今年も灼熱の8月6日、の巻 [今日の暦]
この世界の片隅に コミック 全3巻完結セット (アクションコミックス)
- 作者: こうの 史代
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2009/04/28
- メディア: コミック
蓮根田のハスの花(2018) posted by (C)kazg
蓮根田のハスの花(2018) posted by (C)kazg
蓮根田のハスの花(2018) posted by (C)kazg
蓮根田のハスの花(2018) posted by (C)kazg
蓮根田のハスの花(2018) posted by (C)kazg
蓮根田のハスの花(2018) posted by (C)kazg
蓮根田のハスの花(2018) posted by (C)kazg
蓮根田のハスの花(2018) posted by (C)kazg
蓮根田のハスの花(2018) posted by (C)kazg
蓮根田のハスの花(2018) posted by (C)kazg
蓮根田のハスの花(2018) posted by (C)kazg
蓮根田のハスの花(2018) posted by (C)kazg
蓮根田のハスの花(2018) posted by (C)kazg
蓮根田のハスの花(2018) posted by (C)kazg
蓮根田のハスの花(2018) posted by (C)kazg
撫川城址と庭瀬往来散歩、の巻 [折々散歩]
撫川城(読み)なつかわじょう
日本の城がわかる事典の解説
なつかわじょう【撫川城】
岡山県岡山市北区にあった平城(ひらじろ)。1559年(永禄2)、備中国の三村家親が、備前国の宇喜多直家(うきたなおいえ)の侵攻に備えて築かせたと伝えられている。三村氏が毛利氏に滅ぼされてから毛利氏の出城となったが、1582年(天正10)、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)により落城した。慶長年間(1596~1619年)以降、庭瀬藩の戸川氏の所領となり、1679年(延宝7)戸川本家が改易後、分家の戸川達冨が跡を継ぎ、城の東に陣屋を構えた。近くの庭瀬城とは、戦国時代に一体となったと考えられる。現在は周囲を水堀に囲まれ、野面積(のづらづ)みの石垣があり、撫川城址公園として住民に親しまれている。JR山陽本線庭瀬駅から徒歩10分。◇沼城(ぬまじょう)、撫川陣屋ともいう。(出典 講談社日本の城がわかる事典について)
庭瀬城(読み)にわせじょう
日本の城がわかる事典の解説
にわせじょう【庭瀬城】
岡山県岡山市北区にあった平城(ひらじろ)。1559年(永禄2)、備中国の三村家親が、備前国の宇喜多直家(うきたなおいえ)の侵攻に備えるため、撫川城(なつかわじょう)の曲輪(くるわ)の一部を利用して築かせたと伝えられている。1600年(慶長5)、関ヶ原の戦いの戦功によって戸川達安が入封し、城の拡充を図った。しかし、1679年(延宝7)、世継ぎがいなかったため戸川氏が断絶、その後20年間は倉敷代官所の支配下に置かれた。1699年(元禄12)、板倉重高(いたくらしげたか)が入城、以降明治維新まで板倉氏が10代つづいたが、1869年(明治2)に廃城となった。現在、城跡の大部分は住宅地となったが、石垣と堀を残している。JR山陽本線庭瀬駅から徒歩10分。(出典 講談社日本の城がわかる事典について)
手元の「角川日本地名大辞典33岡山県」には、「4代庭瀬藩主(戸川)安風の時、嗣子に恵まれず御家改易となり、弟の達富が名跡相続が許され撫川知行所を開き、陣屋を二分して、本丸と三の丸を撫川城とし、二の丸を庭瀬陣屋とした。」とありました。元は相当規模の城で会ったようです。
古代ハスとウチワトンボ、の巻 [折々散歩]
戦国時代備中国の三村元親が、備前国の宇喜多氏の侵攻に備える為に築かせたと伝えられている。
天正10年(1582年) 羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際に、毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、城主の井上有景が800余人を率い守備する。この際、位置的に孤立した場所にあったため、吉川元春、小早川隆景に早々に撤退するように下命されていたが、有景はその命令に背き、秀吉軍との間で激戦が交わされた。有景の軍勢は秀吉に敗れ、宇喜多氏の領有となり、しばらくの間無城主となる。
