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よいお年を!の巻 [家族]

コロナに明けコロナに暮れたこの一年、大晦日のきょうは、東京で初めて1000人の大台を超えて1337人、全国では4515人の感染者が発表され、1日の発表としては初めて4000人を超えて過去最多になりました。しかも、これがピークではなく、ピークは年が明けてから来る恐れがあるとの、専門家の不吉な予測が、なお心を塞がせます。


数年に一度クラスの強い寒波が日本列島を襲い、比較的温順な我が地方も、激しい寒風が吹きつのり、今日は雪花が舞いました。


年末年始は、わが家でも、例年大家族が一斉に集まり、賑やかにガヤガヤおしゃべりして、お互いの無事を噛みしめるよろこびを味わう機会を設けるのが常ですが、今年はコロナ感染への配慮から、お互いに自粛に努め、多人数で同席することを避けています。


こんななか、大阪在住の次男は、この時期の帰省を躊躇していたのですが、昨日、我が家に一泊して、今日はおヨメさんの実家へ向かいました。お父さんが一昨年に亡くなり、寂しいお正月になりますので、孫の顔も見て欲しいのです。実家は、県北部に位置し、県内では寒冷な気候で知られる土地で、朝から大雪警報が出されている上に、高速道路のその先がスリップ事故のため通行止めというニュースも流れる中での移動です。しっかりおしゃべりも達者になった二歳男児は、従兄姉達とは直接遊ぶことは避けましたが、沢山のウルトラマン人形(バルタン星人や怪獣も含む)や「ウルトラマン図鑑」などをお土産にもらい、大感激でした。パパ自身のコレクションだったものも継承(相続?)されていたようでした。


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使い慣れないタイヤチェーンの装着練習もした上で、出発。気をもみましたが、無事到着したとの報せをくれました。
それと入れ違いのように、長女が、ムコどのの地元名産の牡蠣をトロ箱いっぱい持ってきてくれました。昨日は、わが郷里の老父母のもとへも届けてくれたそうです。早速酒蒸しにして美味しくいただきました。まだどっさり残っていますので、お正月のご馳走として頂くことにします。
今朝は、西の空にこんな月が沈もうとしていました。


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夕方、東の空に昇ろうとする月がこれです。


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この月は、明日の朝も空を照らしているはずです。皆様よいお年をお迎えください。


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年の瀬の備忘メモ(その2)、の巻 [日録]

まとめ書き備忘録の続きです


以前、こんな記事を書きました。


 


気がつけば へなちょこブログも三年目、の巻(2015-08-21)


「豚もおだてりゃ木に登る」という言葉があります。
私も、おだてには乗りやすい体質と思います。
かといって、真実味のないご機嫌取りや、見え透いた社交辞令を真に受けるほど純真でもないつもり。
そういえば、啄木にこんな歌がありました。
へつらひを聞けば
腹立つわがこころ
あまりに我を知るがかなしき

自負も矜恃も人一倍持ち合わせているが、自分の器を熟知しているのもまた自分。そのナイーブな内心を斟酌することもなく、むず痒いお褒めの言葉をいただいても、「へつらい」にしか聞こえず、かえって軽んじられている感じさえして、心は波立つ。というのでしょう。
よくわかります。
それとは対照的に、自分が日頃信頼を寄せる人,敬愛の念を以て畏れている人に、思いがけなく好意的なコメントをいただいたりすると、リップサービスと知りつつも舞い上がってしまい、良いところを見せたいと思ってしまうことがよくあります。はなはだ単純な性分だと思います。
最近、当ソネブロでお近づきになったmomotaro様が、その慧眼とバランス感覚の上に立った、緻密な文筆をもって、世に鋭く発信なさっていることは、皆さんよくご存じのところでしょう。
ご著書「友よ、戦争をしない世界を創ろう!」も,先般の入院騒動の後、amazonにて購入、一読させていただき、その平明,丁寧な論理に導かれながら,ともに考えを進めていくうちに,時代と生き方について深く考えさせられるという快い経験を、久しぶりに味わったことでした。

友よ、戦争をしない世界を創ろう! (ラミ叢書)

友よ、戦争をしない世界を創ろう! (ラミ叢書)

  • 作者: 桃山直太郎
  • 出版社/メーカー: 編集ラミ
  • 発売日: 2015/04/25
  • メディア: 新書

そのmomotaro様が、私の駄句や短歌のまねごとについて、望外のお褒めのコメントをくださるので、ことさら嬉しく、くすぐったく感じ、木にも登ろうか、穴にも入ろうか、という心境なのです。

ところで、私のへなちょこブログも3年目を迎えました。私にとっては、現在のところ、最も律儀におつきあいしている「趣味」はこれでしょう。

「趣味は?」と聞かれて答えに窮することは、子どもの頃からの習いでした。小中学生の頃は「読書」などと答えておりましたが、すぐに現実と離反するようになって、破綻に瀕してしまったことでした。
学生の頃「不平を言うこと」という名答を考案し(実はこれもある方からのパクリでした)、これは気に入っておりましたが、社会人になってからは自ずと出番がなくなりました。
以来、「無趣味」と答え続ける半生でした。
もちろん,一度や二度は興味を開拓せんと試みた分野がないわけではありません。
いや、結構あれこれ、入門書を買ったり、初級用グッズを揃えたり、人並みに熱中しかけたものもないわけではありませんが、,,いずれも上達思わしくなく、自然と沙汰やみとなっています。(中略)
「この人は凝り性だからね」と、中学校の頃、教師から何かの機会に批評された記憶がありますが、熱しやすく冷めやすい気質は,相も変わらずです。
さて、そんな私が、退職を前にして、内心焦りを感じた時期がありました。「~ねばならない」で生きてきて、その枠組みが外れると,自分を見失い,気力も生き甲斐も薄らいでしまう、なんてことになりかねない。「~ねばならない」から「~たい」への生き方の転換が必要だ。さしずめ「趣味をもたねばならない」と、思い至ったのです。やっぱり「~ねばならない」に縛られ続けていますが(笑)
そこで考えました。新たな趣味の必須条件は?
・やって楽しいこと。
・憂さを忘れられること。
・少しの努力で,長く続けられること。
・足跡が何か残ること。
・人と上達を比べられて落ち込まなくてもよいこと。
・出費が少なくてすむこと。
・体力、運動能力が求められなくてすむこと。
自覚的に、言語で意識したことはありませんでしたが,あえて箇条書きにすればこんな虫のいい条件がぐるぐる脳裏を回っていたのでしょう。
今思えば、「ブログ」という帰結は、結果的にですが、これらの虫のいい条件を、すべてみごとにクリアーしてますね。
私のブログ開始は、正確には、退職の瞬間から即時というわけではなく、いくらかタイムラグがありまして、癌手術を経てのリハビリ過程で、退屈しのぎのすさびごととして始めたというのが、経過です。
その時漠然と期待したのは、①忘れっぽい自分の備忘録(紙に書く日記は,続けられないので)、②日頃ご無沙汰している友人、知人への消息、安否報告、生存確認、③自分自身の何らかの存在確認、などの雑多な要素を、お気軽に満たしてくれそうだという点。今、三年目を迎えられていることをみれば、この予感は、まんざら外れてはいなかったようです。
もちろん、当初は予期してさえいなかった、「読者」の皆様や、「ブロガー」仲間の皆様方からの、閲覧、ナイス、コメントなどなど、多大な励ましをいただいたことが,継続の最大の支えでした。
何やら、「終わりの挨拶」みたいな流れになってきましたが、そんなことはありません。まだまだ、細く長く、続けるつもり、ひきつづき、よろしくお願い申します。


