久しぶり、の巻 [折々散歩]
早や五月、の巻 [折々散歩]
「ありふれた」鳥、の巻 [折々散歩]
逆さ「児島富士」再掲、の巻 [折々散歩]
児島湖に常山(児島富士と呼ばれる)が映って、逆さ富士が現出します。真夏の空がまぶしい季節です。(7/6撮影)連休、久々の雨が続き、今週はまた真夏の様子。クマゼミが早や競い鳴く朝八時皆様お達者で新ブログ「ナードサークの四季vol.2」の、今日付の記事にも,逆さ児島富士を載せておきましたのでそちらもご覧いただければ幸いです。
牧野富太郎の故郷のヤマボウシ、の巻 [折々散歩]
牧野公園のあゆみHistory
新年の後楽園 [折々散歩]
雨の深山公園散歩、の巻 [折々散歩]
ウ!の巻 [折々散歩]
詫び初め、の巻 [折々散歩]
私が管理をお手伝いしているある教育系団体のホームページのトップページに、あたかも初日の出のごとくに装って、こんな写真を掲載しました。
実はここだけの話ですが、これは去年の12月末のある朝の日の出の写真です。この事実は、どうか皆様、ヒミツにしてくださいませ。
気が咎めるので、元旦の日の出も写しておきました。
何となく、今年はよい事あるごとし。元日の朝、晴れて風無し。
と石川啄木がうたった朝のように、風のない穏やかな元旦でした。ただ、「数年に一度レベルの寒波」の影響による厳しい冷え込みは、さすがに身に応えます。
麦の芽が生え初めた田園は霜に覆われ朝日に輝いています。
初日を浴びた常山。児島富士とも呼ばれます。
散歩道の上空を飛んできたこの鳥は?
明け方の暗さに対応すべく、50mm単焦点レンズを装着して歩いたので、遠くの鳥などは豆粒ほどにも写りません。トリミングしてみます。
どうでしょう。ぼんやりとながら、ワシタカの姿態が見て取れますね。チュウヒ?でしょうか???
1富士、2鷹と来たら、3ナスビなのですが、シロウト菜園の茄子はもう季節が過ぎました。ご近所の農家では、ハウス栽培の茄子が実り、この季節も盛んに出荷されています。茄子は地元の名産品です。
というこじつけで、ビニールハウスを写しておきました。
アップ直前になってふとこのネタに覚えがあるぞと感づき、記憶をまさぐるうちに、以前、この記事で紹介したM師のアイデアの知的所有権侵害にほかならず、しかも質においてはそれに及ばないことに気づきましたが、もう遅い。M様、そして読者の皆様お許し下さい。
初夢」「梅の花」「相撲」の三題噺、の巻(2017-01-09)
「初夢」
M師から、こんなお正月メールをいただきました。初夢は一富士、二鷹、三茄子と言いますが、この三つを写しにkazgさんの近所を回りました。
一富士のつもりです。
二鷹は7区でチョウゲンボウを見ましたが撮影はできませんでしたので吉備中央町で写したハイタカです。
三茄子もちょっと無理がありますがこれでどうでしょう。
今日はここまで。
今年もゆるゆる、の巻 [折々散歩]
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
今年の年賀状のWEB版をお届けします。
部分的に拡大させていただきます。
悪疫退散・一陽来復
コロナ禍いまだ収まらず、いのち軽視の政治は続く。が、陰極まれば陽に転ずとか。挫けず、倦まず、諦めず、今年も、ゆるゆる参りましょう。
わが家の近況メモ
kazg 年の瀬のパソコン故障で、物心ともに大打撃。ようやく年賀状を書くだけの気力が回復したところです(笑)。
妻 棉栽培2年目。綿繰りして紡いだ糸で、綿織物に挑戦するのが今年の抱負。
長男一家 春からK男は大学生に。A郎は中3、バスケを続けます。年女のR子は小6、A女は小2。二人とも体操・習字を頑張ります。
長女一家 (瀬戸内市) 母ちゃんは育休明けで職場復帰。A子ひは小学校入学。Y男は幼稚園。それぞれ新生活へ。
次男一家(大阪市)新株コロナに警戒しながらも、正月は久しぶりに帰省。K子は、来春小3で、すっかりお姉さん。A男三歳、テレビ電話での応答も一人前です。
郷里の父母 夏には、ブレーキ踏み間違い防止装置の話題で TVで紹介してもらった父は、その後体調を崩し、入院加療を経て、現在、介護老人保健施設へ入所中。食欲・意欲も回復し、元気ですが、面会は2人以内で週1回、10分に限られます。つくづくコロナが恨まれます。
新年早々、恒例の訂正記事を一件。
前回の記事で、こんなことを書きました。
これなあに??
コサメビタキでしょうか???
早速、フェイスブック上で、複数の「お友だち」から、キクイタダキではとのご教示をイタダキきました(ダジャレ)。ありがとうございました。早速こんなコメント返しをしたところです。
H様、M様、ありがとうございま-す。身体の小ささから、最初キクイタダキかと思って写しましたが、黄色い頭頂部を確認できず、迷ってしまいました。ご指摘に感謝し、キクイタダキに会えたことが確認できたことにも感謝です。
キキイタダキは、私にとっては、ちょっと特別な鳥で、見つけることができて、しかもカメラに収めることができると大変幸せを感じます。過去記事で、初登場はこれでしょうか?
この顔、カワウソに似てません?
」
頭のてっぺんに黄色い飾りが見えるような気がします。
キクイタダキでしょうか?
