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20年前のベトナム訪問記(10)  [木下透の作品]

現在、新ブログ「ナードサークの四季vol.2」 をメインブログとして更新していますが、こちらの初代ブログも、時々更新しないと、希望しない広告がふんだんに表示されます(PC版の場合です。スマホ版は常に広告が表示されているらしい)ので、それを避けるため、時折更新を続けています。

20年ほど前に体験したベトナム訪問旅行での撮影写真と、記録文をもとに、当時作っていたプライベートホームページのdataから、少しずつ小分けにして.再掲しています。今回は(その10)です


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5 四日目のベトナム
国立人道企業に立ち寄る
 
 ベトナム滞在4日目にして、かつ最終日の8月10日。この日のメインは、ハロン湾見学です。
 ハロン湾へは、首都ハノイから南東へ、約150km。日本資本の協力で出来たという、ベトナム随一の高速道路をひたすら走ります。高速道路とはいっても、バイクや自転車も併走し、途中には横断歩道や信号があり、生活圏と密着した車窓光景が目を楽しませてくれます。
 途中休憩も兼ねて立ち寄った場所は「国立人道企業」。枯葉剤の影響その他による障害者・児の授産施設であるようです。
 「刺繍」の制作(実演)や、商品の販売に携わっている青年たちの障害は軽度のようですが、実に勤勉に立ち働き、また観光客への応対においても柔和で、微笑を絶やさないようすは、健気で頭が下がります。刺繍の仕上がりも実に丁寧かつ絢爛で、一つ仕上げるのに何十日、何ヶ月という労苦を聞くにつけても、その辛抱強さに感心させられます。
 売り子役の少年少女も、実に一生懸命で、私の求めたささやかな土産物のほかに、さらに一つ、さらに一枚と、別の品物を勧め、なかなか諦めようとしません。昨日も、路上販売のおばさんから、白檀の小板で編んだ扇子と例の三角菅笠を各一ドルで買い「もういらない」といっても、決して諦めず、次々に品物を手提げ籠の中から取りだしては、「これとこれで一ドル、安いよ」と粘られたのには閉口しましたが、ここの若い売り子さんたちも、同様の粘り強さです。日頃から、商売においても人付き合いにおいても「淡きこと水のごとき」ほど良さを快く感じる私ですので、断っても断っても商交渉を諦めない執拗さには、がめついまでの図々しさを感じて、いささか気が滅入ってしまったのですが、後でよくよく考えてみますと、このねばり強さも、使命感に燃えてのそれに相違ありません。艱難辛苦を乗り越えて、長期にわたる戦争に勝ち抜いた「英雄的ベトナム人民」の、ねばり強さ辛抱強さを脈々と受け継ぐものと見れば、腑に落ちる気もするのです。
 いずれにしても、障害者・児の自立に向けてのサポートについては、他産業への進出機会や教育機会において多大な困難・遅滞がうかがえること、とりわけ重度の障害児・者へのケアは決して十分とはいえないらしいことが、ヴェトさんの説明によっても、感じ取れたことでした。
 
刺繍作業中の少女たち
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ハロン湾クルージーング
 ベトナムきっての景勝地とされるハロン湾は、南シナ海につながる面積 1,553 平方キロメートルの内湾。
 約 2千もの島々が沖へ向かって延々と連なっている幻想的な光景が魅力です。
 ハロンとは「龍の降りたところ」という意味で、その昔、外敵の侵略からこの地を守るために空から龍の親子が現われて敵を打ち破り、その時吹き出した宝玉が幾千もの島々になったという伝説が残されています。
 中国・桂林にも、日本の松島にもたとえられるハロン湾の景観を、貸し切り船から展望します。石灰岩質の奇岩が、海上に無数に(岩山の数は、ホーチミンの没年と同じ1964であるそうな)屹立する様は、壮観であり、世界遺産に数えられるのもむべなることと思えます。
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 また、湾内を小舟で往来する海上生活者たち(少数民族の人々でしょうか)が、時に観光船に伴走し、観光客相手に海鮮物や果物を差し出して物売りに励んでいます。私たちの船の横でも、四歳前後かと思える幼児を舳先に遊ばせ、(その衣服は、ちゃんと船に紐でくくりつけてあります)夫は櫓を操り、若い妻が精一杯手を伸ばして、船客の鼻先に、商品の入った籠を押しつけるように示しています。籠の中には、ドラゴンフルーツ、ライチほかのトロピカルフルーツや、生きたエビ、シャコ、カニ、魚などなどが、新鮮そのものの姿で盛られています。観光船が、クルージングを始めるまでのわずかな徐行の時間に、ちょうど駅弁売りの風情で、しきりに声をかける、その懸命な姿も、幾代にわたって繰り返されてきたであろう生活が偲ばれて、印象深く思われます。
 ハロン湾は、例のトンキン湾ともつながっており、ベトナム戦争当時は、軍事的な要衝として、機雷が敷設されたり、空爆を受けたりで、のどかに景観を楽しむなど論外だったでしょう。
 「この方向に海南島があります」と、ヴェトさんが言うので、「今日のクルージングで海南島の姿がみえますか?」と尋ねてみると、ヴェトさん、あきれた表情を隠さず、「何日もかかります」と答えてくれました。
 つづく
 

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20年前のベトナム訪問記(9)  [木下透の作品]

現在、新ブログ「ナードサークの四季vol.2」 をメインブログとして更新していますが、こちらの初代ブログも、時々更新しないと、希望しない広告がふんだんに表示されます(PC版の場合です。スマホ版は常に広告が表示されているらしい)ので、それを避けるため、時折更新を続けています。

20年ほど前に体験したベトナム訪問旅行での撮影写真と、記録文をもとに、当時作っていたプライベートホームページのdataから、少しずつ小分けにして.再掲しています。今回は(その9)です


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5 四日目のベトナム
国立人道企業に立ち寄る
 
 ベトナム滞在4日目にして、かつ最終日の8月10日。この日のメインは、ハロン湾見学です。
 ハロン湾へは、首都ハノイから南東へ、約150km。日本資本の協力で出来たという、ベトナム随一の高速道路をひたすら走ります。高速道路とはいっても、バイクや自転車も併走し、途中には横断歩道や信号があり、生活圏と密着した車窓光景が目を楽しませてくれます。
 途中休憩も兼ねて立ち寄った場所は「国立人道企業」。枯葉剤の影響その他による障害者・児の授産施設であるようです。
 「刺繍」の制作(実演)や、商品の販売に携わっている青年たちの障害は軽度のようですが、実に勤勉に立ち働き、また観光客への応対においても柔和で、微笑を絶やさないようすは、健気で頭が下がります。刺繍の仕上がりも実に丁寧かつ絢爛で、一つ仕上げるのに何十日、何ヶ月という労苦を聞くにつけても、その辛抱強さに感心させられます。
 売り子役の少年少女も、実に一生懸命で、私の求めたささやかな土産物のほかに、さらに一つ、さらに一枚と、別の品物を勧め、なかなか諦めようとしません。昨日も、路上販売のおばさんから、白檀の小板で編んだ扇子と例の三角菅笠を各一ドルで買い「もういらない」といっても、決して諦めず、次々に品物を手提げ籠の中から取りだしては、「これとこれで一ドル、安いよ」と粘られたのには閉口しましたが、ここの若い売り子さんたちも、同様の粘り強さです。日頃から、商売においても人付き合いにおいても「淡きこと水のごとき」ほど良さを快く感じる私ですので、断っても断っても商交渉を諦めない執拗さには、がめついまでの図々しさを感じて、いささか気が滅入ってしまったのですが、後でよくよく考えてみますと、このねばり強さも、使命感に燃えてのそれに相違ありません。艱難辛苦を乗り越えて、長期にわたる戦争に勝ち抜いた「英雄的ベトナム人民」の、ねばり強さ辛抱強さを脈々と受け継ぐものと見れば、腑に落ちる気もするのです。
 いずれにしても、障害者・児の自立に向けてのサポートについては、他産業への進出機会や教育機会において多大な困難・遅滞がうかがえること、とりわけ重度の障害児・者へのケアは決して十分とはいえないらしいことが、ヴェトさんの説明によっても、感じ取れたことでした。
 
刺繍作業中の少女たち
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ハロン湾クルージーング
 ベトナムきっての景勝地とされるハロン湾は、南シナ海につながる面積 1,553 平方キロメートルの内湾。
 約 2千もの島々が沖へ向かって延々と連なっている幻想的な光景が魅力です。
 ハロンとは「龍の降りたところ」という意味で、その昔、外敵の侵略からこの地を守るために空から龍の親子が現われて敵を打ち破り、その時吹き出した宝玉が幾千もの島々になったという伝説が残されています。
 中国・桂林にも、日本の松島にもたとえられるハロン湾の景観を、貸し切り船から展望します。石灰岩質の奇岩が、海上に無数に(岩山の数は、ホーチミンの没年と同じ1964であるそうな)屹立する様は、壮観であり、世界遺産に数えられるのもむべなることと思えます。
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 また、湾内を小舟で往来する海上生活者たち(少数民族の人々でしょうか)が、時に観光船に伴走し、観光客相手に海鮮物や果物を差し出して物売りに励んでいます。私たちの船の横でも、四歳前後かと思える幼児を舳先に遊ばせ、(その衣服は、ちゃんと船に紐でくくりつけてあります)夫は櫓を操り、若い妻が精一杯手を伸ばして、船客の鼻先に、商品の入った籠を押しつけるように示しています。籠の中には、ドラゴンフルーツ、ライチほかのトロピカルフルーツや、生きたエビ、シャコ、カニ、魚などなどが、新鮮そのものの姿で盛られています。観光船が、クルージングを始めるまでのわずかな徐行の時間に、ちょうど駅弁売りの風情で、しきりに声をかける、その懸命な姿も、幾代にわたって繰り返されてきたであろう生活が偲ばれて、印象深く思われます。
 ハロン湾は、例のトンキン湾ともつながっており、ベトナム戦争当時は、軍事的な要衝として、機雷が敷設されたり、空爆を受けたりで、のどかに景観を楽しむなど論外だったでしょう。
 「この方向に海南島があります」と、ヴェトさんが言うので、「今日のクルージングで海南島の姿がみえますか?」と尋ねてみると、ヴェトさん、あきれた表情を隠さず、「何日もかかります」と答えてくれました。
以前公開していたプライベートホームページの記事は、これでおしまいです。お付き合いありがとうございました。完
この記事に関連した写真は、こちらのリンクをご覧ください。 
 

20年前のベトナム ハロン湾スケッチ

なお、この記事作成のプロセスで、色々古いデータを掘り起こしましたので、新ブログ「ナードサークの四季vol.2」https://kazg.blog.ss-blog.jp/ の方で、関連記事を続けていこうと思います。どうぞごひいきに、よろしくお願いいたします。

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20年前のベトナム訪問記(8)  [木下透の作品]

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20年ほど前に体験したベトナム訪問旅行での撮影写真と、記録文をもとに、当時作っていたプライベートホームページのdataから、少しずつ小分けにして.再掲しています。今回は(その8)です


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4.三日目のベトナム
初めて見るハノイ
 空港には、ハノイでのガイドの若い男性が、にこやかな笑顔で、私たちを出迎えてくれました。内面のきまじめさが、一目で見て取れるこの人は、ベトさん。早速、迎えのバスで、ハノイの市内へ向かいます。ハノイは、雨期のせいでもありますが、ここのところ大雨に見舞われていて、紅河など、河川の水かさも増し、各地で水田や道路、家屋に浸水もあったようです。
 空港からハノイの中心部までの数十分の間、車窓には、どこまでも青々とした稲穂のなびく田園風景が広がっています。広々とした農地のあちらこちらに、点々と、農作業中の農夫や、その家族らしい姿が、目に入ります。農道を水牛を引いて歩む農夫、また牛の背に乗る子どもの姿も、景色にとけ込んでいます。水路は、満々とした水をたたえ、小舟をあやつる人の姿や、釣り竿や網など漁具を手にした家族連れや、少年たちなども、目にとまります。  
 小雨に煙る田園風景の、濃密なまでに潤った緑と、その中に溶け込んだ人々の生活の様子は、取り立てて物珍しい情景ではありませんが、なぜか目と心を引きつけてやみません。私たちのまわりにも、かつては存在していたもの、そしてすでに久しい過去に失われたもの、失われつつあるものが、ここには、確かに命を持って息づいているからかもしれません。物資の豊富さ、生活の便利さにおいては、何歩かリードしているつもりの現代日本のあり方と、人間の生活としてどちらが豊かか、考え込まずにいられません。
「このあたりも、田圃がどんどん減って、宅地に変わってきています。特にこの七年ほどは、開発が急速に進みました。このあたりの農地も、いずれ姿を消すでしょう。」
 空港周辺の農村風景を示しながら語るベトさんの言葉が、複雑な思いを誘います。
こちららのリンクから写真画像をご覧ください。
ハノイの中心部タンロン地区へ
 ベトナム最初の長期政権=リ(李)朝をひらいたリ・タイ・ト(李太祖)は、都のホアルウを出て故郷を訪問する途中、トンビン地区のダイラ(大羅)から黄金の龍が立ち上る姿を見たので、1010年、そこに都をおき、「タンロン(昇竜)」と名付けたと言います。このリ(李)朝のあと、チャン(陳)朝、レ(黎)朝と続く期間、宋、元、明、清の歴代中国からの侵略と対抗しながら、独立を保ったベトナムは、この地タンロンに首都をおいたのでした。
 レ朝衰退後、北部チン(鄭)氏と南部グェン(阮)氏の対立時代が200年も続き、ベトナムは荒廃しますが、1802年グェン・フック・アイン(阮福映)が全国を統一してグェン王朝を建て、国号を「ヴィェトナム(越南)」と定めます。この時、都をタンロンから中部のファスアン(現在のフエ)に移すとともに、807年続いたタンロンの王城は解体され、王都は放棄されます。さらに、二代ミンマン(明命)帝が「タンロン」の呼称を禁じ、一地方都市として「ハノイ」(河内)と呼ばせたのが、今日の「ハノイ」の名の起こりです。
 1888年10月、ドン・カイン(同慶)帝は、ハノイをフランスに割譲。フランス勢力の支配下で、わずかに残されていたベトナムの古都の面影は破壊され、フランス植民地色の濃い街へと変貌したのです。
 次の引用は、小倉貞男「ヴェトナム 歴史の旅」(朝日選書)の一節です。
負け惜しみ的に言えば、ハノイには高層ビルはない。ハノイの森を突き抜ける不細工なビルはない。これはフランス植民地時代にフランス・インドシナ総督府が高層ビルを建設することを禁じたからである。最近、一、二の外国資本のホテルが高い建築物を建てたが、無粋甚だしく、評判は悪い。むかしは、街路樹の梢以上には建築物は姿を見せなかった。「サイゴンを見なさい。アメリカが入ってきて、あんなに沢山高層ビルを建ててしまって---」とハノイ人は口を歪めるのである。悪いことは何ごともアメリカのせいである。
 
