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7月7日のこと、の巻 [今日の暦]

 


昨日も郷里へ帰ってきました。


先日、耕運作業中に耕運機を転落させて作業が途中やめになっている畑に行き、その片隅に繁茂している笹を伐って持って帰るのが目的です。七夕の飾り付けをしたいという、小1の孫に頼まれたのです。


この畑、作物を植え付ければ、必ず、イノシシや鹿の被害にあい、獣よけの網で囲ったわずかの範囲では玉ねぎの収穫に成功しましたが、そのあと何を作付けするか、悩ましいい限りです。獣よけの周囲には、今年は妻が綿を植え付けてみました。無事に育っている部分も一定程度あるのですが、新芽や若葉を鹿にかじられたものも少なくないのです。


このような悪条件の畑は耕作放棄してしまいたい(現に周囲の畑は、持ち主が亡くなられたり後継が遠隔地にお住まいであったりのために、耕作放棄地になっているところも多いのです。)ところですが、耕作放棄すると瞬く間に夏草の繁るに任せる事態となること必定ですので、最低限の草刈りや耕耘は、私がやろうと思っています。不運にも、先日、転落して故障した耕運機は、業者の見たてでは修理不能との由で、グレードを下げてでも新機を購入する運びになっているようです。


草刈りも、ちょっと油断すると、ススキや茅の類が大繁茂するばかりでなく、笹竹が地下茎を伸ばして勢いよくはびこるので厄介極まりないのですが、年に一度、七夕の時には重宝します。現に孫には感謝され、友だちにもお裾分けできたようです


さて、今日7月7日は、七夕ですが、どうやらあいにくの雨のようです。旧暦にあわせてもう一月ほど。願い事を書いた短冊飾った笹を軒下に立てておくことにしましょう。
先日の伊豆地方での土石流災害がまだ救援活動のさなかですのに、線状降水帯の猛威は収まらず、島根・鳥取県地方など各地で被害が広がっている模様。心が痛みます。そういえば、岡山県真備地区などを襲った洪水被害は、3年前、2018年の今の時期のできごとでした。


ところで、7月7日には、忘るべからざる世界史的重大事件がありました。


1937(昭和12)年に起きた盧溝橋事件がそれです。


事件の概要をネット記事から引用します。


1937年7月7日夜,中国,北京南西郊の盧溝橋付近で,演習中の華北駐屯日本軍一木大隊の中隊に対して十数発の射撃がなされたことを契機に,日本軍と冀察政権 (政務委員会) 第 29軍との衝突に発展した事件。日中戦争の発端となった。中国では「七七事件」として知られる。最初の十数発の射撃が日本側の謀略か抗日勢力によるものかは不明とされている。 11日未明には一応現地で停戦が成立した。しかし,当初不拡大方針を声明していたにもかかわらず,第1次近衛内閣は 11日内地3個師団の動員を決定,軍部内でも,拡大派と不拡大派が激しく対立するなど矛盾をはらみつつ戦線は次第に拡大し,同 28日の北京,天津総攻撃の開始をもって全面的な戦争に突入した。中国側ではこれを契機に第2次国共合作がなり,抗日の機運が高まった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典


これをきっかけに泥沼の侵略戦争に突き進んで行った側の私たちにとっては、記憶の隅に追いやられた、思い出したくない過去の一コマであるかもしれませんが、最近のこのホットニュースは、立場の違いに伴う認識の差を改めて思わされたことでした。


【ウルムチ共同】ソニーの中国法人は2日までに、盧溝橋事件から84年となる7日夜に新製品の発表を予定していたのは不適切だったとして謝罪した。事件は日中戦争の発端となっており、事前の告知に対して中国のインターネット上で批判の声が殺到していた。

ソニー中国は北京時間の7日午後10時からイベントを開き、新しいカメラを発表する予定だった。批判を受け、中国の短文投稿サイト「微博(ウェイボ)」で1日に「日付の選択で誤解と混乱を招いた」と謝罪した。

カメラの発表は日本や欧米と同時に行われる見通しだったが、ソニーは「中国でのイベントは中止する」としている。


最近、図書館で続けて借りて、車の運転中に聴いている半藤一利さんの「昭和史」CDに、こんな一節があります。


作家 の 野上弥生子 さん が、(昭和12年の) 年頭 の 新聞 で こう 書い て い ます。

「…… たった ひとつ お願い ごとをしたい。 今年 は 豊年 で ござい ましょう か、 凶作 で ござい ましょ う か。 いいえ、 どちら でも よろしゅう ござい ます。 洪水 が あっ ても、 大地震 が あっ ても、 暴風雨 が あっ ても、…… コレラ と ペスト が いっしょにはやっても、 よろしゅう ございます。 どう か 戦争 だけは ござい ませ ん よう に……」

という こと は、 戦争待望論 という か、 昭和 十 二 年 に なっ た 段階 で、 日本 には「 中国 を 一撃 すべし」 の 空気 が かなり 瀰漫 し て い た ん じゃ ない かと 思う の です。


「苛政は虎よりも猛なり」(礼記)に通うギリギリの願いです。凶作、洪水、大地震、暴風雨、コレラ、ペスト・・・。コロナ禍の只中、未曾有の土砂災害、洪水のニュースを聞きながら、この引用を紹介するのも気が引けるのですが、戦争の災禍はそれよりも凶だという予感は、現実となって人々を覆い尽くしていくことになります。


CDを少々早送りします。


少し 脱線 し ます が、 それ まで わが 日本国 は「 日本 帝国」「 日本国」「 大日本帝国」 など、 天皇陛下 の こと も 国際的 には「 皇帝」「 天皇」 など いろいろ 呼び 方 が あっ て 統一 さ れ て なかっ た の です が、 昭和 十一 年 四月 十 八日、 外務省 が 日本 を「 大日本帝国」 と 呼称 する こと に 決定 し まし た。 この 言葉 そのもの は どう って こと ない の です が、 そう 決定 する こと で 国民 は「 大日本帝国」 つまり「 日本 は 大 なる 国 で ある」 と 思い込む よう に なっ て いく。 日本 は 昭和 八 年 に 国際連盟 を 脱退 し て 国際的 に 孤立 し て いる の です が、この 時 に なっ て「 大日本帝国」 と 称し た こと は、 なんとなく 閉塞 的 な 現状 を 打破 し たい、 そんな 国状 を 物語っ て いる よう に 思い ます。

という 大前提と状況 の もと、 昭和 十 二 年 七月 七日 に いわゆる 盧溝橋事件 が 起き た の です。

北京 郊外 の 盧溝橋 で 銃撃 が あっ て、 日中 両軍 ─ ─ 当時 は 中国 を 支那 と いっ て い まし た ─ ─ 日支両軍が銃火を交えたという第一報 が 届い た時 に、 時 の 総理大臣 近衛文麿 は「 まさか、 また 軍の計画的行動では なかろうな 」 と、 また 海軍次官 山本五十六 中将 は「 陸軍のやつらは 何をしでかすかわかったものではない。 油断がならん よ」 と 言ったといい ます。 つまり 上 の 方 の 人 たちが、 事件の 第 一報 を 聞い た時点 で、陸軍の陰謀 だ、 また 満州事変と同じようなことをやっ たな、 と思ったのは 事実 のようです。


さらに早送り、、、。


盧溝橋事件 は 当然 の こと ながら、東京裁判 で 取り上げ られ まし た。大体 において検察側 は、 日本 軍 の 無謀 なる 攻撃、策略的な仕掛けについて 糾弾 が 厳しく、当時、北京駐在武官 だった アメリカ の バレット大佐も 次 の ように証言してい ます。 「中国 軍 に対する 日本軍の態度は傲慢 で、 攻撃的 で あり、 多く の場合、その 行動 は 中国 の 主権 に対する 侮辱 と、直接 の 冒涜 で あっ た と 思う。 私 の 考え では七月 初 週 の、 宛平県城付近で行なわれた日本軍の夜間演習 は、挑発的なものであった」


両軍の演習がそれぞれに行われていた深夜,数発の銃弾が飛来したが、誰一人として負傷などの被害もなく、一時行方不明とされた一人の兵士も、少し離れた場所で小用を足していただけというできごとは、のどかな笑話です増されるべきエピソードに過ぎず、大戦争の引き金になるような凶悪な事件では決してありえなかったでしょう。小さな小競り合いとして、事態を収めるチャンスはたびたびあったようですし、戦線が拡大してからも講和の努力は重ねられそのチャンスはあったのに、なぜ破滅の泥沼に一路突入して行くことになるのか?


「 一ぐん 二ぐん 三もぐん、 ぐんぐん ぐんぶで 押し通す」(画家 ・ 中川 紀元)と、心ある人々にその驕慢を嘆かしめた軍・政府の指導者たちの、事態への客観認識を欠いた根拠のない驕りと面子、止めどもない手柄欲が、間に合ううちに退く機会を奪ってしまったのでしょうか?


と考えているとき、「命より五輪が大事」とばかり、道理(ことわり)もなく、悲劇へと突き進む現代の指導者たちの埒なき姿が、二重写しに見えてきて、大いに心が沈みます。


最近の朝散歩の様子です。


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アサガオの季節になりました。


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ヒャクニチソウ。


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エノコログサ(ネコジャラシ)


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この花はなんでしょう?


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そしてこの花は?


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これはゴボウの花かな?


今日はこれにて


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うっかり忘れてましたがな、の巻 [今日の暦]

昨夜から、目覚めるたびに雨音が聞こえ、未明頃からは強い風の音も混じりました。一頃とは違って、身体がこわばるほどの寒さはやわらいできたようです。


「啓蟄」にちなんだ記事を書こうと思ってました。


気がついたら、一日遅れになりました。


ほぼ毎年、「啓蟄」を話題にしてますので、もうネタぎれではあるのですが、、、。


下は一昨年の記事です。


啓蟄雑話、の巻(2019-03-06)


今日は啓蟄

去年書いた記事をコピペします。

啓蟄にちなんで穴の鼠を思う,の巻

今日は啓蟄だそうですね。
過去にも、この日にちなんだ記事を、何度か書いていますので、能書きはほどほどにいたします。
啓蟄や律儀な虫は凍えたらん
啓蟄雑話
ウィキペディアにこうあります。

啓蟄(けいちつ)は、二十四節気の第3。二月節(旧暦1月後半から2月前半)。「啓」は「開く」、「蟄」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」意で、「啓蟄」で「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)という意を示す。春の季語でもある。

毎年、同じようなことばかり思いつくものですが、今日は漢字にこだわってみます。「蟄」は画数も多く難しい漢字ですが、「虫」に関係ありそうなことはなんとなくわかります。


先日、借りてる畑にジャガイモを植えました。男爵と、メークインを少々です。遅れての冷え込みを警戒して、マルチシートをかぶせています。


植え込み準備のために耕していると、虫ならぬ雨蛙が、もぞもぞ目を醒ましてきました。安眠妨害でごめんなさいとつぶやきながら、蛙君も虫偏だったなあと思い返していました。


隣の畑に、ケリがやってきていました。


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畑の虫をついばんでいるようです。


ツグミも、やはり、虫やミミズが好物と思われます。


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鳥にカメラを向けながら、時々思い出す言葉があります。


通りすがりの女性カメラマンさんが、「なんだヤマガラか。写してやらない!」と口にされていたこと。多分、その方も、初心の頃にはヤマガラにも敬愛を持って接しておられただろうに、と想像したりしました。


先日の後楽園で出会ったヤマガラ。かわいいです。


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お目当ての鳥に会えず、「ヒヨばあじゃ」と嘆く言葉も、いつも反芻されます。私は今でも、ヒヨドリを見ると、写したくなります。この初心者イズムは、大切にしたいと思っています。


後楽園のヒヨドリです。


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オオバン。


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アオサギ。


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セグロセキレイ。


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どれもありふれた鳥ですが、やっぱりカメラを、向けたくなります。


ジョウビタキ♀。毎日のように、何枚も写してしまいます。かわいい鳥です。


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風景写真も載せておきます。


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今日はこれにて。


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桃の節句、の巻 [今日の暦]

お手伝いしている教育相談ボランティアのブログに、こんな記事を投稿しました。我ながら気に入っているので、恥ずかしながら転載させていただきます。


アッという間に3月です。
そして今日は3月3日、桃の節句。
かわいいひな人形を愛おしみつつ、雛あられを喜んで食べている女の子たちが、真にジェンダーフリーの世の中で輝くことができますように、、、。
そういえば、今日は、「人間平等」を宣言した「水平社」創立の日でもありました。
当ネットワークの近くにある後楽園も、春の装いを深めています。



園を彩る芝は冬枯れの様子で、新芽はまだ萌え出てはいませんが、、、
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梅は今が見ごろ。
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ツバキも満開で、すでに根元に落花の色どりが風情を醸しています。
赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐
(山)


一昨日、図書館に行って、ついでに後楽園を訪ねてみようと思い立ち、出かけました。ところが図書館は、、、休館。二月後半に訪ねた際に、更新のため一定期間休館でしたが、3月になったのでよかろう、と思ったのに。月曜日休館になることが多いのでした、残念。


後楽園だけでも、予定通り、歩いて帰ることにしました。ところが「年間パス」の有効期限がとっくに11月で切れていました。仕方ないので、料金を払って更新し、一回り散策しました。写真を追加しておきます。


岡山城眺望。


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園内風景。


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梅いろいろ。


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そして、梅メジロ。


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今日はこれにて。


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続々すっかり忘れてました、の巻 [今日の暦]

この写真をアップするのを忘れてました。


近所の小川で漁をするカワウです。


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郷里の家の近くにいたモズ。


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昨日の記事で、裁判所は上級審になるほど低級という話題を書きましたが、このニュースは、忘れないように記録しておきましょう。2月19日付NHK NEWSWEBから引用します。


原発 東京高裁 国の責任認める

02月19日 19時01分

福島第一原子力発電所の事故で、千葉県に避難した人たちが訴えた集団訴訟の2審の判決で、東京高等裁判所は、国の責任を認めなかった1審判決とは逆に、国にも賠償を命じました。


低級でない上級審もありました(笑)




ここから本論。


今年の雨水(うすい)は2月18日だったそうです。当ブログでは、毎年のように話題にしていますが、今年はすっかり忘れていました。


去年の記事にこんなことを書いています。



暦の上では、明日が「雨水」だそうです。過去記事で、ついつい何度も話題にしています。

今日雨水青空も得しヒレンジャク(2014-02-19)

(中略)

多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻(2015-02-20)

(中略)

雛飾り草もむしりし雨水かな(2016-02-19)

(中略)

孤高の鳥、群れる鳥、の巻(2017-02-21)

(中略)

昨日は雨水、今日は多喜二忌、の巻(2018-02-20)

昨日は雨水。
今日は多喜二忌。
いずれも記事にしたい題材ですが、今日は軽く通り過ぎることにします。
多喜二について書いた直近の記事は、昨年10月のこの記事でしょうか?

