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青空に思う、の巻 [折々散歩]

今シーズン最高の冷え込み、というフレーズを最近よく耳にします。今日もまさにそれ。今日は、県北部では各地で零下を記録し、降雪もあった由。わが居住地も、早朝の最低気温は-0.5℃、日中も10℃をなかなか超えない冷たさでした。
今朝は、資源ゴミの収集日だとかで、新聞、ダンボール、コピー紙などの紙束を、ゴミステーションまで何往復か運び、少し体が暖まったところで(笑)、肺炎球菌ワクチンの接種のためにかかりつけ医のところへ行きました。先日、呼吸器内科での健診で、接種をすすめられたもでした。ちょうど65歳で、5年に一回の摂取が推奨されているそうです。
インフルエンザの予防接種は、今年は品薄で、かかりつけ医のところもいま品切れだが、公衆末には入荷の予定だそうです。こうした感染症が猛威をふるう季節になりました。
診察、接種に、意外に時間を取られ、お昼前になっていましたので、当初予定していた深山公園散歩は諦めて、近くの自然公園体験公園を歩いてみました。昨日の記事と同じ題材になりますがあしからず。
早速、ジョウビタキ♂のお出迎えです。

トリミングします。



こちらは♀です。

トリミングします。



目が合いました。

カワラヒワ。


トリミング画像です。











池にはオオバン。



トリミングします。

アオサギも、なにやら思索中の、のどかな昼でした。

今日の機材は、PENTAXK5Ⅱ+AFデジボーグ60ED。今日のような明るい日には、文句なくくっきり写ります。
国会では、憲法審査会が動き始めたようです。くっきりした青空こそ、憲法に似合います。公明正大、国民の目に見え心に響く議論を展開してほしいもの。もちろんハナから憲法に悪意を抱いてるような人物が、ほしいままに憲法をもてあそぶことは、まったく不似合い、僭越至極、と思わざるを得ません。
「青空」は、こんな映画を思い出させます。先入観と色眼鏡を棄てて、謙虚に真摯に、憲法誕生の「真相」と、憲法に寄せる人々の願いに、改めて思いを馳せたいものです。

yahoo映画の解説を引用します。

 第二次世界大戦後、日本国憲法が作られるまでのいきさつを、これまで語られることの少なかった民間憲法学者などにフォーカスし、憲法誕生の真相を追う。監督は大澤豊、出演は高橋和也、藤谷美紀、田丸麻紀。中山沙也可は月刊アトラス編集部の契約社員。編集部ではこの夏の憲法特集について会議が開かれ、沙也可もアイデアを出すチャンスに恵まれるが、ふとしたきっかけで在野の憲法学者・鈴木安蔵について知る。沙也可は安蔵の取材を始めるが、彼の娘たちの証言や日記から、戦時下における憲法学者としての安蔵の苦労、崇高さに思いを馳せるのだった…。


