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「治安維持法」の誕生日、かつ、核兵器禁止運動の誕生日だったんだ、の巻 [今日の暦]

本格的な春の訪れを前に、ここ何日か足踏み状態が続き、今日も冷たい雨の一日になりそうです。
「風邪気味」のわが体調は、熱も咳も頭痛も筋肉痛も、一切ありません。ほとんど快調といえます。ただ、うどんや粥など消化のよい食事しか食べていないのに、下痢がなかなか治まらず、不快が募ります。もちろん症状は、時間をおいて間歇的にあらわれるだけですが、平穏時も不安が去ることがありません。
同病のよしみというと僭越ですが、腸の持病をお持ちだと聞くアベさんの健康状態が、時折気になります。重病に屈せず、強靱な意志力を発揮されての超人的なご活躍は、ご同慶に耐えません。
さはあれども、比類のない窮地に陥っておられる昨今、特に今日の国会中継などを拝見するにつけても、きわめてご気分が優れぬ様子とお身受けします。今朝の報道によりますと、内閣支持率急落で、不支持が跳ね上がっているそうな。
遅きに失するとはいえ、当然の成り行き。速やかに知る限りの真実を明らかにされ、潔く身を処されることが、最も健康にもよろしいのではと、愚考するものです。



余談はそこまでとして、早朝のNHKラジオで、いつもの「今日は何の日?」というコーナーが聞こえてきました。
最初に紹介されたのは、「治安維持法」が制定された日。
2番目が、「ストックホルムアピール」が採択された日。
いずれの話題も、平和と民主主義の根幹に関わる重要な記念日であったことに気づかされました。今日の記事のネタにしたいと思いついたのですが、聞きかじり素人の知ったかブログの悲しさ、いつものことながら詳しい知識を持ちあわせませんので、ちょっと確かめてから、と考えたものの、なかなか手間取りました。

第2のストックホルムアピールについては、すぐに解説がみつかり、ウィキペディアにも、こんな記事を見つけることができました。

1950年 - 世界平和擁護大会常任委員会第3回総会で原爆禁止のストックホルム・アピールを採択。


ストックホルム・アピール
 1950年3月、世界平和評議会がよびかけたもの。「原子兵器の絶対禁止」を求め、「最初に使う政府が人道を犯す戦争犯罪者として扱われる」と警告しました。これに賛同する署名数は世界で5億、日本でも645万筆に達し、後にヘンリー・キッシンジャー米国元国務長官も「この運動のために朝鮮戦争で核兵器を使うことができなくなった」と、回顧録で書きました。なお、「原子兵器」となっているのは当時まだ水素爆弾が開発されていなかったからです。

それからほど経ずして水爆が開発され、4年後の1954年3月1日には、アメリカによる水爆実験がビキニ環礁で行われました。現地住民や、付近を航行していた多くの船舶とともに、日本のマグロ漁船数隻も「死の灰」を浴びました。被曝した「第五福竜丸」に、無線長として乗り組んでいた久保山愛吉さんは、半年後の9月23日「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」と言い残して亡くなられました。
このビキニ事件を契機に、5月には「水爆禁止署名運動杉並協議会」が結成され、水爆禁止署名運動が各地に拡がりました。8月には「原水爆禁止署名運動全国協議会」が結成され、原水爆禁止署名運動として全国へ波及してゆきます。
この運動の中で「原爆を許すまじ」(浅田石二作詞・木下航二作曲)や、「死んだ女の子」(ナズム・ヒクメット作詞・木下航二訳詞・木下航二作曲)が歌われました。そんな話題は過去記事にも書きました。
今もなおとびらをたたく音きこゆ(8月に寄せた学級通信2
一部引用して再掲します。

昨日の記事でご紹介したクラス通信の三年後の1991年の夏、これも二年生のクラスの生徒に向けて書いた文章です。(中略)

読み返して見ると、3年前の文章を使い回している部分もかなりあります。「コピーアンドペースト」という用語はまだ存在していないか、少なくとも一般的ではなかった頃ですが、実質はそれです。今も昔も、同じようなその場しのぎをしておりますな(汗)。
重複部分は除いて、文章に書き起こしてみます。

