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行きがけの駄賃、の巻 [折々散歩]

一昨日の「小鳥の森」訪問は、郷里の父母をたずねる道中、寄り道してラッキーな出会いを得たわけで、文字通り『行きがけの駄賃』でした。

小学館デジタル大辞泉の解説を引用しておきます。

行きがけの駄賃

馬子(まご)が問屋に荷物を取りに行く途中に、他の荷物を運んで得る駄賃。転じて、事のついでに他の事をすること。いきがけの駄賃。

ルリビタキとの遭遇こそ、何よりの駄賃でしたが、そればかりでなく、他にも良い出会いがありました。

梅が見頃を迎えかけていました。

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鶯宿(オウシュク)という品種です。

フェイスブック友だちのH様が、裏山にウグイスの初音を聞いたと投稿しておられました。7年前、私も、こんなウグイスの写真を投稿したことがあったと、フェイスブックが親切に教えてくれました。

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この日、小鳥の森にウグイスは見当たらず、無主の宿ばかりが、見事に咲いておりました。

ずっと前にこんな記事を書きました。そしてその後も、何度か同類のネタを話題にしたことが何度かありました。

お名前は? 鶯宿、紅さし、そして南高(2014-03-17)

梅の品種名は優美なものが多いようです。

その筆頭は鶯宿でしょうか?ウグイスの宿と書いて「おうしゅく」と読むようです。

辞書に、こんな説明があります。

1 村上天皇の時、清涼殿前の梅が枯れたので紀貫之(きのつらゆき)の娘紀内侍(きのないし)の家の梅を移し植えたところ、枝に「勅なればいともかしこしうぐひすの宿はと問はばいかが答へむ」という歌が結んであり、天皇はこれに深く感じて梅の木を返したという、拾遺集・大鏡などにみえる故事。また、その梅の木。
2 梅の一品種。香りがすぐれ、花は白、または紅・白まじって咲く。《季 春》 (デジタル大辞泉)

「大鏡」の該当部分はこうです。

(中略)

     例のウルトラ2老人の一人、夏山繁樹の思い出話として語られています。

夏山繁樹はこちらの過去記事(梅の花匂いおこすや海越えて2014-02-11)でも紹介しました。

《あらすじ》
清涼殿の梅が枯れたので、代わりの木をさがすようにと、 帝の命令があり、
蔵人は「若い者ではわからんだろう」と、夏山繁樹にこれを命じた。
京の都中探して見つからなかったが、西京のどこそこの家に、  花も枝振りも美しい梅の木があったので、掘り取ったところ、 家の主人が、梅の枝に手紙を結んで持っていくように言う。
梅を宮中に運んだところ、帝は手紙をご覧になった。
手紙には、女性の筆跡で
「帝のご命令なので恐れ多いことだ。鶯が、私の宿はどうなったのと  尋ねたら、なんと答えたらよいでしょう」
和歌を書いた家の主人は、紀貫之の娘だった。
帝は、無風流なことをしたと恥ずかしく思い、 夏山繁樹も、ほうびをもらったが、後味がわるく、 「人生最大のチョンボでしたなあ」、と苦笑いしながら語る。

「八郎」という品種もありました。懐かしい私の旧友の名前と一緒です。

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ハナカミ?先日の馬鹿陽気でスギ花粉の飛散が一気に活発になり、目のかゆみとくしゃみに苦しんでいるときだけに、この命名には苦笑いでした。不謹慎な言いがかりですが、、。

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「豊後」とは大分県の旧国名ですが、、、

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「豊後梅」は大分県の県花・県木に指定されているそうで、県のHPにはこんな解説がありました。

豊後梅の歴史

豊後梅は、その名の示すように豊後(大分県)に発祥し、古くから豊後の名産として知られていました。
徳川初期の1681年に出た水野元勝の「花壇綱目」にその名が見られ、当時から相当広く世に知られていたと考えられます。
また、豊後杵築藩主松平家から毎年将軍家に大梅の砂糖漬が献上されており、その美味なことと、果実の大きいこと、更に花の優美なことで非常に珍重されました。

豊後梅の特性

豊後梅は他の梅と異なる次のような特性をもっています。
イ、豊後梅はウメの一変種であって、一般に大型の果実をつける、いわゆる「大梅」の一種として知られています。
ロ、開花期は普通の梅より20日ないし30日遅く、おおむね3月の上旬から中旬にかけ、八重咲き(重弁)のみごとな花をさかせ、大輪で淡紅色をおびています。その花は清そでかつ優美であり観賞用として広く県民に愛されています。
ハ、果実は1個40~60グラム、直径4~5センチで、果肉厚く種子が小さい。食用として酸味が少なく、梅干のほか菓子その他に加工して珍味です。しかし、豊後梅は他花受粉であり、かつ花粉が少ないので結実が乏しく生産量は少ないです。
ニ、枝条が太く、また、古木になると主幹の下部に様々の形をした瘤ができます。

「晩成の梅」とあるとおり、まだつぼみが膨らみ始めたばかりでした。

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サンシュユの花。

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ミツマタの花。

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今日の付録、郷里に実家の庭のアセビの花が咲き始めていました。

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まだまだ長くなりそうなところを、これでも短く縮めたつもりです(汗)

今日はここまで。


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記事は短く、の巻 [折々散歩]

「記事は短く」、と最近自分に言い聞かせるようにしています。

一つ目の話題。

菅さんのご子息が介在しての接待問題、どんどん燃え広がってますね。トカゲのシッポ切りで事を収めたのでは、モリカケ疑惑の二の舞になります。これぞ、ジャーナリズムの真価が問われる事態と言えましょう。

そんなとき記者の質問を遮り、「時間ですから」と政府会見を仕切る役割に『辣腕』を発揮してきた内閣広報官山田真貴子サンまで、総務審議官当時一人あたり七万円超の豪華接待を受けていた件も浮上。首相出演番組でのキャスターの質問がお気に召さず、NHK幹部に「首相起こってますよとクレーム電話をかけ、それがもとでキャスターの降板に結びついたという件もクローズアップされています。

この一連の接待疑惑、問いただすべき点が山積ですが、この人にあくまで広報官を続投させるとなれば、「時間ですから」と会見打ち切りで逃げ隠れするおつもりでしょうかね?

この件はこれにて。


二つ目の話題。

昨日は、郷里の父母を訪ね、山腹の畑の耕耘に励みました。よく晴れて、仕事がはかどりました。予報通り、夜から降り始め、今日もかなり本格的な雨が降り続いています。昨日の耕耘は、よいタイミングでした。

朝、帰郷の途中、寄り道してみました。

小鳥の森です。

運良くルリビタキ♂♀にあいました。

先ずはメス。

複数の個体を発見。

枝の上。

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樹の幹。

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地面。

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跳びます。

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食べます。

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♂も現れました。

見晴らしのよい場所での撮影に成功したのはこの1枚。FUJI FINEPIX s-1で写しました。

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そのあと、PENTAXK5Ⅱ+AFBOORG60EDをバッグから取り出そうとしているうちに見失ってしまいました。

♀はじっくり撮影させてくれたのですが、♂は枝影に隠れたまま、わずかに動く姿が見えるだけ、、、。

そんななか、わずかに姿を捉えることができたのが下の画像。

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証拠写真としてご紹介しておきます。

今日はこれにて。


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文章長すぎ!写真多過ぎ!ハナシ飛びすぎ!の巻 [今日の「これなあに」?]

拙ブログ、開設の頃から、文章長すぎという批評を、友人・知人からよくいただきました。容易にご賢察いただけるとは思いますが、しっかり推敲するいとまもなく、思いつくことをただ書き散らしているので、だらだら長くなるのです(汗)


重々反省しながら、未だ改まりません()


文章は読まず、写真だけを楽しんでるよとおっしゃってくださる人もあります。いい気になって、写真も未整理・未選択のままアップすることが習性になってしまっています。これもしばしば反省しますが改まりません。


ですので、今日はできるだけコンパクトな記事にしたいなあ、、、。


最近、多大な努力の末に到達できた喜びを、備忘のためにメモしておきます


これまで、何種類ものプリンターと付き合ってきました。キャノン、エプソン、NEC、ヒューレットパッカード、レックスマークなどなど、節操もなく、種々のメーカーの製品をつまみぐいしてきました。おもな選定基準は、コストパフォーマンス。以前は性能も判断材料として重きをなしていました。コストパフォーマンスは見劣りしても、アルプス社のマイクロドライプリンターなるものにも手を出しました。しかも何世代か、、、。その後インクジェットプリンターの解像が格段に進歩して、市場からも消えてしまったようですが。


最近、プリンター本体の価格はぐっとリーズナブルになりましたが、それと反比例して、インクの値段が高騰していることは前にも話題にしました。インクの販売で利益を上げようというメーカー側の戦略らしいのですが、年金生活者には大変痛いものがあります。そこで、互換インキの使用に行き着きますが、なかなか世の中そんなに甘くはなく、トラブルが絶えません。


その中でも、比較的互換インキとの親和性が高いのはB社であるとの風評を信じて、最近はもっぱらB社製品のお世話になっています。同時に同社のレーザープリンターも使用しています。


そんなことを、年末のこんな記事にも書きました。


年の瀬の備忘メモ(その2)、の巻(2020-12-28)


