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大和考その1、の巻 [文学雑話]

昨日、郷里のスーパーマーケットで、偶然お会いしたイチローさん・アキコさんご夫妻は、拙ブログで『故旧』とお呼びしているお友達の1人です。たとえばこの記事では「大学時代の先輩・後輩の間柄で、大阪、西宮、岡山県北、岡山県南など、あちこちに生活の基盤を持つ同郷のメンバー』と定義(笑)しておきました。

故旧相和す刻愉快節分草(こきゅうあいわすときゆかい せつぶんそう)(2014.03.07)

その「故旧」の面々も含めて、年齢層・居住地ともに、もう少し広い範囲のメンバーが、数年に一度会合をする習わしになっていいます。その第一回の集まりの模様を、この記事に書きました。

夏ゆくやそれぞれの老ひ輝きて(2017.08.27)

そこに「この会の発起人、兼事務局長、兼裏方の、全てを担って下さったN氏は、文科の大先輩。」と紹介したN先輩が、数日前電話をくださり、そのあとすぐに封書をくださいました。というのも、N先輩のお骨折りでこの会の『会誌」と言うべき冊子が不定期刊で発行され、最近号ですでに17号を数えます。命じられて、私もそこに駄文を寄せることになり、「まいふぇばれと短歌・俳句」と題した連載記事が5回目になりました。
おおかた、拙ブログの記事の焼き直しですが、第5回はこのような文章を書きました。
 まいふぇばれいと短歌・俳句  (第5回)
 
酒こそ宝、この世が愉しければ来世などどうなろうとかまわない・・・などとうそぶきながらも、旅人さん、相当の泣き上戸と見えて、酒を飲むと必ず酔哭・酔泣(ゑひなき)するのです。
・世間(よのなか)の遊びの道に洽(あまね)きは酔哭(ゑひなき)するにありぬべからし(348)
【解釈】世の中の遊びで一番楽しいことは、酒に酔って泣くことにちがいあるまいよ。
でも、酒を飲んで酔哭しても、楽しいのは束の間で、彼の心は、どうやら一向に晴れることはないのです。
土屋文明著『万葉集私注』の一節を引きます。
「この十三首の讃酒歌は集中でも、その内容の特異なために種々の論議の対象となるものであるが、旅人がどういう動機からこれらの作をなしたか。旅人は当時としては最高の知識人の一人で、新しい大陸文化も相当に理解していた者であろう。(中略)
 しかしこれらの歌は太宰府在任中、おそらくは妻を亡くした後の寂寥の間にあって、中国の讃酒の詞藻などに心を引かれるにつけて、自らも讃酒歌を作って思いを遣ったというのであろう。中国には讃酒の詞藻が少なくないとのことであるが、その中のいくつかを、彼は憶良の如き側近者から親しく聞き知る機会もあったものであろう。」
ここにもあるとおり、太宰帥(だざいのそち=太宰府の長官)として、都を遙かに離れた九州に派遣されていた旅人は、その地で、愛妻を病のため亡くしています。すでに六十歳を超えていた旅人は、長年連れ添ってきた老妻をわざわざ大宰府まで伴ったのでした。それだけに、亡妻を歌った旅人の歌は、切々として胸を打ちます。まずは、都からの弔問に答えた歌。
・世の中は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(793)
【解釈】世の中が無常のものだということを知った今、いよいよますます悲しいことですなあ。
次は、太宰帥の任期が果てて、都に帰る途中の連作。見るもの聞くもののすべてが、在りし日の妻を思い出させて、心を締めつけます。
・我妹子(わぎもこ)が見し鞆之浦の天木香樹(むろのき)は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき(446)
【解釈】都から題材府への道中、愛しい妻が見た鞆の浦のムロノキは、末久しくに健在であるのに、見た人の方は、もうこの世にいないのだ。
・鞆之浦の磯の杜松(むろのき)見むごとに相見し妹は忘らえめやも(447)
【解釈】鞆の浦の海辺のムロノキを見るたびに、一緒にこれを見た愛妻のことは、忘れられようか。いやいや思い出されてならぬのだ。
こうして都に帰りついた彼は、こう詠みます。
・人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり(451)
【解釈】誰もいない空っぽの家は、旅の苦しさよりもまさって苦しいことよなあ。
・妹として二人作りし吾(あ)が山斎(しま)は木高く繁くなりにけるかも(452)
【解釈】妻と二人して作った庭の築山は、家を離れていた数年の間に、たいそう立派に木も高くなり、枝葉も押し茂ってしまったことだ。この木をいっしょに植えた妻は、今はいないのに。
当時有数の知識人として中国文化を学び、儒教に傾倒したという憶良が、謹厳実直な人柄そのままに、人生、社会、人間、生活を直視して思索を深めたのと対照的に、老荘・神仙思想に影響を受けたという旅人が酒を友とし超俗の境地に遊ぶ生活にあこがれたのは確かとしても、亡妻を思う哀切な心情は、決して抑えることはできなかったようです。
その愛妻の名は、大伴郎女(おおとものいらつめ)と伝えられています。ちなみに、旅人の周辺には、 紛らわしいことに大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)という女性も登場します。こちらは旅人の異母妹で、波乱の結婚生活や恋愛遍歴を体験しますが、大伴郎女没後は、太宰府の旅人のもとに赴き、旅人の子大伴家持(やかもち)・書持(かきもち)らを養育したといいます。額田王以後最大の女流歌人とされ、万葉集に収録された歌数も、女性で最多だそうです。
ところで、私の住居から徒歩数分のところに、旅人の歌碑があり、当地にゆかりがあるというこの歌が刻まれています。
・大和道の吉備の児島を過ぎてゆかば筑紫の児島思ほえむかも(大伴旅人)
この歌は、彼が筑紫国での任を終え、大納言に昇進して都へ帰ることになった時、帰りの行列を見送る人々に混じって「遊行女婦(うかれめ)児島」という女性が、別れを惜しんで贈った歌への返歌であるようです。どうやら、ただならぬ間柄にあった女性と思われ、超俗どころか、なかなかに人間臭い旅人ですが、彼の歌に共通する率直な抒情は、しみじみと心に響きます。


