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226思いつくまま、の巻 [今日の暦]

昨日は日曜日で、孫たちの家はカレーの日です。ジイジ・バアバも、毎週のようにお呼ばれに行きます。それに加えて、昨日は下の妹の3歳の誕生パーティーで、ケーキもいただきました。本当の誕生日はもう過ぎているのですが、みんなが集まれる日にケーキを食べようという趣向です。

一夜明けて今朝は、昨夜の雨の影響もあって少し暖かいのか、深い霧の朝でした。今日は2・26事件の日だったなと気がついて、そう言えばこの事件で暗殺された被害者の一人が、渡辺和子さんのお父さんだったよなと、思い出したりしていました。
何のことはない、過去(2016年)にも、そんな話題を書いていて、またまた二番煎じになるところでした。


2.26事件から80年だそうです。
今朝の地元紙『山陽新聞』(27面 くらし)には、「二・二六事件から80年 渡辺和子さんに聞く 平和は日々の暮らしから」というインタビュー記事が掲載されていました。
旧陸軍の青年将校らが武力反乱を起こした二・二六事件は、日本が戦争に向かった転機として昭和史に刻まれる。雪が縁側の高さまで降り積もったその日、9歳の少女は陸軍大将の父が凶弾に倒れるのを目の当たりにした 、、、。
「陸軍大将の父」とは、渡辺錠太郎陸軍教育総監。当時9歳の少女というのは、地元岡山市のノートルダム清心女子大学の学長だった
(現ノートルダム清心学園理事長)渡辺和子さん。1984年にマザー・テレサが来日した際には通訳を務めるなど活躍され、著書もたくさんありますので、教育者として尊敬しておりましたが、2.26事件との数奇な関わりについては存じ上げませんでした。
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妻に話すと、それは周知の事実であるらしく、以前テレビ番組で取り上げられたこともあると教えてくれました。

同じ記事を繰り返すのも能がありませんので、2016年末に亡くなられた渡辺和子さんへの追悼記事から、一節を引用させていただきます。HUFFPOST2016年12月31日付記事、「渡辺和子さん、生前に語った2・26事件 父を殺された瞬間、そして『赦しと和解』」(吉野太一郎氏執筆)の一部分です。

陸軍教育総監だった渡辺錠太郎の次女で、4人きょうだいの末っ子だった。9歳だった1936年2月26日、陸軍の青年将校らによるクーデター未遂事件「2・26事件」で、父が殺害される場面を目撃することになる。

渡辺さんは当時のことをエッセイ集『美しい人に』などでも書いているほか、講演などでも折に触れて当時の様子や、加害者の遺族との「和解」や「赦し」について語っていた。ここでは2009年3月8日、筆者が取材した、東京・杉並区郷土博物館での講演の内容を紹介する。

「血の海の中で父は死にました。凄惨な死でございました」
1936年2月26日の午前6時前、9歳だった和子さんは、和室の布団で父と寝ているとき、激しい怒号を聞いた。その直前に斎藤実・内大臣を殺害した青年将校と部下の兵士の一団約30人は、東京・荻窪の自宅前にトラックで乗り付け、門を開けようとした。

兵士たちの怒号を聞きまして、まだ寝ておりました父が、すぐ起きまして、自分の左手にあります小さな襖を開けて、拳銃を取り出しました。覚悟していたのだろうと思います。そして私に「和子はお母様のところへ行きなさい」、これが最後の、私が父から聞いた言葉でございました。逃がしてくれたわけでございます。
私は寝ぼけ眼で、寝室と茶の間の間のふすまを開けて、台所に母の姿があるかと思って探しましたところ、母は兵士たちを中に入れない、防ぐために必死でして、私の方など見向きもしませんでした。仕方なしに父の所にまた戻ってまいりました。
その頃には流れ弾が寝間に打ち込まれておりまして、よく当たらなかったと思うんですけれども、私はそれをかいくぐってまいりましたところ、掻巻(かいまき、綿の入った袖のある寝具)を自分の身体に巻き付けて、ピストルを構えておりました。私が戻ってきたのを見て、非常に困った顔をしまして、目で、座卓の後ろに入るように示してくれました。
私もそこに隠れました。ふすまが開けられて、軽機関銃の銃身が差し込まれて、父の足を狙って撃ち始めた。私の父は陸軍でも射撃の名手だったようでございます。3発ほど撃ったと言われておりますけども、いずれにしても軽機関銃にはかないません。足を集中して撃ったらしく、片足はほとんど骨ばかりでございました。
茶の間の方から青年将校2人(高橋太郎少尉と安田優少尉)と兵士が数人入ってきて、父を射撃いたしまして、最期に銃剣で切りつけて、とどめを刺して帰っていきました。ずっと座卓の影から見ておりまして、引き上げていった後、出てまいりまして、「お父様」って呼んだんですけど、もちろん事切れておりました。あたり一面、父の肉片、骨片が飛び散っておりましたし、寝間の柱にも銃弾の跡が残っておりました。
その後、母がすぐに寝間に参りまして「和子は向こうに行きなさい」と言われてその場を離れました。午後になりまして、包帯でぐるぐる巻きになった父が布団の上に横たわっておりました。額に触ったときにとても冷たかったのを、今でも感触を覚えております。亡くなった姉によりますと、43発、弾を父の身体の中に撃ち込まれていたということでございます。
雪の上を点々と血が残っておりました。寝間の前は庭でして、雪が本当に真っ白に積もっておりましたけども、兵士が帰っていくときの返り血なのか、足か何かを狙って撃ったときの血なのか分かりませんけども、その血の赤さは今でも焼き付いております。

