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も一度一本の鉛筆、の巻 [雑話]

昨日の記事で氷川きよし君が歌った「一本の鉛筆」について書きかけました。
きょうはそのつづき。何の義理も恩義もありませんが、NHKの回し者みたいな記事を書くことになります。。
8月5日に放送された「思い出のメロディ」という番組を、見るともなく見ていました。
NHKの予告広告をコピーします。






「紅白歌合戦」や、そのほかの歌番組(最近「歌番組」などというものもほとんど目にしませんが)に比べて、格段に心惹かれる歌手や歌曲が多く、話題にすれば切りがないのですが、印象深かったものを二つに絞ってご紹介します。
一つは、倍賞千恵子さんの歌を久々に聴いたことです。何を隠そう、私は隠れ倍賞ファンです(威張っていうことではないですが)。
こんな記事を書いたことがありました。

散歩道のモズが思い出させたこと、の巻


 「俺がいたんじゃ お嫁にゃ行けぬ
わかっちゃいるんだ 妹よ
いつかおまえの 喜ぶような
偉い兄貴に なりたくて
奮闘努力の 甲斐もなく
今日も涙の 今日も涙の
日が落ちる 日が落ちる」
と寅次郎が無条件に愛する妹「さくら」のイメージが強いですが、「歌手」倍賞智恵子サンを、私かなり好きです。レコード、音楽テープ、CD、、、何枚か持ってます。最初に買ったLPレコードは、この人のものだったかも知れません。買うのは、ちょっと照れくさかったのですが、クラシック好きの友人にちらりと打ち明けると、彼も評価していて、安心した覚えがあります。「島原の子守歌」が特に好きかも。

その倍賞さんが、葛飾柴又で「さくらのバラード」を歌いました。じーんときました。
ネット上にこんな投稿が掲載されていましたが、いずれも同感です。


もう一つ、特筆したいのが、昨日も書いた氷川きよしの「一本の鉛筆」。
ネット上でも大好評でした。







美空ひばりと「一本の鉛筆」については、以前も、書きました。

「一本の鉛筆」から始まった、の巻


 ウィキペディアにはこうあります。
 ひばりが最初の広島平和音楽祭に出演するにあたって、総合演出を担当していた映画監督、脚本家の松山善三が作詞を、作曲を映画音楽の作曲で有名な佐藤勝が作曲をそれぞれ手がけた。なお、当初は平和音楽祭の実行委員長も務めていた古賀政男が作曲する予定であったが、古賀が体調を崩したため佐藤勝の作曲となった。『一本の鉛筆』と『八月五日の夜だった』は、ともに広島市への原子爆弾投下について描かれた作品である。
ひばりは、父の増吉が徴兵され、母の喜美枝がその間辛い思いをしていたのをそばで見て育っており、自身も横浜大空襲を体験していたこともあって、戦争嫌いだったという。そのようなこともあってひばりは広島平和音楽祭の出演依頼を快諾したという。
リハーサルでは冷房付きの控室が用意されており、広島テレビのディレクターがひばりを冷房付きの部屋に誘導したところ、ひばりは「広島の人たちはもっと熱かったはずよね」とつぶやき、ずっと猛暑のステージのかたわらにいたという。ステージの上からは「幼かった私にもあの戦争の恐ろしさを忘れることができません」と観客に語りかけた。
それから14年が経った1988年、ひばりは第15回の「音楽祭」に二度目の出演を果たした。当時、ひばりは大腿骨骨頭壊死と慢性肝炎で入院した翌年であり、歩くのがやっとで段差を1人で上ることさえ困難な状況だった。ひばりは出番以外の時は音楽祭の楽屋に運び込んだベッドで点滴を打っていた。しかし、観客の前では笑顔を絶やさず、ステージを降りた時には「来てよかった」と語ったという。翌1989年6月に、ひばりは死去した。

 一本の鉛筆があれば
  私は あなたへの愛を書く
  一本の鉛筆があれば
  戦争はいやだと 私は書く

一本の鉛筆があれば
  八月六日の朝と書く
  一本の鉛筆があれば
  人間のいのちと 私は書く


この時の記事では、スペースの関係で、歌詞の一部分だけを引用したのでした。しかし、氷川君の歌を聴いて、どの歌詞にもゆるがせに出来ない深い意味があることに気づかされました。それほどに、思いを込めて歌う氷川君に、教えられた思いがしたのでした。

サークルおけらの「おけら歌集」にこの 一本の鉛筆の歌の歌詞や音源、その他紹介文が掲載されています。


過去記事で引用しなかったこの部分を、改めてしみじみと胸に刻んだことでした。

一枚のザラ紙があれば
私は子どもが欲しいと書く
一枚のザラ紙があれば
あなたを返してと私は書く

昨日も引いた棘三吉の詩と、なんと響き合うことでしょう。

 

 ちちをかえせ 
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ 
わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの
にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

ちなみに広島の平和祈念公園には、この詩が刻まれた詩碑が建てられており、裏面には大原三八雄氏による英訳が刻まれています。



確か私も、自分で写した写真があるはずなのですがすぐには見当たらず、ネット上からお写真を(無断で)お借りしました。
MITTY様こと三登 浩成様のブログ「広島の視線」の2014年11月25日付の、峠三吉の詩碑 の記事中のお写真です。なお、三登 浩成様は、面識はありませんが、「広島の平和公園でガイドをしているFIGの代表で、胎内被爆者」 (プロフィールより)だそうで、学ぶことの多い記事と、美しく優しいお写真でブログを綴っておられます。



台風5号が接近中で、未明から強い風と雨が、わが地方にも影響を及ぼしています。学童保育はお休みのようで、孫たちの守をしてやれば良いのですが、あいにく今日は午前中、私の通院日。(これから出かけます。)
孫たちは、兄妹仲良く、家の中で、おとなしく、留守番をしている、はずです。
今日はこれにて。


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