「菊戴」、つまり頭のてっぺんに菊の花をいただいているという命名だそうですね。もしそうだとすると、初めて撮影に成功したことになります。
菊の模様はなかなか見えません。
今日はこれにて
霧、の巻 [折々散歩]
年々、欠礼はがきをいただく機会が増えましたが、今年はなんと、二十通以上になりました。いずれもご身内の方の不幸に関するお知らせですので、謹んでお悼みする思いに軽重はないというものの、かつて深いお付き合いをいただき、その後久しくご無沙汰が続いている方が、思いがけなくも逝去されたとの報を、ご家族の方からいただくようなケースが重なり、気が塞いでいます。
なかでも、ずっと以前、同じ職場で五年ほどの間、毎日仕事をともにし、折に触れては食事会や家族旅行などもご一緒させていただいた同僚(先輩)で、三十数年も賀状のやりとりだけでお目にかかる機会のなかった今年のうちにあいついで亡くなられた由。心に霧がかかったように、寂寞の思いを抑えることができません。
放射冷却の影響か、深い霧が一面を覆い尽くす朝が、最近、しばしばあります。朝散歩も見通しがききません。
霧の中の鳥。
散歩中のコガモです。
霧の中の花。
ぐっしょり露を帯びた皇帝ダリアです。
最近の朝散歩での鳥写真を載せます。
まずは、スズメ。
ムクドリ。
ツグミ。
ハクセキレイ。
モズ。
ハトの群れ。
アオサギ。
ダイサギ。
次は、朝の花です。
赤いボケ。
散歩道のバラ。
菊いろいろ。
サザンカ。
今日の付録。
久しぶりに見たヌートリア。
有害外来生物として駆除対象になっていますので、個体数は減っているようですが、「健気に」生き延びているようです。
今日はこれにて。
コロナの合間に洋学を見学、の巻 [折々散歩]
昨日の記事のつづきです。
「ようがく」と入力すると「洋楽」と変換されてしまい、「洋学」と訂正するのに手間がかかります(さすがに今日は、IMEの学習効果のおかげか。一発変換してくれます(笑)
今日の話題は、「洋学」です。
「洋学」といえば、即座に「蘭学」が連想されます。
「蘭学」と言えば「解体新書」(ターヘルアナトミア)が心に浮かびます。以前、こんな記事を書きました。
ウにサギに スズメにヒバリ フルヘッヘンド(2013-09-10)
杉田玄白というと「解体新書」(ターヘルアナトミア)ですか?小学校だったか中学校だったかの教科書で、「フルヘッヘンド」という言葉を翻訳する苦労を描いた文章を読んだ記憶がありました。そうそう、菊池寛の「蘭学事始」でしたね。
「青空文庫」から引用しておきます。
彼らは、眉、口、唇、耳、腹、股、踵などについている符号を、文章の中に探した。そして、眉、口、唇などの言葉を一つ一つ覚えていった。
が、そうした単語だけはわかっても、前後の文句は、彼らの乏しい力では一向に解しかねた。一句一章を、春の長き一日、考えあかしても、彷彿として明らめられないことがしばしばあった。四人が、二日の間考えぬいて、やっと解いたのは「眉トハ目ノ上ニ生ジタル毛ナリ」という一句だったりした。四人は、そのたわいもない文句に哄笑しながらも、銘々嬉し涙が目のうちに滲んでくるのを感ぜずにはおられなかった。
眉から目と下って鼻のところへ来たときに、四人は、鼻とはフルヘッヘンドせしものなりという一句に、突き当ってしまっていた。
むろん、完全な辞書はなかった。ただ、良沢が、長崎から持ち帰った小冊に、フルヘッヘンドの訳注があった。それは、「木の枝を断ちたるあと、フルヘッヘンドをなし、庭を掃除すれば、その塵土聚(あつま)りて、フルヘッヘンドをなす」という文句だった。
四人は、その訳注を、引き合しても、容易には解しかねた。
「フルヘッヘンド! フルヘッヘンド!」
四人は、折々その言葉を口ずさみながら、巳の刻から申(さる)の刻まで考えぬいた。四人は目を見合せたまま、一語も交えずに考えぬいた。申の刻を過ぎた頃に、玄白が躍り上るようにして、その膝頭を叩いた。
「解(げ)せ申した。解(げ)せ申した。方々、かようでござる。木の枝を断ち申したるあと、癒え申せば堆(たか)くなるでござろう。塵土聚(あつま)れば、これも堆(たか)くなるでござろう。されば、鼻は面中にありて、堆起するものでござれば、フルヘッヘンドは、堆(たか)しということでござろうぞ」といった。
四人は、手を打って欣びあった。玄白の目には涙が光った。彼の欣びは、連城の玉を獲(と)るよりも勝(まさ)っていた。
解体新書と言えば、吉村昭「冬の鷹」がありました。これは、前野良沢にスポットを当て杉田玄白、平賀源内の、三者三様の生き方が描かれていておもしろい。
良沢のことば、「人の死は、その人間がどのように生きたかをしめす結果だ。どのように死をむかえたかをみれば、その人間の生き方もわかる」一応メモしておきましょうか。
「解体新書」は、ドイツ人J.クルムス著『解剖図譜』"Anatomische Tabellen"第3版のオランダ語訳書"Ontleedkundige Tafelen" を、杉田玄白・前野良沢らが苦心の末日本語訳して刊行したもので、日本初の西洋医学翻訳書として知られています。
が、それは、解剖学・外科の分野を扱ったもので、内科の分野では、江戸詰の津山藩医宇田川玄随(うだがわ げんずい、号は槐園(かいえん)がオランダ人ゴルテルJ.de Gorterの内科書を翻訳した「西説内科撰要」が最初とされます。
津山洋学資料館のホームページから、関連箇所を引用します(ww.tsuyama-yougaku.jp/Vol3.html)。
『解体新書』を出版した杉田玄白が活躍していたころ、津山藩の江戸屋敷に宇田川玄随(槐園)という藩医がいました。
(中略)
この宇田川玄随が、日本最初の西洋内科書『西説内科撰要』(全18巻)の刊行を開始したのは、寛政5年(1793)、39歳のときでした。
日本の医学は古くから中国の医学を基礎に発達してきたので、それを信じて疑わない漢方医たちは、新しい西洋医学に強く反発していました。もちろん、玄随も最初はその一人でした。しかし、杉田玄白らの蘭学グループと交流したことにより西洋医学を志し、10年もの歳月をかけてこの内科書を翻訳したのです。
出版したとき『解体新書』の刊行からすでに19年経っていましたが「西洋医学とは外科だ」と言われるほど、西洋内科に関する知識はほとんどありませんでした。この書の刊行によって次第に知識が広まり、西洋内科の専門医が生まれることになったのです。
では、この事業をやり遂げた玄随とは、一体どのような人物だったのでしょう。『西説内科撰要』の序文には、中国のことわざなどが巧みに引用されています。また、残されている手紙を読んでも、文章や用語、筆使いとも群を抜いていて、大変な勉強家だったことがうかがえます。杉田玄白も『蘭学事始』で玄随のことを「漢学に詳しく、非常に物知りな人である」とか、「もともと秀才で、その上根気強い人なので、彼の研究は大変進んだ」と高く評価しています。
『西説内科撰要』は18年をかけ、3巻ずつ6回に分けて刊行されました。しかし、惜しくも玄随は、最初の出版から4年後、刊行半ばに43歳で世を去ります。そのため、その後の刊行は養子の玄真によって引き継がれたのでした。
津山洋学資料館の前庭には、宇田川玄随をはじめ、養子の玄真(げんしん)、そのまた養子の榕菴(ようあん)と続く宇田川三代のブロンズ号が見学者を迎えてくれています。
同ホームページから関連部分をひきつづき引用します。
http://www.tsuyama-yougaku.jp/untitled20.html
○洋学の家 宇田川(うだがわ)三代
宇田川家は代々漢方医の家系でしたが、玄随のとき蘭方医に転向しました。玄随は西洋内科学を日本に紹介し、洋学は養子の玄真、榕菴へと受け継がれ、医学から自然科学へと宇田川家の家学を完成させていったのです。この三代を特に「宇田川三代」といい、その功績は明治以降の近代科学の発展に大きな影響を与えました。