「多喜二の母」に思う、の巻(2)
「多喜二の母」に思う、の巻

南(みんなみ)の便り届くや今日雨水(2019-02-19)

(中略)

よくもまあ、飽きもせず、毎年のように、似た記事を書いているものです、


こんなに同工異曲の記事を繰り返し書いてきたことも、すっかり忘れてました。でも、今日2月20日が多喜二忌だということは、決して忘れられません。


と書いた後で気がつきました。この記事のこと、忘れてました(汗)


忘れてました、の巻(2019-02-21)


こまっしゃくれたチコちゃんに「ぼーっと生きてじゃないわよ」ととがめられるのは不快ですが、確かにとみに注意力散漫で、大事なことに後で気づく事が多いです。

昨日が二月二十日であること、二月二十日が多喜二忌であることはそれぞれ認知しているつもりですが、その二つが結びついたのは、昨日の記事をupしたあとのことでした。遅かりし由良之助です。

当ブログでは、毎年欠かさずこの日の記事を書いてきましたが、先日の「高知新聞」への投稿との関連で、2015年掲載の記事をひもといてみることにします。

多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻

NHKの朝ドラ「マッサン」で、息苦しい戦争の時代のやりきれなさが極まっていきます。前回の「花子とアン」同様、またまた官憲・特高の傍若無人の暗躍が、市民のささやかな幸せを踏みにじっていきます。
スコットランド生まれの妻エリーへの迫害は、戦時の偏狭な排外主義の愚かさを際だたせますが、でも、21世紀の現代の「ヘイトスピーチ」を頂点とする差別主義・排外主義の論理と、あまりにもそっくりですね。

ところで、意に染まぬものを強圧によって押しつぶし排除しようとする権力が、歯止めを失って暴走する時、どんな信じられないことが起こりうるかということを、今日の地元紙「山陽新聞」のコラム「滴一滴」を読んで、考えさせられました。

〈ああ、またこの二月の月が来た/本当にこの二月という月が嫌な月/声を一杯に泣きた
い/どこへ行っても泣かれない/ああ、でもラジオで少し助かる/ああ、涙が出る/眼鏡がくもる〉▼29歳で非業の死を遂げた息子を思い、母が書き残した詩だ。作者は小林セキ。「蟹(かに)工船」で知られる作家小林多喜二の母である▼プロレタリア文学の旗手と呼ばれた多喜二は、1933年2月20日、東京で特高警察に捕まり、拷問を受けて絶命した。治安維持法のもと、思想や言論を理由に拘束され、命まで奪われた。この国で、82年前に起きた出来事だ▼多喜二と親交のあった作家志賀直哉がセキにお悔やみの手紙を送っている。「不自然な御死去の様子を考え、アンタンたる気持ちになります」。まさに暗澹(あんたん)たる時代だった。その年、日本は国際連盟を脱退し、ドイツではヒトラー政権が誕生した。世界は戦争へと向かった▼終戦まで、遺族は多喜二の名前すら口にできずに耐え忍んだ。戦後、セキが語っている。「思想も、言論も、出版も、結社もすべて自由になって…何というありがたいことでしょう」(「母の語る小林多喜二」新日本出版社)▼戦後70年。多喜二の名前は知っていても、その最期を知らない人は多いのではないか。時代を決して後戻りさせてはならない。心に刻む多喜二忌である。


今日は多喜二忌です。


多喜二の「処女作」とも言える『一九二八年三月十五日』で、3・15事件で夫を逮捕された妻お由は、若い労働者仲間が語っていたこんな言葉を思い出します。


「蟻の大群が移住する時、前方に渡らなければならない河があると、先頭の方の蟻がドシドシ河に入って、重なり合って溺死し、後から来る者をその自分たちの屍を橋に渡してやる、ということを聞いた事があった。その先頭の蟻こそ自分たちでなければならない。」


この言葉を、朝日茂さんがその手記に書き止めていたことを、岡山年金訴訟弁護団長の則武透さんは、支援者の集まりなどでよく話題になさいます。先日の最終弁論後の総括集会でも、これを引用して発言されました。運動のための踏み石になれという狭い意味ではなく、自分自身は直ちには報われないかもれないが、無数の、先人達のたたかいの積み重ねのうえに、志は達成されるという意味だろう。次の世代の幸せのために、なすべきことに自らの力を尽くそう、という朝日さんの決意を私たちも共有したい、というような趣旨(メモしてませんからうろ覚えです)だったと思います。


実際私は、この蟻のエピソードに、長く引っかかりを覚えていました。それは、“滅私奉公”や“特攻精神”に通う自己犠牲の美化・強迫の匂いに窮屈を感じるような気がしていたからです。が、そうではないのかも知れないな、と思えてきました。




今日(2月20日)、いろいろ珍鳥にあえました。


その1


レンジャクです。


最近いろいろな方から目撃情報をお聞きしていました。その情報とは別の場所で、たまたま見つけました。


老若男女のカメラマンさん達のレンズの先をたどってみると、、いましたいました。


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これも人だかりしているカメラの先を探ってみると、いました。


そう言えば、M師の最近のメールで、ここでクロジを撮影したとの情報をいただいていました。


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トリミングします。


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ブレブレですが、証拠写真は残せました。


今日はこれにて。


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すっかり忘れてました、の巻 [今日の暦]

記憶のあやふやさについての嘆きは、再三口にしてきました。以前は、謙遜半分、自虐半分の「ネタ」として、いくらか余裕を持って語ってもいたのですが、最近は、どうも、白濁した記憶の底をまさぐるいらだたしさと不安とで、半ば取り乱しそうになることさえ増えてきました。人名を思い出せないことはしょっちゅうですし、事柄への記憶も揺らいでいて、外部記憶なしには「忘却」のかなたに消えてしまう「過去の事実」の危うさに立ちすくむ思いです。


そう言えば高校生の頃、こんな詩を書きました。


日 記
         1
時は過ぎ去ってしまった と書き込まれた頁の上には
また幾枚もの過去が重ねられ
そしてどこにも現在を見いだすことはできなかった

確かにあった瞬間を留めることができなくて
つまりはそこに 何もなかったのだ と
かつての少年は 言うのさ
“その時”が何に変わったのでもなく
ただ 老いてゆく自分を知るばかりだ と
3                               
偶然にか作為的にか選りぬかれた“時”のみが
いくらか歪められ あるいは造り上げられて
忠実に書き残された
それこそが そして そればかりが
己の記録だとして その追憶の中にまであらわれた
恣意的に消し去られたもの
あるいは しだいに忘れられたものは
いったい何だったのだろうか
ーーーーー失われたものこそ 歴史なのだ

懐疑とか虚無とかという文字にはかびが生え
とにかく生きよう より善く生きようと
そればかりで埋められた頁は埃をかぶり
愛するとか夢見るとか それら美しくてすがすがしい言葉は
無力と倦怠の餌食になりやすく
案の定どす黒く穢され 悪臭ふんぷんし
結局 何も残りはしなかった

さよならと走り書きした頁の端の 透明なしみの意味を
少年はもはや 覚えてはいなかった
そこここに見られる“Y”という符号の意味も
ついには忘れられてしまった

これからあるはずの未来を
やはりそこにあったはずの過去として
いつかは一冊のノオトに納めきったとき
(そのとき少年はもはや少年ではなく)
書き残されず忘れ去られた今日を
あわれむだろうか
       7
してみると
人には未来はありようもなく
さりとて現在(いま)もありはせぬようだし
果たして過去はあったのかしら


粋がってこんな大人びた台詞を吐いていた頃が恥ずかしく、また懐かしいことです。




今日のタイトル「すっかり忘れてました」の第一は、昨日、2月14日にちなむ話題。


「バレンタインデー」のことではありません。孫たちとそのママからのチョコと手づくりお菓子のプレゼントは、美味しくいただきました。


土の上を這う芋虫?いえいえ、土と見えるものも、そこに身を隠そうとしている芋虫オス2匹メス1匹も、いずれも精巧な手づくりお菓子です。お見事。


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そのバレンタインデーの2月14日は、「人間裁判」をたたかった朝日茂さんの命日でもあります。もまだ日本には、バレンタインデーを祝う風習定着していなかった頃の1964(昭和39)年の2月14日、朝日茂さんは肺結核のため入院療養中だった国立岡山療養所(現在の「独立行政法人国立病院機構南岡山医療センター」)で、帰らぬ人となりました。そして、4年後の1968年02月14日 には、病院登坂口に「人間裁判記念碑」が建てられ、朝日さんのたたかいの意義を後世に伝えています。


岡山博物図鑑 の記事中、早島町のはなし から引用させていただきます。


人間裁判記念碑-朝日訴訟


国立岡山療養所(現国立療養所南岡山病院)に長く結核で入院していた朝日茂は、35年間離れて暮らしていた九州の実兄から月に1500円の送金を受けるようになります。そのため津山市社会福祉事務所は昭和37年(1962)7月18日付で、それまでの月額600円の生活扶助を打ち切り、送金額から打ち切った扶助額と同じ600円を控除した900円を、医療費の一部として徴収する決定を行ないました。つまり朝日に入るお金の額は全く変わらなかったわけです。
そこで朝日は岡山県知事、更には厚生大臣に対して不服申立を行ないます。理由は生活のさして楽でない兄からの送金の5分の3をも取り上げられ、補食を必要とする重症の結核患者にとって相変わらずの600円の生活は、生活保護法所定の健康的で文化的な最低限度の生活水準を維持するのには不十分である、というものでした。
しかし申立はことごとく却下され、朝日は遂に厚生大臣に不服申立却下の取消を求める訴えを提起します。これが世に有名な「朝日訴訟」です。


この訴訟は、人の生存権とは何かを問いかけたという意味で「人間裁判」とも呼ばれました。
第1審では、我が国社会保障史上画期的な判決で朝日が勝訴しますが、第2審では厚生大臣が逆転勝訴、決着は最高裁へと持ち越されます。
しかし昭和39年、上告人である朝日がこの世を去り、相続人の訴訟承継も認められず、最高裁は訴訟の終結を宣言しました。
結局、この訴訟の結果は曖昧なものとなってしまいましたが、その間、朝日を支援しようとする運動は全国に拡がり、各地で生活保護費の水準が引き上げられるなど、その後の社会保障のあり方に与えた実質的な影響は極めて大きなものでした。
現在、南岡山病院の登坂口には、「人間裁判」の記念碑が建てられています。
「人間裁判」の記念碑
「人間裁判」の記念碑


この記事は「早島の歴史2 通史編(下)」、「生存権の性格-朝日訴訟」(杉村敏正 「別冊ジュリスト No44」 有斐閣)を参考にさせていただきました。

私のブログでも、人間裁判=朝日訴訟についてはこんな記事を書いたことがありました。


年金訴訟と朝日訴訟についてのおもいつくまま(2016-07-05)


(岡山年金訴訟弁護団長の)則武さんは、裁判冒頭の意見陳述の終わりに、朝日訴訟を引いてこう訴えておられます。

14.最後に、かつて、この岡山の地で、朝日茂さんが立ち上がって起こされた 「人間裁判」 朝日訴訟のことを述べさせて下さい。 朝日訴訟では、
第1審の東京地裁の浅沼裁判長は、 朝日茂さんが病の床にあった早島の結核療養所まで赴き、 3日間にわたり検証や朝日茂さんへの尋問などを実施しました。
浅沼裁判長は、 岡山を立ち去る際に 「意法は絵に描いた餅ではない」 と述べたそうです。そして、昭和35年10月19日、月額600円の生活保護基準を憲法2
5条違反とした画期的な浅沼裁判長の東京地裁判決が下されます。 この浅沼判決を受けて、朝日茂さんは「真実をふかく見きわむ浅沼裁判長 四年の審理に我は謝すべし」
との歌を詠みました。
その朝日訴訟ゆかりの地である岡山の裁判所で、今再び、憲法25条の存在価値が問われているのであります。 どうか、裁判所におかれては、原告らに生活保障を十全のものとするために、真実を見極め、審理を尽くされることを期待します。

思わず、目頭が熱くなりました。
朝日訴訟については、前述の「年金裁判」は何に貢献するか?の巻でも少し触れました。
以前、小林多喜二を話題にしたこの記事で、岡山県出身の作家右遠俊郎さんについて書きました。
またまた3月15日の蘊蓄、の巻
この記事で引用した略歴に、「1989年『小説朝日茂』で多喜二・百合子賞受賞。」とあります。
その、『小説朝日茂』は、克明な資料と取材に基づいて、淡々と抑制的な筆致で綴られたルポルタージュ的な「小説」ですが、ページページに深く胸を打たれ、涙を催さずに読むことはできませんし、同時に極限の状況下でも、人間の示しうる尊厳、勇気、高潔に、はげまされずにはいられません。

小説 朝日茂

小説 朝日茂

  • 作者: 右遠 俊郎
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 1988/12
  • メディア: 単行本

第一審の判決場面を引用します。

現地検証・現地公判のあと、年内になお二回の公判が開かれ、朝目側証人の有力な証言、たとえば、第十回公判の参議院議貝木村禧八郎の証言、第十一回公判の労働科学研究所員藤本武の証言が続き、茂は弁護士たちの意見と同じく、勝訴へのかなり確かな感触を得るのだが、訴訟というものは始まるときも待たせるが、終わりがけもなかなかすっきりとはけりがつかない。結審したのは第十三回の公判、翌一九六〇年の三月十六日であった。そのとき、弁護士たちの見通しでは、判決は六月頃だろう、とぃうことであった。折から<安保反対>の高潮が全国に渦巻いているときであった。
茂はラジオで<安保反対>の高鳴りを聞きながら、胸を熱くし、いくらかは焦りながら、指折り数えて判決の出る日を待つていた。が、判決は六月になって遅れることが知らされた。重症の身で三年、不服申し立てからでは四年を、血を喀きながら命ながらえてきた茂には、判決の遅延はひどくこたえた。
茂の病状が急に悪化した。流動血痰の量がふえ、心悸亢進、食欲不振が続いた。危機の予感に焦燥が燃え、茂は浅沼裁判長の白いマスクの上の目の優しい印象を忘れ、裁判所はわしが死ぬのを待っているのか、とあられもなく口走りたい衝動に駆られるのだった。
茂は半ば覚悟を決めて遺書を書いた。が、どうしても判決だけは見たいという執念で、危うく持ちなおした。周囲のものは愁眉を開いた。日本患者同盟や対策委貝会は茂の病状を憂えて、裁判長に判決を早く出してもらうように要請した。暑い、夏も終わろうとする頃、判決は十月と知らされた。もう延びることはないようであった。
一九六〇年十月十九日、判決を待って茂は朝から待機してぃた。新聞記者たち、カメラマンたち、地元山陽放送の放送記者たちが、.茂の部屋に詰めかけてぃた。茂はうっすらと不精ひげをロのまわりにたくわえ、詰めかけた人たちとなごやかに談笑していた。
茂は秋になって体調を取りもどしていた。みんなの見ているまえで、昼食をすませた。午後二時、療和会の事務所に、山陽新聞からの速報が入ったらしく、その知らせを持って療和会の書記が病室に飛びこんできた。

「勝った」
と彼は言った。 病室に居合わせた人々は一斉に茂の顔を見たが、どっと湧くようなことはなかった。まだ書記の「勝った」が信じられなぃらしく、さらにその続きを聞こうとしていた。が、書記にも、「勝った」内容は説明できなぃのであった。
山陽新聞の記者がすぐに席を立って出てぃった。電話をかけにいったらしく、まもなく病室に帰ってくると、朝日茂の完全勝訴であることを告げた。何でも、国は憲法第二十五条に違反していると断じているらしい、と彼はつけくわえた。そこでやっと病室のなかがどよめいた。茂は思わず暗ればれと笑った。
さっそくマイクが茂のロ元に突きつけられた。茂は別に用意していたわけではなぃけれど、よどみなくしゃべりはじめた。 「ありがとう。みなさんのおかげです。私は内心では、民主主義の理念からいえば、勝つのが当然だと思うとりました。しかし正面きってそういえば虚勢にきこえるのでいままであまり言いませんでした。この当然のことが勝ったんです。憲法の前文をみればこのことはわかります。今の憲法が、人間の基本的人権を守るものであることを、裁判官が正しく理解し、ものごとを、まじりけなしに純粋に考察し政治的考慮を抜きにすれば当然勝つはずだったんです」
それから三十分ほどして、日本患者同盟のウナ電が入つてき、午後三時にはラジオが朝日茂の勝利を報じた。それによれば、「現行の保護基準は、生活保護法にもとり、健康で文化的な最低限度の生活を保障した憲法第二十五条の精神に反する」という内容のものであり画期的な判決である、ということだった。
(中略)
茂は今日の感慨を忘れずに残しておこうと思い、薬包紙に鉛筆で短歌三首を書きとめた。
<われ勝てり浅沼裁判長は声低く言葉少なく判決文を読めりと>
<血を喀きつつ今日の判決待ちわびぬ我れに久しき四年のあけくれ>
<真実をふか<見きわむ浅沼裁判長四年の審理に我は謝すべし>

