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南国高知の歴史散歩、の巻 [折々散歩]

先日の記事にさかのぼります。槇村浩誕生の地を探して、結局行き着けなかったあと、はりまや橋の前で、「土佐の高知のはりまや橋で、坊さんかんざし買うをみた」のメロディが、頭の上のからくり時計から聞こえて来たことは書きました。

からくり時計が設置されているビルに隣接して、こんなモニュメントがあります。

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ペギー葉山さん、そう言えば、亡くなられましたね。

「リテラ」(2017.04.18)にこんな記事がありました。

ドレミの歌」、「南国土佐を後にして」、「学生時代」といった楽曲で知られ、また、『ひらけ!ポンキッキ』(フジテレビ)内のしつけのおばさんや、『ウルトラマンタロウ』(TBS)のウルトラの母(緑のおばさん)役としても人気を博したペギー葉山が、今月12日肺炎のため死去した。83歳だった。

戦後すぐの日本の歌謡界を支え、特に〈ドはドーナツのド レはレモンのレ〉の訳詞を自ら手がけた「ドレミの歌」は音楽の教科書にも掲載されているほどだが(元はミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』のなかの楽曲。ニューヨークでこの舞台を見て感動した葉山はいち早くこの訳詞をつけ日本に紹介した)、そんな葉山が活動していくなかで大切にしていたのは、自身の戦争体験を伝えることと、平和の尊さを訴えることだった。

2015年に出演した『徹子の部屋』(テレビ朝日)でも、福島に学童疎開し食料難からとびひにかかってしまったり、飼っていたウサギを殺して食べなければならなかったといったつらい思い出を話し、黒柳徹子とともに「歴史はちゃんとね、伝えていかないといけないのよね。私たち長生きして伝えていかなければダメなのよ。語り部よ」と語り合っていたのは記憶に新しい。

そんな葉山は、13年8月29日付しんぶん赤旗のインタビューでこんなことを語っている。

「歌手生活が60年を超え、もうすぐ傘寿になります。芸能界でも戦争を体験した人は少なくなりました。首相の安倍さんが憲法のことをいろいろ言ってらっしゃるけれど、いま政治をハンドル(かじ取り)している方々は戦争体験がないでしょ。それが私は心配ですね。戦争は絶対にだめ、ずっと放棄したい。育っていく子どもたちに二度と経験させてほしくないです」

戦争を通じて体験したつらい思い出は『徹子の部屋』で話していたような疎開中の出来事だけではない。葉山は広島の原爆投下で祖父を亡くしているのだが、09年8月6日のブログではその当時のことを振り返り、このような文章が綴られていた。

〈広島に特殊爆弾が落とされて沢山の人が亡くなり、祖父をはじめとして親戚が焼け出されたというニュースを新聞で知ったのでした。それと同時に祖父があの8時15分、家の仏壇に手を合わせたままで遺体で発見されたという悲しい知らせを受けたのでした。オジイチャマに可愛がってもらっていた私は夢中で飛び出しました。は滞在していた旅館の『仙庄館』のすぐ前の坂を駆け上って、空に向って「オジイチャーーン」と泣きながら叫んだ悲しい思い出があったのです。たった一発の恐ろしい「ピカドン」で30万人以上の罪のない市民が、地獄絵図の中に亡くなったあの恐ろしい日〉(原文ママ)

からくり時計の針は正午を少しすぎたところ。

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上に高知城、左に坂本龍馬、下によさこい節を踊る踊り子たち、右にはりまや橋とその上で逢い引きをする坊さん(純信)と娘さん(お馬)が現れています。

少し時間が経つと、からくりはすべて内部にしまわれて、シンプルな時計の姿にもどります。

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マップを頼りに、南の方へ歩きます。

横山隆一記念まんが館と案内表示があります。

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横山隆一さんも高知市の出身だったのですね。「フクチャン」「デンスケ」「おんぶおばけ」など、なじみ深い作品です。そう言えば、前回ご紹介した「はりまや橋」の「出逢いの広場」のデザインは、横山隆一さんでした。

このまんが館があるのは、「高知市文化プラザかるぽーと」という建物らしいです。

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目指すは修立社址(高知県高知市仁井田3021)。

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修立社は、1877年(明治10年)11月に設立された結社で、自由民権運動の中心となった政治団体・立志社の下部組織の一つ。後に、明治22年の高知市発足に伴い初代高知市長となった一圓正興(いちえんまさおき)を社長とし、夜学会を開催して、商売人に自由民権の思想を勉強させたことでも有名だそうです。

