SSブログ
<

皆既月食瞥見、の巻 [折々散歩]

昨夜の皆既月食。雲が多くて、観察を諦めていました。

でも、夕方の18:33には、空を見あげるとこんな明月が浮かんでおり、少々期待が持たれます。


雲に覆われたり、一時的に雲が晴れたりするうちに、21:17には、かなり欠けていました。


19:27。かなり食が進んでいます。


21;38。


21:48。雲が次第に広がって、もう諦めるしかないようです。


今日は朝から、雪交じりの雨で、一日中うっとうしい天気でしたが、夕方頃から少し晴れ間がのぞいてきました。いま、21時過ぎですが、空にはこんな月が浮かんでいました。



今日はこれにて。


nice!(30)  コメント(8) 

立春も近いと言うに、の巻(2)「雪の倉敷美観地区」最終回 [今日の暦]




読みにくかった昨日の記事を分割し、少々編集しなおしました。

さて、「雪の倉敷美観地区」シリーズ、最終回です。
この日、いつも利用する駐車場が満車で、何台も車の行列ができている状態でしたので、それを避けて道路端に一時停車して妻をおろし、周辺をひと周りした末に、「倉敷芸文館」の駐車場に駐めて、美観地区を歩いたのでした。
その一角に、「大山名人記念館」があります。

私には将棋の趣味がなく、小学生の頃に、子ども同士の縁台将棋を遊んだ程度でした。青年教師だった頃、近くのアパートに住んでいた年下の同僚Sさんと、夜な夜な懇親を深めていた中で、彼と何度か将棋を指したことがありました。彼は、大学時代も将棋部だったとかで、飛車落ち、飛車角落ち、さらには桂馬や香車を落としても、まったく歯が立ちませんでした。力の差が歴然と現れる世界だと知りました。
ちなみに、その頃Sさんは、NHKのど自慢に出場し、内藤国雄の「おゆき」を熱唱して、合格の鐘を連打させたのでした。その美声は、我が家でも何度も聞かせてくれたことでした。現職教員の時代も、長く将棋部を指導したほか、町の将棋教室でも指導、退職後も、農業後継者としての本格的な農作業のかたわら、教科の非常勤講師と、将棋部の指導に励んでいるとか、、。
ずぶの素人の私が話題にするのも差し出がましいですが、このブログで内藤国雄さんのエッセイが紹介してありましたので、孫引きさせていただきます。将棋ペンクラブログ

 将棋世界1993年8月号、内藤國雄九段の連載エッセイ「棋士と寿命と大山さん」より。
深夜まで戦って敗れた日は、帰るときに履く靴がぐさぐさで、自分の靴ではないように感じられることがある。靴の中まで冷えきるような寒い夜は、とくにやりきれなく思ったものである。
 対局消耗のせいだろうが、そればかりでもないようだ。同じ時間戦っても勝ったときはそう感じないのである。
 人間は死んだ瞬間にいくらか体重が軽くなるもので、それは去っていった魂の重みだという人がいる。もしそうだとすれば負けたときは魂をする減らしているのかもしれない。
 将棋というものは優勢でも最後の最後まで息を抜かない。悪い将棋も親指一本で残して打っちゃってやる―こういう気持ちをなくすと黒星ばかりが並ぶことになる。勝負にあっさりし出したら勝率は確実に下る。勝つためには精魂を傾けなければならないのである。
 強靭な大山さんでさえそのために生命を早めたという気がする。最期の順位戦は初めから本気であった。勿論、本気でない年などなかったろうが、特に燃えていたのではないか。
(中略 )
最後に、誰にも言っていない大山さんの思い出を一つ。ある棋戦の打ち上げの席でのことである。部屋に早く入りすぎて一人ぽつねんと座っていた私。その私のところへ大山さんがのこのこやってきて横に座った。それだけでも意外なことなのに、さらに意外なことを言われた。
「お金というものは女房と税務署に知れると、もうお金じゃないよね内藤さん」
 なにか身近な人には言えない事情があったのかもしれない……と考えたのは後のこと。このとき私は突然思いもかけない妙手を放たれた感じでとっさに応手が分からず、目をぱちくりするばかりであった。
 人間大山を感じさせた一瞬であったが、イメージが合わないせいか心の片隅に追いやられて思い出すこともなかった。