感動のクライマックス!と喜べないところが、現実のしぶとさ、国家権力のあくどさというもの。民主国家を標榜する我が国の裁判所は、三権分立の建前にもかかわらず、上級審へ行くほど行政権力へのおもねりが甚だしく、上級審ほど低級である点は、今も昔も変わらぬようです。
「朝日訴訟」においても、1963年11月4日、厚生省は朝から通用門のすべてを閉ざして、要所に守衛を配置し、東京高裁と道路を隔てた日比谷公園には100人を超える武装警官が待機するものものしい警戒のもと、東京高裁は一審の判断を覆し国側勝利の不当判決を下したのでした。
『小説朝日訴訟』からいま少し引用します。

茂のもとにその知らせが入ってきたのは午後二時であった。待機していた記者たちに、茂は開口一番、「少しは、負けたような深刻な顔をせにゃあぃけんでしょうかな」と言ってみんなを笑わせた。それから一呼吸おき、居ずまいを正し、真顔になってしゃべりはじめた。
「残念です。いったい裁判官は、こちらの提出した資料を入念に検討したのでしょうか。憲法の理念を正しく理解すれば、わたしの主張は認められるはずです。裁判官の良心を疑わずにはおれません。あきらかに国家権力、池田自民党政府に屈従し従属したものです。一般の人は国家権力のあくどさを知っていただきたいと思います。
この不当な判決は、社会保障の拡充を要求し、憲法の民主的条項の完全実施を要求する人民への裏切り行為です。この裏切り行為はかならず新しい日本人民によって裁かれることでしょう。
今度の判決は今後たたかううえでの盛り上がりを作ってくれたと思います。波があってこそたたかいは前進すると思います。 わたしはからだを大切にし、
何年かかろうと最後の勝利を得るまでたたかいぬくっもりです。 私は断じてこの不当な判決を認めません」
短いコメントであったが、茂は話しているうちに、さすがに無念の思いがこみあげてきて、声に痰がからみ、からだは熱くなり、息が大きくはずんだ。
記者たちが帰つたあと、心を許しあった仲間が三人残った。みなうつむいて、涙をこらえているような暗い顔をしていた。その三人を見まわしながら、茂は普段の調子にもどり、しんみりと語った。
「わしはなあ、ちっとも悲観しとらんで。そういやあ、また強がりいうとるように思うじゃろが、ほんまじゃ。ほんまに悲観しとらん。ただなあ、最高裁の判決までたたかいぬけるかどうか、そう断言できんところがあるんじゃ。これから三年、訴訟を背負うて生きつづけにゃならんか思うと、しんどいんじゃ」
茂が判決の全文を読んだのは一週間ほど経つてからだった。茂は丁寧に読んでから、まず、小沢文雄という裁判長は奇妙な論理をもてあそぶ人だと思つた。
たとえば、彼は長い判決文のなかで、「以上のように詳細に検討を重ねてみても、当裁判所は、本件保護基準を違法とは決しかねるのであるが、 しかしなお概観的に見て、
本件日用品費の基準がいかにも低額に失する感は禁じ得なぃ」といっている。別なところでは、「頗る低額に過ぎる」けれども、違法とは断定できないといい、そして、これを結論にしているのだ。
茂には、「いかにも低額」、「頗る低額」だが、「違法とは決しかねる」という論理が、どうしてものみこめなかった。が、やがて茂は気づいた。簡略化してぃえば、低額は合法、ということになる裁判長の論理には、一つの前提があるとぃうことに。それは、「当不当の論評」と「違法を論証すること」は別のことがらだ、という考え方である。そこから、不当だが合法という判断は、遊びの形式論理であるとしても、容易に出てくる。
それにこの裁判長は、厚生大臣の定めた日用品費六〇〇円が違法であるという、決定的な理由だけを見つけようと終始している。そして、一つの項目ごとに、違法であるとは断定しがたいと断じ、それを連ねてゆく。彼は決して、それが合法であるという論証はしない。彼は「疑わしきは罰せず」を日用品費に当てはめた。
何のことはない。この裁判長、初めから、違法ではないという結論を設定しておいて、それを論証するために奇妙なロジックをあやつり、 事実や証言を都合よく引用、挿入しただけのことである。彼ならばたぶん、遊びとして、違法であるとぃう結論を設定して、それを論証せよといえば、ほぼ同じ長さで充分にやってのけたであろう。
では、なぜ彼が、違法ではないという結論を決めたかといえば、それはただ、厚生省の準備書面による脅しに屈服し、「自已抑制」しただけのことである。その証拠に、日用品費六〇〇円が違法ではないという、彼が挙げた理由は、すべて厚生省から学んだものばかりであり、一千万人に近いボーダーライン層の存在、納税者の感情、国民の生活水準、国の財政などを考量する必要があるとしてその決定は厚生大臣の自由裁量に属する、とぃうことにしてしまった。
それでぃて、小沢裁判長は、新聞各紙のインタビューに、生活保護基準は「違法すれすれだった」と語っている。その談話にも茂は嫌な気がした。実際には原判決を破棄し、朝日茂に敗訴をいいわたしておいて、世間向けには「違法すれすれ」などと、少しは生活保護患者の苦しみも分かるようなそぶりをする。そこが卑しい、と茂は思った。「違法すれすれ」などといわれても、厚生大臣の違法が解除された以上は、生活保護患者は「生命すれすれ」で生きるほかなぃのである。 十一月二十日、朝日訴訟中央対策委貝会、弁護団、朝日茂は一致して、最高裁へ上告した。

1964年2月14日、原告の朝日茂さんは上告審の途中で亡くなり、養子夫妻が訴訟を続けましたが、最高裁は、本人の死亡により訴訟は終了したとの判決を下しました。
しかし、朝日茂さんのみずからの命をけずってのたたかいは、政府の政策に確かな影響を与え、その権利のための闘争は、今なお輝きを増し、私たちを励まし続けています。




今日もほとんど同じようなことを書きかけ、『小説朝日茂』を拾い読みしてみた箇所がほとんど同じ部分であったことにあきれもし、そのことを記憶していなかったことにもあきれました。挙げ句の果てに、右遠 俊郎さんを紹介しようとして、こんな写真まで撮りました。



念のために過去記事を探ってみて、恥をかかずに済みました。


またまた3月15日の蘊蓄、の巻(2016-03-15)


手許に右遠俊郎著「読書論ノート」(青木書店、1980年刊)という本があります。
右遠俊郎さんについて、wikiではこう紹介してあります

右遠 俊郎(うどお としお、1926年9月1日 - 2013年10月11日)は、日本の作家・文芸評論家。
岡山県生まれ。少年期を大連で過ごし、旅順高等学校に進む。戦後、東京大学国文科卒。『新日本文学』などに小説、評論を発表。1959年「無傷の論理」で芥川賞候補(この時は該当者なしだった)。その後日本民主主義文学会(当時の名称は文学同盟)に加入する。1989年『小説朝日茂』で多喜二・百合子賞受賞。
2013年10月11日に肺炎のため死去[1]。87歳没。
(中略)

郷里出身の作家でもあり、彼の作品は学生時代を中心にかなり読みました。今、本棚から取り出せる作品にこんなものがありました。また機会を改めて、紹介してみたい作品もありますが、今日は割愛します。


まさに、「すっかり忘れてました」なのです。とほほ。




岡山県では、「朝日訴訟の精神を引き継ぎ、若い世代に語り伝えること』をめざし、特定非営利活動法人朝日訴訟の会が活動を進めています。


NPO 朝日訴訟の会 ホームページNPO(特定非営利活動法人) 朝日訴訟の会

人間裁判―朝日茂の手記


会の紹介を、HPから引用させていただきます。


この訴訟は、「人が人たるに値する生活を勝ち取る」という意味で「人間裁判」と呼ばれました。第一審で画期的な勝利をえて、その後の生活保護基準の大幅な引き上げを実現し、憲法25条を絵に描いた餅にしてはならない、と生存権意識を国民の中に定着させ、日本の社会保障運動の原点となりました。

ところが、最近の社会保障をめぐる動きはどうでしょう。競争と格差社会のもとで、社会保障は後退に後退を重ね、朝日訴訟以前に引き戻すかに思われる企てさえ現れています。

こうしたとき、私たちは、あの朝日訴訟の精神に立ち返る必要があると考えました。そして、朝日訴訟の精神を引き継ぎ、若い世代に語り伝えること、これこそが、いま私たち果たさなければならない課題だと考え、ここに特定非営利活動法人朝日訴訟の会を設立しました。

朝日訴訟の会は、散逸しつつある全国の貴重な資料。そして朝日茂さんが病床にありながら書きつづった約一万通の書簡などを収集・整理・保存して、多くの方に朝日茂さんの遺志を語り伝えることで、憲法25条が保障した生存権を今一度国民の手に取り戻すことができる、と考えています。

朝日訴訟から半世紀を経た今、第2の「朝日訴訟」が起こされようとしているとき、そして憲法がその根底から踏みにじられようとしているとき、私たちは朝日訴訟の会が、多くの国民に希望を与える運動の契機となれば、これほど朝日茂さんの遺志に応えることはないでしょう。一人ひとりが語り部となり、「朝日訴訟」を語り、一人でも多くの人にその精神を伝え、社会保障拡充の運動の輪を広げましょう。




引用や過去記事の貼り合わせばかりで記事をでっち上げるのも憚られますので、最後にオリジナリティある内容をひとくだりご紹介しておきます。 


というのは、郷土出身作家だけに、ゆかりの方が地元におられるのは不思議ではありませんが、実の妹さんに偶然の機会にお目にかかったことがあります。これまでも、退職同業者の親睦組織の事はたびたび話題にしたことがありますが、そのHPに会報のダイジェストが収められています。その2019年2月号の記事に、私もその場に参加した「長寿を祝う会」という行事の記録が掲載されています。長くなりますが引用させていただきます。


(前略)今年85歳になられた植木五郎さん、井上倫子さんのお二人が出席され、支部会員ら9人がケーキとコーヒーを準備してお二人の長寿をお祝いしました。先輩を囲んだ和やかなひとときの中、歩んでこられた人生の重みを感じました。
(中略)
「教員になって初めての赴任先は蒜山高校でした。蒜山の地は私が生まれ育った所で、もともと陸軍演習場があった。実は、長兄はその演習場の不発弾で14歳の時に爆死してしまいました。また、次兄は満蒙開拓青少年義勇軍として満州に渡ったが、敗戦後の引き上げ途中に死んでしまった。そんなことから、“反戦・平和”には特別の思い入れがあって…『憲法9条を壊すな!』『アベ政治をゆるさない!』『辺野古基地反対!』などのポスターを自宅に貼って、毎日"拝んで"いるんですよ。…はっはっはっ」(植木先輩)
「私は旧満州大連生まれで小6年の時に敗戦を迎えました。引き上げ船に乗って命からがら日本に帰ってきました。その後、父親が望んでいた教員になりました。落合町上田小学校上山分校をスタートに、片上小、養護学校、盲学校と…。退職後に再び大連を訪れ、大きく変わった町の様子にビックリしました。今は運転免許を返納したので移動が大変です。でも、銭太鼓グループで活動していて老人ホームに慰問に行ったり、桃太郎体操に通ったりと毎日がとても忙しいです。…」(井上先輩)
植木・井上両先輩から生い立ちや最近の暮らしの様子・それぞれの思いなどが語られました。
続いて、集まった高退教の会員からお二人にかかわる思い出話しや先輩から教わったことなどが交流されました。(以下略)


ここで紹介されている井上倫子さんが、右遠俊郎さんの妹さんだとうかがい、驚いたことでした。確かに、旧満州大連生まれの引き揚げ者であることは作者年譜の通りですし、作品の中にも大連時代の原体験が色濃く反映されていましたっけ。(思いつくだけでも『野にさけぶ秋』、『不逞の春』所収の諸短編、『アカシアの街に』などなど--)


ちなみに、もうお一人の植木五郎さんは、私が青年教師である頃から、長く同じ職場でお世話になっただけでなく、最近も退職同業者の集まりや、年金者組合の活動など、いろいろな場所でお元気に活躍されていて、いつも励まされている先輩です。


今日はここまで。


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節分雑話、の巻 [今日の暦]

今日は節分。2月2日が節分になるのは、1897(明治30)年以来124年ぶりだそうです。節分や立春について書かなければという強迫観念があるのでしょうか、これまで何度も話題にしてきました。



桃尻考、の巻(2019-02-01)


立春も近いと言うに、、、の巻(1)(2018.01-31)


節分にちなんで、の巻(2017.02-03)


福は内 福は内とて 春待たる(2014-02-03)


 


これらの過去記事をネタに、ある「会報」に投稿する予定原稿を書いています。フライングでご紹介します。




駄句駄句御免


(1)今年の年賀状に、こんな駄句と絵を載せました。


ガースーもコロナも祓え木彫り牛


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そのココロは、次の文章のとおり。


カットの赤牛は、公民館講座のつながりで頂戴した手づくりの木彫りに、妻が色つけし、スケッチしたもの。制作者の方は、毎年の干支を作品にしておられるそうです。


会津の郷土玩具「赤べこ」の張り子は、疫病除として知られていますが、この赤い木彫牛も霊験あらたかに違いありません。


まずは、何よりもコロナ禍を、そして国民の不安と不幸を増大させている「ガースー」禍も、いっぺんに祓(はら)ってほしいものです。


(2)節分に当たり、同工異曲の句で遊んでみました。


ガースーもコロナも払え鬼遣(や)らい


今日の節分行事の起こりとされる「鬼遣らい」、または「追儺(ついな)」について、ものの本にはこうあります。


「追儺、一に鬼やらいともいう、我が朝廷年中行事の一にして、毎年十二月晦日、疫鬼を払はんが為めに行われたる一の儀式なり、(中略)戦国の世に至り廃絶し、僅に各地の神社等にその型を残す、江戸時代に於ては、十二月節分の夜、江戸城中も民間も、共に柊の葉にゴマメの頭を付けて入口に挿み、年男礼装して豆を打ち、鬼を追ふまねす、之を近世追儺とは称したり」(『画題辞典』斎藤隆三)


そう言えば、以前、アジア人留学生相手の日本語授業で、節分を題材にしたプリントを作ってみました。少しだけご紹介します(一部改作。また、実際には漢字の多くにふりがなを施していますが、煩雑になりますので省略)。


一年を24等分する暦「二十四節気」の中に、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」と呼ばれる日がありますが、それぞれの前日を「節分」と呼びます。「季節を分ける日」という意味です。節分の風習は. 奈良時代頃、中国から伝来し、 平安時代に宮廷の行事として定着したと言われます。節分は、もともと一年に四回ありますが、なかでも「立春」が一年の始まりとして、とくに尊ばれたため、節分といえば次第に春の節分のみをさすようになったようです。

