宇喜多直家を探る、の巻 [あれやこれやの知ったか話]
朝の常山です。
今、水田が広がり、長い農道が続いている平野は、干拓によって作られたもので、以前は海でした。従って、常山も麦飯山も、かつては海に面して聳えていたのでしょう。
岡山市の岡山シティミュージアムのHP 中に収められている、デジタルアーカイブに、歴代岡山城主の紹介が載せられています。その冒頭に、「創築者」として、宇喜多直家の名が見えます。
部分的に引用します。
■生い立ち
享禄2年(1529)、備前国邑久郡豊原荘(現・岡山県邑久郡邑久町)の砥石城に生まれる。家門は在地領主。6歳のとき、祖父の能家が西隣の高取山城主・島村貫阿弥に攻められ自害すると、父とともに城を脱出、備後鞆・備前福岡・同笠加を転々とする。この間に父が病没し、天文12年(1543)、旧主家である浦上宗景に出仕する。同年初陣で功を挙げ、翌年には小城塞・乙子城の城主に抜擢され、数々の戦功を挙げる。永禄2年(1559)、岳父・中山信正を謀殺して居城と領地を奪い、祖父の旧領地も奪回する。同時に仇敵・島村貫阿弥を謀殺。以後、亀山城を居城とし領地の拡張に努め、永禄4年(1561)には龍の口城を攻略。
宇喜多直家木像 写真
宇喜多直家 写真提供:光珍寺 (木像は光珍寺が所蔵していたが、戦災で焼失)
■岡山開府
永禄9年(1566)、美作・備前進攻をうかがう備中松山城主・三村家親を暗殺。翌年、2万の兵力で備前に攻め入った家親の子・元親をわずか兵5千をもって撃退(明禅寺合戦)、この完勝をもって完全に「戦国大名」となる。翌年には備前国西部の有力者・松田氏を滅ぼして主家を凌ぐ勢力となり、元亀元年(1570)、岡山平野制圧を意図し、好適地の石山の城を奪うため同城主・金光宗高を謀殺。大改修を施して天正元年(1573)入城。これが岡山城の前身となり、「城下町・岡山」の歴史が幕を開けた。■織田軍へ帰参
力をつけた直家はついに主家・浦上宗景と対立するが、宗景はもはや直家の敵ではなく、天正5年(1577)滅亡。その領地を収めた直家は備前国・美作国南部に播磨国西部までを領する有力戦国大名に成長を遂げた。その後、織田信長の命で中国地方進攻に乗り出した羽柴秀吉(豊臣秀吉)に対抗して毛利氏と結ぶが、のち信長に帰属。毛利勢と激しい攻防を繰り返し、その最中の天正9年(1581)、病により波乱の生涯に幕を閉じる。直家は正攻法よりも権謀術数を多用したため「戦国の梟雄(きょうゆう)」とおそれられるが、裸一貫から中国路有数の戦国大名にのし上がったその実力は、異彩を放っている。
宇喜多直家といえば、「梟雄」「謀将」等々と評され、非情でダークなイメージがつきまといますが、上の引用文からもそれが窺われます。文章の端々に、「暗殺」「謀殺」「奪」「権謀術数」などというまがまがしい文字が踊っています。その相手は、岳父(妻の父)であったり、元の主君であったり、姻戚、同盟者であったり、みずからの利のためには情も理もお構いなしの残忍さを発揮しています。兄直家の補佐を勤めた弟宇喜多忠家が、「兄の前に出る時は、警戒して鎖帷子を身につけていた」と、後に述懐するほどだったとも言います。
先日から話題にしている、美作の三星城主後藤勝基もまた、その1人でした。
第92回オール讀物新人賞受賞作で、第152回直木賞候補作 「宇喜多の捨て嫁」( 木下 昌輝著)は、政略によって後藤勝基に嫁した於葉(直家の四女)にスポットライトを当てています。
AMAZONの「商品の説明 」欄から一部抜粋します。
内容紹介
権謀術数によって勢力拡大を図った戦国大名・宇喜多直家によって、捨て駒として後藤勝基に嫁がされた四女・於葉のこの物語を、篠田節子選考委員は「女性視点から決して感傷的にはならず、最後まで緊張感が緩まず、リーダビリティは高いが通俗的ではない/時代小説の様式に則りながらも、随所に独特の表現が光る」、同じく森絵都選考委員は「海千山千が跋扈する殺伐とした世を背景に、一筋縄ではいかない人物たちが迫力たっぷりに絡み合う、緊張感のあるそのストーリー展開には貫禄をも感じた」と高く評した。
本書ではほかに五編の短編を収録。いずれも戦国時代の備前・備中を舞台に、昨日の敵は味方であり明日の敵、親兄弟でさえ信じられないという過酷な状況でのし上がった、乱世の梟雄・宇喜多直家をとりまく物語を、視点とスタイルに工夫をこらしながら描く。(後略)
この三星城がある場所から十数キロ南へ下ったところに、茶臼山という小山があり、その頂きにこのような建物が見えることを.過去記事で話題にしたことがありました。
ふるさとはいづこも花は盛りなり骨折の父癒えゆくらしも(2017-04-11)
束の間の出遭いゆかしや寒ゆるむ(2014-01-31)
赤磐市周匝(あかいわしすさい)にある茶臼山(城山とも呼ばれます)です。
赤磐市のhp にはこうあります。吉井川の清流のほとり、空を衝くように茶臼山がそびえ立つ。
備前軍記によると戦国時代に山城があったと記録され、市の史跡になっています。
四季を通じて楽しめる山頂に、城型展望台とともに高瀬舟舟宿を移築し、大型竪穴遺構を推定復元して人びとに親しまれる公園にしました。
所在地:赤磐市周匝15-6
電 話:086-954-1366
営業時間: 10:00~17:00
定休日:月曜
駐車場:10台
トイレ :有
アクセス:山陽ICから車で約60分
美作ICから車で約40分
戦国時代の山城という認識はありましたが、少し調べてみると、これまた宇喜多直家にゆかりがあったようです。
「角川日本地名大辞典33岡山県」から該当箇所を引用してみます。
ちゃうすやまじょう 茶日山城<吉井町>
中世の山城。赤磐郡吉井町周匝に所在。築城時期は不明。天文初年頃,浦上宗景配下の諸城の1つに周匝村城の笹部勘二郎の名が見える(備前軍記)。笹部氏は吉井川上流地域を押える任務をもってこの城に居城していた。 天正5年の天神山城落城後, 浦上宗景の家来であった国人や名主層が宇喜多直家に反旗を翻し,笹部氏もこの一党に与し, 天正7年この城も直家の攻撃を受け,勘二郎とその息子は討死して落域,以後自然と廃城となった。
「赤磐郡吉井町」は平成大合併以前の呼称です。同じ吉井川の下流に位置する天神山城(和気郡)を居城としていた浦上宗景にとって、この茶臼山城は、地理的にも要衝としての役割を持っていたようです。
天神山城についてのウィキペディアの解説を少し引用します。
天神山城(備前国)
ここを拠点とした宗景は毛利の助力を得て各地で勝利を収め政宗の勢力を駆逐し備前の支配権を握る。また、宗景はかつて浦上被官であった宇喜多能家の孫で放浪の身であった直家を召し抱えた。有能な直家は頭角を現し宗景の片腕となって活躍し、その助力もあり宗景の備前・美作地域の支配は次第に強固なものになっていった。
永禄7年(1564年)兄の政宗は室津城において、二男・清宗の婚礼の当日、赤松政秀の攻撃に遭い父子ともに戦死。跡は政宗の三男の浦上誠宗が継いだが、3年後の永禄10年(1567年)に宗景の手の者によって暗殺され室津の浦上惣領家は滅び、その領地を接収してさらに勢力を強めた。
天正元年(1573年)宗景は西国に勢力を伸長してきた織田信長と結び、備前・播磨・美作の支配権を認められた。しかし、次第に家中での勢力を拡大していた宇喜多直家は、これに反対し安芸の毛利氏と結んだ。
天正2年(1574年)直家は遂に主君宗景に反旗を翻した。浦上政宗の三男誠宗の子で直家が岡山城に庇護していた浦上久松丸を奉じ、浦上宗家復興を名目に天神山城の宗景を攻めた(天神山城の戦い)。
天正3年(1575年)家中で直家に内応するものもあり、遂に宗景は城を放棄し播磨へ遁走した。その後、直家はこの城を焼き払ったと伝えられ、天神山城は廃城となった。とされていたが近年、本城から出土した瓦が天正8年(1580年)ごろ姫路で焼かれたものと酷似しているという事で「落城後もしばらく宇喜多直家が使っていたのでは無いか?」という説も浮上している。
三星城落城が天正7年、茶臼山城落城も同年。怒濤のような直家の進撃です。
このあたりの事情を「岡山県の歴史」(山川出版社)は、こう要約しています(p169)。
備前国内で宇喜多直家の勢力が拡大し、備中・美作から毛利の勢力が進出するようになると、 これに対処するため浦上宗景は信長の権勢にたよるようになったが、直家は天正五年二月、浦上宗景の本拠天神山城攻略に成功し、宗景は播磨にのがれた。こうして、宇喜多氏は直家のとき、ついに、主家浦上氏を備前国から追いだし、備前・備中東南部・美作東部を手中におさめて強大な大名勢力となったのであった。
宇喜多直家はさらに播磨へ兵を進めたが、宇喜多・毛利の連合勢力が強大化することを厄惧した織田信長は同五年十月、羽柴(豊臣)秀吉を山陽道に派遣した。秀吉は黒田孝高の姫路城に本拠をおいて、天正七年にかけて宇喜多勢を播磨から駆逐した。
直家は天正七年になると、羽柴秀吉と講和して、毛利氏と結んでいた三星城の後藤勝基を攻め滅ぼし、同年十一月には織田信長に帰属して、これまで同盟していた毛利から離反することになった。
わが居住地ナードサークの近辺にも、宇喜多直家にまつわる事蹟がいろいろと残されており、過去記事でも、何度か話題にしてきました。 たとえばこんな記事。鯉のぼりの伝承、の巻(2016-04-30)
以前、ブログを始めたばかりの頃、こんな記事を書きました。
濁りなき緑を肺に満たしてん(2013-08-20-1 )
