの最後の戦闘が戦われた。この壇ノ浦で平家は、その一族の婦人子供ならびにその幼帝――今日安徳天皇として記憶されている――と共に、まったく滅亡した。そうしてその海と浜辺とは七百年間その怨霊に祟られていた……他の個処で私はそこに居る平家蟹という不思議な蟹の事を読者諸君に語った事があるが、それはその背中が人間の顔になっており、平家の武者の魂であると云われているのである。しかしその海岸一帯には、たくさん不思議な事が見聞きされる。闇夜には幾千となき幽霊火が、水うち際にふわふわさすらうか、もしくは波の上にちらちら飛ぶ――すなわち漁夫の呼んで鬼火すなわち魔の火と称する青白い光りである。そして風の立つ時には大きな叫び声が、戦の叫喚のように、海から聞えて来る。
 平家の人達は以前は今よりも遥かに焦慮いていた。夜、漕ぎ行く船のほとりに立ち顕れ、それを沈めようとし、また水泳する人をたえず待ち受けていては、それを引きずり込もうとするのである。これ等の死者を慰めるために建立されたのが、すなわち赤間ヶ関の仏教の御寺なる阿彌陀寺であったが、その墓地もまた、それに接して海岸に設けられた。そしてその墓地の内には入水された皇帝と、その歴歴の臣下との名を刻みつけた幾箇かの石碑が立てられ、かつそれ等の人々の霊のために、仏教の法会がそこで整然と行われていたのである。この寺が建立され、その墓が出来てから以後、平家の人達は以前よりも禍いをする事が少くなった。しかしそれでもなお引き続いておりおり、怪しい事をするのではあった――彼等が完き平和を得ていなかった事の証拠として。

古来,人聞が再生・化生したとの伝承を持つ「人面蟹」として「へいけがに」「おさだがに」「おにがに」「きめんがに」「きょっねがに」「しまむらがに」「たけぶんがに」等があるそうで、蛸島直氏(愛知学院大)の論攷「蟹に化した人間たち」に詳しい考証があります。またこの論文にも紹介されている「狂歌百物語」には、こんな挿絵が載っています。しかしこれは、実際の平家蟹のリアルなスケッチではなく、想像上のイメージであるようです。

むしろ、こちらの方が現物に近いですね。

ところで、「狂歌百物語」は、1853年(嘉永6年)に刊行された日本の狂歌絵本。妖怪をテーマとした狂歌に妖怪画の挿絵を添えて構成されたもので、編纂は天明老人、挿絵は竜閑斎(竜斎閑人正澄)によるといいます(ウィキペディアより)。ラフカディオハーンもこれを入手し、興味を持った狂歌を英訳し、解説を施したそうです(没後刊行)。
新しいところでは、京極夏彦・多田克己編著・須永朝彦校訂による、『妖怪画本・狂歌百物語』があるそうです(私は持ってません)。
妖怪画本・狂歌百物語

妖怪画本・狂歌百物語

  • 作者: 京極 夏彦
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2008/08
  • メディア: 単行本

田舎では,私が農作業をしている間に,孫たちはいつもの場所で沢ガニを捕らえたり、バッタたちと遊んだりして、退屈はしなかったようです。沢ガニの甲羅には、恨みを刻んだおどろおどろしさはなく、可愛い姿をしています。栗、臼、蜂、牛糞たちの助力で親の仇を討って、晴れ晴れとしているせいでしょうか?

かにむかし (岩波の子どもの本)

かにむかし (岩波の子どもの本)

  • 作者: 木下 順二
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1959/12/05
  • メディア: 単行本

今日はこれにて。

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即席ラーメン記念日?の巻 [今日の暦]

今日は「即席ラーメン記念日」だそうです。世界初のインスタントラーメン=「チキンラーメン」が発売されたことに由来するのですって。知りませんでした。
地元新聞「山陽新聞」の今朝のコラム「滴一滴」にこんな記事がありました。

 「食足世平(しょくそくせへい)」(食足りて世は平らか)は、日清食品の創業者、故安藤百福さんの造語である。著書によれば、終戦で廃虚となり、飢餓状態の人があふれる大阪の街を歩きながら、戦後の復興は「食」だと強く思ったという▼お湯さえあれば、すぐ食べられるラーメンをと、世界最初の即席めん「チキンラーメン」を世に出したのが1958年のきょうだった。当初はみな半信半疑だったが人気が爆発。類似商品も多く出回った。続いて71年に誕生したのが「カップヌードル」だ▼いまや、世界の即席めん市場は年約1千億食に上る。保存がきき、簡単で、場所を選ばない。日本が誇る「食の革命」の一つだろう▼

戦後の復興は「食」。もっともです。ミサイルや戦車では決してなかったということですね。
これにちなんで、今日のお昼御飯は、インスタントラーメンです。
他のメニューに比べて、孫たちの反応は、圧倒的に歓迎です。
現代のお袋の味は「袋入り食品の味」と揶揄されて久しいですが、いまや袋入り食品は、現代日本人のソウルフードといっても過言ではないですね。
いや、日本人に限らず、留学生の昼食をチラッと見ると、みんなとりどりのカップ麺をすすっています。ほとんど毎日となると、栄養の偏りが気になりますがね。
インスタントとは食品とは言え、栄養バランスを配慮して、、野菜・肉をフライパンで炒め、鍋で沸かした熱湯に溶かした全員分のスープと混ぜ合わせ、別鍋でゆでた麺を3分間でさあっと上げ,ザルでお湯を切ってどんぶりでスープと合体。と、ひと手間かけて作った特製インスタントラーメンですが、孫たちにはありがた迷惑のようで、できあいのスープと麺のシンプルな取り合わせが一番お好みのようです(汗)。
夏休みも終末が近づき、宿題も「仕上げ」モードに突入の模様で、「面倒くさい」といいながら、作文を書いたりなどしていました。



昨日の記事に、「この道」の歌詞を載せました。
そう言えば、以前も何度か触れた二木紘三のうた物語のサイトに、この道(作詞:北原白秋、作曲:山田耕筰)が音源入りで紹介されています。
昨日、音楽交差点のオーナー・コンダクターの小笠原知代子さんは、「この道」の他、「出船」「宵待草」を、ご自身のピアノ伴奏つきで歌ってくださいました。
これまた二木紘三のうた物語から、該当曲をご紹介します。

出船(作詞:勝田香月、作曲:杉山長谷夫、唄:藤原義江 他)



 

作詞の勝田香月が、啄木にあこがれ、小樽で着想を得たと知り、感慨を覚えます。

 宵待草(作詞:竹久夢二、補作:西條八十、作曲:多忠亮、唄:高峰三枝子他)


「蛇足」とい銘打った解説文も一部引用します。

 『宵待草』は明治45年(1912)6月に作った小唄で、 大正2年(1913)発行の彼の処女詩集『どんたく』(実業之日本社)に掲載されました。
大正7年(1918)、東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)でバイオリンを学んでいた多忠完(おおのただすけ)が、 この詩に感動して曲をつけました。その楽譜が出版されると、『宵待草』はまたた<間に全国に広がり、多くの人々に愛唱されるようになりました。
夢二が亡くなってから4年後の昭和13年(1938)、 夢二人気に便乗して『宵待草』という映画が企画されました。 その際、 3行詩だけでは映画の主題歌としては短すぎるということで、夢二と親しかった西條八十が2番の歌詞を作ることになりました。
八十は最初、2番の2行日を「宵待草の花が散る」としていました。
しかし、宵待草の花は、散らずに、茎についたまましおれるのが特徴です。それを人に注意された八十は、のちに上のように詩を変えました。
八十は抒情詩人として出発しただけに、このフレーズも美しく、 1番ともよ<マッチしています。いきさつを知らなければ、夢二が2番とも作ったと言われても、疑う人はあまりいないでしょう。
しかし、どういうわけか、今日まで2番が歌われることはほとんどありません。




半年ほど前の写真です。今日はもう見つけられませんでした。

2013年の8月。このブログを始めたばかりの記事です。

美食家のコガネムシ



 コガネムシが、みずみずしい黄色の花を美味しそうに食べています。顎の動きに合わせて、咀嚼の音まで聞こえてきそうな、ヘルシーで、ジューシーで、グルメな朝餉です。smallImgp0057.png
月見草と子どもの頃は呼びました。富士に似合うと太宰治が言ったのはこの花でしょう。「待てど暮らせど来ぬ人を」と、竹久夢二が歌った宵待草もこれですかね。標準和名「マツヨイグサ」、「オオマツヨイグサ」か?

明け果てて月はいづこや月見草
やるせなき宵待草を朝餉かな
露しげき花のサラダを朝餉かな
金色を食うて光るやコガネムシ

岡山後楽園の入り口近くに、この詩句を刻んだ石碑があります。
後楽園のhpから画像をお借りします。

碑は、地図の①の位置に立っています。

上の地図の右上にある逢来橋を渡ったところに、「夢二郷土美術館」という瀟洒な建物があります。

「夢二郷土美術館」のHPはこちらです。
現在、下のチラシの企画展が行われているようです。



夢二の故郷瀬戸内市には、「夢二郷土美術館・分館(夢二生家・少年山荘)」があります。以下、HPからの引用です。

 夢二生家(ゆめじせいか)
夢二生家は、竹久夢二が生まれ、16歳までを過ごした家です。現代では珍しくなった茅葺き屋根の伝統的な日本家屋は、約250年前に建てられました。夢二の子ども部屋や、建物や庭など外観も夢二の生前そのままに保存し、公開しています。夢二生家内でも、夢二の掛け軸や屏風、スケッチなどの作品の展示を行っています。 夢二生家入口には有島生馬氏が記した「竹久夢二ここに生る」の碑がみなさんをお迎えします。

少年山荘(しょうねんさんそう)
少年山荘は、竹久夢二が自らデザインを手がけた洋風建築を、夢二生誕95年を記念し、1979(昭和54)年夢二の次男、不二彦氏の協力で復元したものです。
1924(大正13)年、夢二は東京にアトリエ付き住居を建てました。少年山荘の名前は、中国の「酔眠」という漢詩の中の一節から、少年の日のように春の長い一日を過ごしたい、との願いを込め夢二が名付けました。
建物の周りにはサンキライやクヌギなど、少年山荘の周りに夢二が植えた木々も育っています。雑木林の中の「少年山荘」での夢二の暮らしの風情を感じながら、建物の中では、夢二生前の写真などを展示しています。

ところで、「宵待草」の歌は、1910年(明治43年)、夢二27歳の夏、避暑旅行中に遭遇した長谷川カタとの淡い恋をモチーフにしているそうです。恋多き夢二の、青春のひとこまです。
それはそうに違いないのでしょうが、夢二のもう一つの側面に目を向けることによって、宵待草に別の解釈を与えることも可能なようです。
と、思わせぶりな文句を書いて、以下次号といたします。

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愛酒の日?の巻 [今日の暦]

今日は何の日?

愛酒の日


だそうですね。
こちらのページから引用します。

 酒をこよなく愛した歌人・若山牧水の1885年の誕生日。「白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒はしづかに飲むべかりけり」と詠んだ。
関聯記念日

過去記事でも、何度か牧水(と酒)の話題に触れたことがありました。

重陽の節句あれこれ。最後は酒の話。


白玉の 歯にしみとほる 出会いかな(意味不明)


牧水余談


一番下の「牧水余談」の記事はこんな書き出しです。

 今朝方、M女史(わがブログではヨシミさんとお呼びすることもあります)から電話があり、昨日付けのブログを見たが、ちょうど昨日はヨシエさんと牧水の碑を尋ねたところだった由。(ヨシミ・ヨシエのお二方は、私のブログネタともなる種々の探訪をしばしば企画してくださる友人で、この記事をはじめ、何度か登場していただいています。)

さて、牧水が生まれた1885年(明治18年)の1月25日には北原 白秋が、翌1886年(明治19年)の2月20日には、石川啄木が生まれています。近代短歌のみならず、日本近代文学の牽引者としてそれぞれ独自の輝きを放つ彼らは、お互いに私生活上の交友もあったようです。
こちらのHPを少々参照させていただきます。
 歌人 若山牧水
早稲田の学生同士の牧水と白秋の交友がこのように描かれています。

 北原白秋を知って牧水の文学への情熱はさらに高まった。ちょうどそのおり、萬朝報の歌壇に投稿した歌が第一席に選ばれた。「明星」の与謝野晶子の選だった。
 この日は、昨夜半からしくしく痛み出した虫歯のため満足に眠れずに朝を迎えた。不快だった。だが萬朝報第一席入選はさすがにうれしく、歯痛をこらえて登校した。
 中林、北原らも新聞を見て承知していた。
 『ついにやんなすったね』
 牧水の肩をぽんとたたいて祝ってくれた。
 中林は、福岡県の出身で早稲田大学入学早早の四月十三日、教室で同じ九州出身ということで自己紹介して以来、よくつきあって、互いの下宿に行き来していた。
 名を春人、号を蘇水といった。
 後には、牧水、射水(白秋)、蘇水と並べて『早稲田の三水』と称して三人ともいささか得意気であった。。

今日は、私もささやかにお手伝いをしている「年金者組合」の地元支部の集まりがありまして、年金裁判の現状などを学習しました。上述のヨシミさんの姿もありました。会場は、以前この記事の際にも利用した音楽交差点。

ゴイサギに会う、の巻


この施設のオーナーで「コンダクター」の小松原先生が、会の終わりにご自身のピアノ伴奏でを歌唱を聴かせてくださいました。
その中の一曲が、「この道」。北原白秋作詞、山田耕筰作曲の童謡です。

