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吉備の「残影」の、巻 [折々散歩]

以前、こんな記事を書きました。

今日の「これなあに?」 訂正・追加版(2013-09-16)


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このクリーム色の花、大豆だろうと思いましたが、どうも葉っぱを比べてみると、小豆かも知れませんね。田舎の畑には両方植わっていました。実が成れば分かるのですが。
念のため、大豆はダイズ、小豆はアズキです。小豆をネット検索すると、まず小豆島(ショウドシマ)がヒットするのですが---。
小豆島は、「ショウドシマ」、小豆郡は「ショウズグン」と読むのもおもしろい。weblio島嶼名辞典名には「小豆島/読み方:ショウズシマ(shouzushima)/備讃諸島に属する瀬戸内海の有人島/所在 香川県小豆郡内海町、土庄町、池田町の3町/別名 アヅキ島(アズキジマ)/位置・形状 備讃諸島の東端。カコウ岩、集塊岩、凝灰岩、安山岩からなる開析溶岩台地」とあります。古くは、「ショウズシマ」とも「アズキジマ」とも呼んだようですが、記紀(古事記・日本書紀)の時代に「阿豆枳辞摩(あずきじま)」と記されているそうですね。

その続編がこの記事。

今日の「これなあに?」 その3(2013-10-15)

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夏にクリーム色の花を見て。「大豆」と勘違いしたこの植物は、やはり小豆でした。小豆は「あずき」と呼びます。「小豆島」は「ショウドシマ」と読みます。 (このハナシ以前書きました)

そして最近話題にしている尾崎放哉は、小豆島に流れ着いて庵を結び、その島で人生を閉じます 。

映画化もされ話題を呼んだ角田 光代作「八日目の蝉」の舞台も小豆島でした。

八日目の蝉 (中公文庫)

八日目の蝉 (中公文庫)

また、小豆島の旅、の巻(1)(2016-11-22)では、こうも書きました。

日生(ひなせ)からもフェリーで行ける対岸の島「小豆島」を、昨日は同じ面々で訪ねました。ただ、体調やよんどころない事情によって、今回の参加は、サブローさん、ヨージさん、ヨシエさん、私の4人なので、車一台に同乗して移動するのがよかろうと、サブローさんのお車に乗せていただき、新岡山港からフェリーに乗りました。
今年6月の原生林散歩(下の記事参照)のあと、次はどこに行こうかという相談のなか、私の希望も取り入れていただいて今回の小豆島行きがまとまったのでした。
◇蛙棲む原生林に蝮草(マムシグサ)
◇故旧愉快梅雨の晴れ間の原生林
◇五月雨を集めて垂水(たるみ)はやからん
私が小豆島行を希望したというのは、今年の夏、こんな記事を続けて書く中で壺井栄「二十四の瞳」を再読し、その舞台とされる小豆島と岬の分教場を訪ねてみたいと思ったからでした。
◇自民HP密告フォームと「二十四の瞳」、の巻(1)
◇自民HP「密告フォーム」と「二十四の瞳」(2)
◇自民HP「密告フォーム」と「二十四の瞳」、の巻(3)
◇自民HP「密告フォーム」と「二十四の瞳」、の巻(4)
◇この道はいつか来た道 「密告フォーム」の行き着く先、の巻
思い起こすに、小豆島へは、子どもの頃、何かの団体旅行で、連れられて観光バスで訪れた記憶がうっすらとありますが、思い浮かぶのは、寒霞渓の景色とそこにお猿がいたような記憶だけで、岬の分教場へは行ったかどうかの記憶もありません。
集合場所の新岡山港に一番近いのは私です。早く到着しすぎたかと、そばの公園を一巡り散策してみますと、小鳥のさえずりも聞こえます。シジュウカラかヤマガラらしい声に思えますが姿は見えません。見つけられたはヒヨドリ。

(中略)

まだまだ時間が早すぎるかと思いつつ、フェリー発着場近くをうかがうと、なんと、とっくに全員おそろいでした。
この船に乗ります。

その小豆島へ、昨日、日帰りバス旅行をしてきました(もちろん、海は、フェリーで渡ります)。しょっちゅう話題にしている、退職同業者の親睦団体の恒例行事です。

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見出しにある「吉備の残影」とはなにか?ちょっと気になりませんか?

そこでクイズです。

1)小豆島は何県にあるでしょうか?もちろん、香川県です。

2)では、旧国名は讃岐?

いいえ、備前国に、そして古くは吉備の国に属していたそうです。知りませんでした。

最初の探訪先の旧賀嶋明神は、島内最古の神社で、「延喜式」式内社と同時代の「備前国神明帳」(西大寺本1495年の写本)に備前国128社のうちの1社として明配されているそうです。

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かつて「賀嶋」と書き表されたものが、現在は「鹿島」と書くようです。

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少年マンガ・アニメの「からかい上手の高木さん」の舞台として、近年、国内外から「聖地巡礼」におとずれる若者が増えているそうです。

土庄町商工観光課による「舞台探訪マップ」。

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日本郵政発行の「フレーム切手」のポスターが、神社壁面に掲示してありました。

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クイズのつづきです。

3)小豆島の土庄町が、「歴史友好都市」縁組を結んでいる岡山県の都市は?

