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小豆島探訪拾遺、の巻 [折々散歩]

先日の小豆島探訪の見学地を、駆け足で紹介してきましたが、今日はその最終回。書き残した話題を拾い集めておきます。

1)寒霞渓。

以前、この記事では、紅葉の寒霞渓を訪ねました。

小豆島の旅、の巻(1)

今回は、新緑の渓谷を堪能できました。

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昨日の記事で紹介させていただいた、特殊潜航艇「蛟龍」の元乗組員高橋春雄さんの記事から、寒霞渓にまつわる部分をもう少し引用します。

◯ 終戦


終戦は玉野造船所で迎えた。そして、艇に乗って帰ったかどうか判然としないが、すぐ小豆島の宿舎に戻った。

・ 出撃した艇も戻る

四国の前進基地に出撃した連中も、終戦となり、まもなく小豆島基地に戻ってきた。

・ 寒霞渓での痛飲

このような形で終戦になるとは、もちろん誰も予想していなかっただけに、やりきれぬ憤懣のはけ口を求めてかなり険悪な空気が漂っていた。

上部ではこのような空気を察知したのか、隊員一同にウイスキー(サントリーの角瓶一本)を持たせて、小豆島の名峰寒霞渓に登り、徹夜で呑み明かすという措置を講じた。

寒霞渓は、車やロープウエイを使ってもかなり時間のかかる高い山である。その頂きまで一気に登って、そこで酒盛りを始めた。

それまで殆ど酒など呑んだことのない私に戦友は無理やり口を開けて、ウイスキーを流し込む。こちらもなかば自暴自棄になっているので、どうにでもなれという気持で後のことも考えずにしたたか呑んでしまった。

案の定、すっかり足をとられてしまって、帰る時刻になっても一人で起き上がることができない。戦友に肩を貸してもらってなんとか宿舎までたどり着いたが、そのまま二、三日寝込んでしまった。

遠く海辺や島影まで見渡せます。

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険しい、切り立った崖の様子が、独特です。

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岩の手前に、金属製の円い環が見えます。カーズミラーの類かと思いましたが、向こうが素通しに透けて見えます。瓦投げの標的だそうです。5枚200円で売られているかはらけ 。瓦=かはらけ(土器)を投げて、この環を通ると幸運が訪れるそうです。屋島にも同じような習わしがありましたっけ。子どもの頃、投げたことがありましたが、さてここだったか屋島だったか、それとも両方だったか、記憶が曖昧です。京都の神護寺が発祥だそうで、各地に広まったとか。比叡山にもあるそうで、そこでの記憶だったかも知れません。R0018689

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鮮やかな赤いツツジに、クロアゲハが舞っていました。

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2)富丘八幡神社の桟敷

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掲示板にはこうありました。

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土庄町指定文化財
有形民俗 富丘八幡神社の桟敷
富丘八幡神社の北西側山林の傾斜地を巧みに利用して築かれた石段づくりの桟敷は、最下段の桟敷きの裾を結ぶと約百五十mの浅い馬蹄形になっている。(中略)(高さは約二十四mあり)江戸時代後期から次第に数を増やしてきたもので、戦前はおよそ四百二十面余りあったが、現在使用されているのは三百六十四面程である。いずれの場所からも婆の前掲を見渡すことができる。
この桟敷は祭典当日、それぞれの家族がくつろぐ団欒の場であり、親戚友人を招いての交歓の場でもある。そして太鼓や神輿の奉納など賑やかな祭典行事を楽しみ一日を楽しむ場である。
この桟敷は、(中略)二百数十年の長い間、祭典を盛り上げ人々を楽しませてきた重要な文化遺産である。

眼下に見下ろされる現在の土庄中学校のグラウンドが、往時の馬場だったそうです。その日はちょうどグラウンドで運動会が繰り広げられている最中でした。個人情報への配慮から、写真を撮ることは自粛しましたが、ローマのコロシアムさながらに、競技の様子が手に取るように鳥瞰できます。

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なおも石段が続き、その向こうに鳥居があって、さらに高い場所に拝殿が見えます。

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見下ろすと、海原が一望できます。

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家族、友人、知人とともに、こんな桟敷に陣取って、寛いで過ごすのは、何というゆたかな時間でしょうか。

3)おりんぴあどりーむ

帰りに乗ったフェリーはこれです。

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写真は同行のOさんの撮影。勝手に拝借しました。ゴメンネ。

水戸岡鋭治デザインの「おりんぴあどりーむ せと」です。

産経WEST(2019.5.4)を引用します。

「海を走る遊園地」をコンセプトとする両備フェリー(岡山市北区)の新型フェリー「おりんぴあどりーむ せと」が、新岡山港(同市中区)と小豆島・土庄港(香川県土庄町)を結ぶ航路に導入され、令和に改元された5月1日から運航を開始した。

新フェリーは約940トンで、全長約60メートル。速力は13ノット(時速24キロ)。座席数は229だが、定員は約500人。搭載車両は乗用車60台、大型車10台。

建造費は約14億円で「定期航路でクルーズが楽しめるよう、貨物を主目的とする従来型のフェリーとは異なり、旅客船としての機能充実に力を入れた。私の念願だった」(両備グループの小嶋光信代表)との強い思い入れで計画された。

内装面は同市出身の工業デザイナー、水戸岡鋭治さん(71)が担当。注目は2~4階の甲板部分で、1周50メートルのレールを2周するミニ電車(別途200円、平日除く)が走行。

グループ企業が路面電車にも導入した英国の人気鉄道アニメ「チャギントン」のデザインとした。滑り台やブランコ、キッズコーナーなどもあり、片道約70分の移動時間中を楽しく過ごせる。(後略)

甲板をチャギントンが走っていました。

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この日、は「小豆島オリーブマラソン」の開催日。フェリ-乗り場付近の駐車場も満杯で、前日の夜その情報を教わったので、朝は妻に車で港まで送ってもらい、事なきを得ました。帰りのフェリーは、そのマラソン帰りの方が、敢えて「おりんぴあどりーむ」を選んで乗船されたのでしょう、経験したことがないほどの混雑で、座れる席がありません。致し方ないので、いいオジ(イ)サンたちが、板敷きの甲板に車座になってジベタリアンになりました。潮風が涼しく、快適なクルージングを楽しむことができました。

今日はここまで。


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蛟龍を嘆く、の巻 [折々散歩]

先日小豆島を探訪した旅行行事の企画・立案・案内は、毎回Nさんが毎回中心的に担って下さったことは、昨年秋のこの記事にも書きました。


あらまほしきものは、の巻


この「自然歴史歴史探訪」という行事は、毎年二回ずつ実施され、今年で25年目。今回が第49回で、来年5月には第50回を迎えるそうです。そのすべてに渡って企画・立案に携わり、案内者として貢献してくださったNさんは、今回も周到な資料をご用意くださり、またそれ以外にも、通りかかる場所場所にまつわる「深いいお話」を、ふんだんに紹介してくださいます。


今回で50回目(年二回実施)を迎えることから、Nさんは一応ここで任を降りられ、ご卒業ということになります。
そのNさんがおっしゃるには、戦時中、学徒勤労動員で、工場で働いたが、そこで作っていたのは、バッテリーの部品。ある時、納品のために、トラックで玉野市の三井造船まで連れられて行き、そこで見たものは建造中の特殊潜航挺=五人乗りの人間魚雷「蛟龍(こうりゅう)」で、納品したのはそれに用いる部品だった。朝鮮から連行された徴用工もそこに働いていたはずだ。
その「蛟龍」は、小豆島に送られて実戦に用いられたと聞くが、長い間、気になっていた。このたびの企画で小豆島を訪ねるに当たり、地元に知人に訊ねても、なかなか詳細はわからなかったが、ようやく部隊と基地の場所を推定することができた。その痕跡も記念の目印もないが、、、。


と、バスの車窓から、だいたいの位置を示して下さったのでした。
帰宅後、ネット検索してみますと、いくつかの情報に遭遇しましたので、備忘のためにメモしておくことにいたします。


ネット上で「蛟竜」を検索していますと、高橋春雄さんとおっしゃる方のHP に、次の記事を見つけました。蛟竜の乗組員として訓練を受け、実戦野準備をしていたが、終戦により生き延びたという経験をお持ちです。


 

特殊潜航艇「蛟竜」(海軍の自分史)

7 小豆島基地(小豆島突撃隊)

◯ 概 説


倉橋島で第17期蛟竜艇長講習員として蛟竜の機構の勉強を終えた我々約160名は、昭和20年7月1日、第一戦基地である小豆島に着任、ここでいよいよ念願の艇に搭乗、訓練を受けることとなった。小豆島は淡路島に次ぐ瀬戸内海第二に大きい島で、香川県に属する。この島に特殊潜航艇蛟竜の基地が建設されていたのである。

しかし、頼みの蛟竜が量産出来ず、当時ここには蛟竜は11隻しかなく、それぞれ先輩の艇長が決まっており、訓練専用の蛟竜もなかったため、およそ次のような三つのグループに分かれて訓練を受けることとなった。

・予備艇長として搭乗実務訓練を受ける者、約40名。
・玉野造船所に派遣され、蛟竜の艤装に従事する者、約30名。
・草壁の本部勤務で座学のほか、甲板士官、当直将校、副直将校等の勤務を分担、待機する者、約90名。また特技を有する者は施設班、漁労班等に派遣された。

私は予備艇長として搭乗実務訓練を受けることとなり、約40名の仲間とともに、古江にある丸金醤油の青年学校に居住することとなった。

当時、沖縄を完全に手中におさめた米軍の本土進攻が予想されていたが、日本海軍は大きな打撃を蒙っていた。しかし、たとえ連合艦隊が壊滅しても、われわれ特攻隊がある限り、神州は不滅であるという教官の言葉を純粋に信じて訓練に励んでいた。

そして搭乗訓練もある程度進み、四国南岸の橘湾小勝島にある出撃基地まで本番に備えて進出する訓練も終わり、いよいよ本番の出撃を待つばかりという時に終戦を迎えたため、今日まで生きながらえる羽目になった。

終戦があと少し遅れ、敵機動部隊が四国方面に近づいていたら、土佐沖で水漬く屍となっていた公算は極めて高い。その時私は20歳であった。
(中略)

◯ 小豆島における訓練


・ 宿舎

われわれの宿舎は小豆島は内海湾の奥、古江あたりの丸金醤油の青年学校であった。映画「二十四の瞳」の分教場のある近くである。小さな建物に三、四十名程度の比較的少人数が起居していたように思う。

食事は旅順時代は腹が空いて仕方なかったが、ここでは特攻隊員ということで優遇されたせいか、質、量ともに良くなり、当時としては珍しいパイナップルの缶詰などもたまには出て、娑婆の方には申し訳ないような気持でいただいたことを思い出す。寝る時もハンモックではなくベッドだったように思う。


・ 教官

伊熊大尉(後に訓練中目標艦で米軍機の銃撃を受け戦死)や十時大尉の名は今でも覚えている。この方たちが直接の指揮にあたっていたが、なかなかオッカナイ反面、面倒見のよいところもあって、規律のきびしい中にも和やかな雰囲気が漂っていた。

・ 基地

潜航艇は宿舎の近く、かめや旅館裏の松林の丘を下った静かな入江に十隻程度係留されていた。
(以下略)


「古江」という地名を頼りにさらにネット検索してみると、香川県小豆郡内海町にある「古江庵」というお寺に、「特殊潜航艇基地跡の塔」が建てられ、こう刻まれているそうです。


永遠の平和を希って

多くの若人が広い太平洋に通じるこの内海湾の基地で日夜訓練に励んだが 昭和二十年八月十五日 太平洋戦争終結とともに解隊された 併建の寄進石はその当時四国琴平神宮から応召されたものである

昭和五十三年八月吉日

大洋の波しずまりし晩夏かな 一夏

平和なる古き入江に月上がり 能章



また、同じ小豆郡内海町の「宮山招魂社」には 戦後間もなく、忠魂碑が建てられ、次の碑文が刻まれているそうです。


碑文

大東亜戦争酣なるに方り 軍は昭和二十年五月二日特攻潜艦基地を当内海湾に設け 其の部隊 本拠を小豆島中学校に置き 以て急迫せる本土防衛決戦に備えんと日夜訓練に従事す
然る処同年七月二十二日坂手湾沖海上に於て空襲に遭い此の戦闘に於て伊熊少佐以下九士戦死す 尋て八月二日播磨灘に於て機雷に触れ堀川中尉外五士職に殉す 同月八日女神丸屋島沖航行中機銃掃射の遭難に下山中尉外一士又散華す
然りと雖も旺盛なる士気何ぞ之に屈せん奮起以て時の到るを待つ 突如終戦の詔を拝し全軍悲憤慷慨すれど奈何とも為す能はず 大谷司令憂国の涙を払い切歯扼腕する部下将兵を慰諭して曰く
我等の任既に極まる唯一国民として和平建国に尽さんのみと徐かに隊を解く 去るに望んで将士相謀り戦没勇士の芳を不朽に伝えんと茲に霊碑を建つ 後人能く慰霊敬慕の誠を致さんことを

銘に曰く

錦山秀岳聖海清温 十七英霊厳安陵園 一身殉国燦栄誉尊 粛然呑涙敬弔雄魂

昭和二十年晩秋 郷土中学校教諭勲八等 中村米次広光撰并書



前述の高橋さんのHP記事で紹介されていた、上官の「伊熊大尉(碑文では伊熊少佐)」の名が、「戦死」と刻まれているのも痛ましいことです。


同所には、後に 「特殊潜航艇碑」が建てられ、特殊潜航艇を模した石像を戴くかたちで、石碑に次の碑文が刻まれているそうです。


建碑誌

昭和二十年晩秋 太平洋戦争に散った小豆島特攻基地戦没者の忠魂碑が部隊ゆかりの地古江に建立されたが 昭和三十七年初春内海町 当局ならびに内海八幡神社宮司の暖かいご理解のもとに当宮山の地に移された。

この間故吉岡虎光氏が中心となり遺族ならびに部隊関係者等によって慰霊祭が続けられてきたが爾来内海町 招魂社の英霊と共に永久祭典の恵に浴している。

当地各位のご厚情に対しここに遺族ならびに関係者一同は深甚の意を表し併せて英霊が一命を捧げた特殊潜航艇の模型を刻んでその勇魂を後世に傳えるとともにとこしえに安らかに眠られんことを祈るものである。

昭和四十六年八月十五日 特殊潜航艇関係有志建立


少々わき道にそれますが、ネット検索は、「蛟龍」に関連して思いがけない事実を次々に教えてくれます。


1)ウィキペディア「前田武彦」の項


エピソード

戦時中、特攻兵器「蛟龍」の搭乗員となるべく猛訓練を受けた。これについて出演したテレビ番組で、「(自分の受けた訓練は)優しさなんか一つも無かった。死んでいく人間に対して棒で殴ったりしていた」、「(戦争を)最後までやるのかと思っていたら終わってしまった」と首を傾げながら当時の心境を述べている。海軍通信兵だった前田は、手旗信号を判読することができた。

2)治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟 和歌山県本部のHP記事
インタビュー「戦争する国許さない」その17


経済アナリスト、独協大学教授森永卓郎さん
被爆を隠し続けた父の子
私の父は、特攻隊員でした。蛟竜という4、5人乗りの特殊潜航艇の乗組員で、終戦があと2週間遅ければ、私は存在していません。
父は潜航訓練中、広島の海上に出てハッチを開けたところ、偶然にも目の前で原爆が投下される瞬間を目撃したのです。父は被爆を隠し続けました。被爆者差別があったからです。戦後50年ごろ、私が「原爆が地上に落ちて」と話したのを聞きつけた父は激怒して「地上に落ちるわけがない。おれは目の前で見た」と初めて話してくれました。
基本的なルール
叔父が特攻隊員で亡くなったこともあり、私は子ども時代に春と秋、「白鴎遺族会」で靖国神社に行き、復員した兵隊さんたちの本音を聞きました。すごく良い人たちなのに、 「戦争は面白い」と語る。狂っていると思いました。
人を殺めてはいけないのは人間の一番基本的なルールです。まじめな社会人なのに戦争をすると、人が人でなくなる。だから、私は戦争に絶対反対なんです。


3)最後にもう一つ奇しき縁。


上述の高橋さんの体験記をもう少し引用します。


◯ 目標艦芙蓉丸、敵機の銃撃を受け9名戦死
7月半ば頃になると敵機の来襲も激しくなった。7月22日には目標艦として出動中の芙蓉丸に玉野方面から飛来して敵艦載機(P51)数機が突如として後方よりおそいかかった。芙蓉丸の13ミリ機銃2ただちに火を噴いて応戦したが、たちまちのうちに沈黙し、4度5度と反転しては機銃掃射をくりかえす敵機の攻撃により艦橋はじめ船体に500発を超える被弾をうけた。
この戦闘で指揮をとっていた伊熊大尉および梅津船長をはじめ、9名が戦死、10数名の負傷者を出した。私達の同期も伊藤仁三郎少尉、末竹十三雄少尉の2名が戦死、矢野統一少尉が重傷を負った。
戦死者の葬儀は近くの極楽寺で行われ、同じく同期で僧侶だった藤原達成君がお経を唱えたのを思い出す。昨日まで起居を共にした同期の仲間が戦死という現実を見て戦争を実感した。


「伊熊大尉」については、先ほど触れました。続けて列記される死傷者のうち、「矢野統一少尉が重傷を負った。」の一行に、電撃を受けた思いがしました。


こんな本が出版されていることを知りました。


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「特殊潜航艇蛟龍艇長矢野統一 : 父は海の特攻隊員でした」藤原尋子さんと 藤原義一さんご夫妻の共著。矢野統一さんは、藤原尋子さんのお父様だったのです。


藤原義一さんについては、当ブログでも何度か文章を引用させていただいたことがあります。高知「草の家」の学芸員で、槇村浩の研究を続けておられることから、お名前を存じ上げています。また、ご自身短歌をたしなまれることもあって、花や草木への造詣が深く、ほとんど受け売りで、こんな記事を書きました。


散ってまた咲く無窮花や野分ゆく(2016-09-05)


