20年前のベトナム訪問記(10) [木下透の作品]
20年前のベトナム訪問記(9) [木下透の作品]
20年前のベトナム ハロン湾スケッチ
20年前のベトナム訪問記(8) [木下透の作品]
「ホ・チ・ミンは米国との戦いが頂点に達していた1969年9月2日、この世を去った。三通の遺書を残していた。ホ・チ・ミンは遺書の中で、こう訴えている。戦争で負傷兵となったもの、殉職したものの父母、妻子で困っているものに生計の道を立てられるようにして、彼らが飢えたり、凍えるままに放置してはならない。戦争に勝ったら、農業税を一年間免除すること。遺体を火葬にして、遺灰を三つに分け、北部、中部、南部の人たちのために、それぞれの地域の丘陵に埋めて欲しい。丘陵には、石碑、銅像を建てず、訪問した人たちが休むことができるような建物、記念に植樹ができるようにしてもらいたい。日がたてば、森林となるだろう。」「眠っているようだが、いまにもすっとたちあがることができるような、生命が宿っているようだ。正直に言うと、彼の遺言通りに、静かに眠らせたいと思う。聞けばソ連の遺体処理専門家が遺体の処理をしたという。ヴェトナム人の気持ちには合わない。」
ホーチミンの性格には他にも何ものかがあって、他のいかなる最高の政治家にも、(より人間的と見られる二人だけをあげるが)ガンディやネルーにさえ認めがたいものである。それは孔子が「恕」と呼んだものである。正確にそれに対応する言葉は、英語にはない。しいて近い言葉を挙げれば、人間はみな兄弟であると自覚している二人の人間の間のあの反応という意味での”相互関係”である。ホーの本能は頭脳からというよりはむしろ、こころから発するものだったように見える」「ベルナール・ファルが提起しているように、『ホーはいつも親しく、いつも近づきやすく、いつも本当のおじさんだった。これを毛沢東、または周恩来さえもが持っていたよそよそしさや厳しさと比較すべきである』」(Ⅳマルクスレーニン主義者)「1967年正月のよく晴れわたったある朝、私たち12人(日、米、仏、オーストラリア人)はホ-・チ・ミン主席とファン・ヴァン・ドン首相に会見するために、ハノイの大統領官邸を訪れた。(中略)私たちが首相と話し合っていると、いまはいって来た正面玄関とは反対の廊下からホー主席があらわれる。みんな一斉に立ち上がって拍手。白人の何人かが近寄って握手しようとすると、ホー主席は笑いながら出された手を払いのけるようにして、皆さんまずお座りなさいという身振りをする。みんなが座るのを見とどけてから、ホーおじさんは立ちあがり、ポケットから名刺大の紙を取り出して、それを見ながら例のユーモアたっぷりに、『ただいまから点呼をやります、名前を呼ばれた人は手をあげて返事をしてください。』という。(中略)みんなが笑う中で、ホーおじさんの”点呼”に『ウィ』『はい』『イエス』の各国語が飛びかう。それが一段落つくと、ホー主席は開口一番、『皆さん、ベトナムへ来て、よく食べていますか、よく眠れますか。よく食べて、よく眠らなければ、良い仕事はできません。』と言う。ホーおじさんの口癖である。」(訳者解説)
20階建ての巨大な高級ホテル”ハノイ・ソフィテルプラザ”は、チェック・バック湖とホン川の間に位置し、さらにハノイで最も美しいといわれる西湖をのぞむことができる抜群のロケーションにあります。集客数はハノイでもトップクラスで、各国のVIPが滞在することからもセキュリティーの高さがうかがえます。東南アジア初という開閉自在の屋根付きプールなど施設も充実しており、最高のホテルライフを満喫できることまちがいなしです!