 この道はいつかきた道
ああ そうだよ
あかしやの花が咲いてる

あの丘はいつか見た丘
ああ そうだよ
ほら 白い時計台だよ

この道はいつかきた道
ああ そうだよ
お母さまと馬車で行ったよ

あの雲もいつか見た雲
ああ そうだよ
山査子の枝も垂れてる

懐かしく美しい「この道」が目に浮かび、心が洗われる気がいたしました。
きな臭く、軍靴で踏まれ、ぬかるんだアベ様御用達の「この道」は、御免被りたいものです。

北原白秋と啄木の交わりについて、北原白秋記念館のHPの、作品「邪宗門」を紹介するページにこんな記事があります。

 1909年(明治42年)3月、白秋が24歳のときに発表した処女詩集。
明治39年4月から41年末に書いた121の作品を収録しています。
「今後の新しい詩の、基礎となるべきものだ」
白秋と親交のあった歌人・石川啄木は、この詩集を読んで、日記にこう綴っています。
二人は、当時開園したばかりの浅草の遊園地近くで、啄木は白秋の詩人としての成功を、白秋は啄木の就職を、互いに黒ビールで祝い合ったといいます。


また、若山牧水と啄木との交わりは、先ほどのHP 歌人 若山牧水に、こう紹介されています( 歌 の 友 石 川 啄 木 の 死)。

  初夏の 曇りの底に 桜咲き居り
       おとろへはてて 君死ににけり

  明治四十五年四月十三日、歌の友石川啄木が死去しました。
  牧水は前日雑誌のことで啄木を訪ずれました。
  啄木は病床に臥していて枕の許にあった小さな薬の箱を牧水
 に示して、「僕はこの薬を飲めば病気は治るのだが買う金がない 君貸してくれないか」と云います。
  牧水も金は持ちませんので友だちにたずね歩きましたが出来ませんでした。
  帰ってふと啄木の机の上を見ますと啄木の死後に出版された歌集 『悲しき玩具』の原稿がありましたのでその原稿を東雲堂書店に持参して二十円を借りて啄木に与えました。
  啄木は涙を流して喜びました。
  牧水は啄木の気分もよいので下宿に帰ってやすみました。
  翌朝早く啄木の夫人から危篤だとの報せが来ました。
  牧水が急いで行きますと夫人が啄木の耳許に口をあて「牧水さんが見えましたよ、わかりませんか」と呼びつづけますと奇跡
 的にも眼を開いて牧水の顔を見てにっこり笑い、昨日の金の礼を云い薬を買って飲んだことや雑誌のことなど話していましたが再び危篤に陥りました。
 牧水はすぐ医師を迎えに走り、帰って啄木の枕許を見ますと啄木の長女の京子の姿がありません。
  牧水はさがしに外に出て桜の落花でままごとをしていた京子を抱いて啄木の枕許に連れて来た時はすでに息を引きとっていました。
 そのときのことを詠んだ歌
 君が娘は 庭のかたへの 八重桜散りしを拾い うつつとも無し
 牧水は一日中独りで走り廻って啄木の葬式の準備をしました。
 夜の十時頃までは数人の通夜の客も居ましたが夜半を過ぎる頃になると啄木の枕許には啄木の父と牧水の二人でした。
 夫人は同じ胸部疾患が重いので隣室に伏していました。
 明け方近くになると啄木の父と牧水は話すことも無くなりました。
 この時、啄木の父は牧水に一筆書いた紙片をわたしました。
 牧水がそれを読みますと
  母みまかりて中陰のうちにまたその子うせければ」
  と題して
  親とりの ゆくえたづねて 子すゝめの 死出の山路を いそぐなるらむ

 とありました。
  牧水はこれを読んて、子を思う親の愛情に堪え兼ねて悲しみの余り、その日の啄木の葬儀には参列することは出来ませんでした。


石川啄木の臨終に立ち会ったのは、当時北海道室蘭の娘婿(山本千三郎)のもとに身を寄せていた父一禎(啄木とその父のこと参照)と、妻節子、幼い娘京子、そして若山牧水でした。啄木の親友であった金田一京助は、啄木危篤の報せを受けてかけつけますが、小康を保っている啄木の様子を見て、牧水に後を託して、大学での講義に向かうのですが、間もなく啄木は息を引き取ります。
明治45年(1912年)4月13日、午前9時30分のことです。
金田一京助は啄木50年忌にこんな歌を詠み、岩城之徳氏に寄せています。(岩城之徳著「石川啄木」おうふう)

 頼まれても病気の母子をいかにすべきせんすべ知らず息を詰めつつ
 友の臨終になぐさめの言葉ひとつ言へず腑甲斐なかりし身をとはに責む
 八時からの授業に若しや送れぬかといまはの友の我をいたはり
 病人のすすむるままに学校へ我が起ちたりき永久の別れ
 帰りくればもう息あらず少しの間中座をしらるこのしれ者
 悔ゆれどもとはに及ばずをこ故にあやまり暮らす生きの限りを
 病む妻と幼な子のこし何事もなきかに逝きし友の静けさ
 夢のごと時の流れて五十年きのふのごとく我のかなしき

参考サイト石川啄木 漂泊の詩人
 
「愛酒の日」ですので、久しぶりにウイスキーを買ってみました。


ちびりちびりやりながら記事を書いておりましたが、ついに酩酊し、収拾がつかなくなりました。きょうはこれにて。

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縁の下で考えたこと、の巻(その3) [折々散歩]

前回話題にした1998年の滋賀教研で発表したレポートを、引っ張り出してみました。実物の紙の冊子も見つかリましたし、データファイルもありました。生来、管理能力にかけ、大事な捜し物はなかなか見つからないのですが、意外にこういうガラクタは、後生大事に保存しているのは、我ながら不思議です。
レポートの全体をご紹介しても、退屈至極、不興を買うのは必定ですから、チラッと、その雰囲気だけ感じていただければ幸いです。
こんな書き出しです。
 1.県内の教育状況と高校再編の動き
 (1)諸指標に見る本県の教育状況の特徴

 誰が名付けたか、かつて「教育県岡山」という呼称があり、県民の間には漠然と、岡山の教育状況や、教育行政をも何か「マシなもの」と思いこむ傾きがあった。だが、こんにち、苦笑抜きにこの呼称を用いることのできる人は希有となっている。
 以下のいくつかの指標が示すとおり、子どもと学校をめぐる状況は、全国値と比較してもきわめて深刻となっている【表1参照】。 それは、大企業本位の巨大プロジェクトを優先して、福祉・教育切り捨てを露骨に進めてきた保守県政のもとで、生徒一人あたりの教育費が全国第42位の低水準に放置されてきたこととも無縁ではない。
 このもとで、現場教職員は、自己の健康や家庭への多大な犠牲を伴いながら、無報酬の時間外超過労働を含む過重な労働に、文字通り日夜追われている。近年、無念な現職死亡もあいついでいる。
 「財政危機」のしわ寄せを県民全体にふりむけるための突破口として、二年連続の人勧値切り、短縮措置剥奪・退職金切り下げをはじめとする賃金抑制攻撃も強められている。とりわけ、教育条件の重要な要素であり、教職員の生活と教育活動を支えるべき教職員賃金のあいつぐ抑制・削減は、教育危機克服への自己犠牲的献身と努力を嘲弄するものと言わざるを得ない。
(中略)
(2)本県における高校再編の動き
 学区拡大・学校間序列強化をはかる全国的な動きの中で、本県において長く小学区・総合選抜制度が維持されてきたことは、我々の誇りの一つであった。だが、生徒急増期を迎えた1980年代、高校増設への県民的な要求の高まりにたいして、県は、全県学区の「新タイプ」高校を、全国に先がけて相ついで新設する方向で処してきた。それは、こんにち展開されている小学区・総合選抜制度廃止の動きの、事実上の露払いの役割を果たすものであった。それはまた、近隣の高校に苛烈な「生き残り競争」を強いる端緒となり、新たな学校間格差と数知れぬ教育上の困難と弊害を生み出した。
(中略)
 現場では、県教委主導による「特色づくり」競争があおられ、「生き残り」をかけた学校間競争が強いられている。理数科・国際科・などの(唐突かつ陳腐な)学科新設や総合学科への衣替えによる差異化が演出され、生徒獲得のための学校売り込み(オープンスクールの実施、制服改定、美麗な学校案内の作成、学校祭公開など)にも多大な労力が費やされている。強迫的な「生き残り」ストレスのもとで、「進路実績」や「生徒のしつけ」など、「学校の評判」への過度なこだわりが、教職員・生徒をともに追いつめる状況も現れている。
 混乱と不安は、中学生以下の子どもたちや父母住民の間にこそ、より深刻に広がっている。文部省の「偏差値排除」方針のもとで、進路指導の手がかりを失った中学校は、受験高校決定へのアドバイスをほとんど放棄・断念している場合も少なくない。それは、塾・受験産業への全面的な依存を、より幼い子どもたちに強いることとなっている。学区拡大再編は、この傾向をいっそう強めずにはいない。 
 学区解体の動きと連動して、様々な高校再編策が矢継ぎ早に示されている。
(中略)
 政府・文部省と財界の企図する「教育改革」と軌を一にした、これらの岡山県版高校再編計画にたいして、真に子ども・青年と父母・県民の願いに応える「高校像」を、大衆的に探求していくことが、今つよく求められている。
(中略)
2.わが身辺のこと
  (1)現任校への転勤
 ①学区再編と前任校
 報告者は、16年間勤務した普通科高校から、現在の勤務校に転勤して三年目である。
 前任校は地域に根ざした普通科高校として、偏狭な受験シフトにも部活偏重にも与せず、自由と自主・自立の気風をお互いの誇りとしながら、生徒の進学要求にも一定応え、生徒会活動・部活動も活発、という点で、「いい線行っている」と自負できる学校であった。
 だが、80年代、前項で指摘した全県学区の「新タイプ校」が同一市内に設立された影響を大きく受けての「地盤沈下」に直面するなかで、「きれい事は通用しない」との声が職員内にもしばしば現れるような状況も生まれた。そのもとで、受験向け補習授業の拡大、早期のコース分け導入、生徒会行事の縮小、「しつけ」的生徒管理の強化など、多くの県内普通科高校が歩んだと同じ道を、とめどなく後追いしながら、決して満たされない焦燥の日々が続くこととなった。
(中略)
 ②現任校の概略
 現任校は、倉敷駅から西へ徒歩15分のところに位置する商業科、普通科併設の夜間定時制高等学校である。(中略) 多くの定時制・通信制高校がそうであるように、本校生徒の少なくない部分は、不登校経験者、他校経験者、経済的・家庭的ハンディを抱えている者、外国人生徒など、多様な課題やニーズを抱えている。そのような生徒たちが、本校へ入学して、学校生活を送るにつれて、「学校が好きになった」、「(学校が)面白くなった」、「自分に自信が持てるようになった」などと感じるようになり、以前より自信と勇気を持って積極的に物事に取り組むことができるようになってきている。また、ほとんどの生徒が、「クラスでの居心地が良くない」とは感じておらず、さらに、課題や困難を抱えたクラスメイトをお互いに配慮しあい、思いやる気風も育ってきている。
 しかし、一方では、いったん学校生活になじんだかに見えながら、何らかのきっかけで、不登校状態に後戻りする例や、家庭事情やメンタルな原因から欠席がちになる例も決して少なくはない。また、順調に進級した高学年の生徒の中にも、他人との会話ができなかったり、自分の意志を表現できなかったりなどと、まだまだ自分に自信が持てず、積極的に物事に取り組むことができない者も少なからずいる。
 そのもとで、本校では、彼らの自己肯定感を育てることを基本に、「ぼくの学校見つけた、わたしの学校みつけた」(学校案内リーフの見出し)と、心底実感できる学校づくりをめざして、生きる力を真に育て励ます教育のあり方を探ろうとしている。
このとりくみが、「夜間定時制」という限定された枠のもとでのみ幽かに存続しうる例外的・異端的エピソードにとどまるのではなく、本県高校教育全体の基調に位置づくことを、報告者は願っており、それこそがこんにちの深刻な教育状況を脱して、学校が「母校の名にふさわしく母のように暖かい場所」(山田洋次)としてよみがえる道であることを信じている。

 (2)不登校児の父として
 報告者の問題意識は、今ひとつの私的事情によって形成されている部分も少なくない。それは、当時高一であった長男の不登校体験がもたらした、悲嘆と懊悩と「癒し」の過程である。この点について詳述することは、本旨にはずれそうであるから、本報告では割愛したい。
Ⅱ.高教組「高校像検討委員会」の設置と取り組みの経過
 岡山高教組は、上からの「教育改革」「高校再編」の動きにたいして、下からの、すなわち子ども・青年と父母・県民の願いに真に答える「高校像」を対置していく必要から、組織内に「高校像検討委員会」を設置し、通り論議と探求を重ねてきた。
 報告者は、検討委員の一員に任命され、その論議に加わってきたが、自身の問題意識のありようから、主として「提言1 こんな高校をつくろう」の項の執筆者の一人として参画してきた。
実際の教研での発表は、この辺りまでの内容を行ったり来たりで時間を費やし、本題である「提言」の内容を端折ってしまった後悔が残りました。
この提言については、以前、この記事で紹介したことがありました。

またまた異質共存を思う、の巻 


そのエッセンスを、再度ご紹介することで、20年越しのリベンジをはかりたいと思います。。

提言1 こんな高校をつくろう
視点 子ども・青年の「自分づくり」を支援する学校

―――「いかに生きるか」という挑みが励まされ、
個性的な人格形成が促され、
進路選択の力が育てられる教育を―――

Ⅰ.「第二の誕生」の時期の課題に応える教育を
 高校生たちは、「いかに生きるか」を模索する「第二の誕生」の時期に直面しています。彼らの「自分づくり」を支援する高校像こそ、私たちの探求課題です。
Ⅱ.子ども期を奪われ、過度のストレスにさらされる日本の子ども
 国連「子どもの権利委員会」勧告(98年6月)が指摘するとおり、過度のストレスが日本の子どもたちを苦しめ、学校が「息苦しい場所」になっています。
Ⅲ.「自分づくり」を励ませない上からの「教育改革」
 国や県が「上から」おし進めようとしている「教育改革」は、子ども・青年 の「自分づくり」を励ませるのでしょうか。
Ⅳ.「自分づくり」を励ます高校像のポイントは
私たちのめざす「あるべき高校像」のポイントを、5点にまとめてみました。 
①自己肯定感を育てる学校(自分の居場所があり「ほっ」と安心できる場の保障)
②仲間がいるコミュニティの場としての学校
③努力のあてがあり、努力の結果が実感できる学校
④「教え」から「学び」へ――世界を読み解く「学び」の保障
⑤「社会」「世界」「人類」とつながった学校
(1)自己肯定感を育てる学校
 私たちのめざす高校は、何よりも第一に、「自分が自分のままであって大丈夫なのだ」という安心感=自己肯定感を育てることのできる場でなければなりません。      
(2)仲間がいるコミュニティの場としての学校
第二は、仲間がいて共同があるコミュニテイとしての機能を、十分に発揮できる場にしていくことです。 
(3)努力のあてがあり、努力の結果が実感できる学校
 第三は、「わかる喜び」「達成する楽しさ」を保障し、努力のあてが見え、努力の結果が実感できる学校にしていくことです。
(4)「教え」から「学び」へ――世界を読み解く「学び」の保障
 第四は、一方的な「教え」から、主体的な「学び」への転換を軸に、 子どもの学習権を真に保障していくことです。