先日から、槇村浩の話題で、連続的に登場戴いている藤原義一さんが、「あなたに贈る短歌の花束」という本を出版されています。奥付を見ると2004年6月発行とあります。実はこの本、私は、ちょっとした縁で当時贈呈を受け、パラパラめくり読みしては、本棚に収めておりました。時々手に取ることはありましたが、全巻通読はしていませんでした。
しかも、筆者の藤原義一さんと、「草の家」学芸員として槇村浩を研究されている藤原義一さんを、同一人物と理解できず、深く確かめることもなく偶然の一致に寄る同姓同名の別人と思い込んでいました。うかつなことでした。

つい最近、この本を手に取り、読み進むうちに、こんな記述に出会い、驚愕を覚えました。

(以前、韓国旅行から)帰国したその日、イン夕ーネットを散歩していたら、日本が、国を統治する全権限を天皇が握る専制政治(絶対主義的天皇制)だった時代に、日本政府が朝鮮のムクゲを抑圧したということが書いてありました。
「人類の歴史で、民族の名前で特定の植物が苛酷な受難を経験したのは、我が国(著者注・韓国)の国花であるムクゲが唯一である。
ムクゲは民族の歴史と共に民族の脈絡の中に息づいてきた花であるため、 日帝強制占領期の三十六年間には民族の受難と共に疲弊して奪われてしまうという残酷な試練を経験するしかなかった。
満州、上海、米国、欧州へ向かった独立志士たちが光復の救国精神の表象としてムクゲを掲げると、日本はこれにうろたえたあまり、ムクゲを見つけしだい燃やしてしまったり、引き抜いて無くしてしまった。
うそ
日帝は国花ムクゲを『目に血花』と呼び、見るだけで目が血走るという嘘の宣伝をし、『おでき花』と呼び、手に触れるだけでおできが出来ると言うなど、様々な話で我が民族の気概を表現するムクゲ弾圧に極悪だったのだ。
しかし、国花ムクゲに対する受難が加われば加わるほど、我が民族はよりいっそう自分たちの精神を代弁するムクゲを愛し、隠してまで守ってきた」(「韓国のホー ムぺージを日本語で読む」)
-----「読んでいただける方へ」より

さらにページを繰ると、こうありました。

 日本の天皇が朝鮮を植民地にしていたころ、 植民勢力が朝鮮人に愛されていたムクゲを抑圧したことを「読んでいただけるかたに」で書きましたが、ここで、もう少し詳しく、 そのことを書いておきます。
植えることも、話すことさえ
『金夏日歌集 無窮花』(一九七一年二月一日発行。光風社)を読みました。
著者の名前は、キム・ハイル。無窮花は、ムグンファと読むのだと思います。ムクゲのことです。
著者は一九二六年(大正十五年)、朝鮮慶尚北道・桃山洞の一貧農の家に生まれました。そして、一九三九年(昭和十四年)、十四歳のころ、すでに朝鮮から日本に渡っていた父をたずねて、母と長兄夫婦、次兄らと日本に渡ります。
彼が生まれる前の一九一〇年、日本は日韓併合で朝鮮を植民地にしていました。
「あとがき」で、ムクゲについて、こう書いています。
「日本帝国主義の侵略とその統治下においては、 朝鮮民族が限りなく愛するこの花を、自分の土地に植えることも、またこの花について話すことさえ許されなかったのです。
こうした抑圧のなかで、 無窮花はなおのこと私たち朝鮮民族の心に生きつづけ、私は幼い時から祖母や母に無窮花の美しさをひそかに聞かされてきましたが、祖国朝鮮に私が生まれ育った時代にはついに見ることができませんでした」
日本は太平洋戦争を始めました。
長兄は日本海軍の軍属としてとられ、戦死します。
著者も東京の戦災の炎をかぶり、両眼失明しました。

さらに、こんなことが行われたのだそうのです。

朝鮮への桜の植樹
一九〇五年(明治三十八年)、日本は第二次日韓協約で大韓帝国(朝鮮)の外交権を接収し、京城(現在のソウル)に韓国統監府(長官は韓国統監)を設置しました。
一九一〇年、日本は日韓併合で大韓帝国を植民地にしていました。同年八月二十九目、目本は朝鮮にその植民地文配のための政庁・朝鮮総督府を設置しました。(韓国統監府を改組)。
(中略)
日本の植民者は、朝鮮に次々と日本の「軍国の花」 ・桜(ソメイヨシノ)の苗を植樹し、桜の名所を作っていきます。鎮海(チネ)の日本海軍の軍港には我が海軍の微章にちなみ」一九一〇年に二万本、一三年に五万本、一六年に三万本、合計十万本の苗木が植えられました(『ある日韓歴史の旅鎮海の桜』、竹国友康、朝日新聞社)。
ムクゲの記事が押収されて
第四代朝鮮総督の斎藤実の時代には弾圧一辺倒では治まらなくなって民族紙の発行を許可します。
「朝鮮日報」、「東亜日報」が創刊されました。しかし、それらは朝鮮総督府警務局が検閲しました。
(中略)
「東亜日報」は、 一九二五年十月二十一日付に「読者と記者」の欄に「錦細江山の表徴『朝鮮国花』無窮花の来歴」という記事を載せました。
「昔のことですが、大韓時代に無窮花を国花として崇め尊んだのは、どういう理由からなのですか」(東大門外ユク・チュングン)という読者の質問に答えたものです。
「今から二十五、六年前」に尹致実(ユン・チホ=開化派の政治家)が愛国歌を:創作したが、その繰り返し部分に「無窮花三千里華麗江山(ムグンファサムチョンリョガンサン)」がありました。その時、初めて「木種(クンファ)」を「無窮花」と書き出したらしい。
これと前後して島山安昌弘浩(トサナンチャンホ=独立運動家。一八七六-三八年)らが民族連動、国粋運動を展開する時、朝鮮を無窮花にたとえて「われわれの無窮花(ムグンファ) の丘は……」と演説しました。
この時を前後し、木樓(クンファ)を「ムグンファ」とはっきり使いだし、朝鮮の国花と定めたようです。
記事は、こうした説明をした後で、次のようにのべています。
「---無窮花はそれほど華麗でもなく、枝とてそれほど美しくもなく、その上、葉は密集していて趣とてないのですが、朝露を浴びて咲いては夕刻に散り、また他の花が朝咲いてタ刻に散るというふうに、絶えず咲いては散る様が、 刹那を誇って風に散るのを武士道の誇りとしている桜よりも、赤色だけを誇る英国の薔薇よりも、花房だけただ大きいだけの中国の芍薬(シャクヤク)よりも、どれほど粘り強くて堅実であり、気概があって祈願がこもっていてみずみずしくて可愛らしいことは、ほかの何ものにも比べることはできないでしょう。
それで私たちの祖先は、この朝生夕死ではあるけれど、次々と咲く木槿を無窮花と呼んで国花としたようです。
しかしいまでは、無窮花が名にし負うほどの使命を果たせず、西北道では見られぬようになり、京畿方面では心ある人たちの丘の飾りとなり、全羅道では農家の垣根として残っているだけだそうです」
この記事は、 朝鮮総督府警務局が押収しました。


その藤原義一さんのちょっと以前のブログにこんな記事がありました。


【連載 父は水中の特攻隊員でした】 1 高知市出身の青年が特別攻撃隊に志願した訳は……。

父は水中の特攻隊員でした

藤原尋子・義一

【読んでいただけるかたへ】

この連載は、太平洋戦争(一九四一年十二月八日~一九四五年八月十五日)のとき、日本帝国海軍の水中の特別攻撃兵器・特殊潜航艇蛟竜[こうりゅう](甲標的丁型)の艇長講習員だった矢野統一[やの・とういち](一九二四年九月二日生まれ)の物語です。

国の為[ため]捧[ささ]げ尽[つく]さん此[こ]の体[からだ]死処[ししょ]に咲くまで只[ただ]まっしぐら

当時、矢野が詠んだ「出陣賦[しゅつじんふ]」です。

矢野は、いま八十三歳です。高知市筆山町[ひつざんちょう]に妻・昭子[あきこ](旧姓・南)と二人で住んでいます。不動産鑑定の仕事をやっています。

筆者の一人・藤原尋子[ふじはら・ひろこ]の父です。

共著者の藤原義一[ふじはら・よしかず]は、尋子のつれあいです。

矢野が搭乗していた蛟竜[こうりゅう]は、こんな兵器でした。全長二六・三メートル、全幅二メートル。五人乗りで、上下に魚雷二発を装備しています。

矢野の訓練のため搭乗していた蛟竜は真っ黒に塗られていました。

艇長は艇の責任者です(士官)。立っての搭乗です。特眼鏡(潜望鏡)をのぞきます。

艇長の立っている「下の段」に座って四人の艇付[ていづき]と呼ばれる搭乗員がいました(准仕官または下士官)。

(中略)

浅く潜航して運航するときは特眼鏡で周りを見ながら操縦します。

しかし、ソナーなどが装備されているわけではなく、深く潜航して運航するときには、深度計などにたよるしかありませんでした。

蛟竜の長時間潜航試験の結果があります(『特攻艇長たち 次世代への遺言』。蛟竜艇長十七期会編。銀河編集室)。

六一七号艇に七人が乗り込んでの試験でした。十八時間を過ぎると限界になり、浮上します。

目標艦の七、八百メートルの至近距離から魚雷を発射します。

魚雷を発射すると浮き上がるため、すぐに発見されてしまい、とうてい生還は望めないものでした。「蛟竜」の名は、水中、特に深い湖や池の底に住むと考えられていた大きな角を持つ龍の一種・蛟竜からつけられました。普段は水中に潜んでいますが、時機を見て天に昇り、雨雲を操って雷雨を起こす竜とされます。

(中略)

私、尋子が、父が水中の特別攻撃隊員だったことを知ったのは一九八二年春、三十四歳のころのことでした。当時、私は東京都の公立中学校の教師をしていました。

幼いころから父の右肩の後ろにの長さ二十センチ、幅五センチぐらいのケロイドのような傷跡のことが気になっていました。そこは、少しくぼんでいて血管が通っていません。

それも水中の特別攻撃隊員だったころアメリカ軍機に撃たれたものだと知りました。

当時、ある雑誌に四ページで、父の体験を書かせていただきました。

この本は、その続編です。

(中略)

十二月、東京都国分寺市で開かれた平和のためのつどいで尋子が「いま、こんな本を書いています」と近況紹介をしたら、あるかたが「私は、中学生のとき、その特殊潜航艇をつくっていました」と発言されました。


もしも矢野統一さんが、米機の銃撃を受けながら一命をとりとめていなかったら、尋子さんはこの世に誕生することはなく、義一さんと結ばれることもなかっただろうと、別のところで書いておられます。あまりにも重い真実に、言葉を失います。


それにしても、生還できる可能性がほとんどない「特攻」という戦術を、大真面目に立案・推進し、純真な若者に死ねと命じる戦争指導者たちの愚劣は、憎んで余りあります。


ところで三省堂「大辞林」は、こう説明しています。


こう りょう かう- [0][1] 【蛟▼ 竜▽】

〔「こうりゅう」とも〕

① 中国の想像上の動物。まだ竜にならない、蛟(みずち)。水中にひそみ、雲や雨にあって天上にのぼって竜になるとされる。

② 時運に恵まれず、志を得ない英雄や豪傑。


「時運に恵まれず、志を得ない英雄や豪傑。 」という不吉な名を冠せられた特攻艇。気の毒の極みです。


小豆島の玄関口・土庄港の緑地公園に「二十四の瞳」のブロンズ像があり、「平和の群像」と呼ばれます。帰りのフェリー乗船前に、バスが立ち寄ってくれました。


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ウィキペディアにはこう紹介されています。


小説『二十四の瞳』は、小豆島出身の作家である壺井栄が、第二次世界大戦の終結から7年後の1952年(昭和27年)に発表され、作者自身が戦時中を生きた者として、この戦争が一般庶民にもたらした数多くの苦しみや悲しみを描いたものであった。発表から2年後、1954年(昭和29年)に高峰秀子が主演し映画化された(二十四の瞳 (映画))。

この群像は、戦争での教訓から、平和を願う気持ちを込め、『二十四の瞳』の原作と映画をモデルにして、映画公開の2年後、1956年(昭和31年)に建てられた。


穏やかな瀬戸内海が、再び殺戮の現場となり、恐怖と狂気に覆われるようなことが、決してありませんように。


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今日はこれにて。


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中山千枚田に思う、の巻 [折々散歩]

   旅行前から、強く心に掛かっていたのは、「中山千枚田」の景観です。るるぶ&moreの紹介記事をお借りします。

中山千枚田

小豆島のほぼ中央、中山地区に広がる千枚田。県内唯一の棚田は大小約800枚にもおよび、標高200mの山腹に波状に並んでいる。田には名水百選になっている湯船の湧水が流れ込み稲を潤している。大小さまざまな形の棚田には、晴れ渡る青空や雲などの景色が映ったり、彼岸の季節には彼岸花が彩りを添えたりと四季折々の表情で楽しませてくれる。優しくて懐かしい日本の風景がそこにある。また、映画『八日目の蝉』のロケ地となり、7月初旬に虫送り行事が復活。毎年7月初旬、火手と呼ばれる松明の光の列が稲の間を揺らめく様はとても幻想的。

千枚田と言えば、私の故郷近くにも、「上山千枚田(上山の棚田)」という場所があります、そう言えば、以前、こんな記事を書きました。

秋あれこれ、の巻(2017.9.10)

帰路、少し足を伸ばして、上山の棚田(上山千枚田)と言うところを訪ねてみようと思いました。

上山の棚田/美作市ホームページから引用します。

上山の棚田

美しい棚田風景を目指して

かつては8300枚の棚田があったといわれる上山地区。減少してしまった美しい棚田を取り戻そうと、Iターン、移住者などの方々を中心に復興作業やさまざまな活動が行われています。

花咲くのどかな棚田や周辺では斜面地での里山の暮らしの息吹が感じられます。
地域おこし協力隊の活動HP:上山集楽(外部サイトへ移動)


中学生時代、友人を訪ねて、この地域へは自転車で行ったこともあります。往時の棚田も、見覚えがあります。
「自分の田を数えてみたがどうも一枚足りぬ、どうしたことかと気づいてみると、自分の笠が田を一枚かくしておった」というような、千枚田の伝承を聞いた記憶もあります。
離農や高齢化で、荒れていた土地を、地域おこしの・復興の取り組みが進んでいることは、全国ニュースやドキュメント番組でも取り上げられ、注目を浴び強う担っています。あのアベ昭恵夫人の「支援」も、鳴り物入りで喧伝されています。
というわけで、ちょっと一目見てやろうと思って山道を走ったのですが、、、。
確かに棚田めいた田圃はありましたが、これでは規模がイメージと違います。


この辺りでは、冬の訪れが早いので、稲の刈り取りが終わっているようです。
結局本格的な棚田風景にめぐりあえないまま、「和気町」という表示があらわれます。隣の行政区に到達してしまったようです。これは道を間違えたぞ、と、今来た道をあと戻り、、、したのですが、目的エリアにたどり着けず、平地まで「下山」してしまい、今回の訪問は実現しませんでした。オソマツ。    

この上山地区を、安倍昭恵夫人が応援したり訪問して、地元で歓迎されているとの由、以前、友人から教えられ驚いたことがありました。後に、モリカケ問題が発覚し、昭恵夫人の際限のないパフォーマンス に改めて思いを致したことでした。
現代ビジネス(2017.3.07)にこんな記事がありました。

昭恵夫人への忖度か?岡山県の農村に「EV車50台」の謎

「こんな田舎の田んぼに、『なんでトヨタが車を寄付してくれたんか』と思うたが、森友学園騒動を見て、なるほど『(安倍晋三首相夫人の)昭恵さんへの配慮か』と、得心が行きました」

こう感想を漏らすのは、岡山県北東部に位置する美作市の市議会関係者である。

美作市は、約2万7000人と県内で最も人口の少ない市であり、農業、林業が主な産業。1000年以上の歴史がある上山地区の棚田は8300枚もあり、日本を代表する田園風景だったが、多くが耕作放棄され、荒れ果てていた。

その棚田を、地域の産業復興、自然環境保全の観点から、都市からの移住者と地域住民と行政が協力し合って再生させようという試みが07年から始まり、NPO法人「英田上山棚田団」が活動を始めた。

山口県下関市に「昭恵農場」を持ち、田植えや稲刈りなど農作業を行っている昭恵夫人は、この運動に共感、2013年2月、初めて上山を訪れて、地域農業復活の為に一緒に活動することになった。棚田団の名誉顧問にも就き、15年3月には、上山地区の活性化や美作市の知名度向上に尽力したということで、美作市から功労表彰された。

その首相夫人が支援する棚田に、現在、1人乗りで小回りが利くトヨタグループの超小型EV(電気自動車)車の「コムス」が導入され、走り回っている。助成しているのは、モビリティ社会の実現とモビリティ格差の解消に貢献することを目的に設置されたトヨタ・モビリティ基金(TM基金)である。

TM基金は、14年8月の設立以来、タイやベトナムで交通渋滞緩和に関するプロジェクトに助成、15年12月、国内では初めて美作市の「上山集楽みんなのモビリティプロジェクト」に助成することになった。

助成先は棚田団とみんなの集落研究所。助成期間は約4年間で助成金額は2億2000万円。中山間地域の移動の仕組みを構築し、最大で50台のコムスを導入、カーシェアリングの要領で、住民が日常生活、農作業の「足」として利用する。

棚田の再生、農村の再構築、それを実現するための住民・農民の「足」の確保――。誰も反対することはない「良いプロジェクト」であり「望ましい助成」である。ただ、それがなぜ美作市上山地区だったのか。

TM基金は、「広くヒヤリングを行い、助成テーマを探すなかで、みんなの集落研究所の紹介を受け、上山地区の棚田の復活に取り組む英田上山棚田団の活動支援に至った」と、答えるものの、全国に数ある「過疎の村の再生事業」のなかで、なぜ上山地区か、という疑問を解消するに至らない。

冒頭の市議会関係者が続ける。

「結局、首相夫人の名前が有効だったん違うか。昭恵さんが、トヨタに頼んだかどうかは知らん。ただ、そんなことはせんでも、『首相夫人が力を入れているんやから』と、配慮するもんでしょう。森友学園で国有地が格安で払い下げられたり、小学校に認可が下りたりしたんと同じ理屈じゃないかと思う」

