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蛟龍を嘆く、の巻 [折々散歩]

先日小豆島を探訪した旅行行事の企画・立案・案内は、毎回Nさんが毎回中心的に担って下さったことは、昨年秋のこの記事にも書きました。


あらまほしきものは、の巻


この「自然歴史歴史探訪」という行事は、毎年二回ずつ実施され、今年で25年目。今回が第49回で、来年5月には第50回を迎えるそうです。そのすべてに渡って企画・立案に携わり、案内者として貢献してくださったNさんは、今回も周到な資料をご用意くださり、またそれ以外にも、通りかかる場所場所にまつわる「深いいお話」を、ふんだんに紹介してくださいます。


今回で50回目(年二回実施)を迎えることから、Nさんは一応ここで任を降りられ、ご卒業ということになります。
そのNさんがおっしゃるには、戦時中、学徒勤労動員で、工場で働いたが、そこで作っていたのは、バッテリーの部品。ある時、納品のために、トラックで玉野市の三井造船まで連れられて行き、そこで見たものは建造中の特殊潜航挺=五人乗りの人間魚雷「蛟龍(こうりゅう)」で、納品したのはそれに用いる部品だった。朝鮮から連行された徴用工もそこに働いていたはずだ。
その「蛟龍」は、小豆島に送られて実戦に用いられたと聞くが、長い間、気になっていた。このたびの企画で小豆島を訪ねるに当たり、地元に知人に訊ねても、なかなか詳細はわからなかったが、ようやく部隊と基地の場所を推定することができた。その痕跡も記念の目印もないが、、、。


と、バスの車窓から、だいたいの位置を示して下さったのでした。
帰宅後、ネット検索してみますと、いくつかの情報に遭遇しましたので、備忘のためにメモしておくことにいたします。


ネット上で「蛟竜」を検索していますと、高橋春雄さんとおっしゃる方のHP に、次の記事を見つけました。蛟竜の乗組員として訓練を受け、実戦野準備をしていたが、終戦により生き延びたという経験をお持ちです。


 

特殊潜航艇「蛟竜」(海軍の自分史)

7 小豆島基地(小豆島突撃隊)

◯ 概 説


倉橋島で第17期蛟竜艇長講習員として蛟竜の機構の勉強を終えた我々約160名は、昭和20年7月1日、第一戦基地である小豆島に着任、ここでいよいよ念願の艇に搭乗、訓練を受けることとなった。小豆島は淡路島に次ぐ瀬戸内海第二に大きい島で、香川県に属する。この島に特殊潜航艇蛟竜の基地が建設されていたのである。

しかし、頼みの蛟竜が量産出来ず、当時ここには蛟竜は11隻しかなく、それぞれ先輩の艇長が決まっており、訓練専用の蛟竜もなかったため、およそ次のような三つのグループに分かれて訓練を受けることとなった。

・予備艇長として搭乗実務訓練を受ける者、約40名。
・玉野造船所に派遣され、蛟竜の艤装に従事する者、約30名。
・草壁の本部勤務で座学のほか、甲板士官、当直将校、副直将校等の勤務を分担、待機する者、約90名。また特技を有する者は施設班、漁労班等に派遣された。

私は予備艇長として搭乗実務訓練を受けることとなり、約40名の仲間とともに、古江にある丸金醤油の青年学校に居住することとなった。

当時、沖縄を完全に手中におさめた米軍の本土進攻が予想されていたが、日本海軍は大きな打撃を蒙っていた。しかし、たとえ連合艦隊が壊滅しても、われわれ特攻隊がある限り、神州は不滅であるという教官の言葉を純粋に信じて訓練に励んでいた。

そして搭乗訓練もある程度進み、四国南岸の橘湾小勝島にある出撃基地まで本番に備えて進出する訓練も終わり、いよいよ本番の出撃を待つばかりという時に終戦を迎えたため、今日まで生きながらえる羽目になった。

終戦があと少し遅れ、敵機動部隊が四国方面に近づいていたら、土佐沖で水漬く屍となっていた公算は極めて高い。その時私は20歳であった。
(中略)

