また台風、の巻 [折々散歩]
台風24号が接近しています。こんなに続けざまに,警報の出るような台風に襲われるのは、わが地方ではきわめて稀なことです。
今日は日曜日ですが,ママは防災の関係で、急遽朝から出勤。パパも仕事なので、中学生を除く孫達三人をお預かりし、ちょっと買い物に出たほかは,ずっと家に閉じこもって一日が過ぎました。夕方パパが帰ってきたので,雨の中、孫達も家へ送り届けました。
昨日と今朝の散歩。雨の日は,防塵防滴仕様のカメラを持って出ることにします。PENTAX k-10d+DA50-200mmF4-5.6ED WRです。
最近使うことの多いマニュアルフォーカスレンズに比べると、さすがにピント合わせが楽です。
ヒャクニチソウ。
またまた、ヒガンバナ。
コスモス。
神無月のカンナ、と洒落ようとおもいましたが、今日はまだ、長月の最終日でした。
ムクゲ。
フヨウ。
ランタナ(七変化)。
ルコウソウ(縷紅草)
こんな記事で話題にしました。
朝顔と思うておった縷紅草
鏡花忌に二つ蜻蛉も艶めくや
ふと見ればヒガンバナ咲く野良の道
懐かしの生徒句集も最終回、の巻
縷紅草彩なす村は過疎にして
ヤマトシジミ。
ヒメジャノメ。
ダイサギ。
AF性能が残念なPENTAX機といえども、さすがにこれくらい大きな被写体になると、マニュアルで合わせるよりは信頼できます。
注目の沖縄県知事選。台風被害の影響もあってか、投票率が著しく低い反面、期日前投票は、かつてなく高いそうです。これが何を意味するか?いや、下手な憶測は止めにして、固唾を呑んで結果を見守ることにいたします。
今日はこれにて。
まぼろしの 影を慕いて,の巻 [趣味]
古賀政男作詞作曲「影を慕ひて」
まぼろしの 影を慕いて雨に日に
月にやるせぬ 我が思い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦れつつ 忍び泣く
についての話題ではありません。
子どもの頃から、少年雑誌などに載っている通信販売の広告を眺めるのが好きでした。貯金箱に貯まった,10円玉や百円玉を、時々取り出して畳に並べ、表示価額と見比べてはため息をついてまた貯金箱に戻します。
こんな風にして手に入れたのは、古い記念切手であったり、プラスチックおもちゃであったり、科学玩具であったり、多方面に及ぶガラクタばかりですが、郵便の到着を待つドキドキ感と、届いたときの至福感は、格別でした。
今日のネット通販や、オークションも、私にとっては、その延長のようでもあります。
趣味は「カメラ」「写真」と口にするのは、何年に一度しかやらない「釣り」を趣味だと称するのと同じくらいおこがましい限りですが、心愉しい時間を与えてくれる存在を趣味と呼ぶのだとすれば、写真も釣りも、子どもの頃から趣味でした。
ところで、9月17日付のこの記事の【付録】として載せた写真は、リコーGXR(中古)にケンコーミラーレンズ400mmf8.0をつなぐという、「キワモノ」。
ウィキペディアには、GXRをこう解説しています。
このカメラの最大の特徴である世界初の「ユニット交換方式」とは、ボディは入出力機能(ボタンと液晶画面)にフラッシュ等の補助メカニズムを付加したI/Oモジュールとシステムの電源を一体化したものに他ならず、レンズはおろかイメージセンサーすら搭載されていないという奇抜な設計である。((中略)
この「骨組み」とも言えるボディに対して、レンズ、イメージセンサー、画像処理エンジンを一体化したカメラユニットを、本体にスライド挿入して使用する。トータルではやや大型のコンパクトカメラとなり、背面液晶かオプションのEVFを用いて撮影する。
(中略)2011年9月にリリースされたレンズマウントユニットGR MOUNT A12により、ライカMマウントレンズの装着も可能になった。
すでにとっくに生産中止となっているシステムですが、これが現役であったころ、無性に心惹かれたシステムでした。
「レンズ交換」という一眼レフカメラの醍醐味は、しかし、デジタル一眼時代になって、撮像素子へのゴミ埃の付着という厄介な陥穽によって減殺させられます。OLYMPUS社の超音波振動によるゴミ除去機能は、なかなかの優れものですが、交換レンズを新たに揃えるのは経済的に苦労です。その点、お蔵に死蔵中の、またはジャンクで手に入れたオールドレンズが使えるというのは、蜜のように甘い魅力ではないですか。
もちろん、OLYMPUS機やPENTAXQシリーズに、マウントアダプターを介してPENTAXKマウントレンズやm42レンズを装着する遊びは、いろいろ楽しみました。が、いずれも、帯に短し襷に長しで、かゆいところに手が届きません。一番のストレスは、液晶画面でマニュアルフォーカスによるピント合わせを試みるもどかしさです。OLYMPUS機は、EVF(電子ビューーファインダー)を使えばいくらかマシですが、光学ファインダーの視認性とは比べものになりません。
最近、記事中のA12(ライカMマウント)という「レンズマウントユニット」を中古で入手しました。ライカレンズなどという高価な資産を所有しているはずもなく、今後手に入れる可能性もないのに、愚かな選択!と思われましょうが、マウントアダプターを介していろいろなオールドレンズが使える、という悪魔のささやきが、ここ数年来私を誘惑してやまなかったのですが、生産終了でこの世から完全に消滅してしまうのは不憫で、ついつい中古に手が出てしまった次第です。
PENTAXマウント用のマウントアダプターを介して、いにしえの50mm標準レンズや、m42スクリューマウントの55mmレンズ、トキナーの90mmマクロレンズなどなど、死蔵中のオールドレンズをあれこれ試して楽しんでいます。
幽かな糸が繋がった、の巻(最終回)
↑上の記事のアマガエルや朝顔はトキナー90mmマクロレンズです。手動ピント合わせになりますから、老眼の目には酷なのですが、合焦表示(ピーキング)が面白く、慣れると使えるかも知れないと思えてきています。
400mmf8.0ミラーレンズは、暗いしピント合わせが微妙で、出番のあまりないレンズなのですが、軽くてコンパクトという利点を発揮できないかと試してみたところです。
比較的近くのものをマクロレンズ的にとらえるには、適しているように思えます。
せっかくの望遠レンズなのですが、ちょっと遠くなると、描写が落ちます。というより、ピントあわせの難しさか、手ぶれのせいか、鮮明度がイマイチですね。カワセミに会いました。まずまずまともな画像はこんなところ。不満はのこります。
下は、smcPENTAX50mmf1.7標準レンズで写した夕映え。雰囲気はあって、悪くはない感じです。
そして下は、せっかくリコーのカメラを使うのだから、リコーのレンズを使ってみようかと、洒落てみたものです。このレンズについては、以前こんな記事に書きました。
名もめでた貧者の和製ズミクロン
和製ズミクロンふたたびの巻
昨日の田園風景です。台風が近づいていますが,稲刈りがまだ終わっていません。被害がないことを祈ります。
コスモスが花盛りです。
彼岸は過ぎましたがヒガンバナ、まだ健在です。
キバナコスモス。
PENTAX FAマクロ100mmF3.5も携行していて,途中で換装しながら写しましたので、どの画像がどのレンズだったか,迷うことが多いです(EXIF情報に記録されませんし)。
ところで、思わせぶりなタイトルは、今日の記事とどう繋がるのでしょう?
カメラに興味を持ち始めた頃、レンジファインダーカメラにあこがれました。中でもライカは見あげても届かぬ高嶺の花。ズミクロンはその象徴とも言えます。そのライカマウントを使って「和製ズミクロン」「貧者のズミクロン」と呼ばれる「RIKENON 1:2 50mm 」を使ってみようというのは、いかにも儚い「幻の影」へのあこがれといっていいかもしれません。いやはやオソマツ。
台風の接近で、沖縄地方への被害が懸念されます。そして、いよいよ明日は県知事選挙の投票日。エメラルドグリーンの海と澄み渡った青空の、緑の平和な沖縄が実現しますように。
今日はこれにて。
半田山植物園の秋、の巻 [折々散歩]
昨日は、久しぶりに、半田山植物園を訪ねてみました。
M師から、こんな催しの案内をいただいていました。
去年の秋の催しについては、見学の記事をこちら↓に書きました。
半田山植物園で色鉛筆野鳥画展を見る、の巻
先日、妻のお供で県展を見学した(幽かな糸が繋がった?の巻(その2))ついでに、訪ねてみようかと思ったのですが、よくよく日程を確かめると、開催前でした。
それからすっかり失念していて、そろそろ開催日かなと思いつき、午前中の仕事帰りにでも立ち寄ろうかと、カメラなどの準備をしながら案内はがきを取り出したのが、昨日のことです。すると、、おやおや、もう終わっているではありませんか。いつものウッカリにあきれます。
24日には、孫を乗せて郷里からの帰り道、植物園の話題やら、近くにある高校や大学の話題などに触れたのですが、その時は「野鳥画展」のことを思い出すことなく素通りしたのでした(思い出しても、前日までの開催ですから、後の祭りではありましたが)。
とにかく、思い立った縁で、半田山植物園を軽く一巡り。
流れる汗も心地よい気候になったものです。
昨日(26日)は彼岸明け。
彼岸花が満開です。
赤と黒。
シロバナマンジュシャゲ(シロバナヒガンバナ)。
ショウキズイセン(鍾馗水仙)
ヒガンバナの仲間(リコリス属)にもいろいろな種類があるようです。
そう言えば我が家の庭に植えていたこの花も、まったく世話をしないのに、毎年花を咲かせます。
今日はこれにて。
畑仕事と栗拾い、の巻 [家族]
秋雨前線の影響もあって、曇り時々雨の天気。久々に中学生のスケジュールが空いたので、孫三人と郷里の畑仕事と栗拾いに行ってきました。
墓地に近い畑です。
あちらにもこちらにも、燃える紅さでヒガンバナが咲いています。
行き帰りの車の中から、稲穂の稔る棚田や苅田の畦を真っ赤に彩るヒガンバナが目に飛び込みますが、ちょっと停車して撮影というわけにも行来ません。畑仕事の合間にも、撮影しておきたい景色は、もっとたくさんあったのですが、畑の耕耘や栗拾いの作業を終えてから、と思っているうちにやや強い雨に遭い、諦めました。
さて、栗拾いの首尾はというと、夜のうちにイノシシが貪り尽くしたあとで落ちたものを拾うことになりますから、大した量は期待できません。
私が小学生の頃に苗を植えた栗の木ですから、相当な樹齢で、見あげるほどの大木になっています。
熟して口が開きかけた毬もあるので、竿が届く限りは叩いて落としますが、とても届かない高さにもなっていますので、自然落下を待つしかありません。イノシシに奪われないタイミングで、日中に落ちてくれることをいのるばかりです
持ち帰った収穫の一部です。
きょうはこれにて。
雨のち晴れ、されどびしょ濡れ、の巻 [家族]
長雨が続きました。昨日の未明まで、雨音も繁く降り続けていました。
予定されていた小学校の運動会を実行するか、延期するのかの判断は、AM6時に学校からのメールで知らされることになっていたそうです。結論は、予定どおり決行ということで、教職員、PTAの皆さん、早朝からグラウンド整備などの準備に大忙しのようでした。
この日は、2歳の従妹も、お母ちゃんが仕事で、我が家で預かることになりました。