さて、このたびのN先輩の電話と封書のご用件は、と言いますと、最近N先輩の元へH先輩からお便りが届き、「会誌」への感想などを述べておられる一節にこのような箇所があったので、とお知らせくださったのでした。
kazgさんの稿、 興味深く拝読しました。 ただ、 旅人の和歌ですが、 「大和道の吉備の児島を」の「大和」は、「日本」ではないでしょうか。どちらも「やまと」と読むのですが、すでに、702年?の遣唐使によって国号を「倭」から 「日本」 に変更することを唐に承認させており、 「日本」 という国号が国内で使用されている例としてこの和歌を読んだことがあるように思います。 一度調べてみてください。 
                                          

そして、万葉集原典では、「日本道乃 吉備乃兒嶋乎 過而行者 筑紫乃子嶋 所念香聞」と万葉仮名で表記されていると、原典のコピーをも添えてくださっています。その上で、確かに「やまと」は「大和」ではなく「日本」と表記されていること、ただし、kazgの文章は住居の近くにある歌碑の引用なので問題はなく、それを「日本」に直す方が問題だろうと、フォローしてくださっています。H先輩にも、そう伝えてくださったそうです。
たしかに「会誌」への寄稿文では、ブログ掲載のこの写真は掲載していませんので、誤解が生じたかも知れません。

https://kazsan.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_b10/kazsan/R0014045_R-5eebb.JPG

それにしても、さすがにH先輩もN先輩も歴史が専門、考証も緻密です。当方、生来の大雑把と行き当たりばったりが真骨頂、聞きかじりと早のみこみが基本の知ったかブログですゆえ、すぐにメッキが剥がれます(汗)

>遣唐使によって国号を「倭」から 「日本」 に変更することを唐に承認させており

などの知識も、まったく皆無でした(汗汗)

そう言えば、「ヤマトタケル」を古事記では「倭建命」と表記し、日本書紀では「日本武尊」と表記することから、「やまと」に対応する漢字が古くは「倭」であり、国家意識の台頭にともなって「日本」の文字が当てられるようになったのだろうとは、漠然と感じていました。

古来中国側からの呼称としての「倭」の文字には侮蔑の意が含まれているとも聞きます。これを嫌って、対等の関係を築こうとする意図から、新国号として「日本」の承認を求めた由。大いに勉強になりました。

今日はここまで。この続きは次回といたします。


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