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青空に背いて栗の花匂う [文学雑話]

ネット検索していますと、後藤人徳(本名後藤瑞義)さんのHP「人徳の部屋」に、近藤芳美著『現代短歌』の紹介があり、こんな文章が掲載されていました。
「一つの「二十代」――五島ひとみの歌」
そこには、歌人近藤芳美が、五島茂から手渡された「立春、五島ひとみ追悼号」遺歌稿を読んでの感想がしたためられています。
一部を引用します。

ひとみ歌集は、昭和九年八歳の時の、
お日様きらきら光つて 病院にゐるマミイはスイスの景色を思い出す
にはじまる。何という美しい童画の世界であろう。そうして、何と云うめぐまれた揺籃の色と匂いの世界であろうか。一人の一生を、このように出発すると云うことさえ、僕らの時代には稀な事だと言えるのではなかろうか。
  スプーンはベビーのつばにぬらされてしつとり朝日に輝いてゐる
  母上はベビーに夢中になりたまい朝夕みつめておあきにならぬ
十二歳のころの作である。「ベビーのつばにぬらされて」などと云う大胆な可憐な把握に微笑を感じる。このような幼年期の作に流れているものは、一様なミルク色の明るい光線の世界である。〈中略)五島ひとみの作品が生涯が、このおような幼い日からはじまって居ると云うことは、うらやまれてよい事だ、そうしてこのような日々が、母五島美千代の『暖流』から『丘の上』世界に、例えば次のような作品世界に、も一つやわらかに包まれて居ると云う事も、僕には美しすぎると思うのである。
  ま夜中にかく母と二人あそびしこと大きくなりては思ひ出でざらむ
  母われと一夜眠りてききたきことありとひそかに娘いひに来し
  ある日より魂わかれなむ母と娘の道ひそひそと見えくる如し
その、いたいけな幸せな幼女は、やがて少女となり、自立への階〈きざはし)をのぼっていくのですが、世はあたかも、戦争一色に彩られていく時代でした。
  新しき銀笛ときどきさはりつつ立春の夕べに桃色の袋縫ふ
等の作になると、この稚さなさの中に、もはや作者がミルク色の光線の部屋の中にのみ生きているのではない成長を感じる。この歌と並んで「鼓笛隊の練習終へて友と二人赤き顔みあはせむずかしさいひ合ふ」等の歌があるが、時代と、時代の中に独立した生命として成長して行こうとする一人の少女像が今から見ると少し悲しいようにくっきり浮かうとする。
女学生らは出征兵らを送迎し包帯をまき、鼓笛隊として凛々しい痛々しい行進をしていた目であった。「冬日宙少女鼓隊の母となる日」と云うのは波郷の句であったのだろうか。なにか清潔で、悲劇的な句だと思ったのだが、ひとみさんの少女の日がちょうどその時期であったのだ。

  何となくはしやぎたくなる気持おさへ早く大人になりたしなどと思ふ
  よどみきつた様な空気おそろし鏡に向ひ思ひきり濃く口紅をぬつて見る

十六歳、十七歳のころの歌である。昭和十七年、十八年のころである。多くの、女学生らしい戦争詠と共にこのような歌も作られて居る。身をくねらせくねらせ、成長して行かうとする一人の少女の姿勢と心理とであろう。前者のいはば一種の育ちのよい稚さと共に後者のどこかしんの強い野性めいた反逆も、この作者の、いまだ自覚にまで至らない内面の真実なのであろう。何かこのような不逞なものが、この少女の内深く、云わば生理としてひめられてあったのではなかろうか。 
世の少年少女たちが、「進め一億火の玉だ」とあおられ、多かれ少なかれ軍国少年・軍国少女としての自我形成を余儀なくされた時代でした。
so-netブログの大先輩落合道人様のブログ
「落合道人 Ochiai-Dojin」に、戦時スローガンをあつかった本の紹介記事があり、興味深く拝読させて戴きました。↓
標語「アメリカ人をぶち殺せ!」の1944年
一部を引用させていただきます。
  戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』がそれだ。特に、若い子にはお奨めの1冊だ。
 当時の政府が、いかに国民から搾りとることだけを考え、すべてを戦争へと投入していったかが当時の世相とともに、じかに感じ取れる「作品」ばかりだ。それらの多くは、今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。中には、国民をそのものズバリ「寄生虫」や「屑(クズ)」と表現している標語さえ存在している。
〈中略)
戦時の標語やスローガンというと、「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」などが有名だが、これらの「作品」は比較的まだ出来がいいほうだといえる。そのせいか、新聞や雑誌にも多く取り上げられ、ちまたでも広く知られるようになった「作品」だ。ところが、戦争の敗色が徐々に濃くなり、表現の工夫や語呂あわせなどしている余裕がなくなってくると、なにも考えずにただひたすら絶叫を繰り返すだけの、思考さえ停止したような「作品」が急増していく。

 黙って働き 笑って納税 1937年
 護る軍機は 妻子も他人 1938年
 日の丸持つ手に 金を持つな 1939年
 小さいお手々が 亜細亜を握る 1939年
 国のためなら 愛児も金も 1939年
 金は政府へ 身は大君(おおきみ)へ 1939年
 支那の子供も 日本の言葉 1939年
 笑顔で受取る 召集令 1939年
 飾る体に 汚れる心 1939年
 聖戦へ 贅沢抜きの 衣食住 1940年
 家庭は 小さな翼賛会 1940年
 男の操(みさお)だ 変るな職場 1940年
 美食装飾 銃後の恥辱 1940年
 りつぱな戦死とゑがほ(笑顔)の老母 1940年
 屑(くず)も俺等も七生報国 1940年
 翼賛は 戸毎に下る 動員令 1941年
 強く育てよ 召される子ども 1941年
 働いて 耐えて笑つて 御奉公 1941年
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 屠れ米英 われらの敵だ 1941年
 節米は 毎日できる 御奉公 1941年
 飾らぬわたし 飲まないあなた 1941年
 戦場より危ない酒場 1941年
 酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫 1941年
 子も馬も 捧げて次は 鉄と銅 1941年
 遊山ではないぞ 練磨のハイキング 1941年
 まだまだ足りない 辛抱努力 1941年
 国策に 理屈は抜きだ 実践だ 1941年
 国が第一 私は第二 1941年
 任務は重く 命は軽く 1941年
 一億が みな砲台と なる覚悟 1942年
 無職はお国の寄生虫 1942年
 科学戦にも 神を出せ 1942年
 デマはつきもの みな聞きながせ 1942年
 縁起担いで 国担げるか 1942年
 余暇も捧げて 銃後の務(つとめ)  1942年
 迷信は 一等国の 恥曝(さら)し 1942年
 買溜(かいだめ)に 行くな行かすな 隣組 1942年

 二人して 五人育てて 一人前 1942年
 産んで殖やして 育てて皇楯(みたて)  1942年
 日の丸で 埋めよ倫敦(ロンドン) 紐育(ニューヨーク)  1942年
 米英を 消して明るい 世界地図 1942年
 飾る心が すでに敵 1942年
 買溜めは 米英の手先 1943年
 分ける配給 不平を言ふな 1943年
 初湯から 御楯と願う 国の母 1943年
 看板から 米英色を抹殺しよう 1943年
 嬉しいな 僕の貯金が 弾になる 1943年
 百年の うらみを晴らせ 日本刀 1943年
 理屈ぬき 贅沢抜きで 勝抜かう 1943年
 アメリカ人をぶち殺せ! 1944年
 米鬼を一匹も生かすな! 1945年
笑止!というよりも、痛ましささえ覚える人間喪失ぶりです。
(余談ですが、落合道人様の過去記事を拝読していて、先日来話題にしてきた九条武子と柳原白蓮に触れた詳細な考察を発見。早く読んでおけばと悔いたところです。
九条武子の手紙(5)/白蓮と。
九条武子の手紙(4)/下落合への転居。 
九条武子の手紙(3)/関東大震災。 
九条武子の手紙(2)/ハゲ好き。
九条武子の手紙(1)/下落合のご近所。
近藤芳美の「一つの「二十代」――五島ひとみの歌」をさらにたどります。
   すべてみなわりきれし如き瞳の光姿勢を正し挙の礼したまふ
同じく十八年の作品。素直な、時局の中の女学生としての作品の中に、この歌のおのづからなうたがひと批判とを、作者はどの程度自覚して居たのであろうか。「すべてみなわりきれし如き瞳」とわりきれない作者との心理の差が、本当はこの歌ではほとんど偶然に提示されたのではなかろうか。しかし、「学徒出陣」をこのように見て行く自然な知性の成長を、この環境と時代に於いて、僕は興味深く感じるのである。

 終戦後のひとみさんを僕は知っている。美しい、それで居ながらどこかすでに独立した知性を身につけた少女として僕の眼にうつって居たが、それだけにこの人は何か幸せを指の間から落としてしまう人ではなかろうかとの危懼を感じた。無論そのころ僕はこの少女がどのような心の成長の歴史をたどって来たかを知るはずもなかった。酔ったとき僕は、「恋愛をしてごらんなさい」と軽薄な忠告をこころみたことがあったが、ひとみさんは「恋愛をしたら性質がかわりますでしょうか」と笑って淋しそうであった。ひとみさんはお母さんの過剰な情感が心の重荷のようでもあった。そのような自己疎外をこのころ次のように歌っている。
  およびがたくしづかな面を眺めつつ己の空虚さをうめたくあせる
  どの人もどの人も何かもつてゐるといふ事に一日おされてゐる
  ついて行けないとわかりきつてゐながらせいいつぱいかりものの論ふりまく
  結局は妥協にすぎないのに 背水の陣とひとりぎめしてゐる
  浮上りそうな足ふみしめふみしめ全身で風雨にぶつかつてゆく
  風の圧力に抗し夜道いそぎ身内一ぱいざわざわ血の流れを体感す
昭和二十三年、二十二歳の作である。
格を外した作品はすでに作品としても独立し得る。言はば一人前の作品である。戦争中のどこかぎこちない女学生の短歌ではなくなって居る。自分を含めてすべてをつきのけようとする孤独な生き方である。そのむかうになにか信じえる人生の本物を手さぐりしようとしたのかそれに早く疲れてしまったのか。
どうしようもないくらさじりじりせばまりくるにまだ自分のものと信じ切れない
  何方にゆくか態度決定のとき迫れり感情にまけまいとせい一ぱいな自分