プリンターの不調に悪戦苦闘。モノクロレーザープリンターは、尋常に使えるので、宛名印刷は可能なのですが、デザイン面はカラー印刷したいのに、一台はインクトラブルで、何度もノズルクリーニングしても、インク交換してもらちがあきません。もう一台、以前使用していてトラブルが多いので予備役に引退させていたプリンタを試してみると、最初の何枚かは印刷できたのですが。紙詰まりが表示されてどうやっても解消されません。

このプリンター、コロナの影響で、一時期純正インクが店頭から消えて、入手できなくなっていたので、廉価な互換インクをネット注文し、年賀状印刷時期に備えていたのですが、インク交換が認識はされ、残量表示もされるのですが、先ほど述べたような印刷のかすれ、ノズルのつまりが頻出し、何枚もハガキをムダにしてしまいました。残量は大量にあるのに、思い切って新品と交換してもムダでした。

思い余って、プリンタを新調するしかないかと、パソコンショップ、電器店を何軒か梯子し、またネットでも色々と検索してみました。が、どうせ新調するならA3印刷可能なものがよかろうと物色するのですが、値段が折り合いません。結局、新調は断念して、ダメ元でインクを純正に変えてみることにしました。

すると、不思議なことにあのしつこいトラブルが解消したのでした。それにしても、どのメーカーも、純正インキは高額で、インクの売り上げで利益を上げようという戦略に、消費者は泣き寝入りするしかないのでしょうか(涙)


さて、今回のトラブル脱出の苦闘は、詳述するのも億劫ですので割愛しますが、ちょっとした分量の文書を印刷する必要に迫られる状況で、インクジェットプリンターはご機嫌穴目で、時間ばかりかかって印刷がはかどりません。モノクロ印刷で切り抜けようとしても、レーザープリンターはドラム交換の表示が出て動かなくなりました。トナーはこれまで何本も交換し、最近は廉価の互換品で間に合わせてますが、ドラムまで互換製品を利用できるかどうか、不安が残ります。かといって純正品はメーカー希望価格九千円以上とかしますので購入する勇気が出ません。何しろ、エントリータイプのインクジェットプリンターにほとんど匹敵するお値段ですので、、、。そこで、インクジェットプリンタの更新を思い立ったのです。A4プリンタは、少量の印刷をこなす分にはまだ稼働可能ですので、これを買い換えるのもムダ使いですし、、、と悩みに悩み、冒険ではありますが、ヤフオクでA3プリンターの中古を買うことにしました。インク二箱分に満たない価格です。新品インキ(互換品)もサービスでついています。


お買い得感をおぼえながら落札し、期待しながらセッティングするも、初っぱなから一部のインクが認識されないトラブル発生。仕方なく、翌日純正インクを購入して付け替えると、なんとかトラブル脱出。と思った矢先、今度は別のインクが残量満タンと表示される のに、印刷してみると吐出されていません。何度ノズルクリーニングしてもダメ。これも純正インクにすれば解決かと、またまた買い出しに行って交換してみましたが、依然としてダメでした。支出を惜しんで「安物買い」したばっかりに、金をドブに捨てるようなことになってしまったと苦い後悔にさいなまれる数日でした。


それでも諦めきれず、ダメ元で「ノズルクリーニング液」なるものをネット注文し、到着を待って早速指示通りに試してみると、どうやら成功したらしいです。今の所、純正インク使用に限ってのことですが、今後互換インクの活用についても試してみようと思っています。




ところで、今日のカテゴリー「きょうのこれなあに?」の対象はこの鳥。


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はじめて見る鳥です。


ネット検索してみますと、シロハラの一部白化個体という例が紹介されており、似ているようにも思えますが、はて?


昨日の記事で、クロジとレンジャクについては、同好の方々の間に情報交換があるらしく、いくつかのグループらしき方々が撮影にいらしていました。


この鳥については、そうしたグループの方々の動きとは離れた場所で、ひとりカメラを向けていた方がありましたので、後ろからのぞき見させていただきました。


普通のシロハラは、近くでも沢山見かけますが、これらには、みなさん見向きもなさいません。、


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メジロも、「行列」なしに写せます。


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ジョウビタキ♂


カメラを向ける人はないようです。


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ホオジロも、、、。


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そして、この鳥も、見向きされることなく静かに枝で休んでいます。


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そして、なな、なんと、この鳥も、人目に触れずリラックスしている様子です。


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メスのルリビタキ。普通なら大興奮で大喜びするところですが、クロジ、レンジャクに遭遇した今回ばかりは、並一通りの喜びようでしかないのは、われながら身勝手なものです。


きょうはこれにて。


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続々すっかり忘れてました、の巻 [今日の暦]

この写真をアップするのを忘れてました。


近所の小川で漁をするカワウです。


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郷里の家の近くにいたモズ。


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昨日の記事で、裁判所は上級審になるほど低級という話題を書きましたが、このニュースは、忘れないように記録しておきましょう。2月19日付NHK NEWSWEBから引用します。


原発 東京高裁 国の責任認める

02月19日 19時01分

福島第一原子力発電所の事故で、千葉県に避難した人たちが訴えた集団訴訟の2審の判決で、東京高等裁判所は、国の責任を認めなかった1審判決とは逆に、国にも賠償を命じました。


低級でない上級審もありました(笑)




ここから本論。


今年の雨水(うすい)は2月18日だったそうです。当ブログでは、毎年のように話題にしていますが、今年はすっかり忘れていました。


去年の記事にこんなことを書いています。



暦の上では、明日が「雨水」だそうです。過去記事で、ついつい何度も話題にしています。

今日雨水青空も得しヒレンジャク(2014-02-19)

(中略)

多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻(2015-02-20)

(中略)

雛飾り草もむしりし雨水かな(2016-02-19)

(中略)

孤高の鳥、群れる鳥、の巻(2017-02-21)

(中略)

昨日は雨水、今日は多喜二忌、の巻(2018-02-20)

昨日は雨水。
今日は多喜二忌。
いずれも記事にしたい題材ですが、今日は軽く通り過ぎることにします。
多喜二について書いた直近の記事は、昨年10月のこの記事でしょうか?

「多喜二の母」に思う、の巻(2)
「多喜二の母」に思う、の巻

南(みんなみ)の便り届くや今日雨水(2019-02-19)

(中略)

よくもまあ、飽きもせず、毎年のように、似た記事を書いているものです、


こんなに同工異曲の記事を繰り返し書いてきたことも、すっかり忘れてました。でも、今日2月20日が多喜二忌だということは、決して忘れられません。


と書いた後で気がつきました。この記事のこと、忘れてました(汗)


忘れてました、の巻(2019-02-21)


こまっしゃくれたチコちゃんに「ぼーっと生きてじゃないわよ」ととがめられるのは不快ですが、確かにとみに注意力散漫で、大事なことに後で気づく事が多いです。

昨日が二月二十日であること、二月二十日が多喜二忌であることはそれぞれ認知しているつもりですが、その二つが結びついたのは、昨日の記事をupしたあとのことでした。遅かりし由良之助です。

当ブログでは、毎年欠かさずこの日の記事を書いてきましたが、先日の「高知新聞」への投稿との関連で、2015年掲載の記事をひもといてみることにします。

多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻

NHKの朝ドラ「マッサン」で、息苦しい戦争の時代のやりきれなさが極まっていきます。前回の「花子とアン」同様、またまた官憲・特高の傍若無人の暗躍が、市民のささやかな幸せを踏みにじっていきます。
スコットランド生まれの妻エリーへの迫害は、戦時の偏狭な排外主義の愚かさを際だたせますが、でも、21世紀の現代の「ヘイトスピーチ」を頂点とする差別主義・排外主義の論理と、あまりにもそっくりですね。

ところで、意に染まぬものを強圧によって押しつぶし排除しようとする権力が、歯止めを失って暴走する時、どんな信じられないことが起こりうるかということを、今日の地元紙「山陽新聞」のコラム「滴一滴」を読んで、考えさせられました。

〈ああ、またこの二月の月が来た/本当にこの二月という月が嫌な月/声を一杯に泣きた
い/どこへ行っても泣かれない/ああ、でもラジオで少し助かる/ああ、涙が出る/眼鏡がくもる〉▼29歳で非業の死を遂げた息子を思い、母が書き残した詩だ。作者は小林セキ。「蟹(かに)工船」で知られる作家小林多喜二の母である▼プロレタリア文学の旗手と呼ばれた多喜二は、1933年2月20日、東京で特高警察に捕まり、拷問を受けて絶命した。治安維持法のもと、思想や言論を理由に拘束され、命まで奪われた。この国で、82年前に起きた出来事だ▼多喜二と親交のあった作家志賀直哉がセキにお悔やみの手紙を送っている。「不自然な御死去の様子を考え、アンタンたる気持ちになります」。まさに暗澹(あんたん)たる時代だった。その年、日本は国際連盟を脱退し、ドイツではヒトラー政権が誕生した。世界は戦争へと向かった▼終戦まで、遺族は多喜二の名前すら口にできずに耐え忍んだ。戦後、セキが語っている。「思想も、言論も、出版も、結社もすべて自由になって…何というありがたいことでしょう」(「母の語る小林多喜二」新日本出版社)▼戦後70年。多喜二の名前は知っていても、その最期を知らない人は多いのではないか。時代を決して後戻りさせてはならない。心に刻む多喜二忌である。