当時の庭瀬城の縄割りは現在の撫川城まで有ったと伝えられており、かなりの規模であった事が想像できる。
江戸時代
慶長6年、宇喜多氏の重臣であった戸川達安が入城、庭瀬藩を立藩し、城を改修。城を廃して二の丸に藩庁を設置し、庭瀬陣屋として整備。そして陣屋と鴨方往来周辺に陣屋町を造成した。
延宝7年、4代目藩主戸川安風が僅か9歳で早世し戸川氏は断絶、改易となった。その後20年間は倉敷代官所と藩主が支配するようになる。
元禄12年、板倉重高が2万石で入封し、江戸時代の終わりまで約170年間支配した。
寛政5年、板倉勝喜は城内に板倉氏中興の祖重昌、重矩父子を祭る清山神社を建て、社内に歴代の遺品を収蔵した。
大和考その3、の巻 [文学雑話]
いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ
山上臣憶良在大唐時憶本郷作歌 去来子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武
[訳] さあ、諸君。早く日本へ帰ろう。御津の港の浜辺の松は今ごろ私たちを待ち遠しく思っているだろう。
【鑑賞】山上憶良の、遣唐使として唐に滞在中の歌。「子ども」は従者や舟子らをさす。「大伴の御津」は難波(なにわ)(=今の大阪)の港。
山上憶良は、大宝元年(701年)第七次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡りました。唐に「日本」の国号を承認させたのが、この時だったようですから、国号「日本」を意識したうえで、「日本」と表記したというのは、十分辻褄が合います。
高市黒人にも、少し似たこんな歌があります。いざ子ども大和へ早く白菅の真野の榛原手折りて行かむ 巻3 280
この歌は、万葉仮名ではこう表記されています。
【原文】(高市連黒人歌二首) 去来兒等 倭部早 白菅乃 真野乃榛原 手折而将歸
呼びかけの「いざ子ども」(「去来子等」「去来兒等」)は、羈旅の歌によく用いられる呪術的慣用句だそうです。「大和(やまと)」の漢字表記は、「倭」です。歌意から、この「やまと」は国号ではなく、地方名と考えられます。
こちらのサイトから、歌の解説をお借りします。
千人万首 高市黒人
【通釈】さあ皆の者よ、大和へ早く帰ろう。白菅の茂る真野の榛(はん)の木の林で小枝を手折って行こう。
【語釈】◇いざ子ども 旅の同行者に対する呼びかけ。妻がこの歌に返答しているので、一行の中には妻も含まれていたか。◇白菅 カヤツリグサ科の植物。スゲの一種。◇真野 神戸市長田区真野町あたり。琵琶湖西岸の真野とする説もある。◇榛原 ハンノキ林。ハンノキはカバノキ科の落葉高木。低湿地に生える。紅葉が美しい。◇手折りて行かむ 土地の霊を身に帯びるためのまじないであろう。同時に旅の記念ともなる。
【補記】妻の答歌は、「白菅の真野の榛原往くさ来さ君こそ見らめ真野の榛原」
【主な派生歌】
いざ子ども香椎の潟に白妙の袖さへ濡れて朝菜つみてむ(大伴旅人[万葉])
いざ子ども早く大和へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ(山上憶良[万葉])
注 この解説では、憶良の前掲歌(巻1 63)も「大和」と表記してあります。
事典で高市黒人を調べてみると、こうありました。
成立年代的には、憶良の前掲歌(63の歌)と、黒人の280の歌は、ほぼ同時期の作と考えられます。持統,文武朝の万葉歌人。下級官吏として生涯を終えたらしい。『万葉集』に近江旧都を感傷した作があり,大宝1 (701) 年の持統太上天皇の吉野行幸,翌年の三河国行幸に従駕して作歌している。ほかに羇旅 (きりょ) の歌や妻と贈答した歌がある。出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
前者は国号としての意識から「日本」と表記し、後者は「大和地方」をさす語である故、旧来の表記「倭」を用いた、との仮説も成り立つかも知れません。それを「やまと」と読み、「大和」と訓読表記するのは、通例の事と言えそうです。
また、黒人には、こんな歌(巻1 70)もあり、同様の考え方が可能でしょうか?