宇田川玄随(槐園) 1755年(宝暦5)~1797年(寛政9)
~初めて日本に西洋内科学を紹介 津山に蘭学をもたらす~
▲ 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵
津山藩医・宇田川道紀の長男に生まれ、槐園と号しました。
初めは漢方医として蘭学を嫌っていましたが、25歳のとき幕府医官・桂川甫周や仙台藩医・大槻玄沢から西洋医学の正確さを教わり蘭方医に転向、大槻玄沢や杉田玄白らについて蘭学を修めました。
桂川甫周のすすめに従ってオランダの医者ゴルテルの『簡明内科書』を10年かけて翻訳し、日本初の西洋内科学書『西説内科撰要』を著述しましたが、刊行途中に43歳で亡くなり、養子の玄真が遺志を継ぎました。
杉田玄白は回想録「蘭学事始」の中で、「(玄随は)漢学に厚く博覧強記の人」「鉄根の人ゆえ、その業大いに進み」と玄随のことを述べています。
津山に蘭学をもたらした先駆者です。
宇田川玄真(榛斎) 1769年(明和6)~1834年(天保5)
~翻訳力は当代随一 蘭学中期の立役者~
▲ 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵
伊勢の安岡家に生まれ、江戸で大槻玄沢・宇田川玄随・桂川甫周などについて蘭学を学びました。杉田玄白にその才能を見込まれ養子になりますが、身を持ち崩したために離縁されます。のちに苦学して再起し、稲村三伯を手伝い日本初の蘭日辞書『ハルマ和解』の編さんに従事しました。寛政9年(1797)に宇田川玄随が亡くなりましたが、跡継ぎがなかったため、大槻玄沢らの斡旋により宇田川を継ぎ、榛斎と号しました。
西洋の解剖科や病理学、生理学まで紹介した『医範提綱』や、薬学書『和蘭薬鏡』『遠西医方名物考』などを著して、全国の医師を指導しました。また、幕府天文方の蕃書和解御用(外国文章翻訳の仕事)にも出仕しました。
箕作阮甫・緒方洪庵ら多くの蘭学者を直接育成したことから、「蘭学中期の大立者」と称されました。
膵臓の「膵」やリンパ腺の「腺」という字(国字)をつくったことでも知られています。
宇田川榕菴 1798年(寛政10)~1846年(弘化3)
~近代科学の確立に貢献 江戸時代最高の化学者~
▲ 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵
大垣藩医の江沢養樹の長男として江戸に生まれ、14歳で宇田川玄真の養子になりました。のちに馬場貞由についてオランダ語を学びました。
日本初の本格的西洋植物学書『植学啓原』や日本初の本格的な化学書『舎密開宗』を著し、近代科学の確立に大きな功績をあげました。
さらに、オランダの地理や歴史、西洋の度量衡の解説書や西洋音楽理論書、コーヒーについてまで、幅広い分野にわたって研究しました。オランダ語の書物をもとに、大量の下書きや模写も残しています。シーボルトとは江戸で親しく交流しました。
「細胞」「繊維」「葯」「柱頭」「酸素」「水素」「酸化」「還元」「温度」「圧力」などの植物・化学用語を造語し、「珈琲」の当て字をした人物として知られています。
好奇心が旺盛で、語学力や文才・画才にたけた榕菴は、魅力あふれる江戸時代の蘭学者です。
上に記事に登場する緒方洪庵(おがたこうあん過去記事で話題にしたことがありました。
重ね着の紅葉の錦や村時雨(2013-11-27)
足守と言えば、かつて従弟が、縁あってこの地に赴任していたことがあります。赴任したての頃、「いいところですよ」と「緒方洪庵、木下利玄、メロン、蛍」などの自慢をしてくれた記憶があります。
緒方洪庵は、幕末の蘭学者。この地の下級藩士の子として生まれました。大阪、長崎で学び、大阪に「適塾」をひらき、福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など、幕末・明治維新の時代に活躍した多くの人材を育てました。
司馬遼太郎は、その作品「花神」の中で、こう書いています。
なぜ洪庵が医者を志したかというと、その動機はかれの十二歳のとき、備中の地にコレラがすさまじい勢いで流行し、人がうそのようにころころと死んだ。洪庵を可愛がってくれた西どなりの家族は、四日のうちに五人とも死んだ。当時の漢方医術はこれをふせぐことも治療することにも無能だった。洪庵はこの惨状をみてぜひ医者になってすくおうと志したという。その動機が栄達志願ではなく、人間愛によるものであったという点、この当時の日本の精神風土から考えると、ちょっとめずらしい。洪庵は無欲で、人に対しては底抜けにやさしい人柄だった。適塾をひらいてからも、ついに門生の前で顔色を変えたり、怒ったりしたことがなく、門生に非があればじゅんじゅんとさとした。
「まことにたぐいまれなる高徳の君子」と、その門人のひとりの福沢諭吉が書いているように。洪庵はうまれついての親切者で、「医師というものは、とびきりの親切者以外は、なるべきしごとではない」と、平素門人に語っていた。
足守の先は吉備路の紅葉かな(2014-11-08)
そしてシーボルトに関連してこんな記事も書きました。足守と言えば、もう一人、歴史に名を残す偉人があります。
江戸時代の医師、蘭学者として知られる緒方洪庵が、この地の出身です。
洪庵は、適々斎とも名乗り、大坂に適塾(適々斎塾)を開き、福沢諭吉ら多くの人材を育てました。
種痘の普及にも尽力して天然痘治療に貢献するなど、日本の近代医学の基礎を築いたことで知られています。
その緒方洪庵の誕生の地を、初めて訪ねてみました。
矢印に沿って歩きますが、最後の0.1kmの表示の先が、どう進んで良いのかわかりません。
看板の脇をこんな道路が走っており、「洪庵トンネル」というトンネルがありましたので、これをまっすぐ通り抜けてみました。
でも、とても0.1kmとは思えない長さでした。出口まで歩いてもそれらしいものは見つかりませんので、すごすご引き返しました。
「この先行き止まり」とある表示がありましたので避けたのですが、よく見ると自動車が通れないという意味らしい。
その細道を少々歩いて見ますと、なんだ、すぐそこにありました。
白黒画像になっているわけは、カメラ(pentaxq7)
の設定ダイヤルが勝手に回って、モノクロ設定になっていました。便利なダイヤルですが、摩擦によってダイヤルが回り、設定が変わるのは迷惑です。その都度
確かめればいいのですけれど、うっかり何枚か写して気づくことが多いです。設定ミスに気づいて、 カラー撮影に戻しました。
大きなブロンズ像と顕彰碑が建てられています。この碑の下には、洪庵の臍の緒、元服の時の遺髪が埋められているそうです。
ん?健忘斎?の巻
いつも通る商店街のあちらこちらに、「オランダ通り」と書いた旗が掲げられています。
RICOH gx200で撮影。
オランダ通り商店街のページにはこうありました。
●オランダ通りは岡山県の中心市街地、表町商店街のアーケード通りに平行して位置する南北1km程度の通りに、ブティックやギャラリー、飲食店等が並んでいます。
●オランダおいねとゆかりの深い場所であることから「オランダ通り」と名称がつけられました。
●平成10年(1998年)には、電線の地中化や、車道にレンガを敷き、屈曲化して歩道と接するようにするなど、歩行者優先の街路に変身しました。シーボルトの娘楠本 イネ(「オランダおいね」)は、日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られます。彼女と。この「オランダ通り」との縁については、岡山県立図書館提供のレファレンズに詳しい紹介があります。