20年前のベトナム訪問記(7) [木下透の作品]
松本清張全集 (34) 半生の記,ハノイで見たこと,エッセイより
- 作者: 松本 清張
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1974/02/20
- メディア: 単行本
三月十九日午後五時、私と朝日新聞の森本哲朗君とはICC(インドシナ国際休戦監視委員会の連絡用飛行機)の座席に座った。ベルトを締めたものの、互いに顔を見合わせた。ビエンチャン空港の東の空は厚い雲に閉ざされている。これまでこの空港からだけでも四回この古い四発のストラトライナー機に乗ったのだが、その都度、ハノイの天候が悪いというので飛べなかった。一度などは、ラオスと北ベトナムの国境にあるアンナン山脈の上に出ながら引き返したものである。(中略)五時半、とにかく、機はビエンチャンの空港を離陸した。とにかくというのは、飛び立っても目的地に行かないことがたびたびだったからだ。コントロールタワーのラジオ・ビーコンが故障するという珍事でも分かるように、この空港は日本のローカル線なみである。その代わりラオス空軍機がいかめしく並んでいる。飛び立った飛行機は同じ空を旋回するばかりで容易に舞え西住まなかった。蛇行しているメコン河に夕日が映え、河畔のビエンチャンの細長い町も上から眺めるとなかなか風情があるが、その風景が窓から繰り返し回ってくる。機は狭い範囲の空を渦巻きながら、直昇しているのである。これには理由があって、ある人の話では、山岳地帯上に入ると、ときどきパテト・ラオ軍が射撃するので、それを避けるためにという。米機やラオス政府軍機に爆撃されている彼らは、雲の上の爆音を聞けば何でも撃つのだそうである。(中略)夜になった空に、翼の右についた青ランプ、左についた赤ランプの光がさえた。この標識が国際休戦監視委員会で決まった「曜日・時刻・コース」などと友に連絡機であることを北ベトナム軍とアメリカ軍の双方に確認させているのである。戦争する当事国の間を細々とつなぐ一本の平和の糸の上をいま、われわれを乗せたICC機は頼りなげに滑っている。戦争に対してジュネーブ協定の無力さを表徴しているような小さな、旧式の飛行機だった。この機が必ずしも安全でないことは、数箇月前アメリカの爆撃機がICC機の後ろからハノイに忍び込もうとして危うくICC機まで撃ち落とされそうになったことでもわかる。また、いま乗っている四十過ぎのスチュワーデスの夫はICC機のパイロットだったが、数年前この国境地帯で消息を絶った霧で、撃墜されたか故障によるものかいまだに真相は不明だという。(中略)七時二十分、窓の下に都市の灯が見えてきた。ついにハノイにきた。紅河らしい黒い帯のふちを車のヘッドライトが一列に進んでいる。家々にも灯がついている。予想に反して灯火管制は行われていない。機はそれらの風景を窓に繰り広げながら舞い降りる。車輪が地に着く軽いショックは、ハノイにきたという全身の手応えであった。
いま、世界の焦点となっているハノイには入国の申し込みが世界中のジャーナリストや作家から殺到し、ハノイの係官の机の上には、以来の手紙や電報がいつも三十センチ以上の高さに積まれているということだった。そのことは一九六六年のクリスマスにハノイにはいったニューヨーク・タイムスのハリソン・ソールズベリ記者も書いている。ソールズベリは、北ベトナム政府に対して執拗にハノイ入りを手紙や電報で頼み続けていたが、クリスマスの近いある日、ついにハノイから一通の招待電報を受け取る。彼はその電報を机の上に置き、タイムスの外報部長と、これがそうでしょうかね、と半信半疑で眺めたものだった。それほど資本主義国からのハノイ入りは困難なのである。
20年前のベトナム訪問記(6) [木下透の作品]
3.二日目のベトナム(3)
「これを見てください。人間の遺体を手にして、笑っているんですよ。なんということでしょう。相手を人間だと思ったらこんなことはできるはずがありません。」何度も何度も、観光客を案内してきたはずですが、この写真の前ではいつも、憤懣やるかたない思いにかられるのでしょうか。あたかも自分が叱られたかのように、身を縮めながら、写真を正視できずにいる私でした。
戦後日本の路上の靴磨き少年、あるいは花売りの少女、はたまた、「ギブミーチョコレート」を口々に唱えながら、進駐軍のジープに、争って痩せた手を差し出したかつての子どもたち(私たちよりわずかに年上の世代でしょう)の像と、なぜかダブって、痛ましさを禁じ得ません。誇りもモラルも崩れ落ちた敗戦日本の混乱状況ではなく、「日本、フランス、アメリカの三つの帝国主義を追い払った一小国という名誉」を誇りうるベトナムで、その未来を継ぐ子どもたちが見せるこの状況は、「生活のため」のみでは説明されない「拝金主義の毒」を感じずにはいられないのです。しかも、子どもたちが差し出す手は、間違いなく日本人というターゲットにまっすぐ向けられています。改めて、日本および日本人の立場について、思いを致さないわけには行きません。つづく
20年前のベトナム訪問記(5) [木下透の作品]
3.二日目のベトナム (2)
20年前のベトナム訪問記(4) [木下透の作品]
3.二日目のベトナム
翌朝午前八時ホテル発。念のために付け加えますと、ホテルは外国人向けの一流ホテル。冷房完備で肌寒いほど。朝食のバイキングのメニューも豊富、味も上々です。フランス統治のなごりか、コーヒーはとても美味。フランスパンの味も格別でした。
この日は、少女と言ってもいい初々しさのハンさんも、「ガイド見習い」として同行してくれました。日本語教室で勉強中の彼女は、「日本語は難しいです。」「日本に行くのは私の夢です。でも、それにはお金がとても必要です。」と、明晰な日本語で語ります。
バスの車窓から眺めるサイゴンは、「生き馬の目を抜く」という死語を思い出させるようなエネルギッシュな活気に満ちています。道路沿いには多彩な小商店が立ち並び、道ばたにも、果物、野菜、食品、小間物などをとりどりに積み上げた露店が、思い思いに場所を占めています。そのあちらこちらで、人だかりあり、通行人とのやりとりあり、近隣同士の語らいありで、日本のさびれた商店街を見慣れた目には、人々の豊かな交流・コミュニケーションに彩られた日常の姿が、ひどくまぶしくうらやましく感じられました。
20年前のベトナム訪問記(3) [木下透の作品]
2.韓国からベトナムへ
韓国仁川を経由して分断国家の不幸を担いながら、しかも、他民族に対する侵略戦争に全面加担していくという、二重の不幸。そして、侵略政策を強引に遂行するために、歴代軍事独裁政権が繰り返した乱暴な人権抑圧・迫害の数々。「金大中氏拉致事件」「徐勝・徐俊植氏兄弟投獄・拷問問題」「詩人金芝河の受難」など、パクチョンヒ時代の暴政の数々は、いずれも30年前のホットニュースでした。
20年前のベトナム訪問記(2) [木下透の作品]
1.ベトナムは「わが青春」? 第2回
-----わずかながらの情報から、私の中に漠然とイメージされた彼らへの印象は、不屈で誇り高く、かつ謙虚で無欲、気さくで人なつこい人々---でした。
偶然とは言え、ちょうど、そんなある時、高知で障害児学校教員をしている学生時代の友人が、自分らが企画したベトナム旅行への参加者を募りに、旅行業者を伴って岡山までやってきたのです。在岡の共通の友人Mさんと共に、数刻歓談しましたが、これもまた魅惑的な企画でした。
20年前のベトナム訪問記(1) [木下透の作品]
「ベトナムへの旅」に参加して
1.ベトナムは「わが青春」?
