SSブログ
<

毎度おなじみフライング、の巻(第3回) [時事]

このシリーズ、きょうはその第3回です。


(この記事のUPに伴って、操作ミスがあったらしく,昨日投稿していた記事が消滅してしまいました。慌てて復元をはかっていますが、無理。徒労感に苛まれます。)


(3)安倍=菅政権の冷酷さは,社会的弱者・マイノリティへの対応に,より露骨にあらわれています。同性婚が認められないことを,憲法14条「法の下の平等」に照らし違憲と判断した札幌地裁判決以後も,「政府としては婚姻に関する民法の規定が憲法に反するものとは考えていない」(加藤勝信官房長官),「一足飛びに同性婚やパートナーシップ制度まで進めることは,かえって社会の混乱につながる」(下村博文自民党政調会長)などと,旧弊的姿勢を変えようとしていません。

超党派議員連盟による,LGBTなど性的少数者への理解増進を図る法案要綱をめぐって,自民党内の議論で,「道徳的にLGBTは認められない」「人間は生物学上,種の保存をしなければならず,LGBTはそれに背くもの」(簗和生元国土交通政務官),「女子の競技に男性の身体で心が女性だからっていって競技参加して,いろいろメダル取ったり,そういう不条理なこともある」(山谷えり子元拉致問題担当相)などの発言が相次いだことがおおやけになって,批判と抗議が巻き起こっています超党派議員連盟により合意形成がなされていたこの「LGBT法案」法案は,結局、自民党内の反対により国会上程が見送られることになりました。「LGBTは生産性がない」(杉田水脈議員)などの発言から3年,政府与党内に根強く残る後進性が鋭く問われなければなりません。

山谷氏は,選択的夫婦別姓の導入反対論者としても知られており,1月30日,丸川珠代男女共同参画担当相(就任前),高市早苗前総務相,衛藤晟一前少子化対策担当相ら自民党国会議員有志50人連名で,47都道府県議会議長のうち同党所属の約40人に,選択的夫婦別姓の導入に賛同する意見書を採択しないよう求める文書を郵送しています。選択的夫婦別姓については,最高裁が国会での議論を促した2015年以降,議論を求める意見書を全国150以上の議会で可決し,衆院が受理しています。前述文書は,この流れへの露骨な妨害にほかなりませんが,これを忠実に受け止めたかのように,岡山県議会では3月19日の本会議で,自民党などの賛成多数で選択的夫婦別姓に反対する意見書を可決しています。都道府県議会で反対の意見書が採択されるのは約11年ぶりで,不名誉な後進性の発揮となりました。

ジェンダー平等,女性活躍や多様性の推進を求める社会的気運に背を向けて,日本はジェンダーギャップ世界121位の地位にとどまり,菅内閣の女性大臣がわずか2人であることも後進性を象徴しています。折しも,森喜朗元首相(東京五輪・パラリンピック組織委員会会長)による女性蔑視「失言」は,日本政治の中枢にはびこる遅れた「本音」を吐露したもので,世界的にも不名誉な注目を浴びました。これに対して,「#わきまえない女」がトレンドワードとなるなど,広範な国民の間に,瞬くうちに批判と抗議がうねりのようにひろがりました。そのもとでの森氏の辞任は当然の帰結ですが,それにとどまることなく,男女を問わず,対等・率直な議論を基礎に合意形成していくことが万事当たり前となる社会の気風を,真に築いていくことがつよく求められています。

菅政権は,今国会で,外国人への非人間的な扱いなど,現行「入管法」(出入国管理及び難民認定法)の問題点は放置したままで,難民認定申請回数が3回以上になったら強制送還できるようにするなどの法改定をはかってきました。国会審議さなかの3月,入管施設に収容されていたスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんが,体調不良を繰り返し訴えながら死亡したことをきっかけに,その死の真相を明らかにせよという遺族・支援者の要求とも結んで,法案反対の声と運動が急速に広がりました。研究者,弁護士,文化人,学生など多様な人々が参加して,各地で座り込みやデモ,ツイッターなどでの発信が続けられ,国会内での野党共闘と相まって法案強行の策動を追い詰め,昨年の検察庁法に続いて,事実上の廃案に追い込みました。さらに,ウィシュマさんの収容状況を撮影したビデオの全面開示をはじめ,死の真相と責任の所在を速やかに明らかにさせるとともに,長期収容などの人権侵害が恒常化し,入管施設での死亡例も相次いでいる異常事態に根本的にメスを入れることが求められています。世界的にも群を抜いて厳しい日本の難民政策(注①参照)も,改めて問い直し,外国人の人権をまもり,地域社会で共生していける社会をめざさなければなりません。

注① 2019年に日本で難民申請を行った外国人は合計10,375人で,審査の結果,難民として認定されたのは43人(難民認定率0.41%)だった。このほか,過去に難民認定を申請した際に難民と認定されなかった外国人が,審査請求(不服申し立て)を行って難民と認められた例が1件あったため,2019年に日本で認定された難民は,合計44人となっている。同年の諸外国の難民認定率はカナダ51.2%,イギリス39.8%,フランス19%,アメリカ22.7%,オーストラリア17.3%,ドイツ16%等。日本は,桁外れの低率である。