質問
(Question)オランダ通り(岡山市)について知りたい。
回答
(Answer)オランダ通りがある岡山市表町に関する資料『岡山表町飛翔記』及び表町の開発計画を記す『商業近代化地域計画報告書』によれば、オランダ通りは 江戸時代長崎県出島のオランダ商館医であったドイツ人医師シーボルトと楠本お滝との間で生まれた娘、楠本イネ(俗にオランダおいね)にちなんで名付けられた。
楠本イネについては『岡山県歴史人物事典』に記事があり、また石井宗謙との関係で『勝山が生んだ人物略伝』などにも記述がある。それによればイネはシーボルトの教えを受けた蘭学者たちの支援を受けて長崎で成長し、19歳になると、現在の岡山市内に移り住み、シーボルトに学んだ石井宗謙のもとで産科医を学び始めた。この間6年あまり岡山で過ごす。この石井宗謙の居宅があった通りがこのオランダ通りであった。やがてイネは石井宗謙との間で子どもをもうける。しかし、この妊娠は本人の意志ではなかったようで、身重にもかかわらず、直後に岡山を離れ、故郷の長崎に帰っている。彼女はその後、開国後来日した父シーボルトと再会を果たすとともに、明治になると東京に移住、産科医として活躍した。この楠本いねについては司馬遼太郎『花神』でも取り上げられている。
一方、商店街の再開発については『商業近代化地域計画報告書』で様子が分かる。それによれば表町商店街は1970年代から再開発の議論が頻繁に行われるようになっていた。そのような中、岡山地域商業近代化委員会によって出された1986(昭和61)年の「商業近代化地域計画報告書」で、オランダおいねにちなんで、オランダというテーマで町を再開発する計画が示される。ちなみに議論が行われていた1970年代後半の77(昭和52)年には『花神』がNHK大河ドラマに取り上げられている。
計画でのオランダ通りのテーマは「オランダを感じさせ、人々が集い親しめるまちづくり」で、通りを北から南へ「芸術」「ファッション」「大衆」「庶民」性のある四つのゾーンに分けて整備を行うことになっていた。そして実際の整備は『岡山表町飛翔記』に記事があり、1990(平成2)年のオランダ風の外壁を持った「エターフェビル」の完成などを経て、1999(平成11)年の「オランダ東通り」の完成で終了している。
津山の洋学を彩るもう一人の立役者、箕作阮甫(みつくりげんぽ)とその一門についての話題は次回に。
今日はこれにて・・・
コロナの合間に出雲街道を歩く、の巻 [折々散歩]
出雲街道を(ちょこっと)歩いてきました。
こんなバスに連れられて・・・
年金者組合地元支部が主催する2年ぶりのバス旅行が、先日の土曜日実施され、参加してきました。コロナ禍のもと、このような企画はしばらく自粛中でしたが、感染の波も静まりつつある状況を受けて「再開」されたもの。
それにしても、このたびの新型コロナ感染症、わが岡山県は、感染者数自体は決して目立つ数字ではありませんが、それはもちろん人口規模が小さいためにほかなりません。
一日ごとの感染者数、人口規模の割には、深刻な状況が続きました。
10万人あたりのコロナ感染者数は、全国有数の数値を記録し、日によっては、全国ワースト1に躍り出たことも少なくありません。
10万人あたりのコロナ感染者数は、全国有数の高い数値を示しています。日によっては、ワースト1に躍り出たことも少なくありません。
中国地方では、広島をも遙かに抜いて、ダントツの記録を維持し続けてきました。
ここ数日で、ようやく静まった感がありますが、またまたオミクロンなる変異株の流行が、海外では始まっていて、日本への流入例も確認された由。インフルエンザ流行と並行して、コロナの新たな感染拡大も懸念されます。
それにしても、ギリシア語のアルファベットも、アルファ、ベータ、ガンマの辺りまでは順に口ずさむことができますが、オミクロンとなると調べなければわかりません(汗)
新たな大流行を抑えて、世界中に平安が訪れる日の早いことを祈るばかりです。
束の間の「凪」、嵐の合間かも知れませんが、穏やかで睦まじい旅を楽しむことができました。
「津山」という土地は、わが郷里からも近く、なじみの深い場所でもあって、わがブログの過去記事でも何度か紹介したことがありました。
桜前線北上すの巻(2014-04-02)
津山城を築城した初代城主は、信長のお気に入りの小姓として知られるあの森蘭丸(成利)の弟、森忠政です。
彼も、13歳の時、兄と同様信長の小姓として出仕しますが、先輩の梁田弟河内守にからかわれたのに立腹し、梁田を部屋の隅に追いつめ頭を扇で叩いたため、幼すぎると見なされて、信長に親元へ返されました。これが幸いして本能寺の変に巻き込まれることなく、命拾いしたそうです。その後、豊臣秀吉に仕え羽柴姓を授けられますが、秀吉死後は徳川方につき、関ヶ原の戦では徳川秀忠に属して真田昌幸を攻め,その後の大阪の変を経て、美作国18万6000石を与えられ、鶴山に城を築きました。津山城は、櫓の数の多さでは、広島城、姫路城と肩を並べる、雄大な名城であったそうですが。明治6年(1873年)の廃城令により天守・櫓などの建物が破却され天守台・石垣のみが残されました。昭和11年(1936年)模擬天守が建てられましたが、太平洋戦争中に空襲の目標とされることを恐れて解体されました。
今回のバス旅行では、津山城(鶴山公園)そのものは見学の対象から外れますが、初代城主森忠政が整備した城下町の様子を伝える「城東町並み保存地区」(国の重要伝統的建造物群保存地区に選定)をガイドの解説を聞きながら散策しました。
この街並み、旧出雲街道沿いにの往時の面影をそのまま残した建物が連なります。市民・行政の尽力により保護・保全が進められています。
ちなみに旧出雲街道については、たとえばこんな過去記事でご紹介済み・・・
故旧また出雲街道を行く、の巻(2018-12-17)
前回のこの記事の回(はたらく自動車?クリーンエネルギー???の巻)に引き続き、イチローさんのお宅にお邪魔し、鍋を囲みました。
(中略)
集合場所は、前回と同じ美作土居駅。
駅前の看板は前回もご紹介しました。
よく見ると、『土居駅跡』という史跡の紹介があります。もちろんJR土居駅のことではなく、人馬問屋=問屋場の跡なのですね。
といや‐ば〔とひや‐〕【問屋場】
江戸時代、街道の宿駅で、人馬・駕籠(かご)などを用意して、旅人の便宜をはかった所。駅亭。出典 小学館デジタル大辞泉
イチローさんの先導で、この旧街道跡を車でゆっくり移動し、美作市立土居小学校のほとりへ向かいます。
土居小学校のHPからアクセス地図をお借りします(無断借用)。
こんな碑がありました。
最後の碑文に記されている文章の一部を転記してみます。
出雲街道土居宿の成り立ちと姫新線
出雲街道は畿内と出雲を結ぶ道として発達してきましたが、 最も大きな変化を遂げたのは今から約四百年前の津山一潘主森忠政の時代(慶長年間)に、幕府から参動交代のための街道等の拡張整備を命ぜられたことによります。
その後、 武家諸法度の改正等により参勤交代の制度が確立したことから、土居宿においても大名・動使・ 上級武士が泊まる本陣と脇本陣、家来や従者が泊まる宿屋、参勤父代に必要な人足や馬が常備され、飛脚が連ぶ荷物なども扱う人馬間屋、 また全国的にも例が少ないとされる東西の惣門 (西惣門は跡地付近に復元) などの街道宿場としての主要施設が徐々にととのい繁栄を極めておりました。また姫新線が全通して八十年となりますが、(中略)
トンネル掘削から百年、 姫新線全通から八十年を経過した今日、時代の先駆者の偉業を偲ぶとともに、出雲街道士居宿の歴史とあわせて後世に伝えていきたいとの思いから、 記念碑を建立したものです。