そう言えば、棚田に関してアベさんは、その著書「新しい国へ 美しい国へ 完全版」(2013年1月)で、地元、山口県長門市油谷後畑の棚田にについてこう書いていました。「日本海に面していて、水を張っているときは、ひとつひとつの棚田に月が映り、遠くの漁火が映り、それは息をのむほど美しい」。また、その年の施政方針演説でも、「日本は瑞穂の国です。息をのむほど美しい棚田の風景、伝統ある文化。若者たちが、こうした美しい故郷を守り、未来に『希望』が持てる『強い農業』を作ってまいります」と強調しました。

そして、今年3月7日のJA全国大会での挨拶でも、こう繰り返しています。

この棚田が海に向かってずっと続いていく。この地域に至りますと、うぐいす嬢も思わずその景色に見とれて、私の名前を呼び続けるのを忘れてしまう。これを正に息をのむほど美しいというのではないかと、こう思うわけであります。確かに美しい風景ではございますが、しかしこの美しい棚田を支えていくことは容易なことではないと思います。生産性だけでは割り切れない。しかし、この地域の皆さんが歯を食いしばって棚田を守っていくことによって、水を涵養(かんよう)し、環境を守り、伝統や文化を守ってきた。そして皆さんその誇りと共に生きてきたんだろうと、こう思うところであります。
正に日本という国は、古(いにしえ)より朝早く起きて、額に汗して田畑を耕し、水を分かち合い、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈ってきた瑞穂(みずほ)の国であります。皆で助け合いながら、この美しい田園風景を守ってきた

「生産性と収益性が高く、中長期的かつ継続的な発展性を有する、効率的かつ安定的な農業経営」への転換によって「強い農業」を作るというアベ農政によっては、美しい棚田は決して守れないでしょう。

この記事で書いたことは、今なお有効でしょう。

稲葉の露その他、 の巻(2017.7.30)

「息を呑まなくてもいいから草刈ってくれ」という揶揄も、あちらこちらから聞こえて来ます。
「月間日本」hpの鈴木宣弘 大企業による大企業のための農業改革という記事(2015/5/7)は的確にこう指摘しています。

大企業の、大企業による、大企業のための農業改革

―― 安倍政権は農業に市場原理を導入する農協改革法案を閣議決定しました。これは、昨年5月に規制改革会議の農業ワーキングループが提出した「農業改革による意見」に基づいています。そのメンバーは大企業の役員です。また産業協力会議の農業分科会では、前ローソン社長の新浪剛志氏が主査を務めています。

鈴木 そもそも、この農協改革は誰のため、何のためにやるのか。その内容を見れば一目瞭然です。「今だけ、カネだけ、自分だけ」という私利私欲に塗れた大企業の、大企業による、大企業のための農業改革だと結論せざるをえません。これは「大企業が儲かる農業」をつくるために、農協や農家を中心とする「大企業が儲からない農業」をぶち壊すという改革なのです。

安倍総理は「もはや、農政の大改革は、待ったなしであります。何のための改革なのか。強い農業を創るための改革。農家の所得を増やすための改革を進めるのであります」と謳っていますが、農家を殺そうとしているとしか思えない。農産物の販売価格と生産コストの赤字を補てんする「戸別所得補償制度」は撤廃する、減反政策を転換して米価は戦後最低水準に暴落する、農家を国際競争に晒すTPP参加を目指す、これで農家が潰れないわけがないではありませんか。

安倍総理は「日本は瑞穂の国です。息を飲むほど美しい棚田の風景、伝統ある文化。若者たちが、こうした美しい故郷を守り、未来に『希望』を持てる『強い農業』を創ってまいります」と謳いながら、稲作を至難の業にし、コメ農家を窮地に追い詰め、コメ農家の後継者を絶望させているではありませんか。

結局、安倍総理は本音では99%の農家は潰れてもいい、1%の企業の農業事業が儲かればいいと思っているのでしょう。「農家の所得を増やす」といいますが、その「農家」とは既存の農家ではなく、農業に参入した企業のことだというにすぎません。(後略)

現に、中山千枚田も、稲作から野菜へと転作されたり、草に覆われた耕作放棄地とおぼしき場所などが、櫛の歯が欠けたように目に入り、痛々しく感じられてなりません。それでも、幾世代にもわたって守り伝えてきた棚田は、山肌にへばりつき這いつくばるようにして、働き、暮らしてきた「民」たちの懸命な思いを集積して、見るものの胸を打たずにはいません。

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険しい労働に明け暮れる「民」たちのほとんど唯一の娯楽は、「農村歌舞伎」であったのでしょう。

「小豆島物語」の一節を引用させていただきます。

中山農村歌舞伎は、約300年前の江戸時代中期から、現在に至るまで上演され続けている貴重な郷土芸能です。お伊勢参りへ出かけた島民たちが、上方歌舞伎の場面を描いた絵馬や衣裳を持ち帰り、旅回りの一座や振付師を招いて自分たちで歌舞伎を演じるようになったのが始まり。最盛期の明治・大正期には、島全体で歌舞伎舞台が30以上、役者が約600人いたといわれていますが、中山農村歌舞伎と肥土山農村歌舞伎の2つが現在まで伝承されています。

茅葺き屋根の珍しい舞台

中山農村歌舞伎舞台が行われる舞台は、春日神社の境内にあります。国の重要有形民俗文化財に指定されている茅葺き寄棟造りの舞台は、天保年間以前に建てられたもので、セリや回り舞台などもあります。観覧席は青天井の芝生席で上演は夕方から夜となりますので、敷物と防寒対策をお忘れなく。

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300年もの間、脈々と受け継がれてきた伝統の芸能。神社の境内にしつらえられた桟敷席に立てば、年に一度、10月の夜に繰り広げられる村をあげての賑わいが、彷彿と目に浮かぶようです。

農村歌舞伎と言えば、わが郷里の近くにも、その伝統が残っていることを、この記事でご紹介しました。

鄙の里歌舞伎にしばし華やぎぬ(2014-11-23)

横仙(よこせん)歌舞伎は、江戸時代以来、地域でうけつがれてきた 伝統芸能です。
横仙歌舞伎保存協議会のホームページにその全容が紹介されています。
その中の横仙歌舞伎保存会のページには、

江戸時代の農民たちは、普段の生活の中に、着るものや、食べ物、住まいや年中行事にまで事細かに決まり(御法度)がありました。
とくに、農民の娯楽の多くは禁止され、特別な許可や多くの制限が必要でした。地歌舞伎も当然取締りの対象でした。
往時には、日本各地、岡山県内にも多くの地歌舞伎が存在しました。しかし、圧倒的に県北に多く伝わっています。それは、県南部は大名の統治する藩領で、県北、特に奈義町は幕府の直轄地「天領」でした。
天領では役人の数が少なく、取締りをほとんど受けることなく芝居ができたため、多くの地歌舞伎が生まれ、活発に繰り返されたと考えられています。(中略)

とあります

奈義町は、津山市に隣接する岡山県北の土地です。津山市と小豆島とのえにしについては、前回触れました。農村歌舞伎についても、何らかの繋がりがなかったとも言い切れないかも知れませんね。

今日はこれにて。


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吉備の「残影」の、巻 [折々散歩]

以前、こんな記事を書きました。

今日の「これなあに?」 訂正・追加版(2013-09-16)


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このクリーム色の花、大豆だろうと思いましたが、どうも葉っぱを比べてみると、小豆かも知れませんね。田舎の畑には両方植わっていました。実が成れば分かるのですが。
念のため、大豆はダイズ、小豆はアズキです。小豆をネット検索すると、まず小豆島(ショウドシマ)がヒットするのですが---。
小豆島は、「ショウドシマ」、小豆郡は「ショウズグン」と読むのもおもしろい。weblio島嶼名辞典名には「小豆島/読み方:ショウズシマ(shouzushima)/備讃諸島に属する瀬戸内海の有人島/所在 香川県小豆郡内海町、土庄町、池田町の3町/別名 アヅキ島(アズキジマ)/位置・形状 備讃諸島の東端。カコウ岩、集塊岩、凝灰岩、安山岩からなる開析溶岩台地」とあります。古くは、「ショウズシマ」とも「アズキジマ」とも呼んだようですが、記紀(古事記・日本書紀)の時代に「阿豆枳辞摩(あずきじま)」と記されているそうですね。

その続編がこの記事。

今日の「これなあに?」 その3(2013-10-15)

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夏にクリーム色の花を見て。「大豆」と勘違いしたこの植物は、やはり小豆でした。小豆は「あずき」と呼びます。「小豆島」は「ショウドシマ」と読みます。 (このハナシ以前書きました)

そして最近話題にしている尾崎放哉は、小豆島に流れ着いて庵を結び、その島で人生を閉じます 。

映画化もされ話題を呼んだ角田 光代作「八日目の蝉」の舞台も小豆島でした。

八日目の蝉 (中公文庫)

八日目の蝉 (中公文庫)

また、小豆島の旅、の巻(1)(2016-11-22)では、こうも書きました。

日生(ひなせ)からもフェリーで行ける対岸の島「小豆島」を、昨日は同じ面々で訪ねました。ただ、体調やよんどころない事情によって、今回の参加は、サブローさん、ヨージさん、ヨシエさん、私の4人なので、車一台に同乗して移動するのがよかろうと、サブローさんのお車に乗せていただき、新岡山港からフェリーに乗りました。
今年6月の原生林散歩(下の記事参照)のあと、次はどこに行こうかという相談のなか、私の希望も取り入れていただいて今回の小豆島行きがまとまったのでした。
◇蛙棲む原生林に蝮草(マムシグサ)
◇故旧愉快梅雨の晴れ間の原生林
◇五月雨を集めて垂水(たるみ)はやからん
私が小豆島行を希望したというのは、今年の夏、こんな記事を続けて書く中で壺井栄「二十四の瞳」を再読し、その舞台とされる小豆島と岬の分教場を訪ねてみたいと思ったからでした。
◇自民HP密告フォームと「二十四の瞳」、の巻(1)
◇自民HP「密告フォーム」と「二十四の瞳」(2)
◇自民HP「密告フォーム」と「二十四の瞳」、の巻(3)
◇自民HP「密告フォーム」と「二十四の瞳」、の巻(4)
◇この道はいつか来た道 「密告フォーム」の行き着く先、の巻
思い起こすに、小豆島へは、子どもの頃、何かの団体旅行で、連れられて観光バスで訪れた記憶がうっすらとありますが、思い浮かぶのは、寒霞渓の景色とそこにお猿がいたような記憶だけで、岬の分教場へは行ったかどうかの記憶もありません。
集合場所の新岡山港に一番近いのは私です。早く到着しすぎたかと、そばの公園を一巡り散策してみますと、小鳥のさえずりも聞こえます。シジュウカラかヤマガラらしい声に思えますが姿は見えません。見つけられたはヒヨドリ。

(中略)

まだまだ時間が早すぎるかと思いつつ、フェリー発着場近くをうかがうと、なんと、とっくに全員おそろいでした。
この船に乗ります。

その小豆島へ、昨日、日帰りバス旅行をしてきました(もちろん、海は、フェリーで渡ります)。しょっちゅう話題にしている、退職同業者の親睦団体の恒例行事です。

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見出しにある「吉備の残影」とはなにか?ちょっと気になりませんか?

そこでクイズです。

1)小豆島は何県にあるでしょうか?もちろん、香川県です。

2)では、旧国名は讃岐?

いいえ、備前国に、そして古くは吉備の国に属していたそうです。知りませんでした。

最初の探訪先の旧賀嶋明神は、島内最古の神社で、「延喜式」式内社と同時代の「備前国神明帳」(西大寺本1495年の写本)に備前国128社のうちの1社として明配されているそうです。

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かつて「賀嶋」と書き表されたものが、現在は「鹿島」と書くようです。

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少年マンガ・アニメの「からかい上手の高木さん」の舞台として、近年、国内外から「聖地巡礼」におとずれる若者が増えているそうです。

土庄町商工観光課による「舞台探訪マップ」。

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日本郵政発行の「フレーム切手」のポスターが、神社壁面に掲示してありました。

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クイズのつづきです。

3)小豆島の土庄町が、「歴史友好都市」縁組を結んでいる岡山県の都市は?

答えは津山市。

なんと、瀬戸内海に浮かぶ小豆島の土庄町と、海からはるか隔たった、岡山県北の津山市が、昭和60年4月7日、「歴史友好都市」を締結しているそうです。

ネット上の津山瓦版都市縁組【津山市と小豆島の土庄町】

というページに、こんな文章が引用されています。

2009年8月 土庄町スポーツ少年団交流会の様子

江戸時代後期の小豆島は、土庄村(豊島を含む)、渕崎村、上庄村、肥土山村、小梅村、大部村、池田村、草加部村及び福田村の9か郷で天領として倉敷代官の統治を受けていたが、今からおよそ165年前津山藩八代藩主松平斉民公が幕府に対し領地替えを願い出た(美作略史)ことが発端となって天保8年(1837年)11月幕府は、但馬、丹後国のうち2万4千6百石余と、美作国、讃岐国のうち2万7千9百石余との村替えを命じた。この命令により、翌9年3月小豆島のうち大部、福田、草加部の3村を除く西部6か郷5千9百余が、津山藩の領地となって統治されるようになったのが津山市と土庄町の「えにし」の始まりで、これが明治維新の廃藩置県まで33年間続き、その間、主に吉井川を利用して、島からは海産の塩をはじめ、醤油、素麺などを、津山からは山の幸や農産物の交易が盛んに行われると同時に、島四国八十八ヵ所霊場めぐりなどの人の往来、またこうした行き来に伴い、教育や文化の交流も活発になり、山の国と海の村とが友好と親善の強いきずなで結ばれた歴史があった。(文:土庄町スポーツ少年団交流会式次第より抜粋)

津山藩領だった土庄町
香川県小豆郡土庄町は、岡山港からフェリーで約70分のところにあり、人口1万9千人、面積74平方キロメートル。津山市は1985(昭和60)年に、土庄町と歴史友好都市縁組を結びました。


津山藩と土庄町

小豆島は水が少なく、米作りには不向きでしたが、江戸時代、漁のほか、塩やしょう油、素麺などの特産物を、京や大阪に売りに出していました。藩主の斉民が、遠くはなれた小豆島を津山藩領に希望したのは、これらの商売からあがる利益と海に注目したからかもしれません。
江戸時代には、小豆島からたくさんの若者が津山へ奉公に来ていました。現在は、津山から小豆島へ、観光や「おへんろさん」の八十八か所巡りで、多くの人が訪れているほか、スポーツ少年団が交流を行っています。


町指定史跡「陣屋の松」
淵崎小学校のあるところに、津山藩の陣屋がおかれていました。ペリー来航後は代官が常駐し、1858年には、大砲一門が備え付けられました。最後の代官平沼正雄(子どもの騏一郎はのちの内閣総理大臣)でした。


(津山教育委員会発行『私たちの津山の歴史』より抜粋)


その日の探訪の目的地を順次たどって見学しての帰路、フェリー乗り場に向かう途中に、旧「淵崎小学校」(廃校)はありました。その校地の中、大通りからよくみえる塀際に、「史跡 陣屋跡」の碑と掲示板がひっそりと立っていました。

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まだ朽ちてはいないコンクリート校舎に、もちろんのこと人の気配はなく、庭も草木が生い茂って、今日の感に打たれます。

ほかの見学地についてのご紹介は次回に譲るとして、心残りの「非見学地」について一言付記しておきます。

繰り返しになりますが、私にとって、小豆島と言えば「二十四の瞳」と、尾崎放哉。そして小豆島出身の故旧「アキコさん」が思い浮かびます。その尾崎放哉ゆかりの小豆島尾崎放哉記念館への案内ナビが見えましたが、今回も素通り。隣の席のOさんと、残念がったことでした。

そして、さらに今度は、秀吉から棄教を迫られ、領地と財産をすべて捨て小豆島に隠れ住んでいたというキリシタン大名高山右近の顕彰碑と像があるカトリック小豆島教会を見学するため、バスを駐車した付近に、こんな建物がありました。


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尾崎放哉資料館とあります。

あとで調べてみると、小豆島尾崎放哉記念館のHPにこうありました。

小豆島尾崎放哉記念館が開館されて以来、10年以上が経過し収集資料も充実してきましたが、何かと手狭な記念館では十分な展示もままならず、特に放哉直筆句稿274点をはじめとする貴重な資料の収蔵庫併設が望まれていました。しかし記念館敷地は狭小などの理由から併設は叶わず、記念館からはかなり離れた地である土庄町立図書館隣地での開設となりました。資料閲覧をご希望の皆様にはご不便をかけることになりますが、できるだけ多数の皆様にご利用いただきたいと望んでいます。


当資料館は、放哉が師の井泉水に寄せた句やハガキ、手紙類等を中心に井泉水直箪掛け軸や碧梧桐の直筆短冊、井上一二など放哉に関係した人たちの作品を収載しています。井泉水が朱を入れて手直しした跡もあるなど責重な第1級の資料であり、放哉全集にも掲載されていない物ばかりです。
展示室には放哉が小豆島で過ごした約八ケ月たらずの間に言き残した直筆の一部を選び展示しています。
没後80年・放哉が書き残した資料がここに収められています。

一行とちょっと離れて、Oさんと一緒に様子を窺いに近寄ってみますと、残念ながら鍵が掛かっています。注意書きを読んでみると、近くの図書館まで申し出れば開けてもらえるらしいのですが、後ろ髪引かれながら、みんなのあとを追ってカトリック小豆島教会に向かいます。

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この先、また来る機会があったら、今度こそ訪ねてみたいものです。

追伸。Oさんが、お土産に持ってきてくださった庭植えのキンカン。見るからに完熟の、艶やかに赤くて濃い色のとおりの、甘くジューシーな果実。一口食べると、後を引き、なかなか止められません。昨日と今日の内に、妻と2人で、すっかり平らげました。美味でした。Oさん、ありがとうございました。

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巣立ち、の巻 [折々散歩]

昨日の夜は、小学生と保育園の孫がお泊まり。


保育園児は、これまでも何回かチャレンジしながら、いつも夜中になると泣き出して、ママのもとに帰って寝るのでしたが、今回は我が家で眠ることができ、嬉しかったらしい。


機嫌良く朝早く起きてきました。朝食のパンがないので、コンビニまで歩いて買いに行きました。影法師の長いのが面白い様子。早朝は、肌寒いほどでしたが、どんどん気温が上がり、日中は三〇℃超の真夏日になりました。


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毎朝夕、ウオッチングしている,我が家の玄関軒下のツバメの近影を撮影し損ねています。


この写真は、5月22日の撮影です。


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すっかり羽根も生えそろって、雛というよりは精悍な若鳥の姿になっています。


そうこうするうちに、昨日一昨日頃には巣から出てきて、飛行練習をしたり玄関付近のアルミサッシに止まったりしていましたので、撮影しておこうと思いながら後回しにしておりましたら、いつの間にやらどこかへ行ってしまったのでしょうか、昨日の夜は帰ってきませんでした。


家の前の電線には止まったりしますが、あっさり巣立ってしまった模様です。


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近所のプチ散歩の途中、同じ年頃の若ツバメを見かけました。


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麦畑がいよいよ黄金色です。


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色とりどりのポピーが、つぎつぎに咲いています、


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ハルジオン。


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ブロッコリーの花とモンシロチョウ。


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この花。名前がおぼえられません。


ヤナギハナガサ(サンジャクバーベナ) でしたか?