保育園児の従姉妹同士、観客席で見物・・・ですが、案の定すぐに退屈。
兄ちゃんや姉ちゃんの演技を尻目に、グランド脇を走り回ります。
水たまりを見つけて、バアバの制止をものともせず、靴やズボンをぐしょ濡れにしながら、水しぶきを上げて走り回ります。
下半身びしょ濡れで、冷え込みますが、着替えを用意してなかったので、途中で最寄りの衣料品に車を走らせ、ズボンと靴下、そして長靴を新調。泥道かけっこが、存分に楽しむことができました(トホホ)
遊具を見つけて、ひと遊び。
休憩時になって姉ちゃんも遊びに来てくれました。
綱引き。
玉入れ。
例年と同じように、賑やかに繰り広げられた運動会でしたが、何か足りない気がします。
上の二枚は、一昨年の秋晴れの運動会。
これは去年の薄曇りの運動会。
今年は、雨模様のお天気のせいか、万国旗が見当たりません。
それともう一つ、去年の運動会までは、競技や応援に元気いっぱいの姿を見せてくれていた男の子(現在小5)が、冬頃から学校に行き渋るようになって、まだ完全回復しておらず、この運動会への参加も心理的負担が大きかったようです。それでも、参加できそうな種目だけは参加して、あとは応援席で応援するということで、とりあえず綱引きには参加する予定だと聞いていました。しかし、担任やクラスメイトの受容姿勢のおかげか、騎馬戦にも、地域の方々との踊りにも、前むきに参加できていたようです。小2の女の子も元気いっぱいで、応援で喉を嗄らし、すっかりしわがれ声になっていました。気がつくと、小5生も、しわがれ声でした。
【今日の付録】
中三生が指さして、あれは何?と聞きます。
ちょっと遠いので、よく見えませんが、セセリチョウのようです。
大幅にトリミングします。
イチモンジセセリでしょうか。
今朝の散歩でも出会いました。
きょうはこれにて
幽かな糸が繋がった、の巻(最終回) [折々散歩]
この「幽かな糸」シリーズの発端となった、高知でのM君との会話は、「先の大戦で犠牲となった、300万人とも言われる日本人死者の大多数は、戦争末期に生じたもの。無謀な戦争政策を推し進め、ブレーキもなく泥沼へつき進んでいった戦争指導者の責任は改めて問われなければならない」というような文脈で、元空母乗組員であった滝本さんの、辛酸の体験の語り部活動に、話が及んだのでした。
トラック島の犠牲者も、日本各地における空襲による犠牲者も、さらには沖縄戦、ヒロシマ、ナガサキの犠牲者も、失わずとも済んだ命であったに、という恨みは拭えません。さらに、「終戦」の後も、政府の過誤によって失われた命があったことに、衝撃を覚えたのは、つい最近のことです。
二週間ほど前の、教育相談ボランティアの日、親しい知人の紹介だとして、Aさんが聞かせてくださった録音番組がありました。NHKラジオの「ラジオ深夜便」7月14日放送の 「ぼくは、妹と母を手にかけた」旧満州からの引き揚げ者・村上敏明さんという番組です。
こちらのブログ(明日への言葉) で、文字起こしをしてくださっています。
村上敏明(旧満州からの引き揚げ者)
・ぼくは、妹と母を手にかけた
83歳、1946年の夏、日本に引き上げる直前指示されるままに、当時1歳だった妹と病気の母に毒薬を飲ませるという経験をしました。
長旅に耐えられないものは殺そうと誰かが決めたのか、はっきりしたことは判りません。
当時11歳だった村上さんはそのショックで前後の記憶を失ったと言います。
戦後、この出来事を覚えていた友人の小林誠さんの話を聞いて村上さんは失われていた記憶と向き合います。
2010年妹と母がなくなった旧満州を再び訪れたあと、断片的な記憶を詩に綴り徐々に人前でも語るようになりました。詩「消え去った記憶」
「多くの人が文子を囲み見つめていた。
母が文子を抱いて飲まされた水薬、黒い瞳が僕をじーっと見つめ息を引き取った。
文子、文子だけが僕の記憶にある母の声。
衝撃に吹き閉ざされてしまった僕の記憶。」毒の入っている水薬を僕が飲ませました。
黒い瞳が僕をじーっと見つめ、なんか語るようだがそこだけは覚えている。
そのほかのことは一切覚えていない。
中日新聞 「あの人に迫る 村上敏明 戦争の語り部」(2018年4月20日)に、 ほぼ同様の記事が掲載されています。少し長くなりますが、一部引用します。
村上敏明さん(83)は毎週金曜、関西電力京都支店前での脱原発のアピール行動に参加する。改憲阻止のための三千万人署名運動に携わり、戦争の語り部も続ける。若い人にも戦争の悲惨さを伝えたいとフェイスブックやツイッターを利用し、フォロワーは計五千四百人を超えた。その熱意は、戦後の旧満州(中国東北部)で母と妹を自らの手であやめた深い悲しみと絶望から来ている。
ポツダム宣言を受諾後の八月九日、ソ連軍が満州に侵攻を開始。私は小学五年生だったが、男手がなく「ソ連の戦闘機が飛んできたら知らせてくれ」と言われ監視要員に。中学生は火薬を詰めた竹筒でソ連兵の陣地を壊す訓練を強いられ、ソ連軍の戦車にひかれて死亡した先輩もいた。
-日本政府の棄民政策に失望した。
終戦前、ポツダム宣言受諾を決めていた日本政府は「外地に居る居留民はでき得る限り定着の方針を執る」と棄民政策を打ち出した。戦後、一挙に満州の日本人が、日本に戻ったら混乱すると思ったのだろう。
詩人の加津牟根夫(むねお)さんの「軍隊は住民を守らぬものなりし、満州を見よ、沖縄を見よ」の詩に私は「今、福島を見よ」と付け加えて発信している。敗戦後の政府も、現在の政府も都合の悪いものは、常に排除し続けているのは同じだ。
敗戦後も兵隊たちは郊外の川岸で「俺たちは負けない戦うぞ」と穴を掘っていたが、政府は棄民政策を強め、八月二十六日に大本営が「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす」と発表。このころ四平にはソ連兵による威嚇のための発砲音が毎日聞こえるようになった。
(中略)
(満州の財界有志の動きもあって、ようやく日本引き揚げが実現したが) 四平の日本人会幹部が中国の関係者と協議を重ね、「栄養不良で病弱の子供は列車の旅で大変になるから殺すように」と、指示を出したようだった。詳細は思い出せないが、自宅には母と二人の弟、医者、お坊さんがいて、僕に恐らく何かを指示した。僕は母が胸に抱いていた一歳の芙美子の小さな口に毒入りの水をスプーンで注いだ。瞬間、芙美子は目を見開き僕をじっと見て、そのまま息を止めた。その顔は「お兄ちゃん何をするの」と、にらみつけ必死に訴えているようだった。まだ、言葉は発しなかったが、苦しそうな目だけは、今でもはっきりと思い出す。
(中略)
引き揚げ窓口の日本人会が病弱の子を殺すことをどこで決めたかの記録はない。妹は戸籍に記載されておらず、妹の死を知るのは私と弟と(親友の)小林君だけだった。
ショックのためか、妹を殺した後の記憶がないが、小林君は三十六年後に再会した時、開口一番「お母さんどうしてる」と聞いてきた。「なぜ」と聞くと、「君のお母さんは妹さんをあやめた数日後、引き揚げで僕の家の前を通った時に歩かず荷車に乗り、僕らに手を合わせていた」。小林君は「君は泣きじゃくり『妹を殺した』と話していた」と四平での出来事も語った。
七月下旬から八月七日にかけて母は動けなくなり、葫蘆(ころ)島港(現遼寧省)近くの病院に入院した。数日後、薬を飲ませていた私に、いつもと違う白い薬が医師から手渡された。母の口に流し込むと、母はすぐに白い泡を吹き息を引き取った。当時、回復の見込みがない病人には、青酸カリが処方されていた可能性が高いと、後に知らされた。
◆インタビューを終えて市民活動で活躍する医師の竹内由起子さん(43)から「すごい人がいる」と村上敏明さんを紹介された。
「戦争は絶対だめ」と繰り返し、太い眉の下のつぶらな瞳の奥に揺るぎない意志が見え隠れするようで圧倒された。
愛する母や妹をあやめたことへの罪の意識を背負い、長い沈黙を続けたが、政治の進む方向に危機感を募らせ「今こそ言わねば」と、二〇一〇年に「四平小学校同窓会記念誌」で満州での自らの体験を記し、それ以降、積極的に語るようになった。不思議と毎晩見ていた悪夢を見なくなったという。
「残りの人生で、芙美子や母が『きちんと戦争を語り尽くして』と言いたかったのかな」
村上さんの心のバトンを私たちが引き継いでいかなければ。
(望月衣塑子)
あの(モリカケ問題や、レイプ被害告発の伊藤詩織さんの事件をめぐって、ジャーナリスト精神を発揮して望月さんではないですか。
思いがけなくも、幽かな糸があれこれ繋がった気がしたのでした。
【今日の付録】
これなあに1
郷里の家のイチジクの葉に、珍しいチョウがとまっています。
トリミングすると、、、イシガケチョウ(イシガキチョウ)?
これなあに2
物干し竿にいるのは?
アマガエルです。
これなあに3
胡麻の花です。
古里の山、故郷の川、、、
これなあに4
電線に止まっているのは?
トンビでした。
これなあに5
これはフヨウ?
今日はこれにて。
幽かな糸が繋がった?の巻(その4) [折々散歩]
幽かな糸が繋がった、という表題に関係のあるお話を、書かなくてはなりません。
「相棒劇場版4」のキャスト。
監督 - 橋本一
脚本 - 太田愛
この脚本の太田愛さんのお名前に、幽かな記憶があるような気がしてネット検索してみました。こちらが公式サイトです。トップページにこんな記事があります。
■TBSラジオ『久米宏 ラジオなんですけど』(4月21日)出演時のアーカイブは、TBSラジオのサイトで聴くことができます。『天上の葦』に関連してお話をしました。→こちらです。
リンク先ページ(TBSラジオ)の一部を引用します。
その後の平成ウルトラシリーズでも脚本を担当した太田さんは、2009年から人気ドラマ『相棒』の脚本に参加。3年続けて元日スペシャルを手がけるなど人気脚本家の一人になりました。太田さんが脚本の回は面白い! という相棒ファンがたくさんいます。
2012年には『犯罪者 クリミナル』(文庫では『犯罪者』と改題)を書いて小説家としても注目されるようになりました。続く『幻夏』(2013年)と『天上の葦』(2017年)は「日本の空気が危うくなっている。いま書いておかないと手遅れになる」という危機感から筆を執ったそうです。ここから太田さんのお話のトーンは一気にギアチェンジします。
『天上の葦』はTBSと思しき放送局が舞台で(ただし太田さんは明言はしていません)、政府に批判的な大型報道番組(ニュースステーション?)を立ち上げようとする話が出てきます。「他人事とは思えなくて、どんどん読んでいった」と久米さん。物語には現代の犯罪と戦争犯罪、2つの犯罪が絡んできます。この話は太田さんが非常に気にかかっている「報道と権力の関係」がテーマになっているのです。太田さんはこのところ急に世の中の空気が変わってきたと感じています。それは、政府に批判的なニュースキャスターたちが画面からどんどん消えていったり、「反日」「非国民」「国賊」といった戦時中によく使われた言葉がネットなどにあふれるようになってきたり。つい最近も自衛隊幹部が野党の国会議員に向かって「お前は国民の敵だ!」と叫ぶという、それこそ戦前・戦中に逆戻りしたようなことがありました。でも、こうしたことに対して私たちはあまり驚かなくなっています。そこが怖いことだと太田さんは言います。かつての戦争のときもそうでした。私たちが気づかないうちに日本は戦争への道を走り始めていました。そして気づいたときにはもう後戻りできなくなっていました。そして「戦争が始まってしまったからには、兵隊さんを応援しなければ」という空気に変わっていたのです。これは太田さんが、戦争を体験した方たちから聞いた話だそうです。