 “リストの再来”と称されたピアニスト、レオ・シロタの娘として1923年ウィーンに生まれたベアテ・シロタ。作曲家山田耕筰が、父親のレオ・シロタを反ユダヤ主義の欧州から招き1928年に東京で演奏会、翌年彼は再来日し、1931年には、東京音楽学校(現・東京芸術大学)の教授に就任した。
5歳のベアテは両親と東京乃木坂に住み、1936年にはドイツ学校から、アメリカンスクールへ転校し、自身の家庭の自由な雰囲気とはかけ離れた、抑圧された日本の女性達の実態も見聞きする少女時代を過ごした。
そして15歳で米国のミルズカレッジへ進学、両親と離れて暮らし始めたが、1941年に日米開戦となり、両親との連絡・送金も途絶えた。
終戦1945年の12月、彼女はGHQ民間人要員を志願し来日し両親と会えた。翌年、日本国憲法の草案委員の一人に起用され人権小委員会に属し、日本女性の状況を知る彼女は、女性の地位向上に関して様々な条項を書いたが、その多くはGHQの委員会で削除された。然し、彼女が思いを込めた人権は第14条に残り、そして男女平等は第24条となった。
翌年7月ベアテは両親と、GHQでベアテと同時期、日本語通訳であったジョセフ・ゴードンが待つNYへ帰国、1948年1月結婚、ベアテ・シロタ・ゴードンは、翻訳の仕事をしていた。
1952年秋、ロックフェラー財団の援助で、日米の指導的立場の人物交流の第一陣として日本から市川房枝が渡米し、ベアテはその通訳を務めたが、日本国憲法との関わりは秘密だった。以後、彼女はジャパンソサエティ、アジアソサエティに属し、日本・アジアの芸術文化を米国に紹介し続けた。
1946年11月憲法公布、日本初の女性の選挙権行使では、39人の女性議員が生まれ、労働省発足、婦人少年局長に山川菊栄が初代局長に選ばれた。
1947年、家父長制度が廃止、さらに教育基本法が施行され男女共学が実現。1980年には、高橋展子デンマーク大使が、国連婦人の10年の女子差別撤廃条約に署名、85年に批准、そして赤松婦人局長の下で男女雇用均等法の成立となった。国籍法の改正、家庭科の男女共修と進み、また、民間企業における男女同一賃金に関する裁判の一審敗訴に、支援の呼びかけも広がり、国連の委員会からの日本政府への勧告の反映もあり、二審で和解、賃金のみならず昇進も獲得。女性の視座を論じ、大学では「女性学」も誕生。
1999年、男女共同参画基本法も成立、女性たちの職業・活動分野も多面化した。国際的には緒方貞子国連難民高等弁務官の存在も注目された。

1993年TV番組「日本国憲法を生んだ密室の九日間」放映がきっかけとなり、ベアテは日本で講演を毎年行ってきた。この映画の最後に「日本の女性は心と精神が強い、みんなで頑張って欲しい、明るい将来のために。私が草案した権利を生活に活かし世界の女性達のためにも働きかけてください」と彼女は期待を語っている。


今日はこれにて。

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一昨日の散歩、の巻 [折々散歩]

一昨日、深山公園を散歩したことまではご報告しました。
そのあと、、自然環境体験公園も歩いてみました。

カワラヒワの群れがいました。




遠くにカワセミもいました。


トリミングします。





シジュウカラ。







帰宅後家の近所を歩くと、いつものコガモが



今日はこれにて

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「Iさんを偲ぶ会」のあらましメモ、の巻 [折々散歩]


今朝は町内会の草取り掃除。そのあと、郵便局へ行ったついでに、その足で深山公園に寄ってみました。

いつもの赤松池。

カモたちが、見物客が与えるパンくずなどのエサを、競い合ってたべています。























この池では、ヒドリガモ、オナガガモの個体数が多いですが、コガモもいました。我が家近くの小川には、コガモしか見えませんが、、。



ジョウビタキ♂も見参です。











メジロ、オナガ、ヒヨドリ、キジバトなどを見ましたが、珍しい鳥には会えませんでした。今日は、本格的な大きなレンズのカメラを携えた方を大勢見かけましたが、何を求めておられたのでしょう?


なにやらこの記事↓の展開と似てきました。
見知らぬ鳥となじみの鳥と、の巻(その2)


ところで、↑この日、郵便局へ行った用件は、一週間先の12月1日(金)、「年金者組合」の地元支部主催で、長年この活動に中心的役割を果たしてこられ、10月逝去された故Iさんの追悼会の案内を投函することでした。

偲ぶ会は、予定通り一昨日の12月1日、10数人の出席で、しみじみと故人の人柄と歩みを偲びました。
かつて、「年金裁判」は何に貢献するか?の巻(2015-09-26)で、こう書きました。
 一昨年、ブログを始めたばかりの頃、こんな記事を書いたことがありました。
マクロスライド?なんのこと?---消えた傑作の巻?
また、今年の春のこの記事でも書きましたように、私、年金受給者となってから、「年金者組合」というお仲間とおつきあいしています。
若いころには、自分が「年金受給者」となる姿を、リアルにイメージすることなどできませんでしたが、漠然と、悠々自適の平安な暮らしを想い描いていたように思います。それを励みに、現役時代、多少しんどくても頑張ろう、と思えたものでした。
しかし、案に相違して、「老後」の見通しは暗い。しかも、若い世代になればなるほど、将来の暗しに不安が募ってくる。こんな未来は、思ってもみなかった事です。