 「アジアじゃないね。これは、ヨーロッパそのものですね。」ヨーロッパ行きの経験豊かな、同行の諸氏が、口々に指摘されるとおり、首都ハノイのたたずまいは、煉瓦造りの建物、キュービックな家並み、街路の景観など、確かにヨーロッパの古都の風格を思わせるものでした。そして、その印象のもう一つの原因要素は、コンクリート造りの高層建築がない、ということだったかも知れません。アメリカの影響の最大の同調者=日本の、さらには、たまたま往路に見た韓国の、高層ビルが林立する、何とも居心地悪い光景を思うにつけても、文化の質とレベルの問題について、考えさせられます。
 かつてタンロン(昇竜)城と呼ばれた区画は、前述のようないきさつで、グエン朝、フランス植民地時代を経て、城の面影は失われていますが、現在は、城を守って死んだ二人の英雄の名を取ってグェン・チ・フォン、ホアン・ズュウの名で呼ばれる大通りとなってます。その西に、ベトナム共産党本部、国会議事堂、外務省などの重要機関が立ち並ぶバディン広場が開け、広場の正面に、ホ-チミン廟が見えます。
 ホーチミン廟は、入場時刻が午前11時までと制限されている関係で、建物の外側から見学するにとどまりましたが、広々とした厳粛な空気に包まれた廟の中には、ベトナム革命の指導者ホーチミンの遺体が、静かに眠っているといいます。小倉貞男『ヴェトナム 歴史の旅』(朝日選書)には、こう紹介されています。
「ホ・チ・ミンは米国との戦いが頂点に達していた1969年9月2日、この世を去った。三通の遺書を残していた。ホ・チ・ミンは遺書の中で、こう訴えている。
戦争で負傷兵となったもの、殉職したものの父母、妻子で困っているものに生計の道を立てられるようにして、彼らが飢えたり、凍えるままに放置してはならない。
戦争に勝ったら、農業税を一年間免除すること。
遺体を火葬にして、遺灰を三つに分け、北部、中部、南部の人たちのために、それぞれの地域の丘陵に埋めて欲しい。丘陵には、石碑、銅像を建てず、訪問した人たちが休むことができるような建物、記念に植樹ができるようにしてもらいたい。日がたてば、森林となるだろう。」
「眠っているようだが、いまにもすっとたちあがることができるような、生命が宿っているようだ。正直に言うと、彼の遺言通りに、静かに眠らせたいと思う。聞けばソ連の遺体処理専門家が遺体の処理をしたという。ヴェトナム人の気持ちには合わない。」
ヴェトナム歴史の旅 (朝日選書)

ヴェトナム歴史の旅 (朝日選書)

  • 作者: 小倉 貞男
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2023/08/23
  • メディア: 単行本
 ハノイでの我々のガイド、ヴェトさんは、「ベトナム人は、ホ-チミン主席をホーおじさんと呼んで敬愛しています。この廟に来れば、いつでも会いたいときにホーおじさんに会えます。」と、きまじめに言いいます。本心はどうか、聞いてみたい気もしました。
 ホーチミンが、気さくで気取らない指導者であったことは、様々な立場の人々が異口同音に語っています。チャールズ・フェン著「ホー・チ・ミン伝」(岩波新書)の一節。
ホーチミンの性格には他にも何ものかがあって、他のいかなる最高の政治家にも、(より人間的と見られる二人だけをあげるが)ガンディやネルーにさえ認めがたいものである。それは孔子が「恕」と呼んだものである。正確にそれに対応する言葉は、英語にはない。しいて近い言葉を挙げれば、人間はみな兄弟であると自覚している二人の人間の間のあの反応という意味での”相互関係”である。ホーの本能は頭脳からというよりはむしろ、こころから発するものだったように見える」
「ベルナール・ファルが提起しているように、『ホーはいつも親しく、いつも近づきやすく、いつも本当のおじさんだった。これを毛沢東、または周恩来さえもが持っていたよそよそしさや厳しさと比較すべきである』」(Ⅳマルクスレーニン主義者)
「1967年正月のよく晴れわたったある朝、私たち12人(日、米、仏、オーストラリア人)はホ-・チ・ミン主席とファン・ヴァン・ドン首相に会見するために、ハノイの大統領官邸を訪れた。(中略)私たちが首相と話し合っていると、いまはいって来た正面玄関とは反対の廊下からホー主席があらわれる。みんな一斉に立ち上がって拍手。白人の何人かが近寄って握手しようとすると、ホー主席は笑いながら出された手を払いのけるようにして、皆さんまずお座りなさいという身振りをする。みんなが座るのを見とどけてから、ホーおじさんは立ちあがり、ポケットから名刺大の紙を取り出して、それを見ながら例のユーモアたっぷりに、『ただいまから点呼をやります、名前を呼ばれた人は手をあげて返事をしてください。』という。(中略)みんなが笑う中で、ホーおじさんの”点呼”に『ウィ』『はい』『イエス』の各国語が飛びかう。それが一段落つくと、ホー主席は開口一番、『皆さん、ベトナムへ来て、よく食べていますか、よく眠れますか。よく食べて、よく眠らなければ、良い仕事はできません。』と言う。ホーおじさんの口癖である。」(訳者解説)
ホー・チ・ミン伝 下 (岩波新書 青版 899)

ホー・チ・ミン伝 下 (岩波新書 青版 899)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1974/07/22
  • メディア: 新書
 昨夜見たサイゴンの、カオスに満ちた雑踏とはうってかわって、ホーチミン廟前の広場は、チリひとつない清潔さで、観光客以外には人通りも少なく、深閑として静寂そのもの。周囲を警護する衛兵も、ひときわ厳粛な緊張感を漂わせています。
 「ここで記念写真を写しましょう」というベトさんのすすめで、広場の中ほどの高いポールに掲げられた色鮮やかな国旗を背景に、整列していただき、しゃがんでカメラのファインダ-をのぞき込んでいますと、なにやら衛兵がとがめている模様。ヴェトさんによれば、ここは厳粛な場所なので、しゃがみ込んでお尻を廟に向けるのは不作法ということらしい。厚顔無恥な遊山客を演じてしまった気恥ずかしさとともに、気のせいか「気さくなホーおじさん」とのズレを、どこかに感じたような気がして、一抹の後味悪さを覚えたことでした。
 ホーチミン廟の壁面には、赤い文字でスローガンらしき言葉が掲げられてありました。ヴェトさんの解説によれば、「ベトナム社会主義国家万歳」「ホーチミンは永遠である」の二つの言葉だといいます。
 
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 「それでは皆さん、一緒に発音してみましょう」と、ヴェトさんの先導で、二度三度、みんなで発声してみます。「万歳」のところでは、拳を高く振り上げるアクション付きです。ベトナム語は17の子音に11の母音が組み合わさる上に、6つもの声調(中国語の4声調でさえ難儀ですのに)が区別されるので、私などにはとうてい覚えられません。ただ、ヴェトさんのあとについて真似て発声していますと、なにやら分かったような気になります。特に「万歳」などは、もともと漢語由来ですので、気のせいか、なじみ深くも感じます。
 観光客らしい西洋人のグループが、私たちの一行の様子を、怪訝そうな面もちで窺っています。聞くと、イタリア人のグループで、私たちを、ベトナム人でもなさそうだが、なにやらスローガンを叫んで拳を上げている変な東洋人と、訝しんだようでした。
一柱寺(ディエンフ)・文廟(バンミョウ)
 李朝・陳朝の434年間は、中国の侵略を受けながらも、ベトナム独自の国づくりを進めた王朝であり、愛着を込めて「リ・チャン時代」と呼ばれます。その、リ(李)朝時代に建立された仏教寺院が一柱寺です。
 仏教、道教、儒教は国家として同じ目的に奉仕するとして、儒教の文廟、道教のビックカウ寺と並んで建立されたとされます。池の中に、蓮の花を模して、本堂が一本の柱で支えられています。
 説明を聞かなければ見逃してしまいそうな、こぢんまりとした地味な「スポット」です。 文廟は孔子廟であり、1070年、リ(李)朝により、建立されたもの。1075年、リ・ニャン・トン(李仁宗)は皇太子、王子たち皇族の子弟を修学させるため、同じ場所に修学塾を設立、一年後には宮廷官僚の子弟にも開放して、国子監と称しました。
 これは後に、地方試験に合格した優秀な学生にも門戸を開き、官僚育成の為の教育機関となりました。リ・ニャン・トンは、1185年、入学許可年齢を15歳以上と定めましたが、年齢の上限はなく、白髪の老学生も大勢いたといいます。
 中庭には、亀の背に乗った2メートル近い高さの石碑が建ち並んでいます。ベトナム中興の祖と言われるレ・タイン・トン(黎聖宗)の時代に、科挙試験合格者の栄誉を称えるために建立されたもので、82基の石碑に進士(科挙試験合格者)の氏名と出身地が刻まれています。
 科挙試験には、次の各段階があったといいます。
 ①「郷試」。3年ごとに行われた地方試験で、最初は四書五経からの出題により、漢字の知識が問われる。三回に及ぶ試験に合格すると、「挙人」または「秀才」の資格が与えられ、挙人の資格を得た者だけが上位試験の受験資格を与えられる。
 ②「会試」郷試の翌年に実施され、天子が主催する中央試験。郷試に合格した受験者は、家族・村人の励ましと期待を受けて、筆、硯、ござ、炊事用具、米などを持って、タンロンまで上京してくる。宿泊施設と試験場は、柵で囲まれ、周囲に濠が巡らされて、外部との接触が断たれている。受験者が試験場に入ると、門は閉ざされ鍵がかけられ、一度策をくぐると試験が終わるまで外部に出ることはできい。皇帝から任命された試験官も、兵士によってガードされ、外部との接触を断たれた。四書、五経、春秋左氏伝に基づく問題、皇帝の身になって国家の問題を論ずる、七言絶句や散文を創る、国が直面する政策課題について答える、などの四段階の試験に合格すると「進士」の称号が与えられる。受験者のうち、進士に合格した者の倍率は、平均して61名に3名だという。
 ③皇帝自ら口頭試問を行う「廷試」。皇帝のめがねにかなった者3人に最高位(タムコイ)の称号が贈られ、上位から順にチャングエン、バンニャン、タムホアと呼ばれた。(小倉貞男『ヴェトナム 歴史の旅』p60~参照)
 往時は、全国から訪れた学生・受験生でにぎわったであろう文廟・国士監は、折からの小雨に煙り、静寂そのもののたたずまいを今に残していました。  
                       
 
焼き物の町バッチャン
 その日の午後は、ハノイの中心から紅河を渡って対岸にある、焼き物の町バッチャンを見学。バッチャン焼きは、中国の影響をベトナム風に消化・独自化したもので、青磁系の素朴な焼き物が主。古くは13~14世紀から、日本への輸出も行われ、茶人には知られていたと言います。
 旅行前の事前学習会で、日ベト協会の高橋さんが話して下さったとおり、素朴だが味わいのある多彩な焼き物が、安価で販売されており、何よりも、品物を詰めてくれる手編みの手芸袋が、チャーミングでゆかしいので、「ワンモア」とねだったら、売り子のお嬢さんは、にっこり笑って「ツーモア」と言いながら、余分に二つつけてくれました。
 往路・帰路の車窓の風景は、田園あり、水郷あり、煉瓦工場、石炭地帯ありで、見飽きることがありません。雨ににじんだ田園風景の中、ただひたすら一直線に延びる鉄道線路を、ヘッドライトを煌々と照らした列車が、郷愁を帯びて走ります。一瞬かいま見える家屋の周辺や路地裏にも、牛がいて、鶏がいて、子どもたちがいて、老人がいて、隣人同士の語らいがあるようです。
 車窓からの風景だけで、何本ものフィルムを費やしたのは、私だけでもなかったようです。
   