「国が危ない方向に舵(かじ)を切るときに、いちばん顕著にその兆しが表れるのが報道です。その次が教育。報道というのは情報を操作して、非常に巧みに空気をつくっていきます。そして現実の世界とは違うものを見せることができます。だから報道の戦争責任というものも問われなきゃいけないと思います。そしてそんな報道を一人ひとりの善良な人たちがどうして許してしまったのか、そこもきちんと検証されなければいけなかった。でもそれがないまま来てしまった。いま『非国民』とか『国賊』といった言葉が一般の人々の生活の中で幅をきかせ始めているのは、検証や総括をしてこなかったことが大きいと思います」(太田さん)
「放送ではNHKのラジオが大本営発表を伝えていました。当時、民間放送はまだありませんでした。つまり民放は、戦争に向かっていくときに世の中がどうなっていくかということを経験していないんです。そのことをよほど気にしていないと、NHKと同じ轍を踏むことになる。それをきちんと認識もしないで毎日、報道していたらいかんと思います。だから僕は、民放がんばれって言ってるんです」(久米さん)
「報道は政府広報ではないんです。でも当時の新聞にとって戦争は『儲かるイベント』だった。戦時中は新聞がすごく売れたからです。だから情報源である軍の近くにいたかった。そのうち検閲に引っかかるような記事を書く記者が誰もいなくなってしまった。結局、新聞は権力と闘うべきときに闘わず、企業の存続を考えて自滅したんです。そのことを伝えたいと思って『天上の葦』を書きました」(太田さん)
4月28日(土)付のこのラジオ放送。カーラジオで聞き印象に残っていました。数ヶ月も経って、思いだすきっかけに出会ったことは、ちょっと不思議な気分です。
幽かな糸のシリーズ、次回に続きます。
【今日の付録】
孫達とママは、昨日の夕方、里帰りから戻ってきました。従兄弟姉妹達とのひとときも、新幹線の旅も、とても楽しかったようです。今日はいつもの日常が戻りました。
妻と田舎へ草刈りとご機嫌伺いに行ってきました。
どこを見ても、ヒガンバナが盛りです。
あちらこちらの田圃で、稲刈りが終わっています。
栗の実もそろそろ収穫時。
モズの高鳴きを聞きました。
今日はここまで。
幽かな糸がつながった?の巻(その3) [折々散歩]
脳内細胞の途切れそうな細い糸が、辛うじて幽かに繋がったという話題を書きたいのですが、なかなか本題にたどり着きません。
前回までの記事の続きです。
「相棒劇場版4」のトラック島のエピソードについて、史実に反するというコメントを、ネット上の書き込みにいくつか見受けます。日本軍の部隊が早々と撤退して、民間人だけが取り残されて米軍の攻撃にさらされて逃げ惑ったというのは虚偽で、軍もろとも殲滅の悲劇を被ったのだから、日本を恨むのはお門違い、と言ったような主張も目にします。
でも、NHKの戦争証言アーカイブスというサイトにトラック諸島消えた連合艦隊という番組が収められており、先日の瀧本さんの証言と照らし合わせても、軍主力は米軍の攻撃を察知して撤退し、あとに残された部隊と軍属、民間人が壊滅的な打撃を被った、というのが真相だと教えてくれます。
番組内容の紹介記事を引用しておきます。
太平洋のほぼ中央に浮かぶトラック諸島。巨大なサンゴ礁に囲まれ大小200余りの島々が点在している。大正8年(1919年)に日本の委任統治領となり、民間人や軍人・軍属など約2万人の人々が暮らすようになっていた。島には町が作られ、病院や小学校、映画館や料亭までが立ち並んでいた。
昭和17年8月、連合軍の本格的な攻勢が始まると、日本軍は連合艦隊の拠点を日本国内から前線に近いトラック諸島に移す。来る決戦に備え、戦艦大和など連合艦隊の主力が集結し空母機動部隊が島を拠点に作戦を開始した。
しかし連合軍の攻勢の前に日本軍は各地で敗北を重ねた。米軍は昭和18年11月、トラック諸島の東にあるギルバート諸島を攻略、翌19年にはマーシャル諸島にも手をのばした。ラバウルの航空隊も度重なる空襲で大きな損害を受けていた。
昭和19年2月10日未明。連合艦隊の主力15隻がトラック諸島を離れた。連合艦隊司令部はトラックを拠点とした決戦は時期を逸したと判断。体勢を立て直すため作戦を変更したのだ。その際、物資や燃料を運ぶ多くの輸送船がなぜか残された。
2月17日早朝、2日間にわたるトラック大空襲が始まった。空襲開始から2時間足らずで航空部隊は壊滅。次に標的にされたのは、ほとんど防備を持たない輸送船だった。この空襲で、日本軍が出した損害は、輸送船31隻、艦艇10隻、航空機279機。死者は2000人以上にのぼった。
連合艦隊の拠点としての機能を失ったものの、トラック諸島が米軍の基地として利用されることを怖れた大本営は、多くの将兵を送り込んでいく。戦況が悪化し補給が絶たれると兵士たちは自給自足を余儀なくされた。トラック諸島では終戦までに、5000人にのぼる将兵や民間人が餓えや病で命を落とした。
1944年2月の大空襲後にも、この島に次々と将兵を送り込むという愚行。正気の沙汰ではありません。
そういえば、その遅れて送り込まれた将兵のひとりが金子兜太さんでした。日経新聞の記事から引用します。
俳人・金子兜太氏 「戦争の悪」と「人間の美」詠む(戦争と私)
戦後70年インタビュー 2015/8/15 2:00――戦地での印象深い出来事を教えて下さい。
金子兜太(かねこ・とうた)氏 埼玉県生まれ。東京帝大卒。戦後は日銀に勤務しながら社会性を重視した前衛的な作品を相次いで発表。現代俳句協会名誉会長。95歳。
「1944年3月に着任したとき、半月前の空襲でやられた施設が真っ黒な残骸をさらしていました。飛行艇で着いたのが夕方だったので、よけいに黒く見える。海の深いところには貨物船や軍艦が沈んでいて、これはもう駄目だなと思う光景でした」
「戦況が悪化すると、トラック島では武器も弾薬も補給できなくなる。そこで、工作部が手りゅう弾を作って実験するという事があり、これが私の戦争に対する考えを一変させました」
「実験は兵隊ではなくて民間人の工員にやらせました。失敗して工員は即死、指導役の落下傘部隊の少尉が心臓に破片を受けて死にました」
「心に焼き付いたのはその直後のことです。10人ほどの工員たちが倒れた仲間を担ぎ上げ、2キロ離れた病院へ走り出した。腕が無くなり、背中は白くえぐれて、死んでいることは分かっています。でも、ワッショイワッショイと必死で走る。その光景を見て、ああ人間というのはいいものだとしみじみ思いました」
「ところが落下傘部隊に少尉の死を知らせると、隊長の少佐以下、皆笑っているんです。彼らは実戦を通じて死ぬということをいくつも体験してきた。だから死に対して無感動というか、当たり前なんですね」
「工員たちの心を打つ行動があって、今度は死を笑う兵士がいる。置かれた状況が人間を冷酷に変えるんです。戦争とは人間のよさを惜しげも無くつぶしてしまう酷薄な悪だと痛感しました。あの出来事は私にとって衝撃であり、今から思えば収穫でもあります。あれ以来、戦争を憎むという姿勢は一貫しています」
(中略)
――捕虜生活の後、日本に帰還しました。
「餓死者を出した、これは主計科の士官として仕事を全うできなかったということです。若くて元気のいいアメリカの海兵隊を見て餓死した人のことを思い出しました。筋骨隆々としていた人がだんだんやせ細って最後は仏様のような顔になって死んでいった」
「『水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る』は餓死した人を思いながら、船尾から遠ざかる島を見ていたときに作った句です」
――戦争の記憶が薄れるなかで、文学が果たす役割とは何でしょう。
「本気で作った五・七・五は力を持っている」と語る金子氏
「トラック島の記録を作ることが死者をとむらうことになる、それができるのは散文の小説やドキュメンタリーで伝えることだと思っていました。実は結構、書いているんですが、恥ずかしくて駄目。美文調で、青年の客気が露骨に出てしまっていて。これでは戦争の悪なんか伝わるわけがない。自分で決めて永久に葬りました」
「一方で、俳句にはかなり強い伝達力があることを今ごろになって感じます。本気で作った五・七・五は力を持っています。私には『こんなに悪い戦争があって、自分はそれに参加したのだから、俳句を作る資格はない』と消極的になってしまった時期がありました」
「そうではなくて『これほど悪いんだから全力で俳句を作って、俳句で戦争の記録を残していくんだ』という割り切り方ができたら良かったのかもしれません。それができなかった。今でも後悔が残りますね」
――これからの創作に向けての意欲は。
「95歳という年齢に制限される面がありますが、ビビッドで伝達力のある前衛性の高い俳句を作りたい。東日本大震災の映像を見て『津波のあと老女生きてあり死なぬ』という句ができました。戦争の悪と同時に人間はそう簡単に死なないものだと伝えたい。人間には強さがあるぞ、その強さを生かしていこうじゃないかとね」
(聞き手は社会部、稲沢計典)
在りし日の金子さんの思いを、噛みしめながら読みました。
金子さんについては拙ブログでも何度か話題にしていて、トラック島の体験についても触れてはいたのですが、その記憶が薄らいでしまっていました。たとえばこの記事。↓
金子兜太さんを悼む、の巻
特に感慨深い部分を、ちょっと引用しておきます。
最後に「日刊ゲンダイ」のこんな記事も目に止まりました。
反戦平和への思いを込めた多くの句を残し、安倍政権が強引に進めた安保法に反対する運動のシンボルとなったプラカード「アベ政治を許さない」を揮毫した俳人の金子兜太さんが20日、急性呼吸促迫症候群のため埼玉県熊谷市の病院で死去した。98歳だった。葬儀は近親者のみで営む。
(中略)
16年5月の本紙インタビューでは、安保法反対プラカードの揮毫について「『アベ政治』をカタカナにしたのは、こんな政権に漢字を使うのはもったいないから」と話し、「アベとかいう変な人が出てきたもんだから、私のようなボンクラな男でも危機感を痛切に感じるようになりました」などと政権を痛烈批判していた。
安らかにお眠りください。アベ政治は,国民の理性の力で、必ず成敗しますから、、、。
幽かな糸は、まだまだ繋がりきってはいません。次回に続きます。
【今日の付録】
児島湖畔を歩いてみました。蒸し暑い日が続きます。
kenko400mmミラーレンズf8.0を持って出たのですが、散歩中、めぼしい鳥には出会いませんでした。
カルガモです。
スズメかと思ったら、オオジュリン?
さすがに遠すぎます。
トリミングしますが、鮮明とは言いがたいです。
ピンクのアカママ(イヌタデ)の花?
モンキチョウ。
曇り空のせいもあって、色彩も鈍くぼんやりしています。もう少し光量があったら、ましな写りが期待できるでしょうか?
