久々の機材ネタ、の巻 [趣味]
久々の機材ネタです。
昨日の記事の写真、カワセミだけはPENTAXK5Ⅱ+sigma APO 120-400mm F4.5-5.6 DGで写しましたが、アジサイ、バラは、OLYMPUS OM-D E-M1にフォーサーズアダプターを介してZUIKO DIGITAL 35mm F3.5 Macroを装着したものと、リコーGXR+MOUNT A12にPENTAXkマウント用変換アダプターを介してsmc pentax M50mmf1.7つけたセットで、撮り比べてみました。文字で書くと長くなりますが、実際はコンパクトサイズの2台です。
前者は、マイクロフォーサーズのカメラに、もはや現役を退いた旧世代のフォーサーズレンズをセットしたものですが、私の所有レンズでは比較的新しいし、マクロレンズは楽しいな(2013-08-28)の記事で話題にしたマクロレンズです。(その後故障して中古で買い換えましたが)
ところがお立ち会い。ここにとりいだしましたるこのレンズは、ここにあるあそこにあるという、ありきたりのレンズではござらぬ。ほかのレンズとどこが違うかと申すに、①安い(マクロレンズとしては)、②軽い。③写りがよい。
OLYMPUS ZUIKO DIGITAL35mm1:3.5MACROです。(この写真は、1.4倍テレコンバータをつけているので、少し長く見えますが、レンズ本体は、すごくコンパクトです)
(中略)最近滅多に持ち出すことのなかったE420に、軽いマクロレンズを装着してみてはどうかという誘惑が頭をもたげ、PENTAX機+トキナー90mmMACROというお気に入りのコンビと競合するシステムに手を染めてしまったのです。
いつもながらに自己嫌悪とともに使い始めたこのシステムでしたが、、、、とてもいいです。
バッグに、もう一台K5Ⅱ+望遠ズームを入れて出かけても、軽装の範囲内です。
肝心の写りは?マクロレンズとしても、標準レンズとしても、申し分ありません。解像度といい醸し出す表情といい、所有レンズのなかでトップクラスと思えます。ここ23日の散歩に持って出ましたので、画像を少し紹介します。
ここまでの、知ったかぶりのウンチクは読み飛ばして、マクロの世界を楽しんでください。
実がはじけたゴーヤです。
ここまでベタほめしたレンズですので、写りが悪いはずはありません。
例えばこんな写りです。昨日の記事への積み残しを少しだけご紹介します。
もう一方の組み合わせは、紅葉も銀杏も今が盛りの後楽園、の巻(その3)(2019-11-26)の記事などでも紹介しました。
RICOHGXR+A12+Smcpentax m50mmf1.7。レンズは、比較的コンパクトな方ですが、フィルム時代の金属鏡筒オールドレンズですので、かなりズシリときます。しかも、必要な接続用アダプターを加えると、結構かさばります。マニュアル露出、マニュアルフォーカスで、注意深く撮影しても、思い通り写っているとは限りません。でも、そこにフィルムカメラみたいな味わいがある、といってみると、いっぱしの趣味人のようですな(笑)
このレンズについて書いた過去記事も再掲しておきます。
異邦(とつくに)のひとらと躑躅愛でにけり(2015-04-30)
この園を訪問するたびに思いますが、日本人の来園者よりも、外国人、とりわけアジア系の観光客の方が目につく気がします。日本人のツアー客かと見ていると、聞こえてくる言葉が違うことに気づくこともしばしばあります。
この日は、東洋系の外国人客も見受けましたが、西洋人の団体客らしい一行を目にしました。英語圏ではない言葉が聞こえてきたようにも思えました。しかとはわかりませんけれど。異邦(とつくに)のひとと躑躅を愛でにけり
いずれにしても、海外の方が、「和」の世界に触れてくださることは歓迎です。
そのような事情で、今日の記事は、躑躅三昧の似たような写真ばかりの羅列になりました。
これでも、当初のセレクト画像を、気がとがめてかなり割愛しています。「フォト蔵」を訪ねていただきますと、もっと多くのツツジの写真をストックしておりますので、ご覧いただければ幸いです。
携行カメラは、野鳥との出会いを期待してpentax K5Ⅱ+AFボーグを準備するとともに、そのAFアダプターに、久しぶりに古い古いMFレンズ、pentax M50mmf1.7を換装しながら使う計画でした。このレンズは、私が最初に買った一眼レフ機PENTAX MEに付属の標準レンズでした。その時のレンズそのものは、AF時代に対応したシステム変更に合わせて、カメラごと中古で(安く)買い上げて貰ったのですが、しばらく経ってからまたマニュアルカメラが欲しくなって、同じカメラを中古で買いました。その際このレンズも着いていました。特段の特徴のない、平凡なレンズですが、そのコンパクトな姿は「ベストサイズ」という感じがして愛着がありますし、時々使ってみるたびに、決して悪い写りではないと、その都度確認している次第です。
ですが、いろんないきさつで手元にある「pentax M50mmF1.4」や、リコー製の、「和製ズミクロン」こと「XR RIKENON 1:2 50mm」、あるいはまた、m42スクリューマウント(ネジ込み式マウント)の「Super-Takumar 1:1.8 55mm」など、同じような画角の標準レンズに出番を譲ることが多いのです。
以下の写真は、そのM50mmのものです。
またまた脱線が過ぎました。でも、意外に侮れない写りを見せてくれるので、時々思い出したように使って見るのです。
何か撮影意図があったかのような(笑)「作品」になりました。
今朝の朝散歩も、この組み合わせをもち出してみました。
路傍のコスモス。
ヤグルマギク。
タチアオイ。
オオキンケイギク。
ポピー。
チェリーセージ?
刈り入れが終わった麦畑。
刈り入れを待つ麦畑。
きょうはこれにて。
不要不急ではありますが、の巻 [折々散歩]
緊急事態宣言延長の見通しだそうです。それ自体は妥当な措置だと思います。問題は事ここに至ってもオリ・パラに固執する菅政権の無謀(GOTOを超えるインパール作戦!?)。そして、「菅首相が中止を求めたとしても、それは個人的な意見に過ぎない。大会は開催される」(ディック・パウンド元副会長)、「(緊急事態宣言が出ていてもオリンピック開催は)絶対できる(absolutely yes)」(ジョン・コーツ副会長)、「東京大会を実現するために、われわれはいくつかの犠牲(sacrifice)を払わなければならない」(トーマス・バッハ会長)(後に「われわれ」は「日本国民のことではない」と説明)と居丈高にそのビジネス要求を突きつけてくる拝金IOC。
最新の世論調査(25日付「東京新聞」 都内有権者対象)では,内閣「支持」16.1%「支持しない」64.4%,オリ・パラ「中止」60.2%だそうです。いい加減には、自分の置かれている状況を、わきまえてヨネ。
「不要不急の外出」は自粛です。きのうは、予定されていた集まりが中止(延期)になりました。それに向けて、命じられていた原稿は仕上げていたのですが、先送りとなり、不完全燃焼の気分です。ま、一日予定が空いたので、郷里の父の通院を手伝える事になりました。九州方面では酷い豪雨に見舞われたご様子。こちらはそれほどではないけれど、午前中はかなりの強い雨でした。
ようやく午後は雨も上がり、帰り道、後楽園にでも寄ってみようかとも思いましたが、まだまだ休園。図書館も閉館ですが、返却だけはできるそうなので、借りていたCDを5本返却ボックスに返しておきました。
きょうは、うって変わって晴れました。
日の出の頃の田園風景。
梅雨の隙間を縫って、麦の刈り入れがすすんでいます。
道端にこんな薔薇が咲いています。
タチアオイも季節です。
朝の散歩も、「不要不急の外出」ではありますが、換気抜群の開放空間ですし、2m以内に人と接することもありません。それでも、散歩者の皆さんはマスクを着用されてますので、私も念のためにそうします。
当面差し迫っていた原稿は書き終えたし、録画番組ばかり見続けるのも身体に悪いし、時間を持て余すので、感染予防対策をして出かけたい欲求がつのりますが、行き先に困ります。
なんと、意外にも、自然環境体験公園も入り口が閉まってました。
そこで思い出したのが、バラやアジサイが楽しめる種松山公園。久しぶりに行ってみました。
アジサイは、咲き始め、といった感じ。
色がまだ淡いです。
バラは、ちょうど良い見頃の時期でした。
それと、こんな出会いもありました。
今日はこれにて。
まだまだしつこく「雨の後楽園を憶う」ノダ、の巻 [折々散歩]
麦の穂が日に日に熟していきます。
5月18日の麦畑。まだ青い部分があります。
こちらはまだまだずいぶん青く、麦の種類が違うようです。小麦かな?
