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啄木とその父のこと [文学雑話]

昨日の記事で、啄木のこの短歌を引用しました。

石をもて追はるるごとく
ふるさとをでしかなしみ
消ゆる時なし

啄木が、「石をもて追はるるごとく」ふるさとを出たのはなぜか?
というような話題に進もうとして、昨日は力がつきました。
以前、こんな記事を書きました。一部抜粋します。
棄てかねしフォルダにあまたのファイルあり ふるき切なき恋文のごと(2014-07-25)

昔(二〇世紀です)、夜間定時制高校に勤めていた頃、4年生(最上級学年)で出題したテスト問題を、ファイル庫から見つけました。18歳もいれば、成人もいる多彩な顔ぶれでした。定型詩の調べは、彼らの胸に響くようでした。
相当昔のこと故、個人情報とか、「学習指導要領」との整合性などなど、ややこしいことは、もう「時効」でしょうし、なにか特段の差し障りはないものと思い、紹介することにします。
(中略)
(6)本名は一(はじめ)。岩手県に生まれる。
岩手県日戸村の曹洞宗常光寺の住職の子として生まれる。父が渋民村(しぶたみむら)の宝徳寺に転じたので、彼もここで成長し、渋民小学校を経て盛岡中学校に入学。在学中、上級生のⅣ  らに刺激され雑誌「」に傾倒(けいとう)、詩歌を志す。
一六歳の秋中途退学して上京するが、病で帰郷。渋民小学校の代用教員をしながら小説「雲は天才である」などを書くが、免職(めんしょく)となり、北海道に渡る。函館、小樽、釧路などを転々とした後上京、小説などを書くが成功せず、朝日新聞社の校正係となる。生活苦・結核の進行などの現実の中で、初期の浪漫的傾向から、実生活の感情を日常語で歌う生活派へと変貌した。
第一歌集「」は、上京以後の短歌551首を収録。自然や季節の描写といった、それまでの短歌形式から離れ、故郷の渋民村や北海道生活の感傷的回顧、窮乏生活の哀感、時代への批判意識など、生活に即した実感が三行分かち書きという新形式によって表現されている。死後に出版された第二歌集「悲しき玩具(がんぐ)」は、貧困と病苦、生後間もない愛児の急逝(きゅうせい)、重苦しさを深める時代・社会状況など、深刻な現実を見据えながら、「新しい明日」の到来を願う思いを歌った。彼の歌は、その平明さと切実さによって広く親しまれ、今も愛唱されている。
注 空白部にはそれぞれ、Ⅳ金田一京助 Ⅱ明星 Ⅴ一握の砂が入ります。

啄木にとっての「ふるさと」とは、岩手県渋民村です。この地にあった宝徳寺に父・石川一禎が住職として赴任し、幼い啄木(一=はじめ)も、ここで育ったのでした。
啄木が、この「ふるさと」を追われることになった最大のきっかけは、父一禎が宗費滞納という金銭トラブルで、宝徳寺住職を罷免、家族とともに放逐された事件によります。1905年 明治38年、啄木 満18歳のときでした。
そのあたりのいきさつを、授業プリントにもまとめたことがありました。何回か使い回して使用しましたが、今手元にあるのは、1997年作成のプリントです。該当箇所を、赤字で強調してみます。。

 
国語Ⅰプリント「短歌」1       97.5
 
授業メモ
*私と啄木  
       ①啄木カルタ
       ②屋根裏の古書
       ③ローマ字日記、金田一京助の啄木伝
*代表作品
小説「雲は天才である」明治三九(1906)年(21歳)
歌集「一握の砂」明治四三(1910)年(25歳)
1.東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
2.頬(ほ)につたふ 涙のごはず 一握の砂を示しし人を忘れず
3.大海にむかひて一人 七八日(ななようか) 泣きなむとすと家を出でにき
4.砂山の砂に腹ばい 初恋の 痛みを遠くおもひ出づる日
5.大といふ字を百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて帰り来れり
6.ゆゑもなく海が見たくて 海に来ぬ こころ傷(いた)みてたへがたき日に
 
歌集「悲しき玩具」明治四五(1912)年(27歳)
7.呼吸(いき)すれば、 胸のうちにて鳴る音あり。凩(こがらし)よりもさびしきその音!
 