ましてや、先の大戦中、日本軍統治下において多大な餓死者を含む犠牲者を産んだ直接の侵略の歴史。またその後も、フランスの後を継いだアメリカの忠実な盟友として、戦争放棄の憲法を持ちながら、侵略戦争の最前線基地としての役割を全面的に果たした日本。そして同時に、自らの血は流さずに、ちゃっかりと軍需で大儲けし続けた日本、、、。
これらを思うとき、日本人「観光客」の訪問に対しては、外貨獲得を動機とする表向きの歓迎の裏で、内心の反感と憎悪を伴った冷遇に接しないわけには行かないだろう、との懸念も、気軽な訪問をためらわせたのです。
人は神になり得たか [木下透の作品]
このコーナーは、今から40年以上も昔の、彼の高校時代の作品を、思い出すままに紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。
高三の秋の文化祭で、私の所属していた文芸部は、「神」というテーマで、発表する事になりました。
部員がそれぞれ、「神」にまつわる作品を創り、それを謄写版刷りの冊子の形で発表するとともに、教室の一つを展示会場として、「神」をテーマとした掲示や装飾物をレイアウトしました。
また、そのため、つてを通じて、隣市のキリスト教会を訪問し、数人で「体験礼拝」(そんな言葉はないでしょうが)したりしました。文章や映像をもとにした想像で理解している、教会内の光景や空気を、じかに肌で感じたことは、得難い体験でした。無信心の私は、形だけ信者のように装うことにギクシャクとした思いはありました。(年齢を重ねると、宗教や宗派の違うお葬式や法事などに参列する機会も多くなり、信仰の如何に関わらず、心をこめて故人を悼み、遺族を慰めるためにも、その宗派の作法を真似て、しかるべく振る舞うことは、 当然のことと割り切っていますが。)
あわせて、「神をどう思うか」といったようなアンケートをとり、これを発表したりもしました。
「喜劇 せるふ・こむぷれいせんす」 最終回 「えぴろーぐ」 [木下透の作品]
木下透は私の高校時代の筆名です。
このコーナーは、今から40年以上も昔の、彼の高校時代の作品を、思い出すままに紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。
「喜劇 せるふ・こむぷれいせんす」のつづきで、かつ最終回です(連載3回目)。
高校時代に書いた400字詰め原稿用紙130枚あまりの「作品」の、ほんの一部分を紹介します。
今回は、「えぴろーぐ」(終章)と名づけた一節です。
前回載せた「プロローグ」のあとには、「第一章」~「第六章」の、未完の物語が展開するのですが、それは自ら読み返すだに恥ずかしい、独りよがりの代物で、とても世間様にお見せするわけには参りません。(とにかく、「せるふ・こむぷれいせんす」とは、和英辞典で調べた「独善」の英訳ですゆえ。)
では、ブログ掲載の前後三回分は、世間様にお見せできるのか?と追及しないでくださいませ(汗)。
改めて読み返してみますと、やっぱり、四〇数年経っても、精神レベルはちっとも変わってないなと感じます。いや、むしろ、一七歳の自分にエールを送られているような気さえするのです。
いやいや、またまた独りよがりでした。
せるふ・こむぷれいせんす(その2) 「プロローグ」 [木下透の作品]
木下透は私の高校時代の筆名です。
このコーナーは、今から40年以上も昔の、彼の高校時代の作品を、思い出すままに紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。
「喜劇 せるふ・こむぷれいせんす」のつづきです(連載二回目)。
高校時代に書いた400字詰め原稿用紙130枚あまりの「作品」の、ほんの一部分を紹介します。
今回は、「プロローグ」(序章)と名づけた一節です。
せるふ・こむぷれいせんす [木下透の作品]
木下透は私の高校時代の筆名です。
このコーナーは、今から40年以上も昔の、彼の高校時代の作品を、思い出すままに紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。
草むしる老婆は今なく枯葎(かれむぐら) [木下透の作品]
木下透は私の高校生時代の筆名です。