戦国時代、中国地方最大勢力の毛利氏と、織田信長・羽柴秀吉方についた宇喜多氏との間で戦われた「八浜合戦」は、この地を舞台にしています。当時、麦飯山の頂上には、二つの城があったそうで、今見ても、確かに頂上が、遠目にも平らに見えるように思えます。
麦飯山城は、宇喜多直家の家臣、明石源三郎の居城で、 宇喜多家の支城でした。当時、宇喜多と毛利は同盟関係にありましたが、宇喜多は、戦局を見て織田方に寝返ります。毛利は、中国地方攻めを進めている秀吉軍が、備前に入る前に岡山城を攻めようと考え、その拠点にするため、麦飯山城を奪おうとして攻撃を加えました。
毛利軍2万人が、山の周囲を囲み、兵糧攻めを加えたのに対し、 宇喜多の勢3千人が籠城しますが、山上には井戸がなく、麓の水源もおさえられたため、城から討って出、ふもとの八浜地区で激戦が繰り広げられました。
城主明石源三郎は、毛利軍の侍大将荘勝資と一騎討ちで戦死。家老の田中源四郎も、戦死して落城します。一方、勝った荘勝資も、明石源三郎の家来に討たれました。
八浜合戦は、1582年。「女軍の戦」で知られる常山城の合戦(1575年)から、数年後のできごとです。(中略)
「女軍の戦」で知られる常山城の合戦(1575年)については、さらに古いこの記事逆さ児島富士 (2013-08-06)で概略を記しています。
富士の世界文化遺産登録が話題を呼ぶ中、「○○富士」が脚光を浴びています。
常山は、かつて児島半島が瀬戸内海に浮かぶ島であった時代、海に面して聳える小高い山でした。戦国時代、ここには山城が築かれ、城主は幾代かにわたって交代しましたが、女軍の戦で知られる「常山合戦」は、現地の案内板には次のように記されています。
常山合戦案内
ここ常山城は、常山女軍が戦った城として知られています。
天正3年(1575)6月7日、城主上野肥前守隆徳の守る常山城は、毛利・小早川隆景の大軍に包囲され落城の時を迎えていました。
本丸直下のこの二の丸付近に迫った敵将浦宗勝の軍勢に対し、領主隆徳の妻鶴姫以下34人の侍女達は最期の戦いを挑みました。
しかし、女軍達は次第に討ち取られ、鶴姫は本丸に引き上げ自刃したと伝えられています。
昭和12年(1937)、城主一族と女軍の冥福を祈って40基の墓石と墓碑が建立され、戦国の世の人々は今、桜木や広葉に囲まれて静かに眠っています。
平成15年11月11日 玉野市教育委員会
「常山合戦案内」板よりこの常山合戦について、常山のふもとにある豊岳山久昌寺のホームページ「豊岳山久昌寺」に「常山女軍常山城と久昌寺」」という記事があり、こう書いておられます。
天正三年(1575年)六月四日、常山城(城主・上野隆徳)は総勢七千ほどの毛利勢によって完全に包囲され、落城の時がせまっていました。
そして六日の朝には総攻撃が始まり、それと同時に逃げ道には火が放たれ退路も断たれてしまいました。
翌日早朝には城内で最後の酒宴が催され、一族いさぎよく自害しようと申し合わされたのです。
一族の自刃の修羅場が展開する中で、隆徳の妻(備中松山城主・三村元親(もとちか)の妹で名を鶴姫と伝えられています)は男に負けない武勇の持ち主で、「敵を一人も討たないでやすやす自害するのは口惜しい」と鎧を着け上帯を締め長刀を小脇に抱え、敵前におどり出ました。
それに従い『遅れてなるものか』とばかりに侍女たち三十四人がそれぞれ長刀をとり、敵の中に飛び込み、大いに奮戦しました。
しかし圧倒的多数の敵勢に対しては、彼女達はあまりにも無力で、一人また一人と討ち取られ次第に少なくなってゆきます。
奮戦の後、鶴姫は「父・三村家親から与えられたもの」と国平(くにひら)の大刀を投げ出し死後を弔って欲しいと言い残して再び城中に消えていきました。
そして、念仏を唱えたあと、口に刀をくわえ、前に倒れこむように突っ伏して、壮絶な最後を遂げたのです。
それを見届けた後、城主・上野隆徳も腹を十文字に切って果てました。
それぞれの首は、当時毛利氏を頼り、備後の鞆(浦(とものうら・現在の福山)にいた没落将軍・足利義昭(織田信長に京都から追放されました)のもとへ送られたということです…。(『備前児島と常山城』…北村章著・1994年山陽新聞社発行、ほか『備前軍記』『備中兵乱記』等を参照)(中略)
常山合戦の後日談として、地元には、こんな伝承が伝わっているそうです。
1575年6月の常山城城落の時、主、上野高徳は6歳になる末の娘「美余」を、客として城に滞在していた長谷井半之進盛之という武士に託し、ひそかに城を脱出させ た。半之進は常山城の東に約3キロ離れた池ノ内の地にのがれ、武士を捨てて帰農し、姫を育てながら、ひっそりと暮らした。
姫は、半之進の息子半九郎実之と共に成長し、後にこの半九郎と結婚し、一男一女を得た。
この姫に男の子が生まれると、常山城主の血につながると見なされて危険であると考えた村人たちは、みんなで申し合わせ、たとえ男の子が生まれてもこれを隠すため、鯉のぼりや絵のぼりをたてないようにしたという。その風習は、400年を経た現在も続いているとのことだ。
なお、市の重要文化財に指定されている「道清夫婦の墓」は、半九郎夫婦の墓のことである。
また、もう少し最近では、ムルデルの干拓堤防、の巻(2016-12-12)にも補足記事を載せています。
「角川日本地名大辞典33岡山県」から麦飯山の記事を引用してご紹介します。
むぎいいやま 麦飯山<玉野市>
玉野市八浜町大崎と槌ヶ原の間にある山。 標高232m。 古生代泥質片岩からなる。近くの金甲山・怒塚(いかづか)山・ 常山などとともにその突出した山容から「屋根破り」の異称がある。
戦国期に山城があったことが知られ, 麦飯山の西約2.5kmにある常山にあった常山城主明石景行の弟明石源三郎が弘治・永禄年間のころ居城していたという。
麦飯山城はのち毛利氏の手に落ち, その毛利軍と岡山城主であった宇喜多氏の軍勢が激突したハ浜合戦はよく知られている。北麓を J R宇野線が走り,南麓は国道30号が通る。
むぎいいやまじょう 麦飯山城く玉野市>
中世の山城。玉野市八浜に所在。城跡は2つ重なっている山を利用し,高い山の方に本丸・二の丸・三の丸の主要部分を設け,低い山に出丸・馬場などをおいた。弘治~文禄年間,近くの常山城主明石景行の弟の明石源三郎が在城していたといわれる。
羽柴秀吉の中国平定のとき,宇喜多氏にその先陣を命じたので,浮田(ママ)忠家は毛利勢のこの城を攻めるため大軍を八浜に送った。両車は近くの大崎の柳畑の海辺で激突した。これを俗に八浜合戦という。
前述の「岡山県の歴史」(山川出版)にはこうあります。
全国統一をめざす識田信長にとって、中国地方制覇は毛利氏を残すのみとなり、宇喜多氏は織田信長配下として毛利との最前線におかれることになった。
このため、天正八~九年のころ、岡山県内では、毛利勢と宇喜多勢との戦いが各地で行われたが、このうち最大の合戦は天正九年八月の八浜(玉野市八浜)での両軍の激突であった。この戦いは備前南部の制海権をめぐる一戦と位置づけられるもので、中国地方制覇をねらう織田信長にとってとくに重要な意味をもつ戦いであったと考えられる。 当時児島は 島で、瀬戸内の沿岸航路は児島の北の内海を連島(倉敷市連島)へ抜けていた。毛利方は備前児島に兵を進め、 麦飯山(玉野市大崎)による穂田元清に援軍を送って、宇喜多方と激しい戦いを展開した。村上水軍を動員した毛利のため宇喜多軍は総崩れとなり、戦況立てなおしに奔走していた総大将宇喜多与太郎基家が流れ弾にあたって戦死した。退却のさい、能勢・馬場・岸本・小森・粟井宍甘・国富の七人の奮戦で毛利の追撃をかわした語は「八浜の七本槍」として知られる。結局この合戦は、この後、陣形を立てなおした宇喜多方の勝利でおわった。この戦いで戦死した与太郎基家は八浜と 大崎の境に葬られたと伝えられるが、いつのころからか、この地に祠がたてられ、「与太郎様」とよばれて足の神様として信仰を集めている。
直家が五三歳の生涯を開じたのは八浜合戦前の天正九年二月であったが、その死はおよそ一年間伏せられた。直家の跡をついだ嫡子八郎が当時一一歳であったことから、直家の弟忠家が後見することになり、 のち八郎は羽柴秀吉の一字をあたえられ宇喜多秀家と名乗ることになる。
八浜合戦は1582(天正10)年のことです。ここに直家が登場せず、弟の忠家の名が見えるのは、直家は既に没していたためです。
ウィキペディアには、直家の死についてこう解説しています。
天正9年(1581年)の末頃に岡山城で病死。死因は「尻はす」という出血を伴う悪性の腫瘍であったという。 その死はしばらく隠されたといい、天正10年(1582年)1月9日が公式な忌日とされている。
「備前軍記」にはこんな記述がある由。
或説に、直家の腫物は、尻はすといふものにて、膿血出づることおびただし。是をひたし取り、衣類を城下の川へ流し捨つるを、川下の額が瀬にて、乞食共度々拾ひけるに、二月中旬より、此穢れたる衣類流れざるより、直家はや死去ありしといふ事を、外にて推量して、皆之を沙汰しけるとぞ
膿まじりの出血が酷くて、それを拭い取った衣類を川に流していたのを、川下で拾う者がいたが、ある頃から衣類が流れてこなくなったので直家は死去したのだろうと人びとが噂し合ったのだというのです。さしもの「梟雄」直家も、悪性の病には敵わなかったもののようです。
聞きかじりの知ったか話、今日はここまで。
初対面!!の巻 [今日の「これなあに」?]