之らの作につづいて次の如き作品がある。之がひとみさんの場合のほとんど最後の歌であり、しかも荒涼とした一種の相聞歌である事を知る。
  栗の葉をかさかさならし風ふきすぎゆくこの自然の調和を不思議に思ふ
  何故こんなに気に入らぬ言葉のみいふ相手かと気づけばわが心に関りあり
  善良そうに口ゆがめて話しかけるこの人をつきのけたく心底の不満もちたへてゐる
  あてもなくもゆる心もち遠く感ぜられる人々とゐる
作品としてもこのあたりのものはすべてすぐれていると思う。
しかし、風がふきならして行く栗の葉の音、その自然の調和の一瞬に、不思議と思わなければならない、ここまで生き、疲れて来た心情を、僕は二十代の少女としてあまり痛々しすぎると思わないでは居られない。その次の歌もそうである。こんような歌を相聞歌としてほとんど最後に作って居る短い美しい少女の一生を、僕はも一度「マミイはスイスの景色を思い出す」のあたたかい童話的な日ざしの日からふりかえり思わずには居られない。

疲れ果て、前途を見失い、心の支えも見いだせない乙女の不憫さを思うとともに、残された者の、もはや手をさしのべることもかなわぬ喪失感に、ただ頭を垂れるしかない私です。

下の写真は散歩道の栗の花。数日前の撮影です。

独特の青臭い、はしたないまでに生気に満ちた、どこか隠微な匂いが周囲にみなぎっています。


梅雨とは思えない晴天です。気温もうなぎ登りで、三〇度を記録しました。
アゲハは元気です。

そんな中を、孫とジャガイモ掘り体験に挑みました。というのも、長雨と高温多湿で、葉は枯れ、芋も腐り始めていることに気づいたからです。
これは昨日の収穫。

ここのところジャガイモ料理が続きます。これは、私の作った粉ふきいも。この材料のジャガイモは、郷里の老父母が作ったもので、かなり大量にあります。もちろん食べ飽きることはありませんがね。

こちらは今日の作業の模様。







大きいものから小さいものまで、かなりの収量です、果たして腐る前に食べきれるかどうか?
今日はゼロ歳児の母も、たまたま立ち寄り、塩ゆでジャガイモ、ポテトサラダ、ジャガイモポタージュスープをみんなでたらふく食べました。

、ではまた。


五島美代子の歌う母の歌、の巻 [文学雑話]

本棚の片隅に、講談社学術文庫「現代の短歌 高野公彦編」という文庫本を見つけ、何年ぶりかにめくってみました。先日来話題にしている佐佐木信綱が最初のページに紹介され、五島美代子の作品も、七ページにわたって八十首が並んでいます。
その、女性ならでは母ならではのみずみずしい感覚と、思いの切実さにあらためて心惹かれました。昨日の記事と重複しないように、何首か書き留めておきます。
 我ならぬ生命の音をわが体内にききつつこころさびしむものを
胎動のおほにしづけきあしたかな吾子の思ひもやすけかるらし
「誰も踏み込んだことのなかった胎動を詠み、〈母性愛の歌人〉といわれる。」(「研究資料現代日本文学⑤短歌」p262)と評されるとおりです。
いたいけない子どもたちを抱えて、戦時を生き延びなければなりませんでした。
乳呑児(ちのみご)と百日(ももか)こもれぱ小刀(こがたな)の刃にもおびゆるこころとなれり(支那事変勃発)
自(し)が子らを養ふと人の子を屠(ほふ)りし鬼子母神のこころ時にわが持つ
終戦を受け止める心境も複雑です。
昨日ありえしこと今日もありと疑はず誇りかにゐるを老醜といふ
戦争中より明らかに眼ひらきゐしといふ人らと異なり凡愚のわれは 
愛しんで育てた子どもたちも、やがて大人への階段を登る日が訪れます。
 ある日より魂わかれなむと母と娘の道ひそひそと見えくる如し
東大生だった長女ひとみの突然の死。恋愛を巡る悩みの果てだと思われます。賛成しなかった自分に非があったかと自責にさいなまれる母でした。
この向きにて初(うひ)におかれしみどり児の日もかくのごと子は物言はざりし〈長女ひとみ急逝)
吾に来し一つの生命まもりあへず空にかへしぬ許さるべしや
うつそ身は母たるべくも生れ来しををとめながらに逝かしめにけり
あやまちて光りこぼしし水かとも子をおもふとき更にあわてぬ
いたましき顔しませりと見てあれば夫も同じことをわがかほにいふ
わが胎にはぐくみし日の組織などこの骨片に残らざるべし 
日がたっても、悲しみは容易には癒えません。
松うごく風見てあればまさやかにそこに生けりと吾子を思へり
目さむればいのちありけり露ふふむ朝山ざくら額にふれゐて
白百合の花びら蒼み昏れゆけば拾ひ残せし骨ある如し
ふさはしきそらなり緒琴へやに立て娘が生きてゐし冬の日ありき 

孫を持っての歌もほほえましい。
桃太郎もかぐや姫もかく生ひ立ちけむ翁媼(おきなおうな)の子育ての日日
かぎりなく愛しきものと別れ棲み老いすさまじくきく風の音
三歳児さへまことのことを言ひしぶり聡きひとみに人を疑ふ
愛執の鬼ともならず静かなる老にも入らず日日の孫恋ひ
おばあちやまはほどけてゐるといはれたり まことほどけてこの子と遊べる 
こんな歌にもふと目が止まりました。
 桑の葉を食まずなりたる蚕のからだ透きとほりゆくあの種の切なさ

そういえば、去年の今頃は「養蚕業」に大わらわでした。
今日のおカイコほか
去年の写真です。




飼育のために桑の木(マルベリー)の苗を鉢植えしましたが、今年はほったらかしです。

下は去年の写真です。







これで果実酒を作っていたような気がして、床下収納庫を探って見ました。







なかなか、良い色のリカーが見つかりました.試飲してみても、なかなか上等です。しかし、これは、マルベリーではない模様。



ヤマモモだったかな、と思いましたが、瓶の中の果実をさぐって見るとブラックベリーでした。

この記事の時のものでしょうか?それとも↓これかな?

祇園会の果てて大路はしづまれり

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この記事では、奇しくも、佐佐木信綱の孫、佐佐木幸綱を師とする俵万智さんの歌を紹介していました。

この時の果実酒だとすると、二年ものということになりますか?それとも、覚えていないだけで、去年もつけたのかもしれませんが、、、。

今年の実は、まだ、熟していないようです。

5月の下旬頃に写したブラックベリーの花です。















最近、記事がやたらに長くなるのが気になります。続きは次回といたします。


ニオドリも問うらん私いい子でしょ [文学雑話]

行き当たりばったりでつづけている「佐佐木信綱の門人シリーズ」。今回紹介するお弟子さんは、五島茂、五島美代子の夫妻です。
まず、五島茂とはこんな人物。
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
五島茂 (1900―2003)
歌人、経済学者。東京生まれ。別名小杉茂。父は『心の花』の歌人石榑千亦(いしくれちまた)。東京帝国大学経済学部卒業。歌人五島美代子と結婚し、五島姓となる。早くから『心の花』『アララギ』に作品を発表していたが、1928年(昭和3)に『短歌雑誌』に発表した「短歌革命の進展(一)~(八)」で斎藤茂吉、前田夕暮らをマルクス主義の立場にたって批判した。プロレタリア短歌が興隆しつつあった短歌史の流れのなかでの革新派最前線の論陣であった。批判されたなかで、斎藤茂吉が反駁(はんばく)、論争となって歌壇の注目を集めた。同28年に新興歌人連盟を結成、分裂後、29年に前川佐美雄(さみお)らと『尖端(せんたん)』を創刊。その後、31年から33年にかけてヨーロッパに留学。帰国後、しだいに革新的立場から後退した。38年に美代子らと『立春』を創刊し、1998年(平成10)、600号で終刊するまで主宰した。第二次世界大戦後の、1956年(昭和31)に現代歌人協会を創立、ながく理事長を務めた。81年歌集三部作『展(ひら)く』『遠き日の霧』『無明長夜』により第4回現代短歌大賞を受賞した。歌集に『石榑茂歌集』(1929)、『海図』(1940)、『気象』(1960)など。ほかに第九歌集まで収める『五島茂全歌集』(1990)がある。また、歌論集に『新しき短歌論』(1942)がある。
父の石榑千亦(いしくれちまた)は、佐佐木信綱が主宰する「心の花」創刊以来の編集責任者を終生務めた歌人です。先日話題にした我が家の本棚の「現代日本文学大系」(筑摩書房)第94巻「現代歌集」には、結婚前の姓を名乗っての「石榑茂歌集」が収められています。この本に挟み込まれている「月報」には、茂自身の「昭和三、四年のころ」と題したこのような文章が載せられています。
 昭和三、四年のころ  五島茂
最近七〇年代は一九三〇年代の諸情況と近似しているとしきりに言われる。私はたまたま一九三一-三三年英国に留学して大不況にぶっかり又ヒットラー政権掌握のときも雪の伯林に三力月滞在してつぶさに体験したので、三〇年代というとひとごとではない思いにかられるのである。
「石榑茂歌集」を出した昭和四年は一九二〇年代末で日本社会の諸矛盾は金融恐慌や社会不安などの危機的激動が文学局面をもゆさぶり、文学と思想の間題、政治と文学のいずれを優位とするかの対決論議のなかにマルクス主義文学の抬頭がめざましかった。当時の歌壇をぬりっぶしていたアララギ・パターンの歌の過熟は、もちろん例外作者もあるが、日常瑣末主義に堕し、島木赤彦門であった二十代の私は先生没後「アララギ」をはなれて「心の花」に復帰し、大正十五年「短歌雑誌」に「転換期のアララギ」を書いて一石を投じた。.やがて昭和三年二月から十二月まで「短歌雑誌」に拙稿「短歌革命の進展」を連載した。があとからおもえば、このときアララギは赤彦先生没後の動きの中で斎藤茂吉の再制覇が目企されていたのだ。
現代短歌の変革をおもうわれわれは、一方でアララギ写実が瑣末に跼蹐して当時日常心理をるきうごかしていた社会的諸要因に目をむけようとしない点を痛撃し、他方で短歌史の二つの伝統の高峯万葉と新古今集から、それらの伝統の高さの直接継承を目ざして一足とびにわれわれの世代の新しい短歌を樹立しようという気魄に燃えていた。(中略)
「短歌革命の進展」は当時の全歌壇総批判であった。その第一回が茂吉批判であったにすぎない。 連載が「潮音」など他結社にすすむ間に茂吉の例の調子の反批判がはじまったのである。 その内容は何回もの単行本と茂吉全集によって周知のとおりだ。
夫人の五島美代子についてはこうあります。
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
五島美代子(1898―1978)
歌人。東京生まれ。1915年(大正4)佐佐木信綱(のぶつな)に師事し、『心の花』に作品を発表。38年(昭和13)夫茂(しげる)と『立春』を創刊、『新風十人』(1940)に参加した。母としてのさまざまな愛憎の感情を、主観を強く押し出しつつ、叙情味豊かに歌う。57年『新輯(しんしゅう)母の歌集』(1957)で読売文学賞を受賞。ほかに歌集『暖流』(1936)、『丘の上』(1948)、『いのちありけり』(1961)、『時差』(1968)、『花激(たぎ)つ』(1978)など。 
ちなみに、上記の茂、美代子の記事ともに、佐佐木信綱氏の執筆です。
私自身、これまでに、二人の歌を気にとめたことはなかったのですが、このたび走り読みしてみて、特に五島美代子の作品にひかれるものがありました。
あぶないものばかり持ちたがる子の手から次次にものをとり上げてふつと寂し
いひたいことにつき当つて未だ知らない言葉吾子はせつなく母の目を見る
手さぐりに母をたしかめて乳のみ児は灯火管制の夜をかつがつ眠る
あけて待つ子の口のなかやはらかし粥(かゆ)運ぶわが匙に触れつつ
手の内に飛び立たむとする身じろきの娘(こ)は母われを意識すらしも
ひそやかに花ひらきゆくこの吾子(わこ)の身内(みうち)のものにおもひ至りつ
花とけもの一つに棲(す)めるをとめ子はひる深くねむり眠りつつ育つ
愛情のまさる者先づ死にゆきしとふ方丈記の飢饉(ききん)描写はするどし
親は子に男女(をとこをみな)は志ふかき方より食をゆづりしと
われ一人やしなひましし母の乳焼かるる日まで仄(ほの)に赤かりき
この向きにて初(うひ)におかれしみどり児の日もかくのごと子は物言はざりし(長女ひとみ急逝)
花に埋もるる子が死に顔の冷めたさを一生(ひとよ)たもちて生きなむ吾か
冥路(よみぢ)まで追ひすがりゆく母われの妄執を子はいとへるならむ
亡き子来て袖ひるがへしこぐとおもふ月白き夜の庭のブランコ
元素となりしのみにはあらざらむ亡き子はわれに今もはたらく
一読して、娘を歌った作品が強く印象に残りますが、下記の記事がその背景を解き明かしてくれました。