これを書いてから5年超の時日が経過しました。「光陰矢のごとし」とは抗いがたい真実です。5年も経つうちには世の中も変わり自分も変わりますから、執筆のエネルギー、モチベーションといったものも、徐々に薄れていくことは否めません。というよりも、当時は病明けの身体状況から、自身の興味関心も限られ、自己の存在確認と安否報告への欲求は切実なものでしたが、喉元過ぎればの喩え通り、もとの安逸な日常生活が舞い戻り、また一方で、なにかと瑣末な所用も生起してきて、これに忙殺されるうちに、ブログ更新が二の次三の次となって、今日に至っています。そうした中での10日以上の空白、、、。これは放置してもおけません。改めて初心に立ち返るの巻、です。




カレンダーのメモをもとに備忘録を埋めておきます。


12月19日(土)、今年度の退職予定者を囲むつどいに、退職教職員の会のメンバーとして参加しました。うんと若い世代、と思っていた人がもう退職?とおどろきます。休憩時間に声をかけてくれた人が、なんと新米教師時代の「教え子」。そうなんだ、彼らももう退職か、と感慨を抑えられません。


「先輩」退職者として、Tさん、Kさんがせれぞれの退職後の生活や思いを紹介。現役時代にもまさるバイタリティに富んだ生活ぶりは、いたく刺激的でした。


この日、敬愛するHさんの訃報を聞きました。


これまで、こんな記事で紹介したことがありました。


桑畑の歌から始まった、の巻(2015-07-14)


朝のニュースを見ておりますと、政府与党は、「新安保法制」について、すでに審議を尽くしたとして、既定方針通り15日の衆議院採決企図を公言しています。そのような中ですので、我がブログも、話題はそちらに傾きます。
日曜日に参加した、退職同業者の寄り合いのことを少し書きます。
親睦・友好を旨とする、本来の会の性格や目的に関わらず、安倍政治への不安や危惧、怒りや憤りに彩られた会になりました。
開会に先だって、アコーディオン伴奏によって、皆さんで歌を歌いました。
伴奏してくださるH先輩は、実は専門は理科(生物)なのですが、美術も絵画も堪能で知られています。お噂で聞き及んだところでは、若かりし頃は、平均台の上で横転も軽々こなされたとか。天は二物も三物も与えられるものですな。

導入で紹介された歌は、「汽車ぽっぽの歌」。
誰もが知っている童謡で、歌詞はこうです。

汽車(きしゃ) 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
僕等(ぼくら)をのせて
シュッポ シュッポ シュッポッポ
スピード スピード 窓(まど)の外
畑(はたけ)も とぶ とぶ 家もとぶ
走れ 走れ 走れ
鉄橋(てっきょう)だ 鉄橋だ たのしいな

(中略)

が、その元の歌詞は、こうだったと、H先輩はおっしゃいます。

(一)
汽車汽車 ポッポポッポ
シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて
シュッポシュッポ シュッポッポウ
僕等も手に手に日の丸の
旗を振り振り送りませう
萬歳 萬歳 萬歳
兵隊さん兵隊さん 萬々歳

歌の題も「兵隊さんの汽車」といい、御殿場小学校教師であった作詞者が、出征する兵士を見送る内容の歌として作ったもので、戦意を鼓舞するために歌われたが、戦後、今の歌詞に改められたのだそうです。


また、これらの記事でも。


「一本の鉛筆」から始まった、の巻(2016-07-04)


昨日は、退職同業者の親睦団体の会合に参加してきました。
去年のこの記事で書いた会合の、今年度バージョンでした。
桑畑の歌から始まった、の巻
H先輩のアコーディオン演奏と歌唱指導によって、冒頭歌ったのは、美空ひばりさんが歌った「一本の鉛筆」。
この歌について、ウィキペディアにはこうあります。

ひばりが最初の広島平和音楽祭に出演するにあたって、総合演出を担当していた映画監督、脚本家の松山善三が作詞を、作曲を映画音楽の作曲で有名な佐藤勝が作曲をそれぞれ手がけた。なお、当初は平和音楽祭の実行委員長も務めていた古賀政男が作曲する予定であったが、古賀が体調を崩したため佐藤勝の作曲となった。『一本の鉛筆』と『八月五日の夜だった』は、ともに広島市への原子爆弾投下について描かれた作品である。
ひばりは、父の増吉が徴兵され、母の喜美枝がその間辛い思いをしていたのをそばで見て育っており、自身も横浜大空襲を体験していたこともあって、戦争嫌いだったという。そのようなこともあってひばりは広島平和音楽祭の出演依頼を快諾したという。
リハーサルでは冷房付きの控室が用意されており、広島テレビのディレクターがひばりを冷房付きの部屋に誘導したところ、ひばりは「広島の人たちはもっと熱かったはずよね」とつぶやき、ずっと猛暑のステージのかたわらにいたという。ステージの上からは「幼かった私にもあの戦争の恐ろしさを忘れることができません」と観客に語りかけた。
それから14年が経った1988年、ひばりは第15回の「音楽祭」に二度目の出演を果たした。当時、ひばりは大腿骨骨頭壊死と慢性肝炎で入院した翌年であり、歩くのがやっとで段差を1人で上ることさえ困難な状況だった。ひばりは出番以外の時は音楽祭の楽屋に運び込んだベッドで点滴を打っていた。しかし、観客の前では笑顔を絶やさず、ステージを降りた時には「来てよかった」と語ったという。翌1989年6月に、ひばりは死去した。

一本の鉛筆があれば
私は あなたへの愛を書く
一本の鉛筆があれば
戦争はいやだと 私は書く

一本の鉛筆があれば
八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば
人間のいのちと 私は書く


 


「子どもを守る歌(最終章)」から始まった、の巻(2017-07-11)


今年の総会も、H先輩のアコーディオン伴奏で「子どもを守る歌 (最終章)」の合唱から始まりました。(中略)(Hさんは)今年の作品展にも二点の絵画作品を出展されていますし、毎年欠かさず、数点ずつの作品を発表してくださっています。
ところで、「子どもを守る歌」(最終章)の歌詞は、こうです。

【作詞】上野 博子
【作曲】荒木 栄
国の隅々から 湧き上がる声は
子供を守る父母の 教師の叫び
初めて巻いたはちまきの 鮮やかな白さ
初めて組んだスクラムの力強さ
私は起ち上がった
みんなは起ち上がった
この闘いが平和を守る
「勤評反対!」
「戦争反対!」
子供達を 戦争へおくるな! 