(5)「社会」「世界」「人類」とつながった学校

  第五は、「自分も周りからあてにされている」「社会・世界に参加している」と実感でき、自らの存在や行動の社会的・人類的意味に気づける機会を保障することです。
 

今日は36℃という猛暑日でした。

中二生は昨日,今日と部の試合。保育園児は保育園に行きましたが、小学生は、我が家で夏休みの宿題の追い上げです。私も、少々期日の迫ったデスクワークに追われ、ゆったり散歩を楽しむゆとりもありません。

気晴らしに,雑草にまみれた畑の草取りを、2.3日すこしずつやってますが、ビフォーアはこうですが,アフターをお見せできるレベルではありません。手前のオクラは、少しずつですが毎日の食卓を飾ってくれます。



夏雲が勢い盛んです。



これは少し以前の田園写真です。















堆肥、鶏糞、ジャガイモの種芋などを仕入れてきました。

買い物ついでに,蓮田近辺を通りかかってみました。

これは数日前の写真。











これは今日の写真。遠くに常山が見えます。



電柱にミサゴがいました。











トリミングします。



足もとを見ると、獲物の姿が、,,。

カメラの気配を感じたか、にわかに飛び立って、別の電柱に止まります。



大きな魚です。

今日はここまで。


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縁の下で考える(その2)の巻 [折々散歩]

昨日の記事で話題にした、30年も前の「全国教研』で、私が参加したのは『国語』分科会でした。生活綴り方運動、作文教育などで知られる国分一太郎先生らも助言者のお一人で、夜の酒席も含めて身近に接する機会もありました。不思議なことにどんなお話を伺ったか、ほとんど覚えていません。
記録によると1985年ご逝去とありますから、最晩年のお姿を拝見したことになります。85年の札幌市での集会では、お元気だった記憶がありますが、その年の2月に逝去されたようです。その前後の記憶はまったくあいまいです。
その後、、県内の教研(教育研究)集会には参加してきましたが、全国教研には参加する機会がないまま、時が過ぎました。
記憶と記録をひもとくうちに、一気に時代は変わり、1998年1月に滋賀県で開かれた教研に参加したことが、思い出されました。
その頃には、労働組合運動をめぐる動きを反映して、教職員組合運動にも大きな変動がありました。要求と運動を、政府・財界の許容する枠内に「自粛」する「連合(日本労働組合総連合会)」路線への傾斜を強める日教組「主流」が、組織内外の批判と懸念を押し切って「連合」加盟を強行したのを機に、日教組から離脱した単組(都道府県本部)などを中心に、全日本教職員組合協議会を結成(1989年)、後に日高教も合流して、全教(全日本教職員組合)が結成されます(1991年)。こうした元で、日教組、日高教共同開催という全国教研は幕を閉じ、全教・日高教主催の全国教研から、今日の「実行委員会」主催の教研へと発展しています。
そんな歴史の過程で、1998年の教研に参加した模様を、こんな文章にしたことがありました。

  今年で10回目を迎えた全国教研集会に、初めて(合同教研時代は別として)参加しました。
 「行く春をあふみの人と惜しみけり(芭蕉)」の句からの連想からか、なぜか、湖水朦朧としたのどかな情景を思い描いてしまうのですが、「防寒対策を」との事前レクチュアどおり、近江の冬は格別の厳しさでした。
 連山に雪を戴き、周辺の道路脇にも積雪の残る全体会場は、右翼街宣車の騒音や機動隊の警備のものものしさとはうらはらに、うちとけた親密さと、明るい熱気に包まれていました。10年ぶり、20数年ぶりの知己の顔もちらほら見え、懐かしいひとときを味わうことができました。
 主催者挨拶、基調報告も、現場の苦悩と希望への共感に裏付けられた、真摯で温かいメッセージと、私には感じられました。そして、何よりも、米倉さんの記念講演に、感銘を受けました。
 分科会は、レポート報告者という任もあって、「特設1 子どもから地域からの教育改革」に参加。私の出番は、分科会初日の最後で、「『こんな高校をつくろう』高教組『高校像検討委員会』の提言づくりに参加して」と題して、岡山県の教育事情と県の進める高校再編の動きにふれながら、我々の対案としての「提言」(特に、提言①「こんな高校をつくろう」の部分)の紹介を行いました。時間の制約もあって意を尽くさぬ報告となった上に、全体の論議の流れと噛み合いにくかったせいもあってか、質問もコメントもないまま終わり、やや疲労感の拭えぬ一日でした。ただ、望外にも、翌日の情宣紙に「参考になる」との参加者の声を載せていただき、いくらか報われた思いでした。
 「教育改革」という遠大なテーマを扱う分科会であることから、レポートも、多様な学校種別・分野にわたり、また、議論の内容も、教育政策の全体を扱うものから、運動論にかかわるもの、学校外・地域の教育のありかたなど、多岐にわたったため、自分がどう議論に参加していいか戸惑っているうちに時間が過ぎ、正直、消化不良のまま、多分に欲求不満が残ったことは否めません。
 そのなかで、印象に残った点だけを幾つか書いて、分科会紹介に代えます。
(中略)
  ところで私は、基本的に「特設1」分科会に出席するつもりでしたが、せっかく来たのだからという欲心から、分科会の「ハシゴ」をしてしまいました。
 二日目の朝、T商のT先生の導きで、分科会開始前の移動時間に、ちょっと寄り道して近隣の史蹟を見学することに。愉快な弥次喜多道中のしめくくりとして、メンタムで知られる「近江兄弟社」ゆかりの「近江兄弟社学園」を(幼稚舎が、明治期の洋風校舎の面影を残していると)訪ねたところ、ふと見ると、校門前に「特設分科会2 子どもの権利条約」の案内看板。なんと、(うかつといえばうかつですが)、同学園の施設が、分科会場になっていたのです。
 これも何かの縁と、午前中は二人でその分科会に参加。出てみてよかった。「子どもが本音でのれる行事」を通して荒れを克服し自治を育てるとりくみ(滋賀・小)や「たっぷり遊んだ子どもは元気がいいぞ」(東京・父母)と題する学校施設を利用した子ども・青年の「遊び場・たまり場」づくりの取り組みなど、わくわくするレポートと、熱い意見交換が、刺激的でした。
 最終日は、どうしても出たかった「中等教育」分科会に出席。「青年期教育の実践」「中・高の接続はどうあるべきか」「子ども・青年はどんな学校を求めているか」という、個人的に関心をそそられるテーマは、すでに前日までに終わっていて残念でしたが、当日の報告は、中高連携(高知)、高校統廃合(北海道)、学校移転に抗して生徒・教職員・父母・市民ぐるみでとり組んだ学校づくり(私学)など、「特1」分科会と通いあう内容で、私の内部では首尾が整い、満足でした。最後に紹介された、日高教定通部・日本の教育改革をともに考える会の、それぞれの提言は、深く学び、合意を広げていきたい内容でした。  

今回参加した分科会は、私の希望によるものではなく、運営の必要に応じて、たまたま割り当てられたものでしたが、「文化活動・図書館」という名前の分科会でした。
でも、その内容は、期せずして20年前の問題意識と響き合うものでした。

あくまでも、縁の下で支える裏方に徹するつもりでいましたが、レポート発表や議論が興味深く、ついつい聴き入ってしまいました。
この分科会の共同研究者(「助言者」ではなく、こう呼ぶことにも、この教研集会のともに歩もうとする姿勢があらわれています。)のお一人、増山均先生は、「遊びは子どもの主食です」という印象的なフレーズを、キーワードとして紹介してくださいました。

上は、日本小児科学会の提言ポスターです。
下のブックレットは、増山先生の著作です。

内容紹介の一部をコピーしてご紹介します。


子どもの権利条約31条。これまで意識してきませんでしたが、その重要性を改めて痛感させられました。

 第31条
1.締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。
2.締約国は、児童が文化的及び芸術的な生活に十分に参加する権利を尊重しかつ促進するものとし、文化的及び芸術的な活動並びにレクリエーション及び余暇の活動のための適当かつ平等な機会の提供を奨励する。

日本ユニセフ協会による抄訳はこちら
話題は次回に続きます。
今朝の散歩写真です。







虹が出ていました。




今日はここまで。

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縁の下で考えたこと、の巻 [折々散歩]

適切な言葉がなかなか浮かばないもどかしさを、しょっちゅう経験します。
先日の教研(教育研究集会)分科会でも、要員としての自己紹介で「枯れ木も山の賑わい」と言ってしまいましたが、本当に言いたかったのは「縁の下の力持ち」として役立ちたいと言うことでした。
前回、岡山で全国教研が開かれたのは、1975年1月の第24次教研(1974年度)だったそうです。その頃は、小中学校教職員中心に組織する県教組(研教職員組合)が加盟する日教組(日本教職員組合)と、私たち高校;障害児学校教職員中心に組織する高教組(高等学校教職員組合)が加盟する日高教(日本高等学校教職員組合)の共同開催でした。
その後、教職員組合運動の組織的変遷を経て、この合同教研は歴史を閉じ、今回の「みんなで21世紀の未来をひらく教育のつどい-教育研究全国集会2017)は、高教組が加盟する全教(全国教職員組合)など、「つどい実行委員会」の主催で開かれます。実行委員会は、教職員団体、学者研究者などの他、教育と子育てに心を寄せるはばひろい労組、市民団体等によって構成されています。私たち退職者の会も、その一員です。
誰しも、集会の成功に貢献したい気持ちは、山々です。この酷暑のさなか、高齢の要員には、熱い日射しの中での業務は避け、出来るだけ涼しい場所での仕事を割り当てるよう配慮するので、積極的に応援してほしいと依頼され、三日とも協力できますよと申し出ましたら、初日の全体集会は、会場地下通路付近の「警備」を割り当てられました。物理的な警備の主体は若く屈強な警察官が担ってくれますので、私たちは「ご苦労様です」と声をかけつつ、通行人に通行止め箇所の周知と、経路の案内をする役目です。全体会そのものの内容が十分には聞こえないのは残念でしたが、同一部署に割り当てられた友人と、ゆったりと四方山話が交わせたことは、ありがたく、心豊かな時間でした。
二日目三日目の分科会は、会館責任者・分科会責任者という、私には少々肩の荷が重い役目がわりあてられ、心身に常ならぬ緊張と疲労を覚えたことでした。「縁の下」の徹するつもりが、少しは明るみに姿を現さねばならない羽目になりました。
ただ、分科会の様子を、最初から最後まで、会場内で傍聴できたことは、久々の知的刺激で、遙か昔の記憶がいろいろと蘇ってきたのも、余禄でした。
共同研究社の先生が、昔は冬に、体育館でストーブを焚いて行ったこともあったと改装しておられましたが、そう言えば、私がかつて実際に参加したことがある全国教研は、下記の通りですが、いずれも内容よりも、寒かった記憶だけが、真っ先に蘇りました。

続きは次回、今日はここまでです。

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大規模街頭宣伝??名付けに疑問、の巻 [時事]

今朝は7時前のバスに乗って、町へ出かけました。
お出かけ先の会場に駐車場が確保できないので、久々のバス利用です。
バスの車窓から見ると、あちらこちらにこんな看板が立っています。


もうずいぶん前から県下各地の街角に立てられていて、何事だろうかと市民を不安がらせています。
バスを降りてから、近づいて見てみます。

「大規模街頭宣伝」とは聞き覚えのない言葉です。
町の中が、朝からなにやら物々しい雰囲気です。



ちょっとトリミングしてみると、、、。

車両の表示に、「愛媛県警察」とあるのにお気づきですか?
「応援部隊」らしいです。
実は今日から3日間、岡山市を会場に、「みんなで21世紀の未来をひらく教育のつどい―教育研究全国集会2017」(教育のつどい=同実行委員会主催)が開かれているのです。
s-画像2.jpg

「憲法と子どもの権利条約がいきて輝く教育と社会を確立しよう」をテーマに全国の教職員、保護者、研究者、市民らが集まります。今日は、開会全体集会と七つのフォーラムが開かれ、明日明後日は、30の分科会が開かれます。
先輩のIさんが、facebookのこんな記事を投稿しておられました。一部分をちょっと拝借して、紹介させていただきます。

初日の今日は岡山シンフォニーホールで開会の全体集会と7つのフォーラム。全国の教職員、保護者、研究者ら1300人が集まっていたようです。明日からは30の分科会に分かれて、一人ひとりの子ども達が生き生きと成長できる教育めざして語り合いが始まります。
退職教員も何かお手伝いをと、私はこの二日間、会場要員を務めることに…

まったく同様に、私も3日間、お手伝いをさせていただきます。「要員」という言葉も、世間では聞き慣れない言葉ですね。友人のU女史が、「要人」と「要員」との違いは?などと突っ込みを入れておりました。
下の写真は、IさんのFacebookから拝借しました。許可はいただきました(笑)






会場の外では、何台もの街宣車が、大きな声で口汚くののしり声を上げ続けていました。
岡山県には「拡声機暴騒音規制条例」というものがあります。右翼の迷惑な暴騒音を口実に、労働組合や民主団体など県民・市民の表現の自由を制限するもの、という反対を押し切って、強行成立させたイワクツキの条例です。
ウィキペディアにはこうあります。