そのころ、こんな句を作りました。
「こごまりて」と読ませるつもりでした。
国語のM先生は、「こごまりて」は方言の匂いがするね、「かがまりて」と読む方が自然かも、と添削してくださったのでしたっけ。
あるじなき庭に紅葉のほしいまま [木下透の作品]
木下透は私の高校生時代の筆名です。
国語の先生に勧められて、俳句づくりのまねごとをしたことがありました。
その頃の作品のひとつ。
あるじなき庭に山吹咲き乱る
あるいは、「庭の」だったかな?「咲き誇る」だったかな?記憶がはっきりしません。
とにかく、農村に過疎が進みつつある時代のものわびしさが、咲き誇る山吹の花のはなやかさとの対比で、いっそうつのるように思えたのでした。でも、感興がありきたりだとして、低評価でした。
苗代の足跡に雨降りて澄む [木下透の作品]
木下透は私の高校時代の筆名です。
このコーナーは、今から40年以上も昔の、彼の高校時代の作品を、思い出すままに紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。
今日は、梅雨時期としては久しぶりに、朝から雨模様でした。降り始める前に、近所を散歩しようかと支度をしているうちにポツポツと雨音が聞こえてきましたので、大型のコウモリ傘を持って散歩道に向かいました。重い機材を運ぶのは億劫なので、コンデジをバッグに入れて出かけました。
苗代の足跡に雨降りて澄む 透
この句は、梅雨時期の実景をもとに、割合にすんなり浮かんだもので、自分としては気に入っていました。周囲からは、ほとんど凡句の扱いで、スルーされたものですが、 今の季節になると不思議に思い出します。
苗代というものも、今では見かけることが少なくなりました。
ウィキペディアには、こう説明があります。
もともとは種籾(イネの種子、籾殻つきの米粒)を密に播いて発芽させ、田植えができる大きさまで育てるのに用いる狭い田を指した。
手植えの場合
田植機を用いない旧来のやり方では、おおよそ次の手順に従う。
種籾(たねもみ)を植える場所の土を、幅1m位の短冊状に盛り上げ、土を軽く耕す。
その上に1cm²辺り1粒程度の種籾(5日程度水につけて十分に水分を吸わせたもの)をまく。
土や籾殻(もみがら)または燻炭(くんたん)を薄くかぶせ、軽く抑える。
苗代の畝上が丁度浸かる程度に水を張り、発芽させる。
苗が20~30cm(本葉が7~8枚)位のころに、苗を抜き取り、2~3本を1株として植える(田植え)。
子どもの頃は、小学校でも「農繁休暇」というお休みがありました。田植えの時期は、農家にとっては、猫の手も借りたい繁忙の時期で、子ども達も労働力として期待された事の名残です。
私の家などは、農業と行っても家族がかつがつ食べるだけの田畑しかありませんでしたから、実際の田植え経験は、今で言う「体験学習」レベルの思い出に過ぎません。でも近隣・組内総出の共同作業で、この田んぼあの田んぼと、田植えを済ましていった光景は、目に残っています。
我が家の耕地は、「なわしろ(苗代)」「しみずば(清水場)」「おちうだ(どんな漢字を当てるのでしょう?)」「はた(畑」」「はま(浜)」と呼ばれる、分散した小さな田畑が、すべてでした。この内、水田は、 「苗代」、「おちうだ」、「浜」の三カ所でした。
小規模農業を表す言葉に、「五反百姓」という表現がありますが、我が家の耕地面積は、わずかに一反余り、零細農家の内のさらにミクロの存在と言えるでしょう。一番広いのが川べりに広がった「浜」で、これが一反(約10アール)余り。この地方の川沿いの水田は、頻繁に起こる川の氾濫・洪水によって、冠水被害を受けることもたびたびで、そのため、大規模な護岸工事や圃場整備(ほじょうせいび)が行われ、今は違う土地が割り当てられています。
父が勤務の都合で田舎を離れて暮らしている間、ご近所の方に耕作を委ねていた流れで、退職・帰郷後も、その状態が続いています。従って、私はその位置も確かに知りません。
「おちうだ」と呼ばれた水田は、山かげの、日当たりの悪い、水の冷たい、小さな山田でした。はやりの「農業競争力」という概念の対極にあるような、ローパフォーマンスの土地です。周囲の景色も変わりましたから、いま、どうなっているか?