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オオキンケイギクとモンキチョウ。



きょうはこれにて。


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庭の花はマクロの友達、の巻 [今日の「これなあに」?]

先日のこの記事。


カエル三題、の巻


昨日から一泊で、四国へ出かけてきました。泊めていただいたのは、大学時代の先輩のGご夫妻のお宅。


G先輩は、多趣味・活動的で、家屋内には何台もの自転車が「安置」してあって、健康な余暇をお過ごしのご様子は、前々から承知しておりましたが、このたびは、額に入った大きな写真(ワイド四切だとか)が、いくつか壁に飾ってありました。聞けば「写真クラブ」でご活躍の由。折に触れての撮影旅行のご様子も窺われる、素敵な写真を何枚も見せて下さいました。そして、垂涎の高級カメラ・レンズも、、、。


昨日は、退職同業者の親睦会の集まりがあり、その中で、例年催されている「作品展」の話題とともに、作品出品の「督促」をいただきました。心には掛かっていながらも、人様にお見せできるものもこれなく、ぐずぐず躊躇していたのですが、昨日今日と、この一年ほどのストック写真をあれこれ選別してはみたのですが、どうもこれと言ったものが見つかりません。とにかく、プリントアウトしてみないことにはイメージが定まりません(たいてい、モニター画面で見ていたのと比べて、がっかりすることの方が多いのですが)ので、ちょっと多めにネットプリントの注文をすることにしました。いつもは、2LサイズとかA4サイズとかで出品しているのですが、G先輩からの刺激もあって、弾みでワイド四切版を注文してしまいました。大きければいいというものでもないのですが(汗)さて、どのような仕上がりになりましょうか、、、、。


さて、今朝はこんなものを収穫しました。


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ずっと以前、こんな記事に書いた桑の実(マルベリー)です。この頃はカイコを飼育していたのでした。


今日のおカイコほか


わが家のお蚕様は、生まれた時期によって、まだこんなに小さいベビーもいます。



一方、先頭グループはすでに、次々と繭を作り終えて、サナギとしてじっと静かに横たわっています。


お蚕の食事用に、園芸店で苗木を買った「マルベリー(大実桑)」という桑の木が、玄関先の鉢で、実をつけ、黒く熟し始めています。


ほんのり酸味があって、なかなか甘くて美味でした。


この記事でも載せましたが、ちょうど今頃、庭にドクダミの花が咲いています。


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そしてユキノシタ。


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カタバミ(ムラサキカタバミ)でしょうか。


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それからこの花。


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いつも名前が思い出せません。「セキショウ」までは思い出すのですが曖昧です。「ニワセキショウ」ですね。漢字で書くと庭石菖。菖の字の通り「アヤメ」の仲間だそうです。


最後は、鉢植えの紫陽花の一種。ずっと前、母の日のプレゼントで、娘夫婦にいただいたものです。


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今日のマクロ写真は、RICOHGXRにGXR MOUNT A12を装着し、PENTAX-ライカマウントアダプターを介して、SIGMA50mm1:2.8MACROをつけて写しました。当然マニュアルフォーカスになりますが、意外に使いやすいです。今後も出番が増えそうです。


今日はこれにて。


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井泉水忌の麦、の巻 [今日の暦]

昨日書きかけて未完成のまま寝てしまった記事を、遅ればせに掲載します。


昨日は、俳人荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の命日だったことにちなんだ話題です。


荻原井泉水について、ブリタニカ国際大百科事典にはこう解説してあります。


[生]1884.6.16. 東京
[没]1976.5.20. 鎌倉
俳人。本名,藤吉。第一高等学校を経て 1908年東京大学言語学科卒業。ゲーテのエピグラム,シラーの2行詩から俳句の理論を発見,河東 (かわひがし) 碧梧桐の新傾向俳句運動に参加,雑誌『層雲』にその新理論を発表,さらに季題無用論を唱えたことで碧梧桐らと分裂,以後同誌を主宰して尾崎放哉,種田山頭火ほか多くの俊才を育てた。「俳句は象徴詩である」と主張,心境的な自由律俳句を発展させた。 55年昭和女子大学教授。 65年芸術院会員。代表句集『原泉』 (1960) ,『長流』 (64) 。




屋久島をはじめ、南の地方は激しい雨で被害の拡大が懸念されます。わが地方も、きのうごろから雨の予報でしたが、時たま、ぱらぱらっと降る程度で、風だけが強い荒れたお天気です。

今朝の夜明け頃。


虹が見えました。


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朝日を浴びた麦畑。


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コレットに「青い麦」という作品がありましたが、これは「黒い麦」ですね。これがライ麦でしょうか。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」は知っていますし、ライ麦パンは食べますが、実際のライ麦畑には、確信が持てません。


 


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実は昨日も、別の場所でこの麦を写しました。


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周囲の多くはこんな麦畑です。


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おそらくこれは、わが地方で多く生産されているビール麦(ビールオオムギ)で、○リンビール岡山工場へ運ばれて、「一番搾り」などに加工されるのだそうです。それにしても、麦畑、美しい光景です。有用性の故に美しく感じるのか、アプリオリに美しいのか、考えれば考えるほど難しいテーマです。


荻原井泉水にこんな句があります。小豆島 土庄町渕崎 本覚寺境内に句碑が建てられているそうです。


佛を信ず麦の穂の青きしんじつ


大正九年の春(三十七才)、下の句とともに小豆島で詠んだ句のひとつです。


島島の眺めよろしきこの島の神
汗も塩となる塩田かせぎの痩せよう
金色に熟れおもたくて落ちたり木の實
遍路行く方麦の穂は光りつづけり
岩に据えて瓢すわりよき山の頂き


   

弟子筋に当たる山東火、放哉については何度も書きました。たとえば、この記事。


散る桜残る桜も放哉忌(意味不明)


岡山後楽園の桜道 posted by (C)kazgこの記事この記事)が、空海を敬慕してその足跡を訪ねたのが西行、西行を敬慕して、その足跡を訪ねたのが良寛だといわれます。
その良寛さんを敬慕した人は、少なくはないでしょうが、その一人が、種田山頭火でした。

山頭火の句「岩のよろしさも良寛様の想ひで」が刻まれた石碑もここに建てられています。

さて、その 山頭火を思い出すと、決まって思い出す自由律俳人に、尾崎放哉がありますが、今日はまさに彼の忌日、「放哉忌」だそうです。

尾崎放哉については、この記事や、この記事や、この記事や、この記事で話題にしました。享年41歳。若すぎます。


一番古い記事がこれでしょうか?


羽毛舞わせて食われる鳥を喰う鳥だ


最近、尾崎放哉の句を斜め読みした影響か、リズムが移ってしまったかも知れません。

昔から、 放哉は好きです。

咳をしても一人 放哉

等は、特に好きです。どんな人生を歩んだ人だったか、など、ほとんど知りませんでした。 吉村昭の「海も暮れきる」は、克明な調査に基づいて書かれていて、彼の生活と句とが不離一体のものとして心にしみこんできます。


その尾崎放哉の葬儀に当たって小豆島を訪ねた井泉水は、こう書いています。


「(略)瀬戸内海の春はほんとうに長閑だった。麦が青く伸ぴてゐる畠も、船の近くに見えた。雲雀の鳴いてゐるのも聞こえた。彼の小豆島も亦、その通りに違ひない。此佳い風景の中にー此春光を待ちあぐんだ末にー彼が死んでしまったとは如何にも残念な事におもはれた。(略)・・・」(「放哉を葬る」(層雲大正十五年六月~八月号))




「層雲」は、後にプロレタリア俳句運動に向かう橋本夢道や栗林一石路らを輩出。興味は尽きません。


麦を詠んだ句をメモしておきます。


ふるさとや麦の穂うるるしんじつに 栗林一石路
勤めの青年麦の穂をあおあおもちくる 栗林一石路
食わぬ野郎にもまばゆいばかりに熟れた麦畑 橋本夢道


夜になって強い雨が降り、今朝は快晴です。


今日はこれにて。


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カエルカエル(蛙帰る)、の巻 [折々散歩]

前回記事の通り、手足の生え始めたオタマジャクシを、元の場所に帰してやることにしました。水槽の中に入れた大きめの石の上によじ登っているものもいます。

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孫たちに誘いをかけますが、高校生は部活、小学生も用事があるそうで、保育園児の末妹と同行しました。

ビニール袋に入れて運びます。

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個体によって、かなり体格差があります。ひょっとすると別の種類の蛙かも知れません。

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成体になるまで見届けてみたい気もしますが、さようなら、元気でね。

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放流してやったものの、近くには魚捕り網を持った子どもたちの姿もありましたし、あるいは天敵に狙われる苛酷な運命が待ち受けているかも知れません。以前こんな記事を書きましたが、、、

「これなあに?」3連発、の巻


シマヘビに喰われるツチガエルでしょうか?
古い記事を引用しておきます。
芋の葉を日傘に幼き蛙哉

彼らの姿、動き、表情は,見ていて飽きません。
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カエルと言えば草野心平氏の詩を思い出す人も多いことでしょう。
「第百階級」という詩集の題名からして、市民を意味する「第三階級」(僧シェイエス)より、いっそう格段に底辺に生きる存在への共感が根底にある。カエルは、力弱く、心優しく、底辺に生きる存在であり、詩人もまたその同類なのでしょう。
「第百階級」から一編紹介しておきます。
ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉 草野心平
痛いのは当り前じゃないか。
声をたてるのも当りまへだらうじやないか。
ギリギリ喰はれているんだから。
おれはちっとも泣かないんだが。
遠くでするコーラスに合はして歌ひたいんだが。
泣き出すことも当り前じゃないか。
みんな生理のお話じゃないか。
どてっぱらから両脚はグチヤグチャ喰ひちぎられてしまって。
いま逆歯が胸んところに突きささったが。
どうせもうすぐ死ぬだらうが。
みんなの言ふのを笑ひながして。
こいつの尻っぽに喰らひついたおれが。
解りすぎる程当然こいつに喰らひつかれて。
解りすぎる程はっきり死んでゆくのに。
後悔なんてものは微塵もなからうじゃないか。
泣き声なんてものは。
仲間よ安心しろ。
みんな生理のお話じゃないか。
おれはこいつの食道をギリリギリリさがってゆく。
ガルルがやられたときのやうに。
こいつは木にまきついておれを圧しつぶすのだ。
そしたらおれはぐちゃぐちゃになるのだ。
フンそいつがなんだ。
死んだら死んだで生きてゆくのだ。
おれの死際に君たちの万歳コーラスがきこえるように。
ドシドシガンガン歌ってくれ。
しみったれいはなかったおれじゃないか。
ゲリゲじゃないか。
満月じゃないか。
十五夜はおれたちのお祭じゃあないか。

夜は雨になっていますが、昼間は、風は強いがよく晴れていました。

元気に駆け回って遊びました。

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ミニバラが美しく咲いていました。

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トイレを借りると、男子トイレの天井辺りに、ツバメが巣をかけており、雛が大きく育っていました。図らずも臭い仲とあいなった次第ですが、臭いを我慢すれば、ここは天敵もない安全地帯なのでしょうかね?

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ところで下は、我が家の軒下のツバメの雛です。いつのまにか、こんなに大きくなっています。

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今年の雛は、不思議に、声を出して餌をせがむことをしません。生命力が弱いのかと疑ってもみましたが、今の所順調に成長しているようです。我が家の敷地内を、いつも2~3匹の野良猫が我が物顔に行き来していて、ところ構わず糞尿を置き土産にしたり、夜中に植木鉢を倒したりしてくれます。お隣さんの柿の木の植えの方まで登っているのも見かけました。以前、ツバメもキジバトも襲われて死んだことがありました。一番嫌疑が濃厚なのは、猫ちゃんですが、あるいはイタチなども遠征してきたのかも知れません。またある時は、玄関先に立っている私の上に、どさっと落ちてきたのがかなり大きめの蛇で、一瞬たまげたことがありました。

いずれにしても、ツバメくんたちにとっては住みよい環境とは言えませんが、どうか無事に巣立ってほしいものです。

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今日はこれにて。


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カエル三題、の巻 [雑話]

三題噺を一席。


1)変える


前回記事を書いた後、ネット上でこんな秀逸な四コマ漫画をみつけました。


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作者のぼうごなつこさんについては、この記事でも紹介させていただいたことがあります。


猛暑日の涙、の巻


最後にこんなマンガを紹介させていただきます。

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まんがイラスト ぼうごなつこのページからお借りしました。


ところで、丸山穂高議員のトンデモ発言の潜在的底流についてリテラ5月14日・15日付記事がこんな指摘をしています。同感です。


「戦争」発言の丸山穂高だけじゃない、維新はネトウヨの巣窟(5/14)


もちろん、これは丸山議員個人だけの問題ではないだろう。周知の通り、維新の会は自民党と比肩するネトウヨ議員の巣窟と言っていい。

その代表格が“暴言王”などと呼ばれて悦に入っている足立康史衆院議員だ。周知のように「アホ」「バカ」「死ね」が口癖で品性下劣そのもの。(中略)

地元・大阪ではもっと露骨だ。2017年の衆議院選挙には、橋下徹氏の大阪市長時代の元秘書である奥下剛光氏が維新から立候補したが、その直前、ヘイト団体・在特会の元関西支部長である増木重夫氏が事務局長をつとめる団体が奥下氏を応援する講演会を開催しようとしていたことが発覚した。講演自体は取材の動きを知った奥下氏がキャンセルしたが、会には辻淳子・大阪市議ら維新の地方議員が参加していた。

大阪では、こうしたかたちで維新とネトウヨ・ヘイト勢力の融合が進んでいるのだが、それ以前に政治家としての資質が問われる言動をする府議、市議が多数いる。維新所属または当時所属していた議員の不祥事をいくつか挙げてみるとこんな感じだ。

経営していた整骨院で療養費をだまし取り詐欺罪で実刑判決をくらう市議、忘年会帰りに泥酔してタクシー内で暴れる府議、女子中学生らを集会に勝手に誘ってLINEで無視されると「ただで済まさない」「身元を特定している」などと恫喝する府議、宴席で女性市議の胸を触る写真が報じられ「触診です」と苦しい言い訳の市議、その女性市議の足の匂いを嗅ぐ市議、飲酒運転でひき逃げする市議(有罪)……。

というか、そもそも松井一郎代表じたいが、今年4月の大阪W選挙でネトウヨサイトのデマをリツイートして拡散するような政治家だ。「透析患者は殺せ」の長谷川豊氏を2017年総選挙に続き今年の参院選と国政選挙に擁立しているという“実績”も忘れてはならない。

 


安倍首相の思想は“戦争しないと”丸山穂高と変わらない! 過去に「日本人も血を流せ」「尖閣は外交でなく物理的な力で」発言(5/15)


維新・丸山穂高議員による「戦争しないとどうしようもなくないですか」発言。維新は火消しに躍起で丸山議員を除名処分にしたが、しかし、今回の問題、跳ね上がり議員が酒の勢いで口を滑らせた、ということで終わらせてはいけない。

なぜなら、あの発言の根っこにあるネトウヨ丸出しの浅薄な“戦争扇動”思想は丸山議員にかぎったものではないからだ。歴史修正によって過去の侵略戦争を美化し、国民が国を守るために命をかけることを迫り、日本人が血を流す未来の戦争を煽る──。こうした姿勢の議員は政権与党である自民党にこそ、やまほどいる。

そして、この頂点にいるのがほかでもない、総理大臣である安倍晋三だ。


また、ちょっと古いこの記事もついでに引用させていただきます。


石原慎太郎が「野望は中国との戦争」(2014/08)


日本維新の会解党にともなって、「次世代の党」をたちあげ、最高顧問の椅子に座った石原慎太郎。22人という予想以上の数の議員を集めたこの石原新党は同じく自主憲法制定をめざす安倍政権とも急接近しており、将来的には公明党にかわって与党の一角を占める可能性も出てきた。

ところが、そんな政局のキーマンともいえる石原慎太郎がここにきて、とてつもなく危険な発言をしたことをご存知だろうか。

石原は先日、発売された「週刊現代」(8月9日号)で、今の野望は何か、と聞かれてこう答えたのだ。

「支那(中国)と戦争して勝つこと」


とどめは、これでしょうか。


ミタパンも批判…自民党の「失言防止マニュアル」が酷い!


