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沙羅双樹の花の色、の巻 [あれやこれやの知ったか話]

昨日の記事にご紹介した故Hさんが、連続18回続けたという「平家物語講座」の第一回で配付した資料に、こんなものがあったようです。


下が、昨日の記事の終わりで話題にした、釈迦入滅の時を描いた「涅槃図」です。
「小学館デジタル大辞泉」の解説を引用します。

 ねはん‐ず〔‐ヅ〕【×涅×槃図】
釈迦が沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で入滅する情景を描いた図。一般に、釈迦が頭を北、顔を西、右脇を下にして臥(ふ)し、周囲に諸菩薩(ぼさつ)や仏弟子・鬼畜類などが集まって悲嘆にくれるさまを描いたもの。涅槃絵。

「平家物語」冒頭のおなじみの一節に「沙羅双樹の花の色」とあることの解説資料と思われます。この木については過去記事にも何度か取り上げています。

故旧あい集いし森の青胡桃


 庭にはシャラ(ナツツバキ)のツボミもふくらみ始めていました。
この花は、咲いたらその日のうちに散るのだそうです。
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 先日訪ねた半田山植物園でも、シャラの木を見つけました。
 
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 平家物語冒頭の、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。」と描写されるのが、「沙羅」ですね。
釈迦入滅の時、その床の四辺にあった沙羅樹がたちまち枯れて白色に転じたと言われます。
日本ではこの「ナツツバキ」を「沙羅」と呼び、庭木として植栽しますが 、釈迦入滅を見届けた「沙羅」の木とは別種だとも聞きます。

六月の花 紫陽花 総集編


  途中、倉敷市藤戸寺を通ってみました。平家物語ゆかりの寺で、沙羅(ナツツバキ)で有名な寺ですが、六月の三日間だけ客殿を開放し「沙羅の花を観る会」が催されるのだそうですが、今年はあいにく開放期間終了との掲示がありました。
藤戸寺については機会を改めて記事にするとして、今日は朝日を浴びた紫陽花の花だけをアップします。
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ナツツバキの花の画像も、何度か掲載しました。



先日この記事で三徳園を訪れたときには、実がなっていたので、珍しいと思って写してきました。

小鳥の森がアブナイ?の巻



ところで、上の記事で、「藤戸寺については機会を改めて記事にする」と予告しながら、3年以上前のこのお約束が、まだ果たせていません。
以前も何度か記事を借用させていただいた 「岡山の風 郷土史」
の別サイト「岡山の風 風景・歴史・伝説」下津井 「源平合戦ゆかりの地」という記事があります。少し引用させていただきます。

 源平合戦ゆかりの地

 源平時代、四国の屋島を拠点に瀬戸内の制海権 (海上交通路の支配等) を掌握していた平家は、  ここ下津井に城(下津井古城:下記) を築き、当時、吉備の穴海 (現、瀬戸内海)に浮かんでいた児島を、源氏の攻撃に対峙する前線拠点にしました。

 1182年、九州大宰府を経て、四国屋島(現、屋島東町) に行宮(あんぐう:行幸時、政変時などの仮宮)を置いた平家の主君、安徳天皇の御座船が下津井に入港。

 1183年、児島半島の西、高梁川の河口にある乙島、柏島間の海峡で日食を利用した作戦により、平家が源氏に勝利。   (水島合戦)

 1184年、十数隻の船団を組み、下津井港に攻めてきた反乱軍(源氏に寝返った阿波・讃岐の兵士)を平家が、下津井港沖で撃退。(下津井合戦)

 同年、本土と児島を隔てていた吉備の穴海(現、瀬戸内海)の浅瀬を馬で渡る作戦により、藤戸(現、倉敷市藤戸町)に陣を敷いていた平家に源氏が勝利。(藤戸合戦)

 同年秋、平行盛が、ここ田之浦 (当時、備前壇ノ浦) に布陣、源氏の大軍を迎え討ちましたが、 源氏方の武将、佐々木三郎盛綱に敗れ、屋島に逃れた後に壇ノ浦の合戦で討死。