梅雨の「中休み」だそうですが、この中休みが長いこと。連日カンカン照りの真夏日で、身体がなかなか対応できません。


今朝は、少しだけ気温が下がり、今日から週末にかけてお天気は下り坂で、雨も降るらしい。ジメジメした梅雨は好きではありませんが、やはりしっとりした雨の季節も懐かしいです。


我が家の庭の紫陽花がひっそり咲いていますが、どうやら、潤いをほしがっているように見えます。


IMGP3061_thumb


IMGP3064_thumb


IMGP3063_thumb


散歩道のアジサイも今盛りですが、雨の中で写したいと思えます。同じく散歩道、いつの間にかネムの花が咲きそろっています。


R0019324_thumb1


タチアオイの花がてっぺんまで咲き揃ったら梅雨が明けるとか言いますが、かなりてっぺん近くまで咲いています。


R0019326_thumb


今朝は、ほんのり朝焼けでした。お天気が崩れるしるしかもしれません・


R0019330_thumb1


R0019331_thumb1


同じカメラのSDカードに古い画像が残っていました。


5月29日撮影の麦畑です。


R0019318_thumb


これが今朝の風景。


刈り残されている部分もありますが、周囲はあらかた収穫が終わっています。


R0019332_thumb1


黒いのは焼き焦がしのあとです(昨日の記事でも触れました)


R0019333_thumb


R0019336_thumb


正面に常山が見えます。


R0019337_thumb1


こちら側の正面は麦飯山。




注1「常山」はこの記事参照。


逆さ児島富士(2013-08-06)


自身の備忘のために古い記事を掲載しておきます。
児島湖に常山(児島富士と呼ばれる)が映って、逆さ富士が現出します。
真夏の空がまぶしい季節です。(7/6撮影)
_igp8981.jpg
こちらは、水田に映った逆さ児島富士です。
_igp8933.jpg
富士の世界文化遺産登録が話題を呼ぶ中、「○○富士」が脚光を浴びています。
常山は、かつて児島半島が瀬戸内海に浮かぶ島であった時代、海に面して聳える小高い山でした。戦国時代、ここには山城が築かれ、城主は幾代かにわたって交代しましたが、女軍の戦で知られる「常山合戦」は、現地の案内板には次のように記されています。



常山合戦案内
ここ常山城は、常山女軍が戦った城として知られています。
天正3年(1575)6月7日、城主上野肥前守隆徳の守る常山城は、毛利・小早川隆景の大軍に包囲され落城の時を迎えていました。
本丸直下のこの二の丸付近に迫った敵将浦宗勝の軍勢に対し、領主隆徳の妻鶴姫以下34人の侍女達は最期の戦いを挑みました。
しかし、女軍達は次第に討ち取られ、鶴姫は本丸に引き上げ自刃したと伝えられています。
昭和12年(1937)、城主一族と女軍の冥福を祈って40基の墓石と墓碑が建立され、戦国の世の人々は今、桜木や広葉に囲まれて静かに眠っています。
平成15年11月11日 玉野市教育委員会 「常山合戦案内」板より

注2麦飯山はこの記事参照


濁りなき緑を肺に満たしてん(2013-08-20)


鴨川という川を挟んで対岸に、均整の取れた二こぶの山が聳えています。
遠くから見るとおにぎりのように見えるところから、麦飯山と書いて「むぎいやま」と読むのが、この山かなあと、私は思っているのですが、確かめることのないまま今日に至っています。
_IMG7779.jpg
戦国時代、中国地方最大勢力の毛利氏と、織田信長・羽柴秀吉方についた宇喜多氏との間で戦われた「八浜合戦」は、この地を舞台にしています。当時、麦飯山の頂上には、二つの城があったそうで、今見ても、確かに頂上が、遠目にも平らに見えるように思えます。
麦飯山城は、宇喜多直家の家臣、明石源三郎の居城で、 宇喜多家の支城でした。当時、宇喜多と毛利は同盟関係にありましたが、宇喜多は、戦局を見て織田方に寝返ります。毛利は、中国地方攻めを進めている秀吉軍が、備前に入る前に岡山城を攻めようと考え、その拠点にするため、麦飯山城を奪おうとして攻撃を加えました。
毛利軍2万人が、山の周囲を囲み、兵糧攻めを加えたのに対し、 宇喜多の勢3千人が籠城しますが、山上には井戸がなく、麓の水源もおさえられたため、城から討って出、ふもとの八浜地区で激戦が繰り広げられました。
城主明石源三郎は、毛利軍の侍大将荘勝資と一騎討ちで戦死。家老の田中源四郎も、戦死して落城します。一方、勝った荘勝資も、明石源三郎の家来に討たれました。
八浜合戦は、1582年。「女軍の戦」で知られる常山城の合戦(1575年)から、数年後のできごとです。


今日はこれにて。


nice!(39)  コメント(2) 

フォト蔵にアップしている私の写真はこちらです。

写真販売サイトにも画像を掲載しています。
写真素材 PIXTA