前回記事の再補足と、雪の倉敷ブラ散歩補遺、の巻 [折々散歩]
「何人死んだ?」という松本発言に対して、今日の国会では自民党議員すらも批判の質疑を行うに至り、党・政府挙げての「お詫び」で沈静化をはからねばならない重大問題だと気づいてはいるようですが、、。ネット上で、写真家初沢克利さんが、「宮森小学校米軍機墜落事故」の史実を紹介しておられました。
ウィキペディアへのリンクをコピペしておきます。↓
https://ja.wikipedia.org/ wiki/宮森小学校米軍機墜落事故
一部引用します。
昨日散歩した、雪の倉敷美観地区の画像を追加掲載します。
先日亡くなった星野仙一さんの記念館があります。
どの路地も、風情があります。
川沿いの小径は、夏には柳陰が涼を演出しますが、今は葉も散り、枝を落とされ手、寒々しいたたずまいです。
海外からの観光客でしょうか、雪景色を楽しんでおられます。
今日はここまで。
ウィキペディアへのリンクをコピペしておきます。↓
https://ja.wikipedia.org/
一部引用します。
事故の概要 [編集]1959年6月30日午前10時40分頃に、アメリカ空軍のノースアメリカンF100Dジェット戦闘機が操縦不能となり、パイロットのジョンシュミット大尉は空中で脱出、機体は民家35棟をなぎ倒した後、石川市にある宮森小学校(現うるま市立宮森小学校)のトタン屋根校舎に衝突、さらに隣のコンクリート校舎を直撃し、炎上した。 事故直後から軍警消の各部隊が事故現場に急行し救助活動に当たった。被害者の治療のために沖縄本島中部在住医師のほとんどが駆けつけた。 事故による火災は1時間後に鎮火したが、死者17人(小学生11人、一般住民6人)、重軽傷者210人、校舎3棟を始め民家27棟、公民館1棟が全焼、校舎2棟と民家8棟が半焼する大惨事となった。 事故当時、学校には児童・教職員ら約1000人がいた。当時は2時間目終了後のミルク給食の時間で、ほぼ全児童が校舎内にいた。特に直撃を受けた2年生の教室の被害が最も大きく、火だるまになった子供たちは水飲み場まで走り、そのまま次々と息絶えたと伝えられている。 |
昨日散歩した、雪の倉敷美観地区の画像を追加掲載します。
先日亡くなった星野仙一さんの記念館があります。
どの路地も、風情があります。
川沿いの小径は、夏には柳陰が涼を演出しますが、今は葉も散り、枝を落とされ手、寒々しいたたずまいです。
海外からの観光客でしょうか、雪景色を楽しんでおられます。
今日はここまで。