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昨日は雨水、今日は多喜二忌、の巻 [今日の暦]

昨日は雨水。
今日は多喜二忌。
いずれも記事にしたい題材ですが、今日は軽く通り過ぎることにします。
多喜二について書いた直近の記事は、昨年10月のこの記事でしょうか?

「多喜二の母」に思う、の巻(2)


「多喜二の母」に思う、の巻


こんなことを書いています。

上映前のステージで、監督あいさつにたたれた山田火砂子監督は、高齢ながら、凛とした張りのあるお声で、平和への思いを訴えておられました。「戦争で一番悲しいのは母。慈しみ育てた子どもを母から奪う戦争を二度と許してはいけない」「母、せき役の寺島しのぶさんは、我が子の命が奪われたりしたら、取り乱して自分を失ってしまうだろうに、もう一度立て、と呼びかけた多喜二の母は気丈だ。役だから演じるが、自分ならとてもできない、と漏らしていた」等、印象深いお話が、心に残りました。
小林多喜二は、これまでも、何度となく私の記事に登場してきます。 
◇「宵待草」異聞、の巻
◇ブログ更新停滞の三つの言い訳、の巻
◇しもつきついたちの後楽園、の巻
◇夏の終わりの高知行、の巻(その5)
サトキマダラヒカゲは海峡を越えるか、の巻
◇この道はいつか来た道 「密告フォーム」の行き着く先、の巻
◇自民HP密告フォームと「二十四の瞳」、の巻(1)
◇年金訴訟と朝日訴訟についてのおもいつくまま
道の辺に思ひ思ひや思ひ草
またまた3月15日の蘊蓄、の巻

三浦綾子原作の『母』では、多喜二と田口タキ(原作ではタミ)との純愛にスポットライトが当てられています。

「秋田魁新報」2009/12/11朝刊も、タキさんの逝去を伝える記事で、「小林多喜二が終生思いを寄せた女性」と紹介しています。

 小林多喜二の恋人、タキさん死去 101歳 大館市生まれの作家、小林多喜二が終生思いを寄せた女性、タキさん(旧姓田口)が、老衰のため今年6月19日に神奈川県内の介護老人施設で死去していたことが分かった。101歳だった。親族が12月10日、明らかにした。
 タキさんは、北海道小樽市の料理屋で働いていた16歳のとき、当時銀行員で21歳の多喜二と出会った。多喜二は美ぼうのタキさんに引かれ、小樽や東京で一時期同居して結婚を望んだが、実現しなかった。弟妹たちの面倒を見なくてはいけないタキさんが身を引いた—と伝えられている。
 エリート銀行員だった多喜二は、タキさんとの交流を通じて人間的にも文学的にも成長し、プロレタリア作家として社会変革を志すに至ったとされる。社会の底辺で生きる女性を主人公に、「瀧子(たきこ)もの」と呼ばれる数編の作品も残している。
 多喜二は思想犯として逮捕され、29歳で死亡。タキさんは戦後になって事業家と結婚した。親族は「本人は平穏な晩年を送りました。幸福な一生だったのではないでしょうか」と語った。
 先月出版された書簡集「小林多喜二の手紙」(岩波文庫)には、多喜二がタキさんにあてた恋文23通も収められている。

一方、山田火砂子監督の映画では、虐殺され、痛ましい姿で横たわる多喜二に取りすがって悼み悲しむ伊藤ふじ子にスポットライトをあてています。そして、その時は受け入れることができず,邪険な対応をしてしまった母セキが、晩年、最愛の夫を暴虐の果てに奪いさられた女性として、その耐えがたい悲痛に共感を寄せるとともに、多喜二にとっての大切な女性として愛おしく思うさまを描いています。
伊藤ふじ子については、ChinchikoPapa 様が2016-12-11付けの次の記事でも、こんな紹介をしてくださっていました。

高田馬場駅の階段でボケる小林多喜二。



  小林多喜二Click!は、少し間をおいてうしろを歩く伊藤ふじ子Click!を笑わせようと、高田馬場駅の階段でわざとボケてみせている。1931年(昭和6)ごろのエピソードと思われるが、小林多喜二はおかしなことをして人を笑わせるのが好きだった。階段を上っているとき、2段上に下駄の歯が落ちていたのを多喜二がひろい、彼女に見せたあと自分の下駄の歯が取れたのではないかと、マジメな顔をしながらさかんに合わせようとしている。
 森熊猛と再婚後、1981年(昭和56)に死去した森熊ふじ子(伊藤ふじ子)の遺品から、小林多喜二のことをつづった未完の「遺稿」が発見されている。それを初めて収録したのは、1983年(昭和58)に出版された澤地久枝『続・昭和史のおんな』(文藝春秋)だった。小林多喜二の妻だった女性からの、初めての直接的な思い出証言だ。以下、同書から孫引きで多喜二の素顔をかいま見てみよう。
  