 1984年に岡山県が初めて制定した。それ以降、全国に広がっていった。

全国に先駆けて作った条例ですが、右翼の迷惑な暴騒音と市民への威嚇を取り締まるためには、ほとんど何の役にも立っていませんね。
もちろん、暑い中で立ち続けで警備する警察官諸君には、ご苦労様の思いを禁じ得ませんが、警察のやり方は、どう見ても、右翼集団を存分に泳がせることで、市民県民の迷惑感を煽り、右翼集団に対してと同じ程度に、彼らにあしざまに攻撃される団体や運動に対してもいわれのない恐怖感を醸成しようとするものと言うしかありませんね。
恐怖ゑ

取り急ぎ速報まで。

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盆明けスケッチの巻 [折々散歩]

早いものです。お盆も明けて、早や8月も下旬です。
疾風のような勢いで、集まっては離れましたが、お互いの存在を確かめ合った家族のひとときでした。
二日続けて、庭や近くの広場で、花火を楽しみました。メンバーは若干の変化がありましたが、、。
14日の夕方です。
「忍者玉」という、煙ばかりを噴き出す花火。いがらっぽい煙の匂いがスゴイ。

これ、家族です。まだ欠けてますが、大勢集まったものです。

翌日は8月15日。
朝から雨でしたが、次男の車で、実家までママと姫を迎えに行き、その足で私の郷里の老父母の家を訪ねました。
県内と言っても高速道路を利用しないと遠いです。山深い土地ですので、トンネルが必須です。

この子も、鯉のエサやりが大好きです。



保護色で、黒いバックに体色をあわせた幼いアマガエルです。

デンデンムシが何匹もいました。触ってみたいのに、指がこわばって、尻込みしてしまいます。。

夕方、従兄妹と一緒に花火です。
ちょっと雨が降った後ですが、これを逃すとチャンスがないので、ある限りの花火につぎつぎと点火します。








おもしろうてやがてかなしき花火かな(2013年8月)の記事に「打ち上げ花火も、轟音一発、空一面を彩って大きく花開いたあとの闇と静寂が、もの悲しさを募らせますが、線香花火の刹那の美こそ、『あはれ』
の極と思えます。」と書きましたが感慨は同じです。
次男一家もきのうは無事大阪に帰着、今日は職場、保育園ともに日常生活の再開のようです。
近所に住む孫たちは、夏休み宿題の仕上げに追われる日々です。
絵も描きました。
小4生が、常山が見える稲田の風景を描きました。

小1の孫は、家族が常山をバックに並んでいるという設定で似顔絵を描きました。

これは今朝の常山。



雨も降ったので、稲葉に水玉の雫がたっぷり宿っています。





暑さがぶり返した昼間、「宿題疲れ」の小学生兄妹と、魚掬いです。

今日はこれにて。

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「人づくり革命」って何よ?の巻 [時事]

しばらく前から書きかけてなかなか完成しなかった記事を、とりあえず掲載します。
アベ内閣が最近強調する「人づくり革命」なるものが、不気味です。
スポニチAnnex2017年8月6日付けが、こんな記事を載せています。
安倍改造内閣 看板政策ネーミング「人づくり革命」大不評

 政治風刺コントを手掛ける戯作(げさく)者の松崎菊也氏は「安倍政権のスローガン政治の典型だが、あまりにも厚かましい言葉。どんな人間がつくられるのか全然分からないし、そんな高慢な方々には人をつくってもらいたくない」と厳しく批判。また、日本大の岩井奉信教授(政治学)は「政治学的に言うと、革命とは支配者と被支配者が逆転すること。いわばちゃぶ台返しなのだが、なぜこの言葉を使ったのか。安倍政権は1億総活躍のころから、言葉だけが躍ってきている」と疑問を呈した。
影響は意外なところにも。都内の外資系会社で働く女性は英訳が見つからないと頭を悩ませる。「英訳できない大臣をつくらないでほしい。革命を"revolution"と訳すと、海外では体制を転覆させるような危険な印象になる。"1億総活躍"ができた時も頭を抱えたが、これはもう異次元。そもそも日本語でも趣旨がよく分からない」とため息をついた。


 まあ、こうした不評や揶揄も当然だろう。だいたい「人づくり革命担当大臣」を無理やり直訳したら“Minister in Charge of Revolution of Creation of Human”とでもなろう。まったく頭が沸いているとしか言いようがない(ちなみに、日本政府の公式訳は“Minister for Human Resources Development”に決まったが、これを訳し直すと「人材育成大臣」といったところ。さすがに「革命」はヤバいと思ったらしい)。
だが、気になったのは、安倍首相はなぜ“目玉政策”に「人づくり革命」なる噴飯モノの名称を用いたのか、ということ。そこでふと思い出しのが、しばしば極右教育の文脈あるいは日本会議周辺で「人づくり」という単語が使われてきたという事実だった。
 周知の通り、日本会議といえば日本最大の右派組織で、安倍政権の熱烈な支持層だが、その設立宣言にはこうある。
〈我々は、かかる時代に生きる日本人としての厳しい自覚に立って、国の発展と世界の共栄に頁献しうる活力ある国づくり、人づくりを推進するために本会を設立する。〉
 また、この日本会議の中心に「生長の家」元信者らがいたことは周知の事実だが、その生長の家・創始者の谷口雅春が提唱した「人類光明化運動」(第二次五カ年計画、1964年発表)なるものをめぐっても「人づくり、国づくり」という言葉が使われていた。
 さらに、この「人づくり」という言葉は、日本会議に連なる極右文化人や評論家、政治家がやたら好んで口にしている。たとえば、日本会議とも関係の深いモラロジー研究所が出した『日本再生と道徳教育』(渡部昇一、岡田幹彦、梶田叡一、八木秀次の共著)の前書きには、廣池幹堂・モラロジー研究所理事長の言葉としてこんな宣言がおかれている(なお、廣池理事長は日本会議の代表委員でもある)。
〈「国づくり」とは「人づくり」です。先人たちが長い歴史の中で育んできた「日本が世界に誇るもの」──伝統文化や勤勉・正直・礼節・質素・忍耐・倹約・親孝行などの「よき国民性」を今こそ取り戻し、二十一世紀を担う子供たちに、しっかりと伝えていかなければなりません。〉
 ということは、もしかして、今回も安倍首相がまたぞろお仲間の極右団体の影響を受けて、こんなトンデモな命名をした。そういうことなのだろうか? 

8/11付「まぐまぐニュース」の記事も興味深く読みました。
記事は、こういう書き出しで始まっています。

 捨て身の覚悟で「加計学園問題」の告発を行った前川喜平前文科省事務次官。安倍政権は当時、すぐにメディアなどを使って前川氏への個人攻撃を始めました。しかし、メルマガ『国家権力&メディア一刀両断』の著者で元全国紙社会部記者の新 恭さんは、前川氏の発言にはウソ偽りが感じられず、あの「告発」以降、国民の心が急速に安倍政権から離れ始めたのは起こるべくして起こったことだと持論を展開しています。
安倍政権の支持率を急落させた前川喜平氏の人間力
「ここだけの内緒の話ですが、2015年9月18日の夜、国会正門前に私はいたんです。シールズの連中がね、ラップのリズムで集団的自衛権はいらない、とコールしている。私も一個人としてみんなに混じって声を出してました」
前の文科省事務次官、前川喜平氏が先日、福島市内で開かれたイベント「前川さん大いにかたる─加計・憲法・夜間中学などなど」で話した内容だ。
公衆の面前で「内緒の話」もあるまいが、そう言うからには今回が初披露なのだろう。

更に興味深いのが「教育論」に関するこのくだりです。

 こと教育論に限っても、前川氏は安倍首相のアンチテーゼといえる存在だ。教育再生を謳い、「人づくり革命」と意味不明の新スローガンを繰り出した安倍首相は「国のために命を懸ける」人づくりを教育の眼目とする。
それに対し、前川氏は人それぞれの個性の違いを重視する。「いじめ」についても、道徳教育が足りないと安倍首相は考えるが、前川氏は違う。
この日のイベントで、参加者の一人が前川氏にこう質問した。
「前川さんは、いじめがひどいのであれば学校に行かなくていいと仰っていましたが、そう思ったきっかけは」
前川氏は自身の不登校体験を語りはじめた。親の仕事の都合で奈良から東京に転居した小学校三年生の時、東京の言葉や担任の先生になじめず、学校に行く直前になると吐き気や頭痛がして欠席した。
当時、奈良の学校にはプールがなく、泳げなかった。プールのある東京の学校の水泳の授業が怖かった。四年生になって、別の学校に転校し、担任の先生が優しかったこともあって、ようやく溶け込めたという。そういう児童期の体験が、前川氏の教育観をつくりあげたのかもしれない。
「学校の規則や、人間を規格にはめようとする教育には抵抗感をもっていました…そういう人間が文科省で事務次官をやってはいけないのかもしれませんが…」

上のエピソードが念頭にありましたので、先日の記事(啄木とその父のこと)への majyo様からのコメントに、わたしはこう書きました。再掲させさせていただきます。

 前川さんは、福島市内での講演で、学校の規則や人間を規格にはめようとする教育の対極として、大阪市立大空小学校の教育を挙げ、木村泰子元校長の「スーツケースではなく、風呂敷のような学校」という言葉を紹介して、こうおっしゃったそうです。「スーツケースのような一つの型に入れようとすると息苦しくなって逃げたくなる。大空小学校はどんな問題を抱えている子でもすべて受け入れて個別に対応する。どんな形の子供でもそれぞれの個性を生かしながらやわらかく一つに包みこんで共同体をつくっていく。そのとき、守るべきルールはたったひとつ。自分がされて嫌なことは他人にしない。それだけは守りなさい、と」
こんな文科省なら、信頼します。

昨日は72年目の終戦記念日でした。
痛恨の戦争体験を経て、戦後日本は、二度とその轍を踏まないために、国家のために国民をつくる教育を改めて、民主主義に立脚した自立的な市民をつくるための教育を目指しました。
1947年に制定された教育基本法は、全文にこう謳っていました。

 前文
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。

この基本法が憲法と一体のものであることを宣言し、「個人の尊厳」「真理と平和を希求する人間の育成」「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造」を特筆しました。
そして第一条では「教育の目的」をこう定式化しました。

 第1条(教育の目的)
 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。

一人ひとりの子どもを、個人として大切にし、その子その子の持ち味を生かして人格の完成をめざすのが教育であり、「平和的な国家及び社会の形成者」「真理と正義を愛し」「個人の価値をたつとび」「勤労と責任を重んじ」、「自主的精神に満ちた」を育てることが強調されたのです。
その1947年版教育基本法は、2006年12月、アベ第一次内閣のもとで、野党・国民の反対を押し切って全面改定されました。
2006年版教育基本法は、前文をこう変えられました。

 新法前文
 我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

「日本国憲法の精神にのっとり」という文言が申し訳程度に挿入されていますが、旧法の特徴だった「日本国憲法との一体性」は、剥ぎ落とされています。
「真理と平和を希求する」が「真理と正義を希求し」に変えられました。
「平和」とは、一般に戦争や武力紛争のない状態をいい、より積極的には人々の基本的な人権が尊重され、飢餓や貧困や不安が除去され、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が保障された状態を言うでしょう。その意味で「平和」という概念には解釈の違いが存在する余地はありません。しかし「正義」となると、個々人の価値観によって、10人10色であり、これを振りかざして子どもたちを一方向に誘導することは、とても危険です。
教育の目的を述べた第1条では、真理と正義を愛し」「個人の価値をたつとび」「勤労と責任を重んじ」、「自主的精神に満ちた」が捨て去られています。

 新法第1条(教育の目的)
 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

そして、第2条に「教育の目標」を項立てし、国家が国民に求める具体的な徳目を、列挙しています。その際旧法で重んじられていた「自主的精神に満ちた……国民の育成」(前文)「自発的精神」(第1条)の文言は、消えています。

新法第2条(教育の目標)
 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

 一  幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

  
 二  個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の
   精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度
   を養うこと。

 三  正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。 
   

 四  生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。

 五  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
   

一人ひとりの子どもを伸ばす「人格形成」から、国家や企業の求める「人材育成」へ、教育の目標を大きくねじ曲げようとする企図が、はっきり読み取れます。

「人づくり革命」なるものも、この方向でなにか具体化をはかろうとしているのですかね?

