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幽かな糸がつながった?の巻(その3) [折々散歩]

脳内細胞の途切れそうな細い糸が、辛うじて幽かに繋がったという話題を書きたいのですが、なかなか本題にたどり着きません。


前回までの記事の続きです。


「相棒劇場版4」のトラック島のエピソードについて、史実に反するというコメントを、ネット上の書き込みにいくつか見受けます。日本軍の部隊が早々と撤退して、民間人だけが取り残されて米軍の攻撃にさらされて逃げ惑ったというのは虚偽で、軍もろとも殲滅の悲劇を被ったのだから、日本を恨むのはお門違い、と言ったような主張も目にします。


でも、NHKの戦争証言アーカイブスというサイトにトラック諸島消えた連合艦隊という番組が収められており、先日の瀧本さんの証言と照らし合わせても、軍主力は米軍の攻撃を察知して撤退し、あとに残された部隊と軍属、民間人が壊滅的な打撃を被った、というのが真相だと教えてくれます。


https://www3.nhk.or.jp/das/r/image/D0001210/D0001210051_00000_S_004.jpg


番組内容の紹介記事を引用しておきます。


太平洋のほぼ中央に浮かぶトラック諸島。巨大なサンゴ礁に囲まれ大小200余りの島々が点在している。大正8年(1919年)に日本の委任統治領となり、民間人や軍人・軍属など約2万人の人々が暮らすようになっていた。島には町が作られ、病院や小学校、映画館や料亭までが立ち並んでいた。

昭和17年8月、連合軍の本格的な攻勢が始まると、日本軍は連合艦隊の拠点を日本国内から前線に近いトラック諸島に移す。来る決戦に備え、戦艦大和など連合艦隊の主力が集結し空母機動部隊が島を拠点に作戦を開始した。

しかし連合軍の攻勢の前に日本軍は各地で敗北を重ねた。米軍は昭和18年11月、トラック諸島の東にあるギルバート諸島を攻略、翌19年にはマーシャル諸島にも手をのばした。ラバウルの航空隊も度重なる空襲で大きな損害を受けていた。

昭和19年2月10日未明。連合艦隊の主力15隻がトラック諸島を離れた。連合艦隊司令部はトラックを拠点とした決戦は時期を逸したと判断。体勢を立て直すため作戦を変更したのだ。その際、物資や燃料を運ぶ多くの輸送船がなぜか残された。

2月17日早朝、2日間にわたるトラック大空襲が始まった。空襲開始から2時間足らずで航空部隊は壊滅。次に標的にされたのは、ほとんど防備を持たない輸送船だった。この空襲で、日本軍が出した損害は、輸送船31隻、艦艇10隻、航空機279機。死者は2000人以上にのぼった。

連合艦隊の拠点としての機能を失ったものの、トラック諸島が米軍の基地として利用されることを怖れた大本営は、多くの将兵を送り込んでいく。戦況が悪化し補給が絶たれると兵士たちは自給自足を余儀なくされた。トラック諸島では終戦までに、5000人にのぼる将兵や民間人が餓えや病で命を落とした。


1944年2月の大空襲後にも、この島に次々と将兵を送り込むという愚行。正気の沙汰ではありません。


そういえば、その遅れて送り込まれた将兵のひとりが金子兜太さんでした。日経新聞の記事から引用します。


俳人・金子兜太氏 「戦争の悪」と「人間の美」詠む(戦争と私)
戦後70年インタビュー 2015/8/15 2:00

――戦地での印象深い出来事を教えて下さい。

金子兜太(かねこ・とうた)氏 埼玉県生まれ。東京帝大卒。戦後は日銀に勤務しながら社会性を重視した前衛的な作品を相次いで発表。現代俳句協会名誉会長。95歳。

「1944年3月に着任したとき、半月前の空襲でやられた施設が真っ黒な残骸をさらしていました。飛行艇で着いたのが夕方だったので、よけいに黒く見える。海の深いところには貨物船や軍艦が沈んでいて、これはもう駄目だなと思う光景でした」

「戦況が悪化すると、トラック島では武器も弾薬も補給できなくなる。そこで、工作部が手りゅう弾を作って実験するという事があり、これが私の戦争に対する考えを一変させました」