故郷美作の三星城と宇喜多直家の因縁を話題にしたついでに、わが居住地に近い常山城に触れるつもりでしたが、予定変更して記事を差し替えます。
今朝の常山を写しておこうと、朝の散歩に出かけたところから、ことは始まります。
よく冷えて、空気が澄んでいます。
手前の田んぼに、何か鳥の群れが飛来するのが見えました。
今日のこれなあに?その1
見覚えのない鳥です。
家に帰って、トリミングによって拡大してみましたが、どうもマガンとか、ヒシクイとかの、ガンの仲間のように見えるのですが、実物を見たことがないので確信が持てません、、。
fujiFINEPIXs1しか持っていませんでしたので、精彩度には欠ける恨みがのこります。
今日のこれなあに?その2
ちょっと大ぶりの鳥が飛んできて電柱にとまりました。
トビではないように思えます。ノスリでしょうか?
今日の付録
ミサゴ。
カワラヒワ。
モズ。
コガモ。
オオバン。
アオサギ。
アオサギとダイサギ。
付録の最後は、新しい同居者、ハムスターが2匹。前回ご紹介したのは♂でしたが、今日は♀のスナップショットです。
麦飯山と麦飯山城についても、回を改めて話題にしたいと思います。
今日はこれにて。
三星山あれこれ、の巻 [折々散歩]
フィルムカメラ時代には、撮影済みのフィルムを現像しないまま、カメラに入れたまま長い間放っておくようなことがよくありました。デジタル時代になって、比較的画像閲覧するテンポが早く、頻繁になりましたが、時には長い間確認を忘れている画像もあったりします。
たとえば、8月のこんな画像が、未確認のままカメラ(E420)のCFカードに入ったままでした
こちらのカメラ(RICOH gx200)を、最近使ったことも、忘れかけていました。
12月24日(火)、行きつけの整体院に母を送って診察待ちの間、近所を散策してみたのでした。
ずっと以前、この記事で話題にしたのと同じ場所です。
雪解や まずはめでたく 父帰る(2014-02-12)
皮肉なことに、1960年代頃には、実家のすぐ近所の停留所から、バスに乗ってこの町まで容易に行くことができました。まもなくこのバス路線は廃止され、川向こうの道路を走るバス路線を利用するために、1.5kmの道のりを歩くことが必要になりましたが、まだ交通機関利用による移動が可能でした。そのバスは通勤通学のためにも利用できました。
しかし、やがて、その路線も縮小され、今では日に数本が運行されているのみで、高齢者や年少者は、交通難民の状態に置かれています。その上医療機関もこのありさまときては、ほとんど医療難民でさえあるのです。
診察が終わるまでの待ち時間、暗澹とした気持ちで、そんなことを考えながら、近辺を少々散歩してみました。
私が40数年前に通った高校の近辺なのですが、通りも駅前の通りもバスステーションも見るかげもなく寂れ果てていて、うら悲しいので、写真に撮るもはばかられました。町並み写真は遠慮して、代わりに川景色を写してみました。
ところで、正面のこの山は?
拡大すると、山頂付近に、何か装飾物?が見えます。
美作市業振興課のFBを見ると、こんな写真と記事が掲載されていま
した。
美作市産業振興課
【三星山『美』文字が点灯します。】
本日から平成28年1月20日(水)までの一か月間、三星山に『美』文字が点灯します。凛とすんだ冬の夜空に光る『美』を是非お楽しみ下さい。点灯時間は午後5時30分~午後11時までです。
また。みまさか商工会のHPには、こんな記事がありました。
2013年04月04日 商工会ニュース
美作国建国1300年を記念して三星山に「天」から「美」への改修工事を
行いました。
ところで美作国1300年とは・・・
美作国の建国は、平安時代に編まれた史書『続日本記』に記されています。
備前の国から分かれ、一つの国となり、山や森や川が分かち与えてくれる
多様な資源を恵みとして独自の歩み出した美作国。
その国の興りから今年で1300年を迎えるそうです。
そこで、建国1300年を記念して各地区でイベントが企画されています。
詳しくは美作国建国1300年HPをご覧ください。
当商工会でも記念事業として第1弾!!
ということで、三星山に「美」文字を設置し、市内外の方や来訪者の方々に対して、
記念の年であることとの周知と気運の醸成を目的に4/3(建国記念日)より点灯しております。
「三星山」の全景です。
この山頂には「三星城」があったと子どもの頃。学びました。
「角川日本地名大辞典」に、こんな解説があります。
みっぼしじょう 三星城/美作町
中世の山城。英田郡美作町明見に所在,梶並川と滝川の合流点にある三星山上にあり, 西・南は深い谷があり, 山は険しい。 山頂が三峰に分かれているのでこの名があるという。 応保の頃, 土豪の渡辺進左兵衛長寛が居館を構えたことが始まりとしているが確かでない。観応2年, 土豪後藤康基が塩湯郷の地頭職についたという説があって,三星城はこの後藤一族の居城とされている。
康安元年,山名義理が赤松氏を攻めた時. 後藤氏の妙見城落城。 明見の地にはほかに山城が見られないので妙見城は三星城と考えられるが確証はない。
天文~天正年間の頃,後藤勝政,勝基の代が後藤一族の全盛期で作東の土豪武士を結集し,三星城東部の要であった。
永禄9年に尼子氏が毛利氏に滅ぼされ、毛利勢力が作東にものび, 天正7年, 宇喜多直家の軍と戦い落城。 後藤氏の作東支配が終わった。
当城は, 東西に連なる峰を取り込んで縄張りした連郭式の山城である。 本丸は中の峰にとり, 東西のそれぞれの峰を東の丸, 西の丸として出丸を築いている。東の丸は東端の尾根を中心として南北方向に曲輪の基軸を置き, 東北部の張出し尾根に数箇所の小郭を構えている。 最高所の細長い郭の中心部には見張り台的な高所を築き, これに続く 一段低い狭長な郭の東斜面に3本の竪堀を設け逃げ道としている。
なお、「平成の大合併」のあと、英田郡美作町は美作市に変わりました。また「明見」は「みょうけん」と読みます。
三星城の城主であった後藤家について、ウィキペディアにはこんな記事があります。
後藤 勝基(ごとう かつもと、天文7年(1538年)? - 天正7年5月2日(1579年5月27日))は、戦国時代の美作国の武将。官途は摂津守、一説に左衛門尉。勝元とも。
経歴後藤家は南北朝時代から戦国時代にかけての200年間、三星城を居城とした。勝基もその代々守ってきた三星城を父・後藤勝国(後藤勝政の子)から譲り受けた。
勝基が当主となってのち、出雲尼子氏の力が衰えはじめたので、永禄3年(1560年)頃にその配下から離反し、備前国の浦上宗景と組んで江見久盛の居城である倉敷城を攻め、永禄5年(1562年)には浦上勢を先導して美作国中央部へと侵攻するが失敗に終わった。永禄6年(1563年)には今度は三村家親に三星城を攻められるが、浦上氏の援軍もありこれを退け、以降は東美作統一に奔走、順調に勢力を拡大していき、安東、江見、小坂田などの土豪を配下として、ついに東美作の大部分を掌握した。
しかし勝基は元亀2年(1571年)に浦上宗景と対立。毛利氏と結び、居城の三星城に籠城し宗景の攻撃を受けている。翌年の毛利氏と浦上氏の和睦で浦上氏との関係も修復されたようだが、勝基は当主の座から退いたのか、替わって息子の後藤与四郎(後藤元政)が、文書を発給するようになる。
そして、天正3年(1575年)、宇喜多直家が主君浦上氏を居城天神山城から追放し、美作国への侵攻を始める。勝元は宗景を追放した直家に反発する旧浦上家臣の茶臼山城主・笹部勘二郎や美作鷲山城主の星賀光重らと結んで直家に対抗したが、直家は天正7年(1579年)、延原景能を大将とする大軍で茶臼山城を攻め落とし、3月にはついに三星城に攻め寄せた。勝基はよく守ったが、宇喜多氏の調略や火攻めによって、同年5月に三星城は陥落した。敗走した勝基は長内(岡山県美作市長内)の隠坂で自害、42歳といわれるその一生を終えている。
後年、勝基の墓として五輪塔が三星城跡に建立された。
今朝の夜明けを写すのに、RICOH gx200を使用しました。
olympus E420+zuiko digital 70-300mmで、望遠撮影すると、、、
夕方はまた雨で.夕景を撮影することができませんでした。fbにはお友達のNさんがこんな写真を投稿されていました(25日)。昨日の拙ブログにご紹介したQ男さんと同じく、常山に沈む夕陽の絶景です。
宇喜多直家が登場したついでに、常山城のあれこれについて、回を改めて触れてみたいと思います。
今日はこれにて。
新しい同居者、の巻 [折々散歩]
ナードサークの先住民(?)Q男さんについては、この記事でご紹介したことがあります。
更新の時か桜も咲き初むる(2017-02-27)
隣接した道路から声をかけられました。一瞬戸惑いましたが、自転車から声をかけてくださったのは、妻の友人のTさんでした。そしてその前方にトレーニングウエアでランニング中だったのは、私の友人である夫のQ男さんでした。この春、小学校を退職されました。
私の借りている畑から、ご自宅は近いとはいえ、こんなところでお会いし、立ち話ができたことは、僥倖とも思えました。
そのQ男さんご夫妻が、妻に教えてくださることには、冬至の頃の日没時に、ご自宅近くから、ダイヤモンド常山が見えるとのこと。是非撮影に来てはとお誘いをいただいたそうなのですが、あいにく冬至の22日は雲が厚く、断念しました。翌23日は、うっかり忘れておりましたが、Q男さんはFBにこんなお写真を投稿しておられました。(無断でコピーさせていただきます)
共通の友人のSさんが、これへのコメントとともに、別の場所でダイヤモンド朝日を撮影なさった由、FBに投稿しておられました。
大層刺激を受けましたので、今朝は久しぶりに夜明け前に出発して朝散歩に出かけてみることにしました。
もちろん朝日は常山からは登りません。どうもこちらの山の上空がぼんやり赤みがかっているようです。
そちらの方角を注意しながら歩いていると、しだいに朝日がのぞいてきました。
沢山シャッターは切りましたが、ダイヤモンドにはなりません(汗)それと、使い慣れないRICOHGXR+p10が、どうやっても露出がうまくいかず、白飛びしてしまいました。
霜に覆われた田園風景を朝日が照らし、輝きを増していきます。
稲の切り株が存在感を主張します。
麦の芽が、いつの間にかすくすく育っています。
ラフに耕耘された畑土も、何か目を引くオブジェみたいに感じます。
毎年のように写す光景ですが、、、、
常山方面が、明るい光に照らされます。
こちらの正面は麦飯山(むぎいいやま)でしょうか?