古来、季節の変わり目には鬼が出ると言われていて、節分に豆をまいて鬼を追い払う行事は、室町時代から続いています。

豆まきは、普通、「福は内、鬼は外」と掛け声をかけます。これは邪気=鬼を払って福を呼び込むということですが、場所によっては「鬼は外」という言葉を言わなかったり、「福は内、鬼は内」というかけ声をかけるところもあるのです。


鬼とは詰まるところ邪気、災厄の象徴。さしづめ、当面する最大の災厄は、コロナ禍。そして、それに勝るとも劣らぬガースー禍でしょうか。いま、アニメ「鬼滅の刃」が大ブームで、ひたすら心身を鍛えて鬼に打ち克とうと励む少年の姿が共感を呼んでいるようです。これに倣って、全集中で「鬼遣らい」に挑みたいものです。


(3)私的ブログの、過去記事に「唯々諾々 駄句駄句」(ただただだくだく)」という文章を書いたことがあります(2019年2月5日付)。


【節分】


福は内福は内とて豆を蒔く


「鬼は外」敢えて小声の鬼遣らい


追はれたる鬼の子雨に寒かろう


(中略)童話「おにたのぼうし」もまた、「鬼は外」のかけ声をためらわせます。
おにたは黒鬼の子どもです。


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おにたは、きのいい おにでした。きのうも まことくんに、なくした ビーだまを こっそり ひろってきてやりました。このまえは、にわかあめのとき、ほしものを、ちゃのまに なげこんでおきました。おとうさんの くつを ぴかぴかに ひからせておいたことも あります。でも、だれも おにたが したとは きがつきません。
まめまきの おとを ききながら、おにたは おもいました。(にんげんって おかしいな。おには わるいって、きめているんだから。おににも、いろいろ あるのにな。にんげんも、いろいろいるみたいに。) そして、ふるい むぎわらぼうしを かぶりました。つのかくしの ぼうしです。こうして、かさっとも おとをたてないで、おにたは、ものおきごやを でていきました。


おにたは粉雪の舞う寒い路地をさまよいますが、どの家も玄関に鬼よけのひいらぎが飾られていて入ることができません。とおりかかったトタン屋根の水簿らしい家には柊も飾られて織らず、豆のにおいもしません。その家に住むお母さんは病気で伏せっており、女の子が献身的に看病していました。 おにたはお腹をすかせた女の子のために食べ物を調達し、節分であまったご馳走だと言って、差し入れします。


「あたしにくれるの?」 そっと ふきんを とると、あたたかそうな あかごはんと うぐいすいろの にまめが ゆげを たてています。おんなのこの かおが、ぱっと あかくなりました。そして、にこっとわらいました。

おんなのこがふっと なにか かんがえこんでいます。「どうしたの?」 「もう みんな、まめまき すんだかな、と おもったの。あたしも まめまき、したいなあ。」 「なんだって?」「だって、おにが くれば、きっと おかあさんの びょうきが わるくなるわ。」 おにたは てを だらんと さげて ふるふるっと かなしそうに みぶるいして いいました。「おにだって、いろいろあるのに。おにだって……」 こおりが とけたように、きゅうに おにたが いなくなりました。あとには、あの むぎわらぼうしだけが、ぽつんと のこっています。


さらに駄句。


恵方巻黙して喰うは至難哉


豆撒きも兄弟げんかの種となり


【立春】


春立てば風てきめんにやわらかく


春立つ日窓全開にドライブす


春立つや足腰の痛みやわらぎぬ


疼痛の癒ゆる道理冬果つる


(4)この年の立春は、文字通り春の陽気を連れてきたのでした。厳寒に見舞われた今年も、遅ればせながら、早春の花々が春の訪れを告げています。いずれも2月1日、半田山植物園で写しました。


まずは、セツブンソウ。名前の通り節分の頃咲きます。


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フクジュソウ。


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ソシンロウバイ。漢字では素心蝋梅と書くそうで、黄色一色のロウバイです。


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マンサク。「先ず咲く」から名付けられたとも「豊年満作」からとも言われています。いろいろな品種があるようです。


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マンサク咲いてコロナの冬は果てぬべし


きょうはこれにて


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おおさむこさむ、の巻 [今日の暦]

♪おおさむこさむ という童謡を口ずさみたくなる気候です。


私の記憶では、「おおさむこさむ 山から小僧が飛んできた なんと言って飛んできた 寒いと言って飛んできた・・」と歌ったと思います。


が、ネットでは、、「・・なんと言って泣いてきた・・・」という歌詞が優勢のようにも見えます。そこで、気になってもう少し調べてみると、童謡集、教科書などに「泣いてきた」が、広辞苑などでは「飛んできた」が紹介されているとのこと。他にもいろいろな言い回しで歌い継がれてきたようですね。


ところで、「小僧」とは何か?も気になります。「コゾウ」の音から「子象」をイメージしてしまって可笑しく思いつつも、山寺で修行中の小僧かと、坊主頭に僧衣姿の一休さんみたいな子どもを漠然と思い描いてきたのですが、それもまた、不思議な存在です。


冬の形象、北風の象徴、などとも解説されますし、「北風小僧のカンタロウ」のイメージにもつながりますが、いずれにしても、「おお、寒!」と口にした勢いで「小寒」と語呂をあわせたのに違いありません。


漢字で表記すれば「大寒小寒」となり、今日がその「大寒(だいかん)」で、名前に恥じない寒い朝で、また睡蓮鉢に氷が張っていました。今日は、定例のスケジュールに縛られて、散歩する余裕はありませんでしたが、日中は暖かな陽射しでした。


ここ1週間ほどのお散歩写真を載せておきます。


深山公園のバン。


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ばんとコガモ。


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コガモ。


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散歩道畑で咲き始めた梅。


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早春に「先ず咲く」というマンサクは、まだ咲いてませんが、少しほころび始めているようです(自然環境体験公園)。


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マンサクの枝に遊ぶメジロ。


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自然環境体験公園のカワセミ。


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上のカワセミは、PENTAX K5Ⅱ+AFBORG60EDで撮影。トリミングしてますが、解像はなかなかのものと思います。


下のカワセミは、家の近所の散歩道。OLYMPUS E-520+ZUIKO70-300mmで撮影しました。OLYMPUS DIGITAL CAMERA


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トリミングのせいもありますが、細部の描写に不満は残ります。でも、35mm換算で600mm相当の望遠撮影可能な機材が、小さなショルダーバッグに収まるので、軽装散歩のお供としては文句は言えません。


明日あたりから、少しは寒さが緩むという予報ですが、さてどうでしょうか?


今日はこれにて。


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コロナ止まぬヒロシマの日や草払う [今日の暦]

コロナが猛威を振るう中、75年目のヒロシマ原爆忌を迎えました。


ヒロシマでの記念式典の模様を、新聞はこう伝えています。


広島への原爆投下から75年の節目となる「原爆の日」を迎えた6日、広島市中区の平和記念公園で平和記念式典が開かれた。新型コロナウイルスの感染を防ぐため、規模を大幅に縮小。松井一実市長は核兵器禁止条約に賛同しない日本政府に署名・批准を求めたが、安倍晋三首相は昨年に続いて条約に言及しなかった。(中略)

松井市長は平和宣言で「『75年間は草木も生えぬ』と言われた。しかし広島は復興を遂げ、平和を象徴する都市になった」と強調。一方で国際的には核廃絶に向けた動きが不透明になっているとも指摘し、米国の「核の傘」に依存する日本政府に対して「核保有国と非核保有国の橋渡しをしっかりと果たすためにも、被爆者の思いを誠実に受け止めて核兵器禁止条約の締約国に」と求めた。

安倍首相はあいさつで「非核三原則を堅持しつつ、立場が異なる国々の橋渡しに努め、各国の対話や行動を粘り強く促す」と述べた。


今、コロナ克服に向け、国民(ひいては人類)の英知と総力を結集して有効な対策を打ち出すべき時、そのための国会開催要求をも拒絶し、10兆円ものコロナ対策予備費を懐にしまい込んだままひたすら逃げ隠れを続けてきたアベ首相。その無策・無能ぶりがあまりに恥ずかしくて、人に合わせる顔がないという殊勝な心境かと思いきや、相も変わらず核兵器禁止条約に基づく核なき世界秩序確立へと向かう世界の趨勢に、「唯一の戦争被爆国」を名乗って核大国擁護の障壁を買って出る厚顔無恥。お辞めください、殿!見苦しゅうござるぞ!!




先日の記事で、ラジオ体操を話題にした父の新聞投稿に触れました。こちらでも、例年より遅い夏休みが始まり、近所の公園でラジオ体操が始まっています。が、ちょっと覗いてみると、足もとが草ボウボウで、かわいそうなほど。少しでも緩和できればと、草刈りを試みてみました。田舎では、エンジン刈り払い機を使っているのですが、こちらでは子供だましのバッテリー式簡易草刈り機があるだけ。刈り払い能力もさることながら、バッテリーの持ちがシビアです。満充電しても、20分持たないレベル。2個のバッテリーを用意しての作業ですが、ちっともはかどりません。作業しては充電、充電しては作業のサイクルで、朝夕、暇を見ては何ラウンドかの作業を続けて、今日で四日目。最初の草むら状態と比べればましにはなっていますが、整備されたグラウンドにはほど遠い環境。まだ刈り残しだらけなのですが、子どもたちのラジオ体操は今週で一休み。夏休みの終わりの時期にまた再開するのだそうです。その頃にはまたまた夏草が勢いを増して、元の木阿弥になるだろうと思いながら、今朝も2ラウンドほどの作業で汗びっしょりでした。




県の年金者組合の新聞今月号に、こんな記事を載せました。いまのタイミングなので、ご紹介しておきます。


「♪夏に咲く花夾竹桃」という歌詞(藤本洋作詞・大西進作詞「夾竹桃のうた」)のとおり、原爆記念日の頃、炎天下の広島の街を彩るのがこの花です。ところで、八月五日は俳人中村草田男の命日。「草田男忌」と呼ばれます。「夾竹桃戦車は青き油こぼす」八〇年前の彼の句の不気味なリアリティが、アベ政治のもとで再び蘇ることのないよう祈ります。同い年で、共に「東大俳句会」出身の山口誓子にも、次の句があります。「夾竹桃荒れて台風圏なりけり」強い風と雨に、夾竹桃の茂みがゆさゆさと揺れるさまが目に浮かびます。

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過去のブログ記事の焼き直しです。三題噺補遺 夾竹桃のこと(2014-08-03)




先日、M師から鳥写真入り暑中見舞いメールをいただきました。こんな鳥たちが手招きをしていました。


カイツブリの親子。ヒナが浮巣の上で育てられています。


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ブッポウソウ、巣立ちが近いそうです。


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アオアシシギ。


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カルガモの親子。


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精進を積んで、こんな写真を写してみたいと、いつものごとく思ったことでした。


ところで、昨日、後楽園を訪ねた際、偶然に蓮田のそばでカルガモを見つけました。


珍しくもないが、とりあえず、と思って写しておきました。


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そして、近くのトンボなどを追いかけておりました。


真っ赤なトンボ。ショウジョウトンボかと思われます。


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トリミング画像です。


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チョウトンボ。


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トリミング。


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このハスは、一天四海(大名バス)。


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井田の古代ハス(大賀ハス)は、もう花期が終わっていました。


さっきカルガモがいた畦を改めて良く見ると、、、


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あのカルガモの奥の方に見えるのは、、、どうやら子どもたちではないですか。もはやヒナと言うには立派に育っていて、少年か若者と言った風情です。


が、しぐさや、産毛の様子などには、まだまだあどけなさが残っています。


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鳥の手招きに心は惹かれますが、梅雨が明けたかと思えばこの暑さ。まったく閉口です。


M師のメールにこうありました。


コロナという疫病で社会生活が萎縮してうっとおしい毎日です。高齢者は特に注意しなさいと言うことで私は人の集まるところは避けもっぱら山間、 樹間、林間をうろついております。


「山間、樹間、林間」に憧れは尽きません。


今日はこれにて。


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雨水を前に、の巻 [今日の暦]

暦の上では、明日が「雨水」だそうです。過去記事で、ついつい何度も話題にしています。


今日雨水青空も得しヒレンジャク(2014-02-19)


今日は「雨水」。寒さが和らぐというのですが、平年よりは冷たい一日でした。


多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻(2015-02-20)


昨日は雨水。少し寒さの緩んだ岡山後楽園を歩いてみました。

早じまいの仕事帰りですので、入園したのが4時過ぎでした。すると園内放送が、「当園の開園時間は、午後五時までです。」と、繰り返し放送しています。慌ただしい散歩でしたが、うっすら汗ばむ心地よさでした。

雨水の日の岡山城


雛飾り草もむしりし雨水かな(2016-02-19)


今日は暦の上では、二十四節気の一つ「雨水」。立春から数えて15日目頃とか。地下の虫たちが動き始めるという「啓蟄」までの期間を言うこともあるそうですね。
空から降る雪が雨に変わり、氷が溶けて水になる時季。草木が芽生え、農耕の準備を始める目安とされました。このあと、寒さがぶりかえすこともありますが、三寒四温を繰り返して、春に向かいます。
地方によっては、この日に雛人形を飾る風習もあるそうです。


孤高の鳥、群れる鳥、の巻(2017-02-21)


今年の「雨水」は2月18日でしたが、その後の寒さが身体にこたえます。
土中の虫が目覚めて動き始めるという「啓蟄」が、今年は3月5日だそうですから、その頃まではまだまだ寒さのぶり返しがあるのでしょうかね。


昨日は雨水、今日は多喜二忌、の巻(2018-02-20)


昨日は雨水。
今日は多喜二忌。
いずれも記事にしたい題材ですが、今日は軽く通り過ぎることにします。
多喜二について書いた直近の記事は、昨年10月のこの記事でしょうか?