五島美代子の子を悼む歌 短歌一口講座 空 :日本経済新聞

 
今回の「耳を澄まして」では、五島美代子(1898-1978)の亡き子を思う歌が取り上げられていました。五島は「心の花」から歌を始め、戦後は女性歌人の超結社集団「女人短歌」の中心的人物として活躍した歌人でした。

 昭和25年(1950年)、彼女を悲劇が襲います。東京大学文学部在学中だった彼女の長女ひとみが自死したのです。五島はその死が自分のせいであったと考え自分を責めます。のちに『母の歌集』(53年)に纏められる痛切な歌はこのとき生まれました。

   棺の釘打つ音いたきを人はいふ 泣ききまどひゐて吾はきこえざりき

 長女の葬儀のときの歌です。なきがらを納めた棺に釘が打たれる。葬儀に参会した人々はその釘の音の痛ましさを作者に告げます。が、悲しみのなかで吾を失っていた作者の耳には、その釘の音が聞こえなかったのでしょう。出棺を茫然として見送った作者の姿が伝わってきます。

   ひとみいい子でせうとふと言ひし時いい子とほめてやればよかりし

 自死を選ぶ前、長女は作者に甘えて「ひとみいい子でしょ?」と言ったのでしょう。そのとき作者は、自分に甘えようとした娘の内心に気づけなかった。なぜあのとき私は「ひとみはいい子よ」と言ってやれなかったのだろう、娘の苦しみに気づいてやれなかったのだろう……。娘の死後、作者はそう自問します。「ひとみいい子でせう」という口語が用いられていることによって、作者の痛切な心情がよりリアルに伝わってくる歌です。


カイツブリの子どもです。
カイツブリの古名はニオドリと言います。


私、いい子でしょ?







おうちに帰るわよ。



ぼくのほうが速いよ。



仲良くしなきゃだめよ。



ヤマモモの実が熟しています。













今日はここまで。

否と言えぬ女ごころに咎ありや [文学雑話]

思いもかけない成り行きで、「歌人佐佐木信綱の弟子シリーズ」みたいな記事が続いています。「卯の花」とのつながりで、童謡「夏は来ぬ」の作詞者が佐佐木信綱だと気づいたことをきっかけにしての大脱線です。庭に置いてある鉢に、どこからか紛れてきた種が芽を出したらしく、枝を伸ばして5月には白い花を咲かせました。何の木だろと注目しておりましたが、どうも卯の花(ウノハナ=ウツギ)ではないかと思われます。



昨日の記事で、我が家のクチナシはまだつぼみとお知らせしましたが、今朝はようやく白い花びらがのぞき始めていました。



きょう散歩した近所の公園では、すっかり花がひらいていました。







つぼみもサイズがずいぶん大きいです。


さて、今日の「佐佐木信綱門人シリーズ」は、大塚 楠緒子(おおつか くすおこ/なおこ)の巻。
ネット記事を引用します。

百科事典マイペディアの解説

大塚楠緒子【おおつかくすおこ】


小説家,歌人,詩人。東京生れ。本名,久寿雄。1890年,少女時代から竹柏園に入門,佐佐木弘綱佐佐木信綱に師事。小説《離鴛鴦》《空薫(そらだき)》,また日露戦争に対する女性の心情をうたい,与謝野晶子《君死に給ふことなかれ》とともに反響をよんだ[コピーライト]-82183">新体詩《£-1690211">お百度詣で》など。(1875-1910)

与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」とともに非戦の詩として記憶される「お百度詣」は、こんな詩です。

 お百度詣   大塚楠緒子


   ひとあし踏みて夫(つま)思ひ、

   ふたあし国を思へども、

   三足ふたゝび夫おもふ、

   女心に咎ありや。



   朝日に匂ふ日の本の    

   国は世界に唯一つ。

   妻と呼ばれて契りてし、

   人も此世に唯ひとり。



   かくて御国と我夫と

   いづれ重しととはれれば

   たゞ答へずに泣かんのみ

   お百度まうであゝ咎ありや



【kazg語訳】

一歩あゆんであなたを思い

つぎの一歩でお国を思う

三歩でまたまたあなたを思う

おんなごころは罪かしら?



朝日に輝く日本の

国は世界にひとつだけ

妻と愛され結ばれた

人も世界にひとりだけ



それならお国と愛しいあなた

どちらが大事と問われたら

何も答えず泣くしかないわ

お百度詣では罪かしら?



「ノー」とはっきり言うことができない時代の、女心の哀切が心を打ちます。折しも、今、集団的自衛権の名のもと、他国が起こした戦争のために遠い異国に駆り出される夫の無事を案じて「咎?」と自問しながらお百度参りをしなければならない妻が、生まれずにすむことを祈ります。

文学者としても私人としても、夏目漱石との交友が知られています。
漱石は「硝子戸の中」で、こんな記述を残しています。
    二十五
 私がまだ千駄木にいた頃の話だから、年数にすると、もうだいぶ古い事になる。
 或日私は切通(きりどお)しの方へ散歩した帰りに、本郷四丁目の角へ出る代りに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲った。その曲り角にはその頃あった牛屋(ぎゅうや)の傍(そば)に、寄席(よせ)の看板がいつでも懸(かか)っていた。
 雨の降る日だったので、私は無論傘(かさ)をさしていた。それが鉄御納戸(てつおなんど)の八間(はちけん)の深張で、上から洩(も)ってくる雫(しずく)が、自然木(じねんぼく)の柄(え)を伝わって、私の手を濡(ぬ)らし始めた。人通りの少ないこの小路(こうじ)は、すべての泥を雨で洗い流したように、足駄(あしだ)の歯に引(ひ)っ懸(かか)る汚(きた)ないものはほとんどなかった。それでも上を見れば暗く、下を見れば佗(わ)びしかった。始終(しじゅう)通りつけているせいでもあろうが、私の周囲には何一つ私の眼を惹(ひ)くものは見えなかった。そうして私の心はよくこの天気とこの周囲に似ていた。私には私の心を腐蝕(ふしょく)するような不愉快な塊(かたまり)が常にあった。私は陰欝(いんうつ)な顔をしながら、ぼんやり雨の降る中を歩いていた。
 日蔭町(ひかげちょう)の寄席(よせ)の前まで来た私は、突然一台の幌俥(ほろぐるま)に出合った。私と俥の間には何の隔(へだた)りもなかったので、私は遠くからその中に乗っている人の女だという事に気がついた。まだセルロイドの窓などのできない時分だから、車上の人は遠くからその白い顔を私に見せていたのである。
 私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながらじっとその人の姿に見惚(みと)れていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように、私の心に働らきかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、鄭寧(ていねい)な会釈(えしゃく)を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴なうその挨拶(あいさつ)とともに、相手が、大塚楠緒(おおつかくすお)さんであった事に、始めて気がついた。
 次に会ったのはそれから幾日目(いくかめ)だったろうか、楠緒(くすお)さんが私に、「この間は失礼しました」と云ったので、私は私のありのままを話す気になった。
「実はどこの美くしい方(かた)かと思って見ていました。芸者じゃないかしらとも考えたのです」
 その時楠緒さんが何と答えたか、私はたしかに覚えていないけれども、楠緒さんはちっとも顔を赧(あか)らめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をただそのままに受け取ったらしく思われた。
 それからずっと経(た)って、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へ訪(たず)ねて来てくれた事がある。しかるにあいにく私は妻(さい)と喧嘩(けんか)をしていた。私は厭(いや)な顔をしたまま、書斎にじっと坐っていた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。
 その日はそれですんだが、ほどなく私は西片町へ詫(あや)まりに出かけた。
「実は喧嘩をしていたのです。妻も定めて無愛想でしたろう。私はまた苦々(にがにが)しい顔を見せるのも失礼だと思って、わざと引込(ひっこ)んでいたのです」
 これに対する楠緒さんの挨拶(あいさつ)も、今では遠い過去になって、もう呼び出す事のできないほど、記憶の底に沈んでしまった。
 楠緒さんが死んだという報知の来たのは、たしか私が胃腸病院にいる頃であった。死去の広告中に、私の名前を使って差支(さしつかえ)ないかと電話で問い合された事などもまだ覚えている。私は病院で「ある程の菊投げ入れよ棺(かん)の中」という手向(たむけ)の句を楠緒さんのために咏(よ)んだ。それを俳句の好きなある男が嬉(うれ)しがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった。
漱石は、親友正岡子規の手ほどきを受けてよく俳句をものしましたが、数ある句の中でも最も印象深い秀句は、ここに紹介された