こちらはOLYMPUS E-PM1+Lumix1:2.5/14asphによる広角写真。
またまた、玄関前の朝顔です。
【追伸】
安室奈美恵さんの引退と、樹木希林さんの逝去。残念です。
安室さんについては、世代も違うのでほとんど知りませんが、翁長さんの逝去に当たってのコメントには心を打たれました。
《安室さんのコメント全文》
翁長知事の突然の訃報に大変驚いております。
ご病気の事はニュースで拝見しており、
県民栄誉賞の授賞式でお会いした際には、お痩せになられた印象がありました。
今思えばあの時も、
体調が優れなかったにも関わらず、
私を気遣ってくださり、優しい言葉をかけてくださいました。
沖縄の事を考え、沖縄の為に尽くしてこられた翁長知事のご遺志がこの先も受け継がれ、
これからも多くの人に愛される沖縄であることを願っております。
心から、
ご冥福をお祈り致します。
が亡くなりました。
樹木希林三位ついては、この記事でちょっとだけ触れたことがありました。
7人目の孫、の巻
予感はしていたが、実際に訃報に接すると、大きな衝撃と喪失感を感じざるを得ない。それは彼女が役者として唯一無二の存在感を発揮していたからだけではない。日本的な同調圧力に屈せずに自分のペースをつらぬく生き様や語り口が私たちに勇気を与えてくれていたからだ。
また、樹木は芸能界で「政治的」と忌み嫌われるジャンルに踏み込むことも厭わなかった。その典型が、2015年に東海テレビで放映された『戦後70年 樹木希林ドキュメンタリーの旅』だろう。
樹木はこのドキュメンタリーでナビゲーター役を務め、残留孤児、原爆、特攻隊、沖縄戦など戦争の悲惨さについて、真剣に迫っていた。
たとえば、残留孤児をテーマにした回では、笑福亭鶴瓶と対談。樹木が「(戦争は)人間の世界で止めることができるはずなのに、そりゃ止めなきゃいけないですよね」と言うと、鶴瓶が「当たり前ですやん。そんなこと……なんのための戦争なんですか? なんのための……意味わからんな、ほんまに」と怒りを滲ませながら、安保法制の問題に自ら切り込む一幕もあった。
「国の言うことを、この歳になって信用したらあかんと思う、60過ぎてね、全部が国の言うことこれ、大丈夫かいなって思うようになるって……」
「いま、法律を変えようとしているあの法律もそうでしょうけど、それも含めて、いまの政府がああいう方向に行ってしまうっていうね、これ、止めないと絶対いけないでしょうね」
「これ、へんな方向に行ってますよ。そら変えなあかん法律はいっぱいあってもね、戦争放棄っていうのはもうこれ謳い文句で、絶対そうなんですが9条はいろたらあかんと思うんですよね」また、沖縄をテーマにした回では、辺野古の新基地建設に反対する人びとが集うキャンプ・シュワブのゲート前に現れ、座り込みを続ける86歳のおばあ、島袋文子さんの手を握り、語り合った。
このこときは、樹木が沖縄の基地反対運動の現場に現れたことが大きな話題になったが、安保法制に賛成する夫・内田裕也は、樹木を批判。ネットでは、内田に同調し、樹木のほうを非難する声も少なくなかった。
今日はこれにて。
幽かな糸が繋がった?の巻(その2) [折々散歩]
未破裂脳動脈瘤を脳内に養っていた頃から、また手術とリハビリ、その後の経過観察の間も、神経内科や脳神経外科に長くお世話になりました。
しばしば、こんな問診を受けました。
「お名前は?」
「今日は何日ですか?」
「ここはどこですか?」
これだけの質問にも、少々緊張し、正しく答えられたか動揺します。
隣の診察室あたりから聞こえてくる問診の声も、他人事とは思えず、印象に残っています。
「野菜の名前を八つ挙げてください」
ちゃんと答えられるかどうか、今も、時々自分でリハーサルしてみたりしています。
最近種まきした野菜や花の名前が思い出せなくて、ちょっとしょげています。
ダイコンやカブやホウレンソウ、ニンジンはとっさにでも思い出せますが、「え~と、あれは」と、しばらく考えてから「葉ボタン」を思い出すといった次第。さらに上を行くのが「え~と、あれは、、、、そうそう、デージーじゃなくて、似た名前でジーがつく、そうそうパンジー」などと、安直なお笑いネタのような会話を頭の中でやっています。新しい記憶は薄らいでも古い記憶は鮮明かというと、必ずしもそうとも言えず、ヒナギクやら三色スミレやらという古い記憶の中の名前もすぐには思い出せなくて困ります。
そんな情けない按配ですが、昨日の記事に続けて、今にも途切れそうな脳内神経の糸が幽かに繋がった話題を、いくつか付け加えます。
9月8日付けの地元紙「山陽新聞」の読者欄にこんな記事が載っていました。
一部を引用します。
広島、長崎原爆の日、終戦記念日がある8月。トピック「戦争と平和」には多彩な投稿が寄せられました。
岡山市の70代女性は「人間の作った核兵器で人類が滅ぶことのないよう、世界の国々が核兵器を放棄する勇気をもち、世界平和が訪れることを心から願います」。岡山市の70代男性は、「私たち世代が戦争の争の『残酷さ、悲惨さ』を子や孫へと語り継いでいくことが大切だ」とつづられ、美作市の90代男性は「あのひどい戦争の状況を知る人が少なくなった今、戦争を知らない若い人に、戦争は絶対駄目だと強くお願いする」と結ばれました。(後略)
ちなみに最後の「90代男性」は、私の老父です。
13日(木)の教育相談ボランティアの日、昼食をご一緒しようとその日の相談員の方々と、近くの老舗デパートの地下街へ向かいました。思い思いのメニューの食事を注文して、食事コーナーのテーブルに陣を取り、四方山の話に花を咲かせながら、ちょっとした遠足気分を楽しみました。
そんなとき、90歳の長老のN先生が、周囲を見渡しながらおっしゃいました。
「この辺も変わりましたなあ」
「この辺りが、空襲による死者が一番多かったところです」
「みんな地下へ逃げてきて、折り重なって死にました」
「蒸し焼きでした」
73年前の6月、岡山空襲の時のことでした。
その日の帰り道、相棒のSさんに誘われて、岡山城近くの石山公園を通り、「平和の像」を写して帰りました。
この像については、2015年夏のこの記事でも触れたことがありました。↓
半田山植物園のバラの巻(3)
壇上で挨拶されたお一人が触れておられたように、舞台の左上には『母子像』があります。戦争によって、まず犠牲になるのは、子どもや女性や。弱い立場の人達だと、、。まったくその通りです。
この「平和の像」は、「平和都市宣言の趣旨を広く市民に啓発し、市民一人ひとりが平和について考え、平和の尊さに思いを寄せていただき、またその思いを末永く後世に伝えるために、平和都市宣言を記念して昭和62年3月28日に建立された。」と、岡山市のホームページにありました。
横断幕に「恐てぇー戦争法おえん」とあります。 「恐てぇー」は、「きょーてー」と発音し、「恐ろしい、おっかない』といった意味の地方語です。 郷土作家岩井志麻子さんの小説「ぼっけえきょうてえ」のタイトルにも登場します。
「おえん」は、「だめ!いけない!許されるものでない!言語道断だ!」という程の意味ですか。
「憲法守らんとおえまあ~」は、「憲法守らないとだめなんじゃないの?そんなわかりきった事、いちいち、人から指摘されないとわからないの?信じられない。」といったニュアンスでしょうかね。
Sさんは、岡山城の石垣のたもとの道の傍らに、アメリカの空襲で火傷を負って、今なお壮健にそびえている巨木を案内してくださいました。
若い世代に語り伝えるべきことはたくさんあります。
「幽かな糸の繋がり」に話が及ぶ前に、記事が長くなりすぎました、続きは次回といたします。
【今日の付録】
・身辺メモです。
①四人の孫は、ママと一緒に、夏休みに行けなかったママの故郷の静岡まで、新幹線で旅行です。パパはお仕事があるので、留守番だそう。
②今日は、妻のお供で午後から県展見学。写真と工芸作品を観て帰りました。
写真について言いますと、さすが、凄いと思える作品が多いですが、技巧に走りすぎてるかな?と思えるものもあって、うまいなとは思っても感動には至らないものもあるものですね。好みの問題ですかな。
私の作品は最大で四つ切りかA4、たいていはキャビネか絵はがきサイズが常ですが、とにかく大きなサイズにしないと、迫力で負けますね。これが、今日の第一の感想ですが、待てよ、たとえば土門拳の作品は、キャビネやそれ以下の大きさで、大きなインパクトをもっていたっけと、急に思い出しました。そう言えば、そんな存在感ある作品は、稀、というか、皆無です、いえ、自分のを棚に上げて言っていますが、、、。
③2歳児がお母ちゃんとやってきて、夕食を一緒にしました。
今日の写真は玄関門扉に寛ぐアマガエル。保護色で思いがけない色彩を身にまとっています。
玄関前の朝顔が、今が盛りです。暑い夏の時期より元気そう似、次々と咲いています。
今日はこれにて。
幽かな糸が繋がった?の巻 [折々散歩]
わが脳内のイメージ図を想像してみることがあります。無数に張り巡らされている神経(ニューロン)が、方々で傷つきやせ細って、時には途切れて、かさかさに干からびシナプスが小刻みに震えたりこわばったりしながら、滞りがちの信号を弱々しく伝えたり途絶えたりしている、、、。ニューロンもシナプスも、見たことありませんからイメージ化できませんが、「灰色の脳細胞」(エルキュール・ポアロ)というくらいですから、灰色をしているのでしょうな。
いずれにせよ、そんなあやふやな脳内伝達の有様が、嘆かわしくてなりません。
記憶の深いところをまさぐっても、その実体に指先がとどかないもどかしさを、つい最近も味わったところです。
昼食後の寛ぎの時間などに、観るともなく観る録画番組に、「相棒」シリーズがあります。昨日も、たまたま点けたのが、「相棒劇場版4」。オフィシャルサイトはこちら。
【解説】
人気TVドラマシリーズの劇場版第4弾。日本政府に人質身代金9億円を要求した謎の国際犯罪組織。50万人以上の見物客が集まる世界スポーツ競技大会の日本選手団凱旋パレードで無差別大量テロが計画される中、特命係の杉下右京と冠城亘は真犯人を追い詰めてゆく。監督は「探偵はBARにいる」の橋本一。水谷豊、反町隆史、及川光博、石坂浩二、仲間由紀恵、六角精児、川原和久といったTVでおなじみの出演陣が総集結。そのほか、謎の“黒衣の男”を「猫侍」の北村一輝。誘拐された少女を「くちびるに歌を」の山口まゆ、国連犯罪情報事務局元理事のマーク・リュウを「想いのこし」の鹿賀丈史が演じる。
【あらすじ】
7年前、イギリスで起きた日本領事館関係者集団毒殺事件。当時、その唯一の生き残りだった少女が国際犯罪組織によって誘拐されたが、駐英大使と日本政府は高度な政治的判断によって、その誘拐事件を闇に葬っていた……。それから7年。国際犯罪組織バーズのリーダー=レイブンを長年追ってきた国連犯罪情報事務局元理事のマーク・リュウ(鹿賀丈史)が、日本にレイブンが潜伏しているという情報を得て香港から来日。(中略)その矢先、リュウの部下が「天谷克則という男を調べてくれ」というメッセージを残し、首に黒い羽のタトゥーを入れた“黒衣の男”(北村一輝)に殺害される。
内容に深入りすることはしません。わが脳裏に、もどかしいもやもやが去来したのは、この「天谷克則という男」の幼時の体験として描かれるエピソード。太平洋戦争末期のトラック諸島、敗色濃い中、日本軍の主要部隊が撤退してしまい、残された民間人に米軍の容赦ない攻撃が浴びせられ、逃げ惑う中で母と生き別れになったというストーリーが語られます。
オヤ、どこかで聞き覚えがあるぞ、しかも最近。はて?いつ、どこで、誰に聞いた話(あるいは読んだ記事?)だろうか。と考え始めると、気になって仕方がありません。確かに聞いた(読んだ)話かどうかもあやふやなので、余計にもやもやが募ります。
いろいろ見当を付けながら記憶をまさぐるうちに、思い出されてきたのは、先日の8月末の高知旅行で、最大の目的だった同窓会の席で、M君が話してくれた話題がそれだったと思い出されてきました。M君については当ブログでも何度か紹介させていただきました。たとえばこんな記事。彦崎貝塚訪問記、の巻
先日、 私の入院を心配して、そのM君がお見舞いのメールをくれました。ありがたいことです。
◇二日目のお四国弥次喜多ぶらり旅 の記事でもご紹介しましたように、M君は、生物・理科分野、もっと厳密に言うと水産分野が専門ですが、歴史・地理分野への造詣と関心が並々ならぬものがあります。中でも一番興味があるのが縄文遺跡巡りだそうです。香川県荘内半島の紫雲出山を訪ねたのも、そこの縄文遺跡が一番のお目当てだったのです。残念ながら、「紫雲出山遺跡」は、縄文時代ではなく弥生時代の集落跡だったのですが、、、。
歴史音痴・地理音痴を自負する私などは、行動力抜群の彼の後についていくといろいろと面白いことに出会えるので、楽しいのです。
このたびの10月の「弥次喜多道中」も、縄文遺跡を訪ねる(つもりの)旅だったのです。