石川啄木 歌抄
* 少年時代の追憶
8.その昔 小学校の柾屋根(まさやね)に 我が投げし鞠いかにかなりけむ
9.己(おの)が名をほのかによびて 涙せし
 十四の春にかへる術なし
 
10.不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心
11.教室の窓より逃げて ただ一人 かの城あとに寝に行きしかな
12.晴れし空仰げばいつも 口笛を吹きたくなりて 吹きてあそびき
13.夜寝ても口笛吹きぬ 口笛は 十五の我の歌にしありけり
14.よく叱る師ありき 髭の似たるより山羊と名づけて 口真似もしき
15.学校の図書庫の裏の秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず
16.その後に我を捨てし友も あの頃はともに書(ふみ)読み 共にあそびき
 
* 恋17.師も友も知らで責めにき 謎に似る わが学業のおこたりの因(もと)
18.先んじて恋の甘さと 悲しさを知りし我なり 先んじて老ゆ
19.我が恋を 初めて友にうち明けし夜のことなど 思い出づる日
20.城跡の 石に腰かけ 禁制の木の実をひとり味わいしこと
 
  ☆盛岡中128人中10番で入学→1年25番→2年46番→3年86番→4年カンニング→5年1学期赤点多数、欠席207時間→退学(16歳)。 この中退が、彼の生活を貧困に追い込む。
代用教員給料8円。 朝日新聞校正係25円←→漱石200円
 ☆20歳で節子と結婚した啄木は、小学校の代用教員として、8円の低賃金で生計を立てるが、「日本一の代用教員」という自負を持って、教職に情熱を傾ける。当時の封建的気風に対して、子どもの個性を尊重した教育を目指す(小説「雲は天才である」参照)。子どもたちの立場を守って校長排斥のストライキを指導し、解雇。
一方宝徳寺という寺の雇われ住職だった父一禎は、息子の学資、生活費を工面するために寺の公金を使い込み、それが元で、寺から追い出される。
 ふるさとを追われた啄木は、北海道へ渡るが、以来二度と故郷渋民村へ帰ることはなかった。北海道でも、代用教員、新聞記者などを転々としながら作品を書くが、本格的な創作生活にはいるため、明治四一(1908)年、23歳の時、上京する。苦境のもとで、「帰りたくても帰れない」故郷への思いはつのる。
 
*北海道で 
 
21.かなしきは小樽の町よ 歌うことなき人々の 声の荒さよ
22.かの年のかの新聞の 初雪の記事を書きしは 我なりしかな
23.しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな*望郷の念
24.石をもて追はるるごとく ふるさとを出でし悲しみ
 消ゆる時なし
 
25.かにかくに渋民村は恋しかり
 おもひでの山
 おもひでの川
 
26.病のごと
 思郷のこヽろ湧く日なり
 目にあをぞらの煙かなしも
 
27.ふるさとの訛(なまり)なつかし
 停車場(ていしゃば)の人ごみの中に
 そを聴きにゆく
 
28.やはらかに柳あをめる北上の
 岸辺目に見ゆ
 泣けとごとくに
 
29.ふるさとの山に向かひて
 言ふことなし
 ふるさとの山はありがたきかな
 
30.別れをれば妹いとしも
 赤き緒の
 下駄など欲しとわめく子なりし
 
31.やまひある獣のごとき
 わがこころ
 ふるさとのこと聞けばおとなし
 
32.なつかしき
 故郷に帰る思ひあり、
 久し振りにて汽車に乗りしに
 
33.それとなく
 郷里のことなど語りいでて
 秋の夜に焼く餅のにおいかな
 
34.あはれかの我の教えし
 子等もまた
 やがてふるさとを棄てて出づるらん
 
* 生活苦、苛立ちと涙
35.はたらけど 
 はたらけどなおわが生活(くらし)楽にならざり
 じっと手を見る
 
36.何故こうかとなさけなくなり、
 弱い心を何度も叱り 
 金借りに行く
37.たわむれに母を背負いて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず
 