ある程の菊投げ入れよ棺の中

の句ではないでしょうか。

「菊投げ入れん」ではなく「菊投げ入れよ」というわけは、漱石自身、持病の胃潰瘍の治療のため入院中で、葬儀に参列することがかなわなかったからです。

想像の中で清らかな菊の香りがみなぎる中、追悼の思いが見事に結晶していて、深い愛惜と悲嘆が自ずと伝わってきます。

大塚 楠緒子の夫は、美学者で東京帝国大学教授をつとめた大塚 保治(おおつか やすじ)。漱石の学生時代からの友人で、大学の寄宿舎では同室に住んだこともある間柄でした。『吾輩は猫である』に登場する美学者・迷亭のモデルとも言われます。

漱石と大塚 保治(旧姓小屋)は、ともに、寄宿舎々監清水彦五郎の斡旋で、当時宮城控訴院々長であった大塚正男の一人娘大塚楠緒子の婿候補に挙げられていたそうですが、明治28(1895)年、小屋保治が楠緒子と結婚入籍して、大塚保治と改姓しました。友人の妻となった楠緒子を、漱石は理想の女性、マドンナとして生涯プラトニックに敬慕した、とも言われます。

以下、次回に続きます。



きょう15日は、年金の支給日。というわけで、私の属する年金者組合支部としては、郵便局に引き出しに訪れる受給者の方に訴えて、署名をお願いしようという作戦を計画。朝九時から、郵便局の前に立ちました。
当初のもくろみとは違い、通りかかるのは年休受給はまだ先と思われる比較的お若い方が多かったのですが、「支給額がどんどん削られ、支給年齢が引き延ばされている。現役の時に一所懸命掛け金を納めたのに、皆さんのような若い世代がいざリタイアするときに制度が存続しているか心配。今、安心できる制度を確立することが大事」などと話すと、意外にすんなり協力してくださる方が多いことに、切実さを感じました。
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帰り道に、寄り道した蓮田で、ケリに会いました。

 

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ダイサギもいました。

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ほかにはめぼしい鳥には会えませんでした。
最近の記事に登場する「白蓮(びゃくれん)」にひっかけて、白蓮(白ハス)が咲いていないかと期待したのですが、まだまだ成育中でした。

白蓮あれこれ 思いつくままにはこんな写真を載せたのでしたっけ。

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先日行った後楽園では、ピンクのハスは咲いていたのですがね。

 
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大賀ハスです。
過去にも何度も書きました。

大賀ハス開花記念日!

後楽園の古代蓮

蓮の花あれこれ

蓮の花あれこれ vol2 大賀博士の故郷に咲く純粋種の古代ハス

蓮の花あれこれvol3 岡山後楽園の蓮の花

蓮の花あれこれvol4 古代ハスに咲く優曇華?

今年の大賀ハス(岡山後楽園) 

今年の大賀ハス(岡山後楽園) 

これは付録です。

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終わりに、漱石の句を借ります。

生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉

肩に来て人なつかしや赤蜻蛉

きょうはこれにて。

追記、写真のアップが不調で、訂正しました。失礼しました。

 


白蓮とくちなし夫人と紅い薔薇、の巻 [文学雑話]

芥川龍之介の「或阿呆の一生」は、中・高校生の私には難解でちんぷんかんぷんでした。







 一 時代



 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……

 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……

 彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。

「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」

 彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……

この一節は印象深く、かろうじて理解できました。「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」のフレーズは「芸術は長く人生は短し」という警句とごっちゃになって私の記憶に残っています。

次の章「二母」あたりからから、もう難渋します。

事実なのか虚構なのか、現実なのか妄想なのか定めがたく、見知らぬ道で迷子になった心細さを覚えたものでした。以来読み返そうとも思わないで過ぎました。

今、久米正雄宛に書かれた冒頭文を読んでいて、少し景色が変わって見えました。

「君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。」

ああそうなのか、インデキスなしに読もうとすることは、攻略本なしにゲームに挑むようなものなのか、と納得できて、安心したのでした。あいにく私は、ゲームに挑んだことも、攻略本を手にしたこともありませんが、、、。







 三十三 英雄



 彼はヴオルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げてゐた。氷河の懸つた山の上には禿鷹の影さへ見えなかつた。が、背の低い露西亜人が一人、執拗に山道を登りつづけてゐた。

 ヴオルテエルの家も夜になつた後、彼は明るいランプの下にかう云ふ傾向詩を書いたりした。あの山道を登つて行つた露西亜人の姿を思ひ出しながら。……

――誰よりも十戒を守つた君は

誰よりも十戒を破つた君だ。

誰よりも民衆を愛した君は

誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

誰よりも理想に燃え上つた君は

誰よりも現実を知つてゐた君だ。

君は僕等の東洋が生んだ

草花の匂のする電気機関車だ。――

これは、高校時代の友人が抜き書きしていました。「レニン」つまり「レーニン」をさすとわかれば、腑に落ちました。芥川の、というようりも当時のインテリゲンチアの、ロシア革命革命への屈折した愛着と共感、そしてかすかなおびえの空気が感じられました。



ごく最近、というよりもまさにこの数日、偶然目にしたインデクスをヒントに、少しわかったことがありました。(すでに、広く知られた事実なのかもしれませんが)。







三十七 越し人



彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、「越し人」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍つた、かがやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

風に舞ひたるすげ笠の

何かは道に落ちざらん

わが名はいかで惜しむべき

惜しむは君が名のみとよ。 



この「越し人」とは、芥川晩年の(精神的な)恋人、片山廣子(ペンネーム・松村みね子)をさすと言います。広子は、芥川より十四歳も年上、大きい子どももありました。

このあたりの事情については、この「小さな資料室」というHP(http://www.geocities.jp/sybrma/index.html)に詳しい考察があり、参考にさせていただきました。「リンクフリー」とありましたので、勝手ながらリンクを張って紹介させていただきます。

そのページの一部を引用します(http://www.geocities.jp/sybrma/09ryuunosuke.html)。







  吉田精一氏は、この女性をM女史として本名を出しておられませんが、この人は明治11(1878)年生まれの片山廣子(ペンネーム・松村みね子)という人で、佐佐木信綱に師事する『心の花』の歌人であり、アイルランド文学の翻訳家でもありました。旧姓吉田。東京に生まれ、東洋英和女学校を卒業、後の日銀理事片山貞次郎に嫁いで片山姓になりました。芥川が廣子と知り合った大正13年(1924)当時、芥川は32歳、廣子は46歳、未亡人になって(大正9年(1920)3月14日、夫貞次郎死去)4年を経ていました。

 堀辰雄の『聖家族』は、芥川の死と作者自身の恋愛体験を素材にした小説で、作中の細木(さいき)夫人は片山廣子(松村みね子)を、九鬼は芥川を、扁理は堀自身をモデルにして書かれたものだそうです。



また、http://www.geocities.jp/sybrma/338ryuunosuke.koshibito.htmlには、こうあります。







 「侏儒の言葉(遺稿)」の中の「わたし」の一つに、次の言葉があります。(354頁)                

又 わたしは三十歳を越した後、いつでも戀愛を感ずるが早いか、一生懸命に抒情 詩を作り、深入りしない前に脱却した。しかしこれは必しも道德的にわたしの進歩し
たのではない。唯ちよつと肚の中に算盤をとることを覺えたからである。

片山廣子(松村みね子)は、38歳で出したその第一歌集「翡翠(カワセミと読みます)」に



空ちかき越路の山のみねの雪夕日に遠く見ればさびしき



の歌に始まる「軽井沢にてよみける歌十四首」という連作を掲載しています。

芥川が、大正14年(1925)3月1日発行の雑誌『明星』第6巻第3号に発表した「越びと 旋頭歌二十五首」は、これと対応する相聞歌(恋の贈答歌)となっています。

二十五首の冒頭にはこんな歌が置かれています。



あぶら火のひかりに見つつこころ悲しも

み雪ふる越路のひとの年ほぎのふみ



「越路のひと」が誰をさすかは明白です。



彼女の文学的才気を高く評価し、精神的に強く惹かれた芥川は。彼女を「クチナシ夫人」と呼んだそうです。

クチナシといえばなんと言っても渡哲也が歌った「くちなしの花」の甘く薫る白い清楚なイメージが秀逸です。







 いまでは指輪も まわるほど

やせてやつれた おまえのうわさ

くちなしの花の 花のかおりが

旅路のはてまで ついてくる

くちなしの白い花

おまえのような 花だった

でも、芥川の命名は、そういうことではなかったようで、「くちなしや鼻から下がすぐに顎」という落語のネタとさして変わらぬ地口(言葉遊び)のたぐいであったようです。つまり、クチナシは、口がないと洒落て、「悪口を言わない人」とほめたのだそうです。人柄を彷彿とさせるエピソードです。

庭のクチナシは、まだつぼみです。









さて、佐佐木信綱つながりでご登場いただいた片山廣子は、すでに我われと旧知の間柄にあるもう一人の人物ともつながります。同じ東洋英和女学院の卒業生で、15歳年下の村岡花子です。彼女も又、柳原白蓮の紹介で佐佐木信綱の門人となった縁で廣子と出会います。高等科在学中の彼女に児童文学への道を薦めたのは、アイルランド文学翻訳家でもあった廣子だといわれます。そのころ、彼女は毎週のように廣子の家を訪ねて本を借り、文学を志すきっかけとなりました。







 片山廣子さんが私を近代文学の世界へ導き入れて下さった。そうして、その世界は私の青春時代を前よりももっと深い静寂へ導き入れるものであった。けれどもこの静かさは、以前のような、逃避的な、何者をも直視しない、正面からぶつかって行かない「精神的無為」の静かさではなくして、心に深い疑いと、反逆と、寂寥をたたえた静かさであり、内面的には非常に烈しい焔を燃やしながら、周囲にその烈しさを語り合う相手を持たないことから来る沈黙であった。『改訂版生きるということ』より「静かなる青春」(村岡花子)


 1926年5月、花子は、自宅に設立した青蘭社書房の最初の童話集「紅い薔薇」(あかいばら)を刊行します。その前書きにこう書いています。







 「おかあさん――お噺(は なし)してちやうだい」今年七つになる私の子は明暮れに、かう言うては私の許(もと)へ飛んで参ります。

また、そのころ白蓮に送った手紙に、こう書いています。







 この間お持たせするのを忘れた『紅い薔薇』を今おめにかけます、

 私は相変わらず子供のオハナシを書いています。

 香織ちゃんにもどうぞ『紅い薔薇』の中の噺を聴かせて上げてちょうだい。

 うちの坊やには、この中のものはみんな幾度も幾度も話して聴かせたのよ。

 私の坊やは私の原稿の校閲掛りです。

 『童話集紅い薔薇』と銘打って出たこの本はつまり坊やと私の幸福な生活の反映なのです。

 どうぞあなたもこの本を可愛がってやって下さい。

 私の坊やが喜んで聴き、おさない心ながらに感激もし、共鳴もし、笑いもしたもの、きっとあなたの香織ちゃんにも、そして世の中の大勢のお子さんたちにも、 よいたましいの糧となると信じております。

 「まあ花ちゃんが大した気焔をはくこと」とあなたお笑いになりますか? 