【原文】倭尓者 鳴而歟来良武 呼兒鳥 象乃中山 呼曽越奈流
【訓読】大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる
しかし、こんな例はどう考えたら良いのでしょうか。
大伴旅人の歌 (巻6 956)です。
【原文】八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念
【訓読】やすみしし我が大君の食す国は大和もここも同じとぞ思ふ
歌意は「わが天皇が治めていらっしゃる国は大和もここ大宰府も同じだと思う 」といったところ。「ここ=太宰府」と対比される「日本」は、国号と言うよりも、「大和地方」と考えるのが妥当ではないでしょうか?これを訓読表記する際、「日本」をあてるよりも「大和」の表記の方が、なじみそうです。
「大和(やまと)」と訓読する万葉仮名は、他にも「山常」「山跡」「八間跡」などの例が見えます。
まずは、舒明天皇の「国見の歌」(巻1 2)
【原文】 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜●國曽 蜻嶋 八間跡能國者 (●=りっしんべん+可)
【訓読】大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は
【読み】やまとには むらやまあれど とりよろふ あまのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ うなはらは かまめたちたつ うましくにぞ あきづしま やまとのくには
また、太宰少貳石川足人の歌(巻4 551)。作者は太宰府で大伴旅人の部下であったようです。
【原文】山跡道之 嶋乃浦廻尓 縁浪 間無牟 吾戀巻者【訓読】大和道の島の浦廻に寄する波間もなけむ我が恋ひまくは
【読み】やまとじの しまのうらみに よするなみ あひだもなけむ あがこひまくは
大宰帥の任を解かれて都に帰る大伴旅人との別れを惜しんで、太宰府の役人大典麻田連陽春が詠んだという歌(巻4 570)が見えます。
【原文】山跡邊 君之立日乃 近付者 野立鹿毛 動而曽鳴【訓読】大和へに君が発つ日の近づけば野に立つ鹿も響めてぞ鳴く
いずれも、万葉仮名の表記如何に関わらず、「大和(やまと)」と訓読表記することに違和感は感じません。
そこで、そもそもの発端の大伴旅人の歌(巻6 967)の訓読表記について再考します。
【原文】日本道乃 吉備乃兒嶋乎 過而行者 筑紫乃子嶋 所念香聞
その「日本道乃」の箇所の訓読表記の例を確かめてみますと、「倭道の」(作者別万葉集)、「大和道の」(万葉集全講)、「日本道の」など様々な文字が当てられており、わが居住地近くの歌碑の表記「大和道の」は、決して失当とは言いきれないのではないかと思えてきました。
ところで、斎藤茂吉の「万葉秀歌」に、この歌に関連した記事があります。
ますらをと思へる吾や水茎の水城のうへに涕拭はむ 〔巻六・九六八〕 大伴旅人大伴旅人が大納言に兼任して、京に上る時、多勢の見送人の中に児島という遊行女婦が居た。旅人が馬を水城(貯水池の大きな堤)に駐めて、皆と別を惜しんだ時に、児島は、「凡ならば左も右も為むを恐みと振りたき袖を忍びてあるかも」(巻六・九六五)、「大和道は雲隠りたり然れども我が振る袖を無礼と思ふな」(同・九六六)という歌を贈った。それに旅人の和えた二首中の一首である。
一首の意は、大丈夫だと自任していたこの俺も、お前との別離が悲しく、此処の〔水茎の〕(枕詞)水城のうえに、涙を落すのだ、というのである。
児島の歌も、軽佻でないが、旅人の歌もしんみりしていて、決して軽佻なものではない。「涙のごはむ」の一句、今の常識から行けば、諧謔を交えた誇張と取るかも知れないが、実際はそうでないのかも知れない、少くとも調べの上では戯れではない。「大丈夫とおもへる吾や」はその頃の常套語で軽いといえば軽いものである。当時の人々は遊行女婦というものを軽蔑せず、真面目にその作歌を受取り、万葉集はそれを大家と共に並べ載せているのは、まことに心にくいばかりの態度である。
「真袖もち涙を拭ひ、咽びつつ言問すれば」(巻二十・四三九八)のほか、「庭たづみ流るる涙とめぞかねつる」(巻二・一七八)、「白雲に涙は尽きぬ」(巻八・一五二〇)等の例がある。