光と霧の紡ぎ出す夢幻の時間。
僅かな時間に、どんどん明るくなっていきます。
昨日から冬休みの子どもたちとの、潤滑剤(笑)に、こんなクリスマスプレゼントを、一緒に買いに行きました。わが家の、新しい同居者です。
来年はねずみ年ですから、、、
何がなし気忙しげなる暮の鳥 [折々散歩]
今年も余すところ一週間余となりました。昨日は冬至。天文の運行は、わずかずつ春に向かっていくことになります。
暦に囚われて、やれ師走だ、年の瀬だと騒ぐのは人間様の事情に過ぎますまいが、湖上をのどかに滑るカンムリカイツブリも、被写体としてゆっくりカメラに姿をさらしてくれることもなく、気ぜわしげに急テンポに潜水しては採餌に励んでいます。
岸辺にいたカモの群れも、人影を察知すると、慌てて飛び立って沖に逃げます。
こちらはマガモの群れでしょうか?沖へ沖へと泳いで遠ざかります。
逆光で、顔がはっきり分かりませんが、このカモは誰でしたっけ?
堤防のコンクリートの上を、背中を向けて動き回るハクセキレイ。一瞬たりともじっとしていません。
同じようなところにうずくまって動かない物体。鳥のようには見えますが、、、.
トリミングすると、、、、トビではなく、ミサゴのようです。
近づくと逃げます。
空を舞う姿は悠然としています。
枝先に止まるツグミ。
モズ。
これは?チョウゲンボウ?
いずれも、近づくと逃げるので、相当トリミングが必要です。
この黒いのは何でしょう?
これは何ガラスでしょう?
年賀状、なかなか書けません。
今日はこれにて。
どうして今頃、こんなところに?の巻 [折々散歩]
前回記事は、今年最後の記事かとまがう「よいお年を」という思わせぶりなタイトルをつけましたが、今年の記事はまだ続きます(笑)
昨日は、午後はあれこれと避けられない用事がありましたので、午前中、気分転換がてら児島湖畔を歩いてみました。
気温は低く、風もありますが、よく晴れてよい見晴らしです。
FUJIFINEPIXS1の最望遠で、飛ぶ鳥を写すのは難しく、画面からはみ出してしまいます・
辛うじて画面に収めても、ピンぼけ、と手ぶれで、ボツ写真量産です。飛ぶコサギ。
採餌中のコサギ。飛んでいなくても、動きについて行けません。
これは、じっとしています。湖面から、高いコンクリートで隔てられた通路に、落とし物のようにうずくまっていました。亀は冬眠するのかと思っていましたが、どうして今頃、こんなところにいるのでしょう?
今日はこれにて。
よいお年を、の巻 [折々散歩]
「よいお年を」の挨拶が交わされる季節になりました。
留学生相手の授業も終わり、一月に実施される試験の時までお別れですねで、別れ際「よいお年を」と言ってくれる学生もいて、ちょっと心が和みました。
教育相談のボランティアも、私の担当は今日が今年最後でした。
きょうは、Mさんとおっしゃる方のアポなし訪問があり、私の鈍った問題意識が幽かに刺激されました。というのは、高齢化と人口減が進む地元集落をどうにかして活気づけたく思っている。まずは、子育て世代の若い人たちが何を考え何を求めているかを知り、それに依拠して取り組むことが大切と思うが、近くに若い人がおらず、若い人と話す機会もない。ついては、子育てをめぐる悩みや思いなど、若い人の気持ちや意見を知りたくて、「子育て教育」を掲げる団体ということで、来訪された由。
「地域を立て直したいと思い、いろいろと提案・行動しているが、周囲にはあきらめているものも多い。便利さを優先して田舎を捨てる風潮は問題。地域に高齢者がいて同時に子どもたちがいる。子どもを見て高齢者が喜びを感じ、高齢者の知恵に接して子どもたちが育っていく。本来、存在していたそんな地域をどう取り戻したらよいか」等、話題は尽きません。
私自身、つい先日、葬儀のために郷里へ帰った際、「生活が不便」「仕事がない」「若者が残らない。残れない。希望が持てない」など、似通った話を交わしたばかりなので、余計に身につまされたことでした。
話の成り行きで、私の出身が美作地方であることを話すと、Mさん、「あなたはお酒を飲まれますか?」とおっしゃる。
何の話題か掴みかねて「飲みますよ」と応じると、「日本で最初に酒をつくったのはどこかご存じですか?」とのたまう。「いいえ、分かりません」と答えますと、「美作です。みまさかは、美しい酒と書いてみまさかと呼ぶようになったと、播磨国風土記にあります。何もないと思える土地にも、このように、誇るべき魅力、特色がありはしないか、それを掘り起こし、若い人に伝えることが大切ではないでしょうか?」と、一本取られました。
さらにMさん、「時々大学などで講演することもあるが、講演を聴いた学校の先生から、どんな子どもを育てることが求められているでしょうか、という質問を受けることがあり当惑する。企業(や大学)がどんな人材を求めているかに応じて、子どもをロボットのように仕立て上げるのが教育と思いこんでいるのだろうか。」と鋭い指摘。
「日本人は余りにも世界を知らない。図書館へ行っても、書店へ行っても、ヘイト的な本ばかりいっぱい並んでいて、そうでなければ料理か観光の本。世界がどう動いているかを自分で確かめ、自分の頭で判断しながら行動する、そういう力を学校では育てて欲しい。あなたはすでに引退されているのでしょうが、機会があれば後輩の方に是非そう伝えて欲しい。」
まったくおっしゃるとおりです。
今この記事をまとめつつ「Think globally, act locally」という言葉を思い出しています。
歴代保守政治の元で、巨大企業の利益とアメリカ優先の経済・外交政策のしわ寄せを押しつけられ、ズタズタに壊され疲弊させられてきた「地方」を、どう再生させていけばよいのか。アベ流の弱肉強食のグローバリズムや、大企業に新たなモウケ口を提供するための「地方創生」に期待できないのは自明です。が、それを乗り越える「解」をどう見いだすか?その如何が、日本の未来図を大きく左右することになるでしょう。
2019年も終わりが近づいています。今年のうちに、ストック画像を載せておきます。先週の木曜日の深山公園、OLYMPUS E-PL7+LUMIXG VARIO 45-200mm/F4.0-5.6で撮影。適宜デジタルテレコンを使っています。
波を見ると、風の強さが窺われます。
いつものように、オナガガモとヒドリガモがたくさん泳いでいます。
オオバンもいます。
ヒドリガモの群れにアメリカヒドリが一羽交じっています。
二羽のヨシガモとアメリカヒドリの揃い踏み。
ヨシガモは、光の加減で、色彩・光沢がすっかり変わって見えます。逆光気味だと、その醍醐味を十分味わうことができません。残念。
水鳥さんたちも、よいお年を。
今日はこれにて。
故郷、の巻 [日録]
郷里の実家の隣家のご当主が、ここ何年かの入院生活の後に亡くなられ、15日が葬儀との由、木曜日に聞きました。
13日(金)は、午後、会議の予定でしたので、それを済ませ、14日(土)郷里に前泊することにしました。季節柄、当日の朝、濃霧に遭ったりすると、葬儀に間に合わなくなってはと、心配でしたから。
葬儀当日の15日、父の「代理」で、組内として受付等のお手伝いに行ってきました。高齢化の進む地元集落では、人口が現象の一途をどっていますが、私と同年配か、やや若い世代の何人かが地元で生活しておられますので、ご一緒に(教えを乞いながら)お手伝いさせていただきました。
幼少時以来の対面という方も多いのですが、地元に根を下ろして現役として生活しておられるリアリティが、会話の端々からも窺え、感慨深いことでした。それらの中で、一歳下の幼なじみで、親しい遊び友だちのH君。郷里を出て首都圏の大学へ進んで以来、都会暮らしが長かったのですが、定年退職後、ご両親を助けて田圃・畑仕事に精を出す日々です。私も帰郷時、時折その農作業姿を目にし、時には立ち話をすることもしばしばありました。近年、相次いでご両親が亡くなられた後も、奥さんとともに大部分をこちらで暮らしておられますが、市部に残してあったマンションを近く売却して、全面的に田舎生活を始めるつもりだそうです。男気に脱帽です。
翌日の16日(月)は、別の用件でもう一度帰郷。
故郷の川に、今年も鴨の群れが訪れていました。
よい陽射しの中、ヌートリアが岸辺に上がっていました。
今日はこれにて。
埒(らち)もなき玩具レンズのすさびかな、の巻 [折々散歩]
岡山方言に「ヤッチモネー」という形容詞があります。おそらく全国標準では、通用しない言葉であろうかと思われます。
いつものように、ウィキペディアのお知恵を借りますと、「岡山弁」というページ(岡山弁 - Wikipedia)の片隅に、こんな記述があります。
やっちもねー、やっち糞もねー -
くだらない、つまらない、しょうもない、ろくでもない。美作地方では使用されない。(例)「何ゆーとんじゃ。やちもねー!」「やっちもねーこと言うとらんと、早ようしねー」
また、こちらの「goo辞書 全国方言辞典」の こちらの記事 にも同じような解説があります。
やっちもねー (岡山の方言)
つまらない。ばかばかしい。
やっちもねーテレビばー見てから。ちーたー勉強せー
(つまらないテレビばかり見て。少しは勉強しろ)
人(地域)によっては、「やっちゅうもねえ」というかもしれません。
語源等については確かなことは分かりませんが、古語の「埒(らち)なし」に関係がありそうな気はします。(現代語では「埒(らち)もない」などといいます)
小学館の「精選版日本国語大辞典」の解説をお借りします。
らち【埒】 も 無(な)い