答えは津山市。

なんと、瀬戸内海に浮かぶ小豆島の土庄町と、海からはるか隔たった、岡山県北の津山市が、昭和60年4月7日、「歴史友好都市」を締結しているそうです。

ネット上の津山瓦版都市縁組【津山市と小豆島の土庄町】

というページに、こんな文章が引用されています。

2009年8月 土庄町スポーツ少年団交流会の様子

江戸時代後期の小豆島は、土庄村(豊島を含む)、渕崎村、上庄村、肥土山村、小梅村、大部村、池田村、草加部村及び福田村の9か郷で天領として倉敷代官の統治を受けていたが、今からおよそ165年前津山藩八代藩主松平斉民公が幕府に対し領地替えを願い出た(美作略史)ことが発端となって天保8年(1837年)11月幕府は、但馬、丹後国のうち2万4千6百石余と、美作国、讃岐国のうち2万7千9百石余との村替えを命じた。この命令により、翌9年3月小豆島のうち大部、福田、草加部の3村を除く西部6か郷5千9百余が、津山藩の領地となって統治されるようになったのが津山市と土庄町の「えにし」の始まりで、これが明治維新の廃藩置県まで33年間続き、その間、主に吉井川を利用して、島からは海産の塩をはじめ、醤油、素麺などを、津山からは山の幸や農産物の交易が盛んに行われると同時に、島四国八十八ヵ所霊場めぐりなどの人の往来、またこうした行き来に伴い、教育や文化の交流も活発になり、山の国と海の村とが友好と親善の強いきずなで結ばれた歴史があった。(文:土庄町スポーツ少年団交流会式次第より抜粋)

津山藩領だった土庄町
香川県小豆郡土庄町は、岡山港からフェリーで約70分のところにあり、人口1万9千人、面積74平方キロメートル。津山市は1985(昭和60)年に、土庄町と歴史友好都市縁組を結びました。


津山藩と土庄町

小豆島は水が少なく、米作りには不向きでしたが、江戸時代、漁のほか、塩やしょう油、素麺などの特産物を、京や大阪に売りに出していました。藩主の斉民が、遠くはなれた小豆島を津山藩領に希望したのは、これらの商売からあがる利益と海に注目したからかもしれません。
江戸時代には、小豆島からたくさんの若者が津山へ奉公に来ていました。現在は、津山から小豆島へ、観光や「おへんろさん」の八十八か所巡りで、多くの人が訪れているほか、スポーツ少年団が交流を行っています。


町指定史跡「陣屋の松」
淵崎小学校のあるところに、津山藩の陣屋がおかれていました。ペリー来航後は代官が常駐し、1858年には、大砲一門が備え付けられました。最後の代官平沼正雄(子どもの騏一郎はのちの内閣総理大臣)でした。


(津山教育委員会発行『私たちの津山の歴史』より抜粋)


その日の探訪の目的地を順次たどって見学しての帰路、フェリー乗り場に向かう途中に、旧「淵崎小学校」(廃校)はありました。その校地の中、大通りからよくみえる塀際に、「史跡 陣屋跡」の碑と掲示板がひっそりと立っていました。

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まだ朽ちてはいないコンクリート校舎に、もちろんのこと人の気配はなく、庭も草木が生い茂って、今日の感に打たれます。

ほかの見学地についてのご紹介は次回に譲るとして、心残りの「非見学地」について一言付記しておきます。

繰り返しになりますが、私にとって、小豆島と言えば「二十四の瞳」と、尾崎放哉。そして小豆島出身の故旧「アキコさん」が思い浮かびます。その尾崎放哉ゆかりの小豆島尾崎放哉記念館への案内ナビが見えましたが、今回も素通り。隣の席のOさんと、残念がったことでした。

そして、さらに今度は、秀吉から棄教を迫られ、領地と財産をすべて捨て小豆島に隠れ住んでいたというキリシタン大名高山右近の顕彰碑と像があるカトリック小豆島教会を見学するため、バスを駐車した付近に、こんな建物がありました。


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尾崎放哉資料館とあります。

あとで調べてみると、小豆島尾崎放哉記念館のHPにこうありました。

小豆島尾崎放哉記念館が開館されて以来、10年以上が経過し収集資料も充実してきましたが、何かと手狭な記念館では十分な展示もままならず、特に放哉直筆句稿274点をはじめとする貴重な資料の収蔵庫併設が望まれていました。しかし記念館敷地は狭小などの理由から併設は叶わず、記念館からはかなり離れた地である土庄町立図書館隣地での開設となりました。資料閲覧をご希望の皆様にはご不便をかけることになりますが、できるだけ多数の皆様にご利用いただきたいと望んでいます。


当資料館は、放哉が師の井泉水に寄せた句やハガキ、手紙類等を中心に井泉水直箪掛け軸や碧梧桐の直筆短冊、井上一二など放哉に関係した人たちの作品を収載しています。井泉水が朱を入れて手直しした跡もあるなど責重な第1級の資料であり、放哉全集にも掲載されていない物ばかりです。
展示室には放哉が小豆島で過ごした約八ケ月たらずの間に言き残した直筆の一部を選び展示しています。
没後80年・放哉が書き残した資料がここに収められています。

一行とちょっと離れて、Oさんと一緒に様子を窺いに近寄ってみますと、残念ながら鍵が掛かっています。注意書きを読んでみると、近くの図書館まで申し出れば開けてもらえるらしいのですが、後ろ髪引かれながら、みんなのあとを追ってカトリック小豆島教会に向かいます。

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この先、また来る機会があったら、今度こそ訪ねてみたいものです。

追伸。Oさんが、お土産に持ってきてくださった庭植えのキンカン。見るからに完熟の、艶やかに赤くて濃い色のとおりの、甘くジューシーな果実。一口食べると、後を引き、なかなか止められません。昨日と今日の内に、妻と2人で、すっかり平らげました。美味でした。Oさん、ありがとうございました。

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