同窓会の夜も、縄文文化の話題や邪馬台国の話題など(というか、ある種の論争)を歴史が専門の先輩達とやり合う威勢の良さ。しかも、並々ならぬ読書量と知識欲と造詣の深さに脱帽しながら聞く一方でしが、その記憶は鮮明だったのですが、先の戦争末期のトラック諸島の様子は、どういう文脈で語られたのものだったのか、ようやく思い出しました。
念のために確かめてみると、net上に「AERA.dot.」のこの記事を見つけました。
「いまもむかしも、えらい人は失敗の責任をとりません」「命令どおりの作業をやるしかない生き地獄を、生き残るためには、三度も奇跡が必要だった」
――最近のニュースのことかと思われるだろう。これは、先の戦争を生きのびたある元日本海軍兵が、70年以上も前の戦場でつかみとった結論だ。その人は『96歳 元海軍兵の「遺言」』(朝日新聞出版)の著者であり、現在は大阪市に住んでいる瀧本邦慶さん。17歳のとき、「お国のために死ぬ。これぞ男子の名誉」と20歳の徴兵検査を待たずに海軍に志願した。4等兵という「下っ端」から出発し、空母「飛龍」に乗りこんだ。以降、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦に従軍し、「餓死の5分前」に追いつめられた南洋のトラック諸島で敗戦を迎えた。戦後70年を経て戦争体験者が次々と世を去っていくなか、「戦争の生の姿」を語ることができる数少ない語り部だ。
(中略)
ご存じのように日本軍はこのミッドウェー海戦で敗戦の坂道を転げおちていきます。戦後にミッドウェー海戦のことをしらべると、とんでもないことが分かりました。海軍の上層部のヤツらは、敗因は下っ端の下士官兵らがきちんと働かなかったからや、なんてことを言っているんですね。
このときはっきりと分かりました。えらい人は自分の責任を認めるどころか、反対に責任を末端におしつけます。えらい人は失敗の責任をとりません。反省もしません。
そうそう、M君が話してくれたのはこの人の話題でした。いったんは「語り部」を辞めるつもりになっていたが、思い直して、『96歳 元海軍兵の「遺言」』の本も出版、語り部も続けているという方だそうです。
ネット上にはこんな記事もありました。
その平和講演を、瀧本さんは8月末で止める。理由は二つだという。
一つは、今回の参院選。瀧本さんは「いくら講演活動を続けても何も変わらない。いや、時代はますます悪い方向へ向かっています」と嘆く。
二つ目が、参院選の結果を受け、近い将来、集会の自由が奪われる時代が来るだろうと思うからだ。
「戦争が近づくと、特高警察が700人近くの反戦主義者を次々と検挙していきました。今の政権はそれと似たことをやると思いますよ。当時よりも戦争に反対する人は多いから取り締まりも大掛かりにやるでしょう。平和講演をやっていることで逮捕されたら、息子夫婦に迷惑をかけることになりますからな」
大げさな話だと一笑に付すことはできないようなことがすでに起きていた。
瀧本さんが大阪府内の高校で講演したとき、後日、学校から感想文が送られてきた。その中に、「左巻き(左翼の意味)のじじいが政権を批判するなんて許せない。話を聞いて無駄な時間を過ごした」と書いた一文があった。語り部活動を始めて10年以上になるが、そんな感想が寄せられるのは初めてのことだった。
さらに、数日前、大阪市内の中学校から依頼された講演をキャンセルされた。
「AERA.dot.」は、滝本さんを度々記事に取り上げています。たとえば、最近の記事としてはこの記事やこの記事。一部引用します。
「もう戦争だけはこりごりだ」。これが、瀧川さんを含めて73年前の人々がたどり着いた「国民的結論」のはずだった。
それなのに瀧本さんの焦りはいま、最高潮に達しつつある。
「もうこの年になるとな、いつ死んでもええわいと思とります。でも、今はそれどころじゃないんです。今は死んでも死ねない。そう思とります」
病みあがりの体を奮いたたせて戦場体験を語りつづけているのは、「国民的結論」が揺らぎつつあると感じているからだ。(中略)自分は若いころ、だまされました。戦場におくられ、無数の無残な死を目の当たりにし、餓死寸前になるまで、そのことに気づけませんでした。愚かでした。だから若者よ、君たちはだまされないでください。かつてならば「天皇陛下のため」「お国のため」、いまならば「国を守る」「攻められたらどうする」。戦争は反対だが「やむをえないもの」「避けられないもの」もあるのです、と言って若者をその気にさせる言葉に決してだまされてはあきません――。
そんなことを、くりかえし、何度も、幾度も訴える瀧本さんの大声には、迫力というよりも哀願にちかい響きがある。
瀧本さんは2017年7月、脳梗塞で倒れた。その年の講演予定は取り消しとなった。
8カ月後の2018年3月、瀧本さんは語り部活動を再開する。せめて1年間は休んでリハビリに集中して欲しいという家族の願いをふりきっての決断だった。
復活第一声は次のようなものだった。「瀧本でございます。昨年7月に倒れまして講演を停止しておりました。しかし、世相が許しませんので、私はしゃべらないかんようになりました」
(中略)
■「えらい人は責任を取りません」
危機感の根源は安倍政権の動きだ。
2013年 特定秘密保護法を制定
2014年 武器輸出三原則の撤廃、集団的自衛権の行使容認の閣議決定
2015年 安全保障関連法(戦争法)の制定
2017年 「共謀罪」法の制定
これらの動きに瀧本さんは「『ぜったいに戦争はやりません』という国から『いつでも戦争をやるぞ』という国になろうとしている」と断じる。
今年7月の講演会。やはり瀧本さんは吠えた。
「今の世の中、政治の動きに対して危うさを覚えております。今は死んでも死ねないと思とります。今は死んでるどころじゃないんです。怒って怒って怒りっぱなしですよ」
やりだまにあげたのは「赤坂自民亭」だ。
7月5日14時、気象庁が「記録的な大雨」「厳重な警戒」を呼びかけた。午後10時までに京都・大阪・兵庫の約11万人に避難指示が出され、避難勧告も広がっていく。15府県で225人が亡くなった西日本豪雨のはじまりだった。そのさなかに開かれたのが、安倍晋三首相も出席しての自民党国会議員の懇親会「赤坂自民亭」だ。防衛相や法相ら政府や自民党の要職が酒をくみかわす写真が出席者によってツイッターに投稿もされた。
これに瀧本さんが敏感に反応したのは、やはり戦時下の体験による。瀧本さんがトラック諸島に上陸したのは1944年2月11日。それから6日後の17日と18日に米軍の大空襲に遭う。瀧本さんは山中のトンネルに逃げこんだ。「その中でふるえあがっとったもん。とにかくこわかった」。穴から出て見た光景は、日本の敗戦を確信させるほどのものだった。軍の施設は陸上も港湾も何もかもが破壊されていて、巨大な重油タンクは黒煙を数日間あげつづけた。船はあらかた沈められた。飛行機も軒並みやられた。以降、手足をもがれたトラック諸島の陸海軍は、連日のように米軍空襲にさらされることになる。
「海軍T事件(※注)」とも称されるできごとは、大空襲の前日、16日に起きた。トラック諸島には将校用の日本料理店があり、「そこで軍幹部が飲めや歌えのどんちゃんさわぎをしていたんですね」。しかも警戒態勢が解かれていたから、ほとんど反撃らしい反撃もできないまま大空襲を受けてしまう。島全体を揺るがすほどの大量の爆弾だったから、それを地表で受けていた瀧本さんら兵隊にとってたまったものではなかった。
この海軍T事件後に任を解かれた司令長官は、戦後も長く生きたが自らの責任について語ることはなかったという。
「戦場にかっこいい物語など一つもなかった」と合わせて、瀧本さんは戦争についてもう一つの結論を持っている。
「えらい人は責任を取りません。戦争で死ぬのは下っぱの若者ばかりです。今はどうですか。戦前と変わりましたか。国民が大変なときに、えらい人たちはどんちゃん大騒ぎをしているじゃないですか」
(朝日新聞大阪社会部・下地毅)
今日の記事も、 引用ばかりで終わりました。
「幽かな糸」はもう少し別方向にも繋がっていくのですが、それはまた次回。
【今日の付録】
朝から雨が降ったりやんだり。
マンジュシャゲとキアゲハ。
ヒャクニチソウとキアゲハ。
キアゲハのカップル。
ベニシジミ。
ヒメジャノメ?
ダイサギ。
アオサギ。
センニチコウ。
ニラの花。
今日はここまで。
雨時々畑仕事、の巻 [折々散歩]
今日も降ったりやんだり。
ここ一週間ほど、雨の合間を見て、畑仕事などしています。
お借りしているエリアも含めて周囲の畑も農道も、雑草に覆われています。
一週間ほどのうちに、ダイコン、カブ、ブロッコリー、ハクサイ、シュンギクなどが芽を出しました。ほうれん草、にんじんなども種をまきをしました。
いつもいろいろな生きものが姿を見せてくれますが、今日はイトトンボの撮影に成功しました。
今日はこれにて。
駆け足の秋、の巻 [折々散歩]
雨ごとに秋色が濃くなっています。
今日などは湿度があって蒸し暑さもありますが、肌寒さも感じます。道行く人も、長袖の上にさらに一枚羽織っての装いが増えています。何気なく半袖で歩いていると、少数派の感がするほどです。
9月になってから、散歩写真を載せていません。
9月1日、雨の朝の、我が家の玄関の朝顔。
9月2日、散歩道で出会った蝶。えーと、何蝶でしたっけ?
9月4日田圃のアオサギ。
9月8日、飛翔するダイサギ。
9月9日。道端のダイサギ。
9月9日、ツユクサ。
9月11日。田舎へ草刈りに帰りました。
カワトンボ(ハグロトンボ)
キアゲハ
ナミアゲハ
カナヘビ
日本トカゲも見かけましたが写真に撮ることはできませんでした。
今日はこれにて。
冷や汗も恥も掻き捨てひとりたび、の巻 [折々散歩]
旅の恥のエピソードはまだ収まりません。
高知旅行二日目。目覚めた頃は、早や、なかなかの暑さです。
この旅、往路はJRを使いましたが時ならぬ混雑で、特急自由席は、立ち客が大勢ありました。帰りは始発列車に乗れば座れるはずという判断の余裕もなく、羮に懲りて膾を吹くことにして、高速バスを使うことにしました。
前日の散歩の途中、はりまや橋前の、あのからくり時計があるデンテツターミナルビルで、高速バスの予約チケットを購入しておきました。日本母親大会の影響でしょうか、夕方の便は満席で、午後の早い便を予約することにしました。
半日の間、ゆっくり土佐観光を楽しむことにして、まずは朝食前に高知城あたりをひと歩きしてこようかと、軽装でホテルを出発。
朝日のもとでの高知城が美しいです。
前日も探して見つからなかった、浜田波静の句碑を探し当てたいのが。一つの目的。マップによると「杉の段」にあるというのですが、「杉の段」がわかりません。
杉の木が生えているここ?
石碑は見つかりません。
こんな出会いはありましたが、、、、。
歩けど歩けど、それらしいものに行き当たりません。
暑さに耐えられず、途中、一枚シャツを脱いで、Tシャツ一枚に鳴って歩いたのですが、もう潮時、ホテルに引き返すことにしました。
見納めに、お堀のスイレンを撮影。
「国宝高知城」の表示がある正門近く。
野中兼山邸跡の碑が建てられている近くのお堀です。
こんなトンボがいました。
見慣れたウチワヤンマのようですが、少し小型のような気もします。高知だけにコウチワヤンマ(小団扇ヤンマ?)かなと気に掛かりました。あとで調べてみると、どうやらタイワンウチワヤンマのようですね。
おしりのうちわの部分のアップです。
以前近所で写したウチワヤンマとは、やっぱり形状が違いますね。
【旅の恥 極めつけ】
こんな写真を撮れたからまあいいか、と満足してホテルに向かう途中、はたと気づきました。シャツのポケットに入れていたはずのホテルの部屋のカードキーがない!慌てて、バッグの中もひっくり返して探してみますが、見当たりません。これは、城歩きの途中、シャツを一枚脱いで、しばらく手に持って歩いていました(そのあとバッグの中に入れました)が、その時に落としたに違いない。と思い当たりました。
ほとんどホテルの近くまで帰っていましたが、もう一度歩いた道を引き返し、カードキーを探して歩いたのでした。
でも、お察しの通り、見つかりませんでした(トホホ)。
仕方ない、正直にフロントに訳を話して、処理してもらおう、とすごすごとホテルに引き返したのでした。
結果、再発行料1000円で、カードを再発行していただき、ようやく部屋に入ることができました。冷や汗まじりの汗びっしょりの早朝散歩となりました。
すっかり意気消沈して、心に描いていた観光もそこそこに、帰りのバスの予約を早い便に切り替えてもらって、早々に帰途についたのでした。とんだオソマツ。
【余禄】
カード探しの途中、杉ノ段という案内板を見つけました。
説明部分をクローズアップします。
確かに、浜田波静の句碑はこの辺りにあるはずです。
あたりを探ってみると、石碑らしいものはこれかな?