平成三十年三月
出雲街道土居宿を後世にのこす会
JR姫新線(きしんせん)は、兵庫県の姫路(ひめじ)と岡山県の新見(にいみ)を結ぶローカル線で、おおむね旧出雲街道に沿って走ります。津山はその途中にあるターミナル駅です。
自動車の通行にはやや不便ながら、当時の出雲街道(出雲往来と呼ぶべきとの意見もある?)のままの道幅で残されているとか。
通りがすぐに行き止まりになるのは、この城下町が建設された時、軍事上・防衛上の観点からの街づくりがなされた由。見通しを妨げ、多数の軍勢が勢いよく攻め寄せることを拒む構造となっているそうです。
初代津山城主森忠政が、この地に封じられ築城と街づくりに着手したのは、慶長8年(1603年)。それが完成したのは、16年後の元和2年(1616年)。ちょうど大坂の陣【冬の陣=慶長19年(1614年)、夏の陣=慶長20年(1615年)】を含む政乱がおさまりやらぬ時期だけに、実戦的対策がなされていたことがよくわかります。
その街並みの一角にこのような施設があります。
箕作 阮甫(みつくり げんぽ)旧宅。
「津山洋学資料館」
これについてはまた次回。
きょうはここまで。
最近のご近所散歩、の巻 [折々散歩]
最近、何かと車に乗っている時間が長く、そうでなければ椅子に座ってばかりで、ウォーキングの時間がなかなか取れません。自宅の周りだけでも数十分は歩きたいのですがそうできない日も多いです。
急に冷え込みが厳しくなりました。
と思っていると、日中陽射しがあると暑くなり、汗をかいて着替えが必要なほどです。
今日の記事は、そんなご近所散歩の写真がメインです。
ジョウビタキ♂
ジョウビタキ♀
ムクドリの群れによく出会います。
電線にはコサギも止まっています。
近所の小川(農業用水)に、今年もコガモが渡ってきています。
その農業用水路が最近、次々に掘り返され、コンクリート化工事が進んでいます。
コガモにとっては迷惑なことでしょう。
小魚や水生小生物も住みにくくなります。そして、それらを餌とする鳥たちにとっても厳しい試練でしょう。
こちらは、我が家近くの別の小川。
時々見かけはするけれど、撮影できずにいるこの鳥が、草の陰でキラリと光ったように思えました。
おわかりでしょうか?トリミングします。
やはりカワセミでした。
近づいて撮り直そうとすると、気づかれて飛び去ってしまいました(残念)
下の写真は2.3日前の夕景。
「天使の梯子」「薄明光線」が見えました。
今日はこれにて。
なおもカモカモエヴリバディ、の巻 [折々散歩]
ここのところ、人に会うたびに、NHK朝ドラの話題に花が咲きます。
23日朝放送の第17回「空襲」は、また一段と印象深い回でした。
YAHOOニュースの紹介記事をお借りします。
『カムカムエヴリバディ』妻と母を同時に亡くし…“金太”甲本雅裕の叫びに「言葉もない」
NHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』(NHK総合/毎週月曜~土曜8時ほか)の第4週「1943-1945」(第17回)が23日に放送。安子(上白石萌音)たちが暮らす岡山の町にもB29が襲来。空襲が終わり焦土に残された父・金太(甲本雅裕)の悲痛な叫びに、ネット上には「胸に刺さる」「涙止まらん」といった反響が巻き起こった。
1945(昭和20)年。安子は赤子のるいを連れて橘家に帰り、久々に祖母・ひさ(鷲尾真知子)や父・金太、母・小しず(西田尚美)たちと思い出話に花を咲かせ、温かな時間を過ごす。しかしその頃、戦況は悪化の一途をたどり、B29による爆撃は東京、大阪などの市街地を襲っていた。ある日の夜、B29が岡山にも襲来。焼夷弾の音で目覚めた安子は、雉真家の人々と共に防空壕へ逃れる。一方、金太はひさや小しずを防空壕へ避難させ、消火活動へ出かける。
空襲は止み夜が明ける。防空壕から抜け出し外へ出た安子の目には焦土と化した岡山の街が映る。そして安子はがれきのそばで力なく座る金太を発見。表情も変えず呆然とする金太に、安子が「お母さんとおばあちゃんは、どこ?」と尋ねる。すると金太は一点を見つめたまま「防…空…壕…」とつぶやき「防空壕は…焼夷弾に焼かれて…中のもんは皆…」とまで話すと一変。苦もんの表情を浮かべながら「わしが…言うた…“あの防空壕に…入れ”いうて…“待っとけ”いうて…」と言葉を絞り出す。安子も状況を理解し「お母さん…ばあちゃん…」とつぶやくと、金太は「小しずー! かーちゃーん! すまん! すまーん!」と力の限り呼びかけ、言葉にならない叫び声をあげて泣き続けるのだった。
地元岡山出身の甲本雅裕さん演ずる金太の慟哭は、その秀逸な演技ともあいまって、胸を打たずにはいられません。それは、しかし単にドラマの中のできごとではなく、わずか75年前、ここ岡山の地で現実に人々を襲った無数の悲劇だったのでした。
岡山空襲については過去記事でも再三書きました。
取り急ぎ、岡山空襲の日を走り読み、の巻(2016-06-29)
(前略)
きょうは、「岡山空襲の日」です。
ウィキペディアの記事を借ります。岡山空襲(おかやまくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)6月29日の午前2時43分から午前4時7分にかけてアメリカ軍により行われた岡山県岡山市に対する空襲。計画段階では戦略爆撃だったが、ほとんど無差別爆撃として実行された(後述)。この空襲ではアメリカ軍の爆撃機・ボーイングB-29およそ140機[1]が用いられ、空襲警報が出されず全くの不意打ちであったため死者が1737人にも及んだ。
6月29日には岡山市・佐世保市のほか宮崎県延岡市、福岡県門司市(現:北九州市門司区)が空襲を受け、夜には長崎県佐世保市が空襲を受けた(佐世保大空襲)。(中略)
岡山空襲に先立つ六月二〇日の水島空襲について、去年はこれら↓の記事を書きました。
もう一つの「今日は何の日」
四歳の目に焼きつきし夏の空
ここには、四才で水島空襲を体験されたM先輩の「手記」を紹介させていただきました。
そして、先日は、一〇才で岡山空襲・終戦を体験された方々の手記をもとにした朗読/演劇に接する機会がありました。この朗読/演劇の原作は、 「操山高校五期生の会」が、約二年の月日をかけて編集発行された手記「その時10歳の私は」。
そのとき十歳の私は、補遺(2016-06-30)
昨日の記事に、「戦争は、一〇才の子どもたちの手元から大切なものを次つぎともぎ取っていき、岡山空襲は、いわばとどめに、街を、家を、家族を、友人を焼き尽くしました。」と書いた時に、もう一つ念頭にあったのはこのエピソードでした。
クレパスの涙
の夜、ぐっすり眼っていた。祖母のただならぬ声。醒めきらない目に、 一面赤く染まった縁側のカーテンが映った。蚊帳の中を通いながら祖母は、「たえこ、くにこ空襲よ。たえこ、くにこ、早う、はよう」
と繰り返しながら、一年生の弟を抱えるように蚊帳をたぐっていた。
えっ空襲。
昼間の空襲警報の不気味なサイレンの音は何度も聞いて敏感になっていたが、サイレンの音は聞こえない。
同じ布団に寝ていた妹を揺り起し、手を引っ張って玄関から防空壕に逃げ込んだ。気が付くと妹は金魚柄、私は朝顔柄の浴衣の寝巻ににランドセルを背負っていた。
前後して父が四歳と二歳の第を、母は一歳になったばかりの弟を抱いて防空壕に入った。そこへ、一週問ほど前に離れへ疎開してきている親戚の年寄りと子どもが入ると、畳一枚ほどの防空壕は身動きできない。
この玄関前の防空壕は私の誕生記念に祖母が植えた八重桜の木を伐ってその跡に父が掘ったものだった。一人で防空壕の外に立って様子を見ていた父は「こりゃひどい。家が焼けだしたら危ない。橋の下へ迷げよう」と、家族と観戚を次々に防空壕から出した。