今日は多喜二忌です。


多喜二の「処女作」とも言える『一九二八年三月十五日』で、3・15事件で夫を逮捕された妻お由は、若い労働者仲間が語っていたこんな言葉を思い出します。


「蟻の大群が移住する時、前方に渡らなければならない河があると、先頭の方の蟻がドシドシ河に入って、重なり合って溺死し、後から来る者をその自分たちの屍を橋に渡してやる、ということを聞いた事があった。その先頭の蟻こそ自分たちでなければならない。」


この言葉を、朝日茂さんがその手記に書き止めていたことを、岡山年金訴訟弁護団長の則武透さんは、支援者の集まりなどでよく話題になさいます。先日の最終弁論後の総括集会でも、これを引用して発言されました。運動のための踏み石になれという狭い意味ではなく、自分自身は直ちには報われないかもれないが、無数の、先人達のたたかいの積み重ねのうえに、志は達成されるという意味だろう。次の世代の幸せのために、なすべきことに自らの力を尽くそう、という朝日さんの決意を私たちも共有したい、というような趣旨(メモしてませんからうろ覚えです)だったと思います。


実際私は、この蟻のエピソードに、長く引っかかりを覚えていました。それは、“滅私奉公”や“特攻精神”に通う自己犠牲の美化・強迫の匂いに窮屈を感じるような気がしていたからです。が、そうではないのかも知れないな、と思えてきました。




今日(2月20日)、いろいろ珍鳥にあえました。


その1


レンジャクです。


最近いろいろな方から目撃情報をお聞きしていました。その情報とは別の場所で、たまたま見つけました。


老若男女のカメラマンさん達のレンズの先をたどってみると、、いましたいました。


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これも人だかりしているカメラの先を探ってみると、いました。


そう言えば、M師の最近のメールで、ここでクロジを撮影したとの情報をいただいていました。


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トリミングします。


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ブレブレですが、証拠写真は残せました。


今日はこれにて。


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続すっかり忘れてました、の巻 [折々散歩]

先日の記事で朝日茂さんの『人間裁判』を話題にしました。これへのgonntan様のコメントに「この国では上級審にいくほど低級に、裁判官があからさまに国におもねるようになるという事実。自らの出世しか見えなくなるんでしょうね。それでいて、被害者に寄り添っているように言葉を弄する。良心に恥じる気持ちがあるんでしょうけど・・力にはならない。」といただきました。まったく同感と申し上げるしかありません。残念なことです。

朝日訴訟の浅沼(武)判決(1960年10月)、家永訴訟の杉本(良吉)判決(1970年7月)、そして近年では「極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題とを並べた議論の当否を判断すること自体、法的には許されない」と明言して大飯原発(福井県)の運転差し止めを命じた樋口(英明)判決など、正義と公正に根ざした勇気ある判決が思い浮かびますが、それらは概して下級審の判決であって、上級審になるにつれて姿勢が後退しがちであることはよく知られています。しかも、このような勇気ある判決を下した裁判官の多くは、「見せしめ」的に左遷され後に続く者たちをすくませる材料にされるというのも、どうやら、かの業界では常識としてまかり通っているそうな。この国の情けない一断面というしかないですね。

公正と真実はとりあえず飾り棚の上に置き、まずもって「上」の意向を忖度すること、政治的力関係を『わきまえ』ることを至上の価値とし、出世と保身に汲々とするヒトタチからすれば、青臭く、融通がきかず、気に触るにちがいないこの勇気ある判決が少数ながらも存在するからこそ、司法への国民の信頼と希望のかろうじて保ち得ていることは、間違いのないところでしょう。

朝日訴訟における浅沼裁判長の判決を一部引用します。

「最低限度の生活」、すなわち「健康で文化的な生活水準」は、単なる生存の水準でなく、複雑な生活の基準であるから、算数的な明確さをもつて明らかにされる性質のものではないけれども、社会的、経済的な意味では客観的、一義的に存在するものというべきであるし、又それは時と場所をこえて絶対的に存在するものとまではいえず、各国の生活様式や生活水準により、あるいは年々の時代的、歴史的な発展段階に応じて相対的に決定されるものではあるが、さりとて変転常ならず一義的には決せられない性質のものではなく、特定の国の特定の時期的段階における生活状況の中ではやはり客観的、一義的に存在し、科学的、合理的に算定可能のものと考えられる。したがつてそれは年々の国家の予算額や政治的努力の如何によつて左右されるべきものでないことは当然である。しかして被告の定めた保護の基準によると、原告のように入院入所3ケ月以上の要保護患者は生活扶助として、1カ月当り金600円を最高限度とする日用品費が支給されることになつているが、1カ月当り金600円では後述の補食費を日用品費から除外するとしても、原告ら要保護患者の健康で文化的な生活の最低限度を維持するに足る費用を著しく下廻り、要保護者の年令別、性別、その他保護の種類等に応じて必要な事情を考慮した最低限度の生活の需要を満たすに十分なものとはとうていいえないのであるから、右基準は生活保護法第3条、第5条、第8条第2項に違背するものというべく、右基準に基いてなされた本件保護変更決定は違法である。

素人の私の胸にもストンと落ちる、血の通った判決です。ネット上に、朝日訴訟も家永訴訟も弁護団の一人として担当され、「人間裁判」という名称の考案者・名付け親でもあるた新井章さんの証言が、NHKのアーカイブスの中に収録されています。浅沼氏ら東京地裁の三人の裁判官が、遠く岡山県・早島町の療養所まで臨床尋問に訪問したときのことが印象的です。

その浅沼さんたちと一緒にちょうどこれは朝日さんの部屋ですから、3年ぐらい前に最初に訪ねた時の朝日さんの証言の最後の段階は、最後のステップでは、裁判長がいろいろ裁判に関わるお堅い内容の質問を朝日さんにして、彼が証言したあとに、朝日さん今何か欲しいものがありますか、あるとすればどういうものが欲しいですかって、ちょっとそれまでの堅い質問に比べると最後の柔らかい質問をしてくれたんですね。したら朝日さんがちょっと意外だという顔をして、そんな優しい丁寧な質問、ゆるやかな質問をしてくれるのかという顔をして、「そうですな、たまにはバナナとかうなぎのかばやきを食べてみたいですな」って、そういう証言をしたんですよ。私今日のためにね、この書物も記録も読み直してきたけれど、さすがにね、バナナとうなぎという言葉は証言記録の中にはとってくれてなかったようですけれどね。ただこの場にいたもの、それから窓からのぞいてこの様子を見ていた多くの患者さんたちは、その最後の朝日さんの非常に悠揚迫らざる、「許されればバナナとかうなぎのかばやきなども食ってみたいですな」っていう、その言葉に感銘を受けたんですね。つまりそのぐらい日々の生活保護患者の生活っていうのはつましいし厳しいわけですよ。バナナなんていうのは夢のまた夢、うなぎのかばやきなんていうのも頭の中をかすめて通る存在。もし裁判長が本気であんた何か私の原告、朝日茂のために骨を折ってくださるとすれば、例えばそういう栄養価の高い少年の頃から夢だったバナナとかかばやきを食べてみたいってそういうふうに言ったんですよ。っていう話はね、多くの人が記憶しているんですね。

文字通りの「人間裁判」---裁く側の裁判官も、誠実な生身の人間であったのだと、胸を打たれるエピソードです。

ところで、この新井弁護士は、私たちの教職員組合運動においても顧問弁護団の一人としてお世話になった方で、若い頃(私は30歳前後の青年の頃で、新井先生も確か50歳そこそこの壮年でした)、しかるべき会議の場などで近い場所でお目にもかかりお話しも交わしたことがありました。すっかり忘れていましたが、今この懐かしいお名前に接し、ひそかに感慨を覚えているところです。

ネット検索ついでに、このような記事に遭遇しました。

(デジタルライブラリー)人間裁判10年 - 株式会社旬報社

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「紙の本」ではもはや入手が難しいものを、こうしてたやすく閲覧できるのは有り難いことです。その第三部「死と生をかけた人間 朝日茂の遺業」に、 あの右遠俊郎さんが「人間・朝日茂の生涯」という文章を寄せておられます。朝日茂の生い立ちから始まり茂の生涯を克明にたどった文章で、前回も紹介した『小説 朝日茂』のダイジェスト版とも呼べる力のこもった文章です。

その中から、印象深い一節を引用させていただきます。

判決の結果だけが問題なのではない、と彼は自分自身にいいきかせていた。が、彼の心の片すみには、現地公判のときに残していった浅沼裁刊長の言葉が焼きついていた。
「憲法は絵にかいた餅ではない」と浅沼裁判長は、そのときいったのである。

