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今日のあれこれ、の巻 [折々散歩]

梅雨明けが報じられた頃から、蝉の姿を見るようになりました。

これは昨日訪ねた後楽園の庭園で見つけた空蝉です。

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今朝などは日射しとともにけたたましい蝉時雨が、並木の枝を包んでいます。
朝の散歩も結構な暑さで、早々に退散してきました。


見るともなく眺めていた朝のテレビに、注意を引かれました。

NHKドキュメンタリー - 目撃!にっぽん「政治家 野中広務の遺言~追い追い求めた“真実一路”~

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そう言えば、以前、ソネブロmajyo様の記事で何度か野中さんを話題にしておられました。たとえばこの記事。

老兵は死んだ・野中広務

少しだけ無断引用させていただきます。
今日は亡くなった野中さんの事を書きたいと思ったが時間が無い
昨夜、Twitterにて投稿した短い文章をご紹介したい

野中広務氏が亡くなられた。下記の三冊を読んでいると思うが彼をダーティーな鳩と思う。冷厳さと優しさを併せ持つ人だがその出自から麻生太郎は言う。あんな部落出身者を日本の総理にはできない。その後、野中は多くの人の前で 君に人権啓発なんて出来ない。絶対に許さん!と言った
魚住昭の自叙伝的ノンフィクションの中にある。出自に関して家族を悲しませたことをわびた。本人にも辛い本だったようだがそれがよりリアリティーに感じる。惜しい方が亡くなった
(中略)
今から何年前だろうか
HPをやっていた私は小泉時代にイラク派兵に反対していた。
その時に自民党で声を上げていたのが野中さん
政治に疎かったし、野中さんにはダーテイーなイメージを持っていたが
この人は芯がある。すごい人だと思うようになった。
今朝のNHK番組でも、そのイラク国会の時の行動が、当時の映像で紹介されていました。他にも、基地問題での沖縄県との対応、ハンセン病問題解決への尽力、大政翼賛化への危惧、改憲の動きへの懸念など、「みずからの戦争体験から一貫して反戦を訴え、弱者に対するまなざしを大切にする政治家」としての実像が、実際の映像や各界の人々の証言を通して浮き彫りにされていました。
これに触発されて、少々ググってみると、こんな記事もありました。
NHK政治マガジン2018年4月18日 特集記事 野中広務とは 何者だったのか
一部分を引用します。
野中氏は、その政治姿勢から、与野党問わず、幅広い政治家にファンがいたことで知られています。現在、兵庫県宝塚市長を務める中川智子氏は、社民党の衆議院議員時代から親交のあった1人です。平成9年に、野中氏が、衆議院本会議での委員長報告で、「大政翼賛会にならないよう若いみなさんにお願いしたい」と呼びかけたのがきっかけでした。
「感動のあまり、矢も盾もたまらず、野中事務所に走った。ちょうど野中さんも自室にいて会うことができた。『今日の野中さんの発言に涙が出た。あなたみたいな政治家に会えてよかった。本当に素晴らしかった』と話した」
当時、社民党の1年生議員だった中川氏は、その夜、議員宿舎に帰って驚きます。野中氏から、「これから困ったことがあったら何でも相談しなさい」というメッセージと、携帯電話の番号が書かれたメモが、郵便受けに入っていたのです。
それから、野中氏は、ハンセン病や、薬害ヤコブ病をめぐる問題などで、中川氏の活動に党派を超えて、力を貸したといいます。
「私が、いつも『手伝ってもらってばかりですいません』と言うと、『君は、票にもお金にもならないことに必死で取り組んでいる。本来政治家はそうあるべきだ。政治の光が当たらなければならない人を助ける議員が少なすぎる』と。『君を手伝うことは大事な仕事だと思っている』と言ってくれた」

野中氏が政界を引退した後も交流は続き、1年に数回は会って食事をしながら意見交換していた中川氏。1年に3日だけ、どうしても野中氏と会えない日がありました。野中氏が自治大臣・国家公安委員長として対応にあたった阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件と、JR福知山線の脱線事故が起きた日でした。
「野中さんは、『必死だったが救えなかった命はある。体が動かなくなるまで、この3日は欠かさず、お参りすると決めている』と。生涯を貫き、自分が関わったことを忘れずに亡くなった人たちと向き合う。自分に対して非常に厳しい方だった」
政治の裏も表も知り抜いた保守政治家ながら、ポリシーと気骨を持った、アッパレな政治家であったことは間違いないようです。
ネット上では、こんな新聞記事に出会うこともできます。しんぶん赤旗2009年6月27日付です。