藤戸合戦と飽浦

   藤戸合戦時、藤戸の東対岸(現、岡山市南区飽浦辺り)に陣を敷いていた源氏方は、船が揃わなかった為に平家を攻めあぐねていましたが、一ヵ所だけ馬で対岸まで渡ることができる海の道が在ると、近くの漁師から教わった佐々木三郎盛綱らが先陣をきり馬で対岸へ渡り、源氏方に大勝利を納めるきっかけをつくりました。(平家物語「藤戸の渡し」)
 この後、檀ノ浦の合戦に至ります。

 その功績として佐々木三郎盛綱は、将軍 源頼朝から児島全土と小豆島一帯に及ぶ広範囲な領地を与えられ、 佐々木氏一族は飽浦の地に居城(現、高山城跡 )を築き、 盛綱は、地名にちなみ 「飽浦三郎」と名乗りました。
 

々木三郎盛綱に関しては、「笹無山」伝説として知られる次のようなエピソードがあります。これはかつて「マンガ日本昔話」でも放送されました。
あらすじまとめサイトから引用してご紹介します。

 あらすじ

昔、備前の国藤戸という寂しい漁村に漁師の親子が住んでおりました。息子の名は「与助」と言い、大変な孝行者でした。

平穏に暮らしていた親子でしたが、源平の合戦が激化して平家が一の谷に逃げてきたことから、源氏の兵が藤戸の村に陣をかまえるようになりました。

ある冬の冷たい雨が降っていた晩のこと。与助が一人で漁にでかけ船で準備をしていると、甲冑姿の鎧武者が現れて「浅瀬の場所」など内海について詳しく聞いてきます。

与助は、丁寧に侍たちの質問に答えてやりました。浅瀬の場所を聞いた侍たちは、さらに分かりやすいように「瀬踏み」をして欲しいと頼み、与助は断るわけにもいいかずに、冬の冷たい海に裸になって入り、浅瀬に目印の竹をつける作業を手伝いました。

ところが、その作業が終わって与助が漁に戻ろうとすると、大将の佐々木は「このような下郎はどこで誰に漏らすやもしれん」と口封じのために与助を斬りつけたのです。

漁師仲間が内海に浮かんでいた与助を見つけ、母親が駆けつけた時には既に与助は冷たくなっていました。あとから与助を切りつけたのは「佐々木」という武将であることがわかりましたが、母親にはどうすることもできませんでした。

「与助が一体何をした…おのれ佐々木」
母親は何を思ったのか裏山に駆け上ると「佐々木憎けりゃ笹まで憎い。佐々木よ与助を戻せ」と言いながら笹の葉を引きちぎりはじめました。

母親は全身血まみれになっても笹の葉を引きちぎり続け、とうとう広かった裏山の笹はひとつ残らず葉を引きちぎられてしまいました。後にこの話を聞いた佐々木は、流石に己の行為を悔いたのか写経をしたり、与助の霊を慰めるためお堂を立てたりしました。

裏山の笹はそののちも全く生えることはなく、村人はこの山を誰ともなしに「笹無山」と呼んだそうです。

(投稿者: もみじ 投稿日時 2012-8-6 15:23)



 ユーチューブの動画はこちら。

22 【まんが日本昔ばなし】 笹無山 - YouTube


「笹無山」と呼ばれる山は、いまも藤戸寺近くの街道脇に存在し、案内板が掲示されています。倉敷市公式観光サイト倉敷観光webのこのページに、詳しい紹介がありますので参照ください。

藤戸寺について、ウィキペディアはこう解説しています。

 寺伝によれば、この地に寺院が建立された由来は以下の通りである。寺の周囲がまだ海であった慶雲2年(705年)に千手観音像が海中から浮かび上がり、それを安置したことに始まる。その約30年後、諸国を巡っていた行基により安置してあった千手観音像を本尊とし天平年間(729年 – 748年)に寺院を創建した。
寿永3年(1184年)12月、源平合戦の藤戸の戦いで戦功を挙げた佐々木盛綱は、戦後、この寺院の周辺である児島郷を領地として拝領し、戦乱で荒廃した寺院を修復したとされる。
盛綱は合戦の際に若い漁師が道案内をしたことで武功を立てたが口封じのために殺害したと言われる。その漁師の霊と合戦の戦没者を弔うために当寺院で大法要を営んだと伝えられている。
この伝説は謡曲「藤戸」として能の演目の一つとなっている。以後、毎年、藤戸寺土砂加持法会において盛綱とともに供養されている。(太字は引用者)

今日はここまで。

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