ひげを剃ることさえはばがられるような気持ちで、朝日茂は判決の日を迎えた。朝から地元の新聞記者や放送記者が、彼の病室に詰めて待機していた。
勝訴の報が入ったとき、彼は思わず破顔一笑した。(中略)
録音マイクを向けられたとき、彼の顔はもう厳しい表情に閉じられていた。彼は早くも、あとにつづくたたかいに備える姿勢になっていたのである。彼は勝利の美酒に酔いしれて、たたかいの有効な武器を取りにがすほど甘くはなかった。彼の真意をより多くの人に訴える願ってもない機会であった。彼は感情を抑えた声で勝利の感想をのべた。
「ありがとう。みなさんのおかげです。私は心では、民主憲法の理念からいえば、勝つのが当然だと思うとりました。しかし、正面きってそういえば虚勢に聞こえるのでいままであまりいいませんでした。この当然のことが勝ったんです。憲法の前文からみればこのことはわかります。今の憲法が、人間の基本的人権を守ることであることを、 裁判官が正しく理解し、ものごとを、まじりけなしに純粋に考察し政治的考慮をぬきにすれば当然勝つはずだったんです」(『人間裁判』)。
だが、朝日茂の訴訟日々は滑かなものではなかった。年賀状が生存通知だという彼の療養生活のなかでも、この「四年のあけくれ」は「朝目が覚めたら、ああ、今日も生きとったか」というような日々をもふくんでいた。
それだけに、判決の日に彼の命が間にあった喜びは大きかったであろう。しかも、勝ったのだ。
≪血を喀きつつ今日の判決待ちわびぬ我れに久しき四年のあけくれ≫

(中略)

たたかいのなかで、彼目身変わりつつあった。裁きを待つだけでなく、裁判官を裁く目をもちはじめたことも、彼の大きな成長の一つであった。
もちろん、「勝つのか当然だ」といいきる朝日茂も、「純粋に考察し」て判決を出した浅沼裁判長に、敬意を表することを忘れなかった。階級社会の法則につらぬかれた裁判所のなかで、「政治的考慮をぬきにす」る判断が、きわめて困難なことを彼は知っていたからである。
≪真実をふかく見きわむ浅沼裁判長四年の審理に我は謝すぺし≫
浅沼裁判長への彼の感謝は、「真実を『ふかく見きわ』めた判決そのものと同時に、その論証にも向けられたものであった。彼は「胸か熱くな」るような感動でもって、「ぼう大な判決理由を何度も何度も読みかえした」といっている。
そして彼はそこから多くのことを学んだ。その「健康で文化的な最低限度の生活」を「人間に値する生存」と規定し、それはむしろ国家予算を「指導支配すべきもの」という判断は、朝日茂にまた新たな開眼を与えた。彼が訴えの当初から見つめようとしていた政治の深部との接点が、そこにありありと探りあてられでいたからである。
VⅢ
判決からわずか一三日目に厚生省は控訴した。判決の趣旨を慎重に検討する時間があるはずはなかった。短かい時問のあいだに、自民党政府は陣容を立てなおし、控訴のための形式論理を準備した。黒を白といいくるめるための技術、彼らに必要なのはそれだけであった。政府は彼らに必要な判決を奪回するために、その政治生命をかけて控訴せざるを得なかったのである。
「人間裁判」といわれた朝日訴訟は、自民党政府にとっては、当初から「政治裁利」であった。第一審判決の全面実施を申しいれた朝日がわの代表者たちに対して、厚生大臣中山マサは、現行の生活保護基準についてうぎのように答えた。
「たとえそれで生きてゆけようがゆけまいが、とにかく六〇〇円でももらえないより、もらえたほうかいいのだから感謝すぺきたろう」(『人間裁判』)。

結果、浅沼判決は、行政権力のメンツのために、泥手で覆されたのでした。前回記事でもふれましたが、第2審の東京高裁は、本件の月額600円という保護基準は「すこぶる低額」ではあるけれども違法とまでは断定できないとして、地裁判決を取り消しました。朝日さんは上告しますが、最高裁でのたたかいのさなか、1964年2月14日、朝日さんは病状の悪化により、志半ばにして亡くなったのでした。養子となった健二さんが相続人として裁判を引き継いだものの、1967年5月24日、最高裁は、「朝日さんの死亡によってこの訴訟は終了した」との判断を行いました。

しかし、確かに裁判では負けたけれども、この朝日訴訟は、法的権利としての「生存権」論の形成に影響を与えるとともに、結果として1960年代から70年代にかけての福祉政策の見直しに貢献するという点で、結果として「政策形成」に大きく寄与したのでした。

80年代以降の新自由主義政治の横行のもと、社会保障の冷酷な切り捨てが各分野ですすんでいますが、「人間に値する生存」に相応しい「健康で文化的な最低限度の生活」を保障すべき行政の責任を問うていくとりくみがあらためて求められていることを痛感します。

マクロ経済スライドをはじめとする政府の年金切り下げ政策を、憲法25条に照らして、問う年金訴訟が全国でとりくまれています。、岡山での裁判は既に2月1日に最終弁論が終わり、3月30日に判決言い渡しが予定されています。

年金者組合岡山県本部のfacebookに次のような記事が登校されていました。

東都支男原告団長の意見陳述(要旨)

―希望をもって余生を送れるような判決を―

口頭弁論では5分間ですが、東原告団長が原告の代表として意見陳述を行いました。「私たちは特例水準の解消がマクロ経済スライドに道を開くものとして行政不服審査請求を行った。しかし、『不服をのべている』との一言で却下された。マクロ経済スライドは将来にわたって年金価値の水準を自動的に低下させるシステムであり、私たちが甘んじてこれを受忍するならば孫子の代への禍根を残すとの思いから、最後の手段として司法に訴えた。提訴して5年8か月が経過したが、年金制度拡充への転機を次世代への贈り物にしたいと今日ここに立っている。いまから60年余り前、当地ゆかりの朝日訴訟の判決が出された。この時、浅沼判決でしめされた『人間に値する生存』という理念は、その後の施策を前進拡充させた。裁判官にお願いしたい。過去の判例にとらわれることなく憲法と良心のみに基づいて司法権の役割を果たしてほしい。望をもって余生を送れるような判決をいただきたい」と述べました。

「過去の判例にとらわれることなく憲法と良心のみに基づいて司法権の役割を果たしてほしい。」私自身の切なる願いでもあります。これをかなえるためには、裁判官の耳に市民・国民の率直な声を届けることで、その、人間としての理性と判断力を励ましていくこと、具体的には公正裁判を要求する署名を残りの短期間に高く積み上げること、だと痛感しています。

前回記事を書いたときに、すっかり忘れていたのが、写真の掲載です。冷え込みがぶり返し、朝散歩も気が進みませんので、寒気到来前の朝散歩の写真を載せておきます。

マンサク、どんどん開花がすすんでいます。

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ホトケノザ。

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麦の葉の露。

PM137080

コサギ。

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モズ。

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今日はこれにて。


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すっかり忘れてました、の巻 [今日の暦]

記憶のあやふやさについての嘆きは、再三口にしてきました。以前は、謙遜半分、自虐半分の「ネタ」として、いくらか余裕を持って語ってもいたのですが、最近は、どうも、白濁した記憶の底をまさぐるいらだたしさと不安とで、半ば取り乱しそうになることさえ増えてきました。人名を思い出せないことはしょっちゅうですし、事柄への記憶も揺らいでいて、外部記憶なしには「忘却」のかなたに消えてしまう「過去の事実」の危うさに立ちすくむ思いです。


そう言えば高校生の頃、こんな詩を書きました。


日 記
         1
時は過ぎ去ってしまった と書き込まれた頁の上には
また幾枚もの過去が重ねられ
そしてどこにも現在を見いだすことはできなかった

確かにあった瞬間を留めることができなくて
つまりはそこに 何もなかったのだ と
かつての少年は 言うのさ
“その時”が何に変わったのでもなく
ただ 老いてゆく自分を知るばかりだ と
3                               
偶然にか作為的にか選りぬかれた“時”のみが
いくらか歪められ あるいは造り上げられて
忠実に書き残された
それこそが そして そればかりが
己の記録だとして その追憶の中にまであらわれた
恣意的に消し去られたもの
あるいは しだいに忘れられたものは
いったい何だったのだろうか
ーーーーー失われたものこそ 歴史なのだ

懐疑とか虚無とかという文字にはかびが生え
とにかく生きよう より善く生きようと
そればかりで埋められた頁は埃をかぶり
愛するとか夢見るとか それら美しくてすがすがしい言葉は
無力と倦怠の餌食になりやすく
案の定どす黒く穢され 悪臭ふんぷんし
結局 何も残りはしなかった

さよならと走り書きした頁の端の 透明なしみの意味を
少年はもはや 覚えてはいなかった
そこここに見られる“Y”という符号の意味も
ついには忘れられてしまった

これからあるはずの未来を
やはりそこにあったはずの過去として
いつかは一冊のノオトに納めきったとき
(そのとき少年はもはや少年ではなく)
書き残されず忘れ去られた今日を
あわれむだろうか
       7
してみると
人には未来はありようもなく
さりとて現在(いま)もありはせぬようだし
果たして過去はあったのかしら


粋がってこんな大人びた台詞を吐いていた頃が恥ずかしく、また懐かしいことです。




今日のタイトル「すっかり忘れてました」の第一は、昨日、2月14日にちなむ話題。


「バレンタインデー」のことではありません。孫たちとそのママからのチョコと手づくりお菓子のプレゼントは、美味しくいただきました。


土の上を這う芋虫?いえいえ、土と見えるものも、そこに身を隠そうとしている芋虫オス2匹メス1匹も、いずれも精巧な手づくりお菓子です。お見事。


PM137091


PM137093




そのバレンタインデーの2月14日は、「人間裁判」をたたかった朝日茂さんの命日でもあります。もまだ日本には、バレンタインデーを祝う風習定着していなかった頃の1964(昭和39)年の2月14日、朝日茂さんは肺結核のため入院療養中だった国立岡山療養所(現在の「独立行政法人国立病院機構南岡山医療センター」)で、帰らぬ人となりました。そして、4年後の1968年02月14日 には、病院登坂口に「人間裁判記念碑」が建てられ、朝日さんのたたかいの意義を後世に伝えています。