さりげない本音の吐露か、はたまた、盤外戦を得意としたという大山さんの、何か魂胆があっての発言か、なかなか興味深いエピソードです。
大山記念館のほど近くに、このような碑が建てられています。



門外漢のこと故、この木見金治郎という方について、まったく知りませんでしたが、大山さんの師匠であられたらしい。
小学館の雑誌サライ公式ページこんな記事を見つけました。


【今日のことば】
「棒ほど望めば、針ほど叶う」
--木見金治郎
将棋棋士の木見金治郎が、自身の門弟たちに向かって言い聞かせていたことばである。夢や志は大きく持って、それに向かって努力すべし。最初から小さな志しか持てないようなら、なにごとも成就することはできない。そういう意味だろう。
木見は明治10年(1877)岡山生まれ。当時、最高位の八段を有する関西棋界の実力者であったが、それ以上に、門下から升田幸三や大山康晴をはじめとする優れた棋士を輩出したことで知られる。
木見の指導方針は放任主義。升田幸三が自著にこう綴っている。 「先生と弟子というと、先生が手を取って教えてくれると思われがちですが、プロの修業というのは、そんなもんじゃありません。中にはそうする先生もあるけれど、ほんの例外でね。とくに木見先生の方針は、『自分で強くなれ』と、これに徹底しておった」(『名人に香車を引いた男』) 弟子にして手元に置き、勉強の場をつくってやる。先生の役目はそこまでであり、あとは自分で工夫、努力して強くなれ、というわけ。升田も大山も、内弟子としての雑用の合間に、自身で勉強し、先輩に鍛えてもらい腕を上げていったのである。
ここで見逃してならないのは、木見金治郎夫人ふさの存在だろう。
升田幸三14歳、大山康晴12歳。そんな年齢で内弟子になった子供らを相手に、ふさは棋士として強くなること以上に「人間」として一人前になるよう、気配りしていたように思える。
たとえば、こんな逸話がある。
雑用ばかりで将棋の勉強ができない--そんな不平不満で生活態度が定まらず、買いにいった豆腐をぶちまけてしまった升田少年に向かって、ふさはこう一喝した。 「使いっ走りも満足にできんどって、なにが将棋や」
升田はこれで目が醒めて、何をするにも目の前のことひとつひとつに集中心を持って取り組むようになった。時間を有効に使えるようになり、棋力を延ばすきっかけも掴んだという。
また、大山少年に対しては、
「将棋なんか、いくら強くなったって、思いやりのない人間になったら、ゼッタイに承知しませんよ」 と、繰り返し言い聞かせたという。

大山は棋界の頂点に立っても、このことばを忘れなかった。晩年の著書『勝つ!不動心』の中でも、このことばを紹介し、以下のようにつづけている。
「それ以来、『思いやり』だけはしっかり胸に抱きしめておこうと、五十余年のプロ棋士生活をすごしてきた。(略)人間の集団に思いやりが消えてしまったら、けだものと大したちがいのない動物の群れ、というべきだろう」


立春も近いと言うに蝋梅に雪降り積める倉敷の街







昨日書いていた記事はここまでですが、以下少しだけ付け加えます。

先日の記事で、「しんぶん赤旗」の紙面に言及したついでに、今朝の紙面について話題にさせていただきます。

絶対主義天皇制下の野蛮な弾圧にさらされながら、命がけで発行・配布・購読された「赤旗(せっき)」が発刊されてから、今日で、90周年を迎えるそうです。


ご参考までに日本共産党のHP中の関連記事に、リンクを貼っておきます。

紙面にみる「赤旗」の90年(真実伝え 共同を追求/不屈のジャーナリズム精神ここに(1月31日))