5月22日(土)の朝です。
そして、昨日5月23日(日)の朝。
麦畑をかすめるようにツバメが飛びます。
かくれんぼして遊ぶスズメ。
麦畑といえばヒバリです。
空高く舞い上がってけたたましく囀るヒバリ。
昨日は、余りの快晴で、夏日を記録しましたが、きょうは昼前から雨。「梅雨冷え」でふと寒さを感じると、すわ体調異変かと心配してしまうのは、ご時世ですな。
田舎の老父は先週、コロナのワクチン接種を済ませ、妻は今日行ってきました。父はかかりつけ医で、スムーズに予約でき、妻は私がネット予約のお手伝いをしました。私はというと、予約受付開始日を2・3日過ぎてネットで探ってみると、ちょっと出遅れたせいで、少しでも受診履歴のある医療機関は軒並み予約不可の×印が表示されています。慌てて先を争うほどの意欲は持ち合わせていませんが、いざ選択肢が狭まってくると、ちょっと焦ります。ダメ元で、かかりつけ医に電話してみると、ネット予約には対応してないが電話予約OKということで、ホッとしました。ただし、一回目が7月2回目が8月の予約で、7月いっぱいに接種終了という政府のアナウンスからすると、遅かりし由良之助です。未だにパラ・オリを断固実施と言い張っているお偉方に聞きたい。優先だという高齢者の接種でさえこの状態、活動力旺盛な若者達を、無防備のまま、海外のお客様達と接触する場にさらすのは、どんな神経に基づく英断なのでしょうかねえ?
くどいですが、野外の空間である後楽園は、休園が続いています。そして、HPにはこんなお知らせが掲載されています。
茶つみ祭<2021年は中止となりました>
更新日:2021年04月30日
新型コロナウイルス感染症の拡大状況を踏まえ、5月16日(日曜日)に開催する予定でした「茶つみ祭」は中止することとしました。
御理解と御協力をいただきますようお願いいたします。
茶つみ祭というのはこんなイベントです。{後楽園
HPより引用)
5月/第3日曜日「茶つみ祭(ちゃつみまつり)」
午前10時30分~、午前11時30分~、午後1時30分~ 各回20分程度
昭和31年から行われている行事。
岡山県の茶処、美作市海田の茶摘み踊り保存会の皆さんによる、昔ながらの茶つみと茶つみ踊りをご覧いただきます。
紺がすりに赤だすき、手っ甲脚絆に姉さんかぶりの茶つみ娘が、茶の新芽をひとつひとつ丁寧に摘み取っていきます。茶つみ体験もできます。
茶摘みの歌が思い起こされる行事ですね。
夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
あれに見えるは茶摘みぢやないか
あかねだすきに菅(すげ)の笠
岡山県立図書館「デジタル岡山大百科」掲載の動画をお借りします。
私も、以前、たまたま巡り合わせでそのイベントが行われているさなかに後楽園を訪れたことがあります。大勢のカメラマンさんが、カメラを向けている一大イベントでしたが、ちょっと個人的事情から気後れして、写真は残しておりません。「個人的事情」といいますのは、実は、「岡山県の茶処、美作市海田(かいた)」というのは、私の郷里のすぐ近所なのです。しかも、そこは、私の叔父母(既に故人ですが)が住んでいて、従弟妹もいました(今は土地を離れていますが)ので、子ども時代良く泊まりがけで遊びに行った土地なのです。私の学生時代、そこに泊めてもらって、母校まで教育実習に自転車で通ったこともあります。
「茶つみ踊り」を演じる「娘さん」達も、多くは母校の後輩たちであろうかと思われて、趣味の写真の被写体とするには、余りに身近すぎて面はゆく感じられたのでした。
その「茶つみ祭」が行われるのは、下の地図の⑬「茶畑」です
こんな過去記事で、触れたことがあります。
時雨るるや後楽園は緋も新た
見上げるほどの柿の高木に、見事に色づいた柿の実が鈴なりです。その下の建物は、「新殿」または「新御殿」と呼ばれる高床式の建物です。
手前の綺麗に刈り込まれた低木は、茶の木です、ちょうど可憐な花が咲いていす。
⑮「沢の池」は、後楽園らしい眺めの代表のように、私のブログでもしょっちゅうご紹介する場所です。
沢の池には、3つの島、中の島、御野島、砂利島があります。中の島には、島茶屋が建ち、小さな木橋が架けられています。
木船が係留されているこの『和』の風景も格別です。
後楽園案内のにわかシリーズ、ひとまずこれで終わります。おそらく、またまた話題にすることもありましょうが、それまでしばらくお休みです、今日はここまで。
梅雨晴れ間に雨の後楽園を憶う、の巻 [折々散歩]
梅雨晴れ間の今日、気温はうなぎのぼりです。
涼しいうちの朝散歩。
麦がすっかり色づいています。
空を見あげてみると、快晴です。
上の画像、中心部分をトリミングして見ると、
ミサゴです。獲物をつかんでねぐらに向かってるところでしょうか。午前5:38の撮影です。家族の朝餉でしょうか?
朝散歩では、日々田園風景を撮影していて、ストック写真が少々溜まってますが、またの機会に紹介させていただけたらと思います。今日の記事は別の話題。
緊急事態宣言が出されて、公的施設の多くが閉ざされていて、後楽園も休園ですので、しばらく行けていません。前回見学したのは5月5日でした。梅雨入り前でしたが、かなりの雨の中の散歩の記事は、こんな風に書きました。
防塵防滴カメラ、の巻
雨の後楽園続いてます、の巻
きょうはその続きを書いておきたいと思います。
「後楽園の歩き方」という園内マップのうち、「じっくりコース」を再掲します。
④「二色が岡」に関連して、紹介し忘れた写真がありました。
後楽園のHPにこんな記事があります。一部を引用します。
2.築庭当時の風景 -後楽園の歴史あれこれ-
特に、園の南西部に位置する二色が岡は藩主がくつろぐ延養亭や栄唱の間の南に広がる前庭でもあり、春の花、秋の紅葉が壮観な眺めであったと想像できます。建物と二色が岡の間には花葉の池が広がり、巨岩の大立石[おおだていし]がどっしりとした風格を加えています。
この大立石は、元禄時代初期に巨岩を九十数個に割って運び、元の形に組み上げたものだそうです。
さて、この地図の⑤~⑧については、前回記事と重なる部分が多いので、省略します。
⑨花交の池について、後楽園HPから引用しておきます。
築庭当時は山桜などの入り交じった景色で、池辺には花交という名の建物があり、池や滝にはその名が残りました。 江戸時代の和歌には、花の色が滝の水によってさらに美しく見えるという風情が詠まれています。
この池で、何度かカワセミを写したことがありました。探してみましたが、その時の記事が見つかりません。「花交の滝」について書いた記事は見つかりましたが、、。
蓮池にとぷり湯浴みの夏蛙
「花交の池」に向けて飛沫を上げて流れ落ちる「花交の滝」。目にも肌にもひんやりとした空気が伝わり、清涼感たっぷりです。これからの季節、絶好の納涼スポット。
時雨るるや後楽園は緋も新た
「花交(かこう)の滝」周辺の紅葉。
⑩「茶祖堂」は花交の池に接した歩道脇に建つ茶室です。
下は後楽園HPの記事。
もとは利休堂(りきゅうどう)といい、幕末の岡山藩家老の下屋敷(しもやしき)から移築された茶室で、千利休を祀っていました。 戦災で焼失し、昭和三十六年に再建し、岡山出身で日本に茶を伝えた栄西禅師を合祀したため茶祖堂と改めました。
上の地図では経路から外れていますが、花交の池の裏側(北側?)に、花交の滝へと流れ込む水路があり、それに沿って細い径が通っています。
見下ろす角度で、しぶきを上げて流れる水が清冽です。
ファインダーのせいかと思っていたら、雨のため、レンズが曇っていました。フォギーフィルターの効果みたいです。
引き返すことになりますが⑪「千入の森(ちしおのもり)」。これまたHPの記事を借ります。