轟音と共に黒い機影が不気味に一機また一機と頭上をいく。機影が視界から消えた合間に小腰を屈めて二人、三人と順番に地続きの畑の東側を流れる用水へ急ぐ。
用水の岸辺から見る南の空は燃え上がって赤く、その明かりに照らされたおびただしい数の機影が旋回し交錯しながら腹から焼夷弾の束を吐き出す。後からあとから降る黒い塊は、落ちながら火を噴き二十にも三十にも炸裂し、辺りを照らす。遠くで、近くでドーンドーン、ドーン、ザッザザーッ。止む間もな<聞こえる。
「あっ、来たっ」機影が近付くと目を瞑って橋の奥に逃げこむ。息を凝らして身を寄せ合っていると爆音が違のく。そっと橋の下から覗く。その間に父は家に駆け込み、先ずは先祖の位牌を、次に箪笥の引き出しを一本ずつ持ち出す。父が家に入つている間、心配で妹と抱き合つて「爆弾が落ちませんように」と析った。
空を焦がす炎は拡がるばかりだった。(中略)
夜が白みかけたころ、ようや爆音は止み、機影も消えた。幸いみんなが最も心配していた隣の兵器廠も兵舎も被爆を免れた。家も家族も無事だった。
(中略)
人の波がいっとき途切れたときだった。煤けた顔の若い母親が晒のおんぶ紐で赤ちゃんをおんぶして、前を見やったまま裸足で歩いてきた。片手で小さな風呂敷包みを胸に抱きかかえ、他方の手を後ろに回し、赤ちゃんのお尻のあたりを支えていた。しかし弟と同じくらいの赤ちゃんは、胴体だけで頭は無かった。私は声も出なかった。祖母に駆け寄ったが、何といえばいいのやら、ただ祖母の胸に蹲っているだけだった。
低く垂れこめた空から、生ぬるい黒い雨がしょぼしょぼと降りだした。(後略)十歳の少女が引き受けるには、余りにもむごく、痛ましい体験です。いま、地球上のどの子どもも、決してこのような辛さを味わうことのない、平和で理性的な世界を築かねば、と強く思います。「集団的自衛権」の名のもと、他国(アメリカ)がひきおこした地球の裏側の戦争にまでも、「わが軍」を派遣して戦闘に参加させ、「殺し、殺される」事態を招来するアベ流の「積極的平和主義」はごめんこうむりたい。消費税引き上げ延期、アベノミクスの評価を問うなどとして、選挙の争点をぼかしながら、あわよくば2/3の与党議席を獲得した暁には、一気呵成に「明文改憲」に突き進む、なんてシナリオ、なおさらごめんですよね。
カモカモエヴリバディ、まだ続きます。
前回記事ではアメリカヒドリを贔屓しましたが、普通のヒドリガモもかわいいです。
児島湖にはカルガモの群れが大勢。
マガモ。
キンクロハジロも、鴨の仲間(カモ目カモ科ハジロ属)。
オオバンは、ツル目クイナ科オオバン属だそうです。
カンムリカイツブリはカイツブリ目カイツブリ科カンムリカイツブリ属だとか。
もちろんダイサギもカモじゃありません。ペリカン目サギ科。
葦原の中に、スズメたちに混じってこんな鳥がいます。オオジュリン♀でしょうか?これもカモではありませんが・・・。
今日はこれにて。
また今日もカムカムエヴリバディ、の巻 [折々散歩]
yahooニュースにこんな記事がありました。
【カムカムエヴリバディ】安子に続く悲劇 家族を襲う空襲…そしてさらなる悲報
NHK連続テレビ小説の第4週(11月22日から)の見どころを探る
NHKの連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」(月~土曜、午前8時)の第4週(11月22日から)も、ヒロイン・安子(上白石萌音)の出産というハッピーな出来事と同時に戦況の悪化による悲しいこともあるなど、テンポが早く、かなり濃い内容となりそうだ。
(中略)
NHKによると、学徒動員に応じて、稔(松村北斗)と勇(村上虹郎)は出征するという。そんな中、安子(上白石)は娘・るいを授かる。
一方、戦況は悪化し、本土への空襲が頻度を増す中で、岡山も大空襲を受け、市内の大半が焦土に。その後まもなくして終戦を迎える。空襲で家族を失い、悲しみにくれる安子だったが、父の金太(甲本雅裕)に和菓子作りを教わり、焼け跡で和菓子を売り始める。そんな中、安子の元にさらなる訃報が届く展開という。
「そちらへ行ってはいけない。」「その道は破滅へ続くゾ!!。」と伝えたいのに、むざむざあらでもがなの 不幸、試練を次々と引き受けなければならない登場人物たち。ドラマの上のことですが、それは、日本とアジアと世界の民を、わずか数十年前に実際に襲った数々の現実そのものであったでしょう。それに学ぶことなく、いつか来た道を勇ましく突き進まんとする歴代保守内閣。ソフトな装いで登場したキシダさんも、早々にしれっとおっかないことを公言しておられます。たとえば11月10日の記者会見
今回の総選挙結果を踏まえ、党是である憲法改正を進めるため、党内の体制を強化するとともに、国民的議論の更なる喚起と国会における精力的な議論を進めるよう指示をいたしました。
(中略)(記者)
憲法改正について確認したいのですけれども、総理は、衆院選勝利を受けた記者会見で、憲法改正について、3分の2以上の賛成を得られるよう議論を深めたいと述べています。この3分の2に向けて、憲法改正に前向きな日本維新の会や、あるいは国民民主党といった勢力と積極的に協力を求めていく考えはあるか、それともこの3分の2というのは、あくまでもそういう数合わせのような協力には否定的なのか、よろしくお願いします。(岸田総理)
〔前略)
憲法改正の議論につきましては、改正を実現するためには、与野党の枠を超えて3分の2以上の賛成が得られるようにしっかり努力を続けていくことが大事であると思っています。
ですから、結果として3分の2以上の賛成を得るべく努力をするということですので、御指摘のように、政党の枠組みでどうこうというのではなくて、結果を得るためにどうするべきなのか、しっかりと検討し、努力をしていきたい、このように思っています。
これを受けて、自民党の「憲法改正推進本部」を「憲法改正実現本部」に名称変更したんですってね。やる気マンマンですな。
「敵基地攻撃能力保有」の検討、軍事費GDP2%に拡大などの動きも顕著。
「そちらへ行ってはいけない。」「その道は破滅へ続くゾ!!。」大きな声を上げなくちゃ。
昨日は、隣市にすむ娘が、孫二人を連れて訪ねてきました。近くに住む孫も喜んで一緒に遊びました。
私は、日中は年金者組合地元支部の集まりがあり、小春日和の公園で、お弁当を食べながら、歌を歌ったり、レクリエーションを楽しんだり、睦まじく親睦交流を深めたり、年金問題の学習をしたり充実のひとときを過ごしました。最年長の参加者は90歳。かくしゃくたる壮健ぶりに、励まされます。紅葉が綺麗でした。
帰宅後、私の下心をかくして、深山公園のカモに餌をやりに行かない?と誘うと、女の子三人が乗ってきました。食パン三枚を持って出かけました。
私の下心というのは、この鳥に会えたらとひそかに願っていたのです。鳥撮り師匠であるM師の夫人S様から、アメリカヒドリの飛来情報をうかがい、実は先日ものぞきに行ったのですが、空振りだったのです。
ところが、孫たちを先に下ろして、私が遅れて池に近づき、既にパンくずを与え始めている孫たちの真ん前に、いたのです。
沢山のカモたちの中から、たった一羽のアメリカヒドリを見つけ出すのは、僥倖といって良いできごとでした。
アメリカヒドリについては過去記事にも書きました。
深山公園の出逢い(その2)の巻(2019-11-23)
よいお年を、の巻(2019-12-18)
今日はこれにて。
まだまだカモカモエヴリバディ、の巻 [折々散歩]
先日の夜のNHK番組で、朝ドラ「カムカムエヴリバディ」にちなんで、その舞台岡山の話題を紹介していました。
yahooニュースから記事をお借りします。
<日本人のおなまえ>「カムカムエヴリバディ」安子の実家は ..