ここに引用されている966の歌には、次のような注が施されています。
右大宰帥<大>伴卿兼任大納言向京上道 此日馬駐水城顧望府家 于時送卿府吏之中有遊行女婦 其字曰兒嶋也 於是娘子傷此易別嘆彼難會 拭涕自吟振袖之歌
旅人が上京するとき、「兒嶋」という名前の遊行女婦が、涙をぬぐって袖を振り、別れを惜しんで詠んだというのです。この遊行女婦「兒嶋」は 、旅人の返歌(巻6 967)では「筑紫乃子嶋」と表記されています。「兒嶋」であれ「子嶋」であれ、肝要なのは「こじま」という女性の名が、「吉備の児島」と音が通う「こじま」であったという点でしょう。
原文はこうなっています。
【原文】倭道者 雲隠有 雖然 余振袖乎 無礼登母布奈
訓読表記「大和道」に対応するのは「倭道」でした。
ところで、たとえば、漢文表現「無礼」を、当時の古語にあてはめて、形容詞「なめし」に相当するであろうと読んだのは、後の世の研究者の知恵ですが、実際にそれが正しいかどうかは、あくまでも「?」です。事ほどさように、万葉仮名の読みは夢多きロマンを含んでいますね。
・今回の一連の記事では、柄にもなく、その作品の成立年代や作者の意識を考慮しながら、用語や用字の意味を探ろうと試みてみたのですが、不毛の努力だったかも知れません。万葉集に収められた作品は、基本的には「口承」文芸として生み出され伝えられたものが、編集者によって(漢字という外国の文字を借りて)文字化されたものです。従って、用いられた文字の取捨選択などに、作者自身の意識がそのまま反映されるものではないでしょう。
・万葉集の編集した撰者(編者)は不詳で、大伴家持が相当に重要な役割を果たしたらしいとしても、複数の編集協力者、または複数の作業スタッフが存在したようです。そのことは、万葉仮名表現の雑多性、多彩性とも無縁ではないでしょう。
・そもそも、万葉仮名は、漢字のほとんど恣意的な借用によって成り立っており、その表記には、統一的なルールが定まっているとは言えず、融通無碍とも言得るでしょう。(この話題はまた回を改めて書くかも知れません)
・そうなると、万葉仮名の使い分けが、そのまま対象物の識別を反映しているとも言い切れません。また、万葉仮名の読解は、後世の努力の蓄積によるものですが、いまだ途上と言うべきで、異見、異説の存在は、むしろ万葉集の興味尽きない魅力の源泉かもと、思い返したりしているところです。
暑くて、長時間戸外にいるこはできません。
先日、田舎に帰郷した際、畑のオニユリを写しておきました。強い日射しに負けていません。
大和考その2、の巻 [文学雑話]
前者は、学生時代の教科書で、昭和46年重版発行、定価680円と奥付にあります。学生用に、万葉集の「代表的な作家・作品」を収め、所収の作家についてはできるだけ全作品を紹介してあるそうですが、当然収められていない作品もたくさんあります。
後者は、上中下三巻本で、昭和55年23版発行、各巻定価2800円とあります。安月給の青年教師時代に思い切って購入した本ですが、あいにくすぐに見つけ出せたのは、上と下の2冊だけでした。
このように、不十分な資料を基にものを考えようというのですから、大雑把、無責任、行き当たりばったりの最たるもので、決して科学的・研究的態度とは言えません。そもそも、最初からそのつもりもない、興味本位ののぞき見趣味と笑って見過ごしていただければ幸いです。
さて、「やまと」から思いつく歌は、と考えて、まず浮かんできたのはこれでした。
巻2 105作者の大伯皇女( おおくのひめみこ)天武天皇の皇女。大津皇子の同母姉。
【原文】
大津皇子竊下於伊勢神宮上来時大伯皇女御作歌二首
吾勢●乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
(注●は左「示」+右「古」)
【訓読】
大津皇子、竊(ひそ)かに伊勢の神宮(かむみや)に下(くだ)りて、上(のぼ)り来る時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)の作らす歌二首
我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我立ち濡れし