春の芽吹きと、錦織りなす秋の紅葉が美しい楓林で、古くから園内名勝の一つです。 千入とは幾度も染めるという意味で、築庭当時からこの名が付いています。 園路をへだてた向かいには、弁財天堂(べんざいてんどう)と稲荷宮(いなりぐう)があります。
隣り合って梅林があります。
シダレウメは、実もしだれています。
⑫「井田(せいでん)」
同じくHPより。
昔は園内に広く田畑が作られていましたが、今は井田だけがそのなごりを伝えています。 井田とは中国周時代の田租法で、本園では幕末に田畑の一部を井田の形に作りました。 毎年六月の第二日曜日には、お田植え祭を行っています。
正面奥に岡山城を望みます。
方角をかえてみます。一面にレンゲの花が咲き広がっています。
正面に見えているのは「新殿」です。
サツキ、ツツジに彩られて、いつになく華やかに見えます。
秋~初冬の様子はこんな記事に書きました。
岡山後楽園の鳥たち 追補(シジュウカラ、メジロ、ツグミ、シロハラなど)(2015-01-26)
この記事で書いた新殿のほとりの柿の木に、たわわに実る柿の実がすっかり熟したようです。
鳥たちが賑やかに歌いながら、饗宴に興じています。
大食漢のヒヨドリが、大胆にかじったりすすったり、大騒ぎです。メジロの群れも、負けじと大忙しです。
岡山後楽園の柿の木に遊ぶメジロ posted by (C)kazg
順路はまだ続きが残ってますが、やっぱり途中でギブアップです。モチベーションが湧いてきたら、続きを書きたいと思います。そうこうするうちに、季節がすっかり進行しているかも知れません。
今日はここまで。
追伸、キリル文字の迷惑コメントに対して、 ChinchikoPapa様から有用なアドバイスをいただきました。キリル文字の特徴的な文字を、「禁止Word」として登録すべしというアイディアです。早速試してみています。ありがとうございました。以前、迷惑コメントに含まれているいくつかの語を抜き出して、「禁止Word」に登録してみたことはあったのですが、あまり効果がありませんでした。これでは効き目のある「禁止Word」にはならなかったのですね。なるほど、文字そのものをターゲットにしてやれば、効果絶大ですよね。感謝です。
当地も緊急事態宣言真っ只中、の巻 [日録]
公私ともに、ちょっと忙しがっている間に、いろいろなことがありました。
中でも影響が大きいのは、我が県もコロナの蔓延がとどまるところを知らず、緊急事態宣言が出されたこと。
こちらは、県のHPです。
10万人あたりの感染者数は、あの大阪を抜いて第3位だそうです。容易ならざる事態です。
その影響で、予定がいろいろ変わり、生活スタイルの変容も余儀なきところです。
小5の孫は、今日予定されていた「海の学習」が中止になり、給食はないのでお弁当を持って学校で授業だそうです。部活に熱中している中二生も、高校生活余すところ僅かの期間の部活に未練を残す高三生も、しばらく部活は休止。思うようには参りません。
毎週水曜日に通っている教員相談のボランティアも、相談活動休止ということになり、そのためきょうはスケジュールが空いて、郷里の老父母を訪ねることができます。
予定されていた集まりも、つぎつぎに中止になりました。大きなものとしてはこれも中止。
その前日、土曜日にはこの「つどい」がありました。
会場参加のリスクも慮られ,web参加にしようかと、直前まで迷いながら、結局は出かけてきました。
講師の鈴木大裕さんはこんな人。こちらに記事多数https://webronza.asahi.com/authors/2018061800002.html
鈴木大裕(すずき・だいゆう) 教育研究者 土佐町議会議員
16歳で米国に留学。1997年コールゲート大学教育学部卒、1999年スタンフォード大学大学院修了(教育学修士)。日本に帰国し2002年から千葉市の公立中に英語教諭として6年半勤務。2008年に再渡米し、フルブライト奨学生としてコロンビア大学教育大学院博士課程へ。現在は高知県土佐町で教育を通した町おこしに取り組むかたわら、執筆や講演活動を行う。著書に『崩壊するアメリカの公教育:日本への警告』(岩波書店)
鈴木氏は、「先生」ではなく「ダイユー」と呼んで欲しいとおっしゃいます。で、私も、会場での質問・発言のなかで「ダイユーさん」と呼びかけてしまいましたが、いろいろ言ったあとで、「退職教員や、現役の教師に対していいたいことをひと言で」なんて、チョー安直な、かつ難しい質問をしちゃいました(油断してたのに、いきなり「当てられ」て発言機会を与えられ、考える暇もなかったので)。
ダイユーさんは、「退職教職員は『希望の星』、いろいろな活動に、元気に伸び伸びと参加している。”良い時代”を知っている皆さんが、今の絶望的な状況しか知らずに日々呻吟している現職の人たちに、あるべき教育や職場の可能性に気づかせる役割を果たしてほしい(kazg勝手訳)」旨強調されました。
確かに、私たちは「良い時代=まっとうな時代」を知っていて、それがだんだんと冒されてきた経過を身をもって体験してきた世代です。
そのあたりの愚痴は、以前こんな記事に書きました。
はてさて?大競争狂騒曲とな?の巻
以前(2004年)、こんな文章を、ある教育系雑誌に投稿したことがありました。「10年ひとむかし」と言いますがそれ以上の昔の話です。でも、読み返してみて、今なお、根本的な変化(改善)は、認められないと思えましたので、ここに再掲させていただきます。
岡山発「大競争」狂騒曲
一、トカトントン、あるいはハラホロヒレ
太宰治に「トカトントン」という小品がある。玉音放送の後、なお「徹底抗戦、自決」を叫ぶ若い中尉の姿に厳粛を感じた「私」は、「死のう、死ぬのが本当だ」と決意する。が、折しも兵舎の屋根からトカトントンと金槌の音が聞こえ、なぜか途端にすべてが白けてしまう。高校教師出身のミステリー作家、北村薫氏が、エッセイ集『謎物語ーあるいは物語の謎』で、これに触れておられるのを、最近、愉快に読んだ。
「たとえば、太宰の『トカトントン』を読んで、何も見えない人に向かい、《トカトントンはハラホロヒレである》と言ってしまうのが評論家ではないか。そのおかげで何かが見え、《ああ、そうか》という人が出て来る。/すると別の評論家が《いや、あれは断じてハラホロヒレではない。ガチョーンである》と演出するのである。そこで、まことに不敬ではあるが《トカトントン》を《ハラホロヒレ》に差し替えれば、こういうことになる。/もう、この頃では、あのハラホロヒレがいよいよ頻繁に聞こえ、新聞を広げて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、ハラホロヒレ、局の人事について伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮かんでも、ハラホロヒレ、(中略)もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもハラホロヒレ、自殺を考え、ハラホロヒレ。」(中公文庫p二一〇)
二、「人皆か 吾のみやしかる」(山上憶良)
私は、五年間の夜間定時制経験を経て、「普通科単位制」を掲げる現任校での三年目を迎えている。当初、高速道路に自転車で迷い込んだような不安と居たたまれなさに、心身の不調が続いた。ある不登校経験者は、「校門が近づくと、ゴオッと大型ダンプに襲われるような威圧感を覚えた」と述懐していたが、今日の学校状況に内在するある種のテンションは、教師をも射すくめるものらしい。定時制では、多くの生徒が「三K=競争・脅迫(強迫)・強制が少ないから好き」と異口同音に語るが、その受容的な空気やゆったりとした時間感覚の対極に、今置かれている、と感じる。