 その夜の ホテルは、ソフィテルプラザ・ハノイ。
 帰国後、インタネットで検索してみますと、「世界の特徴あるホテル」の一つとして紹介してありました。そのコピーをご紹介しましょう。
20階建ての巨大な高級ホテル”ハノイ・ソフィテルプラザ”は、チェック・バック湖とホン川の間に位置し、さらにハノイで最も美しいといわれる西湖をのぞむことができる抜群のロケーションにあります。集客数はハノイでもトップクラスで、各国のVIPが滞在することからもセキュリティーの高さがうかがえます。東南アジア初という開閉自在の屋根付きプールなど施設も充実しており、最高のホテルライフを満喫できることまちがいなしです!
 この宣伝文句が、決して誇大とは思えない、シックで落ち着いたホテルでした。何よりも窓から望める湖畔の光景は、見飽きることがありません。
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 「あの湖は、レマン湖だったっけ」。口々にこんな会話が弾む、ヨーロッパのリゾート地さながら(といっても、私は行ったことも見たこともありませんが)の眺望です。自然の景観がそうであるだけでなく、緑に囲まれた煉瓦造りの建物、また所々に高くそびえる教会風の尖塔が、深い年輪を経てしっくりと風景になじんでいる様は、絵画か映画の一シーンのように、私たちの目をいやしてくれます。
 心残りだったのは、ホテル滞在時間がいかにも短くて、日が落ちてからの夕景、夜景(これは十分見事でしたが)と、翌朝の朝方の一定時間をしか楽しむことができなかったことです。ホテル近辺を散策するいとまもなく、結局私のフイルムには、露光不足の夜景とピンぼけの早朝の景色が残っただけでした。
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つづく
 

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20年前のベトナム訪問記(7)  [木下透の作品]

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4.三日目のベトナム
サイゴンを発つ
 8月9日は早朝にホテルをチェックアウトして、タンソンニャット空港発8時の南太平洋航空機で首都ハノイに向かいます。
 早朝のサイゴンは、日中の喧噪とはうってかわって、静寂そのもの。明るく深い透明感に輝く(神々しいなどという言葉を思いついてしまいました)朝日を浴びて、ゆったりとした朝のひとときを、三々五々思い思いに過ごす市民の姿が、ホテルの窓からかいま見えて、心が和む思いがしました。
 ホテルの目の前が、大きな公園で、緑も深いのです。ある人たちは、ジョギングに汗を流し、またある人たちは、太極拳らしきゆっくりとした動きで心身をほぐし、また、またある人たちは、長い棒を手に、武道の稽古か身体の鍛錬に励んでいます。乳母車の母子、ベンチに憩う老夫婦などが、点景となって、「平和」そのものの風景画が、目を飽きさせません。大通りでは、シクロ(人力自転車)引きの大男が、しきりにホテル内の私たちに愛想を振りまき、目配せを送ってきています。
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 もう少しゆっくりと、日常の一こまに触れていたい思いがつきませんが、せかされるようにバスで空港へ。ゴァンさん、ハンさんとも、ここでお別れ。旅先の出会いの常ですが、名残惜しい思いが拭えません。
ハノイヘ
 首都ハノイ。サイゴン以上に、果てしなく遠く隔たった地、という印象の強い都市でした。学生時代、私たちが取り組んだ、何次かにわたる「ベトナム人民支援」カンパは、子どもたちへの粉ミルクや、北爆によって破壊された病院への医療機器となって、ベトナムの人々を助け励ます一端を担ったはずですが、しかし、その支援物資の一部は、運搬中の船がアメリカの爆撃にさらされて、結局ハノイには届かなかったとも聞きました。遠く隔てられた地、ハノイ。
 松本清張はエッセイ「ハノイで見たこと」の冒頭をこう書き出しています。
松本清張全集 (34) 半生の記,ハノイで見たこと,エッセイより

松本清張全集 (34) 半生の記,ハノイで見たこと,エッセイより

  • 作者: 松本 清張
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1974/02/20
  • メディア: 単行本
三月十九日午後五時、私と朝日新聞の森本哲朗君とはICC(インドシナ国際休戦監視委員会の連絡用飛行機)の座席に座った。ベルトを締めたものの、互いに顔を見合わせた。ビエンチャン空港の東の空は厚い雲に閉ざされている。これまでこの空港からだけでも四回この古い四発のストラトライナー機に乗ったのだが、その都度、ハノイの天候が悪いというので飛べなかった。一度などは、ラオスと北ベトナムの国境にあるアンナン山脈の上に出ながら引き返したものである。(中略)
五時半、とにかく、機はビエンチャンの空港を離陸した。とにかくというのは、飛び立っても目的地に行かないことがたびたびだったからだ。コントロールタワーのラジオ・ビーコンが故障するという珍事でも分かるように、この空港は日本のローカル線なみである。その代わりラオス空軍機がいかめしく並んでいる。
飛び立った飛行機は同じ空を旋回するばかりで容易に舞え西住まなかった。蛇行しているメコン河に夕日が映え、河畔のビエンチャンの細長い町も上から眺めるとなかなか風情があるが、その風景が窓から繰り返し回ってくる。機は狭い範囲の空を渦巻きながら、直昇しているのである。
これには理由があって、ある人の話では、山岳地帯上に入ると、ときどきパテト・ラオ軍が射撃するので、それを避けるためにという。米機やラオス政府軍機に爆撃されている彼らは、雲の上の爆音を聞けば何でも撃つのだそうである。(中略)
夜になった空に、翼の右についた青ランプ、左についた赤ランプの光がさえた。この標識が国際休戦監視委員会で決まった「曜日・時刻・コース」などと友に連絡機であることを北ベトナム軍とアメリカ軍の双方に確認させているのである。戦争する当事国の間を細々とつなぐ一本の平和の糸の上をいま、われわれを乗せたICC機は頼りなげに滑っている。戦争に対してジュネーブ協定の無力さを表徴しているような小さな、旧式の飛行機だった。
 この機が必ずしも安全でないことは、数箇月前アメリカの爆撃機がICC機の後ろからハノイに忍び込もうとして危うくICC機まで撃ち落とされそうになったことでもわかる。また、いま乗っている四十過ぎのスチュワーデスの夫はICC機のパイロットだったが、数年前この国境地帯で消息を絶った霧で、撃墜されたか故障によるものかいまだに真相は不明だという。(中略)
七時二十分、窓の下に都市の灯が見えてきた。ついにハノイにきた。紅河らしい黒い帯のふちを車のヘッドライトが一列に進んでいる。家々にも灯がついている。予想に反して灯火管制は行われていない。機はそれらの風景を窓に繰り広げながら舞い降りる。車輪が地に着く軽いショックは、ハノイにきたという全身の手応えであった。
 私たちの南太平洋航空BL792便は、清張氏の乗った四十人乗りオンボロICC機と比べれば格段にましな旅客機ではありますが、きわめて窮屈で旧式、気流の影響をモロに受ける大揺れ飛行に加えて、荷物棚から水漏れがする(冷房装置の影響か?)始末。でも、スチュワーデス嬢も慣れたもので、手早く水を拭き取って、タオルを巻き付けて緊急処置終わり。何度か、肝が冷える思いを経験しましたが、二時間ほどで、無事ハノイに到着。当然のこととはいえ、日本人を含む外国人観光客が、自由に出入りできる都市になっていることは、清張「ハノイで見たこと」の記述を思い返しても、感慨深いことです。
いま、世界の焦点となっているハノイには入国の申し込みが世界中のジャーナリストや作家から殺到し、ハノイの係官の机の上には、以来の手紙や電報がいつも三十センチ以上の高さに積まれているということだった。そのことは一九六六年のクリスマスにハノイにはいったニューヨーク・タイムスのハリソン・ソールズベリ記者も書いている。ソールズベリは、北ベトナム政府に対して執拗にハノイ入りを手紙や電報で頼み続けていたが、クリスマスの近いある日、ついにハノイから一通の招待電報を受け取る。彼はその電報を机の上に置き、タイムスの外報部長と、これがそうでしょうかね、と半信半疑で眺めたものだった。それほど資本主義国からのハノイ入りは困難なのである。
サイゴンからハノイの写真をこちらのリンクに掲載しています。ご覧ください。

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20年前のベトナム訪問記(6) [木下透の作品]

現在、新ブログ「ナードサークの四季vol.2」 をメインブログとして更新していますが、こちらの初代ブログも、時々更新しないと、希望しない広告がふんだんに表示されます(PC版の場合です。スマホ版は常に広告が表示されているらしい)ので、それを避けるため、時折更新を続けています。

20年ほど前に体験したベトナム訪問旅行での撮影写真と、記録文をもとに、当時作っていたプライベートホームページのdataから、少しずつ小分けにして.再掲しています。今回は(その6)です


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 3.二日目のベトナム(3)

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一枚の写真にちなんで
 展示写真の一枚、若い米軍兵士が、爆薬で引きちぎれたベトナム青年の死骸(の一部)を、狩猟の獲物か何かのように片手にぶら下げて、ニヤリと笑みを浮かべている写真の前で、別のグループの日本人観光客を案内してきた年輩のベトナム人ガイドさんが、声を固くして説明しているのが聞こえてきました。

 「これを見てください。人間の遺体を手にして、笑っているんですよ。なんということでしょう。相手を人間だと思ったらこんなことはできるはずがありません。」何度も何度も、観光客を案内してきたはずですが、この写真の前ではいつも、憤懣やるかたない思いにかられるのでしょうか。あたかも自分が叱られたかのように、身を縮めながら、写真を正視できずにいる私でした。

 

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この写真を目にして、私はふっと、かすかな記憶をたどっていました。たしか、この写真を題材に、学級通信の記事に扱ったことがあったはずだが...。
 帰国後、古い資料を探ってみましたら、ありました。たしか、私が20代後半の頃の担任通信で、その号は、B4サイズに、文字ばかりぎっしり3枚にわたって書き連ねています。今思えば、新聞づくりのセオリーも、読者生徒の気分感情も全く無視して、こちらの思いの一方的な押しつけに終始した恥ずかしい代物ですが、「笑いについての考察」との題して、論じています。
 小見出しだけご紹介します。---「一 はじめに」、「二 笑いへのぼくの態度」、「三 落語の笑い そのⅠ」、「四 落語の笑い そのⅡ」、「五 ついでに」、「六 『裸の王様』の笑い」、「七 人間的笑いの一般的性格」、「八 退廃の笑い」、「九 再び寄席について」、「十 ふたたび映画について」、「十一 おわりに」---何という長大論文でしょう。
 きっかけは、灰谷健次郎の「太陽の子(てだのふぁ)」が映画化されたのを、民教(懐かしい!)の一環として、生徒全員で鑑賞したのですが、沖縄戦の深い傷跡を描いたシリアスなこの劇映画の、ある場面で、生徒の異様な忍び笑いの声が広がって、鑑賞の妨げとなったということがありました。

 

太陽の子 (角川文庫)

太陽の子 (角川文庫)

  • 作者: 灰谷 健次郎
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 1998/06/23
  • メディア: 文庫
 今思えば、単純に、登場者の演技のしぐさや効果音にたいする、本題とはかけ離れた次元での幼い反応であったに過ぎず、今の生徒たちに比べるとまだましな、真摯な鑑賞態度だったかもしれないのですが、当時の私は、そこに横たわる感性のズレに、ある種の危機感を感じたのだったと思います。そして、おそらく、その直感が、今日の時点から顧みて、さほど的はずれではなかったのではないかと思えるのは、残念なことです。 
 さて、その担任通信の一節で、私はこんなことを書いていました。
七 人間的笑いの一般的性格
歴史上のあらゆる独裁者が、庶民の笑いを恐れたのは、笑いの持つ批判力のためである。そしてまた、人間的健全さこそは、独裁を根本から揺るがす要因であることを知り抜いているからである。
「国家の大事の時に、笑っている場合か!歯を食いしばれ!」という声が、ファシストたちのお得意のカケ声であったことを、思い出してくれればよろしい。
だから、ぼくは、オカシイ時に笑えないような事態を恐れるし、涙と同等の価値を笑いに認めるのである。
八 退廃の笑い
いや、だが待てよ。健康で人間的な感情の表出としての笑いとは、正反対の極に位置する笑いもあるような気がする。
ベトナム戦争の写真を見ろ。射殺したベトナム農民のムクロを、狩りのエモノか何かのように、逆さにぶら下げて、記念写真もどきにポーズを取るアメリカ人がいたではないか。その口元には、ニタリと「快心」の笑みが浮かんでいたではないか。
鼻歌交じりか何かで、人々をガス室に送り込み、悶え苦しむ幾万の市民に「うるさい虫けらどもめ」と嘲笑を吐きかけるナチスの青年がいたではないか。
 昨今のニュースをにぎわす少年たちの集団リンチはどうだ。すでに失神して倒れている相手に、絶え間のない足蹴を加える少年たちは、小動物をもてあそぶ幼児の嗜虐的な笑いを浮かべているとか---。
いや、それは、特別な例だ、特異な環境のなせるわざだ---?そうなら幸いだが。
だが、ぼくには、その種の非人間的な病的な笑いが、ぼくらの身の回りにまで忍び寄っているように思えてならない。
九 再び寄席について
今、空前のマンザイブームだという。うっとうしいことの多すぎる現代。大いに笑いが求められていることの表れかもしれない。そして、期待通りに、心休まり、心なごむ笑いを提供してくれる芸に巡りあう機会も決してマレではない。
しかし同時に、下卑て、クダラなくて、しかも押しつけがましくて、後味の悪い「笑い」もハンランしている。(中略)
容姿の美醜をあたかも人格そのものであるかのように取り沙汰して、笑いの題材とするネタ。学校格差や学力差を、そのまま肯定しつつ、それを人格的優劣に結びつけて取り扱う笑い。老人をやっかいもの扱いする笑い。社会道義上の無軌道を、あたかも英雄視し、市民常識を笑い飛ばす笑い---。
この調子で行けば、今に、身障者や社会的弱者、他民族をも嘲笑のタネにしかねまじき状況ではないか。
いや、それは、寄席の場だけの笑いであって、実生活ではいたわりの心を保ち得ると言うのかもしれない。だが、人間をさげすむところに立脚する笑いの感覚は、無自覚であると否とを問わず、人の痛みへの鈍感さ、人間の価値への歪(いびつ)な感覚(センス)を肥やさずにはいないだろう。それは人の痛みを共感し、人の喜びを喜ぶ感覚とは、和解しがたく対立する感覚であるはずだ。その二つが、一人の人間のなかで、自在に使い分けられようはずがないではないか。
現国授業の続きではないが、我々は、センスを研ぎ澄まさねばなるまい。何に怒り、何に悲しみ、何に心を寄せ、何に喜びを見いだし、そして何に笑みを誘われるのか。お仕着せのそれではなく、自前の(すなわち不断の自己洞察の上に築かれる)、良き感覚を、磨かねばなるまい。
 