「多喜二の母」に思う、の巻(2)

「多喜二の母」に思う、の巻


南(みんなみ)の便り届くや今日雨水(2019-02-19)


辞書にはこうあります。

う‐すい【雨水】
1 あまみず。
2 二十四節気の一。2月19日ごろ。水ぬるみ、草木の芽が出始めるころの意。《季 春》「薩埵(さった)富士雪縞あらき―かな/風生」

出典 小学館デジタル大辞泉


よくもまあ、飽きもせず、毎年のように、似た記事を書いているものです、今年は、異常ともいえる暖冬で、ここのところやっと平年並みの寒さが戻ったところで、週末からの雨も、とても水ぬるむという感じではない冷たい雨でした。昨日も強い北風でしたので、閉口して散歩はサボりました。


今日は、雨も上がり、気温は低いものの、風が緩んだので、少しだけ近所の自然環境体験公園を歩きました。さすがに指が冷たいので、今年になって初めて、手袋(車中においていた軍手ですが)をはめて歩きました。例年ですと、この季節、手袋なしで歩くことなどありませんが。


マニュアルフォーカスレンズ専用機として使うことにしたPENTAX k-30に、本当に久しぶりに、ケンコー ミラーレンズ 400mmを組み合わせてみました。


ミラーレンズの使い道、の巻(2018-03-23)に書いたのとなじような思いつきです。


今朝の散歩に持ち出したのは、PENTAXK10Dに、KENKOミラーレンズ400mmの組み合わせ。軽量コンパクトな望遠レンズです。ピント合わせがシビアなマニュアルフォーカスですので、K10Dのファインダーが好ましいのでは?という思いつきです。
実際、このカメラ、撮影時の快感は、なかなかのものです。


k-30は、K10D寄りもさらに軽量コンパクトで、メーカー公称約650g(専用電池、SDカード付き)。これに、KENKOミラーレンズ400mmが495gですから、この軽さで400mmの超望遠撮影ができるとすれば、これに勝る組み合わせはありません。


問題は、その写りですが、、、


条件が合えば、そのリーズナブルな値段を超える描写を見せてくれます。


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手のひらに載せてもかさばらないコンパクトさは、散歩のお供としても好適です。


ミラーレンズ400mm F8製品画像


f8というレンズの暗さは、明るい日中用と割り切れば事足りますし、MF限定という障壁は、どうせ故障してAF動作しないk-30には、うってつけ、、というわけで、もっと出番があっても良いように思いました。ただ、ピント合わせに時間がかかるのは、少々の修練では克服できそうもなく、今日もカワセミに会ったのにシャッターチャンスを逃しました(涙)。それと、トビモノには手も足も出ません(トホホ)。


じっとしてくれている鳥は、、こんな感じで記念撮影ができました。


スズメ。


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トリミングします。


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アオサギ、こんなに大きい鳥だとノートリミングでも大丈夫です。


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シロハラ。


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以下はトリミング画像です。


特徴あるリングボケが発生することがあります。


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カワラヒワ。


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メジロ。


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ジョウビタキ♀。


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ジョウビタキ♂。


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それにしても国会の劣化、目を覆うばかりです。


ここでザレ歌。


まことなき政府答弁に倦み果てて憎き仇!と霜柱踏む


あな醜く節操もなき捨て台詞「ANAホテルもう使わないもん」


本歌取りのザレ歌(安直至極)


世の中に絶えて桜のなかりせば アベの心はのどけからまし


久方の光のどけき春の日に静心なくアベの散るらむ


この世をばわが世とぞ思う 望月の書きたることはなしにしてくれ


今日はこれにて


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井泉水忌の麦、の巻 [今日の暦]

昨日書きかけて未完成のまま寝てしまった記事を、遅ればせに掲載します。


昨日は、俳人荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の命日だったことにちなんだ話題です。


荻原井泉水について、ブリタニカ国際大百科事典にはこう解説してあります。


[生]1884.6.16. 東京
[没]1976.5.20. 鎌倉
俳人。本名,藤吉。第一高等学校を経て 1908年東京大学言語学科卒業。ゲーテのエピグラム,シラーの2行詩から俳句の理論を発見,河東 (かわひがし) 碧梧桐の新傾向俳句運動に参加,雑誌『層雲』にその新理論を発表,さらに季題無用論を唱えたことで碧梧桐らと分裂,以後同誌を主宰して尾崎放哉,種田山頭火ほか多くの俊才を育てた。「俳句は象徴詩である」と主張,心境的な自由律俳句を発展させた。 55年昭和女子大学教授。 65年芸術院会員。代表句集『原泉』 (1960) ,『長流』 (64) 。




屋久島をはじめ、南の地方は激しい雨で被害の拡大が懸念されます。わが地方も、きのうごろから雨の予報でしたが、時たま、ぱらぱらっと降る程度で、風だけが強い荒れたお天気です。

今朝の夜明け頃。


虹が見えました。


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朝日を浴びた麦畑。


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コレットに「青い麦」という作品がありましたが、これは「黒い麦」ですね。これがライ麦でしょうか。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」は知っていますし、ライ麦パンは食べますが、実際のライ麦畑には、確信が持てません。


 


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実は昨日も、別の場所でこの麦を写しました。


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周囲の多くはこんな麦畑です。


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おそらくこれは、わが地方で多く生産されているビール麦(ビールオオムギ)で、○リンビール岡山工場へ運ばれて、「一番搾り」などに加工されるのだそうです。それにしても、麦畑、美しい光景です。有用性の故に美しく感じるのか、アプリオリに美しいのか、考えれば考えるほど難しいテーマです。


荻原井泉水にこんな句があります。小豆島 土庄町渕崎 本覚寺境内に句碑が建てられているそうです。


佛を信ず麦の穂の青きしんじつ


大正九年の春(三十七才)、下の句とともに小豆島で詠んだ句のひとつです。


島島の眺めよろしきこの島の神
汗も塩となる塩田かせぎの痩せよう
金色に熟れおもたくて落ちたり木の實
遍路行く方麦の穂は光りつづけり
岩に据えて瓢すわりよき山の頂き


   

弟子筋に当たる山東火、放哉については何度も書きました。たとえば、この記事。


散る桜残る桜も放哉忌(意味不明)


岡山後楽園の桜道 posted by (C)kazgこの記事この記事)が、空海を敬慕してその足跡を訪ねたのが西行、西行を敬慕して、その足跡を訪ねたのが良寛だといわれます。
その良寛さんを敬慕した人は、少なくはないでしょうが、その一人が、種田山頭火でした。

山頭火の句「岩のよろしさも良寛様の想ひで」が刻まれた石碑もここに建てられています。

さて、その 山頭火を思い出すと、決まって思い出す自由律俳人に、尾崎放哉がありますが、今日はまさに彼の忌日、「放哉忌」だそうです。

尾崎放哉については、この記事や、この記事や、この記事や、この記事で話題にしました。享年41歳。若すぎます。


一番古い記事がこれでしょうか?


羽毛舞わせて食われる鳥を喰う鳥だ


最近、尾崎放哉の句を斜め読みした影響か、リズムが移ってしまったかも知れません。

昔から、 放哉は好きです。

咳をしても一人 放哉

等は、特に好きです。どんな人生を歩んだ人だったか、など、ほとんど知りませんでした。 吉村昭の「海も暮れきる」は、克明な調査に基づいて書かれていて、彼の生活と句とが不離一体のものとして心にしみこんできます。


その尾崎放哉の葬儀に当たって小豆島を訪ねた井泉水は、こう書いています。


「(略)瀬戸内海の春はほんとうに長閑だった。麦が青く伸ぴてゐる畠も、船の近くに見えた。雲雀の鳴いてゐるのも聞こえた。彼の小豆島も亦、その通りに違ひない。此佳い風景の中にー此春光を待ちあぐんだ末にー彼が死んでしまったとは如何にも残念な事におもはれた。(略)・・・」(「放哉を葬る」(層雲大正十五年六月~八月号))




「層雲」は、後にプロレタリア俳句運動に向かう橋本夢道や栗林一石路らを輩出。興味は尽きません。


麦を詠んだ句をメモしておきます。


ふるさとや麦の穂うるるしんじつに 栗林一石路
勤めの青年麦の穂をあおあおもちくる 栗林一石路
食わぬ野郎にもまばゆいばかりに熟れた麦畑 橋本夢道


夜になって強い雨が降り、今朝は快晴です。


今日はこれにて。


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母の日は花盛り、の巻 [今日の暦]

小学生と保育園児の孫たちが、母の日のプレゼントにカーネーションを贈りたいというので、一昨日、数百メートル離れた近所のスーパーの花屋さんまで買いに行くお供をしました。


ついでにバアバにも、買ってプレゼントしてくれました。


末の保育園児が選んだカスミソウです。


pentaxQと03魚眼レンズで写しておきます。


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それに刺激されたわけでもありませんが、昨日は、草刈り作業のために、妻と郷里まで帰ってきました。途中、形だけ、カーネーションの鉢植えを買っていきました。


一気に気温が上がり、真夏のような陽射しでしたが、湿度は少なくて作業も快適でした。


帰り道、道路脇に、黄色い花が咲き乱れているのに気づきました。あれはたしか、と名前を思い出すのに時間がかかりましたが、オオキンケイギクでしたね。


過去記事でも何度も話題にしています、たとえば2014年の今日(5月12日)の記事。


収獲


人様が不要と見なしたあれこれのジャンク品をいろいろ物色するうちに、こんなレンズに目がとまりました。

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smc PENTAX-M zoom 1:4.5 80mm-200mm

税込み2160円、ジャンク品としては決して安くはありませんが、素人目には悪くない商品のように見えました。
そもそも、単焦点ものならいざ知らず、フィルム時代のズームレンズは、発展途上期で画質が期待できないことになっていますし、老眼のこの目にはマニュアルフォーカスによるピント合わせはとても辛い、、、、と知りつつ、何本か同じようなスペックのものを買ってしまっています。しかし、よく考えると純正もののマニュアルズームレンズは、一本も持っていませんぞ。
「買っても何に使うの?他のマニュアルレンズ同様、滅多に持ち出すことなく収蔵庫の肥やしになってしまうのに。似たようなスペックの、たとえばこの展示棚で2本も買ったTAMRON製のズームレンズは、死蔵していることを忘れたの?」という突っ込みを跳ね返し、買ってみました。
使い道は、①PENTAXQで使ってみる。②AFアダプターを介してKシリーズで使ってみる。という2案が魅力的に思えます。


(中略)

早速、レンズの使用実験。
とりあえず、PENTAXQ7に装着して、その辺をぶらりと散歩してみます。
コンパクト・かわいいの要素を捨て去った、いかめしいスタイルになります。

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AFが使えないのは、やっぱり辛い。望遠だとなおさらです。そして、前にも書きましたが、明るい場所では液晶が見づらくて、液晶フード無しにはピント合わせは無理です。

オオキンケイギク?咲きそろうと見事ですが、特定外来生物だとか。

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IMGP4061_0001_R.JPG


 


このおじゃんクレンズ、最近、断捨離しました。


こんな画像が撮れて、なかなかどうして、捨てたものでもない、と思えたのですが、何しろ重くてかさばり、出番が少ないので、涙を呑んでさようならしました。


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オオキンケイギクについては去年の5月、こんなことを書いています。すっかり忘れていました。


暑かったり寒かったり、晴れたり降ったり、の巻(2)


オオキンケイギクが、日に日に黄金色に咲き広がっています。あまりの鮮やかさに、ついついカメラを向けてしまいます。


過去の記事を探ってみると、この花は毎年のように今の季節の記事に登場します。

たとえば、鍬を探して三千里!の巻の記事。

「オオキンケイギク(大金鶏菊)」も黄金色の花を咲かせています。あたり一面を鮮やかに彩るこの花は、子ども時代には見覚えがありません。在来種にとっては迷惑な、米国生まれの「特定外来生物」だそうです。

オオキンケイギク(大金鶏菊)クローズアップ
オオキンケイギク(大金鶏菊)クローズアップ posted by (C)kazg

オオキンケイギク(大金鶏菊)の群生
オオキンケイギク(大金鶏菊)の群生 posted by (C)kazg

またこんな記事。

花盛りのオオキンケイギクほか、

オオキンケイギク。
野原一面を黄金色に飾るこの花。息を呑むほど鮮やかですが、特定外来生物で、在来環境に害を及ぼしているらしい。と知って幻滅しておりましたら、なんとこの花から抗がん剤の成分が発見されたとか、、、去年の「毎日」(6/30)にこんな記事がありました。

全国の河川敷などで在来野草の生態系を壊し、厄介者となっている特定外来生物「オオキンケイギク」の花に、抗がん作用のある物質が含まれていることを、岐阜大工学部の纐纈(こうけつ)守教授らが突きとめた。論文は今月、エルゼビア社(オランダ)発行の医薬品化学分野の学術誌に掲載された。研究室は、製薬への応用を目指している。

https://mainichi.jp/articles/20160630/k00/00e/040/228000c

オオキンケイギクから抽出された抗がん有効成分は、「4−メトキシランセオレチン」という物質だそうです。さてその続報は、今のところ見つかりません。さらなる朗報を期待したいところです。

 


 


昨日の夕方のプチ散歩で、今年もいっせいに咲いていることに気づきました。


やはり魚眼レンズで撮影しました。


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タンポポが、あたり一面に綿毛を飛ばしています。


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麦刈りが始まったようです。


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水路に初夏の空が映って清々しく感じます。


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我が家の庭の隅に、今年も可愛いバラが咲きました。ずっと以前、ご近所さんいただいた小枝の挿し木が大きく育ち、毎年忘れずに咲いてくれます。


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今日は、こんな行事に参加する予定です。



きょうはこれにて。


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今日は何の日?の巻 [今日の暦]

4月の番組編成替えで、早朝のラジオ番組も様子が変わったようです。NHKの「「マイあさラジオ」と称していた番組が「マイあさ!」に呼称変更になったのかな?名称は変わっても「今日は何の日」のコーナーがありました。


第一に挙げられたのが、「国家総動員法」公布。1938年の今日のこと。 国民生活の全てが国家の統制下に置かれました。


第二に紹介されたのは、1989年の今日、 初の大型間接税としての消費税導入。3%で始まり、その後5%、8%に引き揚げられ、今度は10%ですと?

エイプリルフールとはいうものの、どちらも悪いジョークですね。


来年以降、「今日は『令和』への改元の日」、という一行が加わるのですか?


さすがウィキペディア。出典についてこんな紹介をしています。


「令和」の出典は『万葉集』巻五の「梅花謌卅二首并序(梅花の歌 三十二首、并せて序)」にある一文。以下に、原文、書き下し文、現代日本語訳の一例、および、題詞を表す。
《原文》 ※約物は後世に調整された形。※太字は新元号に採用された字。

    于時、初春月、氣淑風、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。

《書き下し文》 ※ここでの読みは文語とする。
時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す。

《現代日本語訳の一例》 ※太字は新元号に直接関わる語。

    時は初春の令月(※すなわち、何事をするにも良き月、めでたい月)、空気は美しく(※『初春』の『令月』を受けての解釈では、瑞祥の気配に満ち)、風は和やかで、梅は鏡の前の美人が白粉で装うように花咲き、蘭は身を飾る衣に纏う香のように薫らせる。

(中略)
上野誠(万葉学者、奈良大学教授)によると、この詩が詠まれたのは、大伴旅人の大宰府の邸宅で催された「梅花の宴」だと言う。それは天平2年1月13日(ユリウス暦730年2月4日)に催され、大宰帥であった旅人の邸宅は、政庁(第二期)の北西にある坂本八幡宮(現・福岡県太宰府市、地図)付近と考えられている。


「平成」は日本人が戦争で殺し殺されることのなかった時代。「令和」もまたそれが続いて、「よき和やかな」時代であってほしいものです。


それにしても、初めて出典として国書を採用した、と話題になってますが、なんとも、こじつけっぽいですね。一文のなかに、この二文字がたまたま出てくるというだけのことで、「令」と「和」との間には何の意味的関連も脈絡もないわけですから、これで「出典」と呼ぶことすらも抵抗を覚えますがね。


大伴旅人については、当ブログでも何度か話題にしたことがありますが、そう言えば、2015年の今日(4月1日)こんな記事を書いています。


貸切の桜並木に春の雨


4月になりました。
年度が変わり、世の中では、新たな生活が始まっている事でしょう。
隠居者の私は、とりあえず朝の散歩に出かけました。
予報通り朝から雨、時折風も出て、「花に嵐」の風情です。

いつもの散歩道のソメイヨシノが、 日増しにほころびを増しています。

春雨に濡れるソメイヨシノ

春雨に濡れるソメイヨシノ

(中略)

去年もこの記事で紹介した大伴旅人と西行の歌碑が、桜の花につつまれています、

ソメイヨシノの花と大伴旅人、西行の歌碑

農業用水が流れる小川の対岸が桜並木。手前には菜の花が自生しています。

春雨に煙る桜並木と菜の花


今年は早くから暖かくなっったので例年よりサクラが早いだろうと言われてましたが、こうして見比べてみると、この年よりも遅いかも知れません。


昨日今日と、ビールの適温よりも冷たい朝が続きます。


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旅人の歌碑がある樋門の辺りは、日当たりがよいせいか、例年通り他の場所より早く開花が進んでますが、、、