もう十年近く前、高一で不登校のただ中にあった我が長男が、一切の「学校的なもの」に、怯え混じりの嫌悪を示したことがあった。その感性に波長をシンクロさせることで自己の安定を維持してきたせいか、私には「学校の息苦しさ」に過敏に反応する傾きがあるのだろうか。あるいは、五十代に入り教職最後の十年を消費しつつある私の適応能力にとって、環境の変化がいささか過酷に過ぎたかもしれないと解釈してもみる。
三、「一将功成って万骨枯る」(曹松)
だが、それらをさておいても、職場は多忙だ。どの学校でも、年々それは強まっている。
新指導要領実施に伴い、「総合的学習」の導入、シラバス(年間授業計画)作成、観点別評価など、教育内容・実務において激変とも言える変化が生じている。学校五日制で、逆に平日の過密化が進んでいる。「自主的」と称して、土曜日も補習講座に拘束される状況が広がっている。
近年、岡山では、長く続いた小学区・総合選抜制が廃止され、「特色づくり」の名による差別化と、「生き残り」強迫にせかされての熾烈な学校間競争が仕組まれてきた。例えば私の学校では、地域四校の総合選抜廃止に対応して、県下初の「普通科単位制」、「65分授業」、「2学期制」へと大幅な転換をはかることで、かつての兄弟校との序列競争・中学生獲得競争を生き延びようとしてきた。
今、こうした多大なエネルギーを傾注しての「特色づくり」の努力を総括・吟味する間もなく、県下全域に及ぶ大規模な高校再編(リストラ)が、問答無用で強行されている。それは、これまで職場や地域で培ってきた「学校づくり」の蓄積や合意を乱暴に消去・リセットする一大クーデターの様相を呈している。教職員、生徒、父母・住民という当事者が、学校づくりの主体から遠ざけられている。
これらの経緯の中で、「一将功成って万骨枯る」という事態が、少なからず現出している。手柄を買われて「栄達」の道を歩む元同輩を尻目に、茫々たる荒れ野に置き去りされた「兵卒」たちは、言いようのない徒労感と無力感にとらわれている。だが、スクラップ化の運命にある学校でも、「今いる生徒たちにはつらい思いをさせない」ために、涙ぐましい粉骨砕身を続けている。
四、再びトカトントン、あるいはハラホロヒレ
「進学校」を掲げる諸校の例に漏れず、我が校でも、ほぼ夏休み一杯進学補習が続く。新任の校長は、その期間に全教員と順に面談をするとおっしゃる。曰く、「進学重視型普通科単位制高校として、地元国立大学を中心に、進路目標を実現させることが重要。そのために、自分は何がしたいか、また、何ができるかを、聞かせてほしい。」近隣校でも、同様の動きが流行中との情報を、呆れた思いで聞いてはいたが、いざそれに当面すると答えに窮してしまう。
私の場合は、盆明け早々の補習の午後、校長室に呼ばれて開口一番「この学校のために何がしたいか。何ができるか。」へえ、本当にそうきましたか。日頃の仕事へのねぎらいの言葉すらなく?
私「いろいろ考えましたが、私にできることはなさそうなので、来年の三月にはよろしくお骨折りを願いたい。」/校長「それは、転勤希望と言うことかね。」/私「はい。」/校長「わずか三年目で、どういう事?」/私「前任校では、一応自分なりに自己完結したという思いがありましたが、この学校では、役割が見いだせない。仰るような学校には、別の適任の方がありそうです。」/校長「定時制の方がよかったと?では、どうして転勤したの?」/私「通院と健康管理の上から昼間の学校を希望したら、縁あって本校に。転勤に際しては前任校の校長にも本校の前校長にも義理を感じて、自分に鞭打って働いてきましたが、石の上に三年いても根が生えそうにありませんので・・」
語りつつ、私の耳にしきりにトカトントンが聞こえて、平静でいることが難儀だった。あるいはいっそ、ハラホロヒレ、ガチョーンと、口に出してしまいたい衝動に駆られる。衝動に駆られながら、その感情の正体がつかみかねていたが、後で胃の痛みとともにはっきりと気づいた。不当な仕打ちに対する屈辱感と、傷ついた自尊感情への憐憫。そして、全国津々浦々でこのような愚劣な問が発せられる状況のへの寒々とした白け。
「学校のため、君は何がしたいか、何ができるか」この問は言外に、「まつろわぬ者、働きが足りぬ者はおらぬか。”不適格”の烙印がイヤなら進んでもっと働け。さもなくば立ち去れ」という頭ごなしのメッセージを含んでいよう。そのような不信感むき出しの脅迫に怯え、失敗やつまづきへの不安にかられながら、果たして、教育という創造的な営みが成りたつのだろうか?さらに、この問は、従順なだけでなく、「上意」を自ら先読みし、すすんで遂行する「忠誠」競争を強いるものだ。だが、互いの事情や条件をふまえた、職場の合意形成への努力やプロセス抜きに「これがやりたい、あれがやれます」と名乗り出るお調子者が輩出したとしても、そんな学校に何が期待できるのだろうか?
小一時間に及ぶ、その日の校長面談の模様を克明に綴る気力はないが、もう一つだけ問答を付け加えておく。
校長「本校についてどう思う?」/私「みなさん忙し過ぎませんか?」/校長「定時制と比べたらね。だが、他の普通科進学校より特別に多忙だとは認識していない。」
職場の民主的リーダーたるべき校長が、職員の希望や提言に直接耳を傾けながら学校づくりをすすめる事は歓迎だ。その糸口となるなら、という微かな期待は、しかし、問答無用で切って捨てられた。再びトカトントンに襲われて、私は沈黙した。が、その沈黙を、後でひどく後悔した。その論法は、「職場に憲法なし」「働くルールの確立を」という要求に、どこそこの国よりましだろうとうそぶく経営者と同じではないか。そもそも人間として許せない酷い状態を、まだ下があるからと合理化されては困る。
その時言いそびれたことを、かいつまんで事実のみ記す。①私の転勤の前年。単位制移行のただ中に、S先生が38歳の若さで急逝。「次は自分かも」という不安を誰もが拭いきれないまま、慢性的なオーバーワークの実態は衰えをみせない。「健康は自分で守って下さい」「勤務時間が過ぎたら、帰れる時には出来るだけ早く帰ってください」という管理職の言葉が、苦笑混じりに聞き流される。②この4月、年度初めの勤務を終えて帰宅されたF先生が、ひとり暮らしのアパートで倒れ、意識不明のまま二日以上も推移して発見された。緊急入院・手術を経て、幸い生命に別状はなかったものの、復帰の見通しはなお立たないでいる。③今年転勤してこられた一人職種のT先生は、夏休み以来、長期の病気休暇に入られた。これらの欠如をお互いの「奮起」で補い合いながら、学校の歯車はうなりをあげて高速回転を続けている。この回転の先に、子どもと教育の未来の、信じられる者は幸いである。私の耳には、トカトントンが響いてやまない。
この状況に、今なお改善が認められないどころか、むしろ、抜き差しならない深刻な事態が進行しているとさえ思えてなりません。
文章執筆からまもなくして登場した第一次安倍内閣は、「憲法の理想の実現は、根本において教育の力にまつべきもの」と明言して戦後民主主義教育の制度と内容を支えてきた「教育基本法」(1947年制定)を乱暴に改ざんして、「愛国心」と競争を煽る「教育改革」をすすめてきました。
第2次内閣以降も、「強い日本をとりもどす」ための「教育再生」を重点政策にかかげて、
1:「教科書改革実行プラン」などの教科書政策に見られる国家主義的な「思想統制」、
2:「心のノート」改訂版や「道徳の教科化」に見られる新保守主義的な「人格統制」、
3:「小中一貫教育の制度化」などの「学校教育システムの再編」案に見られる新自由主義的な「教育機会の制度的格差化」、
4:全国学力テストの学校別結果公表や大学入試改革に見られる成果主義的な「教育統制」、
5:教育委員会制度改革により促進されかねない学校現場・教職員の管理主義的な「行政的統制」 (藤田英典『安倍「教育改革」はなぜ問題か』-岩波書店-参照)
