SSブログ
<

ベートーベンに出会う旅、の巻(その2) [折々散歩]

「板東俘虜収容所」について書いた前回記事にたいして、majyo様からいただいたコメントに、こう返させていただきました。


>板東俘虜収容所の事、ホッとしますね
偏狭な排外主義が必ずしも父祖の伝来の民族的資質というわけではないことを知って、救われる思いがします。
>会津は賊軍として辛いめにあいましたから
まさに同時代の記憶であり、異国の俘虜の身の上も他人事ではなかったのでしょうね。


   館の案内者の方がおっしゃるには、当時の日本にはハーグ条約遵守の姿勢があった点を指摘され、俘虜の扱いにも人道的観点が貫かれたというのです。加えて、板東俘虜収容所の松江豊寿所長の個性や人格も作用して、希有な文化交流の場となり得たようです。


顕彰碑がありました。


OLYMPUS DIGITAL CAMERA


ところで、「ハーグ条約」について確かめようと思いましたら、同一名の条約がたくさんあるのですね。現在ホットなものは↓これかも知れません(ウィキペディアから引用)。


  • 航空機の不法な奪取の防止に関する条約 - 1970年締結。「ハイジャック防止条約」とも。
  • 国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約 - 1980年10月25日に採択され、1983年12月1日に発効した多国間条約。

 


数あるなかで、捕虜の扱いに関係がありそうなのは、これでしょうか?同じくウィキペディアからの引用です。


・ハーグ陸戦条約 - 戦時国際法のひとつで、1899年に締結され1907年に改定された。


交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されているが、現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多い。

日本においては、1911年(明治44年)11月6日批准、1912年(明治45年)1月13日に陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約として公布された。他の国際条約同様、この条約が直接批准国の軍の行動を規制するのではなく、条約批准国が制定した法律に基づいて規制される。


捕虜の扱いについての規定は次の通り。


第二章 俘虜

    第4条:俘虜は敵の政府の権内に属し、これを捕らえた個人、部隊に属するものではない。

    俘虜は人道をもって取り扱うこと。
    俘虜の身に属すものは兵器、馬匹、軍用書類を除いて依然その所有であること。

    第5条:俘虜は、一定の地域外に出られない義務を負わせて都市、城塞、陣営その他の場所に留置できる。但し、やむを得ない保安手段として、かつ該当手段を必要とする事情の継続中に限って幽閉できる。
    第6条:国家は将校を除く俘虜を階級、技能に応じ労務者として使役することができる。その労務は過度でなく、一切の作戦行動に関係しないものでなければならない。(詳細略)
    第7条:政府はその権内にある俘虜を給養すべき義務を有する。

    交戦者間に特別な協定がない限り、俘虜は糧食、寝具及び被服に関し、これを捕らえた政府の軍隊と対等の取り扱いを受けること。

(後略)


捕虜となったドイツ人将兵は、それは決して恥ずべきことではなく、「任務の一つ」という認識だったと言います。現に職業軍人には、変わらず給料が振り込みで支払われ、捕虜期間中に昇進した者もある由。民間人捕虜にも、会社から賃金が支払われていたそうです。一定の自由の拘束はあったものの、複数のオーケストラや楽団、合唱団などが定期的にコンサートを開き、演劇、スポーツ、講演、学習などを楽しんだと言います。また、地域住民との交流も盛んで、牧畜・製菓・西洋野菜栽培・建築・音楽・スポーツなど、俘虜たちの進んだ文化や技術を学び取り入れようとする交流が日常的だったと言います。


「生きて虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)と、投降を否定し、軍人に死を強要した軍国主義日本の生命軽視・人権無視の異常性が、思い合わせられずにいられません。そう言えば、 井上ひさしさんの遺作「一週間」が、シベリア抑留の問題をえぐっていました。




一週間

一週間

  • 作者: 井上 ひさし
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2010/06
  • メディア: 単行本



「ハーグ陸戦条規第」二十条には「平和克復ノ後ハ、成ルヘク速ニ俘虜ヲ其ノ本国ニ帰還セシムへシ。」(1910年効力発生)とあり、
「ポツダム宣言」第九項には「日本国軍隊は・・・各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得らしめられるべし。」とあルにもかかわらず、敗戦後も長く50万人超の日本人将兵・軍属が抑留され、極寒の地で強制労働を強いられ、5万5千人もが命を失ったのか?