近寄って、刻まれている文字を確かめようとしても、判然としません。半信半疑のままその地をあとにしました。
【後日談】
後日、ネット上にコチラの記事を見つけ、大いに教えられました。写真を見ると、どうやら同じ石碑のようですね。
高知城杉ノ段に、浜田波静(はまだはせい)句碑があります。
仁和寺は鼎(かなえ)に古里て頭巾可那(かな)
この句碑は、昭和6年(1931)4月4日、青眼林同人によって建立されたもので、除幕式には俳誌『ホトトギス』主宰の高浜虚子(1874~1959)も出席しています。
この句は『徒然草』第53「是も仁和寺の法師・・・」から発しています。かつて京都仁和寺の僧が宴席で鼎(三本足の金属製の容器)を頭にかぶって踊ったところ、その姿が面白くやんやの喝采を受けました。ところがあとでこれが抜けなくなって大騒ぎとなり、とうとう医者にまで行きましたが抜いてもらえず、死ぬよりはましと無理矢理に引き抜いたところ、耳や鼻に大けがをし、寝込んでしまったという話です。
近頃は仁和寺の坊さんも鼎をかぶることをやめて、みんな頭巾をして行き来しているよ、といった意味の、冬の季語「頭巾」を題材とした愉快な句です。
浜田波静は現南国市前浜出身、明治3年(1870)生まれ、16歳の頃から俳句をたしなみ、慶応義塾在学中正岡子規(1867~1902)の指導を受けました。高知市で書籍商のかたわら、明治32年(1899)俳句仲間と土佐十七字会を始めました。波静ははじめ子規門下にあって活躍しましたが、のち河東碧悟桐(かわひがしへきごと・1873~1937)の新傾向俳句に進み、同派の立役者と知られました。大正12年(1923)2月27日没。54歳。
そう言えば「徒然草」の52段では、同じく仁和寺の僧が、早とちりをして失敗するオハナシがありましたね。その教訓は「先達はあらまほしき事なり」でした。
先達はありがたきものなり、の巻
の記事を、そのまま一部再掲することにします。『徒然草』 第52段 「仁和寺にある法師」を引いて、戒めとしたいと思います。
(原文)
仁和寺(にんなじ)にある法師、年寄るまで、石淸水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。極樂寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比(としごろ)思ひつること、果たし侍(はべ)りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」と言ひける。
すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。
(地方語訳)
仁和寺におるお坊さんが、年をとるまで石清水八幡宮をお参りしたことがなかったもんで、情けなく思えて、ある時決心して、たった一人で歩いて参詣したんじゃと。ふもとの極楽寺(ごくらくじ)と高良(こうら)神社を参拝して、「これで全部じゃ」と思い込んで帰ったそうな。そして、傍らの坊さん仲間に向って、「長年、心に思っていたことを果たしましたわい。八幡様は、聞いておった以上に、尊くていらっしゃいましたぞ。それにしても、お参りする人という人が、みんな、山へ登っていったのは、何事があったのかしらん?気がかりには思うたけれど、八幡様にお参りすることがもともとの目的であるからと思うて、山上までは見なかった。」と言うたそうな。
小さなことにも、案内者は欲しいことじゃのう。きょうはこれにて。
恥は掻き捨て三連発、の巻 [折々散歩]
旅の恥は掻き捨てと申します。
先日の高知旅行の1日目、炎天下の歴史散歩を早々に切り上げて、ホテルにチェックインしたあたりまで書きましたが、そのあとのお話が残っております。
というのも、「旅の恥」に属する、思い出したくない記憶が刺激されますので、続きを書くのがためらわれてもいるのです。といっても、大して立派は「恥」ではございません(汗)
チェックインを済ませ、少し寛いで、部屋の冷房を効かせて、シャワーを浴びたら、人心地がつきました。ここでビールを一杯、という誘惑にもかられましたが、まだ日が高いし、夕方の予定がある、と、理性の声にしたがって、夕方の同窓会までの時間を有意義に過ごすプランはないかしら、と、持参のマップを眺めてみます。
やはり高知城とその周辺散歩を楽しんで、疲れたら涼しい「高知県立文学館」の見学で時間を費やそう、と大まかな計画を立て、汗びっしょりだった服を着替えて出発。
道端にこんな碑を見つけました。
馬詰親音先生誕生の地とあります。
馬詰親音(うまづめもとね)について、簡単な紹介が碑に刻んであります。
引用します。
馬詰親音
有名な町奉行で、歌人でもある。城下桜井町に「モミヌキ井戸」を掘り、水利の便をよくした、製糖業を伝え砂糖専売の制をたて、貸本業を開き、一般の教育に努めた、また義倉を設けて災害に備えた。
高知市のHP中に「歴史万華鏡」というページがありこんな記事が掲載されていました。
馬詰親音(もとね)誕生地碑
高知市広報「あかるいまち」2018年8月号より
●馬詰親音誕生地の碑土佐女子中学高等学校の北東隅に、「馬詰親音誕生地」の碑が立っている。
寛延元(一七四八)年にこの地に生まれた親音は、九代藩主山内豊雍(とよちか)、十代藩主山内豊策(とよかず)の治世下で、持ち前の視野の広さと豊かな学識で、藩吏として優れた手腕を発揮した。
たとえば、彼は藩命で江戸に出るたびに専門家の元を訪れて製糖法について聴取し、仁井田や種崎で砂糖の原料になる甘蔗(かんしょ)植え付けを行わせ、城下の豪商を売りさばき問屋に指定するなど、土佐での製糖業の育成に尽力する。
親音はまた、江戸や京都、大坂の文化人とも交流した。特に和歌は、京都の公家日野資枝(すけき)に入門して大いに励み、その生涯に作った歌は三万首に及ぶという。また、同好の士とともに『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』、『源氏物語』などの読書会も主宰した。
寛政九(一七九七)年に御町奉行に就任してからは、城下町の都市政策にも取り組む。現在の桜井町にその名をとどめる「桜井」は、親音が近江彦根から技術者を招いて掘削させた土佐では初めての揉貫(もみぬき)井戸で、その完成により下町一帯は良質な水を得られるようになった。また、飢饉(ききん)対策として、社倉(しゃそう)と呼ばれる備蓄倉庫を設置したことも知られる。
特筆すべきは、町奉行所直営の貸本業を行ったことである。『皆山集』所収の「増補事物終始(ぞうほじぶつしゅうし) 」には、親音が土佐の人々の啓蒙のため、吉田屋亀助という商家に書籍代を無利子で貸し下げ、城下で貸本屋を始めさせたことが記されている。
この夏、親音誕生地にほど近い追手筋にオーテピアが開館した。情報や知識と人を結び、課題を解決していくというオーテピアの掲げる理念は、馬詰親音がなそうとしたことにも一脈通ずる。産業の育成やライフラインの整備により、人は安心して暮らすことができる。そして、文化や情報・知識がそこに加わるならば、その暮らしはより豊かなものになるだろう。親音の時代であれ現代であれ、それは変わることのない普遍的なことなのである。
オーテピア高知図書館 渡邊哲哉
ほど近くに、「山内容堂誕生の地」という碑があります。
第15代高知藩主ですので、お城の中で生まれたのじゃないの?と素人考えで疑問を持ちましたが、よくよく考えてみると、容堂の父は11代藩主の弟で、母は側室のだったと言います。
本家の藩主が急死するというアクシデントのため、急遽藩主の座に就く事になり、幕末の怒濤の歴史の表舞台で翻弄されることになったのでした。(この記事参照南国高知の歴史散歩はまだまだつづくノダ、の巻)
高知県立文学館。
2013年の夏に高知を訪ねたときは早朝の開館前だったため、入り口の前で引き返したのでした。(災難は忘れた頃か秋の雨)
折角近くまで行ったのに、中を見学しておけば良かったと、帰宅後に後悔しました。
今回は十分時間があるので、館内を見学することにしました。
企画展として、絵本作家:宮西達也さんの作品展が開催中でしたが、常設展だけを見学することにしました(あとで思えば、後ろ髪引かれましたが、、)
【旅の恥 その1】
窓口のお嬢さんが、「常設展の観覧料は360円ですが、○○○などをお持ちじゃありませんか?」と聞いてくださいます。
詳細は覚えていませんが、「身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳、戦傷病者手帳及び被爆者健康手帳」「高知県・市の長寿手帳」などだったのでしょうか?あとで確かめましたら、これらの該当の方は無料だそうです。県・市の長寿手帳は、65歳以上で給付されるらしいです。うらやましい。
それと、あと付け加えて「JAF会員証とか、、」の声に反応した私は、「持ってますよ、待ってくださいね」とおもむろにバッグを探り、財布やカードホルダーの中身をその辺のカウンターテーブルに並べ、見つからないのでカバンの中身をさらに点検してみますが見当たりません。受付嬢に「すみません、業務を続けていてくださいね」と断って、さらに二度三度探しましたが、残念。あるはずのものが見つかりません。
たかだか360円の料金、割引がきかないからと言って何も大損失というわけではないのですが、見つからないと気分が落ち込みます。
(後日談になりますが、JAF会員証は、自動車のダッシュボードに、すぐ見える形で置いたままでした。ちょっと前、ママが乗ってる車がセルモーターの故障で動かなくなったとき、JAFのお世話になろうと思って、会員証カードを用意していたが、結局使わなかったのでした。)
展示の中身は、高知ゆかりの作品を網羅していて、なかなかに刺激的です。写真撮影禁止でしたのでご紹介できませんが、展示されている作者・作品は高知県立文学館HPのこのページに詳しいです。
この文学館、ずーっと以前、見学した記憶があります。いつのことでしたか?学生時分の体験にしては、意外に記憶がしっかりしていますので、あるいは職員旅行か何かで高知を訪れた際の記憶かも知れません。
でも、その時は、こんな人たちはまだ登場していなかったでしょうね。
山本一力 嶋岡晨 志水辰夫 西澤保彦 有川浩 藤原緋沙子 畠中恵 中脇初枝 田島征彦 田島征三 笹山久三 西村繁男 横山充男
平安時代の紀貫之「土佐日記」(高知出身じゃありませんが)から、平成のそうそうたる顔ぶれまで、多数の個性的な文学者と作品を輩出している風土に、あらためて感慨を覚えたことでした。
十分堪能堪能して文学館を出たあとも、まだ時間がたっぷりありますので、高知城めぼしい場所をめぐって見ることにします。
板垣退助像は、いつも撮影して帰ります。
高知城を背負うアングルで写してみました。
マップをもとに、目指した一つは、鹿持雅澄(かもちまさずみ)の、「愛妻の碑」。これはすぐに見つかりましたし、前にも写したことがありました。
鹿持雅澄(かもちまさずみ)について、文学館で展示を確かめたことが今回の進歩です。HPにはこうありました。
鹿持雅澄
高知市生まれ。国学者・歌人。土佐で歌作に勤しむとともに『万葉集』を軸に古代文化の究明に生涯を捧げた。没後、明治天皇のご下賜金で『万葉集古義』を発行。彼の皇朝学・復古思想は、武市瑞山ら土佐勤王党の原動力となった。
<おもな著作>『万葉集古義』『土佐日記地理辯』など
もう一つ、この近くに、俳人浜田の句碑があるというので探してみたのですが、見つけられませんでした。文学館HPにはこうあります。
浜田波静
香美郡前浜村(現・南国市)生まれ。俳人。会社勤めの傍ら、子規門下として日本派を鼓吹し、土佐近代俳句の先駆となった俳壇の中心人物である。
<おもな著作>『椎』
もうこのあたりで、汗びっしょりで、せっかくシャワーを浴びて着替えてきたシャツもびしょびしょです。肌着を脱いで、ポロシャツ一枚で、同窓会場に向かいました。
【旅の恥 その2】
同窓会の二次会。会場から歩いて、高知の仲間の行きつけのお店へ連れて行ってくださいました。席について、四方山話が始まりかけた頃、「会費は2500円」と、世話役のH女史が集金を始めてくれます。
が、ここで、困りました。財布の中身が、足りません。クレジットカードで済ますつもりで、現金を持ち合わせていなかったのです。
「次に会うまで貸しちょくきに」と、やさしいH女史が言ってくれますが、そうも参りません。近くのコンビニへの道を教わって、ATMで現金を用意し、二次会場に引き返す、、、、つもりが、帰り道がわかりません。電話で聞こうにも、携帯は席に置いたまま、電話番号がわかる手帳もメモも、バッグとともに席に置いたまま。万事窮す。
かなり遠回りをしてやっとの思いで、お店に帰り着きましたとサ。
【旅の恥 その3】
同窓会を終えて、名残を惜しみながら、千鳥足でホテルへ。自動販売機コーナーで、お茶とチューハイと、焼きおにぎりを仕入れて、部屋へ。ようやくおちついて、シャワーを浴びて、チューハイで喉を潤しながら、TVのスイッチをつけたちょうどその頃、ドアのノックの音が聞こえます。
??