<日本人のおなまえ>「カムカムエヴリバディ」安子の実家は和菓子司 その背景には意外な理由? 今夜「岡山ナゾ解き旅」
11月11日放送のNHKのバラエティー番組「日本人のおなまえ」(総合、木曜午後7時57分)は、連続テレビ小説(朝ドラ)「カムカムエヴリバディ」(NHK総合、月~土曜午前8時ほか)の舞台・岡山を特集する。朝ドラのヒロイン・安子(上白石萌音さん)の実家が和菓子司を営んでいる背景には、ある意外な理由があることが明かされる。
“安子”上白石萌音の両親が登場! 朝ドラ出演時とは雰囲気ガラリ? 松村北斗が英語を学ぶわけは… この日の番組では、「“カムカムエヴリバディ”の舞台 岡山ナゾ解き旅」と題して、岡山発祥の「おなまえ」を切り口に、さまざまな謎に迫る。スタジオには、安子の父・金太役の甲本雅裕さん、母・小しず役の西田尚美さんが登場する。 安子が思いを寄せる青年・雉真稔(松村北斗さん)は、熱心に英語を学んでいるが、番組では、英語を体得しようとした当時の岡山人の「先進性」に注目。桃太郎伝説との意外な関連も明かされる。
ドラマは、先週(11月8日~12日)あたりから第2週をむかえ、1939-1941の戦争の暗雲が立ちこめる時代を描きます。
NHKのWEBサイトでの番組紹介をコピーすると・・
夏休みが終わり、岡山から大阪に帰った稔(松村北斗)と文通を始めた安子(上白石萌音)。何通ものやりとりを通じて2人は心を通わせていくのでした。稔との仲を深める安子を小しず(西田尚美)は心配しています。一方、甲子園出場を目指して野球の練習に励む勇(村上虹郎)は、昔から安子へのある思いを抱き続けていますが、いつも言えずじまいです。そんななか、ヨーロッパでは戦争が始まり、世の中の気配も変化してきて…。
和菓子、英会話、野球など、市民にとってのささやかな喜びと楽しみの対象が、次々と禁止・抑圧されていきます。ことごとく、それらは少女安子にとっての平安と幸せの象徴にはかなりませんでした。物語を駆け足でたどると、こんな具合です。
週明けの11月8日(月)「戦争の足音」
・英語は敵国の言葉とされ、安子が楽しみにしているラジオ放送「実用英語会話」は終了してしまう。
・安子の小学校からの同級生雉真勇(村上虹郎)は、甲子園を目指して野球に打ち込んでいたが、野球の道具も手に入りにくくなってしまう。
・安子の祖父杵太郎(大和田伸也)が吸っていたタバコ「チェリー」が適性語にあたるとして「桜」に変更になる。
週末の11月12日(金)「戦争」
昭和16年(1941)6月、軍用機の燃料にするた砂糖は手に入らなくなる。和菓子屋「たちばな」の職人・菊井にも召集令状が届く。
ドイツがソ連に宣戦布告、夏の甲子園大会は中止になり、勇の夢は絶たれる。
12月、「帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」との臨時ニュースが流れる。そして、英語講座はラジオから消える。
ところで、上白石萌音さん演ずる主人公安子の父・金太役の甲本雅裕さんは岡山生まれ岡山育ち、母・小しず役の西田尚美さんは、広島育ちだけれど生まれは岡山だそうです。また「水田屋とうふ」の店主・水田卯平役の浅越ゴエさんも岡山出身。喫茶店『Dippermouth Blues』を営む柳沢定一(世良公則)の一人息子健一を演ずる前野朋哉さんは倉敷市の出身だそうです。
こうした地元出身タレントも含めて、朝から飛び交う(誇張された)岡山弁の洪水は、「ほっこり温かく懐かしい」とも言いかね、なんだか居心地悪いものです。特に県外出身者と思われる出演者の、にわか方言は、より一層、むずがゆく、心落ち着かない気分を誘います。
昔、「おえりゃあせんのう」のフレーズで岡山弁を全国に広めた長門勇さんの、泥臭いが愛嬌のある方言の魅力が、懐かしく思い出されます。
話はちょっとズレますが、最近、県立図書館図書館で徳川夢声朗読の吉川英治作「宮本武蔵」のCDを連続的に借りて、車の運転のたびに聴き続けていますが、武蔵やお通ほか、出身地とされる「作州」(岡山県北東部)の登場人物の言葉が、ちっともそれらしくないことに、ささやかなわだかまりを感じています。
一般に異郷の人が岡山弁を模する際に、アクセントがどうも関西弁風に傾く傾向があるようで、「話芸の神様」徳川夢声も、そのあたりの些細なところは特に考証もなく、すべからく鷹揚であったのでしょうか?確かに「作州」は播磨の国にほど近く、深く政治・文化の影響を被っていることは間違いないにしても、「作州弁〔美作弁)」と播州弁(播磨弁)との間にはおのずと違いがありましょう。
【参照記事1】ウィキペディアの「播磨弁」の項
播州弁(ばんしゅうべん)または播磨弁(はりまべん)、播磨方言(はりまほうげん)は、兵庫県南西部の播磨地方(播磨国)で話される日本語の方言である。近畿方言に含まれるが、語彙では中国方言と共通するものも多い[1]。西播方言(せいばんほうげん)と東播方言(とうばんほうげん)に二分される。
〔中略)
兵庫・岡山県境の船坂峠が播州弁の西端であり、峠を越えると中国方言に分類される岡山弁となるが、赤穂市・上郡町・佐用町は岡山弁との接触地帯としての特色がある
【参照記事2】ウィキペディア「宮本武蔵」の項
出生地
『五輪書』に「生国播磨」の記載があり、養子・伊織が建立した『小倉碑文』、江戸中期の地誌『播磨鑑』や泊神社棟札(兵庫県加古川市木村)等の記載による播磨生誕説(現在の兵庫県高砂市米田町)と、江戸時代後期の地誌『東作誌』の美作国(岡山県東部)宮本村で生まれたという記載による美作生誕説がある。
美作生誕説は、吉川英治の小説『宮本武蔵』などに採用されたため広く知られ、岡山県および美作市(旧大原町)などは宮本武蔵生誕地として観光開発を行っている。
【参照記事3】美作国の方言講座
http://mimasakanokuni.jp › local
美作地域の人々が日常的に使っている言葉が「美作弁(作州弁)」です。広い意味では「岡山弁」に含まれますが、岡山県南東部の「備前弁」や岡山県西部 の「備中弁」に比べる と、やや穏やかで優しい響きがすると言われます。親切で人情あふれる美作人の心が、美作弁からもうかがえるような気がします。
岡山弁の特徴のひとつに「連母音の融合」や「助詞の融合」が挙げられます。たとえば「長い」を「なげー」と発音したり(連母音の融合)、「耳は」を「みみゃー」 と発音する(助詞の融合)という現象ですが、美作弁は備前弁・備中弁に比べて、これらの「べたべた訛り」がややゆるいように思われます。
「カムカムエヴリバディ」の舞台は、岡山市の和菓子屋ですから、使われている言葉は上の記事の「備前弁」でしょう。また、前野朋哉さんの出身地倉敷市は「備中弁」のエリアになりましょうか?