戦後「アカハタ=AKAHATA」(1946年)、「アカハタ」(1947年)、「赤旗(あかはた)」(1966年)を経て、今日の「しんぶん赤旗」(1997年)にいたる歴史のうち、私自身も、40年余りを、読者としておつきあいさせていただいています。(子ども時代の幽かな記憶の中に、鉱山労働者であった大叔父が、カタカナ書きの「アカハタ」で、何か農作物を包んでくれたことがあったように思います。当時、大叔父がこの新聞を定期購読していたのかどうかはわかりませんが、職場や地域のつながりから、手近にあった新聞紙だったのでしょうか?)。

いま、「しんぶん赤旗」では、連日のように各界の人々からお祝いや連帯のコメントが寄せられています。

「「赤旗」創刊90周年 真実と希望を届け国民と歩む」と題した今朝の「赤旗 主張」には、「大手メディアが死に体にある中、真実に迫ろうとする紙面で、多くの人が接することができるものは『赤旗』しかない」(元外務省局長の孫崎享さん)「政党の一機関紙が、社会や政治、世界を伝えるメディアとして、これほど貴重になるとは」(同志社大学大学院教授の岡野八代さん)「いつまでも、一人一人の人間の苦しみ、悲しみに寄り添ってくれる新聞であることを」(作家の赤川次郎さん)等のコメントが紹介されています。

今朝の1面に、「三毛猫ホームズ」でおなじみの前述の作家赤川次郎さんと、故林家三平さんのおかみさんでエッセイストの海老名香葉子さんのコメントが掲載されています。そして、つづけて、第3面にも、ページ全面を割いて、9人の方々が心のこもった言葉を寄せておられます。(これまで軽された方々のものも含めて)すべてを取り上げてご紹介したいところですが、今日はその中のお二方だけをピックアップしてみることにします。

日本将棋連盟理事・九段井上慶太さん「新人王戦決勝 今でも鮮明」、艦載機院理事・八段坂井秀至さん「新人王戦に育てられた」と、それぞれに、「しんぶん赤旗」が主催して毎年催されている囲碁、及び将棋の「新人王戦」に言及しておられます。井上さんは「私の師匠の若松政和七段、私の弟子の菅井達也王位も新人王戦で優勝を果たしています。いわば3世代で同じ棋戦を優勝していることは珍しい記録かと思います」と書いておられます。

ちなみに、ここに登場する菅井達也王位は、地元岡山市の出身で、奇しき縁に、親しみを覚えます。

ところで、ウィキペディアによると、将棋の「新人王戦」とは、かくのごとし。


新人王戦(しんじんおうせん)は、日本共産党の機関紙であるしんぶん赤旗主催の将棋棋戦日本将棋連盟公式戦)。26歳・六段以下(タイトル戦経験者は除く)の棋士などが参加する優勝棋戦(非タイトル戦の公式棋戦)である。決勝は三番勝負で、例年10月から11月にかけて行われる。優勝者(新人王)はタイトル保持者と記念対局を行う。新人王が後にタイトルホルダーやA級棋士などの強豪になったケースは多く、若手の登龍門であるとされている。

日本将棋連盟のHPの「新人王戦」の案内記事、次のリンクも紹介されています。

しんぶん赤旗新人王戦サイト

自死の報道による衝撃さめやらぬ西部さんが、晩年、「保守」を標榜しながらトラディショナル(伝統的)なものを捨て去り破壊しているアベ政権に深い幻滅を覚えておられたらしいことは先日書きました。一方、革新の極に位置するとみなされる共産党が、囲碁・将棋に象徴されるような伝統文化を守り育てる立場を具体的に実践していることは、特筆すべきことと思われます。

この記事ここまで。

 

 

 




nice!(20)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感

フォト蔵にアップしている私の写真はこちらです。

写真販売サイトにも画像を掲載しています。
写真素材 PIXTA