「人づくり革命」の担当閣僚は、茂木敏充経済財政再生担当大臣の兼務だそうで、結局、経済政策の土俵の上の相撲であることは間違いないようです。


今年のお盆、大阪の次男は、一足先に我が家に帰省し、別行動だったママと姫に合流し、昨夜は我が家に一泊しました。

いとこたちたちは、入れ替わり立ち替わり再会があって、テンション高く、賑やかでした。

一昨日の夜明け頃→朝の風景です。
常山が見える場所。

















朝が涼しくなりました。



麦飯山の上空が朝焼けです。

今日はここまで。


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啄木かるた補遺、の巻 [文学雑話]

昨日の記事に、古い授業プリントをご紹介しましたが、その冒頭にこんな意味不明な一節がありました。

  授業メモ
*私と啄木  
       ①啄木カルタ
       ②屋根裏の古書
       ③ローマ字日記、金田一京助の啄木伝

少しだけ補足説明させていただきます。
「①啄木カルタ」というのは、これです。

色もあせ、散逸、破損しているのはもっともな話で、大昔の少女雑誌「少女の友」の付録だったものらしいのです。

これの元の持ち主は、妻の亡くなった母親。彼女が少女時代に買ってもらった雑誌の付録を、大切に保管してきて、娘であるわが妻に譲ってくれたものであるらしい。年季が入った「お宝」です。
ネットで確かめてみますと、どうやら、昭和10年代、そしておそらく昭和14(
1939)年1月号のものらしいです。
amazonの商品広告(復刻版)を引用します。該当部分を赤字にしました。

 

昭和10年代前半に、中原淳一の表紙画で黄金期を築いた伝説の少女雑誌『少女の友』。
その創刊100周年を記念して、若き日の中原淳一が企画・デザインした超豪華な雑誌付録5点に、『少女の友』のピークともいうべき昭和13年1月号の完全復刻版を加えたプレミアムセットです。
雑誌の付録とは信じがたい愛らしく手の込んだ品々は、その大半が戦災で失われましたが、奇跡的に残っていたアイテムを使ってオリジナルの世界を忠実に再現しています。
【お宝その1】フラワーゲーム(昭和13年1月号付録)
一枚一枚異なる花が描かれた美麗な48枚の札と、12枚の蝶の札からなる花占いカード。まるで小さな宝石のよう。「札合せ占い」「待人占い」「蝶の占い」「時間占い」の4つの占い方をくわしく解説したリーフレットつき。
お宝その2】啄木かるた(昭和14年1月号付録)
時代を超えて愛される石川啄木の歌と、淳一の見事なコラボレーション。発刊当時、読者から大変な反響があった付録を、当時のケースもそのままの形で復刻しました。

【お宝その3】花言葉枝折(昭和8年10月号付録)
精緻な型抜きが施された、重層的な作りのしおり付きカード。凝りに凝った作りの、驚くべき付録。内側の小さな封筒にはしおり5枚が。雲の模様の部分をめくると、花言葉があらわれます。
【お宝その4】バースデーブック(昭和10年1月号付録)
手のひらサイズのサインブック。家族や親しい方に誕生日の日を選んでサインしてもらいます。「その方々のお誕生日の日にお祝いのお手紙をおあげになればどんなにかお喜びになるでせう」(あとがきより)。北原白秋らの詩72編がページを彩ります。
【お宝その5】青い鳥双六(昭和8年1月号付録)
『少女の友』でデビューした半年後、まだ19歳の淳一が描いた双六。童話「青い鳥」をモチーフに描かれた不思議な魅力が漂う作品。淳一の作風の変化を知る上でも貴重。
【お宝その6】『少女の友』昭和13年1月新年号
《おもな記事》木村伊兵衛(グラビア)「新春」/中原淳一(口絵)「雪の夜」/松本かつぢ(漫画)「お正月漫画アルバム」「くるくるクルミちゃん」/吉屋信子(小説)「伴先生」/ブデル原作・岩下恵美子訳(翻訳小説)「花籠」/横山隆一(漫画)「ポチをさがして三千里」/川端康成(小説)「乙女の港」/山中峯太郎(小説)「聖なる翼」/平井房人(雑記)「宝塚秘話スター生立記 萬代峰子の巻」/吉川英治(時代小説)「やまどり文庫」


啄木かるた

啄木かるた

  • 作者: 中原 淳一
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2001/12
  • メディア: 単行本
『少女の友』創刊100周年記念号 明治・大正・昭和ベストセレクション

『少女の友』創刊100周年記念号 明治・大正・昭和ベストセレクション

  • 作者: 実業之日本社
  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2009/03/13
  • メディア: 単行本


すでに日中戦争の戦火は拡大し、がんじがらめの国家総動員体制が敷かれていく過程にありながら、まだ日米開戦前というこの時代。がちがちの軍国調ではない、このようなやさしげな付録が、少女たちを育んでいたことは、むしろ意外な感に打たれます。
それからわずかの年月に、国中が狭量な軍国主義に染め上げられていき、「女々しい」啄木カルタなど潔く放擲して惜しがらない「忠良な」軍国少年、軍国少女たちが育てられていくことになるのでしょう。
この記事に書かれた疎ましい時代が、目の前に待ち受けているのです。
◇溶けそうな暑さすべなく空を見る
◇青空に背いて栗の花匂う

 so-netブログの大先輩落合道人様のブログ「落合道人 Ochiai-Dojin」に、戦時スローガンをあつかった本の紹介記事があり、興味深く拝読させて戴きました。↓
標語「アメリカ人をぶち殺せ!」の1944年
一部を引用させていただきます。
  戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』がそれだ。特に、若い子にはお奨めの1冊だ。
 当時の政府が、いかに国民から搾りとることだけを考え、すべてを戦争へと投入していったかが当時の世相とともに、じかに感じ取れる「作品」ばかりだ。それらの多くは、今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。中には、国民をそのものズバリ「寄生虫」や「屑(クズ)」と表現している標語さえ存在している。
〈中略)
戦時の標語やスローガンというと、「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」などが有名だが、これらの「作品」は比較的まだ出来がいいほうだといえる。そのせいか、新聞や雑誌にも多く取り上げられ、ちまたでも広く知られるようになった「作品」だ。ところが、戦争の敗色が徐々に濃くなり、表現の工夫や語呂あわせなどしている余裕がなくなってくると、なにも考えずにただひたすら絶叫を繰り返すだけの、思考さえ停止したような「作品」が急増していく。
 黙って働き 笑って納税 1937年
 護る軍機は 妻子も他人 1938年
 日の丸持つ手に 金を持つな 1939年
 小さいお手々が 亜細亜を握る 1939年
 国のためなら 愛児も金も 1939年
 金は政府へ 身は大君(おおきみ)へ 1939年
 支那の子供も 日本の言葉 1939年
 笑顔で受取る 召集令 1939年
 飾る体に 汚れる心 1939年
 聖戦へ 贅沢抜きの 衣食住 1940年
 家庭は 小さな翼賛会 1940年
 男の操(みさお)だ 変るな職場 1940年
 美食装飾 銃後の恥辱 1940年
 りつぱな戦死とゑがほ(笑顔)の老母 1940年
 屑(くず)も俺等も七生報国 1940年
 翼賛は 戸毎に下る 動員令 1941年
 強く育てよ 召される子ども 1941年
 働いて 耐えて笑つて 御奉公 1941年
 ▼
 屠れ米英 われらの敵だ 1941年
 節米は 毎日できる 御奉公 1941年
 飾らぬわたし 飲まないあなた 1941年
 戦場より危ない酒場 1941年
 酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫 1941年
 子も馬も 捧げて次は 鉄と銅 1941年
 遊山ではないぞ 練磨のハイキング 1941年
 まだまだ足りない 辛抱努力 1941年
 国策に 理屈は抜きだ 実践だ 1941年
 国が第一 私は第二 1941年
 任務は重く 命は軽く 1941年
 一億が みな砲台と なる覚悟 1942年
 無職はお国の寄生虫 1942年
 科学戦にも 神を出せ 1942年
 デマはつきもの みな聞きながせ 1942年
 縁起担いで 国担げるか 1942年
 余暇も捧げて 銃後の務(つとめ)  1942年
 迷信は 一等国の 恥曝(さら)し 1942年
 買溜(かいだめ)に 行くな行かすな 隣組 1942年
 二人して 五人育てて 一人前 1942年
 産んで殖やして 育てて皇楯(みたて)  1942年
 日の丸で 埋めよ倫敦(ロンドン) 紐育(ニューヨーク)  1942年
 米英を 消して明るい 世界地図 1942年
 飾る心が すでに敵 1942年
 買溜めは 米英の手先 1943年
 分ける配給 不平を言ふな 1943年
 初湯から 御楯と願う 国の母 1943年
 看板から 米英色を抹殺しよう 1943年
 嬉しいな 僕の貯金が 弾になる 1943年
 百年の うらみを晴らせ 日本刀 1943年
 理屈ぬき 贅沢抜きで 勝抜かう 1943年
 アメリカ人をぶち殺せ! 1944年
 米鬼を一匹も生かすな! 1945年

さて、手元の啄木カルタをじっくり見てみます。
上に並べたのが、読み札。啄木の短歌が書いてあります。
下の絵札は、中原淳一の挿絵。

その絵札の裏に、下の句が印刷されています。
これが取り札になります。

戦前・戦時の日本の少女たちに、このような、優美なカルタ遊びを楽しむことができる瞬間があったことが、儚い幻のように痛ましく思われてなりません。
さて、明後日は、72年目の終戦記念日。
この72年間は、少年少女たちの、穏やかなしあわせの記憶が、少なくとも戦争という凶悪な暴力によって、踏みにじられ破り捨てられる事態だけは、辛うじて食い止め続けてきています。そのささやかな幸せの思い出が、これから先も永遠に、いつまでも壊されることなく、彼ら彼女らの心に生き続けますように。そしてその弟や妹、こや孫の代までも、憲法に謳われた平和が、揺るぐことなく引き継がれますようにに、と、願わずにはいられません。

「②屋根裏の古書」、「③ローマ字日記、金田一京助の啄木伝」については
、また改めて触れる機会があるでしょうか?
昨夜は、久々に涼しさを感じ、心地よい眠りを得たせいか、目覚めも快適でした。大阪から帰省している次男が、岡山は涼しい、と連発しますが、確かに今日の午前中のしのぎやすさは特筆ものです。ただ、さすがに日が高くなり、強い日射しが室内に入り込むようになると、エアコンのお世話にならないではいられません。
夕方ちょっと畑に行き、草の茂った様子を確かめ(草抜きをしようとわずかに試みて、すぐに断念)たり、オクラを収穫したりなどしてきましたが、汗の量も着替えが不要なレベルでした。
今日の田園風景です。

正面に見えるのは常山。

正面右の嶺が金甲山、左が怒塚山。

稲はすくすくと成長しているようです。
今日はこれにて。

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啄木とその父のこと [文学雑話]

昨日の記事で、啄木のこの短歌を引用しました。

石をもて追はるるごとく
ふるさとをでしかなしみ
消ゆる時なし

啄木が、「石をもて追はるるごとく」ふるさとを出たのはなぜか?
というような話題に進もうとして、昨日は力がつきました。
以前、こんな記事を書きました。一部抜粋します。
棄てかねしフォルダにあまたのファイルあり ふるき切なき恋文のごと(2014-07-25)

昔(二〇世紀です)、夜間定時制高校に勤めていた頃、4年生(最上級学年)で出題したテスト問題を、ファイル庫から見つけました。18歳もいれば、成人もいる多彩な顔ぶれでした。定型詩の調べは、彼らの胸に響くようでした。
相当昔のこと故、個人情報とか、「学習指導要領」との整合性などなど、ややこしいことは、もう「時効」でしょうし、なにか特段の差し障りはないものと思い、紹介することにします。
(中略)
(6)本名は一(はじめ)。岩手県に生まれる。
岩手県日戸村の曹洞宗常光寺の住職の子として生まれる。父が渋民村(しぶたみむら)の宝徳寺に転じたので、彼もここで成長し、渋民小学校を経て盛岡中学校に入学。在学中、上級生のⅣ  らに刺激され雑誌「」に傾倒(けいとう)、詩歌を志す。
一六歳の秋中途退学して上京するが、病で帰郷。渋民小学校の代用教員をしながら小説「雲は天才である」などを書くが、免職(めんしょく)となり、北海道に渡る。函館、小樽、釧路などを転々とした後上京、小説などを書くが成功せず、朝日新聞社の校正係となる。生活苦・結核の進行などの現実の中で、初期の浪漫的傾向から、実生活の感情を日常語で歌う生活派へと変貌した。
第一歌集「」は、上京以後の短歌551首を収録。自然や季節の描写といった、それまでの短歌形式から離れ、故郷の渋民村や北海道生活の感傷的回顧、窮乏生活の哀感、時代への批判意識など、生活に即した実感が三行分かち書きという新形式によって表現されている。死後に出版された第二歌集「悲しき玩具(がんぐ)」は、貧困と病苦、生後間もない愛児の急逝(きゅうせい)、重苦しさを深める時代・社会状況など、深刻な現実を見据えながら、「新しい明日」の到来を願う思いを歌った。彼の歌は、その平明さと切実さによって広く親しまれ、今も愛唱されている。
注 空白部にはそれぞれ、Ⅳ金田一京助 Ⅱ明星 Ⅴ一握の砂が入ります。

啄木にとっての「ふるさと」とは、岩手県渋民村です。この地にあった宝徳寺に父・石川一禎が住職として赴任し、幼い啄木(一=はじめ)も、ここで育ったのでした。
啄木が、この「ふるさと」を追われることになった最大のきっかけは、父一禎が宗費滞納という金銭トラブルで、宝徳寺住職を罷免、家族とともに放逐された事件によります。1905年 明治38年、啄木 満18歳のときでした。
そのあたりのいきさつを、授業プリントにもまとめたことがありました。何回か使い回して使用しましたが、今手元にあるのは、1997年作成のプリントです。該当箇所を、赤字で強調してみます。。

 
国語Ⅰプリント「短歌」1       97.5
 
授業メモ
*私と啄木  
       ①啄木カルタ
       ②屋根裏の古書
       ③ローマ字日記、金田一京助の啄木伝
*代表作品
小説「雲は天才である」明治三九(1906)年(21歳)
歌集「一握の砂」明治四三(1910)年(25歳)
1.東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
2.頬(ほ)につたふ 涙のごはず 一握の砂を示しし人を忘れず
3.大海にむかひて一人 七八日(ななようか) 泣きなむとすと家を出でにき
4.砂山の砂に腹ばい 初恋の 痛みを遠くおもひ出づる日
5.大といふ字を百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて帰り来れり
6.ゆゑもなく海が見たくて 海に来ぬ こころ傷(いた)みてたへがたき日に
 
歌集「悲しき玩具」明治四五(1912)年(27歳)
7.呼吸(いき)すれば、 胸のうちにて鳴る音あり。凩(こがらし)よりもさびしきその音!
 