◯ 小豆島における訓練


・ 宿舎

われわれの宿舎は小豆島は内海湾の奥、古江あたりの丸金醤油の青年学校であった。映画「二十四の瞳」の分教場のある近くである。小さな建物に三、四十名程度の比較的少人数が起居していたように思う。

食事は旅順時代は腹が空いて仕方なかったが、ここでは特攻隊員ということで優遇されたせいか、質、量ともに良くなり、当時としては珍しいパイナップルの缶詰などもたまには出て、娑婆の方には申し訳ないような気持でいただいたことを思い出す。寝る時もハンモックではなくベッドだったように思う。


・ 教官

伊熊大尉(後に訓練中目標艦で米軍機の銃撃を受け戦死)や十時大尉の名は今でも覚えている。この方たちが直接の指揮にあたっていたが、なかなかオッカナイ反面、面倒見のよいところもあって、規律のきびしい中にも和やかな雰囲気が漂っていた。

・ 基地

潜航艇は宿舎の近く、かめや旅館裏の松林の丘を下った静かな入江に十隻程度係留されていた。
(以下略)


「古江」という地名を頼りにさらにネット検索してみると、香川県小豆郡内海町にある「古江庵」というお寺に、「特殊潜航艇基地跡の塔」が建てられ、こう刻まれているそうです。


永遠の平和を希って

多くの若人が広い太平洋に通じるこの内海湾の基地で日夜訓練に励んだが 昭和二十年八月十五日 太平洋戦争終結とともに解隊された 併建の寄進石はその当時四国琴平神宮から応召されたものである

昭和五十三年八月吉日

大洋の波しずまりし晩夏かな 一夏

平和なる古き入江に月上がり 能章



また、同じ小豆郡内海町の「宮山招魂社」には 戦後間もなく、忠魂碑が建てられ、次の碑文が刻まれているそうです。


碑文

大東亜戦争酣なるに方り 軍は昭和二十年五月二日特攻潜艦基地を当内海湾に設け 其の部隊 本拠を小豆島中学校に置き 以て急迫せる本土防衛決戦に備えんと日夜訓練に従事す
然る処同年七月二十二日坂手湾沖海上に於て空襲に遭い此の戦闘に於て伊熊少佐以下九士戦死す 尋て八月二日播磨灘に於て機雷に触れ堀川中尉外五士職に殉す 同月八日女神丸屋島沖航行中機銃掃射の遭難に下山中尉外一士又散華す
然りと雖も旺盛なる士気何ぞ之に屈せん奮起以て時の到るを待つ 突如終戦の詔を拝し全軍悲憤慷慨すれど奈何とも為す能はず 大谷司令憂国の涙を払い切歯扼腕する部下将兵を慰諭して曰く
我等の任既に極まる唯一国民として和平建国に尽さんのみと徐かに隊を解く 去るに望んで将士相謀り戦没勇士の芳を不朽に伝えんと茲に霊碑を建つ 後人能く慰霊敬慕の誠を致さんことを

銘に曰く

錦山秀岳聖海清温 十七英霊厳安陵園 一身殉国燦栄誉尊 粛然呑涙敬弔雄魂

昭和二十年晩秋 郷土中学校教諭勲八等 中村米次広光撰并書



前述の高橋さんのHP記事で紹介されていた、上官の「伊熊大尉(碑文では伊熊少佐)」の名が、「戦死」と刻まれているのも痛ましいことです。


同所には、後に 「特殊潜航艇碑」が建てられ、特殊潜航艇を模した石像を戴くかたちで、石碑に次の碑文が刻まれているそうです。


建碑誌

昭和二十年晩秋 太平洋戦争に散った小豆島特攻基地戦没者の忠魂碑が部隊ゆかりの地古江に建立されたが 昭和三十七年初春内海町 当局ならびに内海八幡神社宮司の暖かいご理解のもとに当宮山の地に移された。

この間故吉岡虎光氏が中心となり遺族ならびに部隊関係者等によって慰霊祭が続けられてきたが爾来内海町 招魂社の英霊と共に永久祭典の恵に浴している。

当地各位のご厚情に対しここに遺族ならびに関係者一同は深甚の意を表し併せて英霊が一命を捧げた特殊潜航艇の模型を刻んでその勇魂を後世に傳えるとともにとこしえに安らかに眠られんことを祈るものである。

