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はたらく自動車?クリーンエネルギー???の巻 [友人]

はたらく自動車は子どもの人気です。


こんな光景、なかなか見られません。


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それにしても、大規模な工事です。


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山が削られて、見る影もありません。


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ローカル線「姫新線」添いの「美作土居」は、旧出雲街道土居宿の面影を残すひなびた土地です。その駅からほど近い山間部で急ピッチで進められている巨大工事。メガソーラーの建設工事です。
「大変なことになってるから見に来てよ」、と誘ってくださったのは地元に住むイチローさん・アキコさんご夫妻です。


当ブログで「故旧」と呼び、折に触れて見聞を広めつつ旧交を温めてきた「大学時代の先輩・後輩の間柄で、大阪、西宮、岡山県北、岡山県南など、あちこちに生活の基盤を持つ同郷のメンバー」が、それではと、見学を企画しました。実は何ヶ月か前、一度同じ企画が実行されたのですが、その時は都合が悪くて私は参加できませんでした。


「是非写真にとってブログでアップしてよ」との要望も受けて、再度実施の運びとなりました。


脱原発は、緊急の課題です。CO2の削減も、寸秒を争うテーマです。クリーンエネルギーとしての太陽光の利用は、人類にとってきわめて重要・有用であることは論を待ちません。が、、、「自然に優しい」エネルギーのために、自然をこれほどにも破壊するというパラドックス。どこか狂っていないか?と思えてなりません。


工事計画の図面です。エリアごとに、おのおのサイトA.B.C.Gの呼び名が与えられています。


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ハザードマップでも豪雨時に土砂災害等の危険が警告されていることから、住民の反対も強かったBサイトを除き、住民への十分な説明もなくA.C.Gの工事が急ピッチで進められているそうです。


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区長宛に配られた資料写真だそうですが、工事前と、工事途中の様子が、ドローン写真で対比されています。


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この問題を報じた新聞切り抜きです(部分)


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イチローさんの知人である岡本さん(下の写真の男性)に、工事現場が見下ろせる場所まで案内していただきました。


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取り急ぎご報告まで。


今日はこれにて、


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南国高知の歴史散歩はまだまだつづくノダ、の巻 [折々散歩]

卒業旅行「高知の旅」、幕末・維新歴史散歩のシリーズ、まだまだ引っ張ります。


駅前のこの3体の像。一番左が武市半平太(瑞山)です。


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彼に切腹を命じたのは、山内容堂でした。幕末の土佐藩主として、歴史の転換期を生きた波乱の人生。その評価は一言では言い表わせないかも知れませんが、ネット情報から平凡社百科事典のまとめを参照してみます。


世界大百科事典内の山内容堂の言及
【土佐国】より

尊王攘夷運動を推進した土佐勤王党は,15代藩主山内容堂(豊信)が安政の大獄に連座したことを契機に結成され,盟主武市(たけち)瑞山(半平太)以下約200名の党員はほとんど郷士,庄屋などの下士,豪農だった。公武合体派の参政吉田東洋を暗殺して一時藩政に影響を及ぼしたが,大獄後帰藩した容堂に弾圧され,壊滅状態となった。…

【土佐藩】より

…18世紀に入ると1707年(宝永4)の大地震津波,27年(享保12)の城下の大火,32年の凶作など災害が相つぎ,藩は家臣の借地,農民の出米徴収,紙の専売制などを強行して,池川紙一揆に代表されるような民衆の抵抗にあい,天明改革では藩費半減の方針を採用した。その後,天保年間(1830‐44)には馬淵嘉平による改革の企てが挫折,幕末には海防問題が切迫するなかで,山内容堂(豊信)に登用された吉田東洋が安政改革を推進した。東洋が土佐勤王党に暗殺されたあと,その志を継ぐ後藤象二郎は豊信の意を受けて藩内の勤王党を制圧,やがて時勢をみて脱藩組の坂本竜馬と提携して大政奉還を実現した。…

【山内容堂】より

…幕末の開明的な土佐藩主。大政奉還を建白したことで有名。豊信(とよしげ)と名のる。容堂は号。鯨海酔侯,九十九洋外史,酔擁美人楼などの別号をもつ。1848年(嘉永1)分家から入って襲封。黒船来航を契機に藩政改革に乗り出し,あわせて松平慶永や島津斉彬らと一橋慶喜を将軍継嗣に擁立する動きに参画。しかしことは成らず,安政の大獄の強圧のなかで隠退したが,謹慎を命ぜられた。62年(文久2)勅使東下のなかで活動を再開し,将軍後見職一橋慶喜らに朝幕間の調和を説き,公武合体をはかった。…

※「山内容堂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版


ウィキペディアにこんな記事がありました。ついでに引用しておきます。


維新後、木戸孝允が山内容堂との酒の席で酔い「殿はなぜ武市半平太を斬りました?」と容堂をなじったが、この時の容堂は「藩令に従ったまでだ」と答えたきりだったと言われる。しかし、病に倒れて病床にあった晩年の容堂は、半平太を殺してしまったことを何度も悔いていたとされ、「半平太ゆるせ、ゆるせ」とうわ言を言っていたとも伝えられる[42]。 明治10年(1877年)に名誉回復され、明治24年(1891年)4月8日に坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎とともに正四位が追贈された。


ところで、土佐藩主山内家の初代は、信長、秀吉、家康の三人に仕えた一豊。妻千代の「内助の功」が有名です。


高知城にある銅像 について、2013年夏のこの記事でも話題にしています。


高知の夏は、静かな雨だった。


城主であった山内一豊が、馬にまたがって槍を構えている像があります。なかなか勇壮な作品ですが、なぜか印象が薄いです。どういう訳か、記憶の中で楠木正成の像と錯覚していたり。
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むしろ、石段を登り切った広場にある「一豊の妻」の像の方が、しっかり記憶に残っています。「内助の功」の美談が、馬と並んで建つ賢妻の図を、自然とインプットさせているのかもしれません。
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その謎が解けました。


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一豊の像に添えられている説明書きにはこうあります。


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学生時代にはまだ、建立されていなかったわけですか羅、印象に残らないのも道理です。


一方の妻と馬の像は、昭和40(1965)年2月26日に除幕されたそうですから、学生時代に見たのは、確かにこれでした。



高知の旅、まだ終わりませんが、次回はちょっと別の話題になります。


きょうはこれにて。


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