① 秩序がなく、筋道や理由がたたない。めちゃくちゃでばかばかしい。
※浄瑠璃・出世景清(1685)五「高綱色をちがへ、はてらちもない事。一度切たる景清がよみがへるべきやうもなし」
② しまりがない。とりとめがなく、つまらない。しかたがない。役にも立たない。たわいもない。
※浄瑠璃・烏帽子折(1690頃)名尽し「二人はひょろひょろうろうろと震ひて何の埒もなし」
[語誌]秩序がない、おもしろくないの意の「らっし(臈次)も無い」から変化して成立した表現であるという説がある一方、「俚言集覧」の「俗語は無埒の義に似たり」によって別語とみる説もあり、後者の立場からは「らち(埒)」をもとに直接に成立した慣用表現ということになろう。両者が直接の派生関係になかったとしても、「らっし(臈次)も無い」に対する「らっち(埒)も無い」、「らっしくち(臈次口)も無い」に対する「らちくち(埒口)も無い」という表現が近世に存在するところから、当時の意識としては、両系統の表現は関係のあるものとしてとらえられていたのかもしれない。また、一方が他方からの類推により成立したという可能性も考えられる。
埒も ない言葉の詮索はさておき、今日の散歩では、ヤッチモネー玩具レンズで埒もない遊びを楽しみました。
最近めったに使わない初代PENTAXQに、これまためったに使わないペンシルボーグp25をつなげて、鳥を狙ってみました。
以前、RICOHGXRにつないだところをご紹介しましたがガラクタ較べ続きます、の巻、ペンシルボーグp25は、先端の白い部分です。
白くて目立つのが、恥ずかしい感じがするので、最近黒いテープを巻きました。
白いPENTAXQなのに、わざわざ黒いテープとは!とひとりツッコミを入れたくなりますが、、、。
前にも書いたかも知れませんが、ペンシルボーグ25pは、焦点距離:175mm ですから、PENTAXQ(初代)に装着すると、フィルムカメラ換算で約5.5倍の950mm超の望遠レンズに相当ことになります。これを使いこなすすべはないかと苦労は尽きないのですが、三脚、液晶フードなどをきっちり用意するのは面倒なので、ついつい手持ち撮影でトライすることになります。
あくまでもマニュアルフォーカス撮影ですから、なかなかピントがあいません。それより何より、対象物を液晶内に捉えること自体、至難の業です。
ピンぼけ量産はもとより、ピントを合わせてシャッターを切ったつもりが、画面から大きくはみ出してしまうこともしょっちゅうです。
たとえばこんな感じ。
そんな出来損ない写真をまとめてご紹介します。
まさしく「ヤッチモネー」時間と労力のムダに、お付き合いいただいて恐縮です。
お詫びを兼ねて、最後に一つだけ「有用」な話題を提供させていただきます。
今朝の「しんぶん赤旗」の「地方・総合のページ」に、高知の平和資料館「草の家」創立三〇周年のことが紹介されていました。
粘り強い、地道なとりくみに改めて敬服いたしました。
今日はこれにて。
最後はコマーシャルです。
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カルロス爺さんの思い出: そこにある戦争 (MyISBN - デザインエッグ社)
師走のプチ鳥撮り散歩、の巻 [折々散歩]
深山公園で、枝陰(草陰)をちょこちょこ動く鳥を狙ってみました。
遠いし暗いし、トリミングしてみるまで、姿がはっきり分かりませんでしたが、、、アオジでしょうか?
自然環境体験公園の木々はすっかり葉が落ちて、枝に止まる鳥がよく見えるようになりました。
トリミングしてみると、カワラヒワでしょうか。
水辺に降りて、水遊びしているのも、カワラヒワのようです。
オオバンは珍しくはないですが、写しておきます。
この地味なカモは、オカヨシガモでしょうか?名前は似てますが、ヨシガモの派手さとは大違いです。
今日はこれにて。
最後はコマーシャルです。
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深山公園鴨三昧、の巻 [折々散歩]
最近、つづけて、PENTAXk30+TAMRON SP 500mm(レフレックスレンズ)の組み合わせについて書きました。
じゃじゃ馬カメラのつきあい方、の巻
条件さえ良ければ、独自の働きをしてくれそうな期待を捨てきれず、昨日、かかりつけ医いに薬をもらいに言ったついでに、深山公園まで足を伸ばしました。
人慣れして、すぐそばまで近づいてくれるおかげですが、さすがに500mmレンズだけあって、ノートリミングでも大きく写ります。
オナガガモ。
ヒドリガモ。
個体の数では、この2種がほとんどを占めています。
岸辺に上がった鳥は、ここまでアップに写せます。
老眼の目で合わせるマニュアルフォーカスの哀しさ、どうしても、今いちピンぼけになったり手ぶれを起こしたりで、歩留まりは低くなります。それと、画像の精細度においても、やっぱりAFBORGの優位は揺るぎません。
PENTAXK5Ⅱ+AFBORG(60ED)で写すと、、、
オオバンが近くまでやってきました。
これは?部分白化?
大勢のヒドリガモやオナガガモに混じって、メタリックな光沢のカモが二羽。
ナポレオンハットで知られるヨシガモ♂でしょうか?
ウィキペディアには、こんな説明記事があります。
ナポレオンの二角帽子
ナポレオンの肖像画に描かれた二角帽子ナポレオンが愛用していた二角帽子は、ビーバーの毛皮(フエルト)から作られたもので、権力の座に就いていた約15年の間に120個ほどが作られた。21世紀に現存しているものはわずかであるが、時折、競売に出品されることもある[1]。ナポレオンはこれを常々横向きに被っており、戦場において友軍が彼を識別する目印となっていたとされる
それと、ちょっと前にも見つけたのですが、これ、やはりアメリカヒドリでは?
他に、コガモ、カイツブリ、アヒル、ハクチョウを見ました。
昼ご飯は、テスト週間で早帰りの高一孫のために、特製お好み焼きを作りました。
今日はこれにて。
最後はコマーシャルです。
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孤高の名機?の巻 [趣味]
RICOH GXRというユニーク(キワモノ、ゲテモノ?)カメラを、時々使います。すでに生産中止になって、旧時代の遺物となってから、中古で買いました。
このカメラ、「ユニット交換方式」という唯一無二の独自システムをとるデジカメです。ウィキペディアの解説をお借りします。
このカメラの最大の特徴である世界初の「ユニット交換方式」とは、ボディは入出力機能(ボタンと液晶画面)にフラッシュ等の補助メカニズムを付加したI/Oモジュールとシステムの電源を一体化したものに他ならず、レンズはおろかイメージセンサーすら搭載されていないという奇抜な設計である。カメラとしての実質機能は全て交換ユニット側に集約されているが、カメラユニット側だけでなく本体側にも画像処理エンジンを搭載している。そのためカメラユニットを外した状態で本体の電源をオンしても動作は可能であり、撮影したデータを表示、加工するなどがボディ単体でも行える。
この「骨組み」とも言えるボディに対して、レンズ、イメージセンサー、画像処理エンジンを一体化したカメラユニットを、本体にスライド挿入して使用する。トータルではやや大型のコンパクトカメラとなり、背面液晶かオプションのEVFを用いて撮影する。
先日の後楽園散歩に持ち出したのは、1台で28-300mm相当の働きをする「P10」というユニットで、下のようなスペックとなっています。
RICOH LENS P10 28-300mm F3.5-5.6 VC
•レンズ構成:7群10枚
•実焦点距離:4.9-52.5mm
•センサー:1/2.3インチCMOS(裏面照射型)
•有効画素:約1000万画素
•基本アスペクト比:
•画像処理エンジン:Smooth Imaging Engine IV
•ISO感度:100-3200
•ユニット重量:160g (カメラ装着時367g)
•Vibration Correction(センサーシフト方式のぶれ補正)搭載
このカメラを買う時に、「キット」で入手したユニットです。1/2.3インチというサイズのCMOSセンサーは、一般のコンデジ並ですので、画質に大きな期待はできないので、「作品」を意識するような時には、おのずと出番がなくなります。
が、意外や意外、こんな絵が撮れます。
広角から望遠まで、コンパクトなこの一台で済ませることができます。
コンデジと侮ることのできない描写です。
このような独自の存在感を発揮する製品が、後継機も出されないまま、早々と表舞台から消え去っていく無常を、つくづく寂しく感じます。いや、そう言えば、同じRICOH社の製品ということになりますが、PENTAXQのシリーズも、もう少し長生きして欲しいところでした、、、
今日はこれにて。
最後はコマーシャルです。
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錦秋過ぎて枯淡の冬の後楽園、の巻 [折々散歩]
この記事からおよそ二週間。錦秋いよいよ深まり、枯淡の冬へと季節は足早に進んでいるようです。
紅葉も銀杏も今が盛りの後楽園、の巻(2019-11-24)
昨日の記事に書いた後楽園散歩の別カメラバージョンです。
Olympus E-PL7+LUMIX G VARIO 14-42mmで。広角系を狙いました。
ドウダンツツジの上にも、、。
櫨紅葉(はぜもみじ)ですかな?