昭和四十六年八月十五日 特殊潜航艇関係有志建立


少々わき道にそれますが、ネット検索は、「蛟龍」に関連して思いがけない事実を次々に教えてくれます。


1)ウィキペディア「前田武彦」の項


エピソード

戦時中、特攻兵器「蛟龍」の搭乗員となるべく猛訓練を受けた。これについて出演したテレビ番組で、「(自分の受けた訓練は)優しさなんか一つも無かった。死んでいく人間に対して棒で殴ったりしていた」、「(戦争を)最後までやるのかと思っていたら終わってしまった」と首を傾げながら当時の心境を述べている。海軍通信兵だった前田は、手旗信号を判読することができた。

2)治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟 和歌山県本部のHP記事
インタビュー「戦争する国許さない」その17


経済アナリスト、独協大学教授森永卓郎さん
被爆を隠し続けた父の子
私の父は、特攻隊員でした。蛟竜という4、5人乗りの特殊潜航艇の乗組員で、終戦があと2週間遅ければ、私は存在していません。
父は潜航訓練中、広島の海上に出てハッチを開けたところ、偶然にも目の前で原爆が投下される瞬間を目撃したのです。父は被爆を隠し続けました。被爆者差別があったからです。戦後50年ごろ、私が「原爆が地上に落ちて」と話したのを聞きつけた父は激怒して「地上に落ちるわけがない。おれは目の前で見た」と初めて話してくれました。
基本的なルール
叔父が特攻隊員で亡くなったこともあり、私は子ども時代に春と秋、「白鴎遺族会」で靖国神社に行き、復員した兵隊さんたちの本音を聞きました。すごく良い人たちなのに、 「戦争は面白い」と語る。狂っていると思いました。
人を殺めてはいけないのは人間の一番基本的なルールです。まじめな社会人なのに戦争をすると、人が人でなくなる。だから、私は戦争に絶対反対なんです。


3)最後にもう一つ奇しき縁。


上述の高橋さんの体験記をもう少し引用します。


◯ 目標艦芙蓉丸、敵機の銃撃を受け9名戦死
7月半ば頃になると敵機の来襲も激しくなった。7月22日には目標艦として出動中の芙蓉丸に玉野方面から飛来して敵艦載機(P51)数機が突如として後方よりおそいかかった。芙蓉丸の13ミリ機銃2ただちに火を噴いて応戦したが、たちまちのうちに沈黙し、4度5度と反転しては機銃掃射をくりかえす敵機の攻撃により艦橋はじめ船体に500発を超える被弾をうけた。
この戦闘で指揮をとっていた伊熊大尉および梅津船長をはじめ、9名が戦死、10数名の負傷者を出した。私達の同期も伊藤仁三郎少尉、末竹十三雄少尉の2名が戦死、矢野統一少尉が重傷を負った。
戦死者の葬儀は近くの極楽寺で行われ、同じく同期で僧侶だった藤原達成君がお経を唱えたのを思い出す。昨日まで起居を共にした同期の仲間が戦死という現実を見て戦争を実感した。


「伊熊大尉」については、先ほど触れました。続けて列記される死傷者のうち、「矢野統一少尉が重傷を負った。」の一行に、電撃を受けた思いがしました。


こんな本が出版されていることを知りました。


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「特殊潜航艇蛟龍艇長矢野統一 : 父は海の特攻隊員でした」藤原尋子さんと 藤原義一さんご夫妻の共著。矢野統一さんは、藤原尋子さんのお父様だったのです。


藤原義一さんについては、当ブログでも何度か文章を引用させていただいたことがあります。高知「草の家」の学芸員で、槇村浩の研究を続けておられることから、お名前を存じ上げています。また、ご自身短歌をたしなまれることもあって、花や草木への造詣が深く、ほとんど受け売りで、こんな記事を書きました。


散ってまた咲く無窮花や野分ゆく(2016-09-05)