いぶかしい思いのままドアを開けて覗いてみると、ホテルの従業員の方です。
「これを落とされませんでしたか?」
差し出されたものを見ると、確かにいつも手帳に挟んである私のカードホルダー。中には銀行のキャッシュカード、クレジットカード、保険証、運転免許証、いくつかの病院の診察券、電器店の会員カード、などなど。
「どこにありました?」と聞くと、自動販売機コーナーだとのこと。
小銭を取り出すため、バッグの中身を探ったときに、大事なカードホルダーをポロリと落としてしまったのですね。ああ恥ずかしい。
と同時に、ご親切に感謝感謝の大チョンボでした。
旅の恥は、まだまだ、この三連発では終わりません。
続けて書くのも気が滅入り、またの機会といたします。
今日はこれにて。
八咫烏と八咫鏡と平家蟹とアンパンマン、の巻 [折々散歩]
今日(9月7日)付の地元紙「山陽新聞」デジタル版(さんデジ)に、こんな記事がありました。
ファジ戦周辺渋滞緩和へ啓発標語 8日に岡山の国道情報板に掲示
「サポーターの 笑顔あふれる ファジロード」―。サッカーJ2・ファジアーノ岡山のホーム戦に、マイカー以外で来場するよう呼び掛けている「ファジウォーカープロジェクト」実行委員会は8日、サポーターから募った啓発標語を岡山市内の国道の情報板で流し始める。
電車やバス、自転車、徒歩での来場を勧め、シティライトスタジアム(北区いずみ町)周辺の渋滞を緩和する狙い。昨年は実行委が標語をつくったが、問題の解決に向けてサポーターも一緒に考えてもらおうと、公募に切り替えた。
地元サッカーチーム「ファジアーノ岡山」の愛称「ファジアーノ」はイタリア語で雉(キジ)の意。雉は岡山県の県鳥で、桃太郎伝説とも縁が深い。
羽ばたくキジをイメージしたエンブレム。
キジをモチーフにしたマスコットキャラクタ-「ファジ丸」。
それでは、こちら、JFAのエンブレムは?
3本足の八咫烏(やたがらす)をモチーフにしたものだそうですね。
八咫烏と言えば、和歌山の熊野神社が有名です。熊野神社HPから引用します。
八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、導きの神として篤い信仰があります。
八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味です。八咫烏は太陽の化身で三本の足があります。
この三本の足はそれぞれ天・地・人をあらわす、といわれています。
ところで、岡山県内でも、八咫烏をシンボルとする高校があります。
その一つは、旧制岡山中学の伝統を継ぐ朝日高校。同窓会HPの記事にこうありました。
校舎に隣接する城は、いかつい黒い外観から「烏城」とよばれたが、金箔瓦が用いられていたということで「金烏城」と言い伝えられてきた(鬼瓦に金箔が貼られていたことは、発掘で確認された)。この「金烏」という言葉は、当時の知識人(教師)の脳裡に、現代人には考えにくいイメージを呼び起こしたようである。たとえば、奈良時代の悲劇の象徴であった大津皇子の辞世の詩は、「金烏臨西舎」(日は西の家屋を照らし)ではじまる。この「金烏」は太陽のことである。つまり漢文の素養のある者は、太陽の異名と受け取ったのである。
古い中国では、太陽に烏が住んでいる、或は、烏は太陽にこもっている陽の精気が凝り集まってなった「日之精」と考えられた。もっとも有名な文献は『淮南子』(えなんじ)で、この「精神訓」には、「」とある。「」は「蹲」の古文で、「うずくまる」という意味であるから、太陽の中に烏がいるという意味になる。もっとも太陽に烏が住むという発想は、もともと太陽活動の極大期にあらわれる巨大黒点にもとづくものであろうから、似たような神話は、他の地域にもみられる。
ところで、紀元前に著作された中国の古典には、特に三本足と書かれているわけではないので、二本足の普通の烏であったに違いないが、のちに古典を注釈する学者たちが、奇数を重視する易の影響をうけてか、太陽に住む烏は三本足だと主張するようになり、図像でも、三本足の烏が描かれるようになった。時期的には紀元前後、即ち、2000年ほど前のことであり、現在では、誰もが太陽に住む烏は三足烏だと考えるにいたっている。
岡山中学の校旗では、この中国の伝説がそのまま図式化された。いや、正確に言えば、僅か違う。校旗の烏はうずくまっているのではなく、飛翔しようとしているからである。校旗の作製にあたっては、したがって、烏城を校地としているから、烏をシンボルとしたという単純なものではなく、烏城から金烏城、金烏から太陽、そして太陽に住む三足烏という連想が働いたとみられるのである。
この校旗の烏を八咫烏だという説をなす者もあるが、校旗が作製された時点では、中国文化の影響が主流であった。八咫烏は、イワレヒコ(神武天皇)が紀州から大和に侵入しようとして、熊野で前進を阻まれたときに、アマテラス(天照大神)が派遣した烏で、イワレヒコの軍を先導したと記紀にある。八咫とは大きいという意味。三本足とは書かれていないにもかかわらず、誰もが三本足というのは、これも中国の影響である。八咫烏は太陽神アマテラスのお使いであり、熊野那智大社の扇祭では、神官が八咫烏帽を被って、八咫烏になりかわって神事を執り行なうというように、背後に太陽信仰が見えることは言うまでもないが、前述のように図像的には、本校の校旗は、日本神話よりも、中国の直接的な影響をうけている。
もう一つは、旧制岡山中学校(後の朝日高校)の構内に、県立夜間定時制中学として設立された烏城高校。現在は移転して、昼間部・夜間部を設置する定時制高校となっています。以下はHP記事です。
校章のいわれ
校章には烏城の名に因みカラスが図案化されています。三本足のカラスの神話は日本にも中国にもあります。
中国の伝説では三本足の烏は太陽に住む鳥だと伝えられています。また、日本の神話では神武天皇東征の時、
熊野から大和へ入る険路の先導をした「八咫烏」(やたがらす)が三本足のカラスであったと言われています。
昔からカラスは大変頭の良い生き物として、人間と深い関わりを持った鳥でした。
烏城高校の校章は、太陽に住む三足烏がまさに飛び立とうとする姿を図案化したものです。
この八咫烏の「八咫」は大きいという意味があるようです。
ところで、続いては、同じく「八咫」がつく「八咫鏡(やたのかがみ)」のおウワサになります。
上は、裁判官や裁判所の職員が身につけているバッジだそうです。銀色に輝く八角形の鏡の中心に、「裁」という文字が白く書かれています。八咫鏡をかたどったものだそうで、鏡には「真実をくもりなく映し出す」という意味が込められているのだそうです。
4年前に書いたこの記事でも、八咫鏡についても、ちょっとだけ触れました。
ギョメイギョジにまつわる漫ろ言
皇位継承のシンボルたるところの「三種の神器」=八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・草那芸(草薙)之大刀(くさなぎのたち)のうち、勾玉と剣を合わせて「神璽・宝剣」といい、たとえば「大鏡」のこんな記述などによっても、天皇のアイデンティティを証明する絶対的な存在として扱われていたことが窺われます。
花山天皇の出家(大鏡)
【原文】 あはれなることは、おりおはしましける夜は藤壺の上の御局の小戸より出でさせたまひけるに、有明の月の明かかりければ、
「顕証にこそありけれ。いかがすべらむ」と仰せられけるを、「さりとて、とまらせたまふべきやうはべらず。神璽・宝剣わたりたまひぬるは」と粟田殿のさわ
がし申したまひけるは、まだ帝出でさせおはしまさざりけるさきに、手づからとりて、春宮の御方にわたしたてまつりたまひてければ、かへり入らせたまはむこ
とはあるまじく思して、しか申させたまひけるとぞ。
さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月のかほにむら雲のかかりて、すこしくらがりゆきければ、「わが出家は成就するなりけり」と仰せられて、歩み出でさせたまふほどに、弘徽殿の女御の御文の、日頃破り残して御身も放たず御覧じけるを思し召し出でて、「しばし」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、粟田殿の「いかにかくは思し召しならせおはしますぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうでなむ」と、そら泣きしたまひけるは。
天の岩戸に隠れた天照大神の前に、彼女よりも貴い神がいるように見せるために差し出され、姿を写した鏡が八咫鏡だと伝えられています。
実物の八咫鏡は、伊勢神宮に納められ、形代(かたしろ)=レプリカが代々の天皇のもとに置かれたと言われます。
源平の合戦の際、三種の神器は、西へ西へと追われて逃げる幼帝安徳天皇とともにありましたが、ついに壇之浦の戦いで、安徳天皇とともに海中に沈んだとされます。
源氏は、水没した八咫鏡(形代)と八尺瓊勾玉(実物)を回収することに成功しましたが、草薙剣(形代)は見失ったままだとされます。
その形代の八咫鏡は、現在、皇居に安置されていることのなっていますが、それではこれはどういうことなのでしょう?
ネット上にもいろいろな情報が載せられています。
なかでも、下関市の赤間神宮に建てられているという石碑に興味深い記事があります。
碑文
維時昭和33年4月7日赤間神宮に畏くも天皇皇后両陛下行幸啓御参拝の事あり是より恰かも百日目の7月13日岡山県英田郡作東町土居新町居住の元国鉄美作河井駅長たりし春名義雄氏は予ねて郷土史研究家として知られ地元妹尾家文書系図等調査中三種神器の一つ八咫鏡の埋蔵文化財の存在を知るに及ぶや正規の手続を経て土地の伝説たりしを現実に発掘するに至る春名義雄氏は此年9月13日安徳天皇御入水の地下関壇の浦に鎮座する赤間神宮大前に奉還を誓いしに地元住民の一部より八咫の鏡所有権確認請求訴訟を提起される等紆余曲折すること二十有余年即ち昭和53年其の一切を竟り来る昭和60年5月安徳天皇八百年先帝大祭を迎うるに当り斯くも生涯を賭したる春名氏の至誠一貫の精神を永代顕彰せんとして謹しみて其由来を明らかにするものなり 昭和59年12月吉日
赤間神宮宮司 水野久直 記
要約すると、昭和33年、岡山県英田郡作東町(現美作市)土居新町に住む春名義雄氏が、地元旧家の文書の記述を頼りに、埋蔵されていた八咫鏡を発掘し、安徳天皇入水の地にある赤間神宮に奉還したものだと言います。地元住民の一部から、八咫の鏡の所有権をめぐって訴訟がおこされるなど、紆余曲折があった事も記されています。
ネット情報を頼りに補足しますと、安徳帝は、近くに仕えていた妹尾太郎兼康に鏡を手渡し、平家再興を託した。兼康は備中美作国に落ち延び、旗揚げの機会を待ったが果たさず死んだ。 兼康の末裔に当たる妹尾登代根さんは、鏡の隠し場所をしるした古文書を持っており、このことを郷土誌で知った春名さんは、鏡の隠し場所が岡山県英田郡作東町、その名も“天皇谷”と呼ばれる山中であることを登代根さんから聞き出した。
発見した鏡をどうするか、いろいろな意見が交錯したが、町民大会では、発見者の春名氏に一任することになり、春名氏は安徳帝最期の地である赤間神宮に奉還することになった。
しかし、妹尾さんは、鏡の所有権が、妹尾太郎兼康の子孫である自分に属するとして「八咫鏡所有権確認請求訴訟」を岡山地裁に起こすなど、紆余曲折があったそうです。
一説には、妹尾兼康は木曽義仲軍に敗れた平清盛の家臣で、壇ノ浦の時には生きていないので、鏡に関与できるはずがないともいい、また、兼康ではなくてその子か孫であろうとも言います。
また、まったく趣の異なる意見として、「美作後南朝」と関連づける説などもあるようで、興味が広がります。
イチローさんによると、先日メガソーラーを案内してくださった岡本さんのお父さんが、八咫鏡にお詳しく、面白いエピソードもたくさん知っておられる由。これまた興味津々です。
今日の付録。
スーパーの鮮魚コーナーでパートをしているバアバが、またまた見つけてきました。ヘイケガニです。三種の神器の行く末を目撃しているでしょうか?