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散歩道の桜並木は、全体としてまだツボミがふくらみ始めたばかりの状態です。これは昨日の朝の写真で酢が、今日も冷たい雨風で、大きく進んではいないでしょう。


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今日はこれにて。


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ふたつの菜の花忌??の巻 [今日の暦]

今日は「菜の花忌」


「デジタル大辞泉」などによると「司馬遼太郎の忌日」とあります。


菜の花忌(読み)ナノハナキ

デジタル大辞泉の解説

なのはな‐き【菜の花忌】

司馬遼太郎忌日2月12日菜の花を好んだこと、また作品「菜の花の沖」があることによる。


他方、「デジタル大辞泉プラス」には、上記にプラスしてこう解説されています。


菜の花忌
浪漫派の詩人、伊東静雄の忌日。3月12日。
菜の花忌
歌人、前田夕暮の忌日。4月20日。

前田夕暮はおくとして、司馬遼太郎と伊東静雄、同じく今日が忌日で、ともに「菜の花忌」と称するそうです。


司馬遼太郎の没年は1996年(平成8年)、伊東静雄は1953年(昭和28年)ですから、元祖は伊東静雄ということになりますか(笑)


伊東静雄を紹介するHPに、菜の花忌についての記事があります。


詩人伊東静雄が没したのは、昭和28年3月12日であった。
郷土諌早では、上村肇を中心とした文学関係者が、伊東静雄の詩風の典雅と人格の高風を欽慕して詩碑の建立が計画され、全国の文化関係者に詩碑建設の趣意書が発送されたのは、昭和29年1月である。
その趣意書に名前を連ねた主な賛助者は、林富士馬(詩人)、蒲池歓一(詩人)、野田宇太郎(詩人)、桑原武夫(京大教授)、保田与重郎(作家)、富士正晴(詩人)、小高根二郎(詩人)、庄野潤三(作家)、佐藤春夫(作家)、三好達治(詩人)、川副国基(早大教授)、田中克己(詩人)、清水文雄(詩人)、北村徳太郎(代議士)を始めとする25名であった。
やがて全国から浄財が寄せられ、昭和29年11月23日建立の除幕式が挙行された。除幕式には、伊東花子未亡人、令姉江川ミキ氏、蒲池歓一氏、松永伍一氏、丸山豊氏他多数の文学関係者の来席を見た。
「菜花忌ーさいかきー」第1回が始まったのは、昭和40年3月、伊東静雄13回忌からであり、その後「菜の花忌」とやさしく呼ばれるようになった。


伊東静雄についてウィキペディアは詩人としての出発点をこう記述しています。


1935年(昭和10年)処女詩集であり代表作『わがひとに与ふる哀歌』を発行し、萩原朔太郎から「日本にまだ一人、詩人が残っていた」と賞賛を受け一気に名声を高めた


同時代作家達からの評価や、影響を受けた作家達への興味は尽きませんが現代作家の第一人者大江健三郎の短編「火をめぐらす鳥」(1991年)では、伊藤静雄の詩「鶯」高校時代に読み《身体の芯に火の玉があり、その熱でシュッシュッと湯気のたつような涙が噴出するのに、茫然と》した思い出を語っています。「火をめぐらす鳥」はまさしくこの詩に触発された作品で、その締めくくりの部分に、伊東静雄のこの詩から次の一節を引用しています。
「私の魂」といふことは言へない
その証拠を私は君に語らう


私も、伊東静雄の詩は高校時代読んだ記憶はありますが、「鶯」という作品は、あいにく印象に残っていません。私の記憶に残っているのはこの詩です。


自然に、充分自然に


草むらに子供は※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)く小鳥を見つけた。
子供はのがしはしなかつた。
けれども何か瀕死に傷いた小鳥の方でも
はげしくその手の指に噛みついた。

子供はハツトその愛撫を裏切られて
小鳥を力まかせに投げつけた。
小鳥は奇妙につよく空を蹴り
翻り 自然にかたへの枝をえらんだ。

自然に? 左様 充分自然に!
――やがて子供は見たのであつた、
礫のやうにそれが地上に落ちるのを。
そこに小鳥はらく/\と仰けにね転んだ。

(青空文庫より)


司馬遼太郎は、はるかにポピュラーでしょう。テレビドラマや映画の原作としても、沢山の有名作品が残っています。


司馬遼太郎記念館のHP菜の花忌について書かれたページがあります。


2月12日は司馬遼太郎の命日「菜の花忌」です。司馬遼太郎は野に咲く花、とりわけタンポポや菜の花といった黄色い花が好きでした。『菜の花の沖』という長編小説があることにも由来します。

記念館の書斎の前には、直径1メートルほどのヒューム管があります。司馬遼太郎はここに菜の花を植え、春の開花を楽しみにしていました。このあたりは、小さいながら雑木林風の庭になっていて、今も同じようにボランティアの皆さんが菜の花を植え、来館者をお迎えしています。

また、この日の前後には、1997年以来、毎年、東京と大阪交互にシンポジウムや講演会を開いています。会場に全国から贈られる菜の花約3500本が飾られ、終了後、入場者にお配りするのが恒例になりました。記念館やその周辺の道路にも菜の花が飾られ、この日の来館者にプレゼントしています。


二つの「菜の花忌」は、創始者争いに陥ることなく、平和的に共存しておられるようです(笑)。前掲の伊東静雄HPの菜の花忌のページの続きです。


時は流れ第34回の「菜の花忌」には一つのメッセージが寄せられた。「ようやく司馬遼太郎の書斎の前の庭にも菜の花が咲き始めました。同じ野花を愛された詩人の魂にこの花をささげます。」発信者は司馬遼太郎夫人、福田みどりさんだった。


今日のプチ散歩で見かけた菜の花です。(正確には野菜の花)


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梅の花。


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野の花。タネツケバナ?


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ムクドリ。


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ハクセキレイ。


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コガモ。


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コガモの群れがほとんどいなくなりました。


今日の付録。スズメです。


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今日の画像は、PENTAXK30+KENKO ミラーレンズ 400mm F8。少しでもコンパクトなお散歩カメラを探る、果てなき実験はつづきます。


きょうはこれにて。


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またまた3月10日に思う、の巻 [今日の暦]

今日は3月10日。昨日の記事で東京大空襲に触れました。


so-netブログの先輩、ChinchikoPapa様の最新記事に、その日の空襲被爆の模様が、息詰まるドキュメンタリーのように迫真的に描かれています。無断でリンクを貼らせて戴きます。


1945年3月11日のヴァイオリンソナタ。


こんな記事が満載です。


当時、防護団の防空・防火訓練で必ず唄われた歌に、『空襲なんぞ恐るべき』Click!というのがあった。親父も、ときどき嘲るように口ずさんでいた歌だ。
1 空襲なんぞ恐るべき/護る大空鉄の陣
老いも若きも今ぞ起つ/栄えある国土防衛の
誉れを我等担いたり/来たらば来たれ敵機いざ
2 空襲なんぞ恐るべき/つけよ持場にその部署に
我に輝く歴史あり/爆撃猛火に狂うとも
戦い勝たんこの試練/来たらば来たれ敵機いざ
陸軍省と防衛司令部の「撰定歌」として、全国の防空・防火訓練で必ず唄われていた。この勇ましい歌に鼓舞され、東京大空襲で消火を試みようとした人々は、ほぼ全滅した。


記事の核心は、翌11日のこと。


燃えるものはすべて燃えつくし、ようやく延焼の火も消えつつあった翌3月11日、19歳の少女が巣鴨の住居焼け跡の防空壕からヴァイオリンケースを抱えながら、ひたすら日比谷公会堂をめざして歩きはじめた。


東京大空襲の翌日、日比谷公会堂で催された巌本真理(メリー・エステル)の演奏会。珠玉の映画の一シーンのように、胸に迫ります。




朝から冷たい雨です。


かなり本格的な降りになっています。


今日の散歩は、スーパーやホームセンターの店舗内を、物色しながら歩く程度。せいぜい4000歩といったところですが、傘を差して外歩きをする元気はありません。


ちょっとだけ家の周りを歩いてみました。


我が家の玄関先のボケ。


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散歩道のコブシの花が開き始めています。


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この桜は、品種は何でしょう?


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ニホンスイセン。


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今日はここまで。


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東京大空襲に思いを馳せる、の巻 [今日の暦]

久しぶりに、早乙女勝元さんのお姿を拝見し、感慨を覚えました。


朝日新聞DIGITAL3月8日付のこの記事にリンクを貼らせて戴きます。   一部引用します。


「焼夷(しょうい)弾攻撃だけで一夜にして10万人もの人が亡くなったというのは、核兵器の被害と何ら変わらない。通常の火薬兵器でも核並みの被害を出すんです」。そう語るのは、作家の早乙女勝元さん(86)。館長を務める東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区)によると、原爆被害を除く全国の空襲による民間人の死者数は、東京23区と約530市町村で推定約20万3千人に上る。2014年11月に地域史を調べて積み上げた数字で、これは二つの原爆で亡くなった犠牲者(広島14万人、長崎7万人)に匹敵するという。

(中略)

1970年に発足した「東京空襲を記録する会」に、早乙女さんは発起人の1人として加わった。背景にはベトナム戦争があった。60年代後半、沖縄の米軍基地を飛び立ったB52爆撃機がたびたび北ベトナムを空爆。下町で反戦集会に携わるなか、教科書では広島・長崎の原爆に触れても、東京大空襲の無差別爆撃に関するくだりはほとんどないことに気づいた。首都最大の受難史ともいえる惨禍の記憶を後世に伝えたい。その思いは「記録する会」の結成につながった。


ほんの先日、映画「あの日のオルガン」を観て、東京大空襲に思いを馳せたばかりでした。


平穏な日常こそがしあわせ、の巻


ところで、東京大空襲については、2015年に、こんなことを書いています。


昨日の「今日の暦」ーーー3月10日のえとせとら


1945(昭和20)年3月10日未明、米軍の約300機のB29爆撃機による空襲により、都内で26万戸以上の建物が焼け、100万人以上が罹災、およそ10万人が犠牲となりました。(中略)

この残虐な空襲を指揮したのは、米海軍のカーチス・ルメイ将軍でした。のちのベトナム戦争では、空軍参謀長として、「(北)ベトナムを石器時代に戻してやる」と豪語して北爆を推進した人物でした。

1964年航空自衛隊創立10周年に来日した彼に、こともあろうに、日本政府は、航空自衛隊の戦術指導に対する功績を称えて勲一等旭日大綬章を授与したのでした。これが象徴するように、長期にわたって政権に君臨する日本の歴代保守政権は、東京大空襲を初め、その後日本全国に及んだ空襲・空爆(わが岡山市は、6月29日未明、空襲を受け、市内が焦土と化しました)と、その極致としてのヒロシマ・長崎の原爆投下による被災について、その真相を明らかにすることに消極的です。

他人を恨まないサムライ精神の美徳なのか、それともジャイアンの無法を、常に無条件に賞賛受容するスネ夫精神の発露なのか?

ご自身の体験と、綿密な取材をもとに「東京大空襲」(岩波新書)、「東京が燃えた日―戦争と中学生」などの著者で、作家・児童文学作家の早乙女勝元(さおとめ かつもと)さんは、12歳でこの大空襲を経験されました。
3月10日付の朝日新聞デジタルが、近影とともにインタビュー記事を掲載していました。

政府・行政当局が消極的ななか早乙女さんは「東京空襲を記録する会」を結成し、東京大空襲の惨状を掘り起こし次世代に語り継ぐとりくみに中心的役割を果たしてこられました。この「東京空襲を記録する会」を母体に、2002年、「東京大空襲・戦災資料センター」が東京都江東区にオープンし、とりくみを継続しています。

江東区と言えば、大空襲の被害が最も大きかった地帯の一つです。私も若い頃、ホンの一時期、江東区の下町に住んでいたことがありました。 よちよち歩きだった子ども二人を遊ばせた公園にも、黒く焼け焦げた遺体がうずたかく積まれたと記録されており、ゆるがせにできない身近な出来事と感じたことでした。

東京が燃えた日―戦争と中学生 (岩波ジュニア新書 (5))


 


2013年の9月に書いたこの記事でも早乙女勝元さんを話題にしました。


昨日の「今日の暦」---「パパママバイバイ」のこと


この事件(注 1977年9月27日の横浜米軍機墜落事件)を描いた「パパママバイバイ」の原作者の早乙女勝元さんは、東京大空襲の実体験者で、学生の頃も何回か、そして就職してからも別の土地で、講演をお聞きする機会があり、そのたびに感銘を受けました。静かな語り口の中にも、平和への切実な希求と楽天的な勇気がみなぎるお話が、印象に残っています。

パパママバイバイ (子ども平和図書館)

パパママバイバイ (子ども平和図書館)

もはや、講演の内容は細切れにすら思い出せませんが、ただ一つ、確か小林多喜二を引き合いに出してでしたか、「私は、あるいは、凶暴な肉体的暴力に対して、耐え抜くことはできないかも知れない。でも、日常生活の中で求められるささやかな勇気を、自分なりに発揮することならできると思う。」というような趣旨のお話は、長い間私自身への戒めとなったことは確かです。
この事件を題材に、以前私が勤めていた高校の演劇部が、創作劇として演じたことがありました。手元の資料を探ってみると、1982年のことでした。「ハトポッポのうた」という題名で、中国大会にまで出場しています。墜落事故によって大やけどを負い、ついには息を引き取った林裕一郎君(当時3歳)がいまわの際に残した言葉が「パパママバイバイ」でしたし、弟の康弘ちゃん(当時1歳)も、「ハトポッポ」の歌を口ずさみながらあと追うようにして亡くなったのでした。「ハトポッポのうた」は、このエピソードに基づいてつけられた題名でした。

(中略)


 


思えば、他でもなく、私の父も空襲体験者で、以前、その旨を地元新聞に投稿した話題は、この記事で紹介しました。


家族3題(代)噺、の巻


父の新聞投稿を再掲させて戴きます。


若者に絶対駄目と願いたい

○○○○ 91 (美作市)

年を重ねても昔のことはよく覚えている。 「欲しがりません勝つまでは」と教育された。国民学校高等科2 年で卒業して、東京の軍需工場へ就職した。 先輩の指導を受けて、油だらけになり懸命に働いた。会社には私立の青年学校があり、ほとんどが軍事教練だった。
戦争は激しくなり、東京の空には毎日のよぅに米軍機が偵察に来るようになった。19 45年3月10日、東京大空襲があり10万人以上の人が命を失った。 5月25日の大空襲では、庭の防空壕に避難したのでみんな助かった。が、工場も寄宿舎も丸焼けになったので命からがら田舎へ帰った。
8月には広島、長崎に原子爆弾が落とされ大勢の人が亡くなった。あと1年も戦争が続いたら徴兵検査を受けて軍隊に入り、現在の自分がなかっただろぅと思うと戦争の恐ろしさをつくづく思う。
あのひどい戦争の状況を知る人が少なくなった今、戦争を知らない若い人に、戦争は絶対駄目だと強くお願いする。


たまたま難を免れて無事であったからこそ、今私が存在し得ているのだと思えば 、なおさら他人事とは思えません。




今朝は、冷え込みました。玄関先につるした温度計を見てみると、ほとんど0度でした。朝食のパンを切らしていたので、近くのコンビニまで歩いて買いに出ました。


天空には、星が瞬いています。


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雑木林と見えるのは、ソメイヨシノの桜並木です。蕾がふくらむのはいつの頃になるでしょうか。