岡山博物図鑑 の記事中、早島町のはなし から引用させていただきます。


人間裁判記念碑-朝日訴訟


国立岡山療養所(現国立療養所南岡山病院)に長く結核で入院していた朝日茂は、35年間離れて暮らしていた九州の実兄から月に1500円の送金を受けるようになります。そのため津山市社会福祉事務所は昭和37年(1962)7月18日付で、それまでの月額600円の生活扶助を打ち切り、送金額から打ち切った扶助額と同じ600円を控除した900円を、医療費の一部として徴収する決定を行ないました。つまり朝日に入るお金の額は全く変わらなかったわけです。
そこで朝日は岡山県知事、更には厚生大臣に対して不服申立を行ないます。理由は生活のさして楽でない兄からの送金の5分の3をも取り上げられ、補食を必要とする重症の結核患者にとって相変わらずの600円の生活は、生活保護法所定の健康的で文化的な最低限度の生活水準を維持するのには不十分である、というものでした。
しかし申立はことごとく却下され、朝日は遂に厚生大臣に不服申立却下の取消を求める訴えを提起します。これが世に有名な「朝日訴訟」です。


この訴訟は、人の生存権とは何かを問いかけたという意味で「人間裁判」とも呼ばれました。
第1審では、我が国社会保障史上画期的な判決で朝日が勝訴しますが、第2審では厚生大臣が逆転勝訴、決着は最高裁へと持ち越されます。
しかし昭和39年、上告人である朝日がこの世を去り、相続人の訴訟承継も認められず、最高裁は訴訟の終結を宣言しました。
結局、この訴訟の結果は曖昧なものとなってしまいましたが、その間、朝日を支援しようとする運動は全国に拡がり、各地で生活保護費の水準が引き上げられるなど、その後の社会保障のあり方に与えた実質的な影響は極めて大きなものでした。
現在、南岡山病院の登坂口には、「人間裁判」の記念碑が建てられています。
「人間裁判」の記念碑
「人間裁判」の記念碑


この記事は「早島の歴史2 通史編(下)」、「生存権の性格-朝日訴訟」(杉村敏正 「別冊ジュリスト No44」 有斐閣)を参考にさせていただきました。

私のブログでも、人間裁判=朝日訴訟についてはこんな記事を書いたことがありました。


年金訴訟と朝日訴訟についてのおもいつくまま(2016-07-05)


(岡山年金訴訟弁護団長の)則武さんは、裁判冒頭の意見陳述の終わりに、朝日訴訟を引いてこう訴えておられます。

14.最後に、かつて、この岡山の地で、朝日茂さんが立ち上がって起こされた 「人間裁判」 朝日訴訟のことを述べさせて下さい。 朝日訴訟では、
第1審の東京地裁の浅沼裁判長は、 朝日茂さんが病の床にあった早島の結核療養所まで赴き、 3日間にわたり検証や朝日茂さんへの尋問などを実施しました。
浅沼裁判長は、 岡山を立ち去る際に 「意法は絵に描いた餅ではない」 と述べたそうです。そして、昭和35年10月19日、月額600円の生活保護基準を憲法2
5条違反とした画期的な浅沼裁判長の東京地裁判決が下されます。 この浅沼判決を受けて、朝日茂さんは「真実をふかく見きわむ浅沼裁判長 四年の審理に我は謝すべし」
との歌を詠みました。
その朝日訴訟ゆかりの地である岡山の裁判所で、今再び、憲法25条の存在価値が問われているのであります。 どうか、裁判所におかれては、原告らに生活保障を十全のものとするために、真実を見極め、審理を尽くされることを期待します。

思わず、目頭が熱くなりました。
朝日訴訟については、前述の「年金裁判」は何に貢献するか?の巻でも少し触れました。
以前、小林多喜二を話題にしたこの記事で、岡山県出身の作家右遠俊郎さんについて書きました。
またまた3月15日の蘊蓄、の巻
この記事で引用した略歴に、「1989年『小説朝日茂』で多喜二・百合子賞受賞。」とあります。
その、『小説朝日茂』は、克明な資料と取材に基づいて、淡々と抑制的な筆致で綴られたルポルタージュ的な「小説」ですが、ページページに深く胸を打たれ、涙を催さずに読むことはできませんし、同時に極限の状況下でも、人間の示しうる尊厳、勇気、高潔に、はげまされずにはいられません。

小説 朝日茂

小説 朝日茂

  • 作者: 右遠 俊郎
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1988/12
  • メディア: 単行本

第一審の判決場面を引用します。

現地検証・現地公判のあと、年内になお二回の公判が開かれ、朝目側証人の有力な証言、たとえば、第十回公判の参議院議貝木村禧八郎の証言、第十一回公判の労働科学研究所員藤本武の証言が続き、茂は弁護士たちの意見と同じく、勝訴へのかなり確かな感触を得るのだが、訴訟というものは始まるときも待たせるが、終わりがけもなかなかすっきりとはけりがつかない。結審したのは第十三回の公判、翌一九六〇年の三月十六日であった。そのとき、弁護士たちの見通しでは、判決は六月頃だろう、とぃうことであった。折から<安保反対>の高潮が全国に渦巻いているときであった。
茂はラジオで<安保反対>の高鳴りを聞きながら、胸を熱くし、いくらかは焦りながら、指折り数えて判決の出る日を待つていた。が、判決は六月になって遅れることが知らされた。重症の身で三年、不服申し立てからでは四年を、血を喀きながら命ながらえてきた茂には、判決の遅延はひどくこたえた。
茂の病状が急に悪化した。流動血痰の量がふえ、心悸亢進、食欲不振が続いた。危機の予感に焦燥が燃え、茂は浅沼裁判長の白いマスクの上の目の優しい印象を忘れ、裁判所はわしが死ぬのを待っているのか、とあられもなく口走りたい衝動に駆られるのだった。
茂は半ば覚悟を決めて遺書を書いた。が、どうしても判決だけは見たいという執念で、危うく持ちなおした。周囲のものは愁眉を開いた。日本患者同盟や対策委貝会は茂の病状を憂えて、裁判長に判決を早く出してもらうように要請した。暑い、夏も終わろうとする頃、判決は十月と知らされた。もう延びることはないようであった。
一九六〇年十月十九日、判決を待って茂は朝から待機してぃた。新聞記者たち、カメラマンたち、地元山陽放送の放送記者たちが、.茂の部屋に詰めかけてぃた。茂はうっすらと不精ひげをロのまわりにたくわえ、詰めかけた人たちとなごやかに談笑していた。
茂は秋になって体調を取りもどしていた。みんなの見ているまえで、昼食をすませた。午後二時、療和会の事務所に、山陽新聞からの速報が入ったらしく、その知らせを持って療和会の書記が病室に飛びこんできた。

「勝った」
と彼は言った。 病室に居合わせた人々は一斉に茂の顔を見たが、どっと湧くようなことはなかった。まだ書記の「勝った」が信じられなぃらしく、さらにその続きを聞こうとしていた。が、書記にも、「勝った」内容は説明できなぃのであった。
山陽新聞の記者がすぐに席を立って出てぃった。電話をかけにいったらしく、まもなく病室に帰ってくると、朝日茂の完全勝訴であることを告げた。何でも、国は憲法第二十五条に違反していると断じているらしい、と彼はつけくわえた。そこでやっと病室のなかがどよめいた。茂は思わず暗ればれと笑った。
さっそくマイクが茂のロ元に突きつけられた。茂は別に用意していたわけではなぃけれど、よどみなくしゃべりはじめた。 「ありがとう。みなさんのおかげです。私は内心では、民主主義の理念からいえば、勝つのが当然だと思うとりました。しかし正面きってそういえば虚勢にきこえるのでいままであまり言いませんでした。この当然のことが勝ったんです。憲法の前文をみればこのことはわかります。今の憲法が、人間の基本的人権を守るものであることを、裁判官が正しく理解し、ものごとを、まじりけなしに純粋に考察し政治的考慮を抜きにすれば当然勝つはずだったんです」
それから三十分ほどして、日本患者同盟のウナ電が入つてき、午後三時にはラジオが朝日茂の勝利を報じた。それによれば、「現行の保護基準は、生活保護法にもとり、健康で文化的な最低限度の生活を保障した憲法第二十五条の精神に反する」という内容のものであり画期的な判決である、ということだった。
(中略)
茂は今日の感慨を忘れずに残しておこうと思い、薬包紙に鉛筆で短歌三首を書きとめた。
<われ勝てり浅沼裁判長は声低く言葉少なく判決文を読めりと>
<血を喀きつつ今日の判決待ちわびぬ我れに久しき四年のあけくれ>
<真実をふか<見きわむ浅沼裁判長四年の審理に我は謝すべし>