曲の紹介で、H先輩もおっしゃっていたとおり、この作品がつくられた一九五〇年代後半の社会情勢を色濃く反映した「勤評反対!」という文言以外は、まったく現下の情勢をそのまま表現しているようではないかと、参加者一同、深く感じたところです。
ただ、念のために付け加えると、私個人としては、この最終章は、生硬なアジテーションの趣が強く、全体から切り離してこの箇所だけを取り出すと、いささか感情移入しにくいきらいがあると感じます。
やはり、この曲には、この優しくやわらかな歌い出しが、不離不可分と思えます。

子供達よ 健やかに育ちゆく 子供達よ
「先生!」と呼びかけて 今日も集まる
54人のつぶらな瞳 私の愛する 子供達よ
どう教えたらよいのだろう どう知らせたらよいのだろう
私の上に みんなの上に 覆い掛かる暗い影を
この影をこの暗い影を

一クラス54人という学級規模に、時代を感じます。108の瞳というわけです。それはさておき、子どもたちと教師とで織りなすささやかな平穏が、得体の知れない脅威によって脅かされている。その不安といたたまれなさを皮膚感覚として共感するところから、この曲は私の心に刻まれています。
過去記事で、この「子どもを守る歌」を話題にした最初は、2013年11月のこの記事だったと思います。一部引用します。

だまされも だましもせぬと 誓うた日

この詩(「戦死せる教え児よ」竹本源治)と重なって、しきりに頭をよぎる、歌の一節があります。

「子供を守るうた」

(【作詞】上野博子【作曲】荒木栄)

ねえ、みんな
この中に一人でも
わけも分からず
怒鳴られたり 笑われたり
人を蹴落として 自分だけがいい子になろうとしたら
どんなに どんなに 悲しいことだろう
御(み)国(くに)の為に 死ねと教えた昔
命を散らした教え子の顔が
目に浮かぶ 目に浮かぶ
良心の呵責が弱さを支え
平和を守る心が 私を鍛えた
明るい太陽の その下で
すくすくと伸びる子供達よ
笑い顔 おこり顔 おどけた顔で
野の花のように
美しく育てよ育て
平和な未来を 築くために

「勤評(キンピョウ)は戦争への一里塚」という合い言葉のもと、教師の「勤評闘争=勤務評定反対闘争」が、戦後間もない1950年代にたたかわれました。

日本が再軍備に向かう「逆コース」と呼ばれる一連の動きの中で、憲法と教育基本法(1947年版)の理想を諸改革が、次々と進められました。

その一環として、「勤務評定」により教師を序列化し、待遇に差を付け、お互いを競争に駆り立て、ひいては「お上」「御国」に盾つかない忠良な教師をつくり、子供の「人格」形成よりも 、「お上」「御国」に役立つ「人材」育成に専念させようとする動きがありました。(安倍さんと一緒やね。)

これにたいする「勤評反対」のたたかいは、「再軍備反対、戦争反対」のたたかいと一体のものでした。「子どもを守る歌」はこのたたかいを題材にし、それを励ますものでした。

この歌を、今の世に再び蘇らせなければならないのは悲しいことですが、子どもたちが、「野の花のように美しく」育つためには、知る権利と言論表現の自由、平和と真実の教育の自由が死活的に必須だと、改めて思うのです。


とりとめもなく思いが湧き出て、語り尽くせません。ご冥福をお祈りします。




このペースでは、一向に先へ進めませ。思い切って端折ります。


この間、何に時間を費やしたかというと、第一に年賀状づくりです。


着手は例年に後れを取ってはいないのですが、プリンターの不調に悪戦苦闘。モノクロレーザープリンターは、尋常に使えるので、宛名印刷は可能なのですが、デザイン面はカラー印刷したいのに、一台はインクトラブルで、何度もノズルクリーニングしても、インク交換してもらちがあきません。もう一台、以前使用していてトラブルが多いので予備役に引退させていたプリンタを試してみると、最初の何枚かは印刷できたのですが。紙詰まりが表示されてどうやっても解消されません。


このプリンター、コロナの影響で、一時期純正インクが店頭から消えて、入手できなくなっていたので、廉価な互換インクをネット注文し、年賀状印刷時期に備えていたのですが、インク交換が認識はされ、残量表示もされるのですが、先ほど述べたような印刷のかすれ、ノズルのつまりが頻出し、何枚もハガキをムダにしてしまいました。残量は大量にあるのに、思い切って新品と交換してもムダでした。


思い余って、プリンタを新調するしかないかと、パソコンショップ、電器店を何軒か梯子し、またネットでも色々と検索してみました。が、どうせ新調するならA3印刷可能なものがよかろうと物色するのですが、値段が折り合いません。結局、新調は断念して、ダメ元でインクを純正に変えてみることにしました。


すると、不思議なことにあのしつこいトラブルが解消したのでした。それにしても、どのメーカーも、純正インキは高額で、インクの売り上げで利益を上げようという戦略に、消費者は泣き寝入りするしかないのでしょうか(涙)


プリンターのトラブル対応もさることながら、住所録に沿って一気に印刷しきることをができなかったせいもあって、何十枚もダブリが出てしまいました。最寄りの郵便局ではクレジットの使用ができないといわれ、本局まで出かけましたが、窓口が長蛇の列。とても行列に加わる元気はありません。近くの銀行ATMで現金を引き出そうかと思って財布を探ると、なんとキャッシュカードが見当たらず青ざめて一端帰宅。めぼしい場所をしらみつぶしに探しても発見できず、またまた銀行と警察への紛失手続きが必要かと覚悟しました。


こんな記事をたびたび書いています。


トホホも積もれば山となる、の巻(2019-10-04)


トホホの話題はこれまで何度も書きましたし、読んで楽しい話題でもなく、我ながら執筆動機が疑われるところですが、詮ずるところ、愚痴を垂れ、鬱憤を晴らしたいのでしょうね。でも、今回ほどに重なると、鬱憤が晴れるどころか、気落ちして自己不信が募るばかりですが、「反省文」「始末書」のつもりで最近のトホホを箇条書きにします。

(中略)

倉敷に出かけた日、駅前の銀行に寄り、念のために資金を調達しておこうと、キャッシュコーナーに立ってカバンを探るに、カードケースにキャッシュカードが入っていません。あれ、またかと自己嫌悪にとらわれます。この日に限って、いつもと違うバッグを持ってきていたので、中身の入れ替え時に置き忘れてきたのだろうと思いながらも、あるいはどこかに落としはしなかったかと気が気でなく、せっかくの楽しいお酒の味が減殺されてしまいました。(トホホ)

家に帰りついたのは深夜に近かったのですが。そのあと、別のカバンやズボンのポケット、思いつく場所は根限り探しましたが見つかりません。念のために、よく落とし物を見つけたことのある自動車の運転席や助手席のシートの下部を、懐中電灯で照らしながら探しましたが、やっぱり発見ならず。翌朝、もう一度念入りにあちこち探すも、皆目見当たりません。そう言えば、以前こんなことがありました。

結果オーライ?ま、いいか、の巻

クレジットカードを使用して給油し、そのあとコンビニ店内のATMを利用して現金を引き出すことにしました。行事の参加費1000円の手持ちがなかったので。

銀行営業時間外の早朝でしたので、別途手数料を取られましたが、1000円札5枚を引き出し、ついでにペットボトルのお茶を購入してクルマに戻ります。いざ会場に向かって出発。その前にもう一度、念のために忘れ物がないか点検、、、してみますと、オヤ?さっき使った銀行カードはどこへやったかな?カードケースにも、バッグにも、胸ポケット、ズボンのポケット、どこを探しても見当たりません。いつもの失敗の教訓から、座席のシートの間、ダッシュボードの小物入れなどなど、あちらこちらを何度も探しますが、徒労です。