「なわしろ」は、住まいと最も近い場所にある、これもごくごく小さな、一種の棚田です。実際に種籾を蒔いて苗を育てる「苗代」でした。が、今はその歴史的役割を終えて、野菜畑として遣われています。先日から話題にした桑の木も、この畦に茂っていました。
現在、手植えの光景は、特別なイベントの時などの他は見かけることもなく、ほとんどの農家では、 育苗箱で育てた苗を用いた機械植えが主流になっているようです。
ウィキペディアの記事の続きです。
機械植えの場合
植える場所の土をならす段階までは、手植えの場合と同じ。以下はその一例。
用意した育苗箱に土を敷き、そのうえに催芽させた籾をまき、籾が隠れる程度に土を軽くかぶせる。
育苗箱をならした土のうえに並べ、十分潅水する。
ビニール(育苗シート)を被せ、発芽させる。
苗が出揃ったらビニールを取り外す。
苗が20cm(本葉が3~4枚)位のころに、田植機で移植する。
先日、ある友人と話しておりましたら、彼女の四国の実家での話題が出て、今では、自家で育苗する技術も継承されない状態にあり、多くの農家では農協で購入した苗をつかって田植えをしているのだとか。一方にTPPが攻めてきて、一方に突如安倍さんがぶちあげた「農協解体」という大暴風が襲って来るとなると、この「育苗」といういのちの大本も、独占大企業の、なかんずくアメリカの独占種苗会社かなんかの、牛耳るところとなるのでしょうか?生産性の低い農業(農地・農村)は淘汰され、荒廃の極にいたり、一定の生産性を見込まれる農業(農地・農村)は、独占大企業、なかんずくアメリカの独占種苗会社かなんかの儲けのターゲットとされるのでしょうかね。
さらにその先の、空恐ろしいのは、あの遺伝子組み換え技術をを駆使するモンサント社流の「ターミネーター種子」=「自殺する種子」などの、新たな餌食にされる未来図でしょうか?
私の散歩道から見える田園風景は、広大な干拓地に広がる肥沃な水田地帯です。いつの間にか麦の刈り入れが終わり、水田いっぱいに水が張られています。
ひとの死をさもありと聞く驟雨かな [木下透の作品]
木下透は私の高校時代の筆名です。
ひとの死をさもありと聞く驟雨かな
【解釈】「人の死」というきわめて重い事実を、「(無常のこの世であるから)そういうこともあるのだと聞いている自分がある。折しも表は、激しいにわか雨が降りしきっていることよ。
初めは「他人の死を」と書いて「他人」に「ひと」というルビを振って、句会に出しました。一種の「偽悪」というか「露悪」の意識もあって、所詮他人の運命は、他人事なのだから、という虚無感を協調した傾向があったかもしれません。それは、エゴイズムの宣言と言うよりは、人間存在の孤立性への自覚または諦観といったものの誇張表現だったのでしょうが、さすがにそれが誰の目にも鼻についたようで、せめて「人」または「ひと」と表記することをすすめられました。
「ひとの死を」と改めてみて、句境が随分平凡になったような気が、当時はしていましたが、「さもありと聞く」よりほかにはいかようにもし難い、人間存在の否応なさが、自ずとあらわれているように、だんだん思えてきました。
昨夜お会いした友人たちとの話題に、いくつか「ひとの死」にまつわるお噂がありました。
その一つ、若かりし日の職場の先輩であったHさんが、数年前病気のため亡くなられたことは、事後聞き知っていました。
独身の新任時代以来、公私にわたって親しく時間をともにし、お互いのアパートを行き来し、居酒屋をはしごし、時には電車で小一時間をかけて街まで出かけ、「寅さん」や「ピンクパンサー」など、行き当たりばったりに映画を一緒にみたり、天下国家を論じたりした間柄でした。無理に頼み込んで、私の結婚式の司会を押しつけたこともありました。
他にも「一生のお願い」を何度かして、「こんな事で一生のお願いを使い果たしていいの?」とからかわれることもありました。
それほどに身近で、ほとんどなれ合い意識に近い感情で結ばれている、気の置けない存在と、ずっと思っていました。いつでもその気になればお返しはできるというか、改まってお礼を言うのも他人行儀と思える「bosom friend」-「腹心の友」(花子とアン)のはずでしたのに、突如遠いところに行ってしまわれました。
なぜか、私は、葬儀にも参列できず、お墓参りさえしていないのです。 記憶があやふやなのですが、おそらく、私自身の脳動脈瘤手術前後の時期に重なっていて、「人様」を見送る心のゆとりすらもなかったのでしょうか?
去年の4月になくなったもう一人のHさんを偲ぶ折々に、ふと、こちらのHさんの思い出がこみ上げてくることもしばしばでした。
話をもとに戻します。昨日お会いした方々のよもやま話の一つに、そのHさんの奥様も、最近亡くなられていたという情報を聞き、驚いたのです。
ひとの死をさもありと聞く驟雨かな
この句を久しぶりに思い出したゆえんです。
今日の写真は、生命を謳歌する方向へと、意図的にシフトして選んでみました。
このさなぎは、ツマグロヒョウモンでしょうか?我が家の玄関先です。
どっぷりと首までつかりて睡蓮花 [木下透の作品]
木下透は、私の高校生時代の筆名です。
このコーナーでは、そのころの「作品」を、思い出すままに紹介します。
どっぷりと首までつかりて睡蓮花
この句は、この記事で掲載した作品と同じ頃のものだと記憶しています。時期はもう少し遅く、梅雨時分だったようにも思います。
「どっぷりと」の語感と睡蓮花の可憐さがミスマッチと評されたのでしたっけ?
「どっぷりと日常生活に埋没する」、「どっぷりとマンネリズムに陥る」などのありがちな表現は、しかし、当時はまだまだ聞き覚えのないものでした。ですから、この「どっぷりと」は、当時としてはそれほど安直な言い回しではなかったはず、と一言弁明しておきます。
「とっぷりと」の方が小振りの花の感じが出たでしょうか?