一方、私自身、幼時から聞き慣れ話し慣れてきたのは「美作弁」であることから、「備前弁」の誇張された「べたべた訛り」になじめないという要素もあるかも知れませんが、それにしても、そこまでコテコテの訛りを聞くことは、日常的にはありませんから、訛りの誇張には懐かしさや親しみよりも、違和感を覚えてしまうのかも知れません。
さて今日のタイトルは、やっぱり性懲りもなくこの方々のお噂。
今日も深山公園を歩いてみました。赤松池は大勢のカモたちと、見物客で大賑わいでした。
ヒドリガモ。
オナガガモ♀
オナガガモ♂
近所の用水路にも、コガモの姿を多数見るようになりました。昨日の早朝散歩の記録です。
夜明けの田園風景スケッチです。
カモだけでなく、エヴリバディを紹介します。
モズ。早朝なので光が足りません。
久々に撮影できたジョウビタキ♀です。
カワセミ。これも久しぶりの撮影です。
入院中の父は、「要介護4」の認定を受け、介護老人保健施設へ入所することになりました。あす、入所の予定です。
今日はこれにて。
追伸あれこれ,の巻 [折々散歩]
爬虫類、両生類が苦手な方におことわりです。終わりの方に、不快画像が登場します。悪しからずご容赦ください。
追伸その1
昨日の記事で、「脚が黄色いように見えるのでキアシシギですかね?」と書いたこの鳥について、M師の奥様が、「キアシシギではなく アオアシシギ」と教えてくださいました。どちらもこれまで見たことがなく、アオアシシギは初見。初撮りです。ラッキーでした。
実は、昨日、性懲りもなく、再び同じ場所を訪ねてみたのです。
アオアシシギは見つけられませんでしたが、タシギはいました。
そして、またまたソリハシシギも見ることができました。色んなポーズを見せてくれました。
追伸その2
綿のその後です。
今日も郷里へ妻と帰り、雨の中、綿を収穫して帰りました。
まだ花も咲いていて、これから先の実りも期待されます。
持ち帰った綿は、ぐしょ濡れ状態ですので扇風機で乾かさねばなりません。明日も雨のようです、、、、
今日の付録 その1
綿を植えている畑は、お墓の近くです。今年も忘れず、ヒガンバナが咲いていました。
今日の付録 その2
もう秋ですのに、雨に誘われてアマガエルが出てきました。ガラス戸から、家の中をのぞき込んでいます。
下のカットは,何枚も撮ったのに全部ピンボケでした。残念。
追伸 その3
以前、畑作業中に崖から転落させて故障した耕運機を、最近、多少コンパクトな機種に買い換えました。これまで通り実家の畑でも使い、車に乗せて60km離れた我が家まで持ち帰り、こちらの畑でも使おうという目論みからです。
ここ数日、雨の隙間を縫って耕運機も試運転しながら、夏から秋へと、畑の模様替えをぼちぼち進めています。
その作業中の一コマ、こんな客に会いました。
全体像はこちらです。
最初は何か気づきませんでしたが,鎌首をもたげてこちらをじっとうかがっています。しばしのにらみ合いの末、彼は静かに去って行きました。
追伸 その4
雨上がりのプチ散歩、の巻(https://kazsan.blog.ss-blog.jp/2021-09-04)の記事に、 Enrique 様がコメントを下さいました。
蛇と菅さんはご勘弁。
爬虫類系はダメです。
それへのコメント返し。
>爬虫類系はダメ
同感です。一見、まず、忌避感が湧いてきてしまいます。
今度の総裁選でも、誰とはもうしませんが、なんだか爬虫類を連想させるお方(面相というか、雰囲気全体から)のお顔に、つい身がすくみ、直視できません。
いや、だからといって、ほかのどの候補者(の面相)がマシというわけでもありませんが、
外見で人を判断することは慎むべきでしょうが、「40 歳になったら、人は自分の顔に責任を持たねばならない」と、エイブラハム・リンカーンが言ったと、小学校で習った逸話も、忘れることができません。総裁選の出てくるヒトタチ、、どうしてあんなに、揃いも揃って「人品骨柄」に卑しさ、おぞましさ、軽佻浮薄さが漂うのでしょうか???
今日はこれにて。
白露の公園散歩、の巻 [折々散歩]
昨日、九月七日は、暦の上では「白露」だそうです。
最高気温は30度に及び、まだまだ残暑は厳しいですが、少しずつ秋の気配は広がってきています。
M師から教わった鳥情報を参考に、実に久しぶりに深山公園へ出かけてみました。
M師と奥様は、県北T市の公園で素晴らしい写真を撮影されていますが、その鳥が深山公園にも現れるとの情報があると教えてくださったのです。
が、残念ながら、空振りでした。
見かけが少し似ているというこの鳥はいましたが---(笑)
キジバトです。
持ち出したカメラはPENTAXk-1+AFborg(ed45)。AFborgは、距離と明るさを稼ぐ意味でED60を使う機会が増えていますが、解像度ではED45がまさる気がします。ただレンズの明るさ不足からAFを機能させる上では、レデュ-サー代わりにカメラへの接続位置直前にクローズアップレンズを装着していますが、ED60なら、Kenkoクローズアップレンズno.4で十分AFが機能するのに対し、ED45だと、クローズアップレンズno.5が好適であったと記憶しています。そこを、PENTAXk-1のAF性能に期待して、クローズアップレンズno.4のまま使って見ました。首尾は?上々でした。
この花は?ヒメシャジンでしょうか?
ノートリミングでは、少し周辺光量が落ちますが、許容範囲内と思えます。
下の写真は、何を狙ったのでしょうか?
拡大画像をご覧いただくと、小鳥の群れが遊んでいる様子がおわかりいただけると思います。
トリミングします。
シジュウカラでした。
ほかにはめぼしい鳥にも会えず、代わりに蝶を写して満足しました。
ノートリミング画像。
以下トリミング画像です。
【今日の付録1】
フェイスブックが、しばしば、過去の投稿を思い出させてくれますが、今日はこの記事。ちょっと懐かしいので再掲します。
その1 8年前の今日の記事.
2013年9月8日
http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2013-09-08
に書いたようないきさつで、今夜は、ニューマシンがネットに繋がりません。従って、この記事は古いマシンからのアップです。
今日は、午後、アッシーのあいまに、岡山市の後楽園を散歩。曇り空で、すかっとした秋の写真は撮れませんでしたが、トンボに出会いましたので紹介します。
その2 6年前の記事
2015年9月5日
イトトンボのカップル。ハート型に見えます?
総裁選フィーバーには触れません。
今日はこれにて。
雨上がりのプチ散歩、の巻 [折々散歩]
9月になって、雨の日が続きます。
昨日は、登校時、雨傘の柄を伝わって雨が流れ込み、帽子を濡らし、髪の毛と顔がぐしょ濡れになったと、小1の孫が興奮気味に報告してくれました。各地に大雨や洪水の警報・注意報も、頻繁に出されています。実際、川の水位も上がり茶色の濁流が流れています。
昨夜(今日の未明)は、激しい稲光と雷鳴がつづき、雨音もけたたましく、雷雨が屋根と窓を叩き、眠りを妨げられた方も多かったことでしょう。
雨は今日の昼頃まで降ってようやく上がりました。午前中は傘を差して短い散歩。防塵防滴のPENTAXk-30+smc PENTAX-DA 18-55mm F3.5-5.6 AL WR を持って出ましたが、撮影チャンスなし。午後は、PENTAXk-1+玉抜トキナー+BORGアクロマート50という組み合わせを実験。PENTAXk-1は、フルサイズの撮像素子ですので、BORGアクロマート50は、250mm相当になり、望遠撮影としては有利とは言えませんが、重いk-1に軽くてコンパクトなレンズを組み合わせてみたかったのです。
これは何を狙って撮影したのでしょうか?ニラの花??
いえ、大幅にトリミングしてみます。
イチモンジセセリが、まずまずの解像で確認できます。
ではこれは?
稲田のある風景、、、?ですが、これまたトリミングすると、、
ダイサギが結構はっきり捉えられます。
以下、いずれもトリミング画像です。
ハクセキレイ。
稲田の上を飛ぶツバメ。
上空のキアゲハ。
飛ぶギンヤンマ。
産卵するギンヤンマのペア。
今日の付録
シマヘビ。
昨日の大ニュース。スガさん、退陣。
最後まで政権にしがみつきたい執念を露わにしていただけに、唐突な表明にビックリ仰天、という面もないではないですが、客観的に見れば、もうとっくに詰んでいた将棋ですから、遅すぎた投了とも言えましょう。でも、詰んだのは自民党政治(自公政治)ですからね、少々小手先で化粧直ししてみても、まるで期待はできますまい。国民不在、生命軽視の自公政治の延命を許さず、選挙でしっかり裁きをつけたいものです。
今日はこれにて。