しばらくの間そうしてジタバタした挙げ句、さっきの買い物の際に落とした置き忘れたに違いないと結論して、もう一度店内に入り、店員さんに尋ねてみると、「届いておりません」との返事。これは、客の誰かが拾得して、ネコババしたか、はたまた警察に届けるかしてくれるのかと推理し、あの人かこの人かと、老若男女の挙動を観察してみますと、どれも怪しく見えます。

これは、大変。悪用された場合のことも想定し、銀行に連絡して利用中止手続きをする必要があろうかと判断。銀行の電話番号や、通帳の口座番号を確かめるために、いったん帰宅して、銀行に電話で相談しました。

電話口のお嬢さんが仰るには、「カードの解約手続きをしますと、見つかった場合、そのカードは使えなくなります。そのようなケースがよくありますが、もう一度よくお探しになった上で、後刻もう一度お電話いただくこともできます。直ちに解約もできますがどうなさいますか?」とのこと。電話口で悩んだ私は、「もう一度探してみる」という、当てのない選択肢を選ぶことにして電話を切りました。(中略)それでも念のためにと、再探索を試み、助手席のシートの下辺りをのぞき込んでみますと、そんなところに落ちてました。な~んだ、呆気ない。

いくら何でも、柳の下にそうそうドジョウはいません。今度こそは、いよいよ覚悟を決めて、銀行の営業開始時間を待って電話し、口座ストップの手続きをお願しました。電話受付でカードをストップするが、再発行手続きのために窓口で書類を作るよう言われました。ちょうどその日は、パートタイムの仕事でしたので、仕事外終わった後窓口を訪ねようと、重たい気分で仕事を終えました。

仕事場の駐車場に駐めた車のドアを、助手席側から開けました。重い仕事カバンや持ちものを積み込むためです。その時ふと、助手席のシートの下辺りに、輝くもの見つけました。カード君でした。何気ない風に、落ち着き払って寛いでいます。昨日見たときには気づかなかったのに、日中の光の中で、姿を現したのです。白日の下にさらされる、とはこういうことを言うのでしょうか。なんとも狐につままれたような幕切れです。

銀行窓口でカードを示すと、無効の処理をしたので再発行の手続きは必要で、ただし、元のカードがあったので手数料は無料。何日後かに書留で送られてきますとのこと。

被害甚少ですみましたが。トホホ感と消耗感にさいなまれます。


またまたドジの繰り返しかと自己嫌悪が募ります。念のためにと探った、数日前にはいたズボンのポケットを探ったところ、どうしたわけかカードが一枚、裸で突っ込んでありました。もはや発する言葉がありません。


すったもんだの挙げ句、ようやく投函を終えました。


第二は、ガラケーからスマホに変えました。


実は、これまでも、「格安スマホ」は利用してきました。それで別段不足はないのですが、電話番号やアドレスの継続利用をしたいので、日常の通話やメールのやりとりは、主としてガラケーを利用していました。このまま、ガラケーで通すつもりで、3月に新機種に代えたばかりですが、使い勝手が今一つで、だんだんと不便が募ってきましたので、機種代金1万2千円に目がくらみ、衝動買いしてしまいました。格安SIMの方は、月千数百円ですが解約し、端末は自宅でのWIFI利用で使いつづけることにしました。


環境が変わるということは、適応するために時間も手間も費やさなければならないということで、それを上回るメリットが得られるかどうか、まことに疑問です(汗)




第三は、TV録画用のハードディスクを衝動買いしました。
というのは、あるとき、自動車運転中にトイレを催し、大通り沿いの大型電気店に立ち寄ったところ、店舗統合による店じまいセールの最中でした。見るともなくぶらりと店内を眺めてみると、4テラの録画用HDDが、1万円を切っています。現在使用中の録画装置が満杯で、次々に番組を消去しないと次が入らない状態が続き、孫たちが、アニメだとか映画だとかを録画予約するので、私の『相棒』シリーズが危うい状況になっているところから、増設への欲望が慢性的に蓄積されていたのでした。
これまでUSBハブでHDDを3台つないで使用していたのですが、さすがに4台接続というのもはばかられて、「相棒」だけでほぼ満杯になりかけている2テラ(?)のHDDの中身を新HDDにダビングして、もとのHDDは取り外してもう一台のテレビに使おうか、などと楽しい計画を夢見ていたのです。しか~し、ダビングは一回に16番組だけが可能ということで、何度にも分けてダビングしなければなりません。ワンクールが終わりきるまでの所要時間は、バカにできない長さです。その間じっと見張っているわけにも行かず、夜中とか、外出中とか、ロスが生じるのは致し方ないことです。そんなわけで、ダビングが終了したのは、ほんさっきで、取りかかってから何日が経ちましたか、、、思わぬ手間がかかりました。
第四は黒ニンニクづくり。
初夏の頃に収穫したニンニクは、炒め物、スープもの、肉料理などなど、幅広い料理に愛用して、重宝していますが、食べきらないうちに、最近次々に芽が伸びてきています。それを土に植えてやれば、また収穫が期待できるのですが、実は既に来年用の植え付けは済ませていて、それは畑で苗に育っています。有効利用のために黒ニンニク作りに挑戦してみたい思いはずっと前からあったのですが、着手できないまま既にタイミングが遅れようとしていますので、4日ほど前にとりかかりました。相当くたびれてはいるが保温機能は利用できる古い炊飯器を、捨てずに保管していましたので、これを引っ張りだし、ネット検索したレシピ通りに、保温→発酵ンいチャレンジしているところです。日に一度は上と下とを入れ替えてやる必要があるそうで、これまた手間がかかります。強い匂いが漂います。これで成功しなかったらちょっと辛いものがあります、、、。




庭の水仙が、もう大分前から咲きそろい、よい香りを漂わせています。


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今日は散歩道で、いつの間にやらロウバイの花が咲いているのを見ました。マスクをしていても芳香が鼻腔に流れ込みます。PT286277


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ハクセキレイ


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ジョウビタキ♀


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ダイサギ


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コサギ


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コガモ


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カワセミ


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今日はこれにて。


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十日前の備忘録、の巻 [日録]

前回の更新から10日以上が過ぎました。


日々、何があったか忘れてしまうほどの空白です。カレンダーのメモを見ると、18日(金)教育相談ボランティア発行の会報「相談ネットワーク通信」の総集版=「相談ネットワーク30年の歩み」(直近10年分)の冊子を、長年支援を頂いている会員・団体の皆様に発送するお手伝いをしました。最寄りの郵便局まで、段ボール箱3箱にいっぱいつめた冊子を台車で2往復。途中路面電車の線路を横切る際に、大変難渋しました。高齢者の難儀ぶりを、遠巻きに気の毒そうに見守る市民のまなざしに、労りと同情を感じながらの作業でした。


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それから数日のうちに、何人もの方から、感謝や激励の言葉を寄せて頂いています。多額の会費・募金と手土産を携えて直接事務所を尋ねてくださった方もありました。


その夕方、久々の演劇鑑賞。


6月公演の予定がコロナ蔓延(第一波)の影響で延期されていた


劇団朋友公演『吾輩はウツである』。


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「児島玉野市民劇場」のHPから、「あらすじ」を囲繞しておき舞うす。