「首までつかりて」は、幼児などが風呂で「肩までつかりましょうね」なんて言われて、湯の中に懸命に身を沈める、あの様子を思ったのですが、「首まで」では中途半端でしたかね?「頸(くび)まで」または「顎(あご)まで」と言った方がリアルだったでしょうか?
とっぷりと顎まで漬かるや睡蓮花
これでは、談林派みたいになっちゃいますね。オソマツ。
いずれにしても、睡蓮の花を見るたびに、思わず口にしてしまう句なのです。
KHAOS 木下透 [木下透の作品]
木下透は私の高校時代の筆名です。
このカテゴリーの記事は、彼の作品を紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。
でも、冬オリンピック競技での10代選手の活躍を見ていますと、技量についても人間性についても、年齢ゆえに未熟と言うのはおこがましい気がしてきますが、、、。
KHAOS 馬鹿に思い詰めている奴がいる。 自惚れにこりかたまった奴がいる。 無力を悟ったふりがいる。 どうにでもなれとうそぶく奴がいる。 退廃を享楽している奴がいる。 何にもしないで 一見ニヒリスティックな 風変わりがいるが、奴はただの怠け者だ。 おれは駄目だと嘆く奴が、実は哀れみを乞うている。 おれはあんまり不幸だと うるさいから、 思いっきりぶんなぐってやったら、死んでしまった。 肉をむさぼる奴がいる。(そんなに美味くないことは、よく知っているのだが、奴にはそれしかやることがないのだから。) つかれきった老いぼれがいる。 よせよせ くだらぬ と抜かしやがった。。 ひがんでいじけたがきがいる。 栄養不良で未発育の赤児がいる。 そいつはきっと死ぬだろう。 おととい死んだ奴が 今日生まれた。 そうそう、一番長生きした奴を、こないだある女が殺した。(葬式は昨日すませた) 詩を作っている奴がいる。 〈ああ私は〉なんぞとつぶやいている。。 馬鹿な奴だ。あいつの中には詩は いない。 隣でヘラヘラせせら笑っている、あいつの中に いるかもしれない。 |
シュールでしょ。
KHAOSは、英語綴りでは、chaos 。「カオス」です。ギリシア神話に登場する原初神で、「大口を開けた」「空(から)の空間」の意だと、wikiは解説してくれています。
一般に「混沌」と訳され、雑然としたさま、ぐちゃぐちゃなさまを表す表現として用いられることが多いですね。
高3の木下透の神経状態は、まさに雑然として、ぐちゃぐちゃだったのです。
ところで、「混沌」というと、中国古代の思想家「荘子」の一節に、こんな有名な文章がありました。
渾 沌 南海之帝為儵,北海之帝為忽,中央之帝為渾沌。 儵與忽時相與遇於渾沌之地,渾沌待之甚善。 |
南海(なんかい)の帝(てい)を儵(しゅく)と為(な)し、
北海(ほっかい)の帝を忽(こつ)と為(な)し、
中央の帝を渾沌(こんとん)と為(な)す。
儵と忽と、時に相(あひ)与(とも)に渾沌の地に遇(あ)ふ。
渾沌、之(これ)を待(たい)すること甚(はなは)だ善(よ)し。
倏と忽と、渾沌の徳に報(むく)いんことを謀(はか)りて曰(いは)く
「人皆七竅(しちきょう)有りて、以(もっ)て視聴食息(しちょうそくしょく)す。
此(こ)れ独(ひと)り有る無し。
嘗試(こころみ)に之(これ)を鑿(うが)たん」と。
日(ひ)に一竅(いっきょう)を鑿つに、七日(なぬか)にして渾沌死せり。
【解釈】
「儵」「忽」はこれを一語にして、儵忽(しゅくこつ)という言葉があるように、いずれも極めて短い時間、束の間(つかのま)という意味である。この、人間の束の間の生命を象徴するかのごとき、儵という名の南の海の支配者と、忽という名の北の海の支配者とが、ある時、その遙かなる海の果てから、世界の真中(まんなか) ── 渾沌の支配する国で、ゆくりなくも一緒にめぐりあった。「渾沌」とは、いうまでもなく、大いなる無秩序、あらゆる矛盾と対立をさながら一つに包む実在世界そのものを象徴する言葉にほかならない。
訪れてきた儵と忽の二人を、渾沌は心から歓待した。儵と忽とは、束の間の生命を渾沌の国 ── 心知の概念的認識を超え、分別の価値的偏見を忘れた実在そのものの世界に歓喜した。そして渾沌の心からなる歓待 ── 生命の饗宴に感激した儵と忽は、何とかしてこの渾沌の行為に報(むく)いたいと思った。いろいろと相談した二人が、やっと思いついた名案は次のようなことであった。
── そうだ。人間には七つの竅(あな) ── 目耳口鼻の七竅(きょう)があって、美しい色を視、妙なる音を聴き、美味(うま)い食物を食い、安らかに呼吸するが、この渾沌だけには一つも竅(あな)がない。そうだ、せめてもの恩返しに、ひとつ七つの竅を鑿(ほ)ってやろう。
二人は力を合わせて、せっせと渾沌の体に鑿(のみ)を揮(ふる)い始めた。最初の日に一つ、次の日にまた一つ、その次の日にさらに一つ・・・・・ かくて七日目にやっと七つの竅(あな)が鑿(ほ)りあがった。けれども、目と耳と口と鼻の七つの竅(あな)をととのえて、やっと人間らしくなった渾沌は、よく見ると、もはや空(むな)しい屍(しかばね)と化していた。―──荘子(朝日新聞社・中国古典選)】より引用 ──―