先日から、槇村浩の話題で、連続的に登場戴いている藤原義一さんが、「あなたに贈る短歌の花束」という本を出版されています。奥付を見ると2004年6月発行とあります。実はこの本、私は、ちょっとした縁で当時贈呈を受け、パラパラめくり読みしては、本棚に収めておりました。時々手に取ることはありましたが、全巻通読はしていませんでした。
しかも、筆者の藤原義一さんと、「草の家」学芸員として槇村浩を研究されている藤原義一さんを、同一人物と理解できず、深く確かめることもなく偶然の一致に寄る同姓同名の別人と思い込んでいました。うかつなことでした。

つい最近、この本を手に取り、読み進むうちに、こんな記述に出会い、驚愕を覚えました。

(以前、韓国旅行から)帰国したその日、イン夕ーネットを散歩していたら、日本が、国を統治する全権限を天皇が握る専制政治(絶対主義的天皇制)だった時代に、日本政府が朝鮮のムクゲを抑圧したということが書いてありました。
「人類の歴史で、民族の名前で特定の植物が苛酷な受難を経験したのは、我が国(著者注・韓国)の国花であるムクゲが唯一である。
ムクゲは民族の歴史と共に民族の脈絡の中に息づいてきた花であるため、 日帝強制占領期の三十六年間には民族の受難と共に疲弊して奪われてしまうという残酷な試練を経験するしかなかった。
満州、上海、米国、欧州へ向かった独立志士たちが光復の救国精神の表象としてムクゲを掲げると、日本はこれにうろたえたあまり、ムクゲを見つけしだい燃やしてしまったり、引き抜いて無くしてしまった。
うそ
日帝は国花ムクゲを『目に血花』と呼び、見るだけで目が血走るという嘘の宣伝をし、『おでき花』と呼び、手に触れるだけでおできが出来ると言うなど、様々な話で我が民族の気概を表現するムクゲ弾圧に極悪だったのだ。
しかし、国花ムクゲに対する受難が加われば加わるほど、我が民族はよりいっそう自分たちの精神を代弁するムクゲを愛し、隠してまで守ってきた」(「韓国のホー ムぺージを日本語で読む」)
-----「読んでいただける方へ」より

さらにページを繰ると、こうありました。

 日本の天皇が朝鮮を植民地にしていたころ、 植民勢力が朝鮮人に愛されていたムクゲを抑圧したことを「読んでいただけるかたに」で書きましたが、ここで、もう少し詳しく、 そのことを書いておきます。
植えることも、話すことさえ
『金夏日歌集 無窮花』(一九七一年二月一日発行。光風社)を読みました。
著者の名前は、キム・ハイル。無窮花は、ムグンファと読むのだと思います。ムクゲのことです。
著者は一九二六年(大正十五年)、朝鮮慶尚北道・桃山洞の一貧農の家に生まれました。そして、一九三九年(昭和十四年)、十四歳のころ、すでに朝鮮から日本に渡っていた父をたずねて、母と長兄夫婦、次兄らと日本に渡ります。
彼が生まれる前の一九一〇年、日本は日韓併合で朝鮮を植民地にしていました。
「あとがき」で、ムクゲについて、こう書いています。
「日本帝国主義の侵略とその統治下においては、 朝鮮民族が限りなく愛するこの花を、自分の土地に植えることも、またこの花について話すことさえ許されなかったのです。
こうした抑圧のなかで、 無窮花はなおのこと私たち朝鮮民族の心に生きつづけ、私は幼い時から祖母や母に無窮花の美しさをひそかに聞かされてきましたが、祖国朝鮮に私が生まれ育った時代にはついに見ることができませんでした」
日本は太平洋戦争を始めました。
長兄は日本海軍の軍属としてとられ、戦死します。
著者も東京の戦災の炎をかぶり、両眼失明しました。