 人に言うべきことでない私と彼との一年間のことどもを又何のために書き残す心算になったのか、まして彼は神様的な存在で、この神様になってにやにやしている彼を、一寸からかってやりたい様ないたずら気と、彼がそれほど悲壮で人間味を知らずに神様になったと思い込んでいられる方に、彼の人間味のあふれる一面と、ユーモアに富んだ善人の彼を紹介し、彼にかかわって案外楽しい日も有ったことなど書きとめて、安心してもらいたかったのかも知れません。/元来彼はユーモリストと申しましょうか、彼の生い立ちとは正反対に、彼と一緒に居るとだれでも楽しくなるところが有りました。
(中略)
特高Click!に目をつけられていた彼女は、下落合では目立たぬように暮らしていたのだろう。彼女は画家になりたかったので、多喜二が築地署の特高に虐殺されたあとも、1932年(昭和7)から翌年にかけ従来と変わらずにプロレタリア美術研究所Click!へ通っている。
 ただし、彼女はこの時期、黒っぽいワンピースばかりを着ながら同美術研究所へ通っていた。小林多喜二と伊藤ふじ子の関係をよく知っていた秋好一雄は、夫が殺されたので大っぴらに喪服は着られないものの、喪服がわりの黒っぽいコスチュームだったのだろうと回想している。伊藤ふじ子は、「あんたが(小林多喜二の)女房だなどと言ったら、どういうことになると思うの」という、特高の残虐さを十二分に認識していた原泉Click!の忠告を守り、ひたすら多喜二との結婚を世間には隠しつづけた。

多喜二の通夜の模様は、そこに立ち会った手塚英孝や江口渙らの文章に,ありありと描かれています。が、伊藤ふじ子については、あられもなく取り乱して嘆くワケありのおんな以上の印象を持つことなくとくに確かめもしないまま過ごしてきました。平野謙氏などがよく取り沙汰したいわゆる『ハウスキーパー』論なる『印象操作』のせいもあってか、覗きたくない闇にたいするような忌避感覚がつきまとっていたのかも知れません。そんなことから、私は次のようなコメントを書かせて戴きました。

 多喜二さん、人間味ある、お茶目な人だったようですね。弟の三吾さん、お母さんのセキさんなどの、あれこれの追憶からも偲ばれます。
伊藤ふじ子さんのことは、「ハウスキーパー」としてだけ薄らと記憶していました。虐殺された多喜二に取りすがるさまに、自然のこととして男女の情愛を読み取ることはありましたが、秘められた後ろぐらいもののように、長いあいだ感じてきた点が、なきにしもあらずでした。「小林多喜二の妻だった女性」と位置づければ、すっきり腑に落ち、悲痛が募ります。下駄のエピソードは、どこかで読んだ覚えがありましたが、澤地久枝『続・昭和史のおんな』(文藝春秋)を、読んでいませんでした。お教えいただきありがとうございました。
by kazg (2016-12-11 08:44)

これには、ChinchikoPapa 様からこのようなお返事をいただき、またまた目のウロコがとれました。

kazgさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
ふたりが結婚する前、小林多喜二から伊藤ふじ子へ宛てたラブレターも発見されておらず、また、それを仲介した人々の証言も得られていなかった1960~70年代には、「ハウスキーパー」説が広まるのを抑えようがなかったのかもしれませんね。
それになによりも、ふじ子自身とその夫である森熊猛が存命で、家庭を持っていて子育てをしているわけですから、よけいに証言しにくい状況が、ふたりの関係を知る人々にはあったのではないかと思います。
小林多喜二・ふじ子夫妻のことが、さまざまな証言や資料とともに公に語られるようになったのは、ふじ子が死去したあとのことですね。夫の森熊猛も、ふたりの生活で知りえた限りのことでしょうが、多喜二とふじ子の関係を証言しているのが貴重です。
by ChinchikoPapa (2016-12-11 18:14) 


このような史実の解明が背景にあって、三浦綾子原作『母』から、山田火砂子監督作品の映画への「発展」があったのかと,合点がいきました。
いやはや、「軽く通り過ぎる」つもりが、またまた深入りしてしまいました。今日扱うつもりだった題材は、また回を改めて書かせて戴きます。
昨日の散歩道で出会った鳥たちです。
ジョウビタキ♀。






ツグミ。



ムクドリ。

これは?

雀のお宿、発見。





きょうはこれにて。

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