大きな批判が巻き起こっている日本維新の会所属だった丸山穂高議員による「戦争しないとどうしようもなくないですか」という言語道断の暴言。だが、これが他人事ではないのは、“暴言の宝庫”である安倍自民党だろう。実際、4月には「総理とか副総理が言えないので、私が忖度した」と発言した塚田一郎・国土交通副大臣や「復興以上に大事なのは議員」と述べた桜田義孝五輪相(いずれも当時)が相次いで辞任しているからだ。

しかし、そんななかで安倍自民党の“無反省体質”を如実に象徴するような問題が浮上した。

それは、自民党が参院選を控えて“失言防止マニュアル”を作成、党内に配布していたことがわかったからだ。

(中略 )

この“失言防止マニュアル”に対しては疑義の声が殺到。御用メディアであるフジテレビの『FNN Live News α』ですら、メインキャスターを務める三田友梨佳アナウンサーが、このように苦言を呈した。

「必要なのはマニュアルではなく判断力なのではないでしょうか。言って良いことと悪いことの判断は、誰かに言われてではなく、自ら責任を持っていただきたいです。マニュアルが必要になる時点で、国会議員の資質とは一体何なのか、考えてしまいます」

このミタパンの的を射た指摘は、Twitterで〈正論を言うミタパン〉というコメントつきで拡散され、17日21時現在、約2万7000リツイート、「いいね」は約11万もついている。

こんな対策では、自民党議員の暴言癖がなくなることはまずもってないだろう。問題なのは、為政者が差別的な暴言を吐き、それを謝罪もせずに済ませたとき、その暴言は暴言ではないと社会にお墨付きを与えてしまうことだ。そして、「暴言の宝庫」たる安倍自民党がそうした問題にまったく無反省であることが、これではっきりとした。差別の再生産、社会への偏見の蔓延も食い止めるには、この思い上がった政党を与党から引きずり下ろすほかないのである。

(編集部)


そろそろ変える時でしょう。




2)帰る


話は変わって、昨日の朝日新聞岡山版短歌欄に、こんな歌が掲載されていました。


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「イチローと同じ名を持つわが叔父は南の島の海底に眠る」


作者の叔父様は、1944年、フィリピン沖で乗っていた輸送船が爆撃を受けて船と共に沈み、帰らぬ人となられました。22歳くらいだった由。痛ましいことです。


そう言えば、妻の叔父は、十代の若さで志願して戦地に赴き、搭乗機が撃墜されて亡くなりました。その話題は、以前この記事に書きました。


もう一つの「今日は何の日」


ちなみに、軍用飛行機や艦船、戦車などのプラモデル製作にあこがれながら、気ままに購入できもしない子ども時代、カタログを丹念に眺めて心を躍らせたものでしたが、一番のお気に入りは、そのフォルムの際だつ三式戦闘機「飛燕」でした。独特のフォルムは、空冷エンジンを積載していたためだそうで、爆音も独特のものだったそうですね。
さらにちなみに、たまたまのきっかけで「一式陸攻」のプラモデルを作ってから、この無骨な攻撃機に親愛感と愛着を覚えておりました。ところで、妻の、亡くなった父親は、海軍で戦艦などに乗った軍人でしたが、死線をくぐって生きて復員し、90歳を越える天寿を全うしました。穏やかで、慈愛に富む人柄でしたが、天皇への崇敬と、「大東亜戦争」の「正当性」へのこだわりは、終生、曲げることがありませんでした。また、その弟(妻にとっては叔父)は、少年兵として志願していくさに赴き、10代の若さで戦死されたと聞いていました。仏壇の上の額には、戦闘服・戦闘帽を着けた凛々しい少年の遺影が飾ってあります。その戦死の模様はつまびらかでなく、遺骨も帰ってきていません。
義兄(妻の兄)が、厚生労働省などを通じて調べたところによると、戦死時に搭乗していたのは、この一式陸攻だったそうです。いのちを共にしたその愛機は、あるいは、この水島工場で生産された機体だったかも知れません。


かりそめにも「戦争」を口にするならば、このようにあたら若い命を戦場に散らし、ふたたび帰ることのなかった無数の人たちのことを、思いみることがなくてはなりますまい。ブログを始めたばかりの頃(2013年)こんな記事を書きました。


すすり泣くごとく木枯らし吹きすさぶ


海に出て木枯帰るところなし 山口誓子

スケールの大きい、そして何か寂寥感のただよう句として、高校生の頃から耳に残っていました。力の限り吹きすさんだ木枯らしが、荒れ果てた海の上を、目当てを失って右往左往しながら、途方に暮れて、なおむなしく暴れまわっている様が、印象的です。なによりも、木枯らしを擬人化するという発想に、意表を突かれました。

最近、この句にもう一つの含意があることを知りました。
呑亀さん(http://profile.ameba.jp/msato0596/)が、国会図書館のマイクロフィルムの中から発掘された資料によると、昭和三十二年発行の雑誌『財界』五月号で、作者はこう述べているそうです。
http://ameblo.jp/msato0596/entry-11410983063.html

「十一月十九日
海に出て木枯帰るところなし
この句は、後に世評に上った句であるが、昭和十九年の作である。この句を作った同じ日に、
ことごとく木枯去って陸になし
といふ句がある。陸上を吹いて走ってゐた木枯はすべて海上に出尽し、陸上は静まりかへってゐるといふのである。
「海に出て」の句は、この句を経て、更に木枯を主体化したものである。吾が身が木枯になって海に出たきり、最早陸地へ帰ることはないといふのである。この句を作ったとき私は特攻隊の片道飛行のことを念頭に置いてゐた。この句はあの無残な戦法の犠牲者を悼む句でもあった。」

木枯らしの、叫びを上げて荒れ狂い、静まってはまた、時折自制心を失ったかのように荒れ狂うさまに、「神風」と祭り上げられて特攻にかり出された若者たちの、痛ましい姿が二重写しになっていたのです。
同じ作者のこんな句もよく知られています。 
学問のさびしさに堪へ炭をつぐ 山口誓子
「学問のさびしさ」は与謝野晶子が、まだ鳳晶子であった頃、与謝野鉄幹(寛)を思って詠んだこの歌と通うところがあるでしょう。
やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君 与謝野晶子
こんな真摯な克己心と自己研鑽を重ねながら、学問を修め、身を修めて、立派に成長した若者が、その学問と人生を花開かせることなく、むなしく戦場の露として、海に、大陸に、南方諸島に消えていったのです。
戦没学徒の遺稿を集めた「きけわだつみのこえ」の冒頭にはこの言葉が書き留められ、現在を生きる者たちに、静かに呼びかけています。

「嘆(なげ)けるか 怒(いか)れるか
はた黙(もだ)せるか
聞け はてしなきわだつみのこえ

(中略)

ところで、 やたら「美しい日本」「強い日本」を強調する安倍サンが首相になって、またぞろ、威勢のいい方々の声がかまびすしく聞こえるようになってきたようです。TVやマスコミ上にも、近代日本の侵略の歴史を認めない、日本国憲法化の民主的諸制度や人権尊重の思潮に不満、アジア諸国民への蔑視と排外主義、社会的弱者への蔑視という傾向を持った言説が、目立ちます。
ネット界でも、「ネトウヨ」と呼ばれる得体の知れない種族が、近年増殖しているそうですね。
体系的な思想潮流や勢力ではないので、ますますとらえどころがなく、おつきあいの仕方も定まらないので、お近づきにならないのが賢明とは思うのですが、社会的存在としては無視できない勢いのようで、困ったものです。特に、その攻撃のターゲットとされた方々の心情を思うと、面と向かって反論することも適わず、いわれのない侮蔑にさらされ続けることの心労はいかばかりかと、暗い気持ちになります。

(中略)

それにしても、こういう風潮を背景にして、またこういう風潮をあおりながら、安倍さんがすすもうとしているのが、「いつか来た道」でなければと、切に願います。

(中略)

(百八十五回国会での所信表明演説で)「憲法改正」だけは妙にぎらぎらとして具体的で、本気でやるつもりのように聞こえますね。
どうか、安倍さん。「国民的な議論」の際に、どうか、 「嘆(なげ)けるか 怒(いか)れるか はた黙(もだ)せるか」わからない、かすかな「わだつみのこえ」や、「木枯らしのこえ」に、真摯に耳を傾けて欲しいものです。




3)蛙


昨日から一泊で、四国へ出かけてきました。泊めていただいたのは、大学時代の先輩のGご夫妻のお宅。数年おきにやっている、大学時代のサークル仲間の同窓会を、この秋に開催するための打ち合わせ会に、先輩後輩含めて10人ほどが集まった次第。おおかたは当ブログの常連の面々で、「イチローと同じ名を持つ」イチローさんご夫妻も、おいででした。


大事な会議は、1時間ほどで終わり、後は久闊を叙し歓談です。銘酒や名産、地元の菓子などを持ち寄り、大いに飲み、大いに語りました。気がつくと、日付が変わっていました。みなさん、元気なものです。今朝見ると、一升瓶が3本、きれいに空になっておりました。ほかに、ビールも、梅酒やワインもありました。美味しいお酒でした。写真に収めておけばよかったと後悔。


昼過ぎに帰ってきましたら、GWに孫たちが捕まえてきて、我が家の小さな水槽で飼っているオタマジャクシが、蛙になりかけているそうです。


おたま


割れ鍋に綴じ蓋、の巻


まだシッポは残っていますが、足はちゃんと生えて、時々小高い石の上によじのぼり水上に上がっているのに気づいたのは、4歳の保育園児だそうです。


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2匹並んでいるように見えるのは、ガラスが鏡になっているのです。


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もうすぐ地上に上がるタイミングのようですし、成体になると餌の確保も難しいので、明日にでも逃がしに行こうと話がまとまっているようです。


小六の孫は、保健室登校の時期、折り紙をして時間を費やすことが多かったようです。凝った作品を作って、持って帰るので、我が家の玄関先やピアノの上などに飾っていますが、それ以外に段ボール箱一杯溜まっています。きちんと写真に残しておくように妻に言われていますが、まだ着手できていません。


今日、試しに蛙の折り紙を写してみました。


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上に小さな子蛙?が乗ります


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明るいところで写してみます。


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こんな模様の紙でも追ってます。


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今日はこれにて。


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いとすさまじ、の巻 [時事]

書きかけては、ゲンナリして中断している記事があります。


丸山穂高というトンデモ議員のトンデモ発言。


ネット記事を一部引用します。


丸山穂高議員が「報復」示唆。辞職勧告の動きに「ほかの議員の不祥事を世に問いかける」HUFFPOST(2019年05月16日 13時51分)


朝日新聞デジタルなどによると、問題発言があったのは5月11日夜。丸山氏はビザなし訪問団の一員として国後島を訪問中で、当時、ロシア側との公式行事が終わった後、島にある施設「友好の家」で訪問団のメンバーらと懇談中だった。

丸山氏は酒に酔いながら、国後島出身で訪問団の団長を務めていた大塚小弥太さん(89)に対し、「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」などと質問した。

大塚さんがなんども戦争を否定しているのにも関わらず、「戦争しないとどうしようもなくないですか」などと、戦争によって島を取り返すことに賛成を求めるかのような問いかけを繰り返した。

2人のやり取りは以下の通り。

丸山氏「団長は戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」

大塚氏「戦争で?ああ、反対、は、はんた…」

丸山氏「だからロシアが混乱しているときに、取り返すのはオーケーですか」

大塚氏「いや、戦争なんて言葉は使いたくないです。使いたくない」

丸山氏「でも取り返せないですよね」

大塚氏「いや、戦争したって…戦争するべきではない」

丸山氏「戦争しないとどうしようもなくないですか」

大塚氏「いや、戦争は必要ない」

(中略)

丸山氏「何をどうしたいんですか」

大塚氏「え?」

丸山氏「何をどうしますか」

大塚氏「何をですか」

丸山氏「うん。どうすれば」

大塚氏「どうすれば、って何をですか」

丸山氏「うん」

大塚氏「いや、何をどうすればいいって言って…」

丸山氏「この島を。この島を」

大塚氏「それを私に聞かれても困ります。…率直に言うと、返してもらったら一番いい」

丸山氏「戦争なく」

大塚氏「戦争なく。はい。戦争はすべきではないと思います。これは個人的な意見です」

丸山氏「なるほどね」

大塚氏「はい」

丸山氏「※」 ※聞き取れず

大塚氏「早く平和条約を結んで、解決してほしいです」

訪問団員の制止聞かず

丸山氏は問題発言の前、交流の一環でロシア人島民の個人宅を訪れ、飲酒していたという。

丸山氏は別の訪問団メンバーの制止を聞かず、大塚さんとのやりとりを終えた後も大声で騒いだり、決まりに反して友好の家の敷地外に出ようとしたという。

丸山氏に対し、複数の訪問団メンバーが抗議し、翌12日になって全訪問団メンバーの前で謝罪したという。


(中略)

丸山氏は日本維新の会に所属していたが、松井一郎代表(大阪市長)が「辞職するべきだ」として除名処分を決定。さらには、与野党に対し、辞職勧告決議案の提出を呼びかけた。

共同通信によると、立憲民主、国民新党、共産など野党5党派は検討を始めた。一方、自民党は慎重な姿勢を取っているという。

これに対し、丸山氏はTwitterで「これより先の期間は無所属で活動する」と辞職する意思がないことを表明した。

(中略)

その上で、辞職勧告決議案が提出された場合、YouTubeなどで「北方領土問題を含め日露外交の問題から、与野党の議場で不問になっている過去の他議員不祥事」などについて問題にする姿勢を示した。

憲政史上例を見ない、言論府が自らの首を絞める辞職勧告決議案かと。提出され審議されるなら、こちらも相応の反論や弁明を行います。ただ問題は、議運委や本会議では本人からの弁明機会の機会すら無い。その場合には、この機会にyoutube等で自ら国内外へ以下の様々な配信を。

 


 


あきれたこの人物について、以前書いた記憶があります。


これらの記事です。


 


226思いつくまま、の巻


 


 


これだけは忘れない、の巻


 


共謀罪が衆院で強行されました。
とにかく最近忘れっぽくて困りますが、これだけは忘れないようにしなくてはなりません。
強行採決の口火を切ったのは、最後の質問者、「野党」維新の丸山穂高議員。「30時間以上質疑してきた。これ以上は足を引っ張る事が目的のピント外れの質疑は必要ない。論点も整理されて時は来た。私の質疑のあと、ただちに採決してほしい」とさ。このヒト法務委員でもない外野のヒト。維新という存在、「補完勢力」という手厳しい呼び方にいささかためらいもありましたが、今やそれ以外の何者でもありませんね。
そういえば、昭和初期、5・15、2・26等のクーデター事件を引き起こした青年将校や民間右翼の唱えたスローガンが「昭和維新」でしたね。彼らの暴力的な妄動によって妄動によって掃き清められた道の先には、暗黒の国家総動員体制が待っていました。役目を終えた「昭和維新」のスローガンは、用済みとなって立ち消えて行きました。その歴史を知った上で、彼らは「維新」を名乗っているのでしょうかね。
書きたい記事はこれではありませんでしたが、備忘のために記録しておきます。


「言論府」などという言葉を用いる資格がある御仁ですかね?


この記事へのコメントに、今は亡きmajyo様がこう書いておられました。


維新の丸山穂高、私は忘れません。この人の事を
本当に頭に来ました。何を知っているのでしょう
何を学んだのでしょう
強いものにすり寄る嫌な男、許しがたい男として忘れません
by majyo (2017-05-20 18:42) 


そして、アヨアン・イゴカー様もこうコメントして下さいました。


>強いものにすり寄る嫌な男、許しがたい男として忘れません
テレビで彼が発言するのを見て、ぞっとしました。
人間には二種類あって、独立していきることが自由であると感じる型と、
隷属して命令に従っているほうが自由に感じられる型。
彼は、隷属型であることは間違いありません。一見、自己主張しているように見えますがとどのつまりは、作られた組織の中、敷かれたレールの上、他者の決めた価値観をそのまま受け入れて生きる奴隷人間に過ぎません。自分の基準がないからです。奴隷型の人間が危険なのは、他者の立場、環境を思い遣る能力が欠如しているからです。
by アヨアン・イゴカー (2017-05-21 23:06) 


「強いものにすり寄る」隷属型奴隷人間が、その「身の程」を忘れて、自分に力があると錯覚してしまうのでしょうかね。


言いたいことは山ほどありますが、しらけてしまって書く気になれません。


枕草子に「すさまじきもの」という章段があり、何度か引用しました。


福は内 福は内とて 春待たる


「すさまじ」という古語は、現代語のニュアンスとはかなり異なっていて、「興ざめだ」とか。「殺風景だ」とか訳されます。くだけた言葉で言えば、「しらける」「ドッチラケル」という感じでしょうか。


今日はこれにて。


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切り抜き帳を引っ張り出してみました、の巻 [私の切り抜き帳]

隣に座っておられた元小学校教師のA女史と、講演の感想を二言三言言い合いました。


これまでうすうす感じていたこと、これこれだろうと考えていたこと、言ってきたことが、改めてスッキリ整理され、小気味よいほどにズバリと解明されたという感じが、共通していたようでした。


そう言えば、昔こんな資料を作ったことがありました(1997/7/27)


。一部抜粋。


Ⅰ.子どもをどうとらえるか

1.(前略)

*今日の高校生の一般的特徴(問題点を中心に)

① 自立の遅れと自己充実感の希薄さ

生活経験の不足、人間関係の希薄化による発達課題の未達成が要因で無気力・無関心・意欲的な生活態度の欠如が見られる。このような生徒は自主的な行動への要求が弱く、集団の一員として自立的に行動し、自ら問題を解決する能力に乏しい。

② 学校への不適応

進学競争の過熱する現状にあって高校に入学する少なくない生徒が不本意入学の状態にあり、入学当初から学校の生活に違和感を持っている。本人の個性や能力・進路の希望に基づくことなく、学力等の理由だけで必ずしも希望しない高校や学科に入学した生徒は、学校での学習内容に興味をもつことができず、また、高校に学ぶ誇りを持ち得ないということが起こりうる。

③ 学習に興味を示さない生徒

学習内容が理解できない、教材等に興味がもてない、自分の個性や能力が十分に発揮できないなどの理由から学習に意欲を示さない生徒や授業についていけない生徒が増えている。

④幼さ(幼さ 石田一宏 精神科医)

現在の高校生の問題性は、環境が変わればよくなるという単純なものではない。子供時代の脳の発達、その複雑な表現としての「心」の発達という面から言えば、高校生の脳や「心」は、すでに乳幼児期から学童期を経た発達のプロセスの十数年の進行の結果なのである。「幼い高校生」は、やはり過去の発達の結果として「幼い」のである。教師は「幼い」という現実をふまえて、高校生の今の環境との関わりを分析し、そこでの自己変革を期待するしかない。

2.からだのおかしさ(竹内常一「日本の学校のゆくえ」太郎次郎社 第二章を中心に)

*「最近ふえているからだのおかしさ」日本体育大学体育研究所調査(1984年)

 

1978年

1984年

1.アレルギー

26%

77.0%

2.背中ぐにゃ

44%

75.7%

3.すぐ「疲れた」という

資料なし

73.3%

4.朝からあくび

31%

62.4%

5.転んでも手が出ない

20%

59.9%

6.腹痛・頭痛

資料なし

57.7%

7.ボールが目に当たる

9%

59.2%

・小学校 ①朝からあくび。②背中ぐにゃ。③アレルギーが増えている。

・中学校 ①朝からあくび。②朝礼でバタン。③貧血。④アレルギー。⑤腰痛。

・高校 ①貧血。②腰痛。③高血圧。④心臓病。(成人病が早くなった感じ)