感動のクライマックス!と喜べないところが、現実のしぶとさ、国家権力のあくどさというもの。民主国家を標榜する我が国の裁判所は、三権分立の建前にもかかわらず、上級審へ行くほど行政権力へのおもねりが甚だしく、上級審ほど低級である点は、今も昔も変わらぬようです。
「朝日訴訟」においても、1963年11月4日、厚生省は朝から通用門のすべてを閉ざして、要所に守衛を配置し、東京高裁と道路を隔てた日比谷公園には100人を超える武装警官が待機するものものしい警戒のもと、東京高裁は一審の判断を覆し国側勝利の不当判決を下したのでした。
『小説朝日訴訟』からいま少し引用します。

茂のもとにその知らせが入ってきたのは午後二時であった。待機していた記者たちに、茂は開口一番、「少しは、負けたような深刻な顔をせにゃあぃけんでしょうかな」と言ってみんなを笑わせた。それから一呼吸おき、居ずまいを正し、真顔になってしゃべりはじめた。
「残念です。いったい裁判官は、こちらの提出した資料を入念に検討したのでしょうか。憲法の理念を正しく理解すれば、わたしの主張は認められるはずです。裁判官の良心を疑わずにはおれません。あきらかに国家権力、池田自民党政府に屈従し従属したものです。一般の人は国家権力のあくどさを知っていただきたいと思います。
この不当な判決は、社会保障の拡充を要求し、憲法の民主的条項の完全実施を要求する人民への裏切り行為です。この裏切り行為はかならず新しい日本人民によって裁かれることでしょう。
今度の判決は今後たたかううえでの盛り上がりを作ってくれたと思います。波があってこそたたかいは前進すると思います。 わたしはからだを大切にし、
何年かかろうと最後の勝利を得るまでたたかいぬくっもりです。 私は断じてこの不当な判決を認めません」
短いコメントであったが、茂は話しているうちに、さすがに無念の思いがこみあげてきて、声に痰がからみ、からだは熱くなり、息が大きくはずんだ。
記者たちが帰つたあと、心を許しあった仲間が三人残った。みなうつむいて、涙をこらえているような暗い顔をしていた。その三人を見まわしながら、茂は普段の調子にもどり、しんみりと語った。
「わしはなあ、ちっとも悲観しとらんで。そういやあ、また強がりいうとるように思うじゃろが、ほんまじゃ。ほんまに悲観しとらん。ただなあ、最高裁の判決までたたかいぬけるかどうか、そう断言できんところがあるんじゃ。これから三年、訴訟を背負うて生きつづけにゃならんか思うと、しんどいんじゃ」
茂が判決の全文を読んだのは一週間ほど経つてからだった。茂は丁寧に読んでから、まず、小沢文雄という裁判長は奇妙な論理をもてあそぶ人だと思つた。
たとえば、彼は長い判決文のなかで、「以上のように詳細に検討を重ねてみても、当裁判所は、本件保護基準を違法とは決しかねるのであるが、 しかしなお概観的に見て、
本件日用品費の基準がいかにも低額に失する感は禁じ得なぃ」といっている。別なところでは、「頗る低額に過ぎる」けれども、違法とは断定できないといい、そして、これを結論にしているのだ。
茂には、「いかにも低額」、「頗る低額」だが、「違法とは決しかねる」という論理が、どうしてものみこめなかった。が、やがて茂は気づいた。簡略化してぃえば、低額は合法、ということになる裁判長の論理には、一つの前提があるとぃうことに。それは、「当不当の論評」と「違法を論証すること」は別のことがらだ、という考え方である。そこから、不当だが合法という判断は、遊びの形式論理であるとしても、容易に出てくる。
それにこの裁判長は、厚生大臣の定めた日用品費六〇〇円が違法であるという、決定的な理由だけを見つけようと終始している。そして、一つの項目ごとに、違法であるとは断定しがたいと断じ、それを連ねてゆく。彼は決して、それが合法であるという論証はしない。彼は「疑わしきは罰せず」を日用品費に当てはめた。
何のことはない。この裁判長、初めから、違法ではないという結論を設定しておいて、それを論証するために奇妙なロジックをあやつり、 事実や証言を都合よく引用、挿入しただけのことである。彼ならばたぶん、遊びとして、違法であるとぃう結論を設定して、それを論証せよといえば、ほぼ同じ長さで充分にやってのけたであろう。
では、なぜ彼が、違法ではないという結論を決めたかといえば、それはただ、厚生省の準備書面による脅しに屈服し、「自已抑制」しただけのことである。その証拠に、日用品費六〇〇円が違法ではないという、彼が挙げた理由は、すべて厚生省から学んだものばかりであり、一千万人に近いボーダーライン層の存在、納税者の感情、国民の生活水準、国の財政などを考量する必要があるとしてその決定は厚生大臣の自由裁量に属する、とぃうことにしてしまった。
それでぃて、小沢裁判長は、新聞各紙のインタビューに、生活保護基準は「違法すれすれだった」と語っている。その談話にも茂は嫌な気がした。実際には原判決を破棄し、朝日茂に敗訴をいいわたしておいて、世間向けには「違法すれすれ」などと、少しは生活保護患者の苦しみも分かるようなそぶりをする。そこが卑しい、と茂は思った。「違法すれすれ」などといわれても、厚生大臣の違法が解除された以上は、生活保護患者は「生命すれすれ」で生きるほかなぃのである。 十一月二十日、朝日訴訟中央対策委貝会、弁護団、朝日茂は一致して、最高裁へ上告した。

1964年2月14日、原告の朝日茂さんは上告審の途中で亡くなり、養子夫妻が訴訟を続けましたが、最高裁は、本人の死亡により訴訟は終了したとの判決を下しました。
しかし、朝日茂さんのみずからの命をけずってのたたかいは、政府の政策に確かな影響を与え、その権利のための闘争は、今なお輝きを増し、私たちを励まし続けています。




今日もほとんど同じようなことを書きかけ、『小説朝日茂』を拾い読みしてみた箇所がほとんど同じ部分であったことにあきれもし、そのことを記憶していなかったことにもあきれました。挙げ句の果てに、右遠 俊郎さんを紹介しようとして、こんな写真まで撮りました。



念のために過去記事を探ってみて、恥をかかずに済みました。


またまた3月15日の蘊蓄、の巻(2016-03-15)


手許に右遠俊郎著「読書論ノート」(青木書店、1980年刊)という本があります。
右遠俊郎さんについて、wikiではこう紹介してあります

右遠 俊郎(うどお としお、1926年9月1日 - 2013年10月11日)は、日本の作家・文芸評論家。
岡山県生まれ。少年期を大連で過ごし、旅順高等学校に進む。戦後、東京大学国文科卒。『新日本文学』などに小説、評論を発表。1959年「無傷の論理」で芥川賞候補(この時は該当者なしだった)。その後日本民主主義文学会(当時の名称は文学同盟)に加入する。1989年『小説朝日茂』で多喜二・百合子賞受賞。
2013年10月11日に肺炎のため死去[1]。87歳没。
(中略)

郷里出身の作家でもあり、彼の作品は学生時代を中心にかなり読みました。今、本棚から取り出せる作品にこんなものがありました。また機会を改めて、紹介してみたい作品もありますが、今日は割愛します。


まさに、「すっかり忘れてました」なのです。とほほ。




岡山県では、「朝日訴訟の精神を引き継ぎ、若い世代に語り伝えること』をめざし、特定非営利活動法人朝日訴訟の会が活動を進めています。


NPO 朝日訴訟の会 ホームページNPO(特定非営利活動法人) 朝日訴訟の会

人間裁判―朝日茂の手記


会の紹介を、HPから引用させていただきます。


この訴訟は、「人が人たるに値する生活を勝ち取る」という意味で「人間裁判」と呼ばれました。第一審で画期的な勝利をえて、その後の生活保護基準の大幅な引き上げを実現し、憲法25条を絵に描いた餅にしてはならない、と生存権意識を国民の中に定着させ、日本の社会保障運動の原点となりました。

ところが、最近の社会保障をめぐる動きはどうでしょう。競争と格差社会のもとで、社会保障は後退に後退を重ね、朝日訴訟以前に引き戻すかに思われる企てさえ現れています。

こうしたとき、私たちは、あの朝日訴訟の精神に立ち返る必要があると考えました。そして、朝日訴訟の精神を引き継ぎ、若い世代に語り伝えること、これこそが、いま私たち果たさなければならない課題だと考え、ここに特定非営利活動法人朝日訴訟の会を設立しました。

朝日訴訟の会は、散逸しつつある全国の貴重な資料。そして朝日茂さんが病床にありながら書きつづった約一万通の書簡などを収集・整理・保存して、多くの方に朝日茂さんの遺志を語り伝えることで、憲法25条が保障した生存権を今一度国民の手に取り戻すことができる、と考えています。

朝日訴訟から半世紀を経た今、第2の「朝日訴訟」が起こされようとしているとき、そして憲法がその根底から踏みにじられようとしているとき、私たちは朝日訴訟の会が、多くの国民に希望を与える運動の契機となれば、これほど朝日茂さんの遺志に応えることはないでしょう。一人ひとりが語り部となり、「朝日訴訟」を語り、一人でも多くの人にその精神を伝え、社会保障拡充の運動の輪を広げましょう。