あらすじ

明治36年(1903)4月、小泉八雲が辞めさせられたことで学生たちの不満うずまく帝大に、夏目金之助(のちの漱石)が講師として赴任する。不穏な空気の中、学生たちの冷たい視線に晒される金之助は、毎日、不満と苛立ちを抱えながら教壇に立っていた。さらに、失恋で人生をはかなむ学生・藤村操が目の前に現れ、金之助の気持ちはますます不安定になっていく。

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そんなとき、一匹の小さな黒猫が夏目家に迷い込んだ。心を病み始めた金之助は、その黒猫と会話をし始める。しかし、その黒猫と会話ができるのは金之助だけだった。

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一方、病ゆえに突如として怒りを爆発させるようになった金之助に対し、妻・鏡子は一念発起。金之助の病を治すべく、ある行動を起こしたのだが・・・・・。

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YouTubeはこちら。


https://youtu.be/jZVUy3Jm7BY


漱石と「吾輩は猫である」については当ブログでも再三触れました。


例えばこの記事。術記念日(2014-07-23)。


2007年の脳動脈瘤手術のための入院生活の無聊を慰めようと、当時学生だった末っ子(二男)が、私に見舞いを持ってきてくれました。
手足や身体の麻痺が残り、本を読むためにページをめくるのも億劫だった私のために、ニンテンドーDSに添えて「DS文学全集」と「脳トレ」のソフトを買ってくれたのでした。
今なら、タブレット端末とか、スマホがあれば、十分、読書も音楽も動画まで楽しめて簡便な退屈しのぎができたでしょうが、当時のこととて、すでに時代遅れの「シグマリオン」(PDAとして用いるためヤフオクで入手していました)を持って入院していましたが、元々通信機能は契約もしていないので、ダウンロードしてためていた青空文庫のデータや、音楽データなどを再生させることは可能でしたが、面倒くさくて使う気にならず、せいぜい日記入力機器として時々使うだけでした。
ベッド脇のテーブルにおいていますと、若い男性看護師さんが「シグマリオンですか?ぼくも使っていますよ」と、親近感を示してくれたりしました。
退院後、次の入院がもしあった場合の備えのために(笑)、WILLCOMの「zero3」シリーズ(今日のスマホの黎明期の端末といえるでしょうでしょうか?)を何世代か、しかもその都度、型落ちで値崩れした頃に、買い換えて使いましたが、いずれも「帯に短したすきに長し」で、不満が残りました。

(中略)
話の筋をもとに戻します。二男が見舞いにくれたニンテンドーDSと、「DS文学全集」は、重宝しました。気力が続かないので、一回わずか数分間、2~3ページからせいぜい10ページ前後をちびりちびりと読み進み、どこまで読んだか忘れては引き返しという能率の悪い読書を、ノルマも目標もなく、気が向くままに進めたものでした。
ミステリー小説や軽読書程度が、よりふさわしいレベルの心理状態でしたが、この「DS文学全集」に収められているのは、青空文庫所収の旧時代の著作権フリーの「名作」だけですので、その中でも、気軽に読めそうな、夢野久作や、海野十三といったところから、芥川や、太宰、藤村など、なじみの深い作品をアトランダムに読む日々でした。
その中で、最も頻度高くページを開いて、最も長時間をかけて、読んだのは「吾輩は猫である」でした。
そういえば、定年退職で職場を離れるときにこんな退任挨拶をしました。

先ほどは、身に余るお言葉に加えて、過分なお餞別をいただき、恐縮しております。記念になる品物に換えて大切にしたいと思います。
さて、10年ひとむかしという言葉がありますが、私の勤続年数はそれを超えました。それは、2007年を境に大きく二つに分けることが出来ると思います。
2007年問題という言葉があります。一般に、戦後ベビーブームに生まれたいわゆる団塊世代の人たちが、大量退職することに伴う社会問題をそう呼ぶのですが、私には、もうひとつの2007年問題がありました。
その年の1月1日に、我が家の犬が,19歳で死にました。子犬の時、車にはねられて骨折していた捨て犬を、小学校低学年だった長男が拾ってきて飼い始めたのですが、人間に換算して90歳以上という天寿を全うしたのでした。
夏には、幼なじみの同級生が、病気で亡くなりました。小学校に入学したばかりの彼と私が、桜の木の本でツーショットで写っている写真が、アルバムに残っています。
それと前後して、敬愛する先輩教師が、退職間もなく亡くなりました。最初の勤務校以来のおつきあいで、無理にお願いして、私の結婚式の司会を引き受けていただいたこともありました。
私にとって、2007年は、このように、あの世とこの世の境目が薄らぐできごとが相次いだ年でした。
そして、その冬、私自身、脳動脈瘤の手術のために、大阪の病院に緊急入院しました。
(中略)
その時の生徒たちは、受験準備の限られた時間を割いて、みんなで千羽鶴を折ってくれました。病室に飾っていると、看護師さんや、見舞い客が、すごいなあと感嘆するほどに真心のこもった励ましで、本当にそのおかげで私は、手術に立ち向かうことが出来たと感謝しています。
結局、私は、彼らの卒業式にも出席できず、感謝の言葉を直接伝える機会もないまま、今日まできてしまいました。心残りの一つはそのことです。
クリスマスの夜、私は集中治療室のベッドに横たわって、どこかのラジオからかすかに流れてくるらしいジングルベルの音色を、かすかに聞いていました。ありがたいことに手術は成功し、命の危機からは脱することが出来ましたが、手足の麻痺、嚥下障害、言葉の障害など、いくつかの後遺症は残りました。言語聴覚士、作業療法士の先生の指導で、リハビリに励む毎日が続きました。
寝たきり状態から、車いすへ、次は歩行器、そして壁伝いの歩行から、杖をついての歩行と、少しずつ歩けるようになると、作業療法士の先生は、私が教員であることを知って、片手に重い本を何冊か持って歩く訓練など、職場復帰を想定したメニューを考えてくださいました。
言語聴覚士の先生は、「アメンボ赤いなあいうえお」など、定番の発声訓練とともに、文学作品の一部をコピーしてくださって、声に出して読む練習を続けてくださいました。
ここに、その時のコピーをもってきました。
いずれもよく知られた作品の冒頭の文章ですが、思い通りに発音することができず、再び国語の教員として教壇に立つ事など夢にも思い浮かべることすらできませんでした。
あれから5年が経過し、通常の文章ならまずまず読める程度には回復できた事に、我ながら感慨を覚えています。一つチャレンジしてみますので、聞いてください。
「吾輩は猫である」の 冒頭部分です。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕(つかま)えて煮 て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始(みはじめ)であろう。こ
の時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶(やかん)だ。その後猫にもだいぶ逢 ったがこんな片輪(かたわ)には一度も出会(でく)わした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷ
うと煙を吹く。どうも咽(む)せぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草というものである事はようやくこの頃知った。
翌年の1月に退院し、自宅療養しながら、最寄りの病院でリハビリを続ける毎日でしたが、回復は遅々として進まず、職場復帰など先のことだとあきらめておりました。でも、当時の教頭が、学校へ出てきながら徐々にならすという方法もあるし、無理だったらまた休めばいいとおっしゃってくださいました。年取った私の母親なども「そんな体でがんばっているところをみせることが、生徒にとって励ましになる場合もあるじゃろう」などと言ってくれました。気は進まないけれど成り行きで復帰と言うことになりました。
4月からの復帰が決まると、住まいが近くだからと、K先生が、運転の出来ない私を、学校の行き帰りをまいにちお車に乗せてくださいました。先生の車からみた、通勤路の桜の花盛りが、美しくありがたく目に焼き付いています。本当にありがとうございました。
こんな状態の私を、学校中の先生方も、生徒の皆さんも、本当に暖かく迎え入れてくださり、お陰様で授業や仕事に大きな穴を開けることもなく、復帰から5年が過ぎました。私はついつい、自分のちからでここまで回復できたと慢心しておりましたが、今日の離任式を前に色々とふり返っている中で、本当に周りの皆さんに支えられ、はげまされて、今日の日を迎えることが出来たのだなあとつくづくありがたく感謝しているところです。
人生に「もしも」はないといいますが、もしも本校でなかったら、違った展開をたどっていたかもしれません。改めて、心から感謝を申し上げます。
【後略】