最近の子どもは、体力的には、背筋力を除いて向上してきているし、病気も少ない。しかし、つかれやすい。これは、脳に問題があるのではないか。----①前頭葉(意志、感情をつかさどる)の働きの強さが出てくるのが遅れている。②血圧の調整機能(脳幹の中枢あたりにある)が発達していない子どもが増えているのではないか.---(正木武雄氏)

3.保健室を訪れる子どもの激増

(中略)

*背後に進行するもの

①自律神経系の未成熟または失調

②アレルギー疾患の激増

③心身症・神経症的傾向のひろがり

【① 自律神経系の未成熟】

正木健雄氏の指摘 背中ぐにゃの主因 背筋力の低下とともに自律神経の未成熟。

調査方法 臥位姿勢から急に座位姿勢になるときの血圧調節機能を調べる

1956年調査 血圧調節不調群は、ギャング・エイジの小学校高学年に激減。その後、思春期に一時増加するものの、14歳を境に減少。17~18歳では、大人の数値に接近。

1984年調査 小四まで増加し続け、小五でわずかに減少。かつてのギャングエイジに激減しない。さらに、小六には増加に転じ、一四歳を過ぎても減少しない。17~18歳でも60パーセントの高水準。

[自律神経系] 血圧調節のみならず、呼吸・循環・消化・吸収・生殖などの植物的機能に働き、運動・知覚などの動物的機能を支える。内分泌系ならびに免疫系とともに、人間の防衛体力・自然治癒力を構成している。

自律神経系は、これまでは、自然に成熟するものであって、特別に発達させる必要のあるものとは見なされなかった。(中略)(それが、)自然に成熟しないために、自律神経系によって媒介されているからだと心のあらゆる面において異変が噴き出してきている信之である。そしてそれが、自律神経失調症候群の激発といってもよい状況を今日の子どもの中につくりだしている。

このために、自律神経系の成熟を前提にしているはずの学校教育そのものが、子どものおかしな行動に大きく揺さぶられている。ところが、学校は、このような子どもたちの問題事態を視野に入れないで、権威的・競争的な秩序を子どもにおしつけ続けているために、子どもたちのからだと心の異変が増幅している。その結果、教師と子どものトラブルが広がり、子どもが保健室にかけこむほかないという事態になっている。

【② 急増するアレルギー疾患】

(中略)

・腹痛、吐き気、下痢・便秘、疲れやすい、肩こり、頭痛、咽喉痛、たちくらみ等の愁訴も、アレルギーや、アレルギー緊張・弛緩症候群から生じている可能性がある。

[アレルギー緊張・弛緩症候群]

緊張症状----「じっとしていられない、からだをゆったりできない、びんぼうゆすり、興奮しやすい、イライラする、怒りっぽい、乱暴な行動、衝動的な行動、集中時間が短い、音・温度・光・臭い・接触などに過敏、知覚・味覚・臭覚の異常」など。

弛緩症状----「だるい、疲れやすい、無気力、あくびが多い、いつも眠い、不活発、不精、のろま、難聴、よく眠った後でかえって疲れを感じる」など。

随伴症状----「顔色不良、眼の下のクマ・シワ、腫れぼったい眼瞼、鼻汁・鼻閉、口角炎、口唇の亀裂・腫脹、湿疹、気管支喘息、著明な発汗、頭痛、嘔吐、腹痛、便秘・下痢、夜尿・頻尿、下肢痛、乗り物酔い」など。

まれな精神神経異常と行動異常----「非現実的な考え方、説明のつかない奇妙な行動、誇大妄想・虚言・不眠、チック、学業成績の低下、登校拒否」など。

・アレルギー疾患の子どもの1割が、アレルギー緊張・弛緩症候群。

・近年、ギャングエイジにアレルギー疾患から解放される傾向が著しく弱まり、アレルギー疾患が症状を変えていつまでも続くアレルギー・マーチの傾向顕著。

【③ からだと心の自己防衛としての心身症・神経症】

*「子ども白書」1991年版

精神症状---不安・強迫

身体症状---夜尿・チック・痛み・嘔吐

行動面------不登校、家庭内暴力、夜驚、夢中遊行、緘黙、吃音 などが多い。

*山中康裕「心にエネルギーが注がれないと、人間は生ききれないし、死にきれない」

(「ひと」1992.4月号)

行動化---衝動的暴力など

身体化---身体症状として現れる

内閉化---ひきこもりなど

強迫化---手洗い強迫など

→心が不安によって悩まなくなり、悩めなくなっている。

・これらの症状の「症状連合」、「症状移動」の傾向も強まっている。

4. 子どもに何がおこっているか

*人間存在

①大脳皮質と大脳辺縁部(古い皮質)との関連構造。

②脳幹部と自律神経系・内分泌系・免疫系からなる関連構造。

①と②は、大脳辺縁部と脳幹部によって連結されている。

第1-あまりにも人工的・文化的な環境とギャング・エイジの消滅のために②が成熟していない。→ホメオスターシス(生体が環境への対応や生命維持のために営む動的な平衡状態)の混乱。→①の混乱→諸症状

第2-アレルギーが、人間存在の基層である②を侵し、自律神経系のセンサーである皮膚に症状が現れる。

第3-今日の子育て・教育・生活システムと人間関係の全体が、自我と衝動・情動との、言い換えれば、大脳新皮質と大脳辺縁部との分化と統一を妨げている。→人間的な感情の座としての前頭葉の発達不全と人間存在の基礎である脳幹部と自律神経系・免疫系・内分泌系のトラブルを生み出す。


「何か変」と感じながら、その正体が掴みかねていた子どもたちの心とからだの状況に直面して、どうにかしてその実体と原因、打開の道を探りたいと、専門外の知見をやみくもに漁りながら、こんな書き抜きもしていました(1998年夏)


[資料1]教育をめぐる三つの困難状況

(久富善之「『参加・自治』時代の学校づくりへの希望」---「高校のひろば」27より)

① 教育の目的的存在である子ども・青年の間に、小学校からそして中・高では殺傷事件にもつながっているような「新しい荒れ」のひろがりと、中学や特に高校で目立つ「浮遊化(家族的・学校秩序から離れて、消費的情報文化風俗のフロンティアに係留なく泳ぎ出ているかに見える現象)とがある点。→子ども・青年がおとなからの「教育的働きかけを拒否し、そこで伝達しようとしている知識・規範・価値を拒絶しているかのように見える。→大人と子ども・青年とのあいだの世代的な「形成・教育関係」のそもそもの成立を、家族でも学校でもそして地域や全体社会でも困難にしている。

② 「新自由主義」を主調とする「教育改革」が上から急テンポで展開・進行している→困難に本当に責任ある者たちが「現実への批判者」を装うという転倒した構図の中で、公的教育保障のレベルダウンが進んでいくという事態が生じている。

③ 教師の疲労、心身症、バーンアウト現職死亡などが広がって、日本の学校教師の仕事・働きがい・アイデンティティを支えてきた歴史的諸条件の衰退・崩壊がそこに感じられる。

←→「参加・自治」というキイワードに収斂するような動きが下からいっせいに強まりつつあるように思える。

[資料2]新しい「荒れ」

(1)突然「キレル」子

子どもの心の奥底には(社説) 「朝日」 98.01.30 朝刊

わたくしたち大人は、なにかとてつもなく大きなものを見落としているのではないだろうか。いや、見ようとしていない、といった方がいいのかもしれない。

栃木県の中学校で、十三歳の一年生が女性教諭をナイフで刺した事件のことだ。

亡くなった教諭は明るく、生徒たちから慕われていた。授業に遅れてくる生徒を問いただすのは、教師として当然だろう。

一方の少年は、これまで大きな問題を起こしたこともないし、その恐れがあるとも周囲からは見られていなかった。いってみれば普通の生徒である。

その少年が、注意を受けたことをきっかけに、突然、我を失って激高した。いま風にいえばキレたのだ。

「普通の子」が突然「キレる」という現象は、いま学校や家庭で深刻な問題になっている。

今回の事件ほどではないにしても、ものを壊したり、教師や友人に暴力を振るったりする中学での「校内暴力」は昨年灯N前のざっと二・五倍に達した。

子どもたちは荒れている。これを教育関係者は「新しい荒れ」という。一九八〇年代の「荒れ」と区別する呼び方だ。

八〇年代の「荒れ」には、学校や特定の教師への反感という理由がある程度まで見えていた。だが、「新しい荒れ」は、向かう対象が定まっていないのだという。

それは「イライラする」「むかつく」といった言葉に象徴される。たとえば教師に注意されたから、などというきっかけはあっても、なぜ、それほどむかつくのかは子どもたち自身にもわからない。

さまざまな分析はある。自分で選んで行動する機会を大人に奪われている。自分らしさを生かしにくい学校と社会なのに、自分らしさを求められる。情報化社会の現実と学校内の価値観との落差、などなど。

どれも、はずれてはいまい。だが、多くの教師は決め手となる処方せんのないことに苦しんでいる。いわゆる熱血先生に対しては、存在そのものにむかつくという子も少なくない。根は限りなく深い。

それにしても、なぜ教師を刺すまでに至ったのか。少年の奥底になにがあったのか、いまはまだわからない。「新しい荒れ」と共通するものがあるのかどうか。

結論を急ぐまい。取り繕うだけの対策は事態をこじれさせかねない。

子どもたちが何にむかついているのか。教師でも親でもいい。大人がひとりの人間としてきちんと向き合わなければ、見えないものがあるにちがいない。

自分を十分表現できることばを、まだ持ち合わせていない年ごろだ。その心を理解する責務は、大人の側にある。

【資料3】「新しい荒れ」の3つの特徴

すぐカッとなって暴力を振るう

今の子どもたちは、小さいときからできる・できないにものすごくこだわっています。授業で水泳が始まると「ボク泳げないからプールに入らない」という子や「走るの苦手だから走らない」という子など小学校低学年では当たり前の状況です。いやそればかりか幼稚園や保育園ですでに同じことが起こっています。これをどう考えたらいいのでしょうか。

考えられることは、自分以外を敵と見る「敵対的能力主義競争」が幼児期からインプットされてしまっているということです。ですから子どもの行動原理は「やりたい・やりたくない」ではなく「できるか・できないか」なのです。自分ができないことをやるのは自己否定そのものなのです。その苦悩を理解せずに、単にわがままと見て「指導」しようとすれば拒否されて当然な訳です。敵対的能力主義にとらわれた子どもにとって他者は敵な訳ですから、些細なことでも自分を否定されたと感じて攻撃的になるのです。すぐ暴力をふるう子の理屈からしたら正当防衛なのです。

そして敵対的能力主義へのとらわれはストレスとなります。ストレスはやがて爆発します。その爆発が自分に向かえば自傷行為となり、他者に向かえばいじめや暴力行為となるのです。ですからカッとなって暴力をふるう行為は、このように二重の意味を持っているといえるでしょう。指導とは、この苦悩に共感し、共に歩むことなのです。

②学級崩壊や学年崩壊・学校崩壊

ある中学校のできごと—この学年では「万引きしない者は人にあらず」の状態だったのです。ですから友だちに「万引きしようぜ」と誘われれば、友だち関係を壊したくないために万引きをするのです。「万引きなんかするなよ」と忠告すればそれで友だちを失うのですから止めることもできません。—このように子どもたちの関係は地から(権力)関係が支配しているので、道徳や法や正義をいくら教師が説いても馬の耳に念仏となってしまうのです。

③何でもあり状況

ツッパリらしいツッパリがいなくなり、いわゆるツッパリは学校にこなくなっています。そして学校外で事件を起こすのです。学校間抗争、テレクラ、援助交際、覚醒剤、放火とエスカレート---。

「茶髪のどこがいけないの?」と問われたらどう答えますか?「私服で登校がどうしていけないの?」と聞かれたら、どう答えますか。「援助交際のどこがいけないの?」と問いつめられたらどう答えますか?「校則で決まっているから」程度の答えだと無視されるか、「誰にも迷惑をかけていないんだから、別にかまわない、」と反論されて終わりでしょう。

どうにも難しい時代になったものです。つまり難しいのは正邪や善悪の判断基準があいまいになってきているからです。

メガコンペティション(大競争)時代 → 小さな政府・地方分権・規制緩和=国民サービスの切り捨て=自己選択・自己責任→ 「規制緩和」は社会生活のすべてにわたり、モラルの崩壊へ → 何でもあり状況

「何でもあり」状況は「規制緩和」という企業イデオロギーの反映ですから、子どもたちの起こす問題状況に対してはイデオロギーの闘いという厄介な側面を強く持っているのです。

そうだとすると個々の問題に対して私たち教師はひとりひとりの子どもにも、子ども集団にも、「なぜなの?」と問いかけて問題の意味を子どもとともに読み開き、「なんのためなの?」と問いかけて問題の意義を明らかにしていく指導が求められているのです。(埼教組生活指導研究委員会「子ども・学校の新たな『荒れ』にどう切り込むか」---埼玉教育新聞1月23日付号外より)


こんな頃、先日の野井講演に出会えていたら、もっと容易に、解決の糸口を得る事ができていたろうに思われますが、それはないものねだりというものでしょう。何しろ、1968年生まれの野井先生、この頃はまだ30歳前で、大学院博士課程に学んでおられた時期だったでしょうから。


ただ、上の引用にも登場する故正木健雄先生のお弟子さんだそうですから、脈々と繋がる学問の系譜、研究の継承、真理探究の醍醐味のようなものを、しみじみ感じながら講演をお聴きしたことでした。


なかなか散歩に出られません。


鉢植えのパンジーとビオラ。孫の要望で、百均で、よりどり2袋百円で買った種が、花を咲かせました。


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これは、鉢植えのトマトの花。


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庭のヘビイチゴ。


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今日はこれにて。


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「光・暗闇・外遊び」と「わくどき体験」のすすめ。の巻 [私の切り抜き帳]

昨日は、記事にも書きましたように、「子育て・教育のつどい2019」という集まりに参加してきました。


最近私が参加するような、この種の集まりは、どういうわけか、私などと同じような世代か、あるいはひょっとすると、それ以上の年配の方々が目立ち、あたかもシルバー一色と見える時も多いのですが、昨日はずいぶん違っていました。それは、主として野井真吾さん(日本体育大学教授)の記念講演「子どもの『からだと心』の危機~”おかしさ”が示すSOS~」の持つ吸引力のなせるわざでしょうか?そして、同時に、教職員や父母、なかんずく保育や保健室の職場に働く皆さんの日々の問題意識と、それ故の同僚への声かけ・誘い合いが、これまで以上に細やかに取り組まれたことを感じ取ることができるかと思います。


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驚いたことに、開会前、席に座っておりますと、後ろから”若い女性”に声をかけられました。保育士をしている娘が、たまの休みの日に、職場で声をかけられて参加したらしいのです。聞くと、3歳児の孫は、会場の「保育」に預けてお世話をお願いしているとのこと。そうですよね。それがなくては参加できません。お互いに、思ってもみない遭遇でした。


この「つどい」午後も分科会があるのですが、私は、勝手をして、午前中の講演だけ聴いて失礼しました。(娘は、午後も参加したようです。エラいぞ。)


さて午前中の記念講演。克明にご紹介したいところですが、パワーポイントで六十数コマ分の、丹念な資料に基づいた理路整然、具体例満載、最新データ、興味津々、全面納得、唯々了解の、息もつかせぬ一時間半でした。事前に用意して下さったプリントも、パワーポイント画面のエッセンス24コマ分が、手元にあります。これを順に綴っただけでも、講演趣旨の概要をお伝えできるはずです。


でも、そういうわけにもいきませんので、ごくごく簡単に、感想を記しておきます。


健康データ、体力テストの結果は、決して悪くはなくはむしろ上昇傾向。学力テストも、国際的にみて、まだまだ「いい線行ってる」状態。だが一方で、保育・教育現場や父母からは、こんな実感が聞かれる。


・すぐ『疲れた』という。


・背中がグニャグニャしている


・保育/授業中、じっとしていない。


・朝、起きられない。


・夜、眠れない・


・首・肩のこり。


・うつ傾向。


が気になり、子どもの身体・心・生活がどこかおかしい」「ちょっと気になる」という実感がある。


「おかしさ」の実体は、自律神経機能(=からだ=血圧調節機能に関する調査、体温調節機能に関する調査)と前頭葉機能(=こころ=大脳活動の型に関する調査)の二つに集約されよう。


これを打開して子どもの”元気”を取り戻すために、「早寝・早起き。朝ご飯」が推奨されるが、それはどう頑張っても実現できないため、逆に親・家庭のストレスとなってはいないか?今、必要なのは、「光・暗闇。外遊び」ではないか?