烏城(岡山城)を水辺のモモ君の像あたりから望みます。
望遠系のLUMIX G VARIO 45-200mmに着け換えてみます。
場所を変えると、表情も変わります。
鳥も狙ってみたのですが、、、
枝間のシメにピントが合いません。
園内のモミジは、広角で写すと、どうにもまとまらず、苦手ですが、記念写真として残しておきます。
今日はこれにて。
ディスプレイの表示倍率によってレイアウトが乱れることが気になっていましたので、ちょっと設定を変えてみましたが、よく分かりません(汗)
きょうはここまで。
最後はコマーシャルです。
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じゃじゃ馬カメラのつきあい方、の巻 [趣味]
いったん機嫌を壊すと、なだめてもすかしても、とことん偏屈を貫くじゃじゃ馬カメラについて、この記事で書きました。
万策尽きた挙げ句、一計を案じて、電池を交換してみましたら、すっかりご機嫌を直してくれました。
念のために補足しておきますと、私のじゃじゃ馬カメラPENTAX k-30(及びその兄弟機種)は、専用リチウムイオン電池D-LI109のほか、単三電池ホルダーD-BH109を使って、単三電池が使えます。私がもっぱら使用しているのは、ニッケル水素電池エネループです。元祖サンヨー社のものも使いますし、身売り先のpanasonicブランドのものも、、、。
PENTAX リチウムイオンバッテリー D-LI109 39096
- 出版社/メーカー: ペンタックス
- メディア: Camera
PENTAX 単三型電池ホルダー D-BH109 39100
- 出版社/メーカー: ペンタックス
- メディア: Camera
表題の「じゃじゃ馬カメラのつきあい方 」のポイントは、詰まるところ、専用電池よりも単三電池を使うべし.ということのようです。せっかくの専用電池が持ち腐れにならないように、これはPENTAX K-rで使うことにします。
前回記事にも書きましたが、昨日は所用のついでに岡山後楽園を歩いてきました。その際、性懲りもなく、このPENTAX k-30に、例の激レアのレフレックスレンズ(ミラーレンズ)TAMRON SP 500mm F8 TELE MACRO 55BBをつけてみました。
モミジを写すのには、適切なレンズとは言いかねます。
リングボケという特性を上手に使いこなすことは難しいですし、背景のボケが、うるさくなりがちで、どうも落ち着きません。。
でも、現代レンズの見慣れたスマートな写りに比べると、個性のあるそれなりに面白い絵にはなります。
そして、狙いの鳥撮りの首尾は?夏は白い大輪のハス「一天四海」が咲き誇る「花華の池」に、モミジが映り、カルガモの群れがのどかに浮かんでいます。
別の場所には、コガモの姿も。
このカモは?
漁に熱中するコサギ。
長さ 91.5 mm 重量 595gのコンパクトさで、500mmの望遠撮影 ができるのは、得難いアドバンテージと言えます。ただし、この日のような明るい日中、戸外での撮影という限定つきではありますが、、、。
県内のモミジの名所で、現在「見頃」が続いているのは、後楽園と深山公園など、僅かのようです。後楽園のモミジ、次回に続きます。
今日は隣市に住む3歳児の、保育園の発表会。「来たかったら来てもいいよ」と、園児の母である私の娘が言うものですから、見学に行ってきました。2歳児と3歳児が順次出演する部を、一時間ほど見学しましたが、このくらいの年頃の幼児たちを、最近見慣れないので、改めてその幼さ、あどけなさに驚きを感じます。おなじ2歳児でも低月齢組と高月齢齢組ではずいぶん生育度合いが違いますし、さすがに3歳児ともなると、赤ちゃんらしさが薄らいで、「子ども」と呼ぶべき「確かさ」が備わってきていることが感じ取れて、ある種の感銘を覚えます。こうやって、みんな成長してきたんだっけと、高校生、小学生の孫たちの幼時を思い出そうとしてみますが、もはや、記憶が薄らいでいます。ましてや、孫たちの親の子ども時代のことも、すっかり、忘却の彼方です。
暗いので、手ぶれ写真量産です。肖像権の観点からは、好都合ですが(笑)
きょうはこれにて。
取り急ぎメモ、の巻 [日録]
お向かいの家の庭木に、ジョウビタキ♂がいましたので、写しておきました。今年シーズンでは、最も近くで写せました。ジャンクで買ったFUJIFINEPIXS1、頑張ってくれます。
ジョウビタキが、活発に出没するようになると、いよいよ本格的な冬の訪れを感じます。
さて今日は、所用のついでに岡山後楽園を歩いてみたので、その様子をご紹介しようかと思っていましたが、取り急ぎ別件記事です。
高知在住の先輩馴田正満さん(これまで、何度か、Nさん,N氏,N先輩などとお呼びして紹介してきました)から、ゆうメールをいただきました。中身は、これ。
地元「高知新聞の切り抜きコピーも同封してくださっていました。
その一部分を文字起こしすると、、。
史料の収集・展示を通して、戦争の実相と平和の尊さを伝えてきた高知市升形の「平和資料館・草の家」は今年、30年を迎えた。11月に記念誌の発行を準備しており「戦争を美化する風潮が強い今だからこそ、正しい史実を明らかにしたい」と意気込む。
各研究員が、中国で戦争体験者から聞き取りをしたり、1945 年7月の高知空襲や県内に今も残る焼夷弾跡などのの戦争遺跡、高知で反戦活動を統けた詩人の槇村浩のことを調査したりしてきた。
戦時中に朝鮮半島から高知に渡り、鉱山や発電所で働かされた人たちの特集も。各地を訪ねて執筆した研究員の一人(71)は「過語な 労働から逃げだし、半殺しの目に遭った人もいる。県などの強制性は明らかだ」と話す。
編集作業に励む出原恵三さん(63)は「負の側面から目を背けると歴史は風化し、美化される。過ちを犯したという事実の共有こそが平和への理解につながる」と力を込める。
「記念誌」は、多彩な論攷から構成されていて、現代及び後の世代の人びとへの、平和と人権の貴重な「伝言」となっています。個人的興味から、第4章「戦争に抵抗した人びと」の一部をご紹介します。前述馴田正満さん執筆の文章です。
(2) 模村浩の生誕地を探して
昨年(2018年)夏、高知市で開かれた日本母親大会(全国大会) に県外から参加した知り合いが、 高知県立文学館発行のパンフ『土佐れきぶん散歩』の地図に記された「棋村浩誕生の地」の一帯を探したけど目印になるものを見つけることができなかった、と残念がっていました。
確かに高知市の城西公園には立派な彼の詩碑が建っていますが、 生誕地には何もありません。生誕地はその人物の原風景に思いを馳せる場所です。どうにかしなければと思つていました。ちょうどその年が棋村浩没後80周年にあたり、 諸事業が計両されていたので、そのなかに「生誕碑建立」を入れてもらうことになりました。1912年6月1日に「高知市廿代町八十九番屋救」で生まれたので、生誕地はすぐに判明すると楽観していました。 ところが、状況はまったく違っていました。
最初に、 パンフを作成した県立文学館を訪ねましたが、 前任者が作っので詳しいことは知らないとのことでした。 法務局なら分かると思い行きましたが「昔の『番屋数」 と現住所を対照するものはない」 と言われました。 高知市役所の地籍調査課等でも同じ説明でした。 オーテピア高知図書館の郷土資料コーナーでも詳しい知見はありませんでした。
なぜ分からないのか。よくよく調べると「番屋數」という用語はいまの行政の文書でまったく使われていないのです。 「番屋敷」は幕末から明治のころ、 課税・相続のため家屋につけられた番号でした。 ところが資本主義の発展につれて、 人の移動と土地の分割・譲渡が活発になったため、土地に番号をっけるようになりました。それがいまの「地番」です。さらに市街地では郵便物の配進の効率化のためか〇丁目〇番地〇号とぃう住居表示に変わっています。
これは基礎から調べていく必要があると判断し、 藩政時代の城下絵図をもとに1912年頃の廿代町の範囲を確定しました。
推理小説も顔負けの、スリリングな推理展開です。こうして、生誕地を推定し.去る11月、モニュメント設立を果たしたいきさつは、以前書いたとおりです。
今朝の新聞から、の巻
槙村浩生誕地案内板の除幕式、のこと
今日はこれにて。
追伸、この記事、投稿を忘れたまま「寝落ち」。日付が変わっての投稿です(汗)
師走の緩歩(しはすのゆるあるき)?の巻 [折々散歩]
前回記事でご紹介した、土蔵サウナとジビエ料理を楽しんだ月曜日は、朝方やや強い雨がありましたが、それも上がり、晴れた日が続きます。しかし、空気の感じはまさしく冬。外出がためらわれます。
一昨日(火)は、アルバイト日でしたが、それ以外何をやったか記憶にありません(汗).こたつでうとうとしたことだけは覚えていますが、最近よくあることなので、記憶の特定ができません、、、
昨日(水)は、教育相談ボランティアの室まで、いつものように駐車場所からブラブラ歩きます。ちょっと前に、↓この記事で書いた住宅顕信の句碑に立ち寄り、証拠写真を写しておきました。
紅葉も銀杏も今が盛りの後楽園、の巻(その2)
この記事に、はな様がコメントを下さっていましたが、顕信の墓地にも句碑が建てられている由。いずれ訪ねてみたいと思います。
歩道に落葉が舞い落ちています。
帰り道に通りかかった旭川の眺め。
「天使の階段」が見えました。
物知りのウィキペディアには、こんな解説がありました。
薄明光線(はくめいこうせん、英語: crepuscular rays)は、太陽が雲に隠れているとき、雲の切れ間あるいは端から光が漏れ、光線の柱が放射状に地上へ降り注いで見える現象の俗称。通常とは逆に、雲の切れ間から上空に向かって光が出ることもある。おもに、地上から見た太陽の角度が低くなる早朝や夕方に見られる。世界中の人々の間で美しい自然現象と認識されており、写真撮影における人気も高い。
「薄明光線」のほか、別名が多数ある。気象現象としては「薄明光線」、その他業種や地域環境によって様々な呼び名がある。
光芒とも呼ぶ。
天使の梯子、天使のはしご(てんしのはしご、angel's ladder)
天使の階段(angel's stairs, angel's stairway)
ゴッドレイ(God Ray)
ヤコブの梯子、ヤコブのはしご(Jacob's ladder)