など、がんじがらめの教育統制をすすめながら、教育を、国家と財界の利益に奉仕する道具に変質させる動きを強めています。
こうしたもとで、私の住む岡山県でも、賃金リンクを伴う教員評価制度の導入や、業績を上げた学校への報奨金制度の創設など、教育の条理を無視した民間企業経営の(安直な)手法によって、学校、教師、子どもたちを、容赦なく際限のない競争に巻き込んでいます。ちなみに、後者の報奨金制度 (頑張る学校応援事業)は、民間企業経営者(地元百貨店の世襲社長)出身の知事の肝いりで、「全国初の試み」として2年前に導入された事業。全国学力テストの成績が低迷していることなどから、現ナマのご褒美で学力アップをはかろうという、何とも下品な着想です。
「市内のどの学校も頑張っている」と、受け取りを拒否した玉野市など、良識ある対応がむしろ新鮮にうつるるほどの状況が、うら寂しさをつのらせます。(後略)
そして、今の現役教師の皆さんは、教師としての出発時点から、息苦しい窒息状況を「普通の状態」と受け入れつつ教師生活を歩んでいるのかも知れません。ダイユーさんが紹介された、教育学部で教えるご友人のジレンマ---「この学生達を、今の教育現場に送り出すことが、果たして是なのか?」という自問が、決して驚愕なしに受け入れられてしまう今日の職場状況が、確かにあります。仮に鬱陶しがられ、迷惑がられても「これが決して本当ではないよ、教育にはもっと別の可能性があるはずだよ」と、外からメッセージを送り続ける役割が、退職教職員には今なお求められているのかも知れません。
それにしても、ダイユーさんのお話しを聴けば聴くほど、彼が研究対象とし、警鐘を鳴らし続けておられるアメリカの新自由主義的教育「改革」の大波が、遅れてじわじわと私たちを飲み込み、その毒が日増しに私たちを息苦しく窒息させて来ていたのだと、改めて思い知りました。
本題から離れますが、大江健三郎『芽むしり仔撃ち』、大田 堯『教育とは何か』など、個人的に愛着のある作品が引用され、あれあれ、と引き込まれました。シカゴの教員組合の話題も、以前この記事に書いたサラ先生のことを思い出しながら聴くことが出来ました。
はしごもさすがに2軒が限度?の巻
午後は「シカゴ&岡山教育交流のつどい」と題して、アメリカ・シカゴから訪日されているサラ先生に、アメリカの教育事情をうかがう企画。
学力テストの成績を学校統廃合に結びつける動きに、広範な教職員、市民、生徒達が立ち上がりました。運動の先頭に立った若い女性教師サラ・チェンバース先生らは、当局ににらまれて馘首されますが、、、、。
深刻化する全国状況を受けて、全国的会議をzoomで行う機会も各分野で増えたようですが、私の関係する退職同業者の集まりでも差し迫られることになりました。要領がわからないのでできるだけ避けていたのでしたが、いずれ劣らぬ高齢者同士の中、とうとう借り出されることになり、17日(月)には全国各地のお仲間との接続テスト。若者の手助けも得て、どうにか成功しました。その際の最初の呼びかけの言葉「岡山、大変ですね」まったく全国レベルのうれしくない注目度です。
この同業者の会、実は先週の火曜日、会議が予定されていたのをすっかり失念して(予定表に記録していませんでした)すっぽかし、のんきに田舎へ帰って畑仕事をしてました。帰宅後に、責任者のFさんからお電話をいただき、うかつな失策に気づかされましたが、きついおとがめもなくまずは安堵した次第。代わりというわけでもないでしょうが、ちょっと骨の折れる原稿書きを仰せつかりました。それ以来、始終パソコンに向かうも少しもはかどらす、気が重く心が晴れません。
と言うわけで、「気分転換」のに、久しぶりにブログ執筆に取りかかりましたが、またまた冗長な文章になりました。
緊急事態宣言の影響で、各種の公的施設の閉館、休業が相次いでいます。たちまち私に直接関係あるところでは、図書館閉館のため、 いつも運転中に聴くための朗読CDが借りられません。「卓球を楽しむ会」の会場も閉館です。後楽園も休園になってしまいました。
先日の後楽園散歩は、梅雨入り前の雨の日でしたが、露を宿した梅が、もうすっかり熟していることでしょうか?
後楽園散歩の記事、まだ続きを予定していますが、さすがにきょうはここまで。
コロナにも負けず黄砂にも負けず九の日行動、の巻 [日録]
黄砂が襲来しています。我が地方ではしょっちゅうのことで気にも留めないでいましたが、全国ニュースによると、東の地方にも珍しく影響が及んでいるそうです。
黄砂の影響は、鼻水、くしゃみや、涙、目のかゆみなど体調変化でそれと知れます。症状的には単なる花粉症と区別がつかないけれども、必ず累乗効果があるに違いないと経験的に感じています。少ない車のボディやウィンドウが真っ黄色に汚れますので、これが体内に吸入されたら影響がないはずがありません。黄砂は単なる黄河の埃ではなく、ミクロサイズの各種化学物質・汚染物質の凝縮体なのでしょうから。
特に、昨日今日の空の眺めは、「霞か雲か見渡す限り」としゃれている場合ではありません。
これは昨日の早朝散歩の眺めです。
一面の麦畑がいつも以上に黄金色がかって見えるのは、熟れて色づき始めているのか、それとも黄砂のせいなのでしょうか?
下は、同じあたりの今朝の様子です。
視界がかなり遮られます。
ところで、同じ麦でも、見た目の異なる品種もあるようです。
これをもとに、今日書こうと思いついた記事は、大昔に書いたこの記事の焼き直しだったと気づきました
今日は憲法記念日。
憲法の理想を現実に生かそうと考えるのか。
それとも、、憲法の定めを「解釈」によって限りなく「現実」に合わせていこうとしつづけるのか?
はたまた、その行き詰まりを手っ取り早く打開するため、憲法そのものをきれいさっぱり書き換えるのか?
いよいよ改憲論議も大詰めですね。近代的な「立憲主義」の立場では、憲法というものは、政治権力の恣意的支配に対抗し、国民が権力を制御するためのものだそうです。
安倍さんが成立に熱意を燃やしているという自民党憲法草案(わかりやすい対照表をアップしてくださっています。また、ヤフー知恵袋のこのページも、参考にさせていただきました)は、どうも、国家権力が国民を縛るための道具にしたいらしいですね。「外国から押しつけられた憲法」という古い論調が何か意味ありげに聞こえるとするなら、いま、日本国民自身が、腹の底から、もう一度この日本国憲法を選びなおす時だと思いますね。
五月晴れの散歩道。(中略)麦畑が様々な表情を見せてくれます。ついつい、何枚も写してしまいます。
(中略)
この付近の、ほとんどの麦畑に植えられているのは、ビール麦のようです。
ビール麦は二条大麦と呼ばれる大麦で、穂についている実の列数が、上から見ると二条であることから名付けられたそうです。
ちなみに大麦には、結実する穂の数により、小花が六条に並んでつく六条種が有り、これはもっぱら食用に用いるそうです。もし、9条があったら、宝物にするのですが。
一方、この種類の麦も、所々で見かけます。 今ちょうど穂に花が咲いています。
小麦ですかね?
ところで、今日は五月九日。地元「九条の会」恒例の「九の日行動」で、午前9時から一時間、スタンディングを行いました。寒くもなく、暑くもなく、雨もなく、快適な条件でしたが、少々風が強いのと、コロナの影響が「カコサイタ」を更新していること(ニュースで「カコサイタ」の語が耳に入ると「サイタサイタ」と不謹慎なリフレインを繰り返してしまったりします)、さらに黄砂の来襲が、なんとも心を曇らせます。が、それにも負けず、スタンディングは元気に遂行しました。
参加者の方々との、あれこれの雑談のひとときが、いつも通り愉しく、知的好奇心をも満たしてくれる充実の時間でしたが、その詳細は割愛します。
気になっていた一点を、農家のSさんにお尋ねしてみました。つまり、近隣で栽培されている麦の種類はいかん?