演劇中、登場人物(?)の黒猫が、朗々と(人間語で)語るこの冒頭部分を聞きながら、ごく個人的な感慨を覚えたものです。また、演劇中で、漱石家を頻繁に訪れ、物語の進行にも役割を大きな果たす登場人物のひとりとして、弟子の寺田寅彦があります。彼についても再再三話題にしたことがあります。


災難は忘れた頃か秋の雨(2013-09-01)

「天災は忘れた頃にやってくる」という警句もその頃教わったと思います。
これは、物理学者の寺田寅彦の言葉と伝えられていますが、著書・著作等にその証拠は確認できないとも言われているそうですね。自身、関東大震災に遭遇し調査も行うなど、地震、火災など災害の根本原理を科学的・合理的態度で解明しようとしたこの人なら、と頷ける伝承ではありますが。
寺田寅彦は、熊本第五高等学校で夏目漱石に英語を習い、後に東京帝国大学の学生時代以来、漱石の自宅に集う「木曜会」のメンバーとして、門下生の一に数えられています。漱石の「吾輩は猫である」で、苦沙弥先生の弟子としてしばしば登場する、気鋭の理学士水島寒月が、寺田寅彦をモデルとしていることも、よく知られています。
私は中学時代、この作品を洒脱なユーモア小説として読みました。漱石のもつ文明観や人間観の重さや苦さについては、とうてい思い至りもしませんでしたし、細かなデティルもすっかり薄らいだのですが、この寒月君の颯爽とした好男子でありながら、きまじめに「首縊りの力学」などに没頭している様や、甘い物好きで虫歯に苦しんでいる様などに、何かミスマッチなおかしさを覚え、印象に残っています。
私の2007年問題=脳動脈瘤の手術の後の入院中、読書等に向かう意欲も体力も伴わなかった頃、唯一枕元に置いていたニンテンドーDS(当時学生だった末の息子が、買ってくれました)で、DS文学全集なるソフトをひもとくのが、ささやかな娯楽でした。気力と体力に合わせて、時には数行、時には数ページずつ、ちびりちびりと読んだなかに「吾輩は猫である」があり、改めて漱石の言葉の端々に、含蓄と面白みを感じつつ、無聊を慰められました。


ところで、この日の演劇では、漱石が尋常の「気むずかし屋」の域を超えて、妻や子どもたちをも深く傷つけながら、胃痛と神経衰弱に翻弄されながら自己と格闘し、時代と格する姿が、痛々しく描かれています。とともに、世に悪妻の代表と評される妻鏡子を、情愛深く、かつ、肝の据わった、一個の「自立した女性」と描いています。これは、以前NHKで連続放送されたドラマ「夏目漱石の妻」を彷彿とさせ、興味深く観ました。


      

https://www6.nhk.or.jp/drama/pastprog/detail.html?i=3982


これらの「鏡子」像は、夏目鏡子著「漱石の思ひ出」を踏まえているのでしょう。この「漱石の思ひ出」は、鏡子の語ったところを、松岡譲が書き留めたものだそうです。その松岡譲は、漱石の門人中、最も若い世代に属する人物で、漱石の長女・筆子の夫として、漱石亡き後の鏡子らを支えた人でもあるようです。



漱石の思ひ出――附 漱石年譜

漱石の思ひ出――附 漱石年譜

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/09/15
  • メディア: 単行本



ところで、私は、このごろ毎週のように県立図書館立ち寄り、最近は落語や浪曲、朗読などのCDを借りて楽しむ習慣がついたことは書きましたが、もちろんたまには図書を借りることもあります。そのさい重宝しているのは、老眼にやさしい「大活字」の図書です。その中の一冊に半藤 末利子の『漱石の長襦袢』があり、大変面白く読みました。半藤 末利子は、その松岡譲と筆子の四女で、小説家半藤一利の夫人です。(恥ずかしながら、検索して初めて知りました)



漱石の長襦袢〈下〉 (大活字本シリーズ)

漱石の長襦袢〈下〉 (大活字本シリーズ)

  • 作者: 末利子, 半藤
  • 出版社/メーカー: 埼玉福祉会
  • 発売日: 2018/05/01
  • メディア: 単行本



漱石の長襦袢〈上〉 (大活字本シリーズ)

漱石の長襦袢〈上〉 (大活字本シリーズ)

  • 作者: 末利子, 半藤
  • 出版社/メーカー: 埼玉福祉会
  • 発売日: 2018/05/01
  • メディア: 単行本



人間漱石と、その家庭の様子、そして弟子達との交わりが、腹蔵なき生の声で語られていて、興味が尽きなかったことを、演劇を観ながら思い出していました。


私の備忘録は、まだ、たったの1日分。遅々としてはかどりません。


この日の朝の鳥を載せて、今回記事は終わりにします。


電線に止まるツグミ。


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電線に止まるスズメ。


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電線に止まるセキレイ。


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今日はこれにて。


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会食を伴う行き当たりばったりの「つどい」、の巻 [日録]

私も所属している年金者組合の地元支部が、昨日(12/15)、「忘年と歓迎のつどい」を開きました。会場は、私の居住地にはほど近いが、多くの参加者の方からすれば、ちょっと「お出かけ」観のある、玉野市深山公園。


ちょっと美味しいものを食べながら、最近新しく加入された方の歓迎会を兼ねて、忘年会を開こうということで、少し郊外に足を伸ばして、景観も楽しみ、懇親を深めようという企画でした。


年金者組合は、この間、全国で「秋の仲間増やし月間」に取り組んでいて、県内ではプラス50人の目標を達成しましたし、地元支部でも新たに3人を迎え、春以来、新しい仲間が10人を超えました。これはここ何年もなかったことです。


年金者組合は、若者も高齢者も、誰もが安心できる年金制度の拡充をはじめ、医療・介護など高齢者のくらしといのちを守る運動にとりくむと同時に、「ひとりぼっちの高齢者をなくし、みんなで、生きがいや、楽しみ、趣味などで生き生きと暮らせるように」(全日本年金者組合HPより)活動するところに存在意義があるはずです。それだけに、「楽しくなければ年金者組合じゃない」のモットーは、飾り言葉ではありません。