38.わが泣くを少女(おとめ)らきかば
 病犬(やまいぬ)の
 月に吠ゆるに似たりといふらむ
 
39.こころよく
 われにはたらく仕事あれ
 それをし遂げて死なむと思ふ
 
40.高きより飛び降りるごとき心もて
 この一生を
 終るすべなきか
 
41.青空に消え行く煙 さびしくも消えゆく煙 われにし似るか
42.「さばかりの事に死ぬるや」
 「さばかりの事に生くるや」
 止せ止せ問答
 
43.雨降れば
 わが家の誰も誰も沈める顔す
 雨はれよかし
 
44.友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
 花を買ひ来て
 妻としたしむ
 
45.何か一つ不思議を示し
 人みなのおどろくひまに
 消えむと思ふ
 
46.非凡なる人のごとくにふるまえる
 後のさびしさは
 何にかたぐへむ
 
47.なみだなみだ
 不思議なるかな
 それをもて洗へば心戯(おど)けたくなれり
 
48.負けたるも我にてありき あらそひの因(もと)も我なりしと 今は思えり
49.わがこころ けふもひそかに泣かむとす 友みなおのが道をあゆめり
50.こころよく
 人をほめてみたくなりにけり
 利己の心に倦(う)めるさびしさ
 
51.ある日のこと
 室(へや)の障子をはりかえぬ
 その日はそれにて心なごみき
 
52.誰が見ても
 われをなつかしくなるごとき
 長き手紙を書きたき夕べ
 
53.人といふ人の心に
 ひとりづつ囚人がゐて
 うめくかなしさ
 
* 愛児の死
☆明治四三年10月4日.長男真一誕生。この日、処女歌集「一握の砂」出版の契約成立し、20円の稿料を得る。が、10月22日、長男死去、稿料は葬儀代に消える。
54.夜おそく つとめ先よりかえり来て 今死にしてふ児を抱けるかな
55.死にし児の 胸に注射の針を刺す 医者の手もとにあつまる心
56.かなしみの強くいたらぬ さびしさよ わが児のからだ冷えてゆけども
57.かなしくも 夜明くるまでは残りいぬ 息きれし児の肌のぬくもり
 
58.真白なる大根の根の肥ゆる頃
 肥えて生まれて
 やがて死にし子
*不治の病
59.呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。 凩よりもさびしきその音!
60.目閉づれど、 心にうかぶ何もなし。 さびしくも、また、目をあけるかな。
61.今日もまた胸に痛みあり。 死ぬならば、 ふるさとに行きて死なんと思う。
62.何処(どこ)やらむかすかに虫の なくごとき こころ細さを今日もおぼゆる
63.真夜中にふと目が覚めて、
 わけもなく泣きたくなりて、
 蒲団をかぶれる
64.病院に来て
 妻や子をいつくしむ
 まことの我にかへりけるかな
 
65.子を叱る、あはれ、この心よ。
 熱高き日の癖とのみ
 妻よ、思ふな。
 
66.新しきからだを欲しと思ひけり、
 手術の傷の
 痕を撫でつつ
 
67.まくら辺に子を座らせて、
 まじまじとその顔を見れば、
 逃げてゆきしかな。
 
68.その親にも、
 親の親にも似るなかれ-
 かく汝(な)が父は思へるぞ、子よ。
 
69.かなしきは、
(われもしかりき)
 叱れども、打てども泣かぬ子の心なる。
 
70.猫を飼はば、
 その猫がまた争ひの種となるらむ、
 かなしき我が家(いえ)。
71.児を叱れば、
 泣いて、寝入りぬ。
 口少しあけし寝顔にさはりてみるかな。
 
72.何思ひけむ-
 玩具をすてておとなしく、
 わが側に来て子の座りたる。
 
73.昼寝せし児の枕辺に
 人形を買ひ来てかざり、
 ひとり楽しむ。
 
* 社会変革への願い
74.百姓の多くは酒をやめしという。 もっと困らば、 何をやめるらん。
75.友も妻もかなしと思うらし 病みても猶、 革命のこと口に絶たねば。
76.「労働者」「革命」などといふ言葉を
 聞き覚えたる
 五歳の子かな。
 
77.新しき明日の来たるを信ずという 自分の言葉に 嘘はなけれど-----
78.何となく 今年はよい事あるごとし 元日の朝晴れて風無し

☆その明治四十五年一月、母喀血。三月母死去。四月十三日、啄木死去(27歳)。六月十四日次女誕生、六月二十日第二歌集「悲しき玩具」出版。翌大正二年五月五日、妻節子死去(28歳)。