引用や過去記事の貼り合わせばかりで記事をでっち上げるのも憚られますので、最後にオリジナリティある内容をひとくだりご紹介しておきます。 


というのは、郷土出身作家だけに、ゆかりの方が地元におられるのは不思議ではありませんが、実の妹さんに偶然の機会にお目にかかったことがあります。これまでも、退職同業者の親睦組織の事はたびたび話題にしたことがありますが、そのHPに会報のダイジェストが収められています。その2019年2月号の記事に、私もその場に参加した「長寿を祝う会」という行事の記録が掲載されています。長くなりますが引用させていただきます。


(前略)今年85歳になられた植木五郎さん、井上倫子さんのお二人が出席され、支部会員ら9人がケーキとコーヒーを準備してお二人の長寿をお祝いしました。先輩を囲んだ和やかなひとときの中、歩んでこられた人生の重みを感じました。
(中略)
「教員になって初めての赴任先は蒜山高校でした。蒜山の地は私が生まれ育った所で、もともと陸軍演習場があった。実は、長兄はその演習場の不発弾で14歳の時に爆死してしまいました。また、次兄は満蒙開拓青少年義勇軍として満州に渡ったが、敗戦後の引き上げ途中に死んでしまった。そんなことから、“反戦・平和”には特別の思い入れがあって…『憲法9条を壊すな!』『アベ政治をゆるさない!』『辺野古基地反対!』などのポスターを自宅に貼って、毎日"拝んで"いるんですよ。…はっはっはっ」(植木先輩)
「私は旧満州大連生まれで小6年の時に敗戦を迎えました。引き上げ船に乗って命からがら日本に帰ってきました。その後、父親が望んでいた教員になりました。落合町上田小学校上山分校をスタートに、片上小、養護学校、盲学校と…。退職後に再び大連を訪れ、大きく変わった町の様子にビックリしました。今は運転免許を返納したので移動が大変です。でも、銭太鼓グループで活動していて老人ホームに慰問に行ったり、桃太郎体操に通ったりと毎日がとても忙しいです。…」(井上先輩)
植木・井上両先輩から生い立ちや最近の暮らしの様子・それぞれの思いなどが語られました。
続いて、集まった高退教の会員からお二人にかかわる思い出話しや先輩から教わったことなどが交流されました。(以下略)


ここで紹介されている井上倫子さんが、右遠俊郎さんの妹さんだとうかがい、驚いたことでした。確かに、旧満州大連生まれの引き揚げ者であることは作者年譜の通りですし、作品の中にも大連時代の原体験が色濃く反映されていましたっけ。(思いつくだけでも『野にさけぶ秋』、『不逞の春』所収の諸短編、『アカシアの街に』などなど--)


ちなみに、もうお一人の植木五郎さんは、私が青年教師である頃から、長く同じ職場でお世話になっただけでなく、最近も退職同業者の集まりや、年金者組合の活動など、いろいろな場所でお元気に活躍されていて、いつも励まされている先輩です。


今日はここまで。


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ちょっとピンボケ、の巻 [折々散歩]

折に触れ、このタイトルが頭をよぎります。


もちろん、これは、「元祖」戦場写真家ロバート・キャパによる世界的なベストセラーの題名。この本は、キャパが第二次世界大戦に従軍して、死線をさまよいながら命がけの撮影を続けた日々の見聞録です。



ちょっとピンぼけ

ちょっとピンぼけ

  • 出版社/メーカー: ダヴィッド社
  • 発売日: 1980/01/01
  • メディア: 単行本



ちょっとピンぼけ (文春文庫)

ちょっとピンぼけ (文春文庫)

  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2021/02/14
  • メディア: 文庫



松岡正剛さんのブログ「松岡正剛の千夜千冊」には、こう紹介してありました。


https://1000ya.isis.ne.jp/0148.html


本書のクライマックスはノルマンディ上陸のDデイ前後にある。キャパはこの史上最大の作戦を、まったく俯瞰的な目も歴史的な目も加えることなく、地べたの目で観察しつづけた。「ザ・ロンゲスト・デイ」を視覚的に捉えた世界でたった一人の男、それがキャパだった。それもそのはず、キャパは多くの戦士たちとともに真っ先にノルマンディ上陸を敢行し、敵の砲撃を雨あられと受けた先頭部隊員だったのである。「ちょっとピンぼけ」とは、そのときの写真のことをさしている。キャパの手は震えていたのであった。


もちろん、その時代、オートフォーカスカメラなど存在しませんから、ピント合わせは完全手動。「ちょっとピンぼけ」ちっとも恥ずかしいことではないでしょう。


一方、この私、せっかくのAFカメラを持ちながら、ピンボケ量産。恥ずかしいやら情けないやら、、です。


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ある珍鳥を狙って、山深い滝の辺りを訪ねました。お目当ての鳥は、幽かに前方をよぎったような気もしましたが、はっきりとは確かめることができませんでした。それとは別に、遠くの方に、コバルトブルーの姿を見かけたので慌てて写してみたのですが、、、、岩しか確認できませんね。大幅にトリミングすると---。


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期待したとおり、ルリビタキ♂のようですが、残念なピンボケ・手ぶれでした。写しなおす暇もなくすぐに飛び去ってしまいました。


私にとっては最高級機材であるPENTAXk5Ⅱ+AFBORG60EDなのですが、暗さと距離には敵いません。


ピンボケその2。


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昨日歩いた山道で、向こうの木の枝に飛んできてヒョイと止まった鳥が、なんだか珍鳥のように見えました。慌ててカメラを用意して写しましたが、、、残念至極のこの結果。


トリミングします。


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トラツグミではないかと思ったのですが、これでは証拠にもなりません(トホホ)


この時持っていたカメラは、FUJI FINEPIX S1。ピッタリ合焦すればなかなかの写りなのですが、合焦させるのが難しい、、、。


アトリ。


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ビンズイ。


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ヤマガラ。


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シロハラ。


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ジョウビタキ。


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ヒドリガモ。


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オナガガモ。


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ノートリミングでこれだけ大きく写せるので便利なんですがねえ。


ところで、「ちょっとピンぼけ」のロバート・キャパが、どんなカメラを使っていたか、ちょっと気になり、調べてみました。


ロバート・キャパは、本名フリードマン・エンドレ(フランス語読みでアンドレ・フリードマンとも)というユダヤ系ハンガリア人で、学生時代、左翼運動に加担したとして逮捕され、釈放後ドイツに渡るも、経済的困難から暗室助手兼雑用係として働きます。これが、写真の道を歩み始めるきっかけとなります。彼が最初に使ったカメラは、その頃上司に渡された「ライカ」。彼の本格的なデビュー作となった1932年のトロツキー演説の撮影もこのカメラでした。銃を警戒して大型カメラを嫌う警備陣の隙を突いて撮影に成功したのは、小型の『ライカA型』のおかげだったと言われます。


 


パリに活動舞台を移したアンドレ・フリードマンは、ゲルダ・タローという女性と出会い、愛をはぐくみます。架空のアメリカ人写真家「ロバート・キャパ」はアンドレ・フリードマンとゲルダ・タローの合作として歩み始めたのでした。この頃、アンドレは「ライカ」、ゲルダは「ローライフレックス」を主に愛用していたといいます。


ゲルダが、1937年、スペイン内戦の取材中に、事故で死亡したあと、キャパは、小型カメラとともにゲルダ愛用の「ローライ」をも取材に用いるようになったと言います。(小型カメラも、「ライカ」に換えて、「コンタックス」を使用することが多くなったそうです)。「ローライ」は、腰のあたりに構えて撮影する中型の二眼レフカメラで、ポートレートの撮影に好適と言われます。機動性が求められる戦場においては、身の危険を伴う選択とも言えたでしょうが、前述のノルマンディー上陸作戦の取材で、キャパは2台のコンタックスとローライを携えたと伝えられます。


キャパの最期を、ウィキペディアはこう伝えています。


1954年4月に日本の写真雑誌『カメラ毎日』の創刊記念で来日、市井の人々を取材した。程なく東京で『ライフ』から第一次インドシナ戦争の取材依頼を受け、北ベトナムに渡る。5月25日、午前7時にナムディンのホテルを出発、タイビン省のドアイタンにあるフランス軍陣地に向かう。午後2時30分ころドアイタンに到着。2名の後輩カメラマンと共にフランス軍の示威作戦へ同行取材中の午後2時55分、ドアイタンから約1キロの地点にある小川の堤防に上った際に地雷に抵触、爆発に巻き込まれ死亡した。


このとき、彼が使っていたのは、『コンタックス』と『ニコンS』だったそうです。『ニコンS』のワケは、『毎日新聞』による招待旅行が「提供される日本製カメラでの撮影」という条件つきだったからですって。


福島・宮城を襲った大規模地震、森喜朗元首相の問題発言騒動、実効あるコロナ対策などなど、コメントすべき重大事が数あるなかで、「ちょっとピンボケ」の今日の話題、、、大変失礼致しました。


今日はこれにて。


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サクラサク、の巻 [折々散歩]

近所の散歩道の紅梅が咲き誇っています。

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先日の半田山植物園では、咲き始めた紅や白のシダレウメがよい香りを漂わせていました。

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桜も、咲いていましたよ。

コブクザクラ。花一輪につき2~3個のサクランボがなることから、子宝に恵まれたものとして「子福桜」と名付けられたのだそうです。

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そして10月桜。

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控え目で質素な桜、というイメージを持っていましたが、艶やかなピンク色の花を咲かせていました。

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これらは、冬桜の仲間ですので、寒風のなかで咲いていても別に驚きませんが、こちらは、より春を感じさせます。