 気焔じゃありません、これは信念なのよ、

 信念が無けりゃ、仕事は出来ないじゃありませんか。

しかし、数えで7歳、満5歳のひとり息子、道雄 さんは、その9月、疫痢に冒されて急逝してしまいます。

その悲しみから立ち直るきっかけとなったのは、廣子から贈られたマーク・トウェイン作”The Prince and the Pauper"だったといいます。後に『王子と乞食』として翻訳出版されたこの本は、花子にとって記念碑的な作品となっています。

種松山公園の紅い薔薇の写真です。













ついでに、黄色い薔薇も。











信綱の門人シリーズ、まだ続きます。

今日はこれにて。

放縦といふべかんなる薔薇雫 [文学雑話]

昨日の記事で、佐佐木信綱が主催した「心の花」についての解説を引用しました。「新派和歌革新運動のさ中の時期」「新派と旧派の橋渡しの役」「正岡子規をはじめ根岸派の歌人たちにも場を提供した」「明治三十一年に『心の花』を創刊した佐佐木信綱は、伝統との折衷を残しながらも<広く深くおのがじしに>を提唱する。また、明治三十二年に根岸短歌会をおこした正岡子規は、伊藤左千夫や長塚節とともに、<写生>によって対象をリアルに見ようとする機連を培っていた。」などとありました。
しからば、と連想が働いて、本棚の奥から藤沢周平「白き瓶」を取り出して、ぺらぺらめくってみました。

白き瓶―小説・長塚節

白き瓶―小説・長塚節

  • 作者: 藤沢 周平
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1985/11
  • メディア: 単行本



子規に師事し、伊藤左千夫らと「アララギ」派を率いて、写生、生活密着、万葉調の歌づくりに丹精を込めるとともに、散文分野でも客観描写を重視した「写生文」の執筆にいそしみ、長編小説「土」では漱石に激賞されるなど、きらめく才能を有しながら、結核のため、35才で夭折した長塚節の青春と文学修行を清新に描いた「評伝小説」の佳作です。
高校時代、私は、長塚節を「ナガツカブシ」と読み誤り、民謡の一種と勘違いしていたことがありました(汗)。それはお粗末に過ぎるとしても、どちらかと言えば地味で、大きく取りざたされることの少ない歌人であり小説家であることは確かでしょう。
しかし、この「白き瓶」によって、その印象は大きく塗り改められ、みずみずしく、清新で、繊細な感性と、澄み渡った理知の働きとをあわせもつ、真摯な求道者のような青年の姿が印象づけられたことでした。藤沢さんが引用して紹介される節の歌は、なんと秀作揃いでしょうか。
その節が、正岡子規に師事し始めたばかりの頃の様子が、こんな風に描かれています。

 節は真壁第二高等小学校を卒業するとき、二十八名の同窓の中で首席を占めた。また、県立水戸中学校(当時は茨城県尋常中学校と称した)にも首席で入学した明敏な頭脳の持主だったが、中途退学と言い、徴兵検査の不合格と言い、弱い身体のためには屈辱を嘗めた。病身それも神経衰弱持ちで医者通いをしたり、家の中でぶらぶらしていることは、村の中の聞こえもよくなかったのである。
しかし、ここ一、二年、節はようやく病気と緑が切れて、体力が充実して来たのを感じている。青白く.痩せていた身体に、肉がついた。今年は二月末のまだ寒い時期に筑波山にのぼり、三月の上旬には成田の新勝寺と香取神宮に参詣がてら観梅、さらに足を下総神崎の親友寺田憲の家までのばして帰郷した。ひとやすみして三月末には、今度は水戸の北方多珂郡諏訪村の梅林を見に行き、ついでに水木浜に出て遊んだりした。節はそういう旅を好んでした。
節は、東京根岸に住んで短歌革新ののろしを挙げた正岡子規の弟子である。取りあえずは旧派の歌人たちや、新興の短歌結社ではあっても子規の指導する根岸短歌会とは方向を異にする与謝野鉄幹のひきいる新詩社などを当面の敵として、
新しい短歌を創造して行く立場にいた。春先の旅行は、そのための歌材を得るための旅だったが、ほとんどが徒歩で、しかも諏訪村の梅林'を見に行った日は、春にはめずらしい風雪に会つたりしたのに、身体の方は何の異状もなかった。
(中略)
節は家の横を通り抜けて、裏の畑に出た。節は今年から佐佐木信綱が主宰する短歌文芸誌「心の花」に短歌、長歌の連載をはじめていた。「うみ苧(お)集」と題したその連載は、掲載がはじまったばかりである。ほかにも、一昨年からはじめている日本附録「週報」の課題詠、陸羯南(くがかつなん)の主宰する新聞「日本」の文芸欄に寄稿する短歌作品の創作を抱えていた。
(中略)
五月になって、 とかく鬱屈しがちだった節の気分が一ぺんに喜びに変るような事件が起きた。と言っても、それはまわりのひとにはさほど関係がなく、節自身の気持の中のことでしかなかったが、さきに寄稿しておいた短歌が、五月十八日の「日本」紙上に全首掲載されて、子規にほめられたのである。
「ゆく春」と題し、「四月の末に京に上らむと思ひ設けしことのかなはずなりたれば心もだえてよめる歌」と前書きした歌は、つぎの九首である。
青傘を八つさしひらく棕擱(しゅろ)の木の花咲く春になりにたらずや
たらの芽のほどろに春のたけ行けばいまさらさらにみやこし思ほゆ
荒小田をかへでの枝に赤芽吹き春たけぬれど一人こもり居
みやこぺをこひておもへば白樫の落葉掃きつつありがてなくに
おもふこと更にも成らず枇杷の樹の落葉の春に逢はくさびしも
春畑の桑に霜降りさ芽立ちのまだきは立たずためらふ吾は
草枕旅にも行かず木犀の芽立つ春日は空しけまくも
にこ毛立つさし穂の麦の招くがね心に思へど行きがてぬかも
おもふこと檐の左枝の垂花のかゆれかくゆれ心は止まず
桵(たら)芽の雅号で提出した九首を、子規は「日本」紙上に掲載して歌の横にびっしりと傍点を打つてほめ、 ことに第一首の「青傘を」、第六首の「春畑の」、第九首の「おもふこと」には秀逸を示す丸印をつけていた。
この「ゆく春」九首は、さらに七月発刊の「心の花」の中で、子規の病株歌話、左千夫の楽々漫草の中に、あらためて取り上げられて賞揚された。
子規は「ゆく春」について、この歌をほめる人でもいろいろとほめ方が違って、序の句が面白いという人もあれば、万葉調が面白いという人もある、と根岸派の歌人たちの評判を記した上で、序の句も面白いが結の句が十分に働いているところが見所だと、自分の見解を述べ、万葉の言葉を自由自在に駆使して一首の結びをつけた処は、他に一頭他を依きん出ていると思ふ」と激賞した。
他人の作品に点の辛い左千夫も、この作品を取.り上げた楽々漫草では、「奇想縦横声調温雅、何等の妙趣何等の風韻。而して又吾人の理想にかなへるの連作、従来同人の製作中絶えて其の此を見ざるの逸品なり」と、手放しでほめていた。
感激家の左千夫は、さらにつづけて「ゆく春」は明治三十五年の優作であるだけでなく、実に明治聖代の金玉かも知れない、このような佳作を得たのは、ひとり長塚節の名誉であるばかりでなく根岸短歌会の名誉
だなどと馬鹿ほめしたあげく、あまりほめすぎたと思ったのか、しかしながら今月号の「一本柳」の歌は駄作だ、とても同一作家の歌とは思えない、節の新しい作品の方はさんざんにけなしていた。
左千夫がけなしたのは、同じ号に載つているうみ苧集の中の下妻町砂沼周辺の風景をよんだ短歌のことだったが、 節には左千夫のけなしはほとんど気にならなかった。ほめてある個所だけを、繰り返して読んだ。

「心の花」が、新進の成長を応援する舞台となっていたことをよく描いています。
佐佐木信綱の名前は、その意外とも思える多彩な門人の名前とともに想起される場合があるかもしれません。たとえば、柳原白蓮と、九条武子。
以前、NHKの朝ドラで「花子とアン」を放送していたころ、こんな記事を書きました。仲間由紀恵さんが魅力的に演じた 「蓮様(れんさま)」のエピソードです。
白蓮あれこれ 思いつくまま

 「蓮様(れんさま)」こと葉山蓮子のモデルは、大正三美人のひとりと評された、柳原白蓮(1885~1967)です。

ちなみに大正三美人とは、この柳原白蓮と、教育者・歌人、社会運動活動家としても知られた九条武子(旧姓大谷武子)と、新橋の芸者で、法律学者・江木衷と結婚して社交界で名をはせた江木欣々(えぎきんきん)の3人だといいます。2人目の九条武子は、京都西本願寺・大谷光尊の二女として生まれ、男爵・九条良致と結婚。才色兼備の歌人として知られました。佐佐木信綱の門下生で、当時の「麗人」という言葉はこの人のために使われたといわれます。
柳原白蓮と九条武子は、実際に交際があったようで、以前にも引用させていただいた「松岡正剛の千夜千冊」というブログの 1051夜 2005年07月27日の記事で、 近代美人伝「上・下」という本が取り上げられていますが、ちょうどそこに白蓮と武子に触れた個所がありましたので引用させていただきます。
新編 近代美人伝〈上〉 (岩波文庫)

新編 近代美人伝〈上〉 (岩波文庫)



  • 作者: 長谷川 時雨

  • 出版社/メーカー: 岩波書店

  • 発売日: 1985/11/18

  • メディア: 文庫




新編 近代美人伝〈下〉 (岩波文庫)

新編 近代美人伝〈下〉 (岩波文庫)



  • 作者: 長谷川 時雨

  • 出版社/メーカー: 岩波書店

  • 発売日: 1985/12/16

  • メディア: 文庫

それでは、いまあげた柳原白蓮と九条武子の例を出しておきます。
柳原白蓮は鹿鳴館華やかなりし明治18年に、柳原前光伯爵の次女として生まれます。お兄さんは貴族院議員、でも白蓮の生母は柳橋の芸妓さんです。だから麻布笄町の別邸で育った。やがて北小路子爵のところに嫁ぐのですが、ほどなく離婚します。 
そして、さっきも言ったように、福岡の炭鉱王の伊藤伝右衛門に請われて入籍するのですが、亭主が52歳だったこと、無学な鉱夫あがりだったこと、成金だったこともあって、人の噂に「人身御供」だと騒がれます。けれども暮らしのほうは豪勢きわまりないものだったので、"筑紫の女王"と揶揄される。そのうち佐佐木信綱に和歌を学ぶようになって『踏絵』という歌集を出します。なんとも意味深長なタイトルですが、収められた歌もそういう感じです。たとえば、