この「つどい」が計画された頃は、まだGOTOキャンペーンが「健在」な頃で、コロナの再蔓延は徐々に広がり始めていましたが、今ほどではありませんでした。また、いつになく暖かい冬で、散り残った紅葉なども楽しめるだろうか、そうでなくても、気分転換の散策もよかろうと、まずは食事処に予約を入れ、楽しみにしていたのですが、、、


ところが、コロナの広がりが、最悪の状況を呈しています。大人数の会食」を控えるべき事も、強く指摘されています。そんな状況だけに、会食の予約はキャンセルし、昼食は弁当でも調達するか、現地の軽食堂でも利用するとして、お出かけを楽しむ事を第一に、とにかく実施しようということになりました。


そうして迎えた当日は、何と今シーズン最大の冷え込みで、寒風が吹きすさんでいます。しかも、いざ現地に行って見ると、休憩や食事、お買い物場所として期待していた道の駅が、定休日。踏んだり蹴ったりです。


それなら中止、というわけにも行かないので、当初予約して、後にキャンセルしていた食事処を覗いてみると、席がすいている様子。というより、広々としてほとんど客の姿が見えない状況でしたので、急遽ここで「会食」とくつろいだ懇談を進めることができました。


こんな定食(2種類から選択)が、税込み1100円です。


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大変美味でした。


「5人以上の会食」は避けよ、というお達しには抵触する部分はあったかもしれませんが、八人でステーキ店で「忘年会(杉良太郎氏談)」をやってのけるガースー氏・ニカイ氏らの厚顔ぶりや、「12畳ほどの個室に(萩生田)大臣のほか、2人の男性と、芸者の女性ら少なくとも合わせて6人がいた。萩生田大臣と男性のあいだに芸者の女性がおり、向かいの男性の両脇にも芸者の女性がいた。テーブルの上には数本の酒の瓶が並んでいた」と伝えられる萩生田文科相の剛胆が明るみに出て、決して居直るつもりはありませんが、こちらは酒も芸者もない純然たる昼食を短時間ともにしたまで。店内は換気も行き届き、密は十全に避けられています。感染リスクは可能な限り回避されていたと思います。 


行き当たりばったりながら、結果として最善のチョイスとなりました。


食後の腹ごなしに散歩、と洒落るには寒風が厳しすぎるので、カモたちのいる池を見学。


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Mさんが途中で買って持って来てくれていた食パンを、てんでにカモたちに与え、童心に返ったひとときでした。


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ヨシガモも歓迎してくれました。


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当初、買い物を楽しむ予定でいた「道の駅」がおやすみだったので、代替として、少し車を走らせて、ファーマーズマーケットサウスビレッジに立ち寄ることにしました。新鮮野菜や果物など、思い思いの買い物を楽しむことができました。私にとっては、なじみ深い地元エリアですが、多くの参加者にはちょっとした旅気分を味わって頂けたかも知れません。


追伸


「年金者しんぶん」12月15日号(第372号)所載の「むしろ旗川柳優秀作」というコーナーの片隅に拙作も紹介されました。(プチ自慢です。)


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今日はこれにて。


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コロナの時期のプラチナ?の巻 [家族]

今シーズン最大のカンパが襲来とか。


特に用事があるわけでもありませんが、今日は、ほぼ週一回の故郷訪問を実施。行きつけのスーパーのおトクデーである火曜日に行くことが多いのですが、あいにく明日の火曜日は予定がはいっていますので、月曜の今日に変更です。


郷里は県北部の美作地方ですので、この冷え込みで雪とか凍結とかも心配しましたが、それほどでもなく、曇りの合間に陽射しが現れれば、上着を脱ぎたい場面もあるほどでした。ただ風の冷たさは、さすがに冬です。


何ヶ月か前から腰の痛みを感じている老母は、以前は毎日、最近は隔日で、整体医に通っていて、いつもは93歳の父の運転で受診するのですが、今日のように、条件が合えば私が乗せて行くことになります。


郷里の山野は、冬枯れがすすんでいます。それもそのはず、師走もはや半ばです。世の中、怖い物は新型コロナで、大阪の次男一家は、今年は帰省を諦めようかなどと、テレビ電話で話しています。スガさん、ようやくGOTOの縮小を打ち出したようですが、遅すぎでしょ。


もう一つ、いたたまれない災厄は、鳥インフルエンザの蔓延です、隣県香川での流行は、決して他人事ではありませんが、ついに我が県に、しかも我が郷里にほど近い美作地域に発生。大量の鶏の処分のために「災害出動」の横幕を掲げた自衛隊車両が行き来しているのを見ると、危機を肌で感じないわけにはいきません。


檻の中から逃げ出すこともできない何万羽の鶏たちの哀れは、同情に堪えませんが、長旅の途中で、しばし寛いでいる渡り鳥たちも、健勝に、旅立ちの日を迎えラレるようにと祈りたいものです。


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さて、昨日の地元紙「山陽新聞」読者の投稿欄に、老父の投稿が掲載さました。早速ラインで家族みんなに知らせると、次々にお祝いのメッセージ・コメントが寄せられました。


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記念に、記事を引用しておきます。


愛される高齢者でいたい

(美作市)

12月15日に結婚70周年になる。金婚の年には、山陽新聞社主催の「金婚夫婦お祝いの集い」に出席し、社長からの祝辞、2人の写真を額入りでいただき大切にしている。
結婚したのは終戦後で何もなくて、質素な結婚式を挙げた。2人で183歳になる今は足腰が痛くなり、リハビリに行ったり病院のお世話になったりしているが、なんとか普通の生活ができている。それも信仰する神様、ご先祖様、また家族のおかげと信じている。
今の楽しみは、孫やひ孫が会いに来てくれることと、週1回リハビリに行き、孫のような若い職員さんに優しくしてもらえることだ。今後、いつまで生きられるか分からないが、みんなに嫌われないで愛される高齢者でいたいと思っている。子どもたちは、お正月にお祝いを計画していたようだが、コロナ禍で全員集まることができないので、当分の間お預けとなる。
70年間、貧乏生活に耐え、マイペースの私を支えてくれた妻や家族に感謝して、ありがとうと言いたい。


この投稿の見出しは、編集部がつけてくれたもののようです。当初は「プラチナ婚」というなじみの薄い言葉を使っていたようですが、編集部の改変に「さすが」と感心・感謝しているでした。


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トリトリトリ、の巻 [折々散歩]

はっと気づいてみると、日米開戦の日、12月8日が過ぎていました。

この秋に、県知事選挙に出馬(惜敗)された森脇ひさきさんが、この日、SNS上にこんな記事を投稿されていました。

【今日は何の日】

79年前、日本軍がハワイ真珠湾への奇襲攻撃を行い太平洋戦争が始まった日。

母親連絡会の人たちが平和のために毎年行っている「赤紙宣伝」に参加しました。

核兵器禁止条約に日本政府に批准を求める署名も呼びかけました。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外

翌日の12月9日、教育相談のボランティアの場で、クライアントのTさんとの雑談中に、開戦記念日の話題が出ました。同じ相談員のH女史が、「昨日、この赤紙を配ってきたのよ」と、赤紙ビラを見せて、駅前宣伝の模様を語ってくれました。年若いTさんは、「赤紙」と聞いてピンとこなかったようですが、これをきっかけに、学校で見た「はだしのゲン」の記憶とか、ヒロシマ原爆ドームの印象、いわさきちひろさんの絵、など、色々と話が弾みました。