そして、「ワクワク・ドキドキ」するるような経験(わくどき体験)


さらには、「よい加減」のすすめ。


何度も頷かされ、大いに納得させられる講演でした。そしてそれは、年若い参加者の皆さんにも、同様に「目からウロコ」の「元気がもらえる」おはなしだったようです。



からだの“おかしさ”を科学する―すこやかな子どもへ6つの提案

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からだの“おかしさ”を科学する―いるいる!そんな子、うちの子

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学校で実践! 子どものからだ・心づくり

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五月晴れの日が続きます。


イモ苗や。トマト・キュウリなど夏野菜を植えたり、ほとんど毎日エンドウ豆を収穫したり、畑へ通う日が続いています。


麦畑が、日に日に色づいています。


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つぎは、またまた魚眼レンズの画像、、、

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今日はこれにて。


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母の日は花盛り、の巻 [今日の暦]

小学生と保育園児の孫たちが、母の日のプレゼントにカーネーションを贈りたいというので、一昨日、数百メートル離れた近所のスーパーの花屋さんまで買いに行くお供をしました。


ついでにバアバにも、買ってプレゼントしてくれました。


末の保育園児が選んだカスミソウです。


pentaxQと03魚眼レンズで写しておきます。


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それに刺激されたわけでもありませんが、昨日は、草刈り作業のために、妻と郷里まで帰ってきました。途中、形だけ、カーネーションの鉢植えを買っていきました。


一気に気温が上がり、真夏のような陽射しでしたが、湿度は少なくて作業も快適でした。


帰り道、道路脇に、黄色い花が咲き乱れているのに気づきました。あれはたしか、と名前を思い出すのに時間がかかりましたが、オオキンケイギクでしたね。


過去記事でも何度も話題にしています、たとえば2014年の今日(5月12日)の記事。


収獲


人様が不要と見なしたあれこれのジャンク品をいろいろ物色するうちに、こんなレンズに目がとまりました。

_K524070_0001_R.JPG

smc PENTAX-M zoom 1:4.5 80mm-200mm

税込み2160円、ジャンク品としては決して安くはありませんが、素人目には悪くない商品のように見えました。
そもそも、単焦点ものならいざ知らず、フィルム時代のズームレンズは、発展途上期で画質が期待できないことになっていますし、老眼のこの目にはマニュアルフォーカスによるピント合わせはとても辛い、、、、と知りつつ、何本か同じようなスペックのものを買ってしまっています。しかし、よく考えると純正もののマニュアルズームレンズは、一本も持っていませんぞ。
「買っても何に使うの?他のマニュアルレンズ同様、滅多に持ち出すことなく収蔵庫の肥やしになってしまうのに。似たようなスペックの、たとえばこの展示棚で2本も買ったTAMRON製のズームレンズは、死蔵していることを忘れたの?」という突っ込みを跳ね返し、買ってみました。
使い道は、①PENTAXQで使ってみる。②AFアダプターを介してKシリーズで使ってみる。という2案が魅力的に思えます。


(中略)

早速、レンズの使用実験。
とりあえず、PENTAXQ7に装着して、その辺をぶらりと散歩してみます。
コンパクト・かわいいの要素を捨て去った、いかめしいスタイルになります。

_K524075_0001_R.JPG

AFが使えないのは、やっぱり辛い。望遠だとなおさらです。そして、前にも書きましたが、明るい場所では液晶が見づらくて、液晶フード無しにはピント合わせは無理です。

オオキンケイギク?咲きそろうと見事ですが、特定外来生物だとか。

IMGP4038_0001_R.JPG

IMGP4061_0001_R.JPG


 


このおじゃんクレンズ、最近、断捨離しました。


こんな画像が撮れて、なかなかどうして、捨てたものでもない、と思えたのですが、何しろ重くてかさばり、出番が少ないので、涙を呑んでさようならしました。


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オオキンケイギクについては去年の5月、こんなことを書いています。すっかり忘れていました。


暑かったり寒かったり、晴れたり降ったり、の巻(2)


オオキンケイギクが、日に日に黄金色に咲き広がっています。あまりの鮮やかさに、ついついカメラを向けてしまいます。


過去の記事を探ってみると、この花は毎年のように今の季節の記事に登場します。

たとえば、鍬を探して三千里!の巻の記事。

「オオキンケイギク(大金鶏菊)」も黄金色の花を咲かせています。あたり一面を鮮やかに彩るこの花は、子ども時代には見覚えがありません。在来種にとっては迷惑な、米国生まれの「特定外来生物」だそうです。

オオキンケイギク(大金鶏菊)クローズアップ
オオキンケイギク(大金鶏菊)クローズアップ posted by (C)kazg

オオキンケイギク(大金鶏菊)の群生
オオキンケイギク(大金鶏菊)の群生 posted by (C)kazg

またこんな記事。

花盛りのオオキンケイギクほか、

オオキンケイギク。
野原一面を黄金色に飾るこの花。息を呑むほど鮮やかですが、特定外来生物で、在来環境に害を及ぼしているらしい。と知って幻滅しておりましたら、なんとこの花から抗がん剤の成分が発見されたとか、、、去年の「毎日」(6/30)にこんな記事がありました。

全国の河川敷などで在来野草の生態系を壊し、厄介者となっている特定外来生物「オオキンケイギク」の花に、抗がん作用のある物質が含まれていることを、岐阜大工学部の纐纈(こうけつ)守教授らが突きとめた。論文は今月、エルゼビア社(オランダ)発行の医薬品化学分野の学術誌に掲載された。研究室は、製薬への応用を目指している。

https://mainichi.jp/articles/20160630/k00/00e/040/228000c

オオキンケイギクから抽出された抗がん有効成分は、「4−メトキシランセオレチン」という物質だそうです。さてその続報は、今のところ見つかりません。さらなる朗報を期待したいところです。

 


 


昨日の夕方のプチ散歩で、今年もいっせいに咲いていることに気づきました。


やはり魚眼レンズで撮影しました。


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タンポポが、あたり一面に綿毛を飛ばしています。


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麦刈りが始まったようです。


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水路に初夏の空が映って清々しく感じます。


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我が家の庭の隅に、今年も可愛いバラが咲きました。ずっと以前、ご近所さんいただいた小枝の挿し木が大きく育ち、毎年忘れずに咲いてくれます。


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今日は、こんな行事に参加する予定です。



きょうはこれにて。


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魚の眼、の巻 [趣味]

魚の目と言っても、あの足裏や足指の皮膚が固く痛くなるアレのことではありません。アレは、正式には鶏眼というのだそうですね。暗くなると目が見えにくくなる鳥目ではないのだそうで、ややこしいかぎり。
今日のタイトルは、相も変わらずカメラのレンズの話題です。


大阪に住む次男に、初代PENTAXQを預けていました。余り使わない由で、このたびの帰省で持ってきてもらいました。スタイリッシュでキュートなカメラですが、電池の持ちが悪いのが致命的です。場合によると、一日持ちません。私は必ず予備の電池を持って歩くことにしていますが、たまに使うという使い方では、いざという場合に役に立ちません。


帯に短したすきに長しですが、代わりに、物々交換で、同じく生産中止製品で、マウントシステムそのものがこの世から姿を消したOLYMPUSフォーサーズの「最終機」E620にレンズ2本をつけて持ってかえってもらいました。写真撮影はスマホで事足りるので、出番はないかも知れませんが。


そういうわけで、手元に帰ってきた初代PENTAXQに、カメラ棚の隅の方に埋もれていた03魚眼レンズをつけて歩いてみました。





PENTAX 魚眼単焦点レンズ 03 FISH-EYE Qマウント 22087

PENTAX 魚眼単焦点レンズ 03 FISH-EYE Qマウント 22087

  • 出版社/メーカー: ペンタックス
  • メディア: Camera




見慣れた風景が、変貌を遂げます。


旭川沿いの遠望。


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街角。


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アーケード街。


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路地裏。


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この間ちょいと忙しく、ブログ更新を怠っています。写真も少ないので、今日はこれにて。


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虎の杖のサラダ、の巻 [今日の「これなあに」?]

今朝のサラダです。


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奥のトマトはお店で買ったものですが、手前の輪切りの野菜は何でしょう?


元の姿はこうです。


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イタドリ(虎杖)です。


虎杖について、世界大百科事典の解説にこうあります。



【イタドリ】より

…江戸時代には,根茎を甘草(かんぞう)とともに煎じて,夏の飲料とした。中国では,若い茎の紅紫斑を虎の皮の模様にたとえ,虎杖という。地下茎と根は漢方の虎杖根(こじようこん)で,ポリゴニンpolygonin,エモディンemodinなどを含み,通経,利尿,緩下剤などに用いられる。


連休最終日の昨日、孫たちと一緒にまたまた田舎へ帰ってきましたが、母が散歩中に採ってきたものだと言って、一抱えほども水を張ったバケツに入れていました。昔の子どもたちは、これをかじったり、オモチャの水車をつくったりして遊んだと、孫に伝えようとしましたが、余り興味を引きません。


切れ目をつけて水につけていると、水車のようになります。心棒をつけて、水でくるくる回して遊びました。


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まごたちがみむきもしませんので、オブジェにしました(笑)


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2014年の今日(5月7日)、 お名前は?しらん という記事を書きました。それを引用して、去年の4月27日にこんなことを書いています。


引用三昧、リンク三昧のえとせとら、の巻


   

昨日の散歩で見たこの花。お名前は?しらん。

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「紫の蘭で紫蘭」と、父が教えてくれました。 

これは?以前調べたことがありました。そうそうマツバウンラン(松葉海蘭)でしたっけ。北アメリカからの帰化植物だそうですが、昔は見覚えがないような、、、。

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これは、昔からよく見る草。子どもの頃は「ギシ」と呼んでいましたが、図鑑には「ギシギシ(羊蹄)」の名で出ています。子どもの頃から見分けがつかず、どちらも「ギシ」と呼んでいた異種植物に「スイバ」があります。図鑑を参照すると、この写真は、「スイバ」らしい。

    

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北原白秋作詞・山田耕筰作曲の「酸模(すかんぽ)の咲く頃」という童謡がありました。
土手のすかんぽ、ジャワ更紗(さらさ)
昼は蛍(ほたる)が、ねんねする
僕ら小学尋常科
今朝も通って、またもどる
すかんぽ、すかんぽ、川のふち
夏が来た来た、ドレミファソ

スカンポとは、地方によってはこのスイバのことを呼んだり、イタドリ(虎杖)のことを呼んだりしたようです。いずれも酸味があって、子ども達がおやつ代わりに囓って食べた野草です。今年も、イタドリ(虎杖)は、サラダにして食卓に出してみましたが、子どもや若い人たちは、箸を伸ばしませんね。

このイタドリのことを、私の故郷では「サイシンゴ」と呼び、なまって「シャイシンゴ」「セエシンゴ」などとも発音しました。また、同じ県内でも、初任地として生活した少し西の地域では、「シャシッポ」と呼んでいましたっけ。ワラビや山菜同様に季節限定の風物詩的食材として、懐かしい味です。
ツクシもほろ苦い春の味ですが、早や、スギナに取って代わり、背丈も伸びて林のように茂っています。

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長々と引用したのは、フェイスブックのお友達のOさんが、今日の記事でこんなことを書いておられたのを読み、俄然懐かしくなったからです。

今朝は少し肌寒かったです。道端にこの花がたくさん咲いています。スイバとかスカンポというそうですが、私が子どもの頃は(50数年前)シートットといって、皮をむいてかじっていた記憶があります。

   

こんな記事も書きました。

仰々し 仰々しとや 行行子


これが「ギシギシ」 でしょう。

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これが「イタドリ(虎杖)」。

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前回記事で話題にした草を、同じ場所(児島湖畔)で見つけたのでついでにアップします。


先日たまたま「スカンポ」の話題になり「ジャワ更紗」とはどんな布だろうかと話が弾みました。


津山城近くの森本慶三記念館(旧津山基督教図書館) 歴史民俗館を見学したのは その直後でした。


思いつきの津山城址見学、の巻


森本慶三記念館(旧津山基督教図書館) 歴史民俗館を見学してみました。

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そこには、地元の伝統工芸品の作州絣などとともに、各地の紬、絣などに混じって、各種の更紗も展示されていて興味深く見学したことでした。


さて、昨日は午後から激しい雷雨になり、急に気温も下がりましたが、次の写真はその前に写したもの。


庭のスズラン。


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シャクヤクのつぼみ。


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クレマチス。


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ツユクサ。


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カタバミ。


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これはなんでしたっけ?


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テントウムシが沢山います。大量発生しているアリマキ(アブラムシ)捕食してくれていますが、アリマキの勢いは少しも衰えません。


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午後から夕方にかけての雨のお天気とはうって変わって、今日は雲一つない五月晴れでした。「令和最初の授業」などと、テレビで小学校の授業を取材したりしてましたが、そう言えば私の仕事も、令和初仕事でした。夕方のプチ散歩で、しょうこりもなく麦畑を撮影。夕陽のせいもあって、黄金色の輝きを増しています。


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今日はこれにて。


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綴じ蓋交換、の巻 [折々散歩]

一昨日の記事割れ鍋に綴じ蓋、の巻でPENTAX k-30の自動絞りユニットにまつわるトラブルについて書きました。

自動絞りに依存している最近のレンズ(PENTAXではDAレンズなど)ではなく、手動絞りダイヤルのある旧式レンズならトラブルを回避できるのでは?という思いつきから、今朝は、手近にあったSIGMA APO70-300mmを装着して歩いてみました。


この試みは効を奏して、絞り制御の不具合というトラブルは回避できたようです。すると、5月になりました、の巻 でご紹介した「PENTAXK30+玉抜きトキナー100-300mmAF+BORG50(アクロマート)というレアな組み合わせ」でも、手動絞りを使用すれば、無問題のはず。また、いっそのことKENKOテレプラス(レンズの後部に装着するテレコン)を付けてみたら写りはどうなるか、などの興味も湧いてきて、昨日、今日の散歩で試してみました。また、最近中古購入したSIGMA MACRO 50mm F2.8 EX にも絞りリングがついていて手動絞りが使えルので実験しよう、と欲張ったため、どの画像がどの機材のものやらわからなくなってしまいました(汗)これでは科学的実験にはなりませんえ?EXIF情報を確かめればよいだろうって?残念ながら、玉抜きBORGとか、テレプラス利用とかの場合、正確なレンズ情報がEXIFに残らないみたいなのです


ですので、実験結果は、「トラブルが起こらなかった」ということだけ確認できたものの、機材ごとの写りの違いなどは曖昧なまま、朝散歩の模様をお届けします。


麦畑。ちなみに、最初の3枚は、RICOHのコンデジGX200です。


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望遠系のレンズですが、はて、どれで写したのやら?


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手前の麦は色づき始めています。


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ヤグルマソウ。


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朝食中のダイサギ。


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今朝のごちそうは、ザリガニでしょうか?


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雀の幼鳥が、社会体験実習中です。トリミング画像です。


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熟れ始めたサクランボを物色するムクドリ。


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畑に植えていた春菊に花が咲いています。刈り取るに忍びないので、咲かせたまま残しています。


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庭のアマドコロ。


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庭のタツナミソウ(白)。


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ブルーベリーの花にミツバチ。


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きょうはこれにて。


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憲法記念日思うまま、の巻 [時事]

昨日の憲法記念日、アベ首相が、改憲派集会へビデオメッセージを寄せ、「2020年に改正憲法を施行する目標を堅持していると明言した。」と、今朝の地元紙「山陽新聞」一面は伝えています。そしてアベ発言のポイントをつぎの3点に要約して紹介しています。



・2年前、2020年を新しい憲法が施行される年にしたいと話した。今もその気持ちに変わりはない。
・憲法に自衛隊を明記し、違憲論争に終止符を打つ。私は先頭に立ち、責任をしっかり果たす決意だ。
・家庭の経済事情に関わらず教育はすべての子どもにひらかれたものとする、しっかりと憲法に位置づけなければならない。



記事はさらに続けて、「同じ集会に出席した公明党の遠山清彦憲法調査会事務局長は「公明党は加憲の立場から積極的に憲法議論に参加する」と語った。集会には日本維新の会、希望の党の幹部も出席した。」としています。
この集会で、下村博文・自民党憲法改正推進本部長が、同党の改憲4項目を「是非、憲法審査会で発表したい」とし、「7月の参院選で憲法論議をさらに前に進める」と、参院選の争点にする姿勢を表明したそうです。
本当に争点として正々堂々と議論するというのなら、望むところ、受けて立ちましょう。「9条改憲NO!」「安倍政権退陣」を求める草の根の国民の声とちからを大いに発揮する好機ですから。


同日、東京江東区で開かれた憲法集会(「平和と命と人権を!5・3憲法集会」)には、過去最高の6万5000人が参加(主催者発表)し、各界著名人や4野党一会派の党首らがスピーチ。その中で、京都大の高山佳奈子教授は「今変えるべきは憲法ではなく政権」と訴えられた由。まったくその通り。そして、直面する参議院選挙こそ、改憲策動に終止符を打つチャンス。
でも、またいつかのように、選挙期間中は憲法の「ケ」の字も表に出さず、詐欺的な争点隠しで票をかすめ取り、選挙後に「国民の信を得た」などとふんぞり返る得意芸を、またまた繰り返すおつもりではないでしょうな。荻生田幹事長代行の「消費税引き上げ延期」や「衆参同日選挙」に言及した発言など、一個人の独走、勇み足とも思えませんから、柳の下のどじょうをねらったアベさん本人の瀬踏みかもしれませんね。
いずれにしても、改憲勢力は、「令和」への改元をも政治利用しながら、虎視眈々、時機をうかがって、動きを強めていることは間違いありません。




昨日、我が家では午前中、小学生と保育園児の孫が、近所の小川で魚釣り大会を開きました。と言っても、女の子2人は見学ですが、、。


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大きな魚が釣れました。


フナだと思っていましたが、よく見ると姿が違います。


以前もここで釣り上げたことのある、ワタカという魚かも知れません。




そして午後は、岡山県版憲法集会に参加です。



「輝け日本国憲法!集会( 5・3憲法記念日岡山県民のつどい)」です。


最大のイベントは、ご存じ松元ヒロさんのライブ「憲法くんに叱られる」。


松元ヒロさんについては、当ブログでも何度か紹介しています。


たとえば、この記事。


「追伸」の補足と今日の愉快な鳥見散歩、の巻


そもそも、戦前の日本においては、まさしく「自国のことのみに専念して他国を無視」した、偏狭な国益優先主義による暴走が、数千万人に及ぶアジアの人々と、300万人の自国の民に痛ましい犠牲を強いる悲惨を招いたのではなかったのでしょうか。そして、それへの悲痛な反省から、新しい国の歩みの道筋を探ったのが、日本国憲法ではなかったでしょうか?その道しるべとして、人類の到達しえた知見の最善のものが、真剣に取り入れられたのでしょう。
もちろん、そのめざす道は紆余曲折をたどり、いまだ実現に至ってはいません。だが、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」とあるように、その未成熟な現実を乗り越えて、必ず「崇高な理想と目的」に向かうことを、私たちは世界に宣言しているのです。
理想と現実が乖離しているとき、理想を捨てて現実に合わせるのか、それとも理想に向かって現実を高めようと試みるのか?憲法をめぐるせめぎあいが、いっそう激しさを増すことになりそうです。
憲法君がんばれ。

憲法くん

憲法くん

     

ユーチューブに松元ヒロさんによる憲法前文の暗唱が掲載されています。

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松元ヒロさんと言えば、今は亡き majyo 様を思わずにはいられません。たとえばこんなブログ記事を 書いておられたのは、去年の秋のことでした。

 


ハッピー HAPPY


皆様は、松元ヒロさんをご存じですか? 何回かご紹介しましたから

名前は覚えていらっしゃるでしょう

テレビに出られないお笑い芸人さんです。

なぜ出られないか?