(わがせこを やまとへやると さよふけて あかときつゆに わが(われ)たちぬれし)
少女の頃より、十三年間伊勢斎宮として奉仕。
弟の大津皇子は、父帝が没すると間もなく。謀反の罪でとらえられ処刑されます(24歳)。事件の直前、姉を伊勢に訪ねた大津皇子が、深夜、大和に帰るのを見送る歌です。
この歌についつい深入りしそうになっている自分ですが、待てよ、いつか過去記事に書いたことがあったけ?とググってみると、ありました、ありました。忘れてました。
猿沢の池かとまがう水田(みずた)かな(2014/06/14)
またまた、予定外の回り道をしてしまいました、今日の結論は---?『枕草子』に「池は」という章段があります。
「池は」池は かつまたの池。磐余(いはれ)の池。贄野(にへの)の池。初瀬に詣でしに、水鳥のひまなくゐて立ちさわぎしが、いとをかしう見えしなり。
水なしの池こそ、あやしう、などてつけけるならむとて問ひしかば、「五月など、すべて雨いたう降らむとする年は、この池に水といふものなむなくなる。またいみじう照るべき年は、春の初めに水なむおほく出づる」といひしを、「むげになく乾きてあらばこそさも言はめ、出づるをりもあるを、一筋にもつけけるかな」と言はまほしかりしか。
猿沢の池は、采女(うねべ)の身投げたるを聞こしめして、行幸などありけむこそ、いみじうめでたけれ。「ねたくれ髪を」と人麻呂がよみけむほどなど思ふ に、いふもおろかなり。
御前の池、また何の心にてつけけるならむと、ゆかし。鏡の池。狭山の池は、みくりといふ歌のをかしきがおぼゆるならむ。こひぬまの池。
はらの池は、「玉藻な刈りそ」といひたるも、をかしうおぼゆ。【とことん勝手な解釈。(ちょっと古い桃尻語訳風)】
池と言えば、かつまたの池ね。
この池は、奈良西の京の唐招提寺と薬師寺の近くにあったそうよ。
万葉集に 「 かつまたの池は我知る蓮(はちす)なし然(しか)言ふ君がひげなきごとし/婦人(をみなめ)」と歌われているわ。新田部皇子(にいたべのみこ)が勝間田(かつまた)の池をご覧になり、とても感動なさって、あるお方にお話になると、その女性は、「あら、あの池に蓮なんかなかったわよ。あなたのお顔におひげがないのと同じに。ホントにかつまたの池にお出かけになったか怪しいものね。どこか別のところで、美しい女の方をご覧になったのじゃなくって?」とからかったという話があるわ。
後には、池の所在は不明になって、美作(みまさか)・下野(しもつけ)・下総(しもうさ)など、諸説が生まれたそうよ。美作の勝間田なら、昨日と一昨日の記事の舞台は、すぐ近くだわ。
磐余(いわれ)の池もいいわ。
同じく万葉集に大津皇子のこの辞世の歌があるわね。ももつたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ「いつものように今日も磐余の池に鳴く鴨を、私は今日を最後の見納めにして あの世に旅立っていくのだろうかなあ。」という、痛切な歌だわ。
大津皇子は天武天皇の皇子で、お母上は、天智天皇の皇女であられた大田皇女(おおたのひめみこ)よ。父帝が崩御されたあと、讒言によって謀反の罪を着せられて捕えられ、磐余にある自邸にて自害させられたの。御年は24の若さだったわ。
これを悼んだ姉君の大伯皇女(おおくのひめみこ)の歌も、哀切よね。うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟背(いろせ)とあが見む「不本意ながらこの世に生きて残された私は、明日からは弟が葬られた二上山を弟と思うことにしますわ」
「うつそみ」は「うつせみ」 とも言うわ。「現し身」=現にこの世に生きている身という意味。「現(うつつ)」は「夢」の対義語で、「現実」を意味するし、「覚醒した状態」「正気の状態」を表すことも多いわ。夢なら良かった、酔って忘れられたらそれもいい。でも、冴えた正気の目で現実を見つめなければならないことのつらさ。せめてあの山を、あなたを偲ぶよすがと思って、心を慰めることにしましょう
磯のうへに 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が ありと言はなくに「岩の上に生える馬酔木(あせび)の花を手折って、あなたに見せようと思うけれど、見せたいあなたが健在だとは誰も言ってくれないの」