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昨日阿部池畔で見かけた河津桜です。

古い記事をひもといてみますと、こんなことを書いています。

◇牡丹雪や遊ぶタゲリにミコアイサ(2014-02-06)

昨日は、所用で出かけたついでに、岡南飛行場・阿部池の方面を歩いてみました。
岡南飛行場は、以前は地方空港として、旅客機も発着しており、私も一度だけ、まだ幼かった子ども達と妻と一緒に、ここから東京行きのYS11に乗った記憶があります。正月の移動に、ほかの交通機関の予約が取れなかったせいでした。

あたかも、360ccくらいのエンジンの旧タイプの軽四で高速道路を走るような、振動とエンジン音、風切り音をとどろかせて、頑張って飛ぶYS11を、いとおしく感じたものでした。

今では、軽飛行機やヘリコプターなどの飛行場として利用されており、隣接する阿部池と相まって、季節の野鳥の姿を見ることのできるエリアとなっています。

(中略)

飛行場の敷地内に、タゲリがいました、

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タゲリの群れです

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(中略)

岸辺に植えられている早咲きの河津桜 は、さすがにつぼみが堅いですが、わずかにほころびかけている様子にもみえます。でも、この冷たさには驚いているでしょう。

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昨日の阿部池畔の河津桜も、ほとんどが蕾状態でしたが、日当たりのよい場所の1・2輪が咲き始めていたのでした。

特別に珍しい鳥hakkenできませんでしたが、いろいろな鳥に会いました。

オオバンの群れ。これだけいると壮観です。

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マガモの群れも、ひなたぼっこしたり悠々と泳いだり。

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メジロも活発に枝から枝へ渡っています。

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ジョウビタキ♀

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こんな鳥も飛んでいます(オマケ)。

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帰り道、ほとんど我が家の近所に帰り着いた頃、田圃に見覚えのある鳥影を見つけました。実に久しぶりのタゲリです。未練は残りますが、運転中の事ですので、カメラを向けるわけにも行かず、そのまま見過ごしました。

が、やはり心残はいかんともしがたく、昼食後、改めてその方面へ午後の散歩に出かけてみました。有り難いことに、見当をつけたあたりに、それらしい姿を見つけることができました。近付くと飛び去り、遠く離れた場所に舞い降りる、の繰り返しですが、なんとか証拠写真を残すことができました。

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そしてやっぱり、この鳥たちにも会いました。

メジロ。

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ジョウビタキ♀

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ジョウビタキ♀

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そして、オシマイは、スズメ咲く。

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今日はこれにて。


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節分雑話、の巻 [今日の暦]

今日は節分。2月2日が節分になるのは、1897(明治30)年以来124年ぶりだそうです。節分や立春について書かなければという強迫観念があるのでしょうか、これまで何度も話題にしてきました。



桃尻考、の巻(2019-02-01)


立春も近いと言うに、、、の巻(1)(2018.01-31)


節分にちなんで、の巻(2017.02-03)


福は内 福は内とて 春待たる(2014-02-03)


 


これらの過去記事をネタに、ある「会報」に投稿する予定原稿を書いています。フライングでご紹介します。




駄句駄句御免


(1)今年の年賀状に、こんな駄句と絵を載せました。


ガースーもコロナも祓え木彫り牛


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そのココロは、次の文章のとおり。


カットの赤牛は、公民館講座のつながりで頂戴した手づくりの木彫りに、妻が色つけし、スケッチしたもの。制作者の方は、毎年の干支を作品にしておられるそうです。


会津の郷土玩具「赤べこ」の張り子は、疫病除として知られていますが、この赤い木彫牛も霊験あらたかに違いありません。


まずは、何よりもコロナ禍を、そして国民の不安と不幸を増大させている「ガースー」禍も、いっぺんに祓(はら)ってほしいものです。


(2)節分に当たり、同工異曲の句で遊んでみました。


ガースーもコロナも払え鬼遣(や)らい


今日の節分行事の起こりとされる「鬼遣らい」、または「追儺(ついな)」について、ものの本にはこうあります。


「追儺、一に鬼やらいともいう、我が朝廷年中行事の一にして、毎年十二月晦日、疫鬼を払はんが為めに行われたる一の儀式なり、(中略)戦国の世に至り廃絶し、僅に各地の神社等にその型を残す、江戸時代に於ては、十二月節分の夜、江戸城中も民間も、共に柊の葉にゴマメの頭を付けて入口に挿み、年男礼装して豆を打ち、鬼を追ふまねす、之を近世追儺とは称したり」(『画題辞典』斎藤隆三)


そう言えば、以前、アジア人留学生相手の日本語授業で、節分を題材にしたプリントを作ってみました。少しだけご紹介します(一部改作。また、実際には漢字の多くにふりがなを施していますが、煩雑になりますので省略)。


一年を24等分する暦「二十四節気」の中に、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」と呼ばれる日がありますが、それぞれの前日を「節分」と呼びます。「季節を分ける日」という意味です。節分の風習は. 奈良時代頃、中国から伝来し、 平安時代に宮廷の行事として定着したと言われます。節分は、もともと一年に四回ありますが、なかでも「立春」が一年の始まりとして、とくに尊ばれたため、節分といえば次第に春の節分のみをさすようになったようです。

古来、季節の変わり目には鬼が出ると言われていて、節分に豆をまいて鬼を追い払う行事は、室町時代から続いています。

豆まきは、普通、「福は内、鬼は外」と掛け声をかけます。これは邪気=鬼を払って福を呼び込むということですが、場所によっては「鬼は外」という言葉を言わなかったり、「福は内、鬼は内」というかけ声をかけるところもあるのです。


鬼とは詰まるところ邪気、災厄の象徴。さしづめ、当面する最大の災厄は、コロナ禍。そして、それに勝るとも劣らぬガースー禍でしょうか。いま、アニメ「鬼滅の刃」が大ブームで、ひたすら心身を鍛えて鬼に打ち克とうと励む少年の姿が共感を呼んでいるようです。これに倣って、全集中で「鬼遣らい」に挑みたいものです。


(3)私的ブログの、過去記事に「唯々諾々 駄句駄句」(ただただだくだく)」という文章を書いたことがあります(2019年2月5日付)。


【節分】


福は内福は内とて豆を蒔く


「鬼は外」敢えて小声の鬼遣らい


追はれたる鬼の子雨に寒かろう


(中略)童話「おにたのぼうし」もまた、「鬼は外」のかけ声をためらわせます。
おにたは黒鬼の子どもです。


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おにたは、きのいい おにでした。きのうも まことくんに、なくした ビーだまを こっそり ひろってきてやりました。このまえは、にわかあめのとき、ほしものを、ちゃのまに なげこんでおきました。おとうさんの くつを ぴかぴかに ひからせておいたことも あります。でも、だれも おにたが したとは きがつきません。
まめまきの おとを ききながら、おにたは おもいました。(にんげんって おかしいな。おには わるいって、きめているんだから。おににも、いろいろ あるのにな。にんげんも、いろいろいるみたいに。) そして、ふるい むぎわらぼうしを かぶりました。つのかくしの ぼうしです。こうして、かさっとも おとをたてないで、おにたは、ものおきごやを でていきました。


おにたは粉雪の舞う寒い路地をさまよいますが、どの家も玄関に鬼よけのひいらぎが飾られていて入ることができません。とおりかかったトタン屋根の水簿らしい家には柊も飾られて織らず、豆のにおいもしません。その家に住むお母さんは病気で伏せっており、女の子が献身的に看病していました。 おにたはお腹をすかせた女の子のために食べ物を調達し、節分であまったご馳走だと言って、差し入れします。


「あたしにくれるの?」 そっと ふきんを とると、あたたかそうな あかごはんと うぐいすいろの にまめが ゆげを たてています。おんなのこの かおが、ぱっと あかくなりました。そして、にこっとわらいました。

おんなのこがふっと なにか かんがえこんでいます。「どうしたの?」 「もう みんな、まめまき すんだかな、と おもったの。あたしも まめまき、したいなあ。」 「なんだって?」「だって、おにが くれば、きっと おかあさんの びょうきが わるくなるわ。」 おにたは てを だらんと さげて ふるふるっと かなしそうに みぶるいして いいました。「おにだって、いろいろあるのに。おにだって……」 こおりが とけたように、きゅうに おにたが いなくなりました。あとには、あの むぎわらぼうしだけが、ぽつんと のこっています。


さらに駄句。


恵方巻黙して喰うは至難哉


豆撒きも兄弟げんかの種となり


【立春】


春立てば風てきめんにやわらかく


春立つ日窓全開にドライブす


春立つや足腰の痛みやわらぎぬ


疼痛の癒ゆる道理冬果つる


(4)この年の立春は、文字通り春の陽気を連れてきたのでした。厳寒に見舞われた今年も、遅ればせながら、早春の花々が春の訪れを告げています。いずれも2月1日、半田山植物園で写しました。


まずは、セツブンソウ。名前の通り節分の頃咲きます。


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フクジュソウ。


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ソシンロウバイ。漢字では素心蝋梅と書くそうで、黄色一色のロウバイです。


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マンサク。「先ず咲く」から名付けられたとも「豊年満作」からとも言われています。いろいろな品種があるようです。


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マンサク咲いてコロナの冬は果てぬべし


きょうはこれにて


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