石川啄木 歌抄
* 少年時代の追憶
8.その昔 小学校の柾屋根(まさやね)に 我が投げし鞠いかにかなりけむ
9.己(おの)が名をほのかによびて 涙せし
 十四の春にかへる術なし
 
10.不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心
11.教室の窓より逃げて ただ一人 かの城あとに寝に行きしかな
12.晴れし空仰げばいつも 口笛を吹きたくなりて 吹きてあそびき
13.夜寝ても口笛吹きぬ 口笛は 十五の我の歌にしありけり
14.よく叱る師ありき 髭の似たるより山羊と名づけて 口真似もしき
15.学校の図書庫の裏の秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず
16.その後に我を捨てし友も あの頃はともに書(ふみ)読み 共にあそびき
 
* 恋17.師も友も知らで責めにき 謎に似る わが学業のおこたりの因(もと)
18.先んじて恋の甘さと 悲しさを知りし我なり 先んじて老ゆ
19.我が恋を 初めて友にうち明けし夜のことなど 思い出づる日
20.城跡の 石に腰かけ 禁制の木の実をひとり味わいしこと
 
  ☆盛岡中128人中10番で入学→1年25番→2年46番→3年86番→4年カンニング→5年1学期赤点多数、欠席207時間→退学(16歳)。 この中退が、彼の生活を貧困に追い込む。
代用教員給料8円。 朝日新聞校正係25円←→漱石200円
 ☆20歳で節子と結婚した啄木は、小学校の代用教員として、8円の低賃金で生計を立てるが、「日本一の代用教員」という自負を持って、教職に情熱を傾ける。当時の封建的気風に対して、子どもの個性を尊重した教育を目指す(小説「雲は天才である」参照)。子どもたちの立場を守って校長排斥のストライキを指導し、解雇。
一方宝徳寺という寺の雇われ住職だった父一禎は、息子の学資、生活費を工面するために寺の公金を使い込み、それが元で、寺から追い出される。
 ふるさとを追われた啄木は、北海道へ渡るが、以来二度と故郷渋民村へ帰ることはなかった。北海道でも、代用教員、新聞記者などを転々としながら作品を書くが、本格的な創作生活にはいるため、明治四一(1908)年、23歳の時、上京する。苦境のもとで、「帰りたくても帰れない」故郷への思いはつのる。
 
*北海道で 
 
21.かなしきは小樽の町よ 歌うことなき人々の 声の荒さよ
22.かの年のかの新聞の 初雪の記事を書きしは 我なりしかな
23.しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな*望郷の念
24.石をもて追はるるごとく ふるさとを出でし悲しみ
 消ゆる時なし
 
25.かにかくに渋民村は恋しかり
 おもひでの山
 おもひでの川
 
26.病のごと
 思郷のこヽろ湧く日なり
 目にあをぞらの煙かなしも
 
27.ふるさとの訛(なまり)なつかし
 停車場(ていしゃば)の人ごみの中に
 そを聴きにゆく
 
28.やはらかに柳あをめる北上の
 岸辺目に見ゆ
 泣けとごとくに
 
29.ふるさとの山に向かひて
 言ふことなし
 ふるさとの山はありがたきかな
 
30.別れをれば妹いとしも
 赤き緒の
 下駄など欲しとわめく子なりし
 
31.やまひある獣のごとき
 わがこころ
 ふるさとのこと聞けばおとなし
 
32.なつかしき
 故郷に帰る思ひあり、
 久し振りにて汽車に乗りしに
 
33.それとなく
 郷里のことなど語りいでて
 秋の夜に焼く餅のにおいかな
 
34.あはれかの我の教えし
 子等もまた
 やがてふるさとを棄てて出づるらん
 
* 生活苦、苛立ちと涙
35.はたらけど 
 はたらけどなおわが生活(くらし)楽にならざり
 じっと手を見る
 
36.何故こうかとなさけなくなり、
 弱い心を何度も叱り 
 金借りに行く
37.たわむれに母を背負いて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず
 
38.わが泣くを少女(おとめ)らきかば
 病犬(やまいぬ)の
 月に吠ゆるに似たりといふらむ
 
39.こころよく
 われにはたらく仕事あれ
 それをし遂げて死なむと思ふ
 
40.高きより飛び降りるごとき心もて
 この一生を
 終るすべなきか
 
41.青空に消え行く煙 さびしくも消えゆく煙 われにし似るか
42.「さばかりの事に死ぬるや」
 「さばかりの事に生くるや」
 止せ止せ問答
 
43.雨降れば
 わが家の誰も誰も沈める顔す
 雨はれよかし
 
44.友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
 花を買ひ来て
 妻としたしむ
 
45.何か一つ不思議を示し
 人みなのおどろくひまに
 消えむと思ふ
 
46.非凡なる人のごとくにふるまえる
 後のさびしさは
 何にかたぐへむ
 
47.なみだなみだ
 不思議なるかな
 それをもて洗へば心戯(おど)けたくなれり
 
48.負けたるも我にてありき あらそひの因(もと)も我なりしと 今は思えり
49.わがこころ けふもひそかに泣かむとす 友みなおのが道をあゆめり
50.こころよく
 人をほめてみたくなりにけり
 利己の心に倦(う)めるさびしさ
 
51.ある日のこと
 室(へや)の障子をはりかえぬ
 その日はそれにて心なごみき
 
52.誰が見ても
 われをなつかしくなるごとき
 長き手紙を書きたき夕べ
 
53.人といふ人の心に
 ひとりづつ囚人がゐて
 うめくかなしさ
 
* 愛児の死
☆明治四三年10月4日.長男真一誕生。この日、処女歌集「一握の砂」出版の契約成立し、20円の稿料を得る。が、10月22日、長男死去、稿料は葬儀代に消える。
54.夜おそく つとめ先よりかえり来て 今死にしてふ児を抱けるかな
55.死にし児の 胸に注射の針を刺す 医者の手もとにあつまる心
56.かなしみの強くいたらぬ さびしさよ わが児のからだ冷えてゆけども
57.かなしくも 夜明くるまでは残りいぬ 息きれし児の肌のぬくもり
 
58.真白なる大根の根の肥ゆる頃
 肥えて生まれて
 やがて死にし子
*不治の病
59.呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。 凩よりもさびしきその音!
60.目閉づれど、 心にうかぶ何もなし。 さびしくも、また、目をあけるかな。
61.今日もまた胸に痛みあり。 死ぬならば、 ふるさとに行きて死なんと思う。
62.何処(どこ)やらむかすかに虫の なくごとき こころ細さを今日もおぼゆる
63.真夜中にふと目が覚めて、
 わけもなく泣きたくなりて、
 蒲団をかぶれる
64.病院に来て
 妻や子をいつくしむ
 まことの我にかへりけるかな
 
65.子を叱る、あはれ、この心よ。
 熱高き日の癖とのみ
 妻よ、思ふな。
 
66.新しきからだを欲しと思ひけり、
 手術の傷の
 痕を撫でつつ
 
67.まくら辺に子を座らせて、
 まじまじとその顔を見れば、
 逃げてゆきしかな。
 
68.その親にも、
 親の親にも似るなかれ-
 かく汝(な)が父は思へるぞ、子よ。
 
69.かなしきは、
(われもしかりき)
 叱れども、打てども泣かぬ子の心なる。
 
70.猫を飼はば、
 その猫がまた争ひの種となるらむ、
 かなしき我が家(いえ)。
71.児を叱れば、
 泣いて、寝入りぬ。
 口少しあけし寝顔にさはりてみるかな。
 
72.何思ひけむ-
 玩具をすてておとなしく、
 わが側に来て子の座りたる。
 
73.昼寝せし児の枕辺に
 人形を買ひ来てかざり、
 ひとり楽しむ。
 
* 社会変革への願い
74.百姓の多くは酒をやめしという。 もっと困らば、 何をやめるらん。
75.友も妻もかなしと思うらし 病みても猶、 革命のこと口に絶たねば。
76.「労働者」「革命」などといふ言葉を
 聞き覚えたる
 五歳の子かな。
 
77.新しき明日の来たるを信ずという 自分の言葉に 嘘はなけれど-----
78.何となく 今年はよい事あるごとし 元日の朝晴れて風無し

☆その明治四十五年一月、母喀血。三月母死去。四月十三日、啄木死去(27歳)。六月十四日次女誕生、六月二十日第二歌集「悲しき玩具」出版。翌大正二年五月五日、妻節子死去(28歳)。

大雑把すぎるまとめでした。
少々補足しておきます。
1904年(明治37年)2月10日日露戦争開戦。1905年(明治38年)5月27日日本海海戦。統合元帥率いる日本艦隊がバルチック艦隊を破ったというニュースの国中が沸き立っていた頃でした。啄木自身、旺盛な創作活動を展開し、『明星』『時代思潮』、『帝国文学』(3月)、『太陽』、『白百合』等に次々と作品を発表する一方で、恋人堀合節子との婚約が整い、新婚生活への希望に満ちた時期でもありました。
 そんな1904年12月26日 父一禎は、宗費113円滞納のため、住職罷免の処分を受けます(曹洞宗宗報第194号)。 処女詩集『あこがれ』刊行のため上京していた啄木は、年を越してもこのことを知らず、与謝野寛が題名と後書きを、上田敏が序詩を寄せて『あこがれ』が世に出ることになった3月、父からの手紙で、一家を経済的苦難のどん底に突き落とす「住職罷免」の処分を知ることになるのでした。
貧困と病気と孤独に彩られた啄木の生涯を、たどってみることはまた別の機会に譲るとして、今日は、一足飛びに、父・石川一禎の終焉の地に目を向けてみることにします。
ずっと前、こんな記事を書きました。2013年8月の記事です。

高知の夏は、静かな雨だった。


 駅前(南広場)の片隅に、石川啄木とその父の歌碑を見つけました。なぜ高知に啄木?というミステリーは、少し好奇心をくすぐりました。
Imgp1093.jpg
歌碑に刻まれている歌の紹介掲示です。
Imgp1094.jpg
啄木の話題は、又の機会に触れてみたいと想っています。

「又の機会」と書いてから、年月が経ちました。
上の歌碑の碑文を写すことで、ひとまず締めくくることにします。

 啄木の父石川一禎は嘉永三(一八五〇)年岩手県に生まれた。渋民村の宝徳寺住職を失職、一家は離散。次女とらの夫山本千三郎が神戸鉄道局高知出張所長として一九二五年に赴任し、一禎も高知に移住した。穏やかな晩年を過ごし、一九二七年二月二〇日に所長官舎(北東約一〇〇m)で七六歳の生涯を閉じた。三八五〇余首の歌稿「みだれ蘆」を残し、啄木の文学にも影響を与えた。

よく怒(いか)る人にてありしわが父の
日ごろ怒らず
怒れと思ふ   啄木

寒けれど衣かるべき方もなし
かかり小舟に旅ねせし夜は    一禎

二〇〇九年九月一二日
啄木の父石川一禎終焉の地に歌碑を建てる会 建之

この碑文にある「次女とら」は、啄木の姉に当たる人のようです。
小樽市hpの「おたる文学散歩」第3話に、こんな記事が載っています。

 石川啄木一家は、明治40年9月、新しい新聞社、小樽日報社に赴任するため小樽に来たとき、まず姉夫妻の家に滞在しました。姉の夫、山本千三郎は北海道帝国鉄道管理局中央小樽駅(現小樽駅)の駅長となっていて、その官舎は現在の三角市場付近にありました。
 啄木は新聞記者として熱心に仕事をしました。自分が執筆した記事の切り抜き帳に『小樽のかたみ』と名付けたものが、今も残されています。
 かの年のかの新聞の初雪の/記事を書きしは/我なりしかな
 かなしきは小樽の町よ/歌ふことなき人人の/声の荒さよ
 けれども社内の争いにより、12月には小樽日報社を退社。翌明治41年1月19日、小樽駅を発ち、釧路へ向かいました。
 子を負ひて/雪の吹き入る停車場に/われ見送りし妻の眉かな(小樽駅前歌碑歌)
 忘れ来し煙草を思ふ/ゆけどゆけど/山なほ遠き雪の野の汽車
(短歌はいずれも石川啄木『一握の砂』より)
 なお、石川啄木が世話になった山本千三郎は、小樽駅の初代駅長の後、岩見沢駅長、室蘭運輸事務所長を歴任。四国、高知駅長を最後に退職し、鉄道員として生涯を全うしましたが、啄木の老父や、妻であり啄木の姉であったトラを最期までみとりました。

今朝は少し涼しいかなと感じた散歩でしたが、やはり、帰る頃には相当の暑さでした。












今夜→明日未明、「ペルセウス座流星群」の活動がピークになるそうですが、さてどうでしょうか?
きょうはこれにて。

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山の日にふるさとの山を思う、の巻 [今日の暦]

今日は「山の日」だそうです。
「山」と言えば、いつも啄木のこの歌が思い浮かびます。

ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな

啄木の第一歌集「一握の砂」に収められた歌です。

「一握の砂」から、他にも「ふるさとの山」を歌った歌を拾ってみましょう。


二日前に山の絵見しが
今朝になりて
にはかに恋しふるさとの山

汽車の窓
はるかに北にふるさとの山見え来くれば
襟えりを正ただすも

かにかくに渋民村しぶたみむらは恋しかり
おもひでの山
おもひでの川





「山」に限らず、「ふるさと」は啄木にとって、格別の存在だったのでしょう。

「一握の砂」におさめられた歌だけでも、「ふるさと」を詠んだものがこんなにあります


ふるさとの父のせきするたび
咳のづるや
めばはかなし

あかじみしあはせえり
かなしくも
ふるさとの胡桃くるみくるにほひす

ふるさとのなまりなつかし
停車場ていしやばの人ごみの中に
そをきにゆく

やまひあるけもののごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞けばおとなし

ふと思ふ
ふるさとにゐて日毎ひごときしすずめの鳴くを
三年みとせ聴かざり

ふるさとの
かの路傍みちばたのすて石よ
今年も草にうづもれしらむ

このごろは
母も時時ときどきふるさとのことを言ひ
秋にれるなり

田もはたも売りて酒のみ
ほろびゆくふるさとびと
心寄する日

あはれかの我の教へし
子等こらもまた
やがてふるさとをててづるらむ

ふるさとをし子等の
相会あいあひて
よろこぶにまさるかなしみはなし

ふるさとの
村医そんいの妻のつつましき櫛巻くしまきなども
なつかしきかな

その名さへ忘られし頃
飄然へうぜんとふるさとに来て
せきせし男

せうしんの役場の書記の
気のれしうはさに立てる
ふるさとの秋

わが思ふこと
おほかたはただしかり
ふるさとのたよりけるあした

ふるさとの土をわが踏めば
何がなしに足かろくなり
おもれり

ふるさとにりてづ心いたむかな
道広くなり
橋もあたらし

そのかみの神童しんどうの名の
かなしさよ
ふるさとに来て泣くはそのこと

ふるさとの停車場路ていしやばみち
川ばたの
胡桃くるみの下に小石ひろへり

ふるさとの空とほみかも
たかにひとりのぼりて
うれひてくだ

ふるさとの寺の御廊みらう
みにける
小櫛をぐしてふを夢にみしかな

はたはたときびの葉鳴れる
ふるさとの軒端のきばなつかし
秋風吹けば

旅の子の
ふるさとにて眠るがに
げに静かにも冬のしかな

ふるさとの
麦のかをりをなつかしむ
女のまゆにこころひかれき


かれの「ふるさと」への思いは、この原体験によって、いっそう増幅したのだったでしょう。

 石をもて追はるるごとく
ふるさとをでしかなしみ
消ゆる時なし

以下、次回に話題は続きます。
きょうは、ふるさとの山の中腹にあるお墓参りに、都合がついて行けるものだけ行ってきました。
この前刈った草が、もう存分に伸びているので、少し草刈りもしました。
栗の毬がたわわに、ふくらんでいました。