開けてちょうだい たたくのはあたし/あっちの戸こっちの戸あたしはたたくの/こわがらないで見えないあたしを/だれにも見えない死んだ女の子を・・・トルコの詩人ナジム・ヒクメットの詩「死んだ女の子」の一節だ。
原詩を左に掲げておくから、ひとつ自分で訳してみよう。
7つの時、ヒ口シマで死んだ女の子は、いまでも7つのまま。なぜなら、死んだ子は大きくなれないから。
ヒロシマで死んだ女の子の願いは何?甘い果物、おいしいご飯、飴玉、それともふかふかのパン?
いえ、死んだ女の子に、そんなものはもういらない。死んだ女の子の願いは、平和。 世界中の子供たちが、生きて、育って、笑って、遊ぺるように。
そのために、彼女は世界中の家々の前に立ち、扉をたたく。「戦争が起こらないようにして頂戴、子どもが戦火に灼かれることのないように、あなたの力を貸して頂戴
(中略)
そして、世界最初の(今のところ唯一の)被爆国日本は、いまや世界有数の軍事力を有するまでになり、“平和協力の名のもとに、自衡隊海外派遭の一歩を踏み出すまでになった。政府自身“国是”と称してきた「非核三原則(作らず、持たず、持ち込ませず) 」も、有名無実化して久しい。
湾岸戦争で”大活躍”の巡航ミサイル“トマホーク”を積んだ船は、この日本を基地にして出撃していった。辛うじて、今回のイラク攻準に核ミサイルは使用されなかったが、当然、核攻撃の準備は、周到におこなわれていた。
”死んだ女の子”の悲劇の再現は、目の前だ。そして今度は、ヒロシマ・ナガサキの体験を有するわが国が、公然とした加担者として立ち現れようというのだろうか。
確かに、イラクのクウェート侵略は許されない。ちょうど、軍国日本のアジア侵略が、不正義であったと同様に。
だが、非戦闘員・婦女子・病人をも含むイラク国民全体を標的にした軍事行動は、正義の名に値するか。これを正義と認めるには、大戦末期、日本の敗北がすでに決定的になっている段階で、無差別殺戮の限りを尽くした大空襲や、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下をも“正義”としなくてはならぬ。「犠牲を最小限にとどめるための人道的措置」との強弁を、甘んじて受け入れなくてはならぬ。
この不条理に、「死んだ女の子」は何と言えばよいのだろう。
生きているものは何をすればよい?
愚かしいあやまちは繰り返されてはならない。
ゲンバクで死んだ幾万の子どもたち、戦争で死んだ幾百千万の子どもたち、あなたがたの:悔しさを、二度と再び地球上のこどもたちにかみしめさせる事のないように、地球上に再び被爆者をつくらないために、いま、生きている私達も一緒に声を上げるときではないか。
“核兵器の廃絶を”、”被爆者援護法の即時制定を”“憲法の復権を”---そう思わずにはいられない夏である。

「死んだ女の子」ナジム・ヒクメット
これを書いた頃は、まだ「パソコン」と言えば、統計処理のために職場の共有物の電算機に向かって、必要に迫られておそるおそる打鍵する、といった存在でした。ましてやインタネット検索など、想像だにできない世界でした。
ヒクメットの詩も、当然のことながら、何らかの機会にたまたま目にした詩を書き留めて、生徒に紹介したという次第です。
今なら、ネット検索で、詳細な情報が手に入り、もっと深い理解が可能であったかもしれません。



一方、もう一つの話題「治安維持法」については当ブログでもたびたび触れたことがありましたし、改悪治安維持法に帝国議会でただ一人反対した労農党代議士山本宣治(1889年5月28日 - 1929年3月5日)についても何度か紹介させていただきました。
うすごおりの張りたる今日は山宣忌の記事を一部引用します。

山宣は、治安維持法の最高刑を死刑とする改悪に帝国議会内でただ一人反対し、発言を準備していたが強行採決によって阻まれ、その夜、宿舎で右翼のテロによって暗殺されたのした。
その帝国議会出席のために上京する前に、大阪での全国農民組合大会でかれはこう挨拶しました。
「実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ、山宣独り孤塁を守る!だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから・・・」ここで挨拶は中止させられたそうです。
この言葉は、大山郁夫の筆により、かれの墓碑銘として刻まれています。
権力は、この墓碑銘を、セメントで塗りつぶさない限り墓碑の建立を許さないという妨害を加えたそうですが、何度塗りつぶしても、いつの間にか民衆の手によってセメントがはがされ、また塗りつぶされ、、を繰り返し、1945年12月、戦後最初の追悼墓前祭で、墓石のセメントをノミではがし、墓碑は白日のもとによみがえったといいます。
このエピソードは、1960年(昭和35年)に大東映画が製作・配給した山本薩夫監督の映画『武器なき斗い』(ぶきなきたたかい)のなかでも描かれていたように記憶しています。この映画の原作は、西口克己の小説『山宣』です。