  殊更に黒き花などかざしけるわが十六の涙の日記
  わが魂(たま)は吾に背きて面(おも)見せず昨日も今日も寂しき日かな
  おとなしく身をまかせつる幾年は親を恨みし反逆者ぞよ
  われといふ小さきものを天地(あめつち)の中に生みける不可思議おもふ

 こういう歌が発表されたんですね。なかには「毒の香たきて静かに眠らばや小瓶の花のくづるる夕べ」といった、ぎょっとする歌もいくつも入っている。それが33歳のときです。みんなびっくりしてしまいます。あるいは、ああやっぱりと思った。
そこへもってきて大正10年10月22日の新聞に「柳原白蓮女子失踪!」の記事が突如として躍ったんですね。「同棲十年の良人を捨てて、情人の許へ走る」
という記事です。記事によると福岡へ帰る夫を東京駅で見送ったまま、白蓮は東京の宿にも帰らず、そのまま姿をくらましてしまったというのです。そしてやがて、伝右衛門に宛てた絶縁状が新聞に載る。「私は今貴方の妻としての最後の手紙を差し上げます」という一文で始まる、とんでもない文面です。それが満天下に公開された。
 さあ、これで世間も新聞社も蜂の巣をつついたような大騒ぎになります。そこに伝右衛門の談話が発表される。「天才的の妻を理解していた」という見出しです。

 やがて白蓮は東京帝国大学の宮崎竜介という青年と駆け落ちしていたことがわかるのですが、それがわかればわかったで、今度は外野席や帝大の教授たちもいろいろのことを論評するようになり、ついに姿をあらわせなくなっていくんですね。その後、白蓮は「ことたま」というすばらしい歌誌を主宰して、詩集・戯曲・随筆を書きつづけたにもかかわらず、その白蓮を世間はついに"認証"しなかったのです。
 時雨はこう書いています、「ものの真相はなかなか小さな虫の生活でさえ究められるものではない。人間と人間の交渉など、どうして満足にそのすべてを見尽くせようか」と。

 もう一人の"遠き麗人"とよばれた九条武子についても、ちょっとだけお話しておきます。そのころから細川ガラシャ夫人と並び称されてきた女性です。時雨はこんなふうに書き出している。
 「人間は悲しい。率直にいえば、それだけでつきる。九条武子と表題を書いたままで、幾日もなんにも書けない。白いダリヤが一輪、目にうかんできて、いつまでたっても、一字も書けない」。

 これでなんとなく察せられるように、九条武子という人は現代にはまったく存在していないような、信じられないほど美しい女性です。多くの美人伝を綴ってきた時雨にして、一行も書けなくなるような、そういう女性です。生まれは本願寺21代法主の大谷光尊の次女で、お兄さんが英傑とうたわれた大谷光瑞。西域の仏跡探検家でもあり、多くの支持者をえた仏教者です。妹の武子は親が生まれる前から決めていた九条家に輿入れして、九条を名のるのですが、時雨は「武子さんはついに女を見せることを嫌ったのだ」と書いています。
 残したのは「聖女」のイメージと歌集だけ。明治20年に生まれて、昭和3年に敗血症のために、深窓に閉じられたまま死んでいく。そういう人がいたんです。
 だから、どういう人だったかは、歌を読んで推しはかるしかありません。それ以外にほとんど情報がないんです。その歌も、なんとも切ない歌ばかり。『金鈴』『薫染』(くんぜん)『白孔雀』といった歌集がありますが、ちょっと拾って読みます。

  ゆふがすみ西の山の端つつむころひとりの吾は悲しかりけり
  緋の房のふすまはかたく閉ざされて今日も寂しくものおもへとや
  百人(ももたり)のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る
  夕されば今日もかなしき悔いの色昨日(きそ)よりさらに濃さのまされる
  何気なく書きつけし日の消息がかばかり今日のわれを責むるや
  君にききし勝鬘経のものがたりことばことばに光りありしか

  ただひとり生まれしゆえにひとりただ死ねとしいふや落ちてゆく日は

 3首目の「百人のわれにそしりの火はふるも‥」の歌については、『白孔雀』の巻末に柳原白蓮が、「この歌に私は涙ぐんでしまいました」と書いていました。吉井勇もまたこの歌に痛切な感動をおぼえたと綴っています。「ただひとり生まれしゆえにひとりただ」も凄い歌ですね。

 ここにもあるとおり、白蓮は、15歳(数えで16歳)で子爵北小路資武と結婚しますが、それは愛のない、「わが十六の涙の日記」にほかならず「親を恨みし反逆者」の日々だったのです。一子をなしたものの、5年で破婚し、実家に戻ります。
当時の心境を彼女はこう歌います。

ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで生けるかこの身死せるかこの身

「蓮様(れんさま)」が、問題含みの転入生として朝ドラに登場したのが、この時期のことでした。それ以後のドラマの展開は、ほぼ史実を踏まえているようです。
その後、明治44年27歳の時、九州の炭鉱王と称された伊藤伝右衛門(朝ドラでは嘉納伝助)と結婚、大正4年に処女歌集『踏絵』を発表します。

踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故いだき立てる火の前

誰か似る鳴けようたへとあやさるる緋房の籠の美しき鳥

ともすれば死ぬことなどを言ひ給ふ恋もつ人のねたましきかな

年経ては吾も名もなき墓とならむ筑紫のはての松の木のかげに


贅を尽くした、何不自由のないとも言える筑豊での暮らしぶりは、旧伊藤伝右衛門邸の様子からもしのぶことができます。しかし白蓮にとっては、この結婚生活は、心の満たされるものであったようです。


そのような中で、のちに社会運動家で弁護士でもあった宮崎龍介(ドラマでは宮本龍一)と出会い、決意の駆け落ち事件、世にいう「白蓮事件」を引き起こし、これがマスコミ各社のスクープ合戦となって一大センセーションを巻き起こします。
テレビドラマは、ただいまこのあたりを進行しているようですね。

天地(あめつち)の一大事なりわが胸の秘密の扉誰か開きぬ

ひるの夢あかつきの夢夜の夢さめての夢に命細りぬ

当時、明治憲法下では、「姦通罪」の定めがありました。姦通は,妻が行った場合は,夫の告訴によってその妻と相手の男とが処罰されますが,夫が行った場合は,その相手が人妻でない限り処罰されませんでした。男尊女卑の時代の反映でした。
従って、二人の駆け落ちという決断は、いわば命がけの行動と言えました。
最終的には、伝右衛門は告訴することなく、離婚を認め、白蓮は龍介との間に一男一女をもうけ、安らぎの家庭を得る事ができたそうです。

その白蓮を襲う思いがけない悲しみについては、また、朝ドラの展開とあわせて、話題にするかも知れません。


ここで、思わせぶりに予告した「思いがけない悲しみ」についてはこの記事で触れました。

政変のニュース痛まし麦の秋

 NHK朝ドラ「花子とアン」で、白蓮さんが、与謝野晶子「君死にたまふ事なかれ」の載った『明星』を、吉太郎に渡しますね。

「君死にたまふ事なかれ」

あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや


堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり


君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ


あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる


暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ


 
皮肉なことに、後に世を賑わせた「白蓮事件」の当事者=白蓮さんと、駆け落ち相手の宮崎隆介氏との間に生まれた愛息の香織氏は、早稲田大学政経学部在学中
に学徒出陣し、1945年(昭和20年)8月11日、所属基地が爆撃を受けて戦死します。享年23。終戦のわずか4日前でした。

ドラマの進行に即して、この記事も書きました。
いまさらに君死に給うことなかれ

享年23。終戦のわずか4日前でした。

柳原白蓮は、その悲しみを、こう詠んでいます。

たった四日生きていたらば死なざりしいのちと思ふ四日の切なさ


幼くて母の乳房をまさぐりしその手か軍旗捧げて征くは


英霊の生きて帰るがあると聞く子の骨壷よ振れば音する


写真(うつしえ)を仏となすにしのびんや若やぎ匂ふこの写真を 


 この記事にも書きましたが、「蓮様」が、意に染まぬ結婚話への悩みを抱えて花子の実家を訪ねた場面で、軍人志望の吉太郎に、与謝野晶子「君死にたまふ事なかれ」の載った『明星』を渡す場面がありました。


皮肉なことに、 吉太郎は憲兵として白蓮夫妻を排撃する立場になり、最愛の息子は、彼女がかくも厭うた戦争によって命を奪われます。無数の白蓮、無数の母たちの嘆きを、今
の世に再現させることがないように、「君死にたまふ事なかれ」を再録し、ちょっと現代語訳を試みてみました(グリーンの文字が原詩、灰色文字が訳詩)。


「君死にたまふ事なかれ」


あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや



ああ、わたしのおとうと!あなたのためにわたしは泣くわ。
あなた、しんじゃだめ!
すえっこのあなただから、
とうさまもかあさまもあなたをとてもかわいがったわ。
そのとうさまやかあさまはあなたに軍刀を握らせて、
ひとをころせとおしえたかしら?
ひとをころしてしねとおもって、あなたを二十四歳までそだてたかしら



堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり



じゆうなまち堺の商人の、
代々ほこりたかい旧家のあるじで、
あととり息子のあなたなのだから、
あなた、しんじゃだめ!
ロシアの旅順がほろびても、
ほろびなくてもかまわないわ。
あなたはしらないでしょうね!商人の
わがやの掟にはないことよ!


君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ



あなた、しんじゃだめ。
へいかはいくさに、
ごじしんではおいでになりませんが、
おたがいにひとの血をながして、
あさましいけものの道でしね、とか、
しぬことがひとの名誉だ、とかは、
へいかの慈愛はふかいので、
もとより、どうしておぼしめしましょうかしら?



あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる



ああ、わたしのおとうと!
あなた、しんじゃだめ!
そのむかし、いとしいとうさまに、
さきだたれなさったかあさまは、
深いかなしみなげきの上に、
わが子をいくさに召し上げられて、ひとりでいえをまもりぬき、
安泰と聞くご治世なのに、
かあさま白髪が増えました



暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ



お店ののれんに隠れて泣く、
可愛い若いにいづまを、
あなたお忘れ?それとも愛してる?
わずかとつきの新婚ぐらし、はなればなれに引き裂かれた
おとめごころを思ってご覧。
この世にひとりのあなたをおいて、
ああ!他のどなたを頼りにしよう。
あなた、絶対、しんじゃだめ!