戦場―二人のピュリツァー賞カメラマン

戦場―二人のピュリツァー賞カメラマン

  • 出版社/メーカー: 共同通信社
  • 発売日: 2002/03/01
  • メディア: 大型本
泥まみれの死 沢田教一ベトナム写真集 (講談社文庫)

泥まみれの死 沢田教一ベトナム写真集 (講談社文庫)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/09/13
  • メディア: Kindle版
日本人カメラマンによる写真も、印象深く展示されていました。
統一会堂(トンニャット宮殿)
 続いて訪れた統一会堂は、旧サイゴン政権時代の大統領官邸。
 1868~70年にフランス人ラーグランディエール南部司令官が、インドシナ統治の宮殿として建設したノロドム宮殿が元の建物で、1954年南ベトナム「サイゴン政権」のゴ・ジンジェム大統領とその家族が住み、政府の執務もここで執りました。1963年2月に空爆でダメージを受けたのを機会に全面的に建てかえられ、いまの姿に。
 1975年4月、解放軍の戦車が、この官邸に無血入城を果たし、ベトナム戦争終結のシンボルとなりました。青と赤の地に鮮やかな星が輝く民族戦線の旗をなびかせて入城する戦車の映像が、鮮やかに記憶によみがえります。屋上には、全面敗北を悟ったグエン・バンチュ-大統領がタイに逃げ出したヘリポートがそのまま残され、あの日の歴史的瞬間のままにいまもヘリコプターが展示されています。
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 ガイドのゴァンさんは、開明的でドライな現実感覚を持つ人のように見受けられます。ドイモイ政策には、好意的であることははっきり感じ取れますが、サイゴン陥落、アメリカ撤退、南北統一から社会主義化へと進む、ベトナム戦争後の歴史の歩みには、市井の一人の若者(と言っても、有能なエリートに属するのかも知れませんが)として、どのような評価・感情を持っているのか、正直のところを聞いてみたい気もしていました。少なくとも、旧サイゴン政権を、「アメリカの操り人形の政府」ときっぱり断言する口調には、営業上の公式的な口上ではない、現代ベトナム市民の歴史の審判を経たコモンセンス(共通教養)に立つ感情が読みとれたように思えました。

 

 
歴史博物館
 約30万年前といわれる原始時代から、フン王建国期、民族独立のための闘争期(1~10世紀)、リ朝(11~13世紀)、チャン朝(13~14世紀)、レ朝(15~17世紀)、タイソン朝(18~19世紀)、グェン朝(19~20世紀初)の記念物が時代順に展示されています。
 先史時代の遺物は、この地が地球上でも有数の、人類史発祥の地であることを改めて教えてくれますし、バクダン川の木杭(クアンニン省)も侵略に対する抵抗と独立への堅い意志と気概の伝統を示す象徴として、よく知られています。
 ベトナム人の抵抗のおかげで、日本への元寇が失敗したのだと誇らしげに語るガイドが、その後で照れくさそうに「ホーおじさんは謙虚でなければと教えているが」と付け加えるというエピソードが、ふと思い出されます(松本清張「ハノイで見たこと」)。
 
ドンコイ通り、ベンタン市場見学
 サイゴン大教会、中央郵便局などフランス風の重厚な建物を瞥見したあと、暮れなずむサイゴンの激しくエネルギッシュな活気ににぎわう市街と、市場(生活物資の供給市場)を駆け足で(文字通り駆け足で)見学。時間にせかされたという一面もありますが、各種の旅行案内やガイドさんからの情報に、観光客相手のスリも出没し、治安はよくないとの警告・アドバイスがしきりにあるので、よけいに兢々として、じっくり人々と交流したり風情を楽しんだりという気持ちのゆとりを持てなかった点は残念でした。
 ただ、夕刻の雑踏の中とはいえ、日本の商店街のわびしく閑散とした沈滞ぶりと引き比べて、カオスとも形容したい人の波波波--には、圧倒される思いです。「この勢いで攻められては、アメリカは勝てっこないゾ」と、妙に納得してしまいそうな勢い。このたくましさは、天性のものか?ドイモイ政策のもたらしたものか?それとも、生存への意欲のボルテージの違いか?
写真は、こちらのリンクをご覧ください。
 ただ、のどに刺さる小骨のように、後味悪く心に残るのは、日本人観光客と見てか、我々の後をどこまでもまとわりつく物売りの少年少女たち。いや、幼児と言っていい子どもたちの姿です。あるものは天秤棒に担いだ果物を、あるものは使用済み切手のセットを、またあるものは民芸細工らしき土産物を、またあるものは小さな紅葉の手に握りしめたガム風の菓子を、てんでに私たちの鼻先に突きつけて、断っても断っても着いてくるのです。
 わずか1~2ドルの代価を得れば彼らは満足するのでしょうが、「物売り」と見えながら決して正当な商取引とはいえない、「物乞い」に子どもたちが競うように駆り立てられていることが、心をふさがせるのです。
 「物乞い」に施しものをする傲慢が耐えられないので、できるだけ傷つけずにお引き取り願いたくて、あやしたり、頭をなでたり、愛想笑いを伴ってバイバイをしてみせたり、疲労困憊の私の意思はとうとう伝わらず、よほど長い時間つきまとった果てに、最後はふてたように「ぷん」と顔を背けて立ち去っていく子どもたちには、学齢にも満たない幼児も混じっています。

 戦後日本の路上の靴磨き少年、あるいは花売りの少女、はたまた、「ギブミーチョコレート」を口々に唱えながら、進駐軍のジープに、争って痩せた手を差し出したかつての子どもたち(私たちよりわずかに年上の世代でしょう)の像と、なぜかダブって、痛ましさを禁じ得ません。誇りもモラルも崩れ落ちた敗戦日本の混乱状況ではなく、「日本、フランス、アメリカの三つの帝国主義を追い払った一小国という名誉」を誇りうるベトナムで、その未来を継ぐ子どもたちが見せるこの状況は、「生活のため」のみでは説明されない「拝金主義の毒」を感じずにはいられないのです。しかも、子どもたちが差し出す手は、間違いなく日本人というターゲットにまっすぐ向けられています。改めて、日本および日本人の立場について、思いを致さないわけには行きません。つづく


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20年前のベトナム訪問記(5) [木下透の作品]

現在、新ブログ「ナードサークの四季vol.2」 をメインブログとして更新していますが、こちらの初代ブログも、時々更新しないと、希望しない広告がふんだんに表示されます(PC版の場合です。スマホ版は常に広告が表示されているらしい)ので、それを避けるため、時折更新を続けています。

20年ほど前に体験したベトナム訪問旅行での撮影写真と、記録文をもとに、当時作っていたプライベートホームページのdataから、少しずつ小分けにして.再掲しています。今回は(その5)です


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3.二日目のベトナム (2)

クチ地下トンネル
 この日の午前中の主な見学先は、ベトナム戦争当時、解放戦線の拠点が置かれたクチ地方の地下トンネル・歴史遺跡地区。サイゴンの中心部をやや離れ、水田や水牛の姿も見える農村部を経て、ゴム樹林を通過する頃、ガイドのゴァンさんは、車窓から見えるゴム林をはじめ周囲の樹林が痩せて貧相なことを指摘します。すなわち、悪名高い枯葉剤投下の影響が、いまも残る場所だというのです。解放戦線がひそんでいるとして、焼き尽くし枯らし尽くそうとした、狂気の蹂躙のあとなのです。
 クチ地区には地下何層にも及ぶトンネルが蜘蛛の巣のようにはりめぐらされ、空爆や砲撃、戦車、火炎放射器による襲撃にも耐えて、守りぬかれた要塞だったのです。地下トンネルは、小柄な人がやっと通れそうな狭い出入り口、通路で結ばれているのですが、内部は複雑な構造となっていて、会議室、台所、戦闘参謀室もおかれていたそうです。
 私たちは、まず、解放戦線の抵抗ぶりや、地下トンネルでの生活ぶりを記録した当時の記録映画(ビデオ)を視聴します。ナレーションは、ちゃんと日本語です。
 その後、手作りの罠や、地雷が至る所に仕掛けてあって、米兵にとっては恐怖の難所であったに違いない森林内を見学、併せて、地下トンネルの内部もほんの一部体験してみます。それは、スコップとモッコで堀広げられた精妙なラビリンスで、「アリと象の戦争」とたとえられるこの戦争において、アリが勝利した秘密をかいま見た思いがします。
 私たちのグループのほかにも、日本からの観光客の姿が見えますし、ヨーロッパからの訪問者らしい一行も、感嘆の声を上げながら、進みます。観光客の便宜のために、一定広げられて整備されたトンネルだと言いますが、その狭さ息苦しさと圧迫感はたまりません。四六時中ここに生活しながら、恐怖と戦いつつこの陣地を守りぬいた少年、少女を含む解放戦線兵士の苦痛は、並大抵ではなかったろうと想います。わが水島の、亀島山地下壕や、ひめゆりの乙女たちをはじめ多くの少年少女が戦い生活した沖縄のあれこれの壕のことも想われて、いま、やすやすと明るい日差しのもとに立ち戻ることのできる幸福を、改めてかみしめたく思います。そして、アフガンであれイラクであれ、世界中のどの地域の若者も、永遠にこの幸せを享受できるようにと、願わずにはいられません。
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戦争証跡博物館
 続いての見学地は、戦争証跡博物館
 科学の粋を集めた近代兵器を駆使し、物量に飽かして展開された、アメリカの威信をかけた戦争のすさまじさが、実物の兵器、武器、爆弾、記録写真その他の展示物を通して実感的に伝わってきます。枯葉剤による奇形児の遺体がホルマリン漬けされて展示されているのも、痛ましく重苦しいかぎりです。
 石川文洋氏をはじめとする日本および世界の写真家・ジャーナリストたちが、命がけで記録・報道した写真や記事も、確かに見覚えのあるものを含めて数多く展示されており、改めてその衝撃的なメッセージ性に目をとらえられます。沢田教一氏や一ノ瀬泰造氏など、戦場で行方を絶った日本人カメラマンたちの遺作も多く展示されています。真実の報道に命を捧げた写真家・ジャーナリストの多さも、ベトナム戦争のもう一つの側面であったことを改めて思い起こします。
 また、館内には、ベトナム人民の抵抗闘争に対する、世界的な支援の運動についても実資料や写真が展示されており、日本での支援運動の模様も、相当のスペースを割いて紹介されています。その中には、ベトナム人民支援ポスターやカレンダーなど、確かに見覚えのあるもの、自身、実際に下宿の自室の壁に貼った覚えのあるものもあり、一瞬30年前にタイムスリップしたような感慨にとらわれました。そして、同時に、このベトナム戦争で、わが日本国民が、侵略の加担者としてのみではなく、平和、解放、国際連帯と人類の進歩の方向への寄与者としての栄誉ある役割を、辛うじて果たし得たことへの感謝と誇りを、改めてかみしめることができたことは、大きな喜びでした。
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 展示室のなかには、私たち外国人観光客に混じって、熱心にノートを取りながら、展示を食い入るように見つめている、白いアオザイのベトナム少女がいました。たしか、白いアオザイは、高校生の制服と聞きました。この聡明そうな少女の胸にどのような思いが去来しているかを思うと、痛ましい思いにこちらの胸がふさぎます。彼女の悲しみと心の痛みを、同時代・同世代のアジア人、いや、地球人として共感できるだけの感受性と基礎的歴史認識を、いまの日本の高校生に育ててやれているか、考えさせられました。
 過去の過ちを粉飾・糊塗する「国民の歴史」流のゆがんだ歴史認識ではなく、戦争による被害と加害の両面を直視し、あわせて、民衆の抵抗の歴史にも光を当てる歴史学習こそが、自国・自民族への誇りを真に育て、アジア諸国の人々と、真に友好的な関係を取り結んでいく基礎となるはずです。
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つづく