時の政権を笑い倒すからです。

その昔は劇団ニュースペーパーにもいましたが
1999年ソロデビューしました。

立川談志や永六輔に才能を認められ可愛がられました。
この二人の物まねは秀逸です。

ソネブロのmomotarouさんたちが、半年前から
古着販売で出た収益金を元手に企画した今回の公演

それが昨日でした。ずっと経過を拝見していました。

詳しくは
https://mo-mo-taro.blog.so-net.ne.jp/2018-10-28


上の記事で紹介しておられたmomotaro様の地元埼玉県熊谷での松元ヒロ公演成功のとりくみにも、大いに元気づけられました。上のリンク先の「写真入りバージョン」はこちらです。(いつもながら、またまた勝手にリンクを貼らせて戴きます。)


https://mo-mo-taro.blog.so-net.ne.jp/2018-10-30


松元ヒロさんは、2年前の2017年の憲法集会でも来岡公演されました。


上を向いて歩いていたら、の巻


先日の憲法記念日に岡山市で開かれた今年の「憲法集会」の模様は、何回かご報告しました。そこで演じられた松元ヒロさんの舞台で、永六輔さんのエピソードが熱く語られたこともすでに書きました。その舞台でのフィナーレに流れたのが、この「見上げてごらん 夜の星を」の曲でした。
それとともに、舞台では、同じ坂本九が歌った「上を向いて歩こう」(永六輔作詞・中村八大作曲)も話題にされました。「スキヤキソング」として海外にもよく知られたこのヒット曲が、失恋の悲しみを歌ったものではなく、安保闘争の挫折をきっかけにつくられたものだったことは知る人ぞ知る事実でしょうが、松元さんはそのあたりの事情をつぶさに語ってくれました。


その年の憲法記念日には、過去記事をたどってみていますので、繰り返しになりますが再掲させていただきます。

祝!憲法君70歳、の巻


憲法記念日です。
過去の憲法記念日には、こんな記事を書きました。


2014年。お誕生日おめでとう。日本国憲法さん!

  今日は憲法記念日。
憲法の理想を現実に生かそうと考えるのか。
それとも、、憲法の定めを「解釈」によって限りなく「現実」に合わせていこうとしつづけるのか?
はたまた、その行き詰まりを手っ取り早く打開するため、憲法そのものをきれいさっぱり書き換えるのか?
いよいよ改憲論議も大詰めですね。

近代的な「立憲主義」の立場では、憲法というものは、政治権力の恣意的支配に対抗し、国民が権力を制御するためのものだそうです。
安倍さんが成立に熱意を燃やしているという
自民党憲法草案(わかりやすい対照表をアップしてくださっています。また、ヤフー知恵袋のこのページも、参考にさせていただきました)は、どうも、国家権力が国民を縛るための道具にしたいらしいですね。

「外国から押しつけられた憲法」という古い論調が何か意味ありげに聞こえるとするなら、いま、日本国民自身が、腹の底から、もう一度この日本国憲法を選びなおす時だと思いますね。


一昨年(2015年)。68歳おめでとう、日本国憲法さん、の巻

この先ご健勝であれば、2年先の2017年には「古希」を迎えられることになります。昔から、古来まれなものとして、その長寿を祝う年齢です。
いま、わがくにの平均寿命は、ずっとのびていますから、70歳といえども、「後期高齢者」にもとどかぬ「若さ」ですが、世界中の憲法さんのなかでも、最長寿に属する事は間違いないでしょう。
「寄る年波」というものもありまして、時の政権担当者の思惑で、本意ならざる「解釈」やら、「運用」やらを施され、若かりし日の輝くばかりの清新さには痛々しいばかりの影が差している事は否めません。
とはいえども、あなたのお陰で、私達日本人は、これまで68年間の長きにわたり、ただの一人も、戦争で人を殺すことがなく、一人の戦死者を出す事もないという「古来希」なる僥倖を享受とができたのでした。
(中略)
なんとしてでも、2017年の70歳を、無事健やかに迎えていただきたいものです。さらにその先、喜寿(77歳)、傘寿(80歳)、米寿(88歳)、白寿(99歳)のお祝いを、国民みんなで祝賀することができればと思うのですが、、、、。


昨年(2016年)。憲法記念日に家の中でひとり憲法を考える、の巻

戦後70年・被爆70年の去年、憲法学者がこぞって「違憲」と指摘するなか、集団的自衛権容認の「戦争法」を数を恃んで強行したアベ内閣は、今度は「緊急事態条項」など戒厳令条項の導入をはじめとする明文改憲の動きをあらわにしています。選挙中はダンマリを決め込んで、選挙後にやりたい放題、のつもりでしょうが、その手は桑名の焼き蛤です。
(中略)
もちろん、憲法は金科玉条でなく、時代の変化に応じて充実・発展させるべきで、そのため、タブーなくフランクな議論が盛んに行われることは、憲法自身が望んでいることに違いありません。自らの国の最高法規について、国民ひとりひとりが、親しみを持って語り、理解し、愛し、誇りに思い、使いこなすことは、言うまでもなく大切なことですから。
一方、憲法を国民議論の俎上に載せようとする人たちのなかには、、あらぬ難癖をつけて悪罵の限りを投げつけて憲法の尊厳をおとしめ、汚い唾まで吐きかけようとする人たちが存在することも軽視はできません。おそらく日本国憲法が世界に先駆けて指し示す、平和で自由な、徳高い民主国家のあり方を、まぶしすぎると感じたり、あるいは煙たく窮屈に感じる人々が、ごく少数ながら存在するのでしょうか。たとえば、憲法の平和的・民主的精神を除去することによって、何らかの利益を手中にできるような人々とその手下、雇い人の類でしょうか?(どんな人たちなんでしょうかね?)
市井の一市民が、憲法に対して何を考えようが、何をしゃべろうが、それは自由であって、誰からもとがめられることはありません。
しかし、たとえば、アベさんのこんな無礼な発言を、憲法九十九条は許していないはずなのです。

みっともない憲法
あの、日本国憲法の前文にはですね、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意したと書いてあるんですね。つまり、自分たちの安全を世界に任せますよと、言っている。そして、エエ、専制と隷従、圧迫と偏狭をこの地上から永遠に除去しようと務めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う、自分たちが専制と隷従、圧迫と偏狭をなくそうと考えているんじゃないのですよ。
国際社会がそう思っているから、それを褒めてもらおうと、いじましいんですけどね、みっともない憲法ですよ、はっきり言って。これは日本人が作ったんじゃないんですからね。こんな憲法を持っている以上ですね、外務省も自分たちが発言するというのは、憲法上、義務づけられていないんだから、それは国際社会に任せるんですからね。精神がそうなってしまっているんですね。まあ、そこから変えていくと言うのが私は大切だと思います

自分の国語力・読解力のなさを棚に上げて、ちんぴらやくざの言いがかり同然のイチャモンをつける態度は、明白に公務員の憲法遵守義務違反です。
憲法第九十九条は、こう定めています。

第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


さて、今年は、超党派の国会議員らでつくる「新憲法制定議員同盟」(会長・中曽根康弘元首相)が5月1日開いた会合で、安倍総理は、「機は熟した。今求められているのは具体的な提案だ。理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示すときで、しっかりと結果を出さなければならない」、「この節目の年に必ずや歴史的一歩を踏み出す。新しい憲法を作っていくことに全力を傾けると誓う」などと豪語し、憲法記念日の今日は、日本会議が主導する「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の改憲集会にビデオメッセージを寄せ、そのなかで、2020年をめざして9条を改正して、自衛隊を明文で書き込む、などと踏み込んだ発言をしています。
朝のNHK番組では、戦後文部省が作成した教科書「「新しい憲法のはなし」とその復刻版の紹介が、珍しく丁寧にされていました。

あたらしい憲法のはなし (小さな学問の書 (2))

あたらしい憲法のはなし (小さな学問の書 (2))

また、9時からの政党討論会のテーマは「憲法(改憲)」でした。午前中はちらちらそれを見ながら、孫のお相手。
午後は、「憲法の集い」に参加してきました。集会のプログラムには、4年ぶりという松元ヒロさんの公演も含まれていて、大笑いしながら、ガンバレ日本国憲法君!の思いを新たにしました。


昨日の公演の感想も、「大笑いしながら、ガンバレ日本国憲法君!の思いを新たにしました」では、安直すぎますかね?


申し訳程度に、感想を箇条書きしておきます。


・何度か観たことのある過去の公演と、ほとんど「ネタ」のダブりがありません。


・得意なパントマイムも、顔までソックリだった小泉元首相の物まねもありません。


・前回公演のハイライトとも言えた、永六輔、中村八大、坂本九さんの話題もなし。


・それなのに、時間が足りないほど凝縮された充実の内容。理路整然として明快で、数字を含む資料・論拠が具体的で、政治的にも深くかつ現代的で、それでいて爆笑が止まない。


・印象に残ったお話、その1。伊藤千尋さんの「15%理論」。ベルリンの壁も、ルーマニアの自由化も。15%が社会を変える。


・印象に残ったお話、その2。「こんな夜更けにバナナかよ」渡辺一史による同名のノンフィクションを原作にした大泉洋主演映画。筋ジストロフィー患者で、僅かに右手と口を動かすことしかできず、車イスと介助がないと生きていけない鹿野靖明が、親・家族による介護も、施設での生活も捨てて、「自立」の道を選ぶ。つまりボランティアの介助スタッフに扶けられながら、人間らしく生きる道。それは度を超えた「ワガママ」とも見えるほどだが、、、。考えさせられます。


・前回(2017年)は割愛された「憲法くん」の出番。今回は、アンコールの形で最後の数分間で演じられました。


「安倍政権のもとで私がリストラになるというウワサがある。どうして変えられるんですかと聞くと、現実にあわないからだって。私って理想だったんじゃないんですか。現実を理想に近づけようとするのが普通でしょ。」「戦争が終わって、私が生まれた時、国民は初めて自分たち庶民の子どもができたって大喜びしたそうじゃないですか。」「私はまだまだ元気です。もう隠居していいよ、って言われるほど、これまで私を使ってくれたんですか?いいえ、結構暇でしたよ」
「わたしの初心、わたしの魂は、憲法の前文に書かれています」
--そして憲法前文の暗唱。完璧、圧巻です。


「皆さんが、私に働けと言うなら、まだまだ働きます。私をどうするかは皆さんが決めること。皆さんの私なのですから。皆さんに、私を託します。」


・チコちゃんのように生意気に「ボーっと生きてるんじゃないわよ」などと叱るわけではありませんでした。活かすも活かさぬも皆さん次第と、重い問いを投げかけたのでした。


・松元ヒロさん、どうやら私と同い年らしいのですが、いやはや、エネルギッシュさにおいても、若々しさにおいても、聡明さにおいても、比べものになりません。いえ、比べようとも思ってはいませんがね。それより何より、面白さにもますます磨きがかかってきました。こういう人がテレビに出ないということは、それだけテレビがオカシイ、そして貧しい、ということですね。そんななか、鹿児島テレビが密着取材を続けているのだそうです。楽しみです。


今日はこれにて。


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割れ鍋に綴じ蓋、の巻 [趣味]

キングジム「ポメラDM100」は、辞書を搭載していて、その内容をこコピーしてテキストに利用することができます。


国語辞典は、「明鏡」です。


「割れ鍋に綴じ蓋」を引いてみました。


われなべ【割れ鍋(破れ鍋)】
[名]
割れてひびの入ったなべ。
「割れ鍋に綴(と)じ蓋(ぶた)(=破損したなべには修理した蓋が似つかわしいという意から、どんな人にもそれぞれにふさわしい配偶者があるということ)」


と言っても、きょうのネタは配偶者の話題ではなく、カメラの話です。
最近、PENTAXK30というカメラを中古で買って使っています。HOYAによる吸収という転変を経たPENTAXが、リコーと合併して最初に発売した防塵防滴の「ミドルクラス」カメラです。2002年2012年の発売当時、向井理の出演するCMで注目されました。
発売当時から関心はありましたが、ちょっと奇をてらった尖った感じのデザインが感じが好きになれず(それより何よりお小遣いが及ばず)、手を出さないままで今日まできました。最近、諸事情から手元にPENTAX機がK5Ⅱ一台になり、お手軽お散歩カメラも確保しておきたい思いから、なりゆきでこれを入手したのでした。
思っていたより軽量コンパクトで、使ってみると、デザイン的にも違和感がなく、使い勝手もよくて気に入っています。すでに生産中止になって久しい旧製品の使用感を、今更コメントするのもタイミング遅れというものですが、世間ではよく知られているらしい一つの問題に今更気づきましたのでメモしておきます。
というのは、中古で購入した直後から、シャッターを切って液晶画面で写りを確認すると、画像が真っ暗・真っ黒でがっかり、という現象に時折見舞われました。いや、時折と言うより、かなりの頻度でこの現象が起こります。
netで調べてみると、似た症例がかなりたくさん報告されており、かなりよく知られたトラブルのようです。
自動絞り制御の不具合によるもので、メーカーによる修理が必要なようで、一万数千円の出費を覚悟しなければならないようです。それでは、中古での購入価格と大差なくなってしまいます(トホホ)。
さらにネット記事を探っていますと、自己責任で分解して修理する方法も克明に紹介してあったりします。10年前、いや20年前なら、きっと試してみたことでしょう。ジャンクパソコンの分解組立や、ジャンクレンズの分解掃除など、わくわくしながら試していた頃ですから。ただ、いま振り返れば、成功体験の方が極めて少なかったのですが(汗)
分解修理の方法をとらずにすます方法は?
1)専用バッテリーではなく単三乾電池を使う、
2)しばらく連写撮影をしてみる
3)ファインダーではなくライブビュー撮影をして、みる
などの方法が紹介されていました。その原理を説明するとややこしいので省略しますが、絞り制御ユニットの中の部品が、余分な磁気を帯びることで適切に作動しなくなるためらしいです。
1)2)は検証していませんが、3)は、試してみると確かに効果があるようです。でも。つい油断すると、まっ黒の画像を何枚も生み出してしまいます。
そこで、ふっとひらめいたのは、自動絞りに依存している最近のレンズ(PENTAXではDAレンズなど)ではなく、手動絞りダイヤルのある旧式レンズならトラブルを回避できるのでは?という思いつきから、今朝は、手近にあったSIGMA APO70-300mmを装着して歩いてみました。以前故障修理に出したレンズです。↓この記事参照。


相も変わらぬガラクタ較べ、の巻


ずっと以前(2013年8月)、こんな記事を書きました。

飽きもせず昨日も今日も蜻蛉撮り

今日は久しぶりにsigmaAPOmacro70-300というレンズを、pentaxK5Ⅱに着けて出かけてみました。

(中略) 

レンズは、いくらでも欲しいものがあって限りがないのですが、最近は①よく写る、②コンパクト、③廉価という、巴合戦の中で、たいがい③を優先させて、旧時代の中古レンズを増やしてしまうことに。結局、あちらを立てればこちらが立たずで後悔の連続です。
(中略)

ところで、この、今日久しぶりに使用したSIGMAAPO70-300は、二万円程度の価格に似合わず、APO仕様で、写りにも高評価が与えられています。画角も70-300mmと望遠としては申し分なく、デジカメのAPF-Cサイズでは、35mm換算105mm-450mmという超望遠ズームに相当することになります。おまけ機能ですが、200mm―300mmの画角で、マクロ撮影ができるのが、特筆もの。
フィルムカメラ時代からお気に入りで常用してきたレンズなのですが、経年相応の劣化か、ズームやフォーカスの際の動きがなめらかでなく、特にマクロ撮影の場合などは微妙なピント合わせをMFで決めたいのに、ピントリングの動きがギクシャクしてしまうのはストレスですし、DAL55-300mmに比べると大きく重いためもあって、お蔵入り状態でした。
でも、久々に持ち出してみると、結構使えるかな、という感じ。蜻蛉や蝶や、出会う隣人達のサイズからして、70-300mmmacroは、やはりありがたいです。     

五年以上も前の記事ですので、状況に変化は少しあります。

【その1】SIGMAAPO70-300macroは、その後、迷った末に、愛着の深さを優先して福沢さん一枚の支出は覚悟して、ピントリングの調整など、修理に出しました。そのほかの微調整もしてもらったのですが、やはり重くてかさばる点は気になって、出番は多くはありません。



誤作動カメラと故障修理レンズは、「割れ鍋に綴じ蓋」の取り合わせです。


が、この取り合わせでは、自動絞り制御の不具合は発症しませんでした。めでたしめでたし。


今朝の麦畑です。


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ポピー。


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卯の花。


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今朝の雀。幼鳥のようです。


トリミングしています。


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今朝の雲雀。


トリミングしています。


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孫たちはそれぞれ、GWを楽しんでいるようです。


近所に住む孫と、オタマジャクシを取りに行きました。


おたま


今日はこれにて。


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5月になりました、の巻 [折々散歩]

4月28日付けのこの記事(ちひさきもの発見、の巻)の最後に話題にした「PENTAXK30+玉抜きトキナー100-300mmAF+BORG50(アクロマート)というレアな組み合わせ」の画像を紹介しておきます。かなりいずれもトリミングしています。

時ならぬ冷え込みで、まだ暖房が恋しい5月ですが、田園の風景は初夏の装いを見せてきています。

道端のヤグルマソウ、ナガミヒナゲシと、ブドウの若葉。

はな

カワセミに会いました。

カワセミ2

すくすくと伸びた麦畑が広がっています。

麦秋も遠くなさそうです。

麦畑

雀(スズメ}がかくれんぼをしています。

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すずめ

しきりに雲雀(ヒバリ)が囀りながら空高く駆け上っていき、ひとしきり大騒ぎした後、ストンという調子で落下してきます。

ヒバリ

4月28日の散歩でした。この夜、大阪から次男一家が帰省。

昨日(4月30日)には、郷里の老父母宅へ家族全員が集まりました。指折り数えないと不確かですが(笑)、全員で17人。過疎の村の、いつもはひっそりとした田舎家が、賑やかに沸き返りました。

池の鯉への餌やりはおきまりの儀式のようなものです。

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こんな山道を歩いてお墓参りです。

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OLYMPUS DIGITAL CAMERA

道端には、ベニシジミやヤマトシジミが目を引きます。

チョウ

大阪の次男一家は今日の昼間にはお嫁さんの実家へと移動。短い滞在でした。

今日はこれにて。


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