私のブログ記事で「花子とアン」を初めて話題にしたのはこの記事だったようです。
その御名はいづれも尊き薔薇(そうび)どの
 

ところでバラの花といえば、以前書いたこの記事のように、シェークスピア「ロミオとジュリエット」の、このセリフを想起させます。

ュリエット「ああ、ロミオ様、ロミオ様! なぜあなたは、ロミオ様でいらっしゃいますの? お父様と縁を切り、家名をお捨てになって!
もしもそれがお嫌なら、せめてわたくしを愛すると、お誓いになって下さいまし。そうすれば、わたくしもこの場限りでキャピュレットの名を捨ててみせますわ」


ロミオ「 黙って、もっと聞いていようか、それとも声を掛けたものか?」


ジュリエット「わたくしにとって敵なのは、あなたの名前だけ。たとえモンタギュー家の人でいらっしゃらなくても、あなたはあなたのままよ。モンタギュー ――それが、どうしたというの?
手でもなければ、足でもない、腕でもなければ、顔でもない、他のどんな部分でもないわ。ああ、何か他の名前をお付けになって。名前にどんな意味があるというの?
バラという花にどんな名前をつけようとも、その香りに変わりはないはずよ。ロミオ様だって同じこと。ロミオ様という名前でなくなっても、あの神のごときお姿
はそのままでいらっしゃるに決まっているわ。ロミオ様、そのお名前をお捨てになって、そして、あなたの血肉でもなんでもない、その名前の代わりに、このわ
たくしのすべてをお受け取りになって頂きたいの」


新潮文庫 『ロミオとジュリエット』シェークスピア作 中野好夫訳

ところで、昨年の定年退職以降の、生活習慣の変化の一つは、「朝ドラ」を観るようになったことです。「あまちゃん」の頃はまだその習慣はありませんでした
が、「ごちそうさん」を何となく観はじめ、「花子とアン」に続いています。今年は4月から、週三日のアルバイト生活に入っていますが、出勤時間には余裕が
あって、ほぼ欠かさず観ることが出来ます。朝観られなくても、録画というものもありますし。
その「花子とアン」で、はなが女学校の文化祭に「ロミオトジュリエット」のシナリオ・演出を引き受ける一場面がありました。
その一こま(第26話
「ロミオ・モンタギュー、あなたの家と私の家は互いに憎しみ合う宿命 …
その忌まわしいモンタギューの名前をあなたが捨ててくださるなら、私も今すぐキャピレットの名を捨てますわ」
「名前が何だというのであろう ~ ロミオの名前を捨てたところで私は私だ!」
「ええ、バラはたとえほかのどんな名前でも、香りは同じ … 名前が何だというのでしょう?」


というシェークスピアのセリフが、はなには納得できず、

もしバラがアザミとかキャベツなんて名前だったら、あんな素敵に感じられるかしら?私のお父が吉平ではなく権兵衛って名前だったら、お母は好きになってるかしら?」

と、思案します、とはいえ、にわかに書き直すいとまもなく、時間をせかされて、稽古を続けていたところ、ロミオ役の醍醐亜矢子の、名前が何だというのであろう ~ ロミオの名前を捨てたところで私は私だ!」のセリフを受けて、ジュリエット役の葉山蓮子(白蓮さん)が、即興でセリフをこう改変したのでした。





「ロミオ様、それはどうでしょうか …
もし、バラがアザミやキャベツという名前だったら、同じように香らないのではありませんか?
やはり名前は大事なものです」

ネット情報によると、このセリフは、本家本元モンゴメリの「赤毛のアン」のエピソードらしい。「赤毛のアン」のシリーズはもちろん、大昔、好んで読みましたが、ディテールは忘れておりました。


「そうかしら」アンは思いに耽った顔をした。「薔薇はたとえどんな名前で呼ばれても甘く香るって本で読んだけれど、絶対にそんなことはないと思うわ。薔薇が薊
(あざみ)とか座禅草(スカンク・キャベツ)とかいう名前だったら、あんないい香りはしないはずよ」(第五章「アンの生いたち )



名前は大事というのは、「アン」自身もこだわったことのようでした。


佐佐木信綱のお弟子さんは、これだけじゃありません。聞きかじりの知ったかぶり記事は、なおも次回に続くのダ!



今日は雨が残る一日でしたが、合間をついて、倉敷市の種松山公園を訪ねてみました。お目当ては雨に濡れたアジサイです。その画像はまたの機会に譲り、今日は、雨に濡れたバラをアップさせていただきます。3000本の薔薇が植えられているそうです。















































「名前は大事」といいながら、お名前がわかりません。

今日はこれにて。

 [文学雑話]

先週末のお四国ぶらり旅で、荘内半島の紫雲出山に上りました。



先輩ブロガーdendenmushi さまの、でんでんむしの岬めぐりの記事(1350 箱崎=三豊市詫間町箱(香川県)まことに見上げた三豊市コミュニティバスが行くこの“箱”はあの「箱」のことなのだった)に、三豊市荘内半島一帯に語り伝えられる浦島伝説にちなんで、玉手箱から出た煙から「紫雲出山」の名が付けられたということです。驚きました。

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啓蟄雑話 [文学雑話]

今日は啓蟄だそうです。

過去にもこんな記事を書きました。

啓蟄や律儀な虫は凍えたらん

こんなことを書いていました。

 「啓」は「開く」、「蟄」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」意で、「啓蟄」で「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)という意を示す。春の季語でもあります。

17世紀後半にイギリスで興り、18世紀のヨーロッパにおいて主流となった「啓蒙思想(けいもうしそう)」とは、「蒙」(もう=くらいこと)に光を当てて、これをひらく思想という意味だとか。

イギリスではトマス・ホッブズやジョン・ロック。フランスでは、 シャルル・ド・モンテスキュー、  ジャン=ジャック・ルソー、 ヴォルテール、 ドゥニ・ディドロ、  エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック、 ニコラ・ド・コンドルセ、ドイツではクリスティアン・ヴォルフ、イマヌエル・カントなどの名前を、教科書で覚えましたっけ。

ネットにはこんな説明が掲載されていました。

世界大百科事典 第2版の解説

けいもうしそう【啓蒙思想 Enlightenment】

17世紀,18世紀の西欧で近代市民階層の台頭にともなって広くおこなわれ,市民社会形成の推進力となった思想運動の総称。上記の英語名も,ドイツ語のAufklärung,フランス語のlumièresも,いずれも光ないし光によって明るくすることを意味する。〈自然の光〉としての人間生得の〈理性〉
に全面的に信頼し訴え,各人があえてみずから理性の力を行使することによって,カントの言い方によれば,〈人間がみずからに負い目ある未成熟状態から脱すること〉へと働きかけ,こうして,理性的自立的な人格の共同体の実現を目指すことにその目標はあったと考えられる。 

そういえば、『水道方式』で知られる 著名な数学者の遠山啓さん(1909年- 1979年)のお名前は、「ひらく」さんでしたっけ。通常「トオヤマ ケイ」さんと呼び習わしていましたけれど。

 「冬籠りの虫が這い出る」なのだそうですが、寒い寒い。

律儀に穴から這い出した虫は、面食らって震え上がっていることでしょう。

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ひなせの詩歌 第三回 土屋文明の歌、の巻 [文学雑話]

日生にゆかりのある詩歌の第3弾です。
備前市加子浦歴史文化館「文芸館」で「自由にお持ち帰りください」とあった資料プリント「日生の詩歌」には 土屋文明 の歌も数種載せられています。二首だけ紹介します。
 網底より 集めし籠の 雑魚さまざま
我が知るは銀寳 一尾孤独に

ままかりは鯯(つなし)の仔には あらぬこと
幾度も聞返す ままかり麗し

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日生の詩歌 第二回 鉄幹・晶子の歌、の巻 [文学雑話]

日生にゆかりのある詩歌の第二弾です。

備前市加子浦歴史文化館「文芸館」で「自由にお持ち帰りください」とあった資料プリント「日生の詩歌」には、続けて、近代短歌において「明星派」を率いた与謝野鉄幹・晶子の歌も紹介されています。
昭和八年、友人正宗敦夫氏を日生に訪ね、船遊びを楽しんだ時の歌だそうです。
なお、正宗敦夫氏の経歴をウィキペディアにたどると、次の通りです。

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日生の詩歌、第一回、の巻 [文学雑話]

先日の日生への一日旅行(なんと、「日」が多い!)の記事の続きです。
備前市加子浦歴史文化館「文芸館」で「自由にお持ち帰りください」とあった資料プリントに、「日生の詩歌」というものもありました。

ちょっとご紹介したい気持ちになりましたが、手入力するのも少々億劫で、コピペできるようなデータがないかと、ネットで検索してみますと、生命保険会社がらみの記事はありましたが、お目当てのものは見つかりません(笑い)。

ですので、一部を抜粋して引用することにします。

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里村欣三は日生の生まれ、の巻 [文学雑話]

去年の3月1日の記事槙村浩と三月一日」に、こんなことを書きました。

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杞の人の憂いや如何冬菜花(故事成語シリーズ第五回) [文学雑話]

故事成語シリーズの第五回。
きょうは、「杞憂」です。
 〈原文〉
杞國、有人憂天地崩墜、身亡所寄、廢寢食者。又有憂彼之所憂者。
因徃曉之曰、天積氣耳、亡處亡氣。若屈伸呼吸、終日在天中行止。奈何憂崩墜乎。
其人曰、天果積氣、日月星宿不當墜耶。曉之者曰、日月星宿亦積氣中之有光耀者。只使墜、亦不能有所中傷。
其人曰、奈地壞何。曉者曰、地積塊耳。充塞四虚、亡處亡塊。若躇歩跐蹈、終日在地上行止。奈何憂其壞。其人舍然大喜、曉之者亦舍然大喜。

〈書き下し〉
杞(き)の国に、人の天地の崩墜(ほうつい)して、身寄する所亡(な)きを憂(うれ)え、寝食を廃(はい)する者有り。又彼の憂うる所を憂うる者有り。
因(よ)って往きて之(これ)を暁(さと)して曰く、天は積気(せっき)のみ、処(とこと)として気亡きは亡し。屈伸呼吸のごときは、終日天中に在りて行止(こうし)す。奈何(いかん)ぞ崩墜を憂えんやと。
其の人曰く、天果たして積気ならば、日月星宿(じつげつせいしゅく)は当(まさ)に墜つべからざるかと。之を暁す者曰く、日月星宿も亦(また)積気中の光耀(こうき)有る者なり。只(たとい)墜(お)ちしむるも、亦(また)中(あた)り傷(やぶ)る所有る能(あた)わじと。
其の人曰く、地の壊(こわ)るるを奈何せんと。暁す者曰く、地は積塊(せっかい)のみ。四虚(しきょ)に充塞(じゅうそく)し、処(ところ)として塊(かたまり)亡きは亡し。躇歩跐蹈(ちょほしとう)するがごときは、終日地上に在りて行止す。奈何ぞ其の壊(くず)るるを憂えんと。
其の人舎然(せきぜん)として大いに喜び、之を暁す者も亦舎然として大いに喜ぶ。