炎天下、アマガエルの姿を複数匹見ました。







午後、にわか雨がありました。
このカエル君たち、喜んだことでしょう。
沢ガニ、今日も元気そう。

この池の鯉たちのなかには、何十年も生きているものもいます。ショップで稚魚のとき買った錦鯉のほか、老父が、ずっと以前、川で釣り上げてきた野鯉も何匹かいます。
孫たちは、餌をやるのが大好きです。
この孫たちの親も、子どもの頃、喜んで餌をやったものでした。

先日、N先輩が、朝鮮北部の「文玉面」周辺の地図(のコピー)を送ってくださった(下の記事参照)のにくわえて、新たに、満浦の航空写真についてのネット上の情報を教えてくださいました。

思いがけないプレゼント、の巻


コピーして父に渡すと、懐かしがっていました。生まれてから、わずか数年のことですが、ほかならぬ「ふるさとの山、ふるさとの川」ですから。
今日はここまで。

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こどものともとながさきのひ、のまき [今日の暦]


昨日は、長女が「チケットが3枚あるから」とこんな催しに誘ってくれました。



「こどものとも」発刊元の福音館のFBやHPの記事から、催しのあらましを引用します。

●こどものとも創刊60周年記念「絵本とおともだち」展は、倉敷へ。
倉敷天満屋にて明日から開催!

2016年に創刊から60年を迎えた月刊絵本「こどものとも」。記念イベント「絵本とおともだち」展はまだまだ続きます。夏休み期間の7月25日(火)~8月21日(月)まで、岡山県倉敷市の倉敷天満屋にて開催されます。

実際に乗って写真撮影ができる「ぐりとぐらのたまごのくるま」や、のぞいて楽しむ「暗い世界」など、子どもたちが絵本の世界を体感できる展示のほか、作品原画、「こどものとも」の礎を築いた作家・画家の愛用品展示、20人の絵本作家の記念メッセージボードなど、大人のかたにじっくり味わっていただける展示もご用意しています。また、会期中には、ライブペインティング、読み聞かせ会、「こどものともスタンプラリー」など、盛りだくさんなイベントも開催されます。どうぞご家族みんなで倉敷天満屋にいらしてください。
http://www.tenmaya.co.jp/webchirashi/kurashiki/00566_1/



倉敷駅の景観は大きく変わりました。
新しくなってから、来るのは初めてです。

左前方にあるデパートが会場です。
県知事さんの会社です。

スタバはあるけど、砂場はありません、、。

こんな催しがあっても、デパート内はひっそりとしています。
アベノミクスで庶民の懐は潤っているのですか?

お昼時とあって、まずは腹ごしらえ。



パスタ・イタリア料理グループと、ラーメン・四川料理グループに分かれました。

私はあんかけ焼きそば。
美味でした。

撮影禁止場所がおおく、会場の様子はお伝えできません。
余裕があれば美観地区など歩いてみようかと思っていましたが、そうも行かず、駐車場近くの白壁の建物をパチリ。



以前この子らと倉敷を歩いたのは、↓この時でした。

倉敷のそぞろ歩きは孫の供(2014年8月)


 商店街(アーケード街)は、定休日のお店、お盆休みのお店が多く、閉店・休業状態のお店も少なくないようで、さしずめシャッター街の趣でした。

それでも開いているお店を覗き覗きしながら、行き当たりばったり、周辺を歩きまわり、こんな所に行きました。

阿智神社

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 美観地区

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なぜか、こんな所も通りました。駐車場は遠かった。

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 兄は冷たいうどん、弟はラーメンを食べたいと行って譲りません。ラーメン屋とうどん屋は何軒もありましたが、スルーです。和風のお食事処を覗きますが、ラーメンとうどんのリクエストが両立できません。

車で移動することにし、ファミレスなら両方のメニューがあるかもと、入ってみましたが、残念、当て外れ。兄がオムライスで妥協し、弟はお子様ラーメンで満足して、午前中のデートは終わりました。


兄がもっと小さいとき、ばあばとともに美観地区周辺を歩いた記憶があるのですが、はっきり思い出せません。ばあばによると、高橋大輔の凱旋パレードに出くわしたというのです。ネット情報によると、どうも2010年4月6日のことらしいですが、写真が見つかりません。年月が経つと、記憶も記録もアイマイになり、何事につけても諸行無常を感じます。
今日は長崎の原爆記念日。
72年前のできごとを、決して風化させないで、人類の記憶と記録にとどめなくてはと思います。
毎日新聞のweb版記事はこう伝えています

長崎は9日、72回目の「原爆の日」を迎え、早朝から祈りに包まれた。長崎市の平和公園では平和祈念式典が開かれ、被爆者や遺族ら約5400人が出席した。田上富久市長は平和宣言で、7月に国連で採択された核兵器禁止条約の交渉会議に参加しなかった日本政府の姿勢を「被爆地は到底理解できない」と厳しく非難し、条約を批准するよう迫った。一方、安倍晋三首相は6日の広島市での平和記念式典でのあいさつと同様、条約に言及しなかった。
 長崎は9日、72回目の「原爆の日」を迎え、早朝から祈りに包まれた。長崎市の平和公園では平和祈念式典が開かれ、被爆者や遺族ら約5400人が出席した。田上富久市長は平和宣言で、7月に国連で採択された核兵器禁止条約の交渉会議に参加しなかった日本政府の姿勢を「被爆地は到底理解できない」と厳しく非難し、条約を批准するよう迫った。一方、安倍晋三首相は6日の広島市での平和記念式典でのあいさつと同様、条約に言及しなかった。

「積極的平和主義」などと言う勇ましいスローガンを掲げながら、核兵器禁止条約に消極的で妨害的な姿勢をとり続けた、唯一の被爆国の首相の名前も、人類の記憶と記録に刻んでおかねばなりますまい。
以前、この日には、こんな記事を書きました。


 小3の孫が、8月6日、広島、テニアン島、B29、エノラ・ゲイ、リトルボーイ、8月9日、長崎、8月15日、降参、等の言葉を覚えました。
日本が戦っていた相手国はどこか、同盟を結んでいた相手はどこか、原爆を投下した国はどこか、、、などの話題に、中学生も首をかしげています。ポツダム宣言は知らないそうです(つまびらかではない、という首相とどちらが上等かわかりませんが)。
戦争体験の伝承は、このように薄らいでいることは確かです。
今日は長崎の日。
(中略)
中学生の孫は、広島は知っていましたが、長崎が浮かびませんでした。
知識がすべてではないでしょうが、知らなければ思うこともできないでしょう。


今日はこれにて。

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野分のまたの日、の巻 [今日の暦]

台風5号が通り過ぎました。
前日は、風の影響はあるものの、こんな青空でした。





それが、未明から風雨が強まり、定期検査を予約していた病院への行き帰りは、なかなかのどしゃ降りでした。。

瀬戸大橋は通行止めの表示が出ています。

すこし風雨が緩んだ午後、傘を差して散歩してみました。からだもカメラもぐっしょり濡れました。
雨に洗われる空蝉。

雨の中、声を張り上げて鳴くクマゼミ・



アブラゼミ。

一夜明けて、今朝は、すがすがしい青空です。
枕草子に「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ。」という章段がありました。「台風の次の日は、めっちゃおもろうて、いけてるやん」というお話です。「あはれなり」(=しみじみとした情趣)と「をかし」(=知性を刺激する興趣)が、両方味わえるというのですね。
白い芙蓉。

正面に見えるふた瘤の山。右が麦飯山でしょうか?



以前、◇ムルデルの干拓堤防、の巻の記事で、麦飯山(麦飯山)の説明を、「角川日本地名大辞典 33 岡山県」から引用しました。

  むぎいいやま 麦飯山<玉野市>
玉野市八浜町大崎と槌ヶ原の間にある山。 標高232m。 古生代泥質片岩からなる。近くの金甲山・怒塚(いかづか)山・ 常山などとともにその突出した山容から「屋根破り」の異称がある。
戦国期に山城があったことが知られ, 麦飯山の西約2.5kmにある常山にあった常山城主明石景行の弟明石源三郎が弘治・永禄年間のころ居城していたという。
麦飯山城はのち毛利氏の手に落ち, その毛利軍と岡山城主であった宇喜多氏の軍勢が激突したハ,浜合戦はよく知られている。北麓を J R宇野線が走り,南麓は国道30号が通る。

これはいつもの常山です。


昨日が立秋でした。
まだまだ、秋は遠い、と毎年同じようなことを書いています。2014年の記事を引用します。
秋立つやなまあたたかきかぜなれど

 そういえば、台風の影響もあるのでしょうが、今朝は少し涼しく感じます。実際、朝8時の気温は26℃と、散歩中も快適でした。。日中の最高気温も、31℃~32℃と予想されており、真夏日とはいえピーク時からは随分しのぎやすくなりそうです。

もちろんまた、暑さのぶり返しはありましょうが、だんだんに秋に向かっていることは間違いなさそうです。
散歩中に出会う蝉も、最も暑い頃が発生のピークというクマゼミの姿が薄れ、やや涼しさを好むとされるアブラゼミの比率が増してきたようです。
(中略)
今日にちなんだ歌を一つ。

秋立つ日よめる
秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる  藤原 敏行

【解釈】  暦の上では立秋の今日、「秋がやってきた」と、目にははっきり見えないけれど、吹く風の音にはっと気づかされることだよ。

 「来ぬ」は、「きぬ」と読みます。カ行変格活用の「来(く)」の連用形に、完了・強意の助動詞「ぬ」の終止形がついたもので、「来た。来てしまった」の意味になります。

もしこれを「こぬ」と読むと、 カ行変格活用の「来(く)」の未然形に、打消の助動詞「ず」の連体形がついたことになり、「来ない」の意味になります。

「ぬ」は連用形接続、「ず」は未然形接続の助動詞ですから。→試験に出るよ(笑)。
形容動詞「さやかなり」は、動詞「冴ゆ」につながる言葉です。現代語の「冴える」も、くっきり、はっきり、クリアーに感じられる意味です。「さやかなり」は「冴えてる」ってカンジですかね。

「おどろかれぬる」は、動詞「おどろく」+自発の助動詞「る」+完了の助動詞「ぬ」がつながったものです。

古語の「おどろく」には、①目が覚める。②はっと気づく、③びっくりする、などの意味があります。ここでは②の意味です。

助動詞「る」には、①受身(~によって~される)、②尊敬(~なさる)、③可能(~できる)、④自発(自然と~される)の用法があります。④が、この語の本来の意味だったようです。この歌の場合も、④です。

ちなみに最後の語「ぬる」は、完了「ぬ」の連体形ですが、文の終わりなのに連体形であるわけは、上に、強調の係助詞「ぞ」が用いられているので、「係り結びの法則」がはたらいているわけですね。
古典文法入門のお時間はここまで。お粗末でした。

 この歌は、古今集に収められている藤原敏行の歌で「秋立つ日よめる」と詞書(ことばがき)にあるとおり、立秋の日に詠んだ歌です。
ですからありのままの実景を詠んだと言うよりは、「立秋」というお題にこと寄せて、頭の中で考えて「理屈」で作り上げた歌と言うべきでしょう。このような傾向は、「理知的」「論理的」と称される古今集の歌風の特徴ともされます。

とはいうものの、肉眼には見えない秋の訪れが、一瞬の聴覚のはたらきによって、はっきりと感じ取られるという繊細な季節感覚は、う~んと、納得せずにいられません。「う~ん、参った」という感じですか。

独断かも知れませんが、視覚よりも聴覚、聴覚よりも嗅覚が、より生理的、より原初的、より直感的な感覚であるように思えますから、まず聴覚で季節の推移を感じるというのは、よくわかります。


黄色く色あせた古びたノートを元に授業する老教師の風情ですな。だが、その老教師はのたもうたそうな。「真実は一つ」。
栗毬が、大きくなっています。
小さい秋?