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ところで、12月9日は、地元九条の会の「9の日行動」の日でしたが、うっかりまったく失念していました。いえ、覚えていたとしても、教育相談の当番日ですから、参加できないことには変わりないのですが、別のきっかけで気づかされるまで、まったく頭から飛んでいたのが情けない---。


さて、12月8日、日米開戦の端緒となった真珠湾攻撃の暗号電は。「トラ・トラ・トラ」だったと聞いていますが、そのいわれを知りません。

ウィキペディアをひもとくと、こうありました。

トラトラトラは、太平洋戦争の始まりである日本軍の真珠湾攻撃が奇襲により開始されることを伝えた電信の暗号略号である。
意味は「ワレ奇襲ニ成功セリ」。
概要
本来はモールス符号「・・―・・ ・・・」を繰り返すものでトラ連送とされた。真珠湾攻撃時には攻撃隊長・淵田美津雄中佐の搭乗する九七式艦上攻撃機から第一航空艦隊司令部(旗艦:空母「赤城」)に宛てて発信された。
真珠湾攻撃は、奇襲の場合(敵の防御が効力を発揮する前に攻撃可能であると空中指揮官が判断した場合)には艦攻による対艦攻撃を先行させ、強襲の場合には艦爆による対空防御制圧が先行させる計画になっていたが、「ワレ奇襲ニ成功セリ」はこのうち前者を指す電文となる。従って、これはあくまで攻撃が奇襲によって開始されることを示すものであり、攻撃そのものの成功を意味するものではない。
のちに、この電文をタイトルとし、真珠湾攻撃を題材とした映画『トラ・トラ・トラ!』が作られた。
由来・解釈
「トラ」がたまたま「虎」「寅」と同音であったため、様々な縁起をかついだものであったという俗説が以下のようなものを含めて多々存在しているが、根拠ははっきりしない。

まったく関係なく、今日は「トリ・トリ・トリ」の話題です(汗)

12月7日(月)は、午前中、県立図書館へ向かいました。最近自動車運転中に、図書館で借りたCDを聞くのが習慣になっています。一度に5巻かりることができます。大体、週一回、教育相談ボランティアの日(水)に5巻ずつ返却と貸し出しを繰り返しています。

最初の頃は落語CDを借りました。一番たくさん揃っている三遊亭円生(6代目)を手始めに、柳家小さん、古今亭志ん生、古今亭志ん朝など正統派をはじめ、立川談志、上方の桂米朝、桂枝雀などなど、手当たり次第に聞くうちに、「在庫」が底をつきました。浪曲CDや、後段CDも楽しませてもらいました。最近は、「朗読CD」を楽しんでいます。池波正太郎「剣客商売」「鬼平犯科帳」「仕掛人・藤枝梅安」シリーズ、平岩弓枝「御宿かわせみ」などの他、藤沢周平、松本清張と、その日の気分で借りて帰るのはたのしいものです。

この日、水曜日を待たず、敢えて図書館を訪れたわけは、翌8日(火)に、郷里まで片道2時間の運転中に聞くためのCDが尽き、新たに準備しておきたかったからです。

ところが、なんと、休館日でした。片道小一時間をかけて、くたびれもうけのままにすごすごと引き返したのでした。

気分を晴らすため、自然環境体験公園を歩きました。

鳥、鳥、鳥を、順不同にご紹介します。

ツグミ。

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エナガ。

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シジュウカラ。

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メジロ。

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カワラヒワ。

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今日(10日)も、自然環境体験公園を歩きました。

アトリの群れ。

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アトリノートリミング画像。

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ツグミ。

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アオジ。

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カルガモの後方にカイツブリ。

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カイツブリの親子。

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オオバン。

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今日はこれにて。


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お久しぶり(その7)、の巻 [折々散歩]

このシリーズ、そろそろ最終回にしたいと思います(笑)。


昨日今日と、深山公園を歩いてみました。起伏のある道は、マスクをして歩くと、結構キツイものがあります。冷え込みは厳しいのに、結構汗をかきました。で、常よりは短めのコースで散歩は切り上げ、赤松池のベンチに座って、しばらくカモを眺めていました。


群れが、ますます増えています。


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手前の方、水中に見え赤い魚影は、鯉です。。


個体数が多いのは、やはりヒドリガモです。


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そして。これもおなじみ、オナガガモ。


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長旅の疲れからでしょうか、陽射しを浴びて、うとうとまどろんでいるのもいます。


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カモたちに混じって、オオバンも


活発に泳ぎ回っています。


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あちらこちらで、お客さんが、用意してきたパンや、野菜切れなどを与えていますので、かも達は先を争って奪い合います。


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画面の中央の、野菜をくわえている一羽は、他と風采が異なっています。アップで見てみましょう。


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うつむきになると、特徴的な後ろ髪が、はっきり見えます。


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お久しぶりのヨシガモです。


去年も、こんな記事を書きました。(省略して引用します)


深山公園鴨三昧、の巻(2019-12-10)


大勢のヒドリガモやオナガガモに混じって、メタリックな光沢のカモが二羽。

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ナポレオンハットで知られるヨシガモ♂でしょうか?

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ウィキペディアには、こんな説明記事があります。

ナポレオンの二角帽子
ナポレオンの肖像画に描かれた二角帽子

ナポレオンが愛用していた二角帽子は、ビーバーの毛皮(フエルト)から作られたもので、権力の座に就いていた約15年の間に120個ほどが作られた。21世紀に現存しているものはわずかであるが、時折、競売に出品されることもある[1]。ナポレオンはこれを常々横向きに被っており、戦場において友軍が彼を識別する目印となっていたとされる


エナガ、コゲラなど、お久しぶりの小鳥たちも、すぐ近くに見つけたのですが、うまく写せませんでした(残念)


「お久しぶり」とはいえず、最近会う機会が多いのですが、カメラに無事に収まってくれた小鳥さんに感謝して、ご紹介しておきます。


ジョウビタキ♂。


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ヤマガラ。


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メジロ。


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今日はこれにて。


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お久しぶり(その6)、の巻 [獺祭魚]

「お久しぶり」シリーズも、ネタ切れです(汗)


今日の記事で、「お久しぶり」なのは、カテゴリ「獺祭魚」。カワウソが捕らえた獲物を岩に並べて、先祖を祭る故事にちなんで、撮り溜めた写真を並べて、ひとり楽しもうという趣向です。


最近、冬の鳥に出会う機会が増えました。


自然環境体験公園のアトリです。ちっとも久しぶりではありません。


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カワラヒワもよく見ます。


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カイツブリの成鳥と雛(若鳥)です。


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オオバンも個体数が増えたようです。


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児島湖畔にも足を伸ばしてみると、、、


カルガモが岸辺に憩っていました。


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沖には、群れが待ち受けます。


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カンムリカイツブリ。個体数が増えました。


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先日もアップしているので、「お久しぶり」ではないのですが、持ち出したカメラPENTAX k30がちょっと「お久しぶり」でした。AFBORG 60edを装着して写しました。(撮影は11月30日)


今日はこれにて。


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