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長くなりますが、一部引用します。
25歳で郷里の町会議員になり、衆院議員引退までの52年の政治生活を通じて「宿敵」だったあなた方(「赤旗」)に私の思いを語るのも、いまの時代が、そうさせるのだと思います。

■議員引退の訳

 国会議員を退いて5年8カ月。私は全国各地で、ざっと300回の講演をしてきました。招かれる先にはあなた方と親しいグループや団体、また憲法9条を守ろうという会もあります。
 いま静かに日本の政治を見ると、おかしくなっていく日本を感じます。とくに小泉内閣の5年は、短いことばで国民を狂わせて、アメリカ型の市場万能主義をそのまま持ち込み、アメリカの権益がかかわる戦場に自衛隊を派遣して、日本社会の屋台骨を粉々にしてしまいました。私は、こんな内閣と同じ時代に国会議員でいたら後世恥ずかしいと思い、議員を退いたのです。
 私自身は、軍隊経験は6カ月だけですが、あの戦争の時代とその後を体験した人間として、今日ほど日本の人々が、この国の進路を誤らないように明治以後の歴史を振り返り、平和を考えなければならない時はないと思います。

■大政翼賛会に

 01年10月、衆院本会議にテロ特措法案の採決がかかったとき、私は、本会議場を退場して棄権しました。03年6月のイラク特措法案が採決にかかったときにも本会議場を出て棄権しました。この法案が自民党総務会に示されたとき、自衛隊の派遣については慎重であるべきだといったのは、ぼくと野呂田芳成さん、谷洋一さん(ともに元農水相)の3人だけ。あとの議員は「こんなときに何をいっているのだ。自衛隊を派遣するのはあたりまえじゃないか」といっていました。
 正直いって僕はむなしさを感じました。自民党は戦争が好きな政党になってしまった。それこそ大政翼賛会時代にもどってしまったわけです。
 このできごとに先立つ1997年4月、衆院本会議で僕は、日米安保条約の実施に伴う土地使用にかんする特別委員長としての「沖縄駐留軍特措法改正案」審議報告で「この法律が沖縄を軍靴で踏みにじる結果にならぬように。…国会の審議が再び大政翼賛会的にならないように、若い人にお願いしたい」と自分の思いをつけ加えました。国会ルール違反と批判され、議事録から削除された経験があります。
 しかし、そのあと、特措法を積み重ねて自衛隊は地球の裏側まで出かけていけるようになってしまいました。
 私は、振り返って今も3つの特措法に対する自分の当時の判断は間違っていなかったと思っています。

戦争に加担しない道を

 最近、この国のこれからの平和を考えるうえで、僕が一番恐れているのは米軍再編です。米軍は米本土にあった米陸軍第1軍団司令部を座間(神奈川県)に移転させ、そこへ陸上自衛隊の司令部を集結させました。かつて日本は傀儡(かいらい)国家である「満州国」をつくり、そこに関東軍司令部を置いて、中国大陸を植民地化していく橋頭塗(きょうとうほ)をつくりました。あのときの日本の植民地政策と同じ考え方ではないでしょうか。当時と違うのは日本政府が、この米軍再編に3兆円ものお金を出そうとしていることです。
(中略)
 日米間には現在、安保条約があるだけで、平和友好条約はないです。やはり日米平和友好条約を結べる環境をつくらねば、日本はいつまでたっても米国と対等になれないと思います。