その趣意書によれば「天賦の自由を拡充し、人為の権力を抑制し、上は政治を改良し、下は自治の気象を発達せしめ、以て最善至美の社会を構造せん」とするにあった、とウィキペディアでは紹介されています。

ビルの袂にひっそりと立てられている石碑をカメラに収めて、今度は武市半平太道場跡(高知市菜園場町)に向かいます。マップ片手に、大まかな見当を付けて歩きます。

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歩道橋の上からの眺望です。

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武市半平太道場跡については、前回記事で紹介しました。書きそびれましたが、「道場跡」の近くには「邸跡」の記念碑もありました。

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そうこうするうちに、またはりまや橋前の大通りに出ていました。すると、またまた偶然に、からくり時計のオルゴールの音色が響き始めました。

時計を確かめると、午後1時ちょうどです。

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時計の上に高知城、下に踊り子達が現れました。

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左に坂本龍馬、右にはりまや橋。

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橋の上で、坊さんがかんざしをプレゼントしています。

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ここまで、一時間の散歩でした。

このあと、ブラブラ歩いてホテルに向かうことにしました。

途中、立志社跡(高知市帯屋町1丁目11中央公園内)を通ります。

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高知市のHPから立志社跡の碑の記事を引用します。

立志社跡の碑

2010年6月29日

立志社は、明治7(1874)年4月10日、帯屋町の旧兵舎跡で発会式をあげ、その後このあたりにあった旧町会所跡を山内家から買い取って本拠地とした。

高知に戻った板垣は、板垣より先に帰郷して失業士族の生活救済、その子弟の教育機関としての学校の設立準備を進めていた片岡健吉・林有造らと協議し、同年に愛国公党によって建白された民撰議院の開設を期待する政治思想を折り込んだ結社として発足することとなった。

立志社の社長には片岡健吉が就任し、社員は1,000人に及んだといわれる。事業は、学術思想育成のための教育機関として立志学舎を九反田に開き、また士族救済のための商社活動・法律研究・討論会などを行った。とくに討論会は政治・社会・経済にわたる重要時事テーマを自由に討論するもので、後の政談演説の先駆けをなすものとなり、明治10年代には自由民権運動の全国遊説による啓蒙運動へと発展した。

立志社の設立後、これを中心として各地域に結社が設立された。

二年前の夏に、ここを通りかかったのは、雨の夜でした。

夏の終わりの土佐の旅、の巻(その1)

二次会までは参加して、まだ後ろ髪引かれる思いは残りましたが、三次会は遠慮してホテルに戻ることにしました。が、思いがけず、かなり激しい雨です。用意してきていた傘は、開会の前にチェックインしてホテルに預けておいたカバンの中に、入れたままでした。コンビニで傘を調達するというアイディアも浮かびましたが、ま、夏のことですので、濡れていくことにしました。あいにくチョンボは重なるもので、どこをどう歩いたか、かなりの大回りをして、ようやくホテルにたどり着いたことでした。
途中こんな碑がありました。


さすがに自由民権運動のメッカ。日常の当たり前さの中に、ごくさりげなく、数々の歴史の刻印がしるされていることに驚きます。
そういえば、昔、受験生時代の心境をこんな歌にしてみたことがありました。(◆悪夢のインフルエンザ体験(追憶の昔語り)参照 )
この土を 維新の志士も民権の若者達も踏みて駆けしや

隣接してよさこい節の日が建っているのもご愛敬です。

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近くにこんな碑がありました(高知市帯屋町2丁目5-18)。

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高知市のHPに次の記事があります。

武市瑞山殉節の地

武市瑞山が当時切腹した付近には、碑が建っている。この碑は、昭和28年(1953)高知市教育委員会と、帯屋町公設市場組合によって建てられたもので、「武市瑞山先生殉節之地」とある。この付近に、武士の牢屋である揚屋(あがりや)があった。

瑞山が組織した土佐勤王党は一時期栄華を誇るが、文久3年8月の政変後は一転して弾圧され、9月21日には多くの同志とともに瑞山はこの地に投獄された。

獄吏の中には瑞山に心酔し、上役の叱責を受けながらも便宜をはかる者があったので、瑞山は牢にありながらも同志との秘密通信もでき、自画像を書くための紙・筆・墨はもとより、朱肉まで取り寄せることができたという。

ひろめ市場に近いホテルにチェックイン。幕末維新の歴史散歩もしばし中断して、シャワーで汗を流し一休みです。

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今日はこれにて。


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