レンブラント光線ヤコブの梯子、天使の梯子という名称は、旧約聖書創世記28章12節に由来する。この記述では、ヤコブが夢の中で、雲の切れ間から差す光のような梯子が天から地上に伸び、そこを天使が上り下りしている光景を見たとされる。このことからやがて自然現象もそのように呼ばれるようになった。
レンブラント光線という名称は、レンブラント・ファン・レインがこれを好んで描いたことに由来する。その結果、絵画表現上においては、コントラストが強くなり、光の当たる部分と闇の部分との対比を強調され非日常的な雰囲気や宗教的な神々しさを表現することに成功した。
晩年の開高健は、しばしばテレビなどで好んで「レンブラント光線」という言葉を口にした。
宮沢賢治はこの現象を「光のパイプオルガン」と表現している。
今日(木)も晴れました.気温は低く、耳や手が凍えそうですが、歩くと汗をかきました。
深山公園の紅葉。まだ楽しめます。
鳥を撮るつもりの、pentaxk5+AFBORG(60ED)で写しました。こんな題材にも使えて便利です。肝心の鳥は、撮り逃がしました。
鳥を撮るつもりでもう一式持っていったのは、PENTAXk30+TAMRON SP 500mm(レフレックスレンズ)。
ある程度の光量があれば、それなりに楽しめます。と、喜んでいたのも束の間、何だか不審な挙動を繰り返します。露出が暴れて、真っ黒な写真や真っ白な写真が量産されてしまいます。それだけではなくて、シャッターボタンを押さないのにシャッターが切れてしまったり、ファインダー内の画像が、明るくなったかと思うと真っ暗になったり、原因不明の誤作動を繰り返します.スイッチを入れ直しても、電池を抜き差ししてみても、改善されません。
既に数年前からネット上などで話題になっている「絞り制御不良」という症状は、実は私の個体の場合も、中古で買った時から表れていて、①単三電池(エネループ)を使う、②スイッチオンのあと、連写を何度か繰り返す、というオマジナイ(理屈は省略)で、何とか緩和できると思ってきました。
しかし、今日の症状は重篤です。いつもの「撮影画像が真っ黒になる」という現象だけではなくて、まったくバグっているとしか言いようがなく、早々に使用をあきらめました。
それさえなければ、良い子なんですが、このk30ともお別れしなければなるまいかと観念して、今日の散歩を終えました。
でも、あきらめきれず、念のためにと、充電済みの単三電池(エネループ)に入れ替えてみると、不審動作がぴたりと収まってしまいました。微妙な電圧の違いが、誤作動を生んだのでしょうか?
いずれにしても、じゃじゃ馬カメラには違いありません。
そう言えば、昔こんな記事を書きました。
じゃじゃ馬カメラもまた楽し(2013-09-19)
今日はこれにて。
土蔵サウナとジビエ料理を楽しむ愉快な旅、の巻 [友人]
昨日の記事のために参照した、昨日付の「しんぶん赤旗」に、こんな記事が載っているのに気づきました。
山陽新聞の配転不当
岡山県労委組合員の救済命じる
山陽新聞社(岡山市)が、会社の方針に反対した山陽新聞労組の組合員2人を異職種へ配置転換するのは不当労働行為にあたるとして同労組や新聞労連が救済を申し立てていがた事件で、岡山県労働委員会は、11月29日付けで組合側の訴えを認める救済命令を出しました。
田淵信吾委員長ら2 人は子会社に移される新印刷工場への出向を希望し、研修も受けていましたが、同労組が印刷工場の別会社化に反対したことを理由に2018年5月、本社の工程管理部へ異動させられました。
一方で会社は、山陽新聞労組とは別の労組組合員については希望通り出向させました。
県労委は、配転は「組合方針を理由にした差別的取り扱い」であり、「組合の弱体化を図る」支配介入にあたるとして不当労働行為と認定。配転命令を 取り消し、新工場に出向させて他の出向者と差別しないよう命じました。
不当労働行為を二度と繰り返さない制約書の提出も命じました。 (後略)
県内最大のシェアを誇り、広く県民から親しまれている地元新聞だけに、早急な争議解決と、労使関係の正常化、その上に立っての公正な報道の確立を、強く求めたいものです。
同紙の記事は、当ブログでも再三利用させていただいています。折しも、今年の3月29日付山陽新聞にこんな記事がありました、
土蔵改修、美作に本格サウナ誕生 住民と移住希望者らの社交場に
豊かな自然が広がる美作市右手の中右手地区に、古い土蔵を使ったサウナがお目見えした。同市の地域おこし協力隊員丸山耕佑さん(34)=同市=らが約1年かけてリフォーム。ハーブや木の皮の蒸留水で香りを楽しめるフィンランド式の本格サウナを整備した。現在は隣接する民泊施設のサウナとして宿泊者のみ使えるが、4月以降、地域の人や日帰り客への利用拡大を検討している。丸山さんが地域住民と移住希望者、観光客らの社交場にしようと考案。土蔵の高い保温・保湿性に着目した。1級建築士の資格を持つ丸山さんが設計し、2017年12月から所有者をはじめ、地元住民と一緒に外壁に断熱材を敷き詰めて板を張り合わせたり、サウナ室のストーブを作るため耐火れんがを組んだりしてきた。
内部は2部屋あり、サウナ室(9・05平方メートル)は、まきをくべて石を熱するストーブ、7人程度が座れる木のベンチなどを設置。もう一部屋(7・03平方メートル)は脱衣所とし、水風呂やシャワーなどを備えている。室温は50~70度で、熱した石に、地元で採れるハーブや木の皮の蒸留水を掛けて発生させた水蒸気で森の香りを楽しむこともできる。
クールダウンには、夏は近くの川に浮かべた木だるに入ったり、冬は周りに積もった雪の上にダイブしたりと豊かな自然を満喫する方法を勧めている。
サウナは、地元住民グループが運営し、隣接する木造平屋の民泊施設「久米屋」(定員7人)の宿泊者が使用可能。ただ、サウナのみでも利用できるように県に許可申請する予定にしている。
丸山さんは「サウナで地元の人と交流し、地域の自然を知ってもらいたい。リピーターや地域への移住につながれば」と話す。
久米屋は素泊まりで大人3千円、小学生2500円、幼児2千円。サウナは火たき代2500円に利用料が1人500円。要予約。
また、「サウナ好きが集まり、サウナ室内で立ち上がったプロジェクト」による「サウナイキタイ」というブログにも、この土蔵サウナが紹介されています。一部引用させていただきます。
https://sauna-ikitai.com/magazine/nakaute-sauna/
古民家の蔵をサウナに改造!日本式“ほぼスモークサウナ”がすごすぎる
2019年2月、岡山県美作市の中右手地域にとんでもないサウナが誕生しました。空き家になった民家の貯蔵蔵が、地域の人々の手によって、なんとサウナに変身!しかも構造はほぼスモークサウナというから驚きです。人口30人の限界集落に生まれた日本唯一の蔵サウナ、その全貌をご紹介します。
空き家の蔵をサウナにするという挑戦
中右手にある蔵サウナの正式名称は「パブリックハウス&サウナ久米屋」。中右手にあるゲストハウス「久米屋」に隣接しており、現在は宿泊者を対象にサウナ体験を提供しています。
「久米屋」は空き家になった民家を活用したゲストハウス。管理を任されているのが、2016年より地域おこし協力隊として従事していた丸山耕佑さん(34)です。丸山さんは一級建築士の資格を持っており、中右手に移住する前は東京の設計事務所に勤務していたとのこと。使い道がなくなっていた貯蔵蔵をみて「サウナにしてみたい」と思いつき、約1年かけて完成させました。地域の方々と協力しつつも、施工は全てDIYというから驚きです。
実は、昨日はこの「土蔵サウナ」にまつわる記事をかく予定でした。一昨日の2日(月)、この地を見学しに行ってきたばかりなのです。というのも、私のブログにしばしば登場いただいてる「故旧」の皆さんと、この地で再会し、楽しい一日を過ごすことができたのでした。いつものメンバーに加えて、今回は高知在住のやや年若い(あくまで比較の問題ですが)Hさんご夫婦も、参加です。
「美作市右手(うて)」という地区は、以前こんな記事でご紹介しました。
故旧も歩けば至玉の出逢い、の巻
あっという間の連休、の巻
蛙棲む原生林に蝮草(マムシグサ)
いかな夢見つつ眠るや森蛙
故旧あい集いし森の青胡桃
少し引用しておきます。
岡山県美作市右手(うて)という地区は、木地師の里として知られています。
私の学生時代の先輩である「三郎さん」は、関西在住でしたが、退職後、奥様の実家のあるこの地区に移り住んで「木工みや工房」をひらき、木工工芸品の制作に励んでおられます。
上は、「木工みや工房」にて作業中の三郎さん近影
実は、このサブローさんが、上の記事で紹介されている丸山耕佑さんらとともに、サウナを運営する「地元住民グループ」の一員(いや、中心人物)なのです。このたび、お願いして体験学習を受け入れていただいたのでした。
「今、ドラマやコミックでサウナがブーム。いまに、数ヶ月先まで予約でいっぱい、ということになるから(笑)、今回はラッキー。」だそうです。
マンガ サ道~マンガで読むサウナ道~(2) (モーニング KC)
- 作者: タナカ カツキ
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2019/07/23
- メディア: コミック
公衆サウナの国フィンランド: 街と人をあたためる、古くて新しいサードプレイス
- 作者: こばやし あやな
- 出版社/メーカー: 学芸出版社
- 発売日: 2018/12/21
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
人気に火がついて、国内外から客が殺到という事態は.もう少し先のようで(笑)、有り難いことに、このたびは貸し切り状態でした。ゲストハウス「久米屋」で、サブローさんご夫妻手作りのお料理に舌鼓をうち、「土蔵サウナ」もゆったりと体験することができ、身体の芯から、すっかり暖まりました。
いろり端に車座になって、積もる話がはずみます。
地元調達の猪肉をふんだんに使った猪鍋。美味このうえなく、ぽかぽか暖まります。
地元調達の鹿肉のタタキ。まったくクセのない、上品なおいしさです。
あとは写真を撮るのも忘れて、お腹いっぱいいただきました。
古民家から少し歩いたところに、土蔵はあります。山深い.ひなびた村のたたずまいが想像いただけるでしょうか?