日本人として最初にノーベル物理学賞を受けた湯川秀樹博士は、漢文の素養のある人だったそうで、こんな一文を残しておられます。
小学校へ入る前から、漢学、つまり中国の古典をいろいろ習った。といっても祖父について素読をしただけである。もちろん、はじめは意味は全然わからなかった。しかし、不思議なもので、教えてもらわないのに何となくわかるようになっていた。習ったのは儒教関係のものが多く、「大学」からはじまり、「論語」「孟子」その他、「史記」「十八史略」なども教わった。 「史記」などの歴史書は別にして、儒教の古典は私にはあまり面白くなかった。道徳に関することばかり書いてあって、何となくおしつけがましい感じがした。 中学校に入ることには中国の古典でも、もっと面白いもの、もっと違った考え方の書物があるのではないかと思って父の書斎をあさった。「老子」や「荘子」をひっぱりだして読んでいるうちに、荘子を特に面白いと思うようになった。何度も読み返してみた。中学生のことではあり、どこまでわかったのか、どこが面白かったのかと、後になってから、かえって不思議に思うこともあった。 それからずいぶんと長い間、私は老荘の哲学を忘れていた。四、五年前、素粒子のことを考えている最中に、ふと荘子のことを思い出した。 南海の帝を儵(しゅく)と為し、北海の帝を忽(こつ)と為し、中央の帝を渾沌と為す。儵と忽と、時に相与(あいとも)に渾沌の地に遇へり。渾沌之を待こと甚だ善し。儵と忽と、渾沌の徳に報いんことを計る。曰く「人皆七竅(しちきょう)有り、以視聽食息(しちょうしょくそく)す、此れ独り有ること無し。嘗試(こころみ)に之を鑿(うが)たん」と。日に一竅(いちきょう)を鑿(うが)つ。、七日にして渾沌死す。 これは「荘子」の内篇のうち、応帝王第七の最後の一節である。この言葉を私流に解釈してみると、 南方の海の帝王は儵と為し、北海の帝王は忽という名前である。儵、忽ともに非常に速い、速く走ることをいみしているようだ。儵忽を一語にすると、たちまち束の間とかいう意味である。中央の帝王の名は渾沌である。 或るとき、北と南の帝王が渾沌の領土にきて一緒に会った。この儵、忽の二人を、渾沌は心から歓待した。儵と忽はそのお返しに何をしたらよいかと相談した。 そこでいうには、人間はみな七つの穴をもっている。目、耳、口、鼻。それらで見たり聞いたり、食べたり呼吸したりする。ところが、この渾沌だけは何もないズンベラボーである。大変不自由だろう。気の毒だから御礼として、ためしに穴をあけてみよう、と相談して、毎日一つずつ穴をほっていった。そうしたら、七日したら渾沌は死んでしまった。 これがこの寓話の筋である。何故この話を思い出したのか。 私は長年の間、素粒子の研究をして いるわけだが、今では三十数種にも及ぶ素粒子が発見され、それらが謎めいた性格をもっている。こうなると素粒子よりも、もう一つ進んだ先のものを考えなければならなくなっている。一番基礎になる素材に到達したいのだが、その素材が三十種類もあっては困る。それは一番根本になるものであり、あるきまった形を もっているものではなく、またわれわれが今知っている素粒子のどれというものでもない。さまざまな素粒子に分化する可能性を持った、しかしまだ未分化の何物かであろう。今までに知っている言葉でいうならば渾沌というようなものであろう、などと考えているうちに、この寓話を思い出したわけである。 素粒子の基礎理論について考えているのは私だけではない。ドイツのハイゼンベルグ教授は、やはり素粒子のもとになるものを考え、それをドイツ語でウルマテリー(原物質)とよんでいる。名前は原物質でも渾沌でもいいわけだが、しかし私の考えていることとハイゼンベルグ教授のそれとは似たところもあるけれども、またちがったところもある。 最近になってこの寓話を前よりもいっそう面白く思うようになった。儵も忽も素粒子みたいなものだと考えてみる。それらが、それぞれ勝手に走っているのでは何事もおこらないが、南と北からやってきて、渾沌の領土で一緒になった。素粒子の衝突がおこった。こう考えると、一種の二元論になってくるが、そうすると渾沌というのは素粒子を受け入れる時間・空間のようなものといえる。こういう解釈もできそうである。 べつに昔の人の言ったことを、無理にこじつけて、今の物理学にあてはめて考える必要はない。今から二千三百年前の荘子が、私などがいま考えていることと、ある意味で非常ににたことを考えていたということは、しかし、面白いことであり、驚くべきことでもある。 科学は主としてヨーロッパで発達していた。広い意味でのギリシャ思想がもとにあって、それを受けついで科学が発展してきたのだといわれている。最近亡くなったシュレーディンガー教授の書いたものをみると、ギリシャ思想の影響のないところには、科学の発展はないと言っている。歴史的にそれは正しいであろう。明治以降の日本をみても、直接ギリシャ思想の影響を受けたかは別として、少なくとも間接的にはそこから始まってヨーロッパで発達した科学を受けついでいる。 