「実験は兵隊ではなくて民間人の工員にやらせました。失敗して工員は即死、指導役の落下傘部隊の少尉が心臓に破片を受けて死にました」

「心に焼き付いたのはその直後のことです。10人ほどの工員たちが倒れた仲間を担ぎ上げ、2キロ離れた病院へ走り出した。腕が無くなり、背中は白くえぐれて、死んでいることは分かっています。でも、ワッショイワッショイと必死で走る。その光景を見て、ああ人間というのはいいものだとしみじみ思いました」

「ところが落下傘部隊に少尉の死を知らせると、隊長の少佐以下、皆笑っているんです。彼らは実戦を通じて死ぬということをいくつも体験してきた。だから死に対して無感動というか、当たり前なんですね」

「工員たちの心を打つ行動があって、今度は死を笑う兵士がいる。置かれた状況が人間を冷酷に変えるんです。戦争とは人間のよさを惜しげも無くつぶしてしまう酷薄な悪だと痛感しました。あの出来事は私にとって衝撃であり、今から思えば収穫でもあります。あれ以来、戦争を憎むという姿勢は一貫しています」

(中略)

――捕虜生活の後、日本に帰還しました。

「餓死者を出した、これは主計科の士官として仕事を全うできなかったということです。若くて元気のいいアメリカの海兵隊を見て餓死した人のことを思い出しました。筋骨隆々としていた人がだんだんやせ細って最後は仏様のような顔になって死んでいった」

「『水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る』は餓死した人を思いながら、船尾から遠ざかる島を見ていたときに作った句です」

――戦争の記憶が薄れるなかで、文学が果たす役割とは何でしょう。

「本気で作った五・七・五は力を持っている」と語る金子氏

「本気で作った五・七・五は力を持っている」と語る金子氏

「トラック島の記録を作ることが死者をとむらうことになる、それができるのは散文の小説やドキュメンタリーで伝えることだと思っていました。実は結構、書いているんですが、恥ずかしくて駄目。美文調で、青年の客気が露骨に出てしまっていて。これでは戦争の悪なんか伝わるわけがない。自分で決めて永久に葬りました」

「一方で、俳句にはかなり強い伝達力があることを今ごろになって感じます。本気で作った五・七・五は力を持っています。私には『こんなに悪い戦争があって、自分はそれに参加したのだから、俳句を作る資格はない』と消極的になってしまった時期がありました」

「そうではなくて『これほど悪いんだから全力で俳句を作って、俳句で戦争の記録を残していくんだ』という割り切り方ができたら良かったのかもしれません。それができなかった。今でも後悔が残りますね」

――これからの創作に向けての意欲は。

「95歳という年齢に制限される面がありますが、ビビッドで伝達力のある前衛性の高い俳句を作りたい。東日本大震災の映像を見て『津波のあと老女生きてあり死なぬ』という句ができました。戦争の悪と同時に人間はそう簡単に死なないものだと伝えたい。人間には強さがあるぞ、その強さを生かしていこうじゃないかとね」

(聞き手は社会部、稲沢計典)


在りし日の金子さんの思いを、噛みしめながら読みました。


金子さんについては拙ブログでも何度か話題にしていて、トラック島の体験についても触れてはいたのですが、その記憶が薄らいでしまっていました。たとえばこの記事。↓


金子兜太さんを悼む、の巻


特に感慨深い部分を、ちょっと引用しておきます。


最後に「日刊ゲンダイ」のこんな記事も目に止まりました。

反戦平和への思いを込めた多くの句を残し、安倍政権が強引に進めた安保法に反対する運動のシンボルとなったプラカード「アベ政治を許さない」を揮毫した俳人の金子兜太さんが20日、急性呼吸促迫症候群のため埼玉県熊谷市の病院で死去した。98歳だった。葬儀は近親者のみで営む。
(中略)
16年5月の本紙インタビューでは、安保法反対プラカードの揮毫について「『アベ政治』をカタカナにしたのは、こんな政権に漢字を使うのはもったいないから」と話し、「アベとかいう変な人が出てきたもんだから、私のようなボンクラな男でも危機感を痛切に感じるようになりました」などと政権を痛烈批判していた。


安らかにお眠りください。アベ政治は,国民の理性の力で、必ず成敗しますから、、、。


幽かな糸は、まだまだ繋がりきってはいません。次回に続きます。


【今日の付録】


児島湖畔を歩いてみました。蒸し暑い日が続きます。


kenko400mmミラーレンズf8.0を持って出たのですが、散歩中、めぼしい鳥には出会いませんでした。


カルガモです。


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スズメかと思ったら、オオジュリン?