〈解釈〉
中国古代の周の時代のことでしたワ。今の河南省に位置する「杞の(き)国」に、ゴッツゥ心配性のオッサンがおりましてナ。ひょっとして、天や地ががらがらと崩れ落ちて、身のおきどころがなくなりゃせんかいナ、心配で心配でたまらんんで、夜も寝られず、食事も喉を通らぬありさまでしたんや。
また、このオッサンの度はずれた心配ぶりを、心配している人がおりましたんや。
せやさかいに、そのオッサンのところへて出かけて行って、言い聞かせてやりましたんや。
「天ちゅうもんは、大気が積み重なって出来ただけのものやさかい、大気がないところなんぞあらしまへんで。からだをまげたり伸ばしたりするのも、いっつも天の中でやってんのでっせ。どうして天が崩れ落ちるのを、心配する必要なんかありますかいな。」
「天がほんまに大気の積もったもんやったら、お日さんやお月はんやお星さんかて、落ちてくるんやないやろか?」
「お日さんやお月はんやお星さんかて、積もりかさなった大気の中のきらきら輝いているモンなんや。たとえ落ちてきたかて、あたって怪我をさせることなんかあらしまへんわ。」
オッサンはまた言いましたんや。
「地べたが壊れてしもうたらどないしまひょ?」
説得に行った人は、こう言い聞かせましたんや。
「地べたは土のカタマリが積もっただけやで。それが四方のすき間に充満して、土塊のない所なぞあらしまへん。いつだって、ドシンドシンと地面に足を踏みつけて歩いているやおまへんか。
なんで、地べたが壊れるのを心配する必要がありまっかいな?」

オッサンは心配が晴れて大喜び、説得にきた人も胸がすっきりして喜んだトサ。めでたしめでたし

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二兎追うて収拾つかぬけふの記事 (シリーズ故事成語番外編) [文学雑話]


故事成語シリーズの番外編です。

ほとんど仕上がっていた今日の記事が、またまたどこかへ消失してしまいました。→「雲散霧消」「雲散鳥没」「雲消雨散」「煙消霧散」 と、いろいろないい方がありますね。

なかなかの力作(笑)でしたのに、悔やんでも悔やみきれません。→「後の祭り」「覆水盆に返らず」「後悔先に立たず」「後悔と槍持ちは先に立たず 」「後悔先に立たず提灯持ち後に立たず」「 死んでからの医者話」「破鏡重ねて照らさず、落花枝に上り難し」「落花枝に返らず、破鏡再び照らさず」、、、。

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燕雀安んぞ、の巻(故事成語シリーズ第四回) [文学雑話]

故事成語シリーズ第四回の今日は、「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」。

「えんじゃくいずくんぞこうこくのこころざしをしらんや」

大意は「燕や雀のようなちっぽけな小物には、どうして鴻鵠すなわちオオトリのような大人物の巨きく高邁な志が理解できようか、いや決して分かりっこないのだ」といったところでしょうか。表現も意味するところも、歯切れが良くて、きっぱりしていてカッコイイ、、と、高校生のころ教科書で読んで、思いました。

司馬遷の編んだ長大な歴史書『史記(陳渉世家)』の一節です。

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漁父と蚌と鴫のいびつなトライアングルの巻(シリーズ故事成語その3) [文学雑話]

故事成語シリーズ第三回の今回は、「漁父の利」

これも、古代中国の戦国時代の遊説家たちの活躍ぶりを描いた『戦国策』の一節です。

登場人物は、蘇代(そだい)。諸子百家と呼ばれる思想家のひとりで兄の蘇秦(そしん)と並んで、ともに、合従策(がっしょうさく)を説いた縦横家(じゅうおうか、しょうおうか)として知られています。

縦横家について、ウィキペディアにはこう紹介してあります。

 

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井蛙の巻(シリーズ故事成語 その2) [文学雑話]

故事成語シリーズの第二回の今日は、「井蛙(せいあ)」。また「井の中の蛙(かわず)大海を知らず」とも言います。

出典は「荘子・外篇・秋水第十七」の次の一節です。


北海若曰、井蛙不可以語於海者、拘於虚也。夏虫不可以語於冰者、篤於時也。曲士不可以語於道者、束於教也。今爾出於崖涘、観於大海、及知爾醜。爾将可与語大理矣。



【書き下し】

北海(ほっかい)若(じゃく)曰(いわ)く、「井蛙(せいあ)の以(もっ)て海を語るべからざる者は、虚(きょ)に拘(かかわ)ればなり。夏虫(なつむし)の以て冰(こおり)を語るべからざる者は、時に篤(あつ)ければなり。曲士(きょくし)の以て道を語るべからざる者は、教えに束(たば)ねらるればなり。今 爾(なんじ)崖涘(がいし)を出(い)でて、大海を観(み)、乃(すなわ)ち爾の醜を知れり。爾将(まさ)に与(とも)に大理を語るべからんとす。

秋の大雨が降り注ぎ、ありとあらゆる川の水が一斉に黄河に注ぎ込んで、黄河が壮大そのものの景観をなす季節になると、黄河の神・河伯(かはく)は、うきうきと嬉しくなり、天下中の善美がすべて我が身一つに集まったと思いあがります。そして河伯は、流れにしたがって東へと川をくだって行き、ついに北海へとたどり着きます。

ところが、東を眺め渡し、いくら目を凝らしても、大海原の果て見届けることはできず。海の広さを目の当たりにすると、それまで得意の絶頂にあった河伯は、嘆きながら、北海の神・若(じゃく)に、こう言います。

「私はあなたのはかりしれない大きさを目の当たりにして、上には上があるものだと教えられました。もし私が、ここまでやって来て、あなたの門をたたくことがなかったならば、独りよがりで得意になり、みんなのわらいものになるところでした」。

上の引用文は、これに続く場面です。

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シリーズ故事成語クイズ(その1) [文学雑話]

こんなテスト問題を作ってみました。

次の1~5の故事成語の意味を後の語群から選べ。
1 虎の威を借る狐    
2 井蛙(井の中の蛙)  
3 杞憂  
4 漁父の利   
5 五十歩百歩 



【語群】
ア弱者が、自分の力を考えないで強者に立ち向かうこと。イ見聞・見識の狭いこと。
ウつまらぬ人物には大人物の遠大な心はわからないという意。 
エ本質的には同じであること。どちらもたいしたことのないこと。
オ不必要な心配。取り越し苦労。  
カ強大なものの後につき従うより、たとえ小さくとも頭になれということ。
キ他人の権勢を利用して、利益をはかること。  
ク人生の幸・不幸は予測しがたいこと。
ケ両者が争っているうちに、第三者が利を占めること。 コ苦労して学んだ成果。


いかがでしょうか?(答えは今日の記事の終わりにあります。)

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おのれはとうとう、女なれば、いづちへも行け、の巻 [文学雑話]

先日来、木曾義仲の最後のいくさの場面を話題にしています。
今日の話題は、物語の時系列から言うと、この記事「巴の姿しばしとどめむ、の巻」に続く場面になります。
激戦をかいくぐった義仲の軍勢が、ついには主従5騎に目減りしてしまったなか、「五騎がうちまで巴は討たれざりけり。」とあります。武芸に秀でた巴は、愛する義仲の傍らに付き従って、無傷のまま奮戦を続けているのです。
その続き。

木曾殿、「おのれはとうとう、女なれば、いづちへも行け。我は討ち死にせんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど言はれんことも、しかるべからず。」とのたまひけれども、なほ落ちも行かざりけるが、あまりに言はれたてまつりて、「あつぱれ、よからうかたきがな。最後のいくさして見せたてまつらん。」とて、控へたるところに、武蔵の国に聞こえたる大力、御田八郎師重、三十騎ばかりで出で来たり。巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べて、むずと取つて引き落とし、わが乗つたる鞍の前輪に押しつけて、ちつともはたらかさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。そののち、物具脱ぎ捨て、東国の方へ落ちぞ行く。手塚太郎討ち死にす。手塚別当落ちにけり。

〔テキト-解釈〕
木曾殿(源義仲)は、「おぬしは早く早く、女であるゆえ、どこへなりとゆくがよい。わしは、討ち死にしようと思うのじゃ。もし敵の手にかかって傷を負うようなことになったら、自害をするつもり。それゆえ、世間の人々に、木曾殿は最後のいくさに、女を連れておいでだそうな、などと言われるようなことは、あってはならんことじゃ。」とおっしゃったが、巴はなおも逃げ落ちて行かなかった。

あまりに何度も繰り返し言われ申して、「ああ、適当な対戦相手がほしいもの。華々しく、最後のいくさをしてお目にかけよう。」と、馬のたずなをひきしぼっ て待ち構えているところに、武蔵の国に名をはせた大力の持ち主、御田八郎師重が、三十騎ほどで出て来た。
巴は、軍勢の中に中に馬で駆け入り、御田八郎の馬に自分の馬を並べて、むんずと組みついて八郎の身体を引き落とし、自分の鞍の前輪にぎゅっと押しつけて、少しも身動きさせず、首をねじり切って捨ててしまった。
そのあと、おもむろに、よろいかぶとを脱ぎ捨て、一人の女となって、いずこともなく東国のほうへ立ち去っていく。
残る主従4騎のうちの、手塚太郎は討ち死にした。
手塚別当は落ち武者となって去っていった。

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牧水余談 [文学雑話]

今朝方、M女史(わがブログではヨシミさんとお呼びすることもあります)から電話があり、昨日付けのブログを見たが、ちょうど昨日はヨシエさんと牧水の碑を尋ねたところだった由。(ヨシミ・ヨシエのお二方は、私のブログネタともなる種々の探訪をしばしば企画してくださる友人で、この記事をはじめ、何度か登場していただいています。)ついでに、近日、永瀬清子さんがらみの企画の情報も紹介してくれました。
若山牧水を話題にしたついでに、本棚から、読みかけで長く放置している本を引っ張り出してきました。
川西政明氏の大作、「新・日本文壇史」の一冊です。

大正の作家たち (新・日本文壇史 第2巻)

大正の作家たち (新・日本文壇史 第2巻)

  • 作者: 川西 政明
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2010/04/16
  • メディア: 単行本



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