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20年前のベトナム訪問記(4) [木下透の作品]

現在、新ブログ「ナードサークの四季vol.2」 をメインブログとして更新していますが、こちらの初代ブログも、時々更新しないと、希望しない広告がふんだんに表示されます(PC版の場合です。スマホ版は常に広告が表示されているらしい)ので、それを避けるため、時折更新を続けています。

20年ほど前に体験したベトナム訪問旅行での撮影写真と、記録文をもとに、当時作っていたプライベートホームページのdataから、少しずつ小分けにして.再掲しています。今回は(その4)です


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3.二日目のベトナム

 翌朝午前八時ホテル発。念のために付け加えますと、ホテルは外国人向けの一流ホテル。冷房完備で肌寒いほど。朝食のバイキングのメニューも豊富、味も上々です。フランス統治のなごりか、コーヒーはとても美味。フランスパンの味も格別でした。

サイゴンの街を行く
 ホーチミン市というのは、南北ベトナムが統一され「社会主義共和国」に生まれ変わった時に、サイゴンから改名されたもの。ただ、それは公式な呼び名であって、対外的に用いるけれども、日常的にはどちらの呼称も通用しているそうです。
 いかに人々から敬愛されている「ホ-おじさん」の名前であろうと、それを歴史的な愛着ある「サイゴン」の呼称に換えて「上から」強要することは、社会主義の制度共々「北」からの押しつけというイメージがつきまとい、住民感情はいかがなものかと気になっていましたが、人々は以前通り、日常的には「サイゴン」と呼んでいるようで、それで何ら差し支えはないようでした。
 さて、貸し切りバスで移動する先は、午前中の目的地クチ。
 サイゴンでのガイドとして私たちの世話をしてくれるのは、若いが、なかなか日越の事情に通じたゴァンさん。日本語は、独学で学んだそうですが、ことわざや慣用句を含め、言葉のアヤや表現の機微に至るまで軽やかに使いこなし、思いもかけない堪能さです。日系企業関係の邦人とのつきあいも深いらしい。
 「私は、材木屋だといわれます。キが多いから。」
 「日本人の知り合いが、私に言いました。『君は、足りないものがあるから、英雄になれない』『英雄色を好む、と言うだろう。君にはそれが足りない。』わたしは、まじめですから、英雄になるための勉強をしています。」 
 この日は、少女と言ってもいい初々しさのハンさんも、「ガイド見習い」として同行してくれました。日本語教室で勉強中の彼女は、「日本語は難しいです。」「日本に行くのは私の夢です。でも、それにはお金がとても必要です。」と、明晰な日本語で語ります。  
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 バスの車窓から眺めるサイゴンは、「生き馬の目を抜く」という死語を思い出させるようなエネルギッシュな活気に満ちています。道路沿いには多彩な小商店が立ち並び、道ばたにも、果物、野菜、食品、小間物などをとりどりに積み上げた露店が、思い思いに場所を占めています。そのあちらこちらで、人だかりあり、通行人とのやりとりあり、近隣同士の語らいありで、日本のさびれた商店街を見慣れた目には、人々の豊かな交流・コミュニケーションに彩られた日常の姿が、ひどくまぶしくうらやましく感じられました。

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 そして、何といっても目につくのは、無数のバイクの波。一番人気は日本製。ホンダ、カワサキ、スズキなど。これは高価でなかなか手が出ないが、故障知らずで憧れの的。お手ごろ価格の中国製も普及している由。乗用車は普及していないので、一家に一台バイクを持つのが市民の夢。これも、ドイモイで急速にかないつつあり、今、街はバイクの洪水に---。
 足もとは、たいていサンダル、突っかけばき。雨でも降れば靴は不便なのか、靴履きの人はわずかです。ヘルメットを着けた人はほとんど見あたりません。
 政府がヘルメット着用を義務づけた法令を出したことはあったが、民衆の不評を買って、3ヶ月で撤回したそうです。ヘルメットをかぶると、周囲がよく見えないし、クラクションの音も聞こえにくく、かえって事故につながりやすいからだそうです。ただ高速道を利用するなど長距離を走る場合は着用義務あり。
 一度出した法令を、さっさと引っ込めるところなど、なかなか大らかというか柔軟ではないですか。「社会主義ベトナム」は「統制社会」とは異質の、人間くさい社会のようです。何しろ、こんなエネルギッシュな人々を、統制するなど、誰の手にもできっこないと感じられます。丁々発止、合意と納得を重ねながら、一歩一歩形を作っていくような社会づくり・国づくりが、この人たちの伝統的なやり方なのではないかなと、何となく感じられます。
 ベトナムの交通法規では、二人乗りまでは可。子どもに限り、三人乗りも可だそうです。でも、実際には、大人の三人乗り、時には四人乗りも目に付きます。人々は思い思いの格好で、バイクを走らせています。実直そうなおじさんや、颯爽とした若者や、ハイセンスなお嬢さん。多彩な人々が、それぞれかなり真剣な表情で、二人乗り、三人乗りのバイクを走らせています。
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 わずかながら交通信号もありますが、余り守られているようではありません。一番頼りになるのは、お互いのかけ声とクラクション。そういうコミュニケーションのなかで、日々の交通秩序(かなり無秩序というかカオスを感じますがね)が形成されているようです。
 隣のバイクとなじり合いをしている姿も目に付きます。後部座席に乗っているお嬢さんが、激しく隣のバイクをやりこめている様子も見て取れます。ベトナムの女性はしんが強いと言いますが、街角でもそれは感じ取れます。
 ガイドのゴァンさんも、ベトナム女性の気性について、ユーモラスに語ってくれました。そもそも、ベトナムの歴史の中で、中国の支配に立ち向かった英雄として最も名高いのはのは、漢に対する反乱を指揮したチュン・チャック、チュン・ニという姉妹。いまもハイバーチュン=チュンおばさんと敬愛されているといいます。ベトナムは儒教の影響の強い国ですから、男尊女卑の名残もまだあり、社会的・政治的表面には男が出る。その意味で形式的には、一家の柱は男だが、実権は妻が握っていて、男は頭が上がらない、、、と言います。そして、妻は、浮気を決して許さないので、日本の「阿部定」のような例はベトナムでは沢山あるともいいます。元産経新聞サイゴン駐在記者だった近藤紘一氏の「サイゴンから来た妻と娘」(文芸春秋社)を紹介して、ベトナム人妻を持つ日本人男性が「恐妻家」のネットワークをつくっているエピソードなども話してくれました。
 ベトナムの女性像に関しては、「赤旗」ハノイ特派員だった木谷八士氏の「ハノイの灯は消えず」(新日本新書)にも、こんな記述があります。
 「おとなしくて、しとやかで、つつましい」というのが、ベトナム女性の「定評」になっているようだ。欧米人の書いた北ベトナム訪問記やルポルタージュのたぐいを呼んでみると、たいていそう書いてある。私はそれにはちょっと同意しがたい。「シンが強くておしゃべりで、たくましい」というのが私の一般的印象だ。
 ベトナム女性の外観は確かに小柄で、ほっそりとしていて、動作もしなやかである。ほんとうにふとった女性はすくない。ハノイのような大都市でさえ探し出すのが難しいくらいだから、農村地帯へ行くとまずお目にかかれない。とくにおばあさんは、骨とすじ皮だけである。それがよくしなう竹の天秤棒で山盛りの荷を担いで、あぜ道をひょいひょいと調子をとりながられつを作って歩いていく。そのありさまはたくましいとしか言いようがない。
ほっそりしているから非力だとはとても言えない。(中略)-戦役の記録映画で(引用者注)-様々な年かっこうの数百人の女性が、ジャングルの細道を例の天秤棒で荷物をかついで前線に向かうシーンがあった。カメラが接近すると、荷はすべて地雷、砲弾であることがわかる。天秤棒のしない具合で、その重さがぐんとこちらの胸にくる。米軍機が飛び交う空の下、湿地のぬめりに足を取られながら、息もきらせず、前線へ前線へと殺到する女たち。試写室の外国人特派員たちは、言葉にならぬ声をいっせいにあげたものだ。
(中略)市場で、街角で、向上の休憩室でひびく女性たちのおしゃべりは、まことにすさまじい。(中略)多弁のピークは、街通りでの男相手の口論と公開の夫婦げんかである。この二年間、そうしたシーンをたびたび目撃したが、「おとこに部があって有利」という状況は一度もなかった。あれは弁舌の機関砲の連射である。この集中砲火を浴びたら、男はただ口をフガフガさせて、まわりの人々の同情心に視線で訴えるしかない。(中略)
「私は今日も銃をとる。二度と銃をとらなくてすむ日のために」
ベトナムの若い娘がよく口ずさむ民謡の一節だが、彼女たちは物心がついてから、一日たりとも「銃をとらなくてすむ日」はなかった。彼女たちの祖母、母親がじっと耐え忍び、がまんしてきたことをそのまま、当たりまえのようにうけついでくベトナム女性のシンの強さは、何代にもわたって、まるでハンマーできたえられるはがねのようにつくりあげられてきたものだ。
 ハノイに限らず、このような女性たちによってベトナムは支えられてきたのかも知れません。確かに、街角のあちらこちら、あるいは農村の細いあぜ道を、編み笠をかぶり、天秤棒を肩にした、ほっそりとたおやかなお嬢さんやおばさんが、軽やかな足取りで行き来する姿に、目が引かれます。ちなみに、植物の葉または繊維で編んだ白い編み笠は、田舎の農村女性のかぶり物だそうで、都会の人から見ると、いささかダサイ感じがするらしいですが、しかし、ベトナムの風景に本当にぴったりなじんだ服装と、旅人の私たちの目には映ります。
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 この旅の途中、救急車や事故の様子もチラリと瞥見しました。ガイドさんは、繰り返し言います。「大丈夫です、大丈夫です。ベトナム人は運転が上手です。事故はありません。大丈夫です。」「運転が下手な人は、みんな死にました。大丈夫です。」まじめな顔で、ぽろりとこぼれるブラックユーモアです。
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 私とMさんの共通の旧友で、現在サイゴンに居住しながら日本語学校の講師などをしているN女史に、わずかながら出会う機会がもてた(N女史がわれわれの通過先を訪ねてくれた)のですが、「ベトナムでは、まだまだ命が軽い。交通事故の対処なども、荒っぽい扱いを目にする。」と話してくれました。
 民衆の大らかな楽天性には好ましさを感じる一方で、「独立と自由」(の基礎)を勝ち取ったあとの時点での新たな困難、「貧しさを分かちあう社会主義」(古田元夫)を乗り越える上での諸課題について考えさせられました。
この項、写真の量が多いので、こちらの写真庫にアップしておきますので、ご覧ください。
つづく

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20年前のベトナム訪問記(3) [木下透の作品]

現在、新ブログ「ナードサークの四季vol.2」 をメインブログとして更新していますが、こちらの初代ブログも、時々更新しないと、希望しない広告がふんだんに表示されます(PC版の場合です。スマホ版は常に広告が表示されているらしい)ので、それを避けるため、時折更新を続けています。

20年ほど前に体験したベトナム訪問旅行での撮影写真と、記録文をもとに、当時作っていたプライベートホームページのdataから、少しずつ小分けにして.再掲しています。今回は(その3)です


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2.韓国からベトナムへ

韓国仁川を経由して
 8月7日正午過ぎの便。岡山空港発は魅力です。ただ、そのための制約とは言え、韓国仁川空港周辺での半日の時間調整は、正直余分でした。が、私にとっては、ベトナムも韓国もはじめての地。しかも、いずれも、平和・自由・民主主義という主題に関連して、関心を向けざるを得なかった土地でした。
 「共産主義の脅威から自由陣営をまもる」というアメリカ流の「大義」のもと、「大国とは衝突を避けて小さな社会主義国・民族解放運動を各戸撃破する」「アジア人をしてアジア人と戦わしめる」という戦略に基づいて、最大の前線基地の役目を担わされたのが日本だとすれば、実際に流血の戦場に兵士を送り込んだのが韓国でした。
 分断国家の不幸を担いながら、しかも、他民族に対する侵略戦争に全面加担していくという、二重の不幸。そして、侵略政策を強引に遂行するために、歴代軍事独裁政権が繰り返した乱暴な人権抑圧・迫害の数々。「金大中氏拉致事件」「徐勝・徐俊植氏兄弟投獄・拷問問題」「詩人金芝河の受難」など、パクチョンヒ時代の暴政の数々は、いずれも30年前のホットニュースでした。
金芝河詩集

金芝河詩集

  • 作者: 姜舜
  • 出版社/メーカー: 青木書店
  • メディア: 単行本
わが魂を解き放せ (1975年) (国民文庫―現代の教養)

わが魂を解き放せ (1975年) (国民文庫―現代の教養)