(中略)
駐在武官として長い間、ドイツ、オランダ、中国、満州、そういう所へ参りました。私には直接申しませんでしたけども、母や姉に聞きますと、父は「軍隊は強くなければいけない。でも戦争だけはしてはいけない」ということを絶えず言っていたそうでございます。「戦争は勝っても負けても国を疲弊させる。自分が勝った国、負けた国に駐在武官としてずいぶん長いこと行っていたけども、そこの人たちがどれほど食糧や着るもの、家を壊されて困っているかをつぶさに見てきた。戦争だけはしてはいけない」。それがもしかすると、その当時、ひたすら「戦争をしなければならない」と思っていた方々にとって邪魔な存在になっていたのかも存じません。私の母は、父がよく「俺が邪魔なんだよ」と言っていたと後で話してくれました。つまり父の存在が一部の方々にとっては非常に邪魔だった。

講演後、渡辺さんは2・26事件について、取材にこう語っていた。

「軍の一部が自分たちの意志を遂げるために蜂起し、いらないものを消し、戦争にひた走った。『こういうことは繰り返さない』と思って頂けたのなら、私もお役に立てたのではないでしょうか」

(中略)
今まで「お父様を殺した人たちを恨んでいますか」と聞かれて、本当にきれいな言葉で「いいえ、あの方たちにはあの方たちの信念がおありになったんでしょう。命令でお動きになった方たちを、お恨みしておりません。憎んでおりません」と言いながら、コーヒー1杯、そういう方を前にして飲めなかった自分。修養が足りないとも思いましたし、同時に、私の中には父の血が流れているんだと感じました。私がどれほどでお赦ししていると言っても、私の血が騒ぐ。
(中略)

転機となったのは、1986年7月12日、青年将校らが銃殺刑に処せられてから50年の日の法要に、請われて参列したことだった。
(中略)
法要の間も本当につろうございました。終わって帰ろうとしたら澤地久枝さんが来ていらして「シスター、せっかくここまで来たんだから、お墓参りをしたらどうですか」と、お参りしてお線香とお花を供え、立ち上がってお墓から階段を降りて参りましたときに、男の方が2人、涙を流しておられた。そのお2人が、私の父の寝所まで入ってこられた、高橋少尉と安田少尉の弟さんだった。「これで私たちの2・26が終わりました」「私たちがまず、お父様のお墓参りをすべきだったのに、あなたが先に参ってくださった。このことは忘れません。ついてはお父様の墓所を教えて下さい」と言われ、お教えして、その日は終わりました。
その日以来、毎年、お盆とお彼岸と、折あるごとに、多磨墓地の父のお墓は、お掃除が行き届いて、時には植木が刈り込んである。高橋様と安田様とはお手紙を交わす間柄になりました。本当に、父が引き合わせてくれたことだと思いますし、しみじみ思ったんですね。自分だけが被害者のような気持ちを持っておりましたけれど、反乱軍という名前をつけられた方々のご家族の50年、どんなに辛い思いをなさったか、私は一度も考えていなかった。お名前だけ知っていた、河野とか野中というお名前が、肉親のお姿で現れたとき、何か心の中で溶けるものがあったように思います。


長い引用になりました。
なかでも、「戦争は勝っても負けても国を疲弊させる---そこの人たちがどれほど食糧や着るもの、家を壊されて困っているかをつぶさに見てきた。戦争だけはしてはいけない」というお父様の言葉が,重く心に沁みました。経験と知性に根ざした知見に、いささかも耳を傾けることなく、いやそれらを邪魔者と力づくで排斥して、ひたすら「戦争をしなければならない」と思っていらっしゃる方々が、 いままた跋扈しているのではないかと危惧される時代だけに、、、。
ちなみに、このクーデター計画に加わった青年将校たちが掲げたスローガンは「昭和維新」でした。忘れかけていましたが,そう言えば、去年の5月、こんな記事を書いています。



共謀罪が衆院で強行されました。
とにかく最近忘れっぽくて困りますが、これだけは忘れないようにしなくてはなりません。
強行採決の口火を切ったのは、最後の質問者、「野党」維新の丸山穂高議員。「30時間以上質疑してきた。これ以上は足を引っ張る事が目的のピント外れの質疑は必要ない。論点も整理されて時は来た。私の質疑のあと、ただちに採決してほしい」とさ。このヒト法務委員でもない外野のヒト。
維新という存在、「補完勢力」という手厳しい呼び方にいささかためらいもありましたが、今やそれ以外の何者でもありませんね。
そういえば、昭和初期、5・15.2・26等のクーデター事件を引き起こした青年将校や民間右翼の唱えたスローガンが「昭和維新」でしたね。彼らの暴力的な妄動によって妄動によって掃き清められた道の先には、暗黒の国家総動員体制が待っていました。役目を終えた「昭和維新」のスローガンは、用済みとなって立ち消えて行きました。その歴史を知った上で、彼らは「維新」を名乗っているのでしょうかね。

さて、話はもどって、渡辺和子さんが学長を務めておられたノートルダム清心女子大の卒業生は、私のかつての同僚にも、たくさんいらっしゃいます。そのなかの最も若い元同僚T嬢は、当時常勤講師でしたが、生徒たちへの転任のあいさつで、渡辺和子さんの著書『置かれた場所で咲きなさい』を引いて,しみじみと心を打つ話をされました。
今日の散歩道で、出会った花です。
紅梅。
道端の空き地(農地の一角?)に、無造作に植えられています。けっして、花を愛でるためというわけではないようです。






白梅。





昨夜の雨の雫を宿した花も。

昨年末から咲き続けているニホンスイセン。



今日はこれにて。

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