さらに、こんなことが行われたのだそうのです。

朝鮮への桜の植樹
一九〇五年(明治三十八年)、日本は第二次日韓協約で大韓帝国(朝鮮)の外交権を接収し、京城(現在のソウル)に韓国統監府(長官は韓国統監)を設置しました。
一九一〇年、日本は日韓併合で大韓帝国を植民地にしていました。同年八月二十九目、目本は朝鮮にその植民地文配のための政庁・朝鮮総督府を設置しました。(韓国統監府を改組)。
(中略)
日本の植民者は、朝鮮に次々と日本の「軍国の花」 ・桜(ソメイヨシノ)の苗を植樹し、桜の名所を作っていきます。鎮海(チネ)の日本海軍の軍港には我が海軍の微章にちなみ」一九一〇年に二万本、一三年に五万本、一六年に三万本、合計十万本の苗木が植えられました(『ある日韓歴史の旅鎮海の桜』、竹国友康、朝日新聞社)。
ムクゲの記事が押収されて
第四代朝鮮総督の斎藤実の時代には弾圧一辺倒では治まらなくなって民族紙の発行を許可します。
「朝鮮日報」、「東亜日報」が創刊されました。しかし、それらは朝鮮総督府警務局が検閲しました。
(中略)
「東亜日報」は、 一九二五年十月二十一日付に「読者と記者」の欄に「錦細江山の表徴『朝鮮国花』無窮花の来歴」という記事を載せました。
「昔のことですが、大韓時代に無窮花を国花として崇め尊んだのは、どういう理由からなのですか」(東大門外ユク・チュングン)という読者の質問に答えたものです。
「今から二十五、六年前」に尹致実(ユン・チホ=開化派の政治家)が愛国歌を:創作したが、その繰り返し部分に「無窮花三千里華麗江山(ムグンファサムチョンリョガンサン)」がありました。その時、初めて「木種(クンファ)」を「無窮花」と書き出したらしい。
これと前後して島山安昌弘浩(トサナンチャンホ=独立運動家。一八七六-三八年)らが民族連動、国粋運動を展開する時、朝鮮を無窮花にたとえて「われわれの無窮花(ムグンファ) の丘は……」と演説しました。
この時を前後し、木樓(クンファ)を「ムグンファ」とはっきり使いだし、朝鮮の国花と定めたようです。
記事は、こうした説明をした後で、次のようにのべています。
「---無窮花はそれほど華麗でもなく、枝とてそれほど美しくもなく、その上、葉は密集していて趣とてないのですが、朝露を浴びて咲いては夕刻に散り、また他の花が朝咲いてタ刻に散るというふうに、絶えず咲いては散る様が、 刹那を誇って風に散るのを武士道の誇りとしている桜よりも、赤色だけを誇る英国の薔薇よりも、花房だけただ大きいだけの中国の芍薬(シャクヤク)よりも、どれほど粘り強くて堅実であり、気概があって祈願がこもっていてみずみずしくて可愛らしいことは、ほかの何ものにも比べることはできないでしょう。
それで私たちの祖先は、この朝生夕死ではあるけれど、次々と咲く木槿を無窮花と呼んで国花としたようです。
しかしいまでは、無窮花が名にし負うほどの使命を果たせず、西北道では見られぬようになり、京畿方面では心ある人たちの丘の飾りとなり、全羅道では農家の垣根として残っているだけだそうです」
この記事は、 朝鮮総督府警務局が押収しました。


その藤原義一さんのちょっと以前のブログにこんな記事がありました。


【連載 父は水中の特攻隊員でした】 1 高知市出身の青年が特別攻撃隊に志願した訳は……。

父は水中の特攻隊員でした

藤原尋子・義一

【読んでいただけるかたへ】

この連載は、太平洋戦争(一九四一年十二月八日~一九四五年八月十五日)のとき、日本帝国海軍の水中の特別攻撃兵器・特殊潜航艇蛟竜[こうりゅう](甲標的丁型)の艇長講習員だった矢野統一[やの・とういち](一九二四年九月二日生まれ)の物語です。

国の為[ため]捧[ささ]げ尽[つく]さん此[こ]の体[からだ]死処[ししょ]に咲くまで只[ただ]まっしぐら

当時、矢野が詠んだ「出陣賦[しゅつじんふ]」です。

矢野は、いま八十三歳です。高知市筆山町[ひつざんちょう]に妻・昭子[あきこ](旧姓・南)と二人で住んでいます。不動産鑑定の仕事をやっています。

筆者の一人・藤原尋子[ふじはら・ひろこ]の父です。

共著者の藤原義一[ふじはら・よしかず]は、尋子のつれあいです。

矢野が搭乗していた蛟竜[こうりゅう]は、こんな兵器でした。全長二六・三メートル、全幅二メートル。五人乗りで、上下に魚雷二発を装備しています。

矢野の訓練のため搭乗していた蛟竜は真っ黒に塗られていました。

艇長は艇の責任者です(士官)。立っての搭乗です。特眼鏡(潜望鏡)をのぞきます。

艇長の立っている「下の段」に座って四人の艇付[ていづき]と呼ばれる搭乗員がいました(准仕官または下士官)。

(中略)