大雑把すぎるまとめでした。
少々補足しておきます。
1904年(明治37年)2月10日日露戦争開戦。1905年(明治38年)5月27日日本海海戦。統合元帥率いる日本艦隊がバルチック艦隊を破ったというニュースの国中が沸き立っていた頃でした。啄木自身、旺盛な創作活動を展開し、『明星』『時代思潮』、『帝国文学』(3月)、『太陽』、『白百合』等に次々と作品を発表する一方で、恋人堀合節子との婚約が整い、新婚生活への希望に満ちた時期でもありました。
 そんな1904年12月26日 父一禎は、宗費113円滞納のため、住職罷免の処分を受けます(曹洞宗宗報第194号)。 処女詩集『あこがれ』刊行のため上京していた啄木は、年を越してもこのことを知らず、与謝野寛が題名と後書きを、上田敏が序詩を寄せて『あこがれ』が世に出ることになった3月、父からの手紙で、一家を経済的苦難のどん底に突き落とす「住職罷免」の処分を知ることになるのでした。
貧困と病気と孤独に彩られた啄木の生涯を、たどってみることはまた別の機会に譲るとして、今日は、一足飛びに、父・石川一禎の終焉の地に目を向けてみることにします。
ずっと前、こんな記事を書きました。2013年8月の記事です。

高知の夏は、静かな雨だった。


 駅前(南広場)の片隅に、石川啄木とその父の歌碑を見つけました。なぜ高知に啄木?というミステリーは、少し好奇心をくすぐりました。
Imgp1093.jpg
歌碑に刻まれている歌の紹介掲示です。
Imgp1094.jpg
啄木の話題は、又の機会に触れてみたいと想っています。

「又の機会」と書いてから、年月が経ちました。
上の歌碑の碑文を写すことで、ひとまず締めくくることにします。

 啄木の父石川一禎は嘉永三(一八五〇)年岩手県に生まれた。渋民村の宝徳寺住職を失職、一家は離散。次女とらの夫山本千三郎が神戸鉄道局高知出張所長として一九二五年に赴任し、一禎も高知に移住した。穏やかな晩年を過ごし、一九二七年二月二〇日に所長官舎(北東約一〇〇m)で七六歳の生涯を閉じた。三八五〇余首の歌稿「みだれ蘆」を残し、啄木の文学にも影響を与えた。

よく怒(いか)る人にてありしわが父の
日ごろ怒らず
怒れと思ふ   啄木

寒けれど衣かるべき方もなし
かかり小舟に旅ねせし夜は    一禎

二〇〇九年九月一二日
啄木の父石川一禎終焉の地に歌碑を建てる会 建之

この碑文にある「次女とら」は、啄木の姉に当たる人のようです。
小樽市hpの「おたる文学散歩」第3話に、こんな記事が載っています。

 石川啄木一家は、明治40年9月、新しい新聞社、小樽日報社に赴任するため小樽に来たとき、まず姉夫妻の家に滞在しました。姉の夫、山本千三郎は北海道帝国鉄道管理局中央小樽駅(現小樽駅)の駅長となっていて、その官舎は現在の三角市場付近にありました。
 啄木は新聞記者として熱心に仕事をしました。自分が執筆した記事の切り抜き帳に『小樽のかたみ』と名付けたものが、今も残されています。
 かの年のかの新聞の初雪の/記事を書きしは/我なりしかな
 かなしきは小樽の町よ/歌ふことなき人人の/声の荒さよ
 けれども社内の争いにより、12月には小樽日報社を退社。翌明治41年1月19日、小樽駅を発ち、釧路へ向かいました。
 子を負ひて/雪の吹き入る停車場に/われ見送りし妻の眉かな(小樽駅前歌碑歌)
 忘れ来し煙草を思ふ/ゆけどゆけど/山なほ遠き雪の野の汽車
(短歌はいずれも石川啄木『一握の砂』より)
 なお、石川啄木が世話になった山本千三郎は、小樽駅の初代駅長の後、岩見沢駅長、室蘭運輸事務所長を歴任。四国、高知駅長を最後に退職し、鉄道員として生涯を全うしましたが、啄木の老父や、妻であり啄木の姉であったトラを最期までみとりました。

今朝は少し涼しいかなと感じた散歩でしたが、やはり、帰る頃には相当の暑さでした。












今夜→明日未明、「ペルセウス座流星群」の活動がピークになるそうですが、さてどうでしょうか?
きょうはこれにて。

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