では、今日3月19日に成立したという「治安維持法」とは?と高校時代の日本史授業の記憶をまさぐってみましたが、モーローとしてあやふやです。
そこで、いつもの手段でネット検索してみますと、こんなブログ記事を発見しました。
今日から明日へあさってへisao3264.exblog.jp様の,2013年3月19日の記事です。まことに的確な記事内容でしたので、無断で一部引用させていただきます。(万一不都合がありましたらご指摘くださいませ)
こんな書き出しで始まります。

今朝のNHKラジオ「今日は何の日」のコーナーで、「治安維持法が成立した日」とのひと言があったそうです。率直に言って「おや?NHKにしては珍しいことを言うなぁ」と思いました。
 というわけで、「治安維持法の成立」にまつわる話を書いておこうと思います。

引用者注:2013年3月19日時点のお話です。念のため。
以下核心部分を引用させていただきます。(ちなみに、小樽商科大学学術成果コレクションのURLも掲載されていましたが、残念ながらリンク切れらしく、たどり着くことができませんでした。)

一九二五年二月一八日に政府から衆議院に提出された治安維持法案は、(中略)三月七日の本会議で「政体」変革を削除した修正案が可決された。貴族院では三月一一日の上程後(中略)早くも一九日の本会議で衆議院修正案を可決、ここに治安維持法は成立した。少数の反対論者の質疑はかなり執劫だったとはいえ、これほどの重要法案を両院あわせてわずか一ヵ月間で通過させてしまったのである。ある新聞は「愈々委員会が開始された場合には僅に一二の修正意見を容れ申し訳的に反対論者の面目を立てる外議論の沸騰する機会を予へざるうちに一潟千里に議了する下心であるらしい」(「東京日日新聞」二月二〇日付)と観測するが、実際にもこのとおりになる。議会審議の経過を新聞報道で追うと、「与党内に早くも骨抜き運動」(『萬朝報」二月二一日付)、「政府が修正せねば与党は握り潰す作戦」(報知新開)二月二五日付』とヨタヨタの法案で、政府も答弁に窮する場面が多々ありながらも、結局は「満天下の非難をよそに、生れ出づる悪法案多数の力でひた押しに遂に衆院を通過す」(『東京日日新聞』三月八日付)るのである。

 上記の図(省略:引用者)と文章は『治安維持法関係資料集』(全4巻、荻野富士夫編、新日本出版社、1996年)に記載されているものですが、ボクは持っていませんでした。あれこれ探ってみると小樽商科大学学術成果コレクション(Barrel)解説 : 治安維持法成立・「改正」史、荻野富士夫というコーナーにアップされていることが分かりました。膨大な資料の中からそのポイントだけを引用したものです。

よくわかりました。
確かに今日が治安維持法の出生日でした。「ヨタヨタの法案」として生まれ、徐々に悪名高き「希代の悪法」に成長・変身していったわけですね。
そして。行き着く先はこの結末です。

心して記憶しておきます。



今日は一日雨でしたから散歩には出ませんでした。
玄関先に置いている鉢植えの花です。

サクランボを期待して植えている桜桃の花です、「暖地」という品種で、佐藤錦などに比べて早生種のようです。
昨日明るい光の下で撮影したものも掲載しておきます。
















バックの赤色は、ナンテンの葉です。
あちらこちらに植えられている河津桜も、一斉にピンクの花を咲かせています。この雨が上がり、暖かくなれば一気にソメイヨシノも開花に向かうのでしょう。例年よりも早い開花だと予報されています。



追伸。
昨日開かれた小鳥の森・三徳園を愛する会のシンポジウムに、私は体調不良を理由に欠席させていただきましたが、M師からのメールで、見舞いの言葉とともにシンポジウムの模様を教えてくださいました。集まりは期待以上の盛会だったそうで、「講演の参加者は20名も集まれば御の字だと私は思っておりましたが、驚いたことに会場が埋まりました。」とありました。下は添えられた写真です。

森と生き物を愛する思いで結ばれた市民の運動。楽しく明るく発展させていただきたいと祈念しています。
今日はこれにて。

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