保育園児が、昨日からお熱です。
熱冷ましの冷却シートと、いかついマスクで、なにやらアニメのキャラクターのようです。
退屈しのぎに百円ショップに粘土を買いに行き、バアバとママと三人でアンパンマンをつくったそうです。
今日はこれにて。
ねえ君 不思議だと思いませんか、の巻 [折々散歩]
9月1日は防災の日。
以前この記事で寺田寅彦の「天災は忘れた頃にやってくる」ということばを話題にしました。
災難は忘れた頃か秋の雨
今日は9月1日。震災忌=1927年の関東大震災の発生日にちなんで、「防災の日」に制定されたのは1960年。子どもの頃は、新学期の登校日の校長訓辞などで、「二百十日」という節季も教わり、台風の災厄への備えを説かれたものでした。
「天災は忘れた頃にやってくる」という警句もその頃教わったと思います。
これは、物理学者の寺田寅彦の言葉と伝えられていますが、著書・著作等にその証拠は確認できないとも言われているそうですね。自身、関東大震災に遭遇し調査も行うなど、地震、火災など災害の根本原理を科学的・合理的態度で解明しようとしたこの人なら、と頷ける伝承ではありますが。
寺田寅彦は、熊本第五高等学校で夏目漱石に英語を習い、後に東京帝国大学の学生時代以来、漱石の自宅に集う「木曜会」のメンバーとして、門下生の一人に数えられています。漱石の「吾輩は猫である」で、苦沙弥先生の弟子としてしばしば登場する、気鋭の理学士水島寒月が、寺田寅彦をモデルとしていることも、よく知られています。
私は中学時代、この作品を洒脱なユーモア小説として読みました。漱石のもつ文明観や人間観の重さや苦さについては、とうてい思い至りもしませんでしたし、細かなデティルもすっかり薄らいだのですが、この寒月君の颯爽とした好男子でありながら、きまじめに「首縊りの力学」などに没頭している様や、甘い物好きで虫歯に苦しんでいる様などに、何かミスマッチなおかしさを覚え、印象に残っています。
忘れもしないうちにまたまた台風直撃。さんざんの日本列島です。山土が削り取られて丸裸のメガソーラー用地。心配でたまりません。
ところで、先日の高知行きで、この写真を撮りました。
寺田寅彦の像。今年の7月、母校の追手前高校の前に建てられたばかりだそうです。
「ねえ君、不思議だと思いませんか 寺田寅彦」と、刻んであります。
寺田寅彦が、口癖のように学生に向かって語りかけた言葉だそうです。
この言葉を表題にし池内了さんの本が好評です。私たちがつい当たり前だとして見過ごしてしまう事柄であっても、よくよく考えれば何故そうなのかがわからないことが多くあり、それに気づくことが科学の一歩だ、ということですね。
その9月1日は、この講演会を聴きに行ってきました。
概要はこちら.
「三歳児までは、母親が育てるのがよい」「子育ては、家庭・特に母親の責任」という社会風潮・規範・常識は、実はあたりまえではなかった、というオハナシ。スリリングでした。
今日はこれにて。
今日もメガソーラーを考えてみる、の巻 [折々散歩]
直感的に「いやだなあ」と思っただけで、本当に忌むべき事なのかどうか?このメガソーラー計画について、改めて立ち止まって考えてみる必要はあると思います。
現在の人間の力では制御不能であることが実証された原発は、少なくとも、地震、津波、火山、台風、豪雨、洪水、土砂災害などなど、未曾有の自然災害と隣り合わせの我が国においては、もはやエネルギー源としては、一刻も早く脱却すべきことはあきらかです。
一方、地球温暖化の進行が、昨今の異常気象・気象災害をもたらす因の重要な一つとなっていることも無視できません。CO2の削減は、人類の未来にとって至上命題であり、化石燃料を用いる火力発電への依存を続けることは許されません。
そうしたもとで、太陽光発電を含む再生可能エネルギーの普及が緊急切実な課題となっています。
それを踏まえた上で、メガソーラー計画をめぐる懸念点を、思いつくままに挙げてみます。
何よりいたたまれないのは、美しく懐かしい故郷の自然の景観が大きく壊されること。これは前回掲載の写真によって一目瞭然でしょう。
しかし一方では、センチメンタルな私的感情でメガソーラーに反対する態度は、公益につながるクリーンエネルギーの普及を妨げるものだ、という論も聞こえて来そうです。反原発は、CO2の削減に水を差すものとの論も、まことしやかに語られるワケですから。
確かに、公共の利益のため、つまり世のため人のためには、センチメンタルな個人的感情はある程度抑えて、巨視的立場に立つべきだ、という意見が成り立つ場合も、時にはあり得るかも知れません。
でも、一瞥しての直観が、理屈を超えて正しく真理をとらえている場合も、しばしばあることです。削り取られ、切り崩された山々と、根こそぎ抜き取られ切りさいなまれた緑の樹木の、低いうめき声が、耳を澄ませば聞こえてくるではありませんか。
聞くところによれば、ソーラーパネルの製造には水酸化ナトリウムやフッ化水素酸などの腐食剤が使用され、大量の水や電力が消費されるため、決して環境に優しくないという一面も指摘されているとか。また、地球上にわずかしか存在しないレアメタル(希少金属)を大量に必要とするそうですが、耐用年数を過ぎたパネルは、まだリサイクルの技術が確立されておらず、ゴミとして廃棄されるしかないようです。
ソーラーパネルの寿命は、一説には10年とも15年とも聞きます。日進月歩の技術発展のもとでは、もっと低コストで効率的な発電技術があらわれる可能性もあり(いやほぼ確実にあらわれると予想されます)、耐用年数を待たずに廃棄・更新が迫られるかも知れません。なお継続的に発電事業が安定的に継続できるかどうかによっては、10年.15年とは言わないまでも、早晩、事業からの撤退と言うことも十分なり得ます。
先日見学してきた「作東メガソーラー」を手がけるのは「パシフィコ・エナジー」という外資系企業だそうです。ここにかぎらず、全国で怒濤のようにメガソーラー事業に参入しつつある企業のかなりの部分が外資系企業に占められていると聞きます。
根拠なく外資系企業への偏見を煽るつもりはありませんが、住民の願いや幸せよりも、企業利益が優先されるのでは?との危惧は、拭うことができません。何かトラブルが生じたり、企業業績が思わしくないような場合には、何の未練もなく事業を放棄しておさらばしてしまうと言った例もありがちです。
緑がごっそり削り取られたはげ山と、不毛の廃墟だけが子孫に残される、----こんな悪夢が、正夢とならないように祈るばかりです。
感情的・直観的な反対論では説得力に乏しいとおっしゃる向きには、住民運動の中から生まれた、このような具体的な議論をご紹介させていただきます。岡山市の足守(あしもり)地区で繰り広げられているメガソーラー建設計画に反対する大井地区連合町内会のHP からの引用です。
岡山市大井地区連合町内会メガソーラー建設反対特設サイト
私たちは土砂災害・水害の危険を増大し、自然環境・生活環境を破壊するメガソーラーの建設に断固反対しています現在、岡山市では、東京の太陽光発電開発事業者により、大規模なメガソーラーの建設が計画されています。
186ヘクタールという、東京ドーム39個分の森林を伐採して土を削り、約28万枚の太陽光パネルを設置する計画です。業者提供の計画図をもとに、当連合町内会が独自に作成
上の図の白い部分はパネル設置場所、赤い部分は法(のり)面になる場所
画像をクリックすると拡大しますこの太陽光発電所が建設されてしまえば土砂災害や水害の危険が増大します。
また、森林が徹底的に破壊され、さらに太陽光パネルの反射光や輻射(ふくしゃ)熱の被害も受け、生活環境がひどく悪化します。
私たちはこのような、民家のすぐ近くに建設されようとしている大規模メガソーラーを決して容認することはできず、断固反対しています。
さまざまな問題点
土砂災害の危険が増大する
太陽光発電所計画地の直下流域は、多くが土砂災害警戒区域になっています。
現在はコナラなど地下数メートルの深さまで根を張る「深根性」の樹木が優勢であり、地盤を支えていますが、発電所建設のために樹木が伐採されたら、伐採された木の根は腐り、地中に空洞が出来て土砂崩れが起こりやすくなります。
土砂崩れが起きれば、家屋が土砂の下敷きとなり、住んでいる人が死亡する恐れがあります。水害の危険が増大する
森林に降った雨は、数日間続く大雨でもない限り一度に大量に流れ出ることはありません。地中に浸み込んだり、樹木が吸い込んだり、葉によって蒸散するからです。
しかし、森林を伐採して太陽光パネルを大規模に設置すると、地面の不透水地率が飛躍的に上昇し、雨水の流出量が増大します。
また、樹木が無くなると、樹木が吸収していた水が吸収されなくなるので、水の流出量が増大します。
大規模太陽光発電施設には貯水池(調整池)を作ることは義務付けられていますが、想定を超える大雨が降った場合、貯水池の容量を超えてしまえば、超えた分の水は川に流れることになります。
各地で異常な集中豪雨が発生している現在、広範囲な森林の伐採は危険です。
(中略)川の水質が悪化し、ホタルの生息に悪影響が出る恐れがある
(中略)
火災が起きた際、消火が難しい恐れ
太陽光パネルは発電を停止することが出来ません。たとえ送電ケーブルを切断しても、太陽光パネル自体は、太陽光が当たっている限り発電を続けてしまいます。
漏電やショートなどが原因で火災が起きた場合でも、発電を停止することが出来ませんので、火災が大きくなってしまう恐れがあります。実際、太陽光パネルが原因の火災は、わりと起きています。
また、発電を停止することが出来ませんので、消火活動を行う人が感電する恐れがあります。 たとえば火力発電所で火災が発生した場合、消火活動を行う前に発電を停止します。消火活動を行う人が感電するのを防ぐためです。しかし、太陽光パネルでは、それが出来ません。実際、太陽光パネルが原因の火災で消火活動をしていた人が感電した例があります。(こちら、こちら)
メガソーラーは火災の危険があり、また、火災が起きた際には結構危険なのです。
「ホタルの里」としての特長を持つ足守地区だけに、「ホタルの生息地」という点だけは多少の違いがあるかも知れませんが、そのほかの点ではそのまま作東地区のメガソーラー計画にもあてはまる問題点だと思われます。
話変わって、美作土居駅広場に掲示してあったこの看板。
右端の方に気になる表示がありました。
トリミングしてみます。
「八咫鏡発掘地跡」という表示です。
「ここ行ったことあります?」と、イチローさんに尋ねると、「あるよ」とのこと。ちょっと興味がわきましたが、メガソーラー見学の目的を優先する日程上、寄り道は遠慮しました。ところが偶然、昨日(9月1日)たまたま通りかかることになりました。
施設に入っている伯母(母の姉)が、転倒骨折のため、兵庫県佐用町にある病院に入院中であるため、父母とともにお見舞いに行って来ました。行きは、伯母の家(母の実家)に近い杉坂峠を経由して、帰りは万能峠を通って県境越えました。
杉坂峠は、かつては播磨(兵庫県南西部)と美作を結ぶ交通の要所で、鎌倉時代には関所が置かれていたそうです。元弘の変の失敗で隠岐に流される後醍醐天皇もこの峠を護送されたとされています。
ウィキペディアには、児島高徳についての記述にこうあります。
高徳は、播磨・備前国境の船坂山において、一族郎党二百余騎で佐々木導譽ら率いる五百騎の天皇護送団を強襲、後醍醐天皇の奪還を画策するが、天皇一行の移動経路誤判によって失敗に終わる。
高徳は天皇一行を播磨・美作国境の杉坂まで追うものの、その時既に天皇一行は院庄(現在の岡山県津山市)付近へ達しており、完全な作戦失敗の前に軍勢は雲散霧消してしまった。
その際、高徳ただ一人が天皇の奪還を諦めず、夜になって院庄の天皇行在所・美作守護館の厳重な警備を潜り侵入する。やがて天皇宿舎付近へ迫るも、それまでの警備とは段違いな警護の前に天皇の奪還を断念、傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けたという。
因みに、朝になってこの桜の木に彫られた漢詩を発見した兵士は何と書いてあるのか解せず、外が騒々しい為に何事か仔細を聞いた後醍醐天皇のみこの漢詩の意味が理解できたという。
このように、かつては杉坂峠を越えていた出雲街道は、関ヶ原の戦い後、津山に入った森蘭丸の弟森忠政によって整備され、少し南の万能峠=万の乢(たわ)越えに変えられたそうです。
その万の乢を、兵庫側から美作側に越えてすぐのところに、この「八咫之鏡発掘之地」の看板はありました。
今日はここまで。
次回に続くかも?