柿の実も、少しずつ大きくなっています。

今日はこれにて。

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も一度一本の鉛筆、の巻 [雑話]

昨日の記事で氷川きよし君が歌った「一本の鉛筆」について書きかけました。
きょうはそのつづき。何の義理も恩義もありませんが、NHKの回し者みたいな記事を書くことになります。。
8月5日に放送された「思い出のメロディ」という番組を、見るともなく見ていました。
NHKの予告広告をコピーします。






「紅白歌合戦」や、そのほかの歌番組(最近「歌番組」などというものもほとんど目にしませんが)に比べて、格段に心惹かれる歌手や歌曲が多く、話題にすれば切りがないのですが、印象深かったものを二つに絞ってご紹介します。
一つは、倍賞千恵子さんの歌を久々に聴いたことです。何を隠そう、私は隠れ倍賞ファンです(威張っていうことではないですが)。
こんな記事を書いたことがありました。

散歩道のモズが思い出させたこと、の巻


 「俺がいたんじゃ お嫁にゃ行けぬ
わかっちゃいるんだ 妹よ
いつかおまえの 喜ぶような
偉い兄貴に なりたくて
奮闘努力の 甲斐もなく
今日も涙の 今日も涙の
日が落ちる 日が落ちる」
と寅次郎が無条件に愛する妹「さくら」のイメージが強いですが、「歌手」倍賞智恵子サンを、私かなり好きです。レコード、音楽テープ、CD、、、何枚か持ってます。最初に買ったLPレコードは、この人のものだったかも知れません。買うのは、ちょっと照れくさかったのですが、クラシック好きの友人にちらりと打ち明けると、彼も評価していて、安心した覚えがあります。「島原の子守歌」が特に好きかも。

その倍賞さんが、葛飾柴又で「さくらのバラード」を歌いました。じーんときました。
ネット上にこんな投稿が掲載されていましたが、いずれも同感です。


もう一つ、特筆したいのが、昨日も書いた氷川きよしの「一本の鉛筆」。
ネット上でも大好評でした。







美空ひばりと「一本の鉛筆」については、以前も、書きました。

「一本の鉛筆」から始まった、の巻


 ウィキペディアにはこうあります。
 ひばりが最初の広島平和音楽祭に出演するにあたって、総合演出を担当していた映画監督、脚本家の松山善三が作詞を、作曲を映画音楽の作曲で有名な佐藤勝が作曲をそれぞれ手がけた。なお、当初は平和音楽祭の実行委員長も務めていた古賀政男が作曲する予定であったが、古賀が体調を崩したため佐藤勝の作曲となった。『一本の鉛筆』と『八月五日の夜だった』は、ともに広島市への原子爆弾投下について描かれた作品である。
ひばりは、父の増吉が徴兵され、母の喜美枝がその間辛い思いをしていたのをそばで見て育っており、自身も横浜大空襲を体験していたこともあって、戦争嫌いだったという。そのようなこともあってひばりは広島平和音楽祭の出演依頼を快諾したという。
リハーサルでは冷房付きの控室が用意されており、広島テレビのディレクターがひばりを冷房付きの部屋に誘導したところ、ひばりは「広島の人たちはもっと熱かったはずよね」とつぶやき、ずっと猛暑のステージのかたわらにいたという。ステージの上からは「幼かった私にもあの戦争の恐ろしさを忘れることができません」と観客に語りかけた。
それから14年が経った1988年、ひばりは第15回の「音楽祭」に二度目の出演を果たした。当時、ひばりは大腿骨骨頭壊死と慢性肝炎で入院した翌年であり、歩くのがやっとで段差を1人で上ることさえ困難な状況だった。ひばりは出番以外の時は音楽祭の楽屋に運び込んだベッドで点滴を打っていた。しかし、観客の前では笑顔を絶やさず、ステージを降りた時には「来てよかった」と語ったという。翌1989年6月に、ひばりは死去した。

 一本の鉛筆があれば
  私は あなたへの愛を書く
  一本の鉛筆があれば
  戦争はいやだと 私は書く

一本の鉛筆があれば
  八月六日の朝と書く
  一本の鉛筆があれば
  人間のいのちと 私は書く


この時の記事では、スペースの関係で、歌詞の一部分だけを引用したのでした。しかし、氷川君の歌を聴いて、どの歌詞にもゆるがせに出来ない深い意味があることに気づかされました。それほどに、思いを込めて歌う氷川君に、教えられた思いがしたのでした。

サークルおけらの「おけら歌集」にこの 一本の鉛筆の歌の歌詞や音源、その他紹介文が掲載されています。


過去記事で引用しなかったこの部分を、改めてしみじみと胸に刻んだことでした。

一枚のザラ紙があれば
私は子どもが欲しいと書く
一枚のザラ紙があれば
あなたを返してと私は書く

昨日も引いた棘三吉の詩と、なんと響き合うことでしょう。

 

 ちちをかえせ 
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ 
わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの
にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

ちなみに広島の平和祈念公園には、この詩が刻まれた詩碑が建てられており、裏面には大原三八雄氏による英訳が刻まれています。



確か私も、自分で写した写真があるはずなのですがすぐには見当たらず、ネット上からお写真を(無断で)お借りしました。
MITTY様こと三登 浩成様のブログ「広島の視線」の2014年11月25日付の、峠三吉の詩碑 の記事中のお写真です。なお、三登 浩成様は、面識はありませんが、「広島の平和公園でガイドをしているFIGの代表で、胎内被爆者」 (プロフィールより)だそうで、学ぶことの多い記事と、美しく優しいお写真でブログを綴っておられます。



台風5号が接近中で、未明から強い風と雨が、わが地方にも影響を及ぼしています。学童保育はお休みのようで、孫たちの守をしてやれば良いのですが、あいにく今日は午前中、私の通院日。(これから出かけます。)
孫たちは、兄妹仲良く、家の中で、おとなしく、留守番をしている、はずです。
今日はこれにて。


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86を次世代に伝える番組欄 [今日の暦]

72年目の「原爆の日」です。
去年はこんな記事を書きました。

夏が来れば思い出す、の巻(8月に寄せた学級通信3)


 1988年の、一年生のホームルーム担任をしていた頃のものが見つかりました。その25号が、8月6日付「原爆忌特集」と銘打っています。
(中略)文章部分を書き起こしてみます。
夏が来れば思い出す
8月に寄せて

♪♪夏が来れば思い出す---の歌ではないが、蝉鳴き、入道雲の湧く季節になると、8月6日、9日、そして15日のことが思い出される。戦争と平和の問題は、常に考え続けなければならない問題であって、限られた一時期だけ、年中行事のように取りざたするだけでは不足ではないかとも言えようが、でも、年に一度だけでも、考えないよりはマシというものだろう。
戦争体験の「風化」と言うことが言われて久しい。あの、敗戦の日から数えて.早や42年.戦後生まれの世代が日本人口の過半数を占めるに至り、成人として戦争を体験した人々はすでに多くは現役を退いている現在、戦争体験を語り継ぎ、聞き継ぐ機会がきわめてわずかになっていることは、否めない事実だろう。
戦後は遠くなりにけり?
♪♪戦争が終わってぼくらは生まれた、戦争を知らずにぼくらは育った----と、北山修がうたい、いわゆる「戦無派」が青春時代を謳歌していたころ、《政治的には70年安保改定とそれにひきつづく沖縄・小笠原ね返還をめぐる事態が国民世論を二分していたころ、そしてケネディ、ジョンソン、ニクソンと続いたベトナム・インドシナへの侵略が国際的批判をおしてますます泥沼化していたころ)ちょうど君たちは生まれたわけだ。
そうしてみれば、「戦争を知らない」世代のはしりである私などに比べてさえも、君たちにとってあの15年戦争が、言ってみれば明治維新や西南の役などと同様の、遠い過去の歴史上のできごとと思えるのも無理からぬことと言えるかもしれない。
(中略)
永久に”戦争を知らない子ども”でありつづけるために
しかし、それは、君らおよび、君らの後の世代の子どもたちが、永久に「戦争を知らない子どもたち」であり得ることを意味しているのだろうか。「戦争を知らない」つもりが、実は「戦争について無知である」ことであってはなるまい。現に、「何にも知らないうちに」「だまされて」無謀な戦争に駆り立てられてしまった、との痛恨は、42年前の日本国民の共通の思いであったはずだ。そして平和は他から与えられるものではなく、やすやすと自然に成立するものでもなく、主権者である国民一人ひとりが、真実をしっかりと見抜き、英知と勇気をふりしぼってみずからの手でまもりぬく以外にないという教訓もまた、切実なものであったはずだ。
地球上のすべての地域から戦火が絶え、この国を含めてどの土地からも新たな戦争の火種が消えた時に初めて、真に「戦争を知らない子どもたち」が誇らかに胸を張り”平和の歌を口ずさむことが可能なのだと私は思う。そして、願わくば、その日の近からんことを。
(中略)
今日は広島原爆忌。事態は30年近く前の、この記事の頃とどう変わったでしょうか?
(中略)アベ内閣のもとで、ついに、集団的自衛権の行使をも合憲と強弁して、戦争法(「安保法制」)を強行し、夏の参院選で得た多数議席を背景に、明文改憲への企図をむき出しにしてきています。今次の内閣改造では、公明党以外の全閣僚を、日本会議など、超右翼・タカ派の靖国派が占有し、中でも防衛大臣に、カルト的狂信性を隠さない名うてのタカ派稲田朋美を任命するなど、好戦的姿勢をむき出しにしています。

奇しくもここで話題にした稲葉サンは、日報隠匿問題や都知事選での応援演説など、不適格の上にも不適格をさらして、内閣改造を待たず辞任に追い込まれました。そのほかの面々も、失言・不祥事・不適格のオンパレードで、内閣支持率下落に「大貢献」しました。先日の「第三次安倍第三次改造内閣」では、お詫び・陳謝を口にしながら、首のすげ替えで「疑惑隠し」をはかることで、支持率回復にわずか期待をかけておられるようですが、そもそも、不支持理由の第一は、「首相が信頼できない」(読売)「人柄が信頼できない」(日経)と、はっきりしてます。疑惑の張本人がそのままでは、誰も納得しません。
今日の「原爆の日」。広島での平和式典の模様を朝日新聞digitalはこう伝えています。

 広島は6日、被爆72年目となる「原爆の日」を迎えた。広島市中区の平和記念公園では午前8時から平和記念式典が開かれ、広島市の松井一実(かずみ)市長が「平和宣言」を読み上げた。7月に国連で採択された核兵器禁止条約に触れ、日本政府に「核保有国と非核保有国との橋渡しに本気で取り組んでいただきたい」と求めた。一方、続いてあいさつした安倍晋三首相は、条約に言及しなかった。
(中略)
 松井市長は平和宣言で改めて核兵器を「絶対悪」と強調。「核兵器の使用は、一発の威力が72年前の数千倍にもなった今、敵対国のみならず自国をも含む全世界の人々を地獄へと突き落とす行為であり、人類として決して許されない行為です」と述べた。
 また、核兵器禁止条約が122カ国の賛同で採択された点を「廃絶に向かう明確な決意が示されました」と評価。「各国政府は『核兵器のない世界』に向けた取り組みをさらに前進させなければなりません」と訴えた。
 日本政府は「核兵器国と非核兵器国の対立をいっそう深め、両者の協力を重視する我が国の立場に合致しない」(岸田文雄・前外相)などとして、核保有国とともに条約交渉をボイコットし、署名もしない方針を明らかにしている。

「平和宣言」の全文はこちらにあります。全文引用したいところですが、印象に残った部分を、少しだけご紹介させていただきます。

  平和宣言
皆さん、72年前の今日、8月6日8時15分、広島の空に「絶対悪」が放たれ、立ち昇ったきのこ雲の下で何が起こったかを思い浮かべてみませんか。鋭い閃光がピカーッと走り、凄まじい放射線と熱線。ドーンという地響きと爆風。真っ暗闇の後に現れた景色のそこかしこには、男女の区別もつかないほど黒く焼け焦げて散らばる多数の屍(しかばね)。その間をぬって、髪は縮れ真っ黒い顔をした人々が、焼けただれ裸同然で剝(は)がれた皮膚を垂らし、燃え広がる炎の中を水を求めてさまよう。目の前の川は死体で覆われ、河原は火傷(やけど)した半裸の人で足の踏み場もない。正に地獄です。「絶対悪」である原子爆弾は、きのこ雲の下で罪のない多くの人々に惨(むご)たらしい死をもたらしただけでなく、放射線障害や健康不安など心身に深い傷を残し、社会的な差別や偏見を生じさせ、辛うじて生き延びた人々の人生をも大きく歪めてしまいました。
このような地獄は、決して過去のものではありません。核兵器が存在し、その使用を仄(ほの)めかす為政者がいる限り、いつ何時、遭遇するかもしれないものであり、惨(むご)たらしい目に遭(あ)うのは、あなたかもしれません。
(中略)
市民社会は、既に核兵器というものが自国の安全保障にとって何の役にも立たないということを知り尽くし、核を管理することの危うさに気付いてもいます。核兵器の使用は、一発の威力が72年前の数千倍にもなった今、敵対国のみならず自国をも含む全世界の人々を地獄へと突き落とす行為であり、人類として決して許されない行為です。そのような核兵器を保有することは、人類全体に危険を及ぼすための巨額な費用投入にすぎないと言って差し支えありません。
(中略) 

今年7月、国連では、核保有国や核の傘の下にある国々を除く122か国の賛同を得て、核兵器禁止条約を採択し、核兵器廃絶に向かう明確な決意が示されました。こうした中、各国政府は、「核兵器のない世界」に向けた取組を更に前進させなければなりません。

特に、日本政府には、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」と明記している日本国憲法が掲げる平和主義を体現するためにも、核兵器禁止条約の締結促進を目指して核保有国と非核保有国との橋渡しに本気で取り組んでいただきたい。
(後略)

広島市長 松井 一實


この宣言は、ひとり松井市長個人の訴えではなく、原子雲の下で灼かれたヒバクシャたちと、その家族、それにつながる無数の人々の、血の叫びといえるでしょう。
峠三吉の「原爆詩集」の序が、今こころにとみがえります。

 ――一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

「被爆者の心に寄り添う」と、録音再生機械のように繰り返し口になさるアベさん。この、無数の老若男女の声が、かすかにでも聞こえていますか?
かつて、授業したことのある教え子の一人が、今広島の世界大会に参加しているとの由、Facebookに何度も投稿してくれています。その中の一つに、こんな画像がありました。
タテに読むと、(広島の)新聞人の心意気が伝わってきます。これを支えている広島市民の心意気、というべきか?アベさん、あなたの心に伝わっていますか?








今日、当初書きたいと思っていたのは別の話題でした。昨日の夜のNHKの歌番組が良かったです。
なかでも、氷川きよし君が歌った「一本の鉛筆」。美空ひばりさんが大切にしたという歌。氷川君が、その張りのある男声で心を込めて歌うと、圧倒的な説得力を感じ、じーんときました。
また、改めて書くかも知れません。
きょうはこれにて。

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