大伯皇女は、伊勢神宮の斎宮で、神様に仕える身の上でいらっしゃったのよ。父帝が亡くなられたあと、謀反の罪で捕らえられるまでのある日、弟の大津皇子が皇女を伊勢まで秘かに訪ねたことがあったわ。姉皇女は、男子禁制の斎宮の身でありながら、弟皇子を懇ろに迎え、親密に一夜を語らい、まだ空が暗いうちに旅立つ弟を、姿が見えなくなってもずっと見送ったのよ。それが最後の別れとなる予感があったのかどうか、知る由もないけれど。次の二首は、そのときの歌。わが背子を大和へ遣ると小夜更けて あかとき露に我が立ち濡れし「私の愛するあなたが、奈良の都に帰るというので、夜も更けてからその無事を祈って見送り続けていると、私の身体は明け方の露にぐっしょりと濡れてしまったことですわ。」
二人行けど行きすぎ難き秋山を いかにか君が一人越えなむ「二人で行っても越えるのが難儀な秋山を、愛するあなたはどうやって一人で越えているのでしょうか」
実の姉弟の間柄なのだけど、同時にこの世で最も信頼できる相手、心の通いあう相手、互いに恋人同士のような思慕を抱いていたのかしら。
ところで、大津皇子憤死の知らせを聞いた妻の山辺皇女(天武天皇の皇女)は、半狂乱になり、裸足で墓まで駆けつけて、大津の皇子の跡を追って殉死したそうよ。なりふり構わず、その愛を貫いた山辺皇女さまもおいたわしいけれど、神に仕える斎宮の身故にそうすることもかなわなかった大伯皇女さまは、いついつまでも悲しみが晴れることなく、さぞやお辛いことだったであろうと思われますわ。
全くの余談になるけれど、『日本書紀』によると、「御船西に征き、初めて海路に就く。甲辰(8日)に御船大伯海(おおくのうみ)に到る。時に大田姫皇女(おおたのひめみこ) 女子を産む。よりて、是の女を名づけてを大伯皇女(おおくのひめみこ)という」とあるわ。斉明7年1月のことよ。
つまり、大伯皇女さまは、お父様の大海人皇子(後の天武天皇)やお母様の大田姫皇女さまも乗り込んで、朝鮮出兵のため難波を出航した船団が、岡山県邑久(おく)郡の海=小豆島の北方=大伯の海の上を通りかかったとき、つまり船上でお生まれ遊ばしたのね。「大伯」は「邑久」の古名なのね。今は平成の大合併で「瀬戸内市」なんて無個性な名前になってしまっているのが、ひどく残念に思えるわ。話をもとに戻しまあす。(中略)
いろいろな池が数え上げられていますが、清少納言の連想は、いつでも「わが道を行く」流儀ですので、どういう内的脈絡があるのか、よくわかりません。今日は、猿沢池をネタにしたかっただけです。あしからず。
冒頭の歌で「倭」と表記されているのは、国号ではなく、伊勢から見た「大和」をさすものと考えるのが自然だと思われます。
これを読み下すときは「やまと」が相応でしょうし、書き下すときは「大和」の漢字を当てるのが一般だと思われます。つまり、原文の万葉仮名をそのまま書き下さないことも、十分一般的で、責められるべきではないのではないか?という仮説です。
大和考その1、の巻 [文学雑話]
故旧相和す刻愉快節分草(こきゅうあいわすときゆかい せつぶんそう)(2014.03.07)
夏ゆくやそれぞれの老ひ輝きて(2017.08.27)
まいふぇばれいと短歌・俳句 (第5回)
酒こそ宝、この世が愉しければ来世などどうなろうとかまわない・・・などとうそぶきながらも、旅人さん、相当の泣き上戸と見えて、酒を飲むと必ず酔哭・酔泣(ゑひなき)するのです。
・世間(よのなか)の遊びの道に洽(あまね)きは酔哭(ゑひなき)するにありぬべからし(348)
【解釈】世の中の遊びで一番楽しいことは、酒に酔って泣くことにちがいあるまいよ。
でも、酒を飲んで酔哭しても、楽しいのは束の間で、彼の心は、どうやら一向に晴れることはないのです。
土屋文明著『万葉集私注』の一節を引きます。
「この十三首の讃酒歌は集中でも、その内容の特異なために種々の論議の対象となるものであるが、旅人がどういう動機からこれらの作をなしたか。旅人は当時としては最高の知識人の一人で、新しい大陸文化も相当に理解していた者であろう。(中略)
しかしこれらの歌は太宰府在任中、おそらくは妻を亡くした後の寂寥の間にあって、中国の讃酒の詞藻などに心を引かれるにつけて、自らも讃酒歌を作って思いを遣ったというのであろう。中国には讃酒の詞藻が少なくないとのことであるが、その中のいくつかを、彼は憶良の如き側近者から親しく聞き知る機会もあったものであろう。」