過去から現在まで大体そうなっているのだから、それでいいとしよう。しかし、これから先のことを考えてみると、何もギリシャ思想だけが科学の発達の母胎となる唯一のものとは限らないだろう。東洋をみると、インドにも古くから、いろいろの思想があった。中国にもあった。中国の古代哲学から、科学は生まれてこなかった。たしかに今まではそうであったかもしれない。しかしこれから先もそうだと決めこむわけにはいかない。 中国の古代の思想家の中で、私が最も興味を持ち、好きなのが、老子と荘子であることは、中学時代も今もかわらない。老子の思想は、或る意味で荘子より深いことはわかるのだが、老子の文章の正確な内容はなかなかつかめない。言葉もいい廻しもむつかしく、注釈を読んでも釈然としない点が多い。結局、思想の骨組みがわかるだけである。ところが荘子の方は、いろいろ面白い寓話があり、一方では痛烈な皮肉を言いながら、他方では雄大な空想を際限なく展開させてゆく。しかもその根底には一貫した深い思想がある。比類のない名文でもある。読む方の頭の働きを刺激し、活発にしてくれるものが非常に多い気がする。前の渾沌の話も、それ自身はべつに小さな世界を相手にしたものではなく、むしろ大宇宙全体を相手にしているつもりであろう。自然の根本になっている微少な素粒子とか、それに見合う小さなスケールの空間・時間を論じたものでないことは明らかである。ところが、そこにわれわれが物理学を研究して、ようやく到達した、非常に小さな世界がおぼろに出てきているような感じがする。これは単なる偶然とは言いきれない。そう考えてくると、必ずしも科学の発達のもとになりうるのはギリシャ思想だともいえないように思う。老子や荘子の思想は、ギリシャ思想とは異質なように見える。しかし、それはそれで一種の徹底した合理主義的な考え方であり、独特の自然哲学として、今日でもなお珍重すべきものをふくんでいると思う。 儒教にせよ、ギリシャ思想にせよ、人間の自律的、自発的な行為に意義を認め、またそれが有効であり、人間の持つ理想を実現する見込みがあると考えるのに対して、老子や荘子は、自然の力は圧倒的に強く、人間の力ではどうにもならない自然の中で、人間はただ右へ左へふり廻されているだけだと考えた。中学時代には、そういう考えを極端だと思いながらも強くひかれた。高等学校の頃からは、人間が無力だという考え方に我慢がならなくなった。それで相当長い間、老荘思想から遠ざかっていた。しかし、私の心の底には、人間にとって不愉快では あるが、そこに真理がふくまれはていることを否定できないのではないかという疑いがいつまでも残った。 「老子」に次のような一節がある。 天地は不仁、万物を以て芻狗(すうく)と為す 聖人は不仁、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗と為す。 芻狗は草で作った犬の人形。祭が済んだらすててしまう。天地は自然といってもいいだろう。不仁というのは思いやりがないということであろう。老子はこういう簡単な表現で、言い切る。 「荘子」の方は、面白いたとえ話を持ち出す。 人、影を畏れ、跡を悪(にく)んで之を去(す)てて走る者有り。足を挙ぐること愈々(いよいよ)數々(しばしば)にして、跡愈々(あといよいよ)多く、走 ること愈々疾(と)くして影身を離れず、自ら以為(おもへ)らく尚遅しと、疾(と)走って休まず、力絶って死す。知らず陰に処(お)りて以て影を休め、靜に処にて以て跡を息(や)むるを。愚も亦た甚し。 ある人が自分の影をこわがり、自分のあしあとのつくのをいやがった。影をすててしまい たい、足あとをすてたい、そこからにげたいと思って、一生懸命ににげた。足をあげて走るにしたがって足あとができてゆく。いくら走っても影は身体から離れない。そこで思うのには、まだこれでは走り方がおそいのだろうと。そこでますます急いで走った。休まずに走った。とうとう力尽きて死んでしまった。この人は馬鹿な人だ。日陰におって自分の影をなくしたらいいだろう。静かにしておれば足あともできていかないだろう。 このような考え方は、宿 命論的で、一口に東洋的といわれている考え方にちがいないが、決して非合理的ではない。それどころか今日のように科学文明が進み、そのためにかえって時間 に追われている私たちにとっては、案外、身近な話のように感ぜられるのである。私の心の半分はこういう考えに反撥し、他の半分は引きつけられ、それが故 に、この話がいつまでも私の記憶に残るのであろう。本の面白さにはいろいろあるが、一つの書物がそれ自身の世界を作り出していて、読者がその世界に、しば らくの間でも没入してしまえるような話を私は特に愛好する。その一つの例として、先ず「荘子」をとりあげてみたのである。 ―湯川秀樹著『本の中の世界』「荘子」より引用― |
そういわれると確かにそうで、合点がいきました。
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