■憲法

 たしかにいまの憲法にはいろいろ矛盾はあります。しかし、わが国は日本国憲法の掲げる「戦争放棄」「恒久平和」の理念を1つのよりどころにして、自衛隊を海外に出したりすることを「卑怯(ひきょう)者」といわれても避けてきました。憲法を盾にして戦争に加担しない道を歩んできたんです。このことが戦後64年の平和につながったんです。1つ足を踏み出したら取り返しのつかないことになることは20世紀の戦争の1つ1つが物語っています。
 私は、この事実だけは何があろうと忘れてはいけないし、日本はあくまでも憲法の掲げる理念に則(のっと)って国際平和に貢献すべきだと思います。
 私自身は、憲法について、9条2項を変えて自衛隊を認め、しかし海外へ出さないという規定にすべきと考えています。あなた方とは違うかもしれないが、これが実現しないうちは、9条を含めて現在の憲法を守るべきだと思います。

■戦争の傷跡

 私の生まれ育った京都府船井郡園部町(現在の南丹市)がある口丹波(くちたんば)といわれる地方には戦争前、マンガンなどの鉱山がありました。
 僕は子どものころ、鉱山で働く朝鮮人が、背中にたくさんの荷物を背負い、道をよろよろ歩く、疲れ切ってうずくまるとムチでパチッと叩(たた)かれ、血を流しながら、はうようにまた歩き出す、そんな姿を見てきました。また私の家から300メートルほど先に大阪造兵廠(しょう)が疎開してきて、兵器を造るため連行されてきた朝鮮人が同じようにひどい仕打ちで働かされていました。
 戦後64年が経過した今も、戦争の傷は癒えていません。未処理の問題も数多くあります。
 北朝鮮との国交回復、賠償の問題も残っています。中国に日本軍が遺棄してきた化学兵器や中国残留孤児の問題もあります。多くの未解決の傷跡をみるとき、まだまだ日本は無謀な戦争の責任が取れていないと思います。そのこと自体が被害者の方々にとって大きな傷になっていると思われ、政治家の一人として申し訳ない思いです。

■歴史に学ぶ

 幕末から明治にかけて、「富国強兵」が国是となって日清・日露戦争に突入し、その結果が「満州国」という傀儡国家をつくる、あるいは朝鮮半島を植民地にするという狂った時代をつくり上げてしまいました。美化された明治の改革であったけれども、このときのスタートがあの戦争の敗戦まで至っていたのか、と思うとき、そこに焦点を当てて、もう一度、歴史を学ぶ必要があります。
 私は、子どもたちにしっかりと近現代史を教えてこなかったツケが、田母神俊雄・元航空幕僚長のような暴言を吐く人間が出てくるような、悲しい、いまの日本の狂ったような状況に拍車をかけていると思います。
 シビリアンコントロールが効かない状況が起きているのを、政治がどのようにチェックし、正常化していくのかというところにも力を置かないと自衛隊内部からの暴発によって日本の平和が脅かされる危険性があると思います。
 国の根幹を決めなくてはいけない政治家たちが、しっかりした歴史認識にたって、再び誤った道へ走っていく流れにブレーキをかけなくてはならないと思います。
     ◇
 去年あたりから「蟹工船」ブームといわれ若い人たちがまともに歴史に向かい合おうという気持ちが出ていることを非常にうれしく思い、また期待もしています。こういう輪が広がることで、日本が再び軍国主義国家になっていく道が閉ざされて、平和な国としてやっていけるスタート台に立てるのではないかと思います。
 そのための種を蒔(ま)いていく使命がわれわれにはあるんじゃないかと思っています。

政治的立場に違いはあっても、今の日本の危機をどうとらえるかについては、まったく同感で、次代に語り継いでいかなければならない
ならないと強く思ったことでした。



今日は,小5,小2の孫と一緒に田舎に帰ってきました。

途中、堤防決壊の痕など、まだ洪水被害の爪痕が癒えない地域も通りかかりました。

撤去中の瓦礫の様子も瞥見しました。エアコンを効かせた車の中でも汗が引かない猛暑の中、気が遠くなるような後片付けのご苦労は、なみひととおりではありません。作業中に、熱中症で搬送される方々が、各地で多数報告されています。

こちらはと言えば、のんきな用事で申し訳ない限りですが、先日いただいたカブトムシの幼虫が、ついに羽化し、狭い飼育ケース中で争い合うので、何匹か田舎に逃がしてきたらと、ばあばが言ったのが事の起こりです。

オスばかり。四匹連れて行きました。


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裏山にクヌギの木があるので、そのあたりに放してやることにしました。
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元気に旅立って行きました。
今日はこれにて。

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