ここにもあるとおり、太宰帥(だざいのそち=太宰府の長官)として、都を遙かに離れた九州に派遣されていた旅人は、その地で、愛妻を病のため亡くしています。すでに六十歳を超えていた旅人は、長年連れ添ってきた老妻をわざわざ大宰府まで伴ったのでした。それだけに、亡妻を歌った旅人の歌は、切々として胸を打ちます。まずは、都からの弔問に答えた歌。
・世の中は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(793)
【解釈】世の中が無常のものだということを知った今、いよいよますます悲しいことですなあ。
次は、太宰帥の任期が果てて、都に帰る途中の連作。見るもの聞くもののすべてが、在りし日の妻を思い出させて、心を締めつけます。
・我妹子(わぎもこ)が見し鞆之浦の天木香樹(むろのき)は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき(446)
【解釈】都から題材府への道中、愛しい妻が見た鞆の浦のムロノキは、末久しくに健在であるのに、見た人の方は、もうこの世にいないのだ。
・鞆之浦の磯の杜松(むろのき)見むごとに相見し妹は忘らえめやも(447)
【解釈】鞆の浦の海辺のムロノキを見るたびに、一緒にこれを見た愛妻のことは、忘れられようか。いやいや思い出されてならぬのだ。
こうして都に帰りついた彼は、こう詠みます。
・人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり(451)
【解釈】誰もいない空っぽの家は、旅の苦しさよりもまさって苦しいことよなあ。
・妹として二人作りし吾(あ)が山斎(しま)は木高く繁くなりにけるかも(452)
【解釈】妻と二人して作った庭の築山は、家を離れていた数年の間に、たいそう立派に木も高くなり、枝葉も押し茂ってしまったことだ。この木をいっしょに植えた妻は、今はいないのに。
当時有数の知識人として中国文化を学び、儒教に傾倒したという憶良が、謹厳実直な人柄そのままに、人生、社会、人間、生活を直視して思索を深めたのと対照的に、老荘・神仙思想に影響を受けたという旅人が酒を友とし超俗の境地に遊ぶ生活にあこがれたのは確かとしても、亡妻を思う哀切な心情は、決して抑えることはできなかったようです。
その愛妻の名は、大伴郎女(おおとものいらつめ)と伝えられています。ちなみに、旅人の周辺には、 紛らわしいことに大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)という女性も登場します。こちらは旅人の異母妹で、波乱の結婚生活や恋愛遍歴を体験しますが、大伴郎女没後は、太宰府の旅人のもとに赴き、旅人の子大伴家持(やかもち)・書持(かきもち)らを養育したといいます。額田王以後最大の女流歌人とされ、万葉集に収録された歌数も、女性で最多だそうです。
ところで、私の住居から徒歩数分のところに、旅人の歌碑があり、当地にゆかりがあるというこの歌が刻まれています。
・大和道の吉備の児島を過ぎてゆかば筑紫の児島思ほえむかも(大伴旅人)
この歌は、彼が筑紫国での任を終え、大納言に昇進して都へ帰ることになった時、帰りの行列を見送る人々に混じって「遊行女婦(うかれめ)児島」という女性が、別れを惜しんで贈った歌への返歌であるようです。どうやら、ただならぬ間柄にあった女性と思われ、超俗どころか、なかなかに人間臭い旅人ですが、彼の歌に共通する率直な抒情は、しみじみと心に響きます。
kazgさんの稿、 興味深く拝読しました。 ただ、 旅人の和歌ですが、 「大和道の吉備の児島を」の「大和」は、「日本」ではないでしょうか。どちらも「やまと」と読むのですが、すでに、702年?の遣唐使によって国号を「倭」から 「日本」 に変更することを唐に承認させており、 「日本」 という国号が国内で使用されている例としてこの和歌を読んだことがあるように思います。 一度調べてみてください。
たしかに「会誌」への寄稿文では、ブログ掲載のこの写真は掲載していませんので、誤解が生じたかも知れません。