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即席ラーメン記念日?の巻 [今日の暦]

今日は「即席ラーメン記念日」だそうです。世界初のインスタントラーメン=「チキンラーメン」が発売されたことに由来するのですって。知りませんでした。
地元新聞「山陽新聞」の今朝のコラム「滴一滴」にこんな記事がありました。

 「食足世平(しょくそくせへい)」(食足りて世は平らか)は、日清食品の創業者、故安藤百福さんの造語である。著書によれば、終戦で廃虚となり、飢餓状態の人があふれる大阪の街を歩きながら、戦後の復興は「食」だと強く思ったという▼お湯さえあれば、すぐ食べられるラーメンをと、世界最初の即席めん「チキンラーメン」を世に出したのが1958年のきょうだった。当初はみな半信半疑だったが人気が爆発。類似商品も多く出回った。続いて71年に誕生したのが「カップヌードル」だ▼いまや、世界の即席めん市場は年約1千億食に上る。保存がきき、簡単で、場所を選ばない。日本が誇る「食の革命」の一つだろう▼

戦後の復興は「食」。もっともです。ミサイルや戦車では決してなかったということですね。
これにちなんで、今日のお昼御飯は、インスタントラーメンです。
他のメニューに比べて、孫たちの反応は、圧倒的に歓迎です。
現代のお袋の味は「袋入り食品の味」と揶揄されて久しいですが、いまや袋入り食品は、現代日本人のソウルフードといっても過言ではないですね。
いや、日本人に限らず、留学生の昼食をチラッと見ると、みんなとりどりのカップ麺をすすっています。ほとんど毎日となると、栄養の偏りが気になりますがね。
インスタントとは食品とは言え、栄養バランスを配慮して、、野菜・肉をフライパンで炒め、鍋で沸かした熱湯に溶かした全員分のスープと混ぜ合わせ、別鍋でゆでた麺を3分間でさあっと上げ,ザルでお湯を切ってどんぶりでスープと合体。と、ひと手間かけて作った特製インスタントラーメンですが、孫たちにはありがた迷惑のようで、できあいのスープと麺のシンプルな取り合わせが一番お好みのようです(汗)。
夏休みも終末が近づき、宿題も「仕上げ」モードに突入の模様で、「面倒くさい」といいながら、作文を書いたりなどしていました。



昨日の記事に、「この道」の歌詞を載せました。
そう言えば、以前も何度か触れた二木紘三のうた物語のサイトに、この道(作詞:北原白秋、作曲:山田耕筰)が音源入りで紹介されています。
昨日、音楽交差点のオーナー・コンダクターの小笠原知代子さんは、「この道」の他、「出船」「宵待草」を、ご自身のピアノ伴奏つきで歌ってくださいました。
これまた二木紘三のうた物語から、該当曲をご紹介します。

出船(作詞:勝田香月、作曲:杉山長谷夫、唄:藤原義江 他)



 

作詞の勝田香月が、啄木にあこがれ、小樽で着想を得たと知り、感慨を覚えます。

 宵待草(作詞:竹久夢二、補作:西條八十、作曲:多忠亮、唄:高峰三枝子他)


「蛇足」とい銘打った解説文も一部引用します。

 『宵待草』は明治45年(1912)6月に作った小唄で、 大正2年(1913)発行の彼の処女詩集『どんたく』(実業之日本社)に掲載されました。
大正7年(1918)、東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)でバイオリンを学んでいた多忠完(おおのただすけ)が、 この詩に感動して曲をつけました。その楽譜が出版されると、『宵待草』はまたた<間に全国に広がり、多くの人々に愛唱されるようになりました。
夢二が亡くなってから4年後の昭和13年(1938)、 夢二人気に便乗して『宵待草』という映画が企画されました。 その際、 3行詩だけでは映画の主題歌としては短すぎるということで、夢二と親しかった西條八十が2番の歌詞を作ることになりました。
八十は最初、2番の2行日を「宵待草の花が散る」としていました。
しかし、宵待草の花は、散らずに、茎についたまましおれるのが特徴です。それを人に注意された八十は、のちに上のように詩を変えました。
八十は抒情詩人として出発しただけに、このフレーズも美しく、 1番ともよ<マッチしています。いきさつを知らなければ、夢二が2番とも作ったと言われても、疑う人はあまりいないでしょう。
しかし、どういうわけか、今日まで2番が歌われることはほとんどありません。




半年ほど前の写真です。今日はもう見つけられませんでした。

2013年の8月。このブログを始めたばかりの記事です。

美食家のコガネムシ



 コガネムシが、みずみずしい黄色の花を美味しそうに食べています。顎の動きに合わせて、咀嚼の音まで聞こえてきそうな、ヘルシーで、ジューシーで、グルメな朝餉です。smallImgp0057.png
月見草と子どもの頃は呼びました。富士に似合うと太宰治が言ったのはこの花でしょう。「待てど暮らせど来ぬ人を」と、竹久夢二が歌った宵待草もこれですかね。標準和名「マツヨイグサ」、「オオマツヨイグサ」か?

明け果てて月はいづこや月見草
やるせなき宵待草を朝餉かな
露しげき花のサラダを朝餉かな
金色を食うて光るやコガネムシ

岡山後楽園の入り口近くに、この詩句を刻んだ石碑があります。
後楽園のhpから画像をお借りします。

碑は、地図の①の位置に立っています。

上の地図の右上にある逢来橋を渡ったところに、「夢二郷土美術館」という瀟洒な建物があります。

「夢二郷土美術館」のHPはこちらです。
現在、下のチラシの企画展が行われているようです。



夢二の故郷瀬戸内市には、「夢二郷土美術館・分館(夢二生家・少年山荘)」があります。以下、HPからの引用です。

 夢二生家(ゆめじせいか)
夢二生家は、竹久夢二が生まれ、16歳までを過ごした家です。現代では珍しくなった茅葺き屋根の伝統的な日本家屋は、約250年前に建てられました。夢二の子ども部屋や、建物や庭など外観も夢二の生前そのままに保存し、公開しています。夢二生家内でも、夢二の掛け軸や屏風、スケッチなどの作品の展示を行っています。 夢二生家入口には有島生馬氏が記した「竹久夢二ここに生る」の碑がみなさんをお迎えします。

少年山荘(しょうねんさんそう)
少年山荘は、竹久夢二が自らデザインを手がけた洋風建築を、夢二生誕95年を記念し、1979(昭和54)年夢二の次男、不二彦氏の協力で復元したものです。
1924(大正13)年、夢二は東京にアトリエ付き住居を建てました。少年山荘の名前は、中国の「酔眠」という漢詩の中の一節から、少年の日のように春の長い一日を過ごしたい、との願いを込め夢二が名付けました。
建物の周りにはサンキライやクヌギなど、少年山荘の周りに夢二が植えた木々も育っています。雑木林の中の「少年山荘」での夢二の暮らしの風情を感じながら、建物の中では、夢二生前の写真などを展示しています。

ところで、「宵待草」の歌は、1910年(明治43年)、夢二27歳の夏、避暑旅行中に遭遇した長谷川カタとの淡い恋をモチーフにしているそうです。恋多き夢二の、青春のひとこまです。
それはそうに違いないのでしょうが、夢二のもう一つの側面に目を向けることによって、宵待草に別の解釈を与えることも可能なようです。
と、思わせぶりな文句を書いて、以下次号といたします。

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