  • 出版社/メーカー: 大月書店
  • 発売日: 2023/08/18
  • メディア: 文庫
 このようなもとで、いかに人間の尊厳と矜持を守りぬけるかという自問は、「平和な日本」の青年であった私たちの、「負い目」の自覚を帯びた問いでもありました。「実際の肉体的な暴力・迫害に耐え抜く勇気は、あるいは私にはないかもしれない。しかし、そのような極限の事態が将来生じないように、いまの条件のもとで、必要な声をあげ行動するくらいの勇気は、私にもあるつもりだ」という趣旨の早乙女勝元氏の言葉(ベトナム戦争の話題か、それとも、アウシュビッツの話題か、あるいは、多喜二虐殺に象徴される戦時下の日本の話題だったでしょうか、確かには覚えていませんが)なども、当時共感的に心に刻んだものでした。
 いま、幾たびかの転変を経て韓国の軍事独裁政治は基本的に終わりを告げ、かの金大中氏が大統領に就いていることにも、昔日の感を覚えますが、この地からベトナムへの直行便が友好的に運行されていることも、また、感慨深い限りです。
 空港の、行き先掲示に、英語、ハングルのほかに、「周志明」と漢字表記がなされているのも、何か新鮮で愉快な発見でした。ホーチミン(周志明)市までは、五時間半のフライト。窮屈な旅ではありました。  

 

ホーチミン市に着く
 ホーチミン市タンソンニャット空港に着いたのは現地時間の23時(日本時間で翌8日午前1時)過ぎ。ホテル着、チェックイン終了までに約一時間。初日からなかなかハードな旅の始まりでした。
 「石炭をばはや積み果てつ。」と書き始められる『舞姫』(森鴎外)を、夏休み前、三年の現代文の授業で読んできたところです。主人公太田豊太郎が、追憶にふけりながら旅の船の客室の夜を迎えた「セイゴンの港」が、このサイゴンなのだ、と感慨は深いのですが、いかんせん夜中のこと、ゆっくりと味わういとまもないまま、その夜は同室のS先生とともに、白河夜船とあいなったのでした。
 
舞姫(新潮文庫)

舞姫(新潮文庫)

  • 作者: 川端康成
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/06/14
  • メディア: Kindle版
つづく

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20年前のベトナム訪問記(2) [木下透の作品]

現在、新ブログ「ナードサークの四季vol.2」 をメインブログとして更新していますが、こちらの初代ブログも、時々更新しないと、希望しない広告がふんだんに表示されます(PC版の場合です。スマホ版は常に広告が表示されているらしい)ので、それを避けるため、時折更新を続けています。

20年ほど前に体験したベトナム訪問旅行での撮影写真と、記録文をもとに、当時作っていたプライベートホームページのdataから、少しずつ小分けにして.再掲しています。今回は(その2)です


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1.ベトナムは「わが青春」? 第2回

また、大江健三郎は『持続する志』(文芸春秋)に収められた「政治的想像力と殺人者の想像力」と題する文章の中で、次のように述べています。
(前略)数箇月の外国滞在から帰って、いま都心のホテルに投宿している友人によれば、そのホテルにはベトナムから飛んできた米軍兵士たちと、かれらにつきまとうわれらのコ-ルガールたちが押し合いへしあいしているということだ。ベトナムのもっとも悲惨な戦争は、われらの国をすでに侵している。しかもある若い知識人がみずからベトナムにおもむいて帰ってくると、これから日本がベトナム戦争に巻き込まれる惧れがあるなどとは滑稽だ、すでに日本は大幅に戦争に参加している。そこには日本製の車や機会や雑貨のたぐいが氾濫しているのを見た、という。しかしかれは、それらの認識をつうじて、われわれの国は、戦争の現場からひきかえさねばならぬ、いますでに泥沼に踏み込んでいる足をひきずりあげて、わずかなりと乾いた土地を探さねばならぬ、というのではない。すでに巻きこまれているのだから、このままじっと巻きこまれていよう、このままどころか、これよりもっと幾重にも、巻きこまれよう、というのである。
 ここに登場する若い知識人というのは、どうも前後の脈絡から察するに、同じ戦後派作家のひとりとして大江と個人的交友もあり、当時政界への転身を取りざたされていた人物、すなわち、石原現東京都知事の若き日の姿と思われ、その後の二人の歩みを思うにつけても、感慨を禁じ得ません。
持続する志〈第2〉―全エッセイ集 (1968年)

持続する志〈第2〉―全エッセイ集 (1968年)

  • 作者: 大江 健三郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2023/08/18
  • メディア: -
持続する志 現代日本のエッセイ (講談社文芸文庫)

持続する志 現代日本のエッセイ (講談社文芸文庫)

  • 作者: 大江健三郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2014/03/20
  • メディア: Kindle版
 
日本人民に求められたもの
 ベトナム戦争にどっぷりと巻きこまれた国=日本の一員である私たちは、それではベトナム人民の運命にどう関わることができるのか。本多『戦場の村』は、ベトナムの人々の、日本人民にたいする期待についてこう述べています。
「我々は孫の代までも、一〇〇年でも戦い続ける覚悟だし、自信もありますが」と、ボンさんは強調してから言った---「しかし、同時に早く米軍が撤退して平和が来ることを心から念願しているのです。ご覧になられたように、苦しい毎日が続いています。今こうしているうちにも、アメリカはどこかで毒をまき、女子どもを殺しているのです。はっきりいって、われわれは軍事的に負けているでしょう。しかし負けません。(中略)」
すべてが不足し、苦しい生活に耐えている解放戦線のために、「役に立つものを送り届けたい」と言っている日本人もいるが、何が一番欲しいかと聞くとボンさんは次のように答えた。
「ありがたいことです。しかし私たちは、大丈夫です。やり抜く自信があります。心配しないでください。それよりも、日本人が自分の問題で、自分のためにアメリカのひどいやり方とたたかうこと、これこそ結局は何よりもベトナムのためになるのです。」
(中略)右の言葉は、決してベトナム人の例外ではない。中国に支配され、フランスの植民地になり、日本にも占領され、いまアメリカと民族戦争をしているベトナム人は、他民族というものが信用できないことを、一人ひとりが肌で知っている。ベトナム民族のことを”善意”で本気に心配してくれる他民族などはあり得ないことを。いわば民族的体験として身につけている。これは隣のカンボジアも同様であろう。いっぽう、日本人は、こうした認識の最もうすい民族に数えられよう。このようなベトナム人の目から見れば、アメリカの戦争を支持する体制の中から「小さな親切」をする人々を、全面的には信用しがたいと考えるのは、むしろ当然であろう。彼らが信用するのは、自分自身のために戦う民族なのだ。アルジェリアやキューバのような国なのだ。ベトナム人が日本の反戦運動を本当に信用するのは、日本人自身の問題---「沖縄」「安保」「北方領土」その他無数の「私たちの問題」に民族として取り組むときであろう。ベトナム反戦運動自体はむろん良いことだが、「自分自身の問題」としてとらえられていない限り、単なる免罪符に終わる。アメリカの北爆反対の前に、北爆を支持する日本政府のありかたが問題とされなければならない。(『戦場の村』第六部「解放戦線」「戦う姿勢」)
30年前の記憶の中のベトナム
 30年前、「呪わしの受験生の名」から解き放たれて、若葉マークの学生になったばかりの私は、国政の中心からははるかに隔たった地方大学ながら、70年代初頭の国内外の激動の余波から無縁ではいられず、学生自治会や学生サークルが提起するさまざまな取り組みに、こわごわ参加する毎日でした。時あたかも、「沖縄返還協定」をめぐる動きの中で、「本土の沖縄化」に反対し、「核も基地もない緑の平和な沖縄を返せ」のスローガンを掲げて、集会・デモその他の行動が展開されていました。
「黒い殺人機が今日も
 ベトナムの友を撃ちに行く
 世界を結ぶこの空を
 再びいくさで汚すまい」(「一坪たりとも渡すまい」)
の歌詞が、今も耳に響きます。もちろん
「学生の歌声に若き友よ手を伸べよ
 輝く太陽、青空を
 再び戦火で乱すな
 我らの友情は
 原爆あるも断たれず---」(「国際学連の歌」)
「筑紫野のみどりの道を進み行く十万の戦列
 赤旗は春風にはためき歌声は空にこだます
 基地板付の包囲めざし進み行く我らの戦列
 ジェット機に足奪われた松葉杖の老婆は叫ぶ
 『皆さんがんばってきっと仇をうって下さい』
 百万坪の包囲めざし進み行く我らの戦列
 飛び立てぬ百のジェット機姿隠す戦争の手先
 板付は包囲されたアメリカは包囲された
 南ベトナムへ南朝鮮へこの勝利ひびけとどろけ」(「この勝利響けとどろけ」)
などの歌も、懐かしく思い出されます。これらの歌詞が象徴するように、当時の日本人民のたたかいが、みずからの民族的課題と国際連帯の課題を結合したものであったことは、誇りを持って断言できるのです。
 そして、同時に、爆撃で破壊された北ベトナムの病院に医療機器を送る運動、ベトナムの子ども達に粉ミルクを贈る運動を、学生のなけなしの小遣い銭からのカンパ運動として取り組んだこともありました。「ベトナム人民支援」の課題は、自分自身の生き方・存在意義と深く関わった主題でした。
 その意味では、このたびのベトナム訪問について、怖じるべき後ろめたさなど、ないはずなのですが。
 
変容・幻滅への懼れ
 遠く離れていればこそ「麗しく懐かしき故郷」も、時を隔てていざ訪ねてみると、あまりの変容に落胆幻滅させられる経験には事欠きません。青春の思い出の人、憧れの人との再会もまた、同様でしょう。それへの無意識的な懼れも、あるいは、この逡巡・気後れの因となっているのかも知れません。
 遠く古代において中国からの侵略・抑圧に抗し続け、近代に至ってはフランス、日本、アメリカという三つの大国の侵略に屈せず、「独立と自由ほど尊いものはない」(ホーチミン)を合い言葉に、苦難を超えて自己犠牲的なたたかいを続けた人々。そして、アメリカが「自由世界」の威信をかけて国の総力を挙げ、第二次大戦で日本に投下された爆弾の100倍もの弾薬を投入し、核兵器以外のすべての残虐兵器を使い尽くしたと言われる長い戦争に、耐え抜いた人々。そして、ついには1975年4月サイゴン陥落・米軍全面撤退という劇的な勝利をかちとり、1976年には南北ベトナム統一の悲願を自力で成し遂げた人々。
-----わずかながらの情報から、私の中に漠然とイメージされた彼らへの印象は、不屈で誇り高く、かつ謙虚で無欲、気さくで人なつこい人々---でした。
 しかし、その後の、カンボジアのクメール・ルージュ=ポルポト政権との対立、フン・セン政権からの要請を受けてのカンボジア軍事侵攻、ポルポト派支援に立つ中国からの侵攻と反撃の戦争etc.。これらの紆余曲折に対しては、複雑な思いを抱かずにいられませんでした。また、東欧・ソ連邦崩壊という世界史的局面と呼応して、導入されたドイモイ(刷新)政策のもとで、人々の暮らしや気持ちにどのような変化・変容がもたらされているのか?気がかりでもあり、反面、真実を知ることへの怖さ・ためらいも、拭いきれなかったのです。
 
いざ参加へ
 そのような独り相撲の葛藤を経ているうちに、申し込み締め切りも迫りました。
偶然とは言え、ちょうど、そんなある時、高知で障害児学校教員をしている学生時代の友人が、自分らが企画したベトナム旅行への参加者を募りに、旅行業者を伴って岡山までやってきたのです。在岡の共通の友人Mさんと共に、数刻歓談しましたが、これもまた魅惑的な企画でした。
 ただ、旅行日程と予算の面からは、岡山版企画の方が手頃だということで、Mさんは岡山企画に参加する由。「旅は道連れ」、せっかくの機会だからと、遅ればせの参加申し込みに踏み切った次第。
 あとで、知らされた「道連れ」の方々が、これまた、旧知の方々、初対面の方々取り混ぜて、みな、同行できてうれしい方々ばかりで、旅への期待は一気に高まったのでした。
つづく

 


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20年前のベトナム訪問記(1) [木下透の作品]

現在、新ブログ「ナードサークの四季vol.2」 をメインブログとして更新していますが、こちらの初代ブログも、時々更新しないと、希望しない広告がふんだんに表示されます(PC版の場合です。スマホ版は常に広告が表示されているらしい)ので、それを避けるため、時折更新を続けています。

メインブログの最新記事(ある遺失物、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ )に、20年ほど前に体験したベトナム訪問旅行での撮影写真と、当時書いた記録文の一部を紹介しました。

その過程で、古い保存庫のなかから、当時作っていたプライベートホームページのdataを見つけ、懐かしかったので少しずつ小分けにして.再掲してみることにします(一部加除訂正あり)。


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「ベトナムへの旅」に参加して 

1.ベトナムは「わが青春」

内心のためらいと気後れ
 夏の教研の一環として「ベトナムへの旅」が企画されていると聞き、つよく心ひかれながらも、内心、どこか躊躇するものがありました。それは、漠然としてつかみ所のない、尻込みの感情でした。
 旅行中、同行の諸氏から「あなたにとってベトナムとは?」「なぜ、ベトナムへ?」と冗談めかした問いかけを受け、私は即座に、これも冗談めかして、「私の青春です」と答えてみました。「ベトナムへの旅」に心ひかれた理由の最大のものは、つまるところやはりこれだったかも知れません。
 すなわち、「過ぎ去りし青春との再会」を焦がれる思いの強さは、あたかも断ちがたい郷愁さながらに、私の気持ちを波立たせたのでした。だが、その思いの強さに比例して、躊躇・尻込みの感情も、増幅して私を挫こうと働くのでした。
 それは、あるいは、室生犀星のこの詩の心情と通うものがあったかもしれません。
   ふるさとは遠きにありて思ふもの
   そして悲しくうたふもの
   よしや
   うらぶれて異土の乞食となるとても
   帰るところにあるまじや (後略)    [小景異情ーその二] より
 心の中に美しく描かれた故郷が、しかし実際に帰郷・滞在してみると、決して自分を受容し、癒してくれる存在ではなく、思いもかけない疎外と違和を痛感させられるという経験は、私たちのしばしば味わうところです。
 