奥に見えるのが目指す土蔵サウナです。
外からは、とても想像できません。
内部はこんな感じ。
着衣のまま、煙と湯気の中で暖まります。ストロボを使わないと、真っ暗です。
暗い上に、もうもうとした湯気のためにレンズが曇り、写真撮影は
追伸。
アフガンで人道支援活動を続けておられたペシャワール会の中村哲医師が、銃撃により死亡。ショッキングなニュースに言葉を失います。謹んで哀悼の意を表します。
今朝の新聞から、の巻 [文学雑話]
今朝(12月3日)の「しんぶん赤旗」にこんな寄稿が載っていました。
少し引用します。
昨年は、侵略戦争と植民地支配に反対したプロレタ リア詩人、槙村浩(本名吉田豊道)の没後80周年でした。高知県に生まれ、治安維持法下で非転向を買き、特高警察の拷間がもとで1938年9月、26歳で没しました。
戦後その作品と生き方が再評価され、詩集、全集が出版され、市民により墓碑と詩碑が建立されましたが、生誕地には何もありませんでした。記念碑があると思って一帯を探したが何 もなくて残念だった、との高知県外からの投稿が高知新聞に載ったこともありました。生誕地は、その人の原風景に思いを馳せる場所です。
執筆者の馴田正満さんは、当ブログの過去記事でも、N氏とか、Nさん、N先輩などと呼んで、幾度かご紹介してきた大学時代の先輩です。最近では槙村浩生誕地案内板の除幕式、のこと(2019-11-13)で話題にしましたし、上記記事中の高知新聞への県外読者からの投稿のいきさつは、ある新聞投稿、の巻(2019-02-18)に書きました。
上記寄稿の、途中の文章を大幅に省略し、結びの部分だけを引用させていただきます。。
11月11日の除幕式では、地元の劇団員が代表作「間島パルチザンの歌」を朗読、青年が決意を述べました。設置に当たって全国から寄付が寄せられ、説明文の最後には「志を継ぐ者たち、これを建てる」と記されています。
いま日本と東アジアの国々との関係は、戦後最悪の状態です。そのようななかで、国際連帯を高らかにうたった槙村のモニュメントが建ちました。多くの人に見ていただき、模村の詩と生涯を理解するきっかけになれば、と願っています。
われもまた、ささやかながら、「志を継ぐ者たち」の末尾に加わりたいと、改めて思ったことでした。
槇村浩の話題のついでに、同じ「しんぶん赤旗」の2019年11月8日(金) 付コラム(web版)に目を移します。
【きょうの潮流】
たたかいに臨む彼の胸に去来したでしょうか。「海 隔てつわれら腕(かいな)結びゆく/いざ戦はんいざ/奮い立ていざ」。高知がはぐくんだ反戦詩人、槇村浩(まきむら・こう)の「間島パルチザンの歌」のエピローグです▼自身が数年前に舞台で演じた郷土の先人。戦前の暗闇のなかで民の苦難に心を寄せ、変革の立場から表現した槇村の詩。その思いは高知知事選に挑んでいる松本けんじさんの内に息づいています▼劇で培った張りのある声で聞く人の心にひびく演説。そこには2度の国政選挙で県内を回りながら耳にしてきた苦しみや願いが込められています。過疎化がすすむ集落、立ちゆかない農林水産業、教育や子育て、介護や福祉の切実さ…。地方のくらしを守るため国に物申す決意は、一つ一つの声に裏付けられています▼7日の第一声。野党や市民の会の代表がずらりと肩を並べ、力を合わせてがんばり抜くことを誓いました。この間の選挙のなかで共闘は進化し、親しみを込めて呼ばれる“マツケン”は、まとまりの象徴になっています▼学生の頃から相手への想像力をはたらかせ、聞く力を養ってきたという35歳の青年。現状を嘆き、生きる展望を失いかけている周りの若者たちを励ましてもきました▼未来が其(そ)の胸中に在る者、之(これ)を青年と云(い)ふ―。同じく郷土の自由民権家、植木枝盛はこんな言葉を残しています。みんなの高知県をともにつくっていこうと呼びかける若い情熱は心を一つに。「ここでいっしょに生きよう だれ一人取り残さない県政へ」
11月24日投票の高知県知事選挙。残念ながら、「市民と野党の共闘による青年知事誕生」の快挙は、今回は実現しませんでしたが、明治維新や自由民権運動の伝統にふさわしい、大きな一歩を踏み出したと思います。
若き候補者松本けんじさんの、Twitter上のコメントも清々しい。
遅くなりました。知事選挙の結果が出ました。 残念ながら勝利はできませんでした。しかし、参院選の際の市民と野党の共同が、知事選の中で線から面へと広がっていく、保守の方も含めた幅広い県民と野党の「私たちの共同」が大きく広がった選挙でした。候補者である私自身がそれを一番、実感しました。
https://twitter.com/matsu_en/status/1198613781493899264
「マツケンブログ」上に紹介されているいくつかの演説、多くの方にお聞きいただきたいのですが、↓これでうまくリンクできましたでしょうか?
https://withyourvoice.exblog.jp/28700165/
何度も再生して聞いたという熱烈ファンが、私の周囲に複数おられます。半信半疑で聞いてみましたら、強く心を打たれました。後輩(大学の)ながら、立派です!(贔屓の引き倒し?)
もともと予定していた記事は次回に回して、今日は臨時の緊急記事となりました。きょうはこれにて。
児島湖のユリカモメとミサゴ観察、の巻 [折々散歩]
黒っぽいオオバンたちや、キンクロハジロなどの群れに混じっていると、ユリカモメの白さが際立って、目を引きます。
飛翔する姿も優美です。
舞い降りたり、
着水したり、
杭の上に止まっていてもサマになります。
そして、湖面を飛んでも、上空高く舞っても、とにかくサマになるのは、なんと言ってもミサゴです。
個体によって漁のやり方にもいろいろあるらしく、天空からいきおいよくダイビングして、ドブンと水中へ没し、長い間潜水して魚を捕らえるのがスタンダードスタイルかと思っていたら、この日のミサゴは、多くが、水面すれすれを滑空して、脚だけを水につけて魚を追いかけていました。防寒、省エネの狩猟スタイルなのでしょうか?それとも、家族・グループに流行の新漁法なのでしょうか?
獲物を、両足で掴んで、一目散に飛んでいく方向には、巣があるのでしょうか?
昨日は、小5の孫のところへ、久しぶりに友だちが遊びに来てくれました。ママがお出かけなので、我が家の離れを遊び場として提供。お泊まり明けの保育園児と、その従姉の守りもあって、ジジババはなかなか忙しい。土曜日出勤だった保育園児の母は、昨日の仕事が長引いて帰りが夜中になり、そのまま昨夜も母子ともにお泊まりということになりました(お父ちゃんは忘年会なので)。
今朝は自治会の草取り大掃除。防寒を用心して、セーターにジャンパー姿で出かけましたが、陽射しが思いの外暖かく、しつこくはびこった草の根を削り取る作業を続けていると、すぐに汗びっしょり。上着を脱いでも、汗がひきません。それと、足腰にズシリとした重みが残ります。運動不足がたたります。
お泊まりの母は、持ち帰り仕事を片付けたいのでと、今日も孫守を依頼されました。従姉妹の他、ご近所の同年代保育園児も遊びに来て、託児所は終日賑やかです。長い一日でした。
今日はこれにて。