「一週間」ではこんな記述が出てきます。


この国には、帝政ロシアの時代から、大規模な工事で労働力が必要になると、、収容所を利用する習癖があるらしい。・・・大戦争の後始末にたいへんな人手がいる。そこで戦敗国の捕虜をばっと捕まえた。そして収容所へ放り込んで働かせ、国内各所を整備させる。


 


関東軍司令部の参謀たちは、日本兵士の使役を極東赤軍司令部に申し出たりしているんですからね。・・・「大陸方面においては、ソ連の庇護のもとに、満州朝鮮に土着させ、生活を営むようにソ連側に依頼するも可」・・・これは明らかな棄民でしょう。


 


兵士を凍死させるのは、決まって旧軍の軍体制度をそっくりそのまま捕虜収容所に持ち込んだ部隊である。・・・
各収容所において、ソ連邦から配給された糧食のピンはね、横流しが横行していると聞く。なかにはピンはねした糧食で酒を作っている将校下士官たちもいるという。


大日本帝国が批准したハーグ条約によれば、兵士は捕虜になった瞬間、ソ連邦政府の圏内に入り、旧軍の諸制度は適用されない。収容所に旧軍の諸制度を持ち込んだ将校下士官は国際法違反の罪に問わなければならない。


国際法の規定を知りもしないし守ろうともしない、狭隘な戦争指導者とその手下達の命脈は、いまも権力の中枢を担う方々の髄深く受け継がれているのかも知れないと感じながら、「板東俘虜収容所」の俘虜と職員、土地の人々が織りなした「人間同士」のハーモニーが、いよいよ美しく心に響く思いがしました。


俘虜たちを、その境遇にかかわりなく「ドイツさん」と親しみ、心からもてなす地元の人々の胸奥には、四国八十八箇所のお遍路をねぎらい、無償で茶菓・食事・宿などを提供する「お接待」の風習が根付いているからだと説明され、なるほどと合点がいきました。


ドイツ館の見学を終えて、昼食を摂ったのが、「大鳥居苑」というお店。なんと、四国八十八箇所霊場大一番札所霊山寺の隣にあります。


1311658905_5811


R0017189


R0017206


R0017186



いつものことながら、料理は、食べることに熱心で、カメラを向けることを忘れておりました。美味しくいただきました。


食事のあと、この旅行に同行されていた音楽家小松原さんが、何曲か歌を披露してくださいました。小松原さんについてはこの記事でご紹介したことがあります。


今回も、「運動2割、遊び8割」の、遊びの企画でした。
会場は音楽交差点という、おしゃれな文化施設。


実は、オーナーで「コンダクター」の小松原先生からここでレッスンを受けておられる方が、なんとお仲間の内に三人もおられるというよしみでお借りした会場だそうです。
今回の主な内容は、ご近所さんの人生を語っていただき、学んだり、感心したり、見聞をひろげたりしようという、まったりとした企画。

講師は、九州のご出身で、九州大学工学部(採鉱学科)を出られて、同和鉱業(株)で鉱山の仕事に従事された縁で、岡山市南部にお住まいのOさん。秋田、岡山と、国内を股にかけ、遠く南米ボリビアでの採鉱にも携わってこられたご自身のご経験と、鉱業をめぐるいろいろなお話を、興味深く聞かせていただきました。

会の終わりには、 小松原先生が、ご自身の伴奏で、美声を披露してくださいました。曲目は、お弟子さんにレッスン中だという、「ふるさと」「くちなしの花」「アベマリア」など。文化と学術の香りに触れたひとときでした。


  R0017170


「アンコール」の声に、小松原さんは二人の男性参加者を招き寄せ、一緒に、「第九」の合唱の一節を、ドイツ語で一緒に歌って聞かせてくださいました。


R0017180


この男性おふたりは、年金者組合の支部の中心を担っていただいているNさんと、上に紹介した記事で鉱山での体験をお聴かせいただいたOさんです。美しく力強く「alle Menschen werden Brüder=すべての人々は兄弟になる」と歌い上げてくださいました。


小松原さんは、お土産に、第九のドイツ語歌詞を、日本語で語呂合わせしたものを、印刷してお持ちくださいました。ほんの一部分を紹介しますが、笑えます。向島


dai9


ググってみましたら、フンケンクラブ funkenbanner様のhpの この記事に「向島芸者連が練習に使った『歓喜の歌』のとらの巻」として紹介してありました。またそこから、第九の歌詞の音訳(ごろあわせ)へとリンクを貼ってくださっています。こんな書き出しで、興味深い記事が続いています。


1985年2月17日の「5000人の第九」(国技館すみだ第九を歌う会)の参加者が歌詞の暗記用に考案し、朝日新聞などで紹介されて有名になった、第九の合唱テクストの「音訳」。作者は当時、上智大学文学部ドイツ文学科の2年生だった、吉井実奈子さん。    


ベートーベンに出会う旅に出かけた一昨日(8日)、延期になっていた保育園の運動会が行われたはずでしたが、孫は39℃の発熱のため、欠席したそうです。


そして昨日は、早朝お母ちゃんの出勤前に迎えに行き、一日我が家で預かり、退勤時にあわせて送り届けました。38℃を超える高熱は下がりませんが、ぐったりすることもなく、食欲もあって元気でよくしゃべります。今日は、ジイジバアバともに仕事でお世話できないけれどどうしただろうかと案じておりましたが、なんと元気に保育園に行ったそうです。子どもの回復力には感心します。


今日はこれにて。


nice!(24)  コメント(2) 

フォト蔵にアップしている私の写真はこちらです。

写真販売サイトにも画像を掲載しています。
写真素材 PIXTA


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。