ベトナムにとっての日本
 現実の故郷であってさえそうなのですから、こちらの身勝手な思いこみに過ぎない「片想い」の場合はなおのことでしょう。
ましてや、先の大戦中、日本軍統治下において多大な餓死者を含む犠牲者を産んだ直接の侵略の歴史。またその後も、フランスの後を継いだアメリカの忠実な盟友として、戦争放棄の憲法を持ちながら、侵略戦争の最前線基地としての役割を全面的に果たした日本。そして同時に、自らの血は流さずに、ちゃっかりと軍需で大儲けし続けた日本、、、。
これらを思うとき、日本人「観光客」の訪問に対しては、外貨獲得を動機とする表向きの歓迎の裏で、内心の反感と憎悪を伴った冷遇に接しないわけには行かないだろう、との懸念も、気軽な訪問をためらわせたのです。
 本多勝一の『戦場の村』(朝日新聞社)の第五部「戦場の村」に「日本人の役割」という小見出しの文章があり、次のような記述があります。
(韓国の)猛虎師団に従軍したとき、フーイェン省の最前線補給基地で、新聞関係も担当する政訓参謀の金禹相中佐が言った---「この戦争で、日本はどれほどもうけているか知れないほどですなあ」
中佐はその実例として、PXの商品などがほとんど日本製であることを挙げた。(中略)この補給基地で見た十輪トラックの八割くらいが日本製であった。(中略)星条旗をひるがえしたこのアメリカ海軍省極東海上輸送司令部の大きな輸送船は,M船長以下すべての乗組員が日本人であった。M船長はもと海軍少佐で、敗戦直後の日本軍の復員輸送時代からLSTに乗っていた。復員輸送が、次第に変わってベトナム戦争へとつながっていった。LSTの現状について、M船長は次のように説明した。
ベトナムで活躍するLSTのうち、一番多いが日本の二八隻。ついで韓国の二〇隻、アメリカの十数隻の順となる。横浜からの車両や台湾からのセメントも運ぶが、主な任務はベトナム港から港へと武器・弾薬を運搬することだ。(中略)「二年ほど前、日本はLST問題で馬鹿に騒がれましたが、もうそんな時代ではなくなりましたね。(中略)今じゃLSTどころか、日本のタンカーやタグ=ボートまでかせぎにきているんですから。(中略)」岡田海運は七隻の船を持っているが、全部アメリカにチャーターされてベトナムで働いているという。(中略)私たちの運んだ燃料で、アメリカは北爆をやっているんですよ。商売として割り切っています。日本で働くよりも、機関長クラスで月十万円は違いますからね」
(中略)
このように目にふれるだけでも、ベトナムの戦場には日本色が濃い。日本の果たしているこうした役割を、韓国のセネガル兵に当たる言葉で説明しようとすれば、私はこういう表現はなるべく避けたいと思っていながらも、どうしてもそれ以外にぴったりした言葉が見つからないので、やはり書かざるを得ない。---「死の商人」
戦場の村 (朝日文庫)

戦場の村 (朝日文庫)

  • 作者: 本多 勝一
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社出版局
  • 発売日: 1981/09/01
  • メディア: 文庫
つづく。
 

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人は神になり得たか [木下透の作品]

木下透は私の高校時代の筆名です。
このコーナーは、今から40年以上も昔の、彼の高校時代の作品を、思い出すままに紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。

 高三の秋の文化祭で、私の所属していた文芸部は、「神」というテーマで、発表する事になりました。

部員がそれぞれ、「神」にまつわる作品を創り、それを謄写版刷りの冊子の形で発表するとともに、教室の一つを展示会場として、「神」をテーマとした掲示や装飾物をレイアウトしました。
また、そのため、つてを通じて、隣市のキリスト教会を訪問し、数人で「体験礼拝」(そんな言葉はないでしょうが)したりしました。文章や映像をもとにした想像で理解している、教会内の光景や空気を、じかに肌で感じたことは、得難い体験でした。無信心の私は、形だけ信者のように装うことにギクシャクとした思いはありました。(年齢を重ねると、宗教や宗派の違うお葬式や法事などに参列する機会も多くなり、信仰の如何に関わらず、心をこめて故人を悼み、遺族を慰めるためにも、その宗派の作法を真似て、しかるべく振る舞うことは、 当然のことと割り切っていますが。)
あわせて、「神をどう思うか」といったようなアンケートをとり、これを発表したりもしました。

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「喜劇 せるふ・こむぷれいせんす」 最終回 「えぴろーぐ」 [木下透の作品]

木下透は私の高校時代の筆名です。
このコーナーは、今から40年以上も昔の、彼の高校時代の作品を、思い出すままに紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。


 「喜劇 せるふ・こむぷれいせんす」のつづきで、かつ最終回です(連載3回目)。

 高校時代に書いた400字詰め原稿用紙130枚あまりの「作品」の、ほんの一部分を紹介します。

今回は、「えぴろーぐ」(終章)と名づけた一節です。

前回載せた「プロローグ」のあとには、「第一章」~「第六章」の、未完の物語が展開するのですが、それは自ら読み返すだに恥ずかしい、独りよがりの代物で、とても世間様にお見せするわけには参りません。(とにかく、「せるふ・こむぷれいせんす」とは、和英辞典で調べた「独善」の英訳ですゆえ。)

では、ブログ掲載の前後三回分は、世間様にお見せできるのか?と追及しないでくださいませ(汗)。

改めて読み返してみますと、やっぱり、四〇数年経っても、精神レベルはちっとも変わってないなと感じます。いや、むしろ、一七歳の自分にエールを送られているような気さえするのです。
いやいや、またまた独りよがりでした。

 

 

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せるふ・こむぷれいせんす(その2) 「プロローグ」 [木下透の作品]

 木下透は私の高校時代の筆名です。
このコーナーは、今から40年以上も昔の、彼の高校時代の作品を、思い出すままに紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。


 「喜劇 せるふ・こむぷれいせんす」のつづきです(連載二回目)。

 高校時代に書いた400字詰め原稿用紙130枚あまりの「作品」の、ほんの一部分を紹介します。

今回は、「プロローグ」(序章)と名づけた一節です。



 

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せるふ・こむぷれいせんす [木下透の作品]

 木下透は私の高校時代の筆名です。
このコーナーは、今から40年以上も昔の、彼の高校時代の作品を、思い出すままに紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。


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草むしる老婆は今なく枯葎(かれむぐら) [木下透の作品]

木下透は私の高校生時代の筆名です。

そのころ、こんな句を作りました。

屈まりて草むしる老婆の背に真夏   透

 



「こごまりて」と読ませるつもりでした。
国語のM先生は、「こごまりて」は方言の匂いがするね、「かがまりて」と読む方が自然かも、と添削してくださったのでしたっけ。

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あるじなき庭に紅葉のほしいまま [木下透の作品]

木下透は私の高校生時代の筆名です。

国語の先生に勧められて、俳句づくりのまねごとをしたことがありました。

その頃の作品のひとつ。

 

あるじなき庭に山吹咲き乱る

あるいは、「庭の」だったかな?「咲き誇る」だったかな?記憶がはっきりしません。

とにかく、農村に過疎が進みつつある時代のものわびしさが、咲き誇る山吹の花のはなやかさとの対比で、いっそうつのるように思えたのでした。でも、感興がありきたりだとして、低評価でした。

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苗代の足跡に雨降りて澄む [木下透の作品]

木下透は私の高校時代の筆名です。
このコーナーは、今から40年以上も昔の、彼の高校時代の作品を、思い出すままに紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。


今日は、梅雨時期としては久しぶりに、朝から雨模様でした。降り始める前に、近所を散歩しようかと支度をしているうちにポツポツと雨音が聞こえてきましたので、大型のコウモリ傘を持って散歩道に向かいました。重い機材を運ぶのは億劫なので、コンデジをバッグに入れて出かけました。

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苗代の足跡に雨降りて澄む    透

この句は、梅雨時期の実景をもとに、割合にすんなり浮かんだもので、自分としては気に入っていました。周囲からは、ほとんど凡句の扱いで、スルーされたものですが、 今の季節になると不思議に思い出します。

苗代というものも、今では見かけることが少なくなりました。

ウィキペディアには、こう説明があります。

もともとは種籾(イネの種子、籾殻つきの米粒)を密に播いて発芽させ、田植えができる大きさまで育てるのに用いる狭い田を指した。

手植えの場合

田植機を用いない旧来のやり方では、おおよそ次の手順に従う。

    種籾(たねもみ)を植える場所の土を、幅1m位の短冊状に盛り上げ、土を軽く耕す。
    その上に1cm²辺り1粒程度の種籾(5日程度水につけて十分に水分を吸わせたもの)をまく。
    土や籾殻(もみがら)または燻炭(くんたん)を薄くかぶせ、軽く抑える。
    苗代の畝上が丁度浸かる程度に水を張り、発芽させる。
    苗が20~30cm(本葉が7~8枚)位のころに、苗を抜き取り、2~3本を1株として植える(田植え)。

子どもの頃は、小学校でも「農繁休暇」というお休みがありました。田植えの時期は、農家にとっては、猫の手も借りたい繁忙の時期で、子ども達も労働力として期待された事の名残です。

私の家などは、農業と行っても家族がかつがつ食べるだけの田畑しかありませんでしたから、実際の田植え経験は、今で言う「体験学習」レベルの思い出に過ぎません。でも近隣・組内総出の共同作業で、この田んぼあの田んぼと、田植えを済ましていった光景は、目に残っています。

我が家の耕地は、「なわしろ(苗代)」「しみずば(清水場)」「おちうだ(どんな漢字を当てるのでしょう?)」「はた(畑」」「はま(浜)」と呼ばれる、分散した小さな田畑が、すべてでした。この内、水田は、 「苗代」、「おちうだ」、「浜」の三カ所でした。

小規模農業を表す言葉に、「五反百姓」という表現がありますが、我が家の耕地面積は、わずかに一反余り、零細農家の内のさらにミクロの存在と言えるでしょう。一番広いのが川べりに広がった「浜」で、これが一反(約10アール)余り。この地方の川沿いの水田は、頻繁に起こる川の氾濫・洪水によって、冠水被害を受けることもたびたびで、そのため、大規模な護岸工事や圃場整備(ほじょうせいび)が行われ、今は違う土地が割り当てられています。
父が勤務の都合で田舎を離れて暮らしている間、ご近所の方に耕作を委ねていた流れで、退職・帰郷後も、その状態が続いています。従って、私はその位置も確かに知りません。
「おちうだ」と呼ばれた水田は、山かげの、日当たりの悪い、水の冷たい、小さな山田でした。はやりの「農業競争力」という概念の対極にあるような、ローパフォーマンスの土地です。周囲の景色も変わりましたから、いま、どうなっているか?

 「なわしろ」は、住まいと最も近い場所にある、これもごくごく小さな、一種の棚田です。実際に種籾を蒔いて苗を育てる「苗代」でした。が、今はその歴史的役割を終えて、野菜畑として遣われています。先日から話題にした桑の木も、この畦に茂っていました。

現在、手植えの光景は、特別なイベントの時などの他は見かけることもなく、ほとんどの農家では、 育苗箱で育てた苗を用いた機械植えが主流になっているようです。

ウィキペディアの記事の続きです。
機械植えの場合

植える場所の土をならす段階までは、手植えの場合と同じ。以下はその一例。

    用意した育苗箱に土を敷き、そのうえに催芽させた籾をまき、籾が隠れる程度に土を軽くかぶせる。
    育苗箱をならした土のうえに並べ、十分潅水する。
    ビニール(育苗シート)を被せ、発芽させる。
    苗が出揃ったらビニールを取り外す。
    苗が20cm(本葉が3~4枚)位のころに、田植機で移植する。

先日、ある友人と話しておりましたら、彼女の四国の実家での話題が出て、今では、自家で育苗する技術も継承されない状態にあり、多くの農家では農協で購入した苗をつかって田植えをしているのだとか。一方にTPPが攻めてきて、一方に突如安倍さんがぶちあげた「農協解体」という大暴風が襲って来るとなると、この「育苗」といういのちの大本も、独占大企業の、なかんずくアメリカの独占種苗会社かなんかの、牛耳るところとなるのでしょうか?生産性の低い農業(農地・農村)は淘汰され、荒廃の極にいたり、一定の生産性を見込まれる農業(農地・農村)は、独占大企業、なかんずくアメリカの独占種苗会社かなんかの儲けのターゲットとされるのでしょうかね。

さらにその先の、空恐ろしいのは、あの遺伝子組み換え技術をを駆使するモンサント社流の「ターミネーター種子」=「自殺する種子」などの、新たな餌食にされる未来図でしょうか?