すると、ビール麦として契約栽培している二条大麦が多いが、小麦、もち麦の三種が栽培されている、のだそうです。大麦と小麦の見た目の違いは、ノギの形状にあるそうです。傍らにおられたQさんによると、熟れたらビール麦は金色、小麦は焦げ茶色になり、色がまったく違うのでわかる、とのこと。そう言えば「小麦色」という形容がイメージさせるのは、黒褐色に日焼けした健康的な肌の色ですね。
実は、最近のネット検索の中で「ノギ」という言葉にぶつかっていたところです。ウィキペディアにこうあります。
芒(のぎ)は、コメ、ムギなどイネ科の植物の小穂を構成する鱗片(穎)の先端にある棘状の突起のこと。のげ、ぼう、はしかとも言う。ススキのことを芒とも書くが、これに似たイネ科の植物にオギ(荻)がある。ススキには芒があるが、オギには芒がない。二十四節気のうち芒種(ぼうしゅ)は、芒を持つ植物の種を蒔く時期のことである。また、陶器などの表面に現れる芒状の細長い斑紋を芒になぞらえて芒目(のぎめ)と呼ぶ。
「ノギ」には「禾」の文字を当てることもあるそうです。これで漢字の部首「ノギヘン」の理解が深まりました。同じくウィキペディアを探ると、、、
「禾」字はイネ科植物のアワを意味し、その穂が垂れる様子に象る。
黄河文明の主食はアワであり、長江文明の主食であるイネは殷周時代を通じて華北では作られることはなかった。また現在の主食であるコムギも後に伝来した。このため「禾」は穀物の代表であり、穀物一般の総称としても用いられた。
後代にはイネを意味するようになった。「米」が実だけを指すのに対し、「禾」は茎や穂を含めた全体を指している。
偏旁の意符としては穀物や農業に関することを示す。
禾部はこのような意符を構成要素に持つ漢字を収める。
なるほど。知りませんでした。
最後に、大麦と小麦の「ノギ」の形状の違いについて。
おいしい大麦研究所のHPに知っているようで知らない大麦と小麦の違いという記事から、一部引用させていただきます。
麦の粒が大きいのが大麦で、小さいのが小麦?そんなイメージがありますが、「大麦」「小麦」という名前は、実は粒の大きさとは無関係です。名前の由来は諸説あり、一説には大麦の葉は小麦よりやや短いものの幅が広く、発芽したての段階では大麦のほうが大柄に見えるため、「大麦」「小麦」の呼名がついたといわれています。
また、両者の違いは、背丈や葉の幅よりも穂から出ているひげのような突起の「禾(芒/のぎ)」に現れており、禾が長く穂よりも上に出ているものが大麦、短くて不揃いなのが小麦ともいわれています。しかし品種によっては大麦でも禾が短いものもあるため必ずしもそうとは言えず、穂の子実が上から見て対角線上に並んでいるのが大麦であると見分けるのが良さそうです。
ウィキペディアにも、大麦、小麦、もち麦のそれぞれについて詳細な解説が載っていますが、これまた一部引用させていただきます。
「オオムギ」は漢名の「大麦(だいばく)」を訓読みしたものである。「大」は、小麦(コムギ)に対する穀粒や草姿の大小ではなく、大=本物・品質の良いもの・用途の範囲の広いもの、小=代用品・品格の劣るものという意味の接辞によるものである。大豆(ダイズ)、小豆(アズキ、ショウズ)、大麻(タイマ)の大・小も同様である。伝来当時の漢字圏では、比較的容易に殻・フスマ層(種皮、胚芽など)を除去し粒のまま飯・粥として食べることができたオオムギを上質と考えたことを反映している。
また、オオムギをはじめ、コムギ、エンバク、ライムギ、ハトムギなど、姿の類似した一連の穀物を、東アジアでは総称してムギと呼ぶ。こうした総称はヨーロッパには存在せず、barley(大麦)、wheat(小麦)、oat(燕麦)、rye(ライ麦)のようにそれぞれの固有名で呼ぶのみである。
(中略)
オオムギの穂は基本的にすべて6列である。二条と六条の差は、実る穂が何列あるかの違いであり、読んで字のごとく2列実るのが二条オオムギ、6列すべてが実るのが六条オオムギである。実るのが2列だけであるぶん、二条オオムギの種子は大きく、大粒オオムギとも呼ばれる。これに対し六条オオムギはすべての列に種子が実るため種子が小さく、小粒オオムギとも呼ばれる。ただしすべての列に種子が実るため、全体の収量としては六条オオムギのほうが多い。
二条オオムギは主にビール生産用に栽培され、ヨーロッパで栽培されるオオムギの多くは二条種である。これは、二条種は種子の一粒一粒が大きく、しかも大きさがよくそろっているので、醸造の管理がしやすいからである。それに対し六条オオムギは収量が多く、オオムギを穀物として食べる地域においては六条種を主に栽培する。
(中略)
二条種と六条種は皮が実と糊状のもので固着しており、はがすのが難しい。この固着はオオムギだけの特質であり、コムギなどのほかのムギでも、コメなどほかの穀物においてもこういったことはない。皮をはがすのが難しいため、これらは皮麦(カワムギ)とも呼ばれる。それに対し、六条種の突然変異で糊状のものが存在しないものが生まれ、揉むだけで皮が簡単にはがれる品種が生まれた。これがハダカムギである。ハダカムギは食用にするのがより簡単であるため、チベットや日本といったオオムギを重要視する国々において多く栽培されるようになった。(中略)
また、上記の品種はすべてうるち性であるが、日本を含む東アジアにはもち性のオオムギも存在する。もち麦は日本ではもち米の代替として西日本中心に栽培され、団子などがこれで作られた。
特に日本で生産されるのは二条オオムギ、六条オオムギ、ハダカムギが多い。二条オオムギは明治時代以後にヨーロッパより導入され、ビールなどの醸造用の需要が多くビールムギとも呼ばれる。これに対し、六条オオムギとハダカムギは古来より日本で栽培されてきた品種である。六条オオムギは押し麦や引き割り麦などにして米に混ぜるなど雑穀としての使用が多く、また麦茶の原料ともなる。ハダカムギも同様に使用することはできるが、味噌の製造に使用されることが多い。
雨の後楽園続いてます、の巻 [折々散歩]
昨日の記事の続きです。
まずは追記を一件。
後楽園に入園する際に、マスクがないことに気づいたものの、駐車場の車まで取りに帰るのが億劫で、雨傘で顔が隠れるのをよいことに、こわごわノーマスクで歩いたことは書きました。その顛末です。遠慮しながら園内を一巡し、人の出入りが比較的少ない南口から退園し、一二歩歩いたとき、ふっと上着の胸ポケットに手をやると、あんなに探して見つからなかった布マスクが、済まして鎮座しているではありませんか!!!可笑しいやら情けないやらの、おなじみの失敗談でした(トホホ)
さて、人目を忍んで遠慮がちに歩いた後楽園でしたが、写真はかなり写しました。
昨日の記事で紹介した園内マップは、「じっくりコース」でしたが、今日は所要時間約1時間ほどの「スタンダードコース」をご覧ください。
昨日の記事の最後に話題にした「延養亭」が、このスタンダードコースの地図では②の番号が付されています。
③「廉池軒」は、「園内に点在する亭舎の中で、築庭を指示した藩主池田綱政がもっとも好んで利用していたといわれています。/廉池軒からの眺望は水の景色に優れています。』と、後楽園HPに紹介されています。
④「唯心山」はこう紹介されています。
池田綱政(いけだつなまさ)の子、継政(つぐまさ)の時に築かれ、平面的だった庭園が立体的な景観へと変化しました。 山腹には唯心堂(ゆいしんどう)があり、斜面には石組に合わせて、ツツジやサツキが植えられ、季節には紅白の花で彩られます。
見事なツツジの向こうに見えている建物が、⑤「流店」でしょう。
中央に水路を通し、色彩に富んだ奇石六個を配した全国的にも珍しい建物です。藩主の庭廻りや賓客の接待などで、休憩所として使われました。 戦災をまぬがれた建物の一つで、簡素なたたずまいを今に伝えています。