さすがに遠すぎます。


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トリミングしますが、鮮明とは言いがたいです。



ピンクのアカママ(イヌタデ)の花?


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モンキチョウ。


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曇り空のせいもあって、色彩も鈍くぼんやりしています。もう少し光量があったら、ましな写りが期待できるでしょうか?


こちらはOLYMPUS E-PM1+Lumix1:2.5/14asphによる広角写真。


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またまた、玄関前の朝顔です。


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【追伸】


安室奈美恵さんの引退と、樹木希林さんの逝去。残念です。


安室さんについては、世代も違うのでほとんど知りませんが、翁長さんの逝去に当たってのコメントには心を打たれました。


《安室さんのコメント全文》

翁長知事の突然の訃報に大変驚いております。

ご病気の事はニュースで拝見しており、
県民栄誉賞の授賞式でお会いした際には、お痩せになられた印象がありました。

今思えばあの時も、
体調が優れなかったにも関わらず、
私を気遣ってくださり、優しい言葉をかけてくださいました。

沖縄の事を考え、沖縄の為に尽くしてこられた翁長知事のご遺志がこの先も受け継がれ、
これからも多くの人に愛される沖縄であることを願っております。


心から、
ご冥福をお祈り致します。


が亡くなりました。


樹木希林三位ついては、この記事でちょっとだけ触れたことがありました。


7人目の孫、の巻


たくさんの追悼記事の一つとして、@niftyニュースのこの記事が心に残りました。一部を引用して、改めてその独自の生き方を偲びたいと思います。

予感はしていたが、実際に訃報に接すると、大きな衝撃と喪失感を感じざるを得ない。

 それは彼女が役者として唯一無二の存在感を発揮していたからだけではない。日本的な同調圧力に屈せずに自分のペースをつらぬく生き様や語り口が私たちに勇気を与えてくれていたからだ。

 また、樹木は芸能界で「政治的」と忌み嫌われるジャンルに踏み込むことも厭わなかった。その典型が、2015年に東海テレビで放映された『戦後70年 樹木希林ドキュメンタリーの旅』だろう。

 樹木はこのドキュメンタリーでナビゲーター役を務め、残留孤児、原爆、特攻隊、沖縄戦など戦争の悲惨さについて、真剣に迫っていた。

 たとえば、残留孤児をテーマにした回では、笑福亭鶴瓶と対談。樹木が「(戦争は)人間の世界で止めることができるはずなのに、そりゃ止めなきゃいけないですよね」と言うと、鶴瓶が「当たり前ですやん。そんなこと……なんのための戦争なんですか? なんのための……意味わからんな、ほんまに」と怒りを滲ませながら、安保法制の問題に自ら切り込む一幕もあった。

「国の言うことを、この歳になって信用したらあかんと思う、60過ぎてね、全部が国の言うことこれ、大丈夫かいなって思うようになるって……」
「いま、法律を変えようとしているあの法律もそうでしょうけど、それも含めて、いまの政府がああいう方向に行ってしまうっていうね、これ、止めないと絶対いけないでしょうね」
「これ、へんな方向に行ってますよ。そら変えなあかん法律はいっぱいあってもね、戦争放棄っていうのはもうこれ謳い文句で、絶対そうなんですが9条はいろたらあかんと思うんですよね」

 また、沖縄をテーマにした回では、辺野古の新基地建設に反対する人びとが集うキャンプ・シュワブのゲート前に現れ、座り込みを続ける86歳のおばあ、島袋文子さんの手を握り、語り合った。

 このこときは、樹木が沖縄の基地反対運動の現場に現れたことが大きな話題になったが、安保法制に賛成する夫・内田裕也は、樹木を批判。ネットでは、内田に同調し、樹木のほうを非難する声も少なくなかった。



今日はこれにて。


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