浅く潜航して運航するときは特眼鏡で周りを見ながら操縦します。

しかし、ソナーなどが装備されているわけではなく、深く潜航して運航するときには、深度計などにたよるしかありませんでした。

蛟竜の長時間潜航試験の結果があります(『特攻艇長たち 次世代への遺言』。蛟竜艇長十七期会編。銀河編集室)。

六一七号艇に七人が乗り込んでの試験でした。十八時間を過ぎると限界になり、浮上します。

目標艦の七、八百メートルの至近距離から魚雷を発射します。

魚雷を発射すると浮き上がるため、すぐに発見されてしまい、とうてい生還は望めないものでした。「蛟竜」の名は、水中、特に深い湖や池の底に住むと考えられていた大きな角を持つ龍の一種・蛟竜からつけられました。普段は水中に潜んでいますが、時機を見て天に昇り、雨雲を操って雷雨を起こす竜とされます。

(中略)

私、尋子が、父が水中の特別攻撃隊員だったことを知ったのは一九八二年春、三十四歳のころのことでした。当時、私は東京都の公立中学校の教師をしていました。

幼いころから父の右肩の後ろにの長さ二十センチ、幅五センチぐらいのケロイドのような傷跡のことが気になっていました。そこは、少しくぼんでいて血管が通っていません。

それも水中の特別攻撃隊員だったころアメリカ軍機に撃たれたものだと知りました。

当時、ある雑誌に四ページで、父の体験を書かせていただきました。

この本は、その続編です。

(中略)

十二月、東京都国分寺市で開かれた平和のためのつどいで尋子が「いま、こんな本を書いています」と近況紹介をしたら、あるかたが「私は、中学生のとき、その特殊潜航艇をつくっていました」と発言されました。


もしも矢野統一さんが、米機の銃撃を受けながら一命をとりとめていなかったら、尋子さんはこの世に誕生することはなく、義一さんと結ばれることもなかっただろうと、別のところで書いておられます。あまりにも重い真実に、言葉を失います。


それにしても、生還できる可能性がほとんどない「特攻」という戦術を、大真面目に立案・推進し、純真な若者に死ねと命じる戦争指導者たちの愚劣は、憎んで余りあります。


ところで三省堂「大辞林」は、こう説明しています。


こう りょう かう- [0][1] 【蛟▼ 竜▽】

〔「こうりゅう」とも〕

① 中国の想像上の動物。まだ竜にならない、蛟(みずち)。水中にひそみ、雲や雨にあって天上にのぼって竜になるとされる。

② 時運に恵まれず、志を得ない英雄や豪傑。


「時運に恵まれず、志を得ない英雄や豪傑。 」という不吉な名を冠せられた特攻艇。気の毒の極みです。


小豆島の玄関口・土庄港の緑地公園に「二十四の瞳」のブロンズ像があり、「平和の群像」と呼ばれます。帰りのフェリー乗船前に、バスが立ち寄ってくれました。


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ウィキペディアにはこう紹介されています。


小説『二十四の瞳』は、小豆島出身の作家である壺井栄が、第二次世界大戦の終結から7年後の1952年(昭和27年)に発表され、作者自身が戦時中を生きた者として、この戦争が一般庶民にもたらした数多くの苦しみや悲しみを描いたものであった。発表から2年後、1954年(昭和29年)に高峰秀子が主演し映画化された(二十四の瞳 (映画))。

この群像は、戦争での教訓から、平和を願う気持ちを込め、『二十四の瞳』の原作と映画をモデルにして、映画公開の2年後、1956年(昭和31年)に建てられた。


穏やかな瀬戸内海が、再び殺戮の現場となり、恐怖と狂気に覆われるようなことが、決してありませんように。


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今日はこれにて。


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