この記事の外にも、「年金者組合」や「年金裁判」について、何度かご紹介したことがありました。そもそも、私が、年金者組合に参加するようになり、地元支部のお手伝いをさせて頂くようになったのは、ほかでもない、このIさんからお誘いいただいたからでした。

Iさんは、かつて数学教師として高校で教鞭をとられ、1960年代後半から70年代初頭、教職員組合の重要な役割を担われたと聞きます。ご退職後は、長く、私たちの退職同業者の会の代表を務めてくださり、その縁で面識を得ることになりました。たまたま居住地が近い縁もあって、自宅に訪ねて頂いたり、肺癌手術の後で行動が思うに任せない私を、お車に同乗させていただいたりした際の雑談など、あれこれの思い出がふとした機会に蘇ります。

私自身の備忘のために、偲ぶ会での出席者のお話をあらましメモしておきます。

Oさん「40数年前の教え子。当時は、若き貴公子のようであこがれの的。数学が苦手で、授業が終わって今日もわからなかったと思っていたら、先生が心なしか済まなさそうな顔をしておられたように見えた。年金者組合などでご一緒する機会はあっても、数学が苦手という負い目から、教え子であることは長く伏せていた。ある時、年金者組合の分会で花見を催した際に、『千の風になって』をみんなで歌った。初めて打ち明けたのはその日。」

Sさん「その花見の場所は、私が紹介した。先生は、『千の風になって』の曲をテープに録音して、参加者分用意してこられた。市民劇場におさそいしたら、忙しい中、時間を割いて、バイクで観劇にこられた。畑作業がお好きで、ご近所さんに頼まれて、畑で子供に数学を教えておられた。」

Sさん「娘が担任していただいた。進路を巡って、父親の強硬な反対で対立していたとき、先生に相談すると、家庭訪問して話してくださった。すると、たった5分で父親が折れた。」

Nさん「若い頃、労働争議の当事者だった。Iさんが高校教職員組合の書記長をしておられたころで、全面的に支援していただき、文章なども書いてくださった。おかげで争議は勝利できた。その後、地域で年金者組合や9条の会のとりくみをご一緒した。思い出は尽きない」

Tさん「職場差別撤廃のたたかいの支援を訴えて、いろいろの団体を訪ねた。そのときI先生は、初対面なのに親身になって受け止めてくださり、大きな励ましを得た。いろいろな労働組合を訪ねた中には、敷居が高くはいりづらいところもあったが、Iさんの人柄も影響してか、入りやすく、ほっとできる雰囲気で、いつでも気軽に訪ねたくなる組合だった。」
Kさん「退職者の会の仕事で、先生の跡を継いでいる。私が青年教師の頃、Iさんは組合書記長、理路整然として分かりやすい弁舌に感銘。あこがれた。退職者の会の仕事も、一〇分の一も継げないが、近づけるようがんばりたい」

Sさん、Nさん「退職者の会の支部で、責任者をつとめている。遠隔の地域だが、Iさんは、行事には必ず足を運んでくださった。理路整然、緻密な準備、心遣いの細やかさが印象に残る。高齢になって始められたパソコンのスキルの高さにも驚いた」


奥様によると、「年金者組合、高校退職者の会、畑仕事、そして写真、が好きで、これらには一所懸命でした。
体中、悪いところだらけで、入院手術も数えきれず、心臓カテーテルだけでも何度もやって、その手術痕で時代がわかると医師が言うほどでした。でも、退院した午後には畑に出ていました。畑仕事をしているといやなことは全部忘れられると言うのです。
退職者の会では、備北、備西、美作など、遠隔の支部の行事も細かくメモして、必ず出向くようにしていました。過ぎたことは全部忘れるが、先の予定は大事にする、といっていました。
パソコンも、七〇歳を過ぎて始め、独学で身につけました。いつもパソコン机に向かって、ものを書いたり、写真を印刷したりしていました。
最近体調を崩してからは、それもできなくなりました。

毎年五人ほどで写真展を開いていましたが、今年は出展できませんでした。」

まだまだ記録しておきたいお話がありますが、今日はこれまでといたします。

夜も晴れて月が見事でした。

FUJI FINEPIXS1で写しました。



デジタルズームでここまで大きく写ります(ノートリミング)




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