その近くに「八橋」、「花菖蒲園」があります。
古い記事に何度か書きました。たとえばこんな記事。
お名前は?しらん!(2014-05-07)
下の写真は、昨年、岡山市後楽園で写したものです。「八橋」と案内表示がありましたので「カキツバタ」なのだろうと勝手に推測しています。
もとネタは、伊勢物語の有名な「東下り」の段。
昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりして行 きけり。道知れる人もなくて、惑ひ行きけり。三河の国八橋といふ所に至りぬ。そこを八橋といひけるは、水行く河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてな む、八橋といひける。その沢のほとりの木の陰に下りゐて、乾飯食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かき つばたといふ五文字を句の上に据ゑて、旅の心をよめ。」と言ひければ、よめる。
唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ
とよめりければ、みな人、乾飯の上に涙落として、ほとびにけり。【解釈】
昔、男がいたんだってさ。
その男は、自分を世の中の役に立たない不要人物だと独り決めに思い込んで、「都にはもういねえつもりだ。オイラみたいのものでも受け入れてくれる住みよい国を求めて、遠く東国地方を訪ねていこうじゃないか。カールブッセも”山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う、、、”と歌ってるじゃないか。」と言って、旅立って行ったってさ。
古くからの友人、一人二人と一緒に、行ったんだってさ。道を知ってる人もいなくて迷いながら旅して行ったんだって。
そうするうちに、はるか愛知県は三河の国の八橋というところに到着したんだ。そこを八橋と言ったわけは、流れる川が四方八方に分かれて蜘蛛の手のようだったから、橋を八つ渡していたんで、八橋と言ったんだってさ。
その水辺のほとりの木の陰に馬から下りて腰を下ろして、携帯用乾燥メシを食ったんだ。。その水辺にかきつばたがチョーイイ感じに咲いていたんだなあ。それを見て、ある人が言うのに、「かきつばたといふ五文字を句の上に据ゑて、旅の心をよめ。」と言ったので、男が詠んだ歌がこれなんだ。
唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ(唐衣を繰り返し繰り返し着て、糊がとれて体にぴったりなじんだみたいに、慣れ親しんだ妻が(都に残って)いるので、着物をピンと「張る」のと語呂が同じ、はるばる(遙々)、三河くんだりまで、着物を「着た」みたいに「来た」旅の長い道のりを、しみじみ思って感無量だよ。)
と詠んだもんだから、居合わせた人はみんな、携帯用乾燥メシの上に涙を落として、乾燥メシがふやけてしまったんだってさ。塩味がきいて、さぞおいしかっただろうよ。とっぴんぱらりのぷぅ。
上の記事の写真の八橋は先代のもので、しばらく前に架け替えられました。
調子に乗って、にわか仕込みの知ったかブリッコで、またまた長い記事になりました。今日はここまで。記事はまだまだ続きます(汗)
防塵防滴カメラ、の巻 [折々散歩]
M師が、昨日の場所で撮影されたツバメチドリの写真、送ってくださいました。
キュートな鳥ですね。
こんな姿に触れるチャンスは、私にはもう現れないかも知れません。いとうらやまし。
予報通り、今日は雨。最近、畑に、綿の種と蓼藍(たであい)の苗を妻が植え、私は、玉ねぎの収穫あとにサツマイモ、エンドウの収穫あとにトウモロコシとインゲン・枝豆など(コンパニオンプランツだとか)、そのほか、夏野菜の苗をいろいろと植え付けただけに、今日の雨は有り難いです。
朝方、降り出す前に散歩しました。不測の雨に備えて持って出たのは防塵防滴のFUJI FINEPIX S1。
麦の穂がやや黄金色に染まり始めています。
正面に児島富士の別名を持つ常山(つねやま)が見えます。
ナガミヒナゲシが咲き乱れています。
方角を変えると麦飯山(むぎいいやま)が見えます。
散歩の間は天気が持ちましたが、昼前頃にはかなりまとまった雨になりました。
午後になって、諦めきれず、ツバメチドリを探しに行きました。今日も何台か、カメラマンさんの車が止まっていました。近くに停めて、しばらく観察してみましたが、ツバメはしきりに飛び交っていますが、ツバメチドリは見つかりません。断念して帰る途中、近くの田のあぜに、この鳥がいました。
ちょこちょこ歩いたり、、、
一本足で休んだりしています。
2羽います。つがいでしょうか。
今日の表題、「防塵防滴カメラ」の活躍機会はありませんでした。
今日の記事は、実は先日の雨の後楽園散歩の続きを書きたいと思っていました。
その時は、防塵・防滴構造のPENTAX K-30+ DA18-55mmF3.5-5.6AL WRを持ち、傘を差して歩きました。見慣れた景色も、少し趣が変わって見えます。
「水辺のももくん」の像のところから、岡山県庁方面を望みます。
方角を変えて、岡山城方面。
園内に入るとき、ポケットの中、バッグの中、どこを探してもマスクが見当たりません。自動車の中に置き忘れたでしょうか?かといって、雨の中、駐車場まで引き返すのも億劫です。駐車場から南門まで、周縁散歩道を、かなりの距離歩きましたから、、、。
で、やましい気持ちにさいなまれながら、ノ-マスクで入園しちゃいました。傘を差して歩きますし、ほかの観光客に近付いたりすれ違ったりしないように気をつけるから、と自分に言い訳しつつも、マスク警察の標的にされかねない怯えに、身がすくむ思いです。「国民の権利を一時的に制限する『緊急事態条項』」なるものを憲法にも書き込むという動きは、この怯えを問答無用で蹴散らし、強制力を以て取り締まる事につながるのだなあ、とひそかに実感したことでした。
俯いたり後ろ向きになったり、人目を避けて急に方向転換したり、なんとも不審な動きを続けながら、結構貪欲に写真は撮りました。
私は大抵、正門からではなく南門から入園することが多いのですが、その際まず、後楽園を巡る水路「曲水」が目に入ります。曲水は、旭川から引き込んだ水を園内に緩やかに巡らせ、再び旭川に流れます。周囲の樹木や芝生ともども、雨に潤う姿は、また格別です。
多くの観光客の動きに背いて、正門方向へ歩きます。
岡山後楽園のホームページから、「後楽園の歩き方」という園内地図をコピーしてご紹介します。
「じっくりコース」と名付けられたコースです。「園内の隠れた見どころから、少しマニアックなポイントまで、岡山後楽園の魅力を味わい尽くすなら、所要時間2時間のこのコースへ。」とあります。
その④に「二色が岡」があります。解説には「その昔、春には山桜、秋には紅葉で一帯が彩られたことから、『二色』の名が付けられました。現在は野鳥が飛来する静かな林に。緑の中に茂松庵や地蔵堂などがひっそり佇みます。」とあります。
茂松庵は、元禄4年(1691)前後に建てられた茶室。戦災で焼け、昭和27年(1952)に再建。「花葉軒」と呼ばれた時期もある由。
雨の中、ひっそりと佇んでいました。
③花葉の池(かようのいけ)。夏には白い大きな「大名ハス=一天四海」が所狭しと花を咲かせます。今、その蓮の新芽が伸び、瑞々しく若葉がを広げています。
雨が水玉となって蓮の葉を転げています。
花葉の池に架けられた木橋は「栄唱橋(えいしょうばし)」と呼ばれます。
橋の前方、突き当たりに見えるのが②延養亭でしょうか。後楽園HPにはこう解説してあります。
藩主の居間として作られた建物。戦災で焼失したものの、昭和35年に築庭時の間取りに復元されました。普段は非公開ですが、春と秋のそれぞれ約1週間、内部が公開されます。