PENTAXk30+TAMRON AF18-250mm F/3.5-6.3 Di II
LD Aspherical [IF] MACRO で写しました。


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こちらは、OLYMPUS E-PL7+M.ZUIKO 17mm 2.8。


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晴れた夜明けです。


午前中、所用がありましたが、時間調整のため寄り道をしてみました。


河津桜が咲きそろっています。


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ヒヨドリが花と戯れています。


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けたたましい囀りです。


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カワラヒワも沢山います。モミジバフウの実をついばんでいるようです。


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ツグミ。


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黄色いスイセンが群れ咲いています。


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昼間は、熱いほどの陽射しでした。


午後、小5の孫は、友達と一緒に、魚をすくいにアミとバケツと長靴をもって小川に出かけ、妹たちもついて行って遊んだようです。帰ってきて、今度は近所の公園や我が家を遊び場に、元気に楽しんでおりました。


今日はこれにて。


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啓蟄雑話、の巻 [今日の暦]

今日は啓蟄


去年書いた記事をコピペします。


啓蟄にちなんで穴の鼠を思う,の巻


去年の啓蟄の日、こんな記事を書きました。
啓蟄や這い出る虫も命がけ、の巻

今日は啓蟄だそうですね。
過去にも、この日にちなんだ記事を、何度か書いていますので、能書きはほどほどにいたします。
啓蟄や律儀な虫は凍えたらん
啓蟄雑話
ウィキペディアにこうあります。

啓蟄(けいちつ)は、二十四節気の第3。二月節(旧暦1月後半から2月前半)。「啓」は「開く」、「蟄」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」意で、「啓蟄」で「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)という意を示す。春の季語でもある。

毎年、同じようなことばかり思いつくものですが、今日は漢字にこだわってみます。「蟄」は画数も多く難しい漢字ですが、「虫」に関係ありそうなことはなんとなくわかります。
ところで、最近話題の「改ざん」の、「ざん」てどんな漢字だったっけと、気になり始めたのは昨日のこと。たしか「ネズミ」を含んでいたよな。ネズミが大事なものを思うままにかじって、変形させてしまうイメージだったっけ?等と思い巡らし、あとで確かめてみようと思ったまま、今朝になりました。
なんと、何気なく目を通していた今朝の『しんぶん赤旗』に、こんな記事を見つけました。

穴と鼠の合体でした。とてもこの字はそらでは書けません。


森友問題と言えば、ちょうど籠池サンの公判が大阪地裁で開かれるそうです。


HUFFPOSTの記事を引用します。


森友学園の籠池泰典・前理事長「安倍首相はエセ保守」元NHK記者の ..

学校法人「森友学園」(大阪市)の前理事長、籠池泰典被告(66)と妻の諄子被告(62)に対する補助金詐欺事件の初公判が3月6日、大阪地裁である。

籠池夫妻は国や大阪府、大阪市の補助金をだまし取ったなどとされる詐欺や詐欺未遂罪に問われている。

裁判に先立ち、籠池夫妻は単独取材に応じ、「安倍首相の関与を隠すための国策捜査だ。勝たないかん」と全面的に争う姿勢を鮮明にした。

インタビューの中で、泰典被告は一連の問題が発覚する前、小学校で使う副読本を安倍晋三首相側に渡していたことや、昭恵夫人から100万円を寄付された際、昭恵夫人から「内緒に」するよう口止めされたことも明らかにした。

かつては信奉していた安倍首相を「エセ保守だ」と指摘。その上で、「保身のために我々を切り捨てた。国民もだまされている。退陣するまで闘う」と「宣戦布告」した。


森友問題における「捏造、改竄」の概要は頭に浮かびますが、はて、厚生労働省の地下資料って何でしたっけ??


目下、国会で追及中の毎月勤労統計改竄のことではないですよね。


ああそうでした。こんなこともありましたっけ。


https://news.tv-asahi.co.jp/news_politics/articles/000121538.html


野党議員が厚生労働省を訪れ、当初、「なくなった」とされながら、その後に見つかった労働時間の調査票の原本を確認しました。

自由党・森ゆうこ参院議員:「ロッカー探したけどなかったという話自体が嘘!嘘ですよ、これ見れば」
厚生労働省職員:「手元にないということで大臣には報告をしていたと。改めて倉庫を確認したら出てきたと」
厚労省の地下倉庫で見つかった労働時間に関する調査票の原本は段ボール32箱分で、野党議員は「枚数から考えてもすぐに見つかるはずで、時間稼ぎをしていたのでは」と追及しました。しかし、厚労省側は「手元に資料がない」と倉庫で見つけた時期などは明らかにしませんでした。野党側は与党に対し、働き方改革関連法案の今国会での提出を見送るよう求めています。


お得意の「隠蔽」の典型例ですね。


捏造、改竄、隠蔽---現政権のもとで、日常茶飯のように、余りに頻繁に事例が露呈しますので、慣れっこになって、いちいち思い出せなくなっています。


今回の毎月勤労統計不正も「虚偽であっても隠蔽ではない」ですって?産経新聞正論の2月27日付記事にはこうありました。


厚生労働省の「毎月勤労統計」の不適切調査問題で、厚労省の特別監察委員会が27日に公表した追加報告書は、組織的にも個人的にも隠蔽(いんぺい)を図ったことを再び否定し、「虚偽の説明」と矮小(わいしょう)化した判断を下した。結論や大筋の事実関係は1月に出された報告書とほぼ同じ。法律論を駆使して、厚労省側をかばったとも受け取れる内容の乏しい報告書となっている。


二つの特別監査委員会の報告書について毎日新聞(2月27日付)にこんな対照表が掲載されています。


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第三者性、中立性の担保を標榜して構成された新しい特別監査委員会の樋口美雄委員長が、まったく第三者でも中立でもなく、限りなく厚労省側に立つ人物であることは、困ったものです。今日付の「しんぶん赤旗」に掲載の図表が雄弁に語っています。


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昔、田中角栄の時代、「五つの大切、十の反省」なるものが道徳教育の眼目に掲げられたことがありました。


「五つの大切」
1 人間を大切にしよう
2 自然を大切にしょう
3 時間を大切にしよう
4 モノを大切にしよう
5 社会を大切にしよう
「十の反省」
1 友達と仲良くしただろうか
2 お年よりに親切だったろうか
3 弱いものいじめをしなかったろうか
4 生き物や草花を大事にしただろうか
5 約束は守っただろうか
6 交通ルールは守っただろうか
7 親や先生など、ひとの意見をよく聞いただろうか
8 食べ物に好き嫌いを言わなかっただろうか
9 ひとに迷惑をかけなかっただろうか
10 正しいことに勇気をもって行動しただろうか


金権体質の芬々とするおまえさんだけには言われたくない、と当時、教育に関わる人たちはみんな思ったものでした。


でも、今思えばまだマシだったと思えてきます。


アベ内閣のもとで、「道徳の教科化」がすすめられ「国や郷土を愛する態度」「愛国心」が強調されてますが、まったく、おまえさんだけには言われたくないのです。


「東洋経済online」の この記事(2018/05/16)が、考えさせられます。


学習指導要領には教えなければいけない価値として、「徳目」とも称される22の項目が設定され(高学年の場合)、それらの項目を元に教科書は編纂される。さらに、文部科学省は学習指導要領解説の中で、各項目に対する解説を細かに行っている。
たとえば、「善悪の判断、自律、自由と責任」という項目は、小学校1年生、2年生では「よいことと悪いこととの区別をし、よいと思うことを進んで行うこと」、3年生、4年生では「正しいと判断したことは、自信をもって行うこと」、5年生、6年生では「自由を大切にし、自律的に判断し、責任のある行動をすること」と、解説されている。

実際に2年生の道徳の教科書「小学どうとく」(教育出版)をひらくと、「つよいこころ」というタイトルの読み物では、「ゆう気を出すとき」の一例として「なかまはずれの子に声をかけるとき」などが書かれている。さらに、「学びの手引き」として「みなさんがゆう気を出すときは、どのようなときでしょう」「それぞれのゆう気では、何がちがいますか」「ゆう気を出すためには、何がひつようなのでしょうか」など、その価値(規範)を学ぶための問いが設定されている。

ただ、問いがあるということは答える機会があるということである。そして問いに対する回答は評価の対象になる可能性が高い。しかしどうやって彼らの「道徳的判断」を評価するというのだろうか。「発言」や「行動」に現れない心の動きこそが道徳において重視されるべきであろうし、それぞれの状況や個別具体的な場面によって判断の価値も異なる。それを一律に評価することなど誰ができるだろうか。

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子どもたちに、市民的社会的なモラルを身につけさせることは、子育て・教育の重要な柱でしょう。親、社会、学校が、それぞれの役割に応じて、その仕事を担うことは当然ながら必要です。でも、それは、あれこれの徳目を注入することによって達せられるものではありません。戦前戦中の「修身」が、御国のために喜んで命を捧げる「少国民」=軍国少年・少女を育てあげることに寄与した例を挙げるまでもなく、評価を伴う「道徳の教科化」は、アブナイ道です。ましてや、アベ政権のもとでそれが進められていることは、とても我慢ができません。
強者には媚び、へつらい、見苦しく尻尾を振ってすり寄るけれど、弱者にはうって変わって強圧、強要、脅迫、贔屓をもって対応し、忖度を最高レベルの道徳として蔓延させ、上から下まで、虚偽、言い逃れ、捏造、改竄、隠蔽を常套手段とする「ミニクイ国ニッポン」を形づくった張本人に「道徳」を語って欲しくはありません。


週刊朝日 3.15号 室井佑月さんのコラム「しがみつく女」連載497回にこんな記事がありました。深く納得させられます。


毎月勤労統計のデタラメ調査について、2月22日付の朝日新聞デジタル「官僚への支配強める長期政権 森友・加計と似た『忖度』」という記事が載っていた。
だよね、みんなそう思う。直接的に安倍首相の命令があったのかどうかは不明だけど、ぜんぶ安倍さんの都合が良いように物事が不正に進められている。

森友学園問題は、学園の前理事長が、安倍首相の熱烈な支持者だった。そして、安倍さんの奥さん、昭恵さんが、学園が作ろうとしていた小学校の名誉校長になった。財務省は国有地をタダ同然で学園に売り、公文書も改ざんした。地中深くにゴミがあったという嘘までついて。当時、理財局長だった佐川氏は、国会で売却の経緯を聞かれ、誰かさんをかばって虚偽答弁をした疑いがある。
加計学園問題は、学園の理事長が安倍さんの親友。行政をゆがめ、新たなルールのもと、むりくり愛媛県の今治市に獣医学部が作られた。このときは内閣府が「総理のご意向」と文部科学省に伝えた文書が出てきたんだ。柳瀬・元首相秘書官が、誰かさんの命を受けたのか、学園関係者と面会し、競合する学校に勝てるようレクチャーしていた。
そして、毎月勤労統計問題。厚生労働省が中江・元首相秘書官の意見を受けて、有識者検討会の結論を変えた。その証拠のメールが出てきても、中江氏は「記憶にない」と苦しい言い訳。
こらっ、なんでそんなことした? 誰かさんが、アベノミクスがうまくいき、国民の賃金は上がっている、そういいたがるからでしょ。誰かさんのために、調査法をこっそり変えて、数字をごまかしたんじゃね?
ひょっとして、官僚たちが誰かさんを守るのは、誰かさんが怖いから?
2014年に内閣人事局が出来、政権が官僚人事に口を出せるようになった。
不正を犯してもあの人のために動けば出世し、逆に既存のルールを厳格に守り、あの人に意見をいうような人は出世できない。
出世できないどころか、前川(元)事務次官のように、卑劣な嫌がらせを受ける。
不正をし、嘘をつき、あの人をかばった官僚が、その後、社会的に良いポジションに収まっていたりすると、腹が立つ。

(中略)

官僚たちの「忖度」・・国民全体の奉仕者である公務員が、一部の人間を優遇すること自体が大問題。しかし、官僚たちをそうゆう立場に追い込み、操っている安倍首相と安倍内閣こそが『諸悪の根源』である。


昨日は、郷里へ。暖かいを通り過ぎて、暑いほどの陽射し。


啓蟄の名に恥じず、虫が元気に活動していました。


ヒラタアブとハコベの花。


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ヒメオドリコソウ。


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オオイヌノフグリ。


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庭の馬酔木の花。ようやくほころび始めています。


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庭の山茶花。冬の寒い頃から咲いています。


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隣の庭の椿。家の主は、長く療養中で、ずっとお留守です。ご近所には、そんな空き家が目立ちます。


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啓蟄の今日は、一日冷たい雨でした。


国会中継、途切れ途切れに聞きました。


考え方は別として、国のトップの方々に、人間的立派さをもとめたくなるのは人情というものでしょう。それだけに、首相はじめ、国権の中枢の面々の、誠意のなさにがっかりして気分が落ち込みます。


夕暮れ頃になって、若手の辰巳コータローさんと、吉良よし子さんの質問を聞き、思わず目頭が熱くなりました。


辰巳さんは、厚労省隠蔽問題と、森友問題を追及していました。当事者達が、もう、闇に葬ったつもりのこの問題。うっかり関心が薄らいでいた自分に気づきます。しつこく、粘り強く解明するのは、現代を生きる私たち国民の責任。


「毛利家の正月儀式」の言い伝えのごとき執念深い追及を忘れてはならないと、改めて思うのです。ウィキペディアの記事を参照します。


巷説の一つに、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立て、藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとの俗話が知られる。昭和2年(1927年)、歴史学者の井野辺茂雄が『幕末史の研究』において、毛利家の家史編纂者である中原邦平から聞いた話として著作に紹介している。井野部の記述では、毎月元日、諸藩士が登城する前に藩主が「もうよかろうか」と言い、近臣が「まだお早う御座います」と返すというものであったとしている。ただしこれは古老による伝承であると断っており、「後世にはなかった」としている


同じ長州のアベさんです。「森友の義はいかに」と問い続けねばなりますまい。


辰巳さんにちづく質問者は、吉良よし子さん。奨学金返済に苦しむ学生・青年の思いを代弁して、政府に迫ります。ガンバレ吉良さん。


これって、中立・独立?いえ、いえ、もちろん、贔屓ですとも。私、すっと前から、吉良さんファンですから。


これらの記事参照。


これでまた病気自慢に箔がつき


開票速報見ながらの夜更かしでしたが、熟睡できました。
選挙結果も、自民圧勝はいただけませんが、対抗の受け皿がほかになく、共産党への期待につながったというのは、わかりやすくて大変結構。
東京の吉良よし子さん、キラキラしていてまぶしいです。学生時代、この人のお母さんは、私たち夫婦の共通の友人でした(もちろん、みんな未婚でしたが)。


まわり道してつづき聞くカーラジオ


昨日、一昨日に下書きしておいたブログ記事の仕上げ二時間を費やした後、かかりつけ医に向かう道すがら、カーラジオから国会中継が聞こえていました。各党代表が短時間質問する参院本会議決算質疑の中継で、ちょうど共産党の吉良よし子さんの質問が始まりました。
以前この記事に書きましたが、吉良さんは学生時代の友人の娘さんですので、その活躍は、他人事とは思えません。

(中略)

限られた時間に、国民の思いを余すところなくぶつけようとの思いの強さからか、少し硬調で早口の、読み上げ口調ですが、憲法、暮らし、雇用、働き方、年金・社会保障、南スーダン等々の重大問題を、理路整然と、淀みなく、しかも意志強く追及していました。新入社員の高橋まつりさんを自殺に追いやった過労とパワハラの問題、ライフワークのブラック企業、不安定雇用の問題など、若者に未来への希望を持たせない日本社会のあり方への追及は、抑えた口調ながら迫力満点で、要所要所でうんうんとうなずきながら聞きました。涙腺が強く刺激され、視界がかすむこともしばしばでした(アブナイアブナイ)。そのままでは質問途中で病院へ着きますので、あちらこちら遠回りをして終わりまで聞きました。
それにしても、アベ氏の聞く態度も、答弁内容も、いつものことながら、質問者を、つまり国民を軽んじているとしか思えない不真面目なもので、憤慨に堪えません。


