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冷や汗も恥も掻き捨てひとりたび、の巻 [折々散歩]

旅の恥のエピソードはまだ収まりません。

高知旅行二日目。目覚めた頃は、早や、なかなかの暑さです。

この旅、往路はJRを使いましたが時ならぬ混雑で、特急自由席は、立ち客が大勢ありました。帰りは始発列車に乗れば座れるはずという判断の余裕もなく、羮に懲りて膾を吹くことにして、高速バスを使うことにしました。

前日の散歩の途中、はりまや橋前の、あのからくり時計があるデンテツターミナルビルで、高速バスの予約チケットを購入しておきました。日本母親大会の影響でしょうか、夕方の便は満席で、午後の早い便を予約することにしました。

半日の間、ゆっくり土佐観光を楽しむことにして、まずは朝食前に高知城あたりをひと歩きしてこようかと、軽装でホテルを出発。

朝日のもとでの高知城が美しいです。

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前日も探して見つからなかった、浜田波静の句碑を探し当てたいのが。一つの目的。マップによると「杉の段」にあるというのですが、「杉の段」がわかりません。

杉の木が生えているここ?

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石碑は見つかりません。

こんな出会いはありましたが、、、、。

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歩けど歩けど、それらしいものに行き当たりません。

暑さに耐えられず、途中、一枚シャツを脱いで、Tシャツ一枚に鳴って歩いたのですが、もう潮時、ホテルに引き返すことにしました。

見納めに、お堀のスイレンを撮影。

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「国宝高知城」の表示がある正門近く。

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野中兼山邸跡の碑が建てられている近くのお堀です。

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こんなトンボがいました。

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見慣れたウチワヤンマのようですが、少し小型のような気もします。高知だけにコウチワヤンマ(小団扇ヤンマ?)かなと気に掛かりました。あとで調べてみると、どうやらタイワンウチワヤンマのようですね。

おしりのうちわの部分のアップです。

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以前近所で写したウチワヤンマとは、やっぱり形状が違いますね。

【旅の恥 極めつけ】

こんな写真を撮れたからまあいいか、と満足してホテルに向かう途中、はたと気づきました。シャツのポケットに入れていたはずのホテルの部屋のカードキーがない!慌てて、バッグの中もひっくり返して探してみますが、見当たりません。これは、城歩きの途中、シャツを一枚脱いで、しばらく手に持って歩いていました(そのあとバッグの中に入れました)が、その時に落としたに違いない。と思い当たりました。

ほとんどホテルの近くまで帰っていましたが、もう一度歩いた道を引き返し、カードキーを探して歩いたのでした。
でも、お察しの通り、見つかりませんでした(トホホ)。
仕方ない、正直にフロントに訳を話して、処理してもらおう、とすごすごとホテルに引き返したのでした。

結果、再発行料1000円で、カードを再発行していただき、ようやく部屋に入ることができました。冷や汗まじりの汗びっしょりの早朝散歩となりました。

すっかり意気消沈して、心に描いていた観光もそこそこに、帰りのバスの予約を早い便に切り替えてもらって、早々に帰途についたのでした。とんだオソマツ。

【余禄】

カード探しの途中、杉ノ段という案内板を見つけました。

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説明部分をクローズアップします。

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確かに、浜田波静の句碑はこの辺りにあるはずです。

あたりを探ってみると、石碑らしいものはこれかな?

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近寄って、刻まれている文字を確かめようとしても、判然としません。半信半疑のままその地をあとにしました。

【後日談】

後日、ネット上にコチラの記事を見つけ、大いに教えられました。写真を見ると、どうやら同じ石碑のようですね。

高知城杉ノ段に、浜田波静(はまだはせい)句碑があります。
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仁和寺は鼎(かなえ)に古里て頭巾可那(かな)
この句碑は、昭和6年(1931)4月4日、青眼林同人によって建立されたもので、除幕式には俳誌『ホトトギス』主宰の高浜虚子(1874~1959)も出席しています。
この句は『徒然草』第53「是も仁和寺の法師・・・」から発しています。かつて京都仁和寺の僧が宴席で鼎(三本足の金属製の容器)を頭にかぶって踊ったところ、その姿が面白くやんやの喝采を受けました。ところがあとでこれが抜けなくなって大騒ぎとなり、とうとう医者にまで行きましたが抜いてもらえず、死ぬよりはましと無理矢理に引き抜いたところ、耳や鼻に大けがをし、寝込んでしまったという話です。
近頃は仁和寺の坊さんも鼎をかぶることをやめて、みんな頭巾をして行き来しているよ、といった意味の、冬の季語「頭巾」を題材とした愉快な句です。
浜田波静は現南国市前浜出身、明治3年(1870)生まれ、16歳の頃から俳句をたしなみ、慶応義塾在学中正岡子規(1867~1902)の指導を受けました。高知市で書籍商のかたわら、明治32年(1899)俳句仲間と土佐十七字会を始めました。波静ははじめ子規門下にあって活躍しましたが、のち河東碧悟桐(かわひがしへきごと・1873~1937)の新傾向俳句に進み、同派の立役者と知られました。大正12年(1923)2月27日没。54歳。



そう言えば「徒然草」の52段では、同じく仁和寺の僧が、早とちりをして失敗するオハナシがありましたね。その教訓は「先達はあらまほしき事なり」でした。

先達はありがたきものなり、の巻

の記事を、そのまま一部再掲することにします。

『徒然草』 第52段 「仁和寺にある法師」を引いて、戒めとしたいと思います。

(原文)
仁和寺(にんなじ)にある法師、年寄るまで、石淸水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。極樂寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比(としごろ)思ひつること、果たし侍(はべ)りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」と言ひける。
すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。
(地方語訳)
仁和寺におるお坊さんが、年をとるまで石清水八幡宮をお参りしたことがなかったもんで、情けなく思えて、ある時決心して、たった一人で歩いて参詣したんじゃと。ふもとの極楽寺(ごくらくじ)と高良(こうら)神社を参拝して、「これで全部じゃ」と思い込んで帰ったそうな。そして、傍らの坊さん仲間に向って、「長年、心に思っていたことを果たしましたわい。八幡様は、聞いておった以上に、尊くていらっしゃいましたぞ。それにしても、お参りする人という人が、みんな、山へ登っていったのは、何事があったのかしらん?気がかりには思うたけれど、八幡様にお参りすることがもともとの目的であるからと思うて、山上までは見なかった。」と言うたそうな。
小さなことにも、案内者は欲しいことじゃのう。

きょうはこれにて。


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