にわか勉強で疲れました。今日はここまで。
人生初!の巻 [折々散歩]
今は昔、この連休が始まったばかりの五月一日に、自然環境体験公園を散歩して写していた写真?いつか使おうと思ううちに日が経ちました。
ネジバナ。 マツバウンラン(松葉海蘭)
ヒラドツツジ。
卯の花
カワラヒワ。
モズがいました。
トリミングします。
夏野菜の準備のため、ホームセンターに通っては苗や種、堆肥や小間物を物色し、畑にも出かけてちょこちょこっと作業をします。そのついでに、ちょっと遠回りをしてレンコン田をのぞいてみました。
ムナグロとそれからこの鳥なあに?の巻(2021-04-25)の記事や、その前後の記事で、初めての鳥に色々であった、あの場所です。この記事へのみもさんさんからのコメントに「タカブシギとウズラシギと思われます 」といただきましたが、ウズラシギは人生初の出会いでした。
そんなことから欲が出て、機会あるたびに回り道して覗いてみているのです。
すると、遠くの方に、こんな鳥がいました。
余りにも見覚えがなく、とても検討がつかないので、記事にするのも憚られ、しばらくカメラの中にしまい込んだまま、放置するうちに日が経ちました。思いあまって、まずM師にメールで相談してみることにしました。
すると、早速「オグロシギ」と教えていただきました。
そして、今日は電話をいただき、どこで見たかとのお尋ねでした。大まかな場所を申し上げ、ただし5月1日の撮影だと告げますと、ちょうど今その付近にやってきているところで、ツバメチドリがいて、カメラマンたちが狙ってるよ、と教えて下さいました。農作業を放り出し、早速現地へ向かって見ますと、何台かの車列の中にM師ご夫妻の姿があり、こっちこっちと手招きしてくださいました。示されたあたりに車を着けると、すぐ目の前の草むらの方を指さして教えてくださいます、、、が、見つけられずにまごまごしているうちに、ぱっと飛び立ってしまいました。
ジタバタしてせっかくのチャンスを逃してしまうのは常にあることなのですが、M師はじめ周りのカメラマンさん達にも大変ご迷惑をおかけしました。この場を借りて深くお詫び申し上げます(アセアセ)、、、
上空を狙って闇雲にシャッターを切りましたが、私の腕と機材では、とても姿を捉えきれません。証拠写真だけを残しておくことにします。人生初のツバメチドリです。
ツバメチドリとはよく言ったもので、ちょっと大型のツバメそのものに見えます。ツバメとウズラ、なじみ深い鳥の名を冠したシギチ、愛着がつのります。
いったんはこれで満足して、またその足でホームセンターに向かい、トウモロコシ、黒豆、インゲン、ネギの種と、キュウリ、白瓜の苗を購入。諦めきれず、帰り道またあの蓮根田に向かいました。が、今度は先ほどとは別のカメラマンさんの車が数台ありますので、近くに停めて目を凝らしますが、残念ながら草むらにも上空にもそれらしい姿は見つけられません。なおも目を凝らしていますと?こんな鳥に気がつきました。
奥の鳥はもちろんアオサギでしょうが、問題は手前の鳥。
アマサギではありますまいか?
「アマサギ」はコサギに近い小さなサギで、通常全身白色で、他のシラサギと同様ですが、夏の繁殖期には、頭、胸、背中の羽毛が淡いオレンジ色=「亜麻(アマ)色」に変わるところからこの名を得たようです。亜麻色というと、条件反射的に「亜麻色の髪の乙女」という曲が浮かびます。
ウィキペディアには曖昧さ回避のためにこんな項目が用意されていますが、私が思い浮かべるのは、亜麻色の髪の乙女 (ヴィレッジ・シンガーズの曲)です。
亜麻色の髪の乙女(あまいろのかみのおとめ)
- ルコント・ド・リールの詩の一節。
- クロード・ドビュッシーの前奏曲集第1集のうちの第8曲。曲名は上記の詩からとったものである。曲の内容については、前奏曲 (ドビュッシー)を参照。
- 橋本淳作詞、すぎやまこういち作曲による、ヴィレッジ・シンガーズのシングル曲。→ 亜麻色の髪の乙女 (ヴィレッジ・シンガーズの曲)を参照。後に島谷ひとみもカバーシングルをリリースした。
それはさておき、アマサギとの出会いも人生初!でした。
今日はここまで。
立夏とな?の巻 [日録]
せっかくの大型連休ですが、例年のようには家族が集まれません。特に大阪在住の孫一家とは、テレビ電話での会話で安否を確かめるしかありません。
五月三日、憲法記念日。アベさんのならいを踏襲して、スガさんも、改憲派集会にビデオッセージを送り、改憲の口実としてコロナ対応を持ち出していらっしゃるそうな。
菅義偉首相は憲法記念日の3日、改憲派の集会に自民党総裁としてビデオメッセージを寄せた。新型コロナウイルスの感染拡大に触れ、大災害などの時に内閣が国民の権利を一時的に制限する「緊急事態条項」に関し、「極めて重く大切な課題」と語った。その上で、同条項や、憲法9条への自衛隊明記を含む自民党「改憲4項目」の実現をめざす考えを示した。(朝日新聞デジタル記事)
自らの無策を棚に上げた、どさくさ紛れ、火事場泥棒、居直り強盗にはあきれて物も言えません。
上からの一方的な主権制限を受けるまでもなく、庶民は怯えながら自粛の連休を差雨後しておりますよ。我が家では、従姉妹たちと一歳児の男の子が、新緑の自然環境体験公園で、ピクニック。お弁当を食べて楽しい思い出を作りました。
五月四日、郷里の老父母のもとへ、家族で集まる予定を立てていましたが、コロナを配慮して中止。私ひとりで農作業や生け垣の剪定に出かけてきました。そこへ、大阪の次男から、相前後して長女からテレビ電話をかけてくれ、曾孫達の顔を見声を聞くことができました。
今日の子どもの日はあいにくの雨。暦の上では「立夏」だそうですが肌寒いお天気です。子どもたちはお出かけもままならず、自粛生活継続中。
私は、用事のついでに立ち寄った岡山後楽園を、防塵防滴のカメラ・レンズで写しました。
まずは、周縁の散歩道。朝の時間帯のせいもありますが、人影まばらです。
今日はここまで。
花言葉は「長い友情」、の巻 [日録]
昨日の四月三〇日、年金者組合地元支部と隣接支部との合同交歓会が計画されていました。
今週の半ばは雨続きだっただけに、お天気の具合が心配でしたが、有り難いことにすっかり雨も上がり、久々の好天に恵まれ、チラシ通り「新緑の八丈岩山と小名合池での交歓」を楽しむことができました。
車に分乗して集合した参加者は、いったん小名合池のそばの広場にあつまり、お互いに自己紹介をして集合写真を撮影。そのあと二つのコースにわかれて、初夏の自然を満喫しました。
多少のためらいはありましたが、私は「健脚コース」を選択。快い汗を流しました。
よい見晴らしです。
「新緑」とひと言で言っても、いろいろな木々の瑞々しい青葉若葉が、目を楽しませ、心を洗ってくれるようです。そうしたなかに、あちらこちらに、可憐な木花が咲いていて、同行の方々と「何の花だろうね?」と首をかしげ合いました。M女史が、スマホで写した写真をもとに、帰ってから詳しい人に尋ねてみる、と言ってくださり、その夜、「ツクバネウツギ」の名前をメールで知らせてくださいました
早速、県本部発行の「年金者しんぶん」に、こんな記事を投稿してみました。採用・掲載されるかどうかはわかりませんが(笑)
私の花言葉
ツクバネウツギ
四月三十日、「新緑の八丈岩山・小名郷池を楽しむ」と題して、倉敷支部・岡山市南区支部合同の交歓会が催された。新緑に包まれた雨上がりの山歩きを楽しんだグループは、八丈岩山の山頂付近で弁当を食べたが、その山道沿いのあちらこちらに、可憐な木花が咲いていた。この花の名は、Mさんの調べでは、衝羽根空木(ツクバネウツギ)だそう。公園の生垣などでよく見るアベリアと同属で、 プロペラ状になる萼片が羽子板の羽(衝羽根)に似ることから名付けられたという。花言葉は「長い友情」。愉しい行事の記憶につながる印象深い花となった。
取り急ぎご報告まで。