これって脅迫じゃないですか?の巻


一昨日の記事で、吉良よし子議員の参院本会議質問を話題にしました。
日本共産党の「しんぶん赤旗」webペ-ジに紹介記事がありましたのでカクサンさせていただきます。なお、私は、吉良議員のお母さんが学生時代の友人である縁から、その娘のよし子ちゃんのファンです。
一部だけ引用します。

写真

日本共産党の吉良よし子議員は28日の参院本会議で2015年度決算報告への質問に立ち、雇用や社会保障、安保法制の本格運用をめぐる安倍晋三首相の姿勢をただしました。首相は従来の立場に固執して、まともに答えませんでした。

吉良氏は、若者が安心して働き子育てできる社会にしなければ景気もよくならず、「日本に未来はない」と述べ、雇用や社会保障の抜本的な改善を求めました。

雇用について、吉良氏は、大手広告代理店・電通の新入社員が過労自殺した労災事件にふれ、「若者の命をも奪う『ブラック企業』は絶対になくさなければならない」と強調。安倍内閣が法案を提出している裁量労働制の拡大や「残業代ゼロ」制度は、過重労働を合法化したい大企業の要望を取り入れたものだとして撤回を求めました。

吉良氏は、「年金カット法案」について、「公的年金に頼る高齢者に痛みを強い、若い世代の将来不安も増すばかりだ」と批判。廃案を求めました。 (以下略)

特に年金カット法案の追及のくだり「「公的年金に頼る高齢者に痛みを強い、若い世代の将来不安も増すばかりだ」。よく言うてくれたと目頭が熱くなりました。高齢者と若者世代を対立・分断させといて、両方をひっぱたいで搾り取るアベ流を、若者自身の言葉でズバリ斬ってくれました。
アベさん、こうも言ってのけたそうですね。
「決して皆さんの信用が上がることはないですよ、はっきり申し上げて」
「それで民進党の支持率が上がるわけじゃない」
またまたヤクザか居直り強盗の脅し文句!世界に先駆けてのトランプ詣でを決行して忠犬ぶりをアピールし、元のご主人様のオバマさんからも、世界の心ある人々からもケーベツされていることもご存じなく、国の本当の主人である国民に対しては、傲岸不遜の奢りよう、、、いずれ「過去の人」として歴史の屑籠に棄てられることは間違いないでしょうが、できうれば害悪の少ないうちに、さっさと退場していただきたいものです。



 


短い散歩で、モズに会いました。


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今日はこれにて。


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冷たい雨の桃の節句、の巻 [今日の暦]

今日は雛祭り、桃の節句です。


これは梅ですね。


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これはなんでしょう。


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今日は一日雨でした。朝散歩も雨の中で、お見せできる写真が撮れません。


夕食は孫宅でカレーライスをごちそうになり、そのあと、昼間孫達がバアバとつくったシフォンケ-キをデザートにいただきました。


これも写真はありません。




下は昨日の朝散歩の写真です。


ビニールハウスが朝日を浴びています。


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うっすらと霜を帯びたホトケノザ。


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水玉光る麦の芽。


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ツグミ。


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コガモの群れも個体数が減りました。


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お母ちゃんが仕事なので、三歳児を預かりました。


深山公園へ行ってみましたが、フード付きの上着でも少し寒い感じ。


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カモの数が少なくなりました。


今日の付録。


先日訪ねた後楽園で、上空を舞っていた鳥。


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オオタカでしょうか?PENTAX DA55-300mmの望遠側で、ノートリミングでこのサイズに写りました。慌てると画面中央に収まりません(汗)


今日はこれにて。


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忘れてました、の巻 [今日の暦]

こまっしゃくれたチコちゃんに「ぼーっと生きてじゃないわよ」ととがめられるのは不快ですが、確かにとみに注意力散漫で、大事なことに後で気づく事が多いです。


昨日が二月二十日であること、二月二十日が多喜二忌であることはそれぞれ認知しているつもりですが、その二つが結びついたのは、昨日の記事をupしたあとのことでした。遅かりし由良之助です。


当ブログでは、毎年欠かさずこの日の記事を書いてきましたが、先日の「高知新聞」への投稿との関連で、2015年掲載の記事をひもといてみることにします。


多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻


NHKの朝ドラ「マッサン」で、息苦しい戦争の時代のやりきれなさが極まっていきます。前回の「花子とアン」同様、またまた官憲・特高の傍若無人の暗躍が、市民のささやかな幸せを踏みにじっていきます。
スコットランド生まれの妻エリーへの迫害は、戦時の偏狭な排外主義の愚かさを際だたせますが、でも、21世紀の現代の「ヘイトスピーチ」を頂点とする差別主義・排外主義の論理と、あまりにもそっくりですね。

ところで、意に染まぬものを強圧によって押しつぶし排除しようとする権力が、歯止めを失って暴走する時、どんな信じられないことが起こりうるかということを、今日の地元紙「山陽新聞」のコラム「滴一滴」を読んで、考えさせられました。

〈ああ、またこの二月の月が来た/本当にこの二月という月が嫌な月/声を一杯に泣きた
い/どこへ行っても泣かれない/ああ、でもラジオで少し助かる/ああ、涙が出る/眼鏡がくもる〉▼29歳で非業の死を遂げた息子を思い、母が書き残した詩だ。作者は小林セキ。「蟹(かに)工船」で知られる作家小林多喜二の母である▼プロレタリア文学の旗手と呼ばれた多喜二は、1933年2月20日、東京で特高警察に捕まり、拷問を受けて絶命した。治安維持法のもと、思想や言論を理由に拘束され、命まで奪われた。この国で、82年前に起きた出来事だ▼多喜二と親交のあった作家志賀直哉がセキにお悔やみの手紙を送っている。「不自然な御死去の様子を考え、アンタンたる気持ちになります」。まさに暗澹(あんたん)たる時代だった。その年、日本は国際連盟を脱退し、ドイツではヒトラー政権が誕生した。世界は戦争へと向かった▼終戦まで、遺族は多喜二の名前すら口にできずに耐え忍んだ。戦後、セキが語っている。「思想も、言論も、出版も、結社もすべて自由になって…何というありがたいことでしょう」(「母の語る小林多喜二」新日本出版社)▼戦後70年。多喜二の名前は知っていても、その最期を知らない人は多いのではないか。時代を決して後戻りさせてはならない。心に刻む多喜二忌である。 

今日は多喜二忌です。

(中略 )

今日のもう一つの話題は、同じく治安維持法の犠牲となった文学者槙村浩のことです。

「北の小林多喜二、南の槙村浩」と呼ばれました。

(中略)

槙村浩は、明治末の1912年に土佐の高知市に生まれました。幼少期は、3歳のときに医学書をすらすら読む、小4の時、『支那論』を書き、高知を訪れた後続の久邇宮邦彦に「アレキサンダー大王」について御前講義を行う、文部次官が来高してテストをして中学3年の学力があると評したなど、神童・天才ぶりを示す数々のエピソードが残っています。
彼は私立土佐中学へ2年飛び級で入学しますが、そこで体育の時問に先生と衝突して、海南中学校へ編入学します。ここでも軍事教練の学科試験に白紙答案をだすなど、軍事教練反対運動を組織し、放校になります。そのため、岡山の私立関西中学校へ転校し、そこを卒業しています。
関西中学校を卒業して高知に帰郷後、詩作を中心にプロレタリア文学運動に参加し、あわせて労働運動・反戦運動を続けますが、これらの活動のため政府の弾圧を受け、拷問と投獄により身体を壊し、1938年に病気で死去しました。享年26歳でした。

(中略)

昨年12月24日のこの記事にも書いたとおり、高知のN先輩からのお便りにより、高知市にある「草の家」が、昨年秋に「槙村浩生誕100周年特集『ダッタン海峡10号』」を発行されたことを知り、お願いして先だって手に入れました。

ちなみに、下の画像は、「草の家」ホームページに紹介されている第9号の写真です。

手元に届いた冊子「槙村浩生誕100周年特集『ダッタン海峡10号』」では、上の藤原義一さんも、それからわが先輩Nさんも、また、別の先輩Mさんも、それぞれ別の角度から槙村浩に光を当てる文章を寄せておられます。

冊子が配達されて、ぱらぱらと斜め読みをしているちょうどその日の夜、愛知に住む古い友人のI君から電話をいただきました。

I君は、学生時代、同じ学科、同じ専攻の一年下で、なんと、当時私の間借りしていた下宿の、隣室に入居してきて、当時ご存命だったお父様と一緒に「引っ越し挨拶」に私の部屋を覗かれたのが最初の出会いでした。

部屋には個室のバス・トイレはもとより、共同の風呂もなく、トイレは母屋のものを共同使用、洗濯機も共同使用、台所も、冷蔵庫も、エアコンも、テレビも、電話もない、「シンプル」そのものの、昔ながらの下宿生活でしたが、それ故、ある種の共同生活に似た親密な交際が始まりました。

これを綴れば、世にあるいろいろな「青春記」の上を行く、愉快でペーソスを帯びたスリリングなドラマが生まれるはずですが、それはまたの機会に譲ります。

同一下宿での共同生活は一年ほどで終わり、それぞれに別の下宿先やアパートに引っ越しましたが、大学・私生活を問わず、濃密な交友が卒業まで続きました。

卒業後は、住む場所も仕事も隔たって、彼は、学術書を中心とする出版業の中心的役割を得て奮闘を重ね、今は退職生活に入っています。何年かに一度、同窓会のような場で出会うレベルの頻度でのおつきあいですが、一瞬で当時に戻ります。

最近では、去年の11月、この記事で書いた出会いを楽しんだばかりです。

その彼からの、突然の電話の要件は、たまたま、 槙村浩と『ダッタン海峡10号』についてでした。

そして、きっといつか、高知市平和町の墓所にお参りをしたいねと約したことでした。


先日の新聞投稿につながるウラバナシとも言えるエピソードです。


ところで「愛知に住む古い友人のI君」は、当ブログの別記事では「ハチロー君」という呼び名でも登場します。そのハチロー君も交えて親密なお付き合いをいただいた学生時代の先輩のひとりが、イチローさんです(ややこしい)。偶然にして私と同郷の出身なのですが、大学卒業後、職場の関係から関西住まいでしたが、介護のため、退職後、郷里に生活の比重を移しておられます。


一昨日帰郷の際に、両親の買い物に付き合ってスーパーに立ち寄ったところ、そのイチローさんとばったり出くわしました。実はちょっと前にも同じようなことがあり、縁は異なものと感じたことでした。


この日、イチローさんは、例のメガソーラの件(はたらく自動車?クリーンエネルギー???の巻 ほか参照)で、地域の方と一緒に、市に申し入れに来られての帰りだそうでした。立ち話で新聞投稿の件を伝えると「行く載せてくれたなあ」と感心しつつ、大いにねぎらって下さいました。


今日は、懇意な方々とお会いする機会がありましたので、新聞を数枚コピーして、趣旨を伝えました。


しかし、予期した以上に、槇村浩をご存じでない方がありました。顕彰の必要性を改めて感じています。


深山公園の、ほころび始めた桜の花を、RICOHGXR+a12+インダスター61(廉価ロシアレンズ)にクローズアップフィルター(+3)をつけて撮影してみました。5000円のレンズとは思えない描写ではないですか?


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南(みんなみ)の便り届くや今日雨水 [今日の暦]

今日は暦の上では「雨水」(うすい)。


辞書にはこうあります。


う‐すい【雨水】
1 あまみず。
2 二十四節気の一。2月19日ごろ。水ぬるみ、草木の芽が出始めるころの意。《季 春》「薩埵(さった)富士雪縞あらき―かな/風生」

出典 小学館デジタル大辞泉


朝から暖かい雨でした。特別の用事もありません(雨のため何もできません)が、妻とともに郷里の父母を訪ねてきました。夕方、帰ってみると郵便ポストに、二通の郵便物がありました。差出人は、一つは高知新聞社、もう一つは高知在住のN先輩です。
前者には、2月18日付の「高知新聞」が同封されており、私の投稿が同日付の「声ひろば」欄に掲載された旨知らせて下さっていました。


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後者には、同じ新聞の「声ひろば」欄掲載ページを、同封してくださり、投稿への感謝とともに、「これをきっかけに(生誕地碑建設の)運動を盛り上げたいと心しています」と添え書きしてありました。


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「瓢箪から駒」で、もしも運動が成就して、生誕地碑が建設されるようなことになったら、きっかけの一端を担った一人として、ひそかに鼻を高くしたいと勝手に夢想しているところです。


今日の雨水の写真は撮り損ねました。穴埋めとして、昨日の鳥写真の残りを掲載しておきます。


ヒヨドリ。


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シメ。


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ハクセキレイ。


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メジロ。


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ツグミ。


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今日はこれにて。




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孫の手作り恵方巻きほか、の巻 [今日の暦]

午後は雨、という予報でしたので,午前中プチ散歩をしておきました。


原因不明の、節々の痛みは昨日よりは、かなり解消しました。雨が降る前にと、ジャガイモ植え付け予定の畑に堆肥や肥料を混ぜ込む作業を、今朝も短時間やっておきました。思えば,最近何度か繰り返しているこの作業が,ある種の筋肉痛を招いたのかも知れません。あるいは、肩にかけたカメラバッグを、よいしょと位置を変える際にも、こわばった痛みを感じますので、寒い中、思い機材を持ち歩いたせいかとも反省してみます。


と言うわけで、今朝のプチ散歩は出来るだけ軽量コンパクトでと、割り切って、PENTAXQ7+標準単焦点レンズ(01 STANDARD )だけをポケットに入れて歩く、、、つもりでしたが、やっぱり望遠系レンズを持っていなかったら後悔するはず、、、と思ったばかりに、手頃な場所に置いてあったPENTAXK10D+DA55-300mmを持ち出す羽目になりました。雨が降り始める前に帰るつもりでしたので、雨対策はしませんでした。


PENTAXQ7+01 STANDARD だと,広角系の写りになります。


散歩道添いの畑の白梅。


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ロウバイも艶やか。


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やはり、望遠系で写したくなりました。


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こちらの紅梅は盛りを過ぎたようです。


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今日の夕食は、孫一家が恵方巻きをつくるというので,お呼ばれしました。


まず小5男子が3本ほど作り、


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妹もチャレンジし、


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負けじと中学生も参加。


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恵方に向かってみんなでいただきました、美味しゅうございました。


小2女児が昼間の間につくった豆まきセット(段ボールづくりの鬼の立体模型と新聞紙を丸めてつくった豆ボール)でひと遊びしながら、市販の福豆をポリポリ食べて、楽しい豆まきでした。


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我が家のピアノの上には、いろいろな絵本が並べて立てかけてあり、なぜか、その中の一冊に「おにたのぼうし」(ぶん/ あまんきみこ え/いわさきちひろ)があります。


 


 



おにたのぼうし (おはなし名作絵本 2)

おにたのぼうし (おはなし名作絵本 2)

  • 作者: あまん きみこ
  • 出版社/メーカー: ポプラ社
  • 発売日: 1969/08/01
  • メディア: 単行本



哀しい鬼のお話です。


今日はこれにて。


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