 私の散歩道から見える田園風景は、広大な干拓地に広がる肥沃な水田地帯です。いつの間にか麦の刈り入れが終わり、水田いっぱいに水が張られています。


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苗代の足跡などとは比べものにならない、長距離の足跡でした。
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田植えが終わったばかりの田んぼに、今朝の雨はジャストタイミングですね。
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左下の謎の物体は?私のこうもり傘の柄が映り込んだものです。オソマツ。

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こちらは早朝から田植え作業中。
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正面の山は、戦国時代の城趾と、女軍伝説で知られる常山。その姿から、児島富士とも呼ばれます。
毎年この時期には、逆さ児島富士がみられます。


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鴨川の真上にそびえる常山
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鴨川から対岸を望みます。これも戦国時代の城趾のある麦飯山でしょうか。
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 これも鴨川の対岸風景。ちょっとヨーロピアンなムード?
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今日のオマケ。ケリでけりをつけましょう。
 
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ひとの死をさもありと聞く驟雨かな [木下透の作品]

木下透は私の高校時代の筆名です。

ひとの死をさもありと聞く驟雨かな

【解釈】「人の死」というきわめて重い事実を、「(無常のこの世であるから)そういうこともあるのだと聞いている自分がある。折しも表は、激しいにわか雨が降りしきっていることよ。

 初めは「他人の死を」と書いて「他人」に「ひと」というルビを振って、句会に出しました。一種の「偽悪」というか「露悪」の意識もあって、所詮他人の運命は、他人事なのだから、という虚無感を協調した傾向があったかもしれません。それは、エゴイズムの宣言と言うよりは、人間存在の孤立性への自覚または諦観といったものの誇張表現だったのでしょうが、さすがにそれが誰の目にも鼻についたようで、せめて「人」または「ひと」と表記することをすすめられました。

「ひとの死を」と改めてみて、句境が随分平凡になったような気が、当時はしていましたが、「さもありと聞く」よりほかにはいかようにもし難い、人間存在の否応なさが、自ずとあらわれているように、だんだん思えてきました。

昨夜お会いした友人たちとの話題に、いくつか「ひとの死」にまつわるお噂がありました。

その一つ、若かりし日の職場の先輩であったHさんが、数年前病気のため亡くなられたことは、事後聞き知っていました。

独身の新任時代以来、公私にわたって親しく時間をともにし、お互いのアパートを行き来し、居酒屋をはしごし、時には電車で小一時間をかけて街まで出かけ、「寅さん」や「ピンクパンサー」など、行き当たりばったりに映画を一緒にみたり、天下国家を論じたりした間柄でした。無理に頼み込んで、私の結婚式の司会を押しつけたこともありました。
他にも「一生のお願い」を何度かして、「こんな事で一生のお願いを使い果たしていいの?」とからかわれることもありました。

それほどに身近で、ほとんどなれ合い意識に近い感情で結ばれている、気の置けない存在と、ずっと思っていました。いつでもその気になればお返しはできるというか、改まってお礼を言うのも他人行儀と思える「bosom friend」-「腹心の友」(花子とアン)のはずでしたのに、突如遠いところに行ってしまわれました。

なぜか、私は、葬儀にも参列できず、お墓参りさえしていないのです。 記憶があやふやなのですが、おそらく、私自身の脳動脈瘤手術前後の時期に重なっていて、「人様」を見送る心のゆとりすらもなかったのでしょうか?

去年の4月になくなったもう一人のHさんを偲ぶ折々に、ふと、こちらのHさんの思い出がこみ上げてくることもしばしばでした。

話をもとに戻します。昨日お会いした方々のよもやま話の一つに、そのHさんの奥様も、最近亡くなられていたという情報を聞き、驚いたのです。

ひとの死をさもありと聞く驟雨かな

この句を久しぶりに思い出したゆえんです。

 

 


今日の写真は、生命を謳歌する方向へと、意図的にシフトして選んでみました。 

 

このさなぎは、ツマグロヒョウモンでしょうか?我が家の玄関先です。

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若いスズメとスモモの実 。「子どもの森」です。
スモモの実
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桃の実
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 梅の実
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 落ちてなお、甘く香ります。

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梨の実。忌み言葉では「有りの実」・
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クチナシ。
 
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 タチアオイ
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ベニシジミ
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ポピ-
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帰郷。秋の七草ですが、、、。
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どっぷりと首までつかりて睡蓮花 [木下透の作品]

木下透は、私の高校生時代の筆名です。

このコーナーでは、そのころの「作品」を、思い出すままに紹介します。



どっぷりと首までつかりて睡蓮花

この句は、この記事で掲載した作品と同じ頃のものだと記憶しています。時期はもう少し遅く、梅雨時分だったようにも思います。

「どっぷりと」の語感と睡蓮花の可憐さがミスマッチと評されたのでしたっけ?

「どっぷりと日常生活に埋没する」、「どっぷりとマンネリズムに陥る」などのありがちな表現は、しかし、当時はまだまだ聞き覚えのないものでした。ですから、この「どっぷりと」は、当時としてはそれほど安直な言い回しではなかったはず、と一言弁明しておきます。

「とっぷりと」の方が小振りの花の感じが出たでしょうか?
「首までつかりて」は、幼児などが風呂で「肩までつかりましょうね」なんて言われて、湯の中に懸命に身を沈める、あの様子を思ったのですが、「首まで」では中途半端でしたかね?「頸(くび)まで」または「顎(あご)まで」と言った方がリアルだったでしょうか?

とっぷりと顎まで漬かるや睡蓮花
これでは、談林派みたいになっちゃいますね。オソマツ。

いずれにしても、睡蓮の花を見るたびに、思わず口にしてしまう句なのです。


玉野市、深山公園の睡蓮。
公園の最も奥まったところにある「新池」の睡蓮が咲き始めていました。_K525444_R.jpg
 
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いろいろなトンボも飛びかっていました。
 イトトンボ
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 ムギワラトンボ
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シオカラトンボ
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この朱色のアカトンボは?
ナツアカネですか?
 
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 オマケ
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オマケその2
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KHAOS 木下透 [木下透の作品]

木下透は私の高校時代の筆名です。
このカテゴリーの記事は、彼の作品を紹介することを趣旨としています。
拙劣さ、未熟さは、年齢の故と、寛容に受け止めていただければ幸いです。
でも、冬オリンピック競技での10代選手の活躍を見ていますと、技量についても人間性についても、年齢ゆえに未熟と言うのはおこがましい気がしてきますが、、、。



 

 

KHAOS
馬鹿に思い詰めている奴がいる。
自惚れにこりかたまった奴がいる。
無力を悟ったふりがいる。
どうにでもなれとうそぶく奴がいる。
退廃を享楽している奴がいる。
何にもしないで 一見ニヒリスティックな
風変わりがいるが、奴はただの怠け者だ。
おれは駄目だと嘆く奴が、実は哀れみを乞うている。
おれはあんまり不幸だと うるさいから、
思いっきりぶんなぐってやったら、死んでしまった。 
肉をむさぼる奴がいる。(そんなに美味くないことは、よく知っているのだが、奴にはそれしかやることがないのだから。)
つかれきった老いぼれがいる。
よせよせ くだらぬ と抜かしやがった。。
ひがんでいじけたがきがいる。
栄養不良で未発育の赤児がいる。
そいつはきっと死ぬだろう。
おととい死んだ奴が 今日生まれた。
そうそう、一番長生きした奴を、こないだある女が殺した。(葬式は昨日すませた)
詩を作っている奴がいる。
〈ああ私は〉なんぞとつぶやいている。。
馬鹿な奴だ。あいつの中には詩は いない。

隣でヘラヘラせせら笑っている、あいつの中に いるかもしれない。

シュールでしょ。

KHAOSは、英語綴りでは、chaos 。「カオス」です。ギリシア神話に登場する原初神で、「大口を開けた」「空(から)の空間」の意だと、wikiは解説してくれています。

一般に「混沌」と訳され、雑然としたさま、ぐちゃぐちゃなさまを表す表現として用いられることが多いですね。

高3の木下透の神経状態は、まさに雑然として、ぐちゃぐちゃだったのです。

ところで、「混沌」というと、中国古代の思想家「荘子」の一節に、こんな有名な文章がありました。


渾 沌

南海之帝為儵,北海之帝為忽,中央之帝為渾沌。

儵與忽時相與遇於渾沌之地,渾沌待之甚善。
儵與忽謀報渾沌之德,曰
「人皆有七竅以視聽食息,此獨無有,嘗試鑿之。」
日鑿一竅,七日而渾沌死。


 【書下し文】

南海(なんかい)の帝(てい)を儵(しゅく)と為(な)し、
北海(ほっかい)の帝を忽(こつ)と為(な)し、
中央の帝を渾沌(こんとん)と為(な)す。
儵と忽と、時に相(あひ)与(とも)に渾沌の地に遇(あ)ふ。
渾沌、之(これ)を待(たい)すること甚(はなは)だ善(よ)し。
倏と忽と、渾沌の徳に報(むく)いんことを謀(はか)りて曰(いは)く
「人皆七竅(しちきょう)有りて、以(もっ)て視聴食息(しちょうそくしょく)す。
此(こ)れ独(ひと)り有る無し。
嘗試(こころみ)に之(これ)を鑿(うが)たん」と。
日(ひ)に一竅(いっきょう)を鑿つに、七日(なぬか)にして渾沌死せり。

【解釈】
「儵」「忽」はこれを一語にして、儵忽(しゅくこつ)という言葉があるように、いずれも極めて短い時間、束の間(つかのま)という意味である。この、人間の束の間の生命を象徴するかのごとき、儵という名の南の海の支配者と、忽という名の北の海の支配者とが、ある時、その遙かなる海の果てから、世界の真中(まんなか) ── 渾沌の支配する国で、ゆくりなくも一緒にめぐりあった。「渾沌」とは、いうまでもなく、大いなる無秩序、あらゆる矛盾と対立をさながら一つに包む実在世界そのものを象徴する言葉にほかならない。

 訪れてきた儵と忽の二人を、渾沌は心から歓待した。儵と忽とは、束の間の生命を渾沌の国 ── 心知の概念的認識を超え、分別の価値的偏見を忘れた実在そのものの世界に歓喜した。そして渾沌の心からなる歓待 ── 生命の饗宴に感激した儵と忽は、何とかしてこの渾沌の行為に報(むく)いたいと思った。いろいろと相談した二人が、やっと思いついた名案は次のようなことであった。

  ── そうだ。人間には七つの竅(あな) ── 目耳口鼻の七竅(きょう)があって、美しい色を視、妙なる音を聴き、美味(うま)い食物を食い、安らかに呼吸するが、この渾沌だけには一つも竅(あな)がない。そうだ、せめてもの恩返しに、ひとつ七つの竅を鑿(ほ)ってやろう。

 二人は力を合わせて、せっせと渾沌の体に鑿(のみ)を揮(ふる)い始めた。最初の日に一つ、次の日にまた一つ、その次の日にさらに一つ・・・・・ かくて七日目にやっと七つの竅(あな)が鑿(ほ)りあがった。けれども、目と耳と口と鼻の七つの竅(あな)をととのえて、やっと人間らしくなった渾沌は、よく見ると、もはや空(むな)しい屍(しかばね)と化していた。―──荘子(朝日新聞社・中国古典選)】より引用 ──―


日本人として最初にノーベル物理学賞を受けた湯川秀樹博士は、漢文の素養のある人だったそうで、こんな一文を残しておられます。

 小学校へ入る前から、漢学、つまり中国の古典をいろいろ習った。といっても祖父について素読をしただけである。もちろん、はじめは意味は全然わからなかった。しかし、不思議なもので、教えてもらわないのに何となくわかるようになっていた。習ったのは儒教関係のものが多く、「大学」からはじまり、「論語」「孟子」その他、「史記」「十八史略」なども教わった。
 「史記」などの歴史書は別にして、儒教の古典は私にはあまり面白くなかった。道徳に関することばかり書いてあって、何となくおしつけがましい感じがした。
  中学校に入ることには中国の古典でも、もっと面白いもの、もっと違った考え方の書物があるのではないかと思って父の書斎をあさった。「老子」や「荘子」をひっぱりだして読んでいるうちに、荘子を特に面白いと思うようになった。何度も読み返してみた。中学生のことではあり、どこまでわかったのか、どこが面白かったのかと、後になってから、かえって不思議に思うこともあった。
 それからずいぶんと長い間、私は老荘の哲学を忘れていた。四、五年前、素粒子のことを考えている最中に、ふと荘子のことを思い出した。

  南海の帝を儵(しゅく)と為し、北海の帝を忽(こつ)と為し、中央の帝を渾沌と為す。儵と忽と、時に相与(あいとも)に渾沌の地に遇へり。渾沌之を待こと甚だ善し。儵と忽と、渾沌の徳に報いんことを計る。曰く「人皆七竅(しちきょう)有り、以視聽食息(しちょうしょくそく)す、此れ独り有ること無し。嘗試(こころみ)に之を鑿(うが)たん」と。日に一竅(いちきょう)を鑿(うが)つ。、七日にして渾沌死す。

 これは「荘子」の内篇のうち、応帝王第七の最後の一節である。この言葉を私流に解釈してみると、

 南方の海の帝王は儵と為し、北海の帝王は忽という名前である。儵、忽ともに非常に速い、速く走ることをいみしているようだ。儵忽を一語にすると、たちまち束の間とかいう意味である。中央の帝王の名は渾沌である。
  或るとき、北と南の帝王が渾沌の領土にきて一緒に会った。この儵、忽の二人を、渾沌は心から歓待した。儵と忽はそのお返しに何をしたらよいかと相談した。 そこでいうには、人間はみな七つの穴をもっている。目、耳、口、鼻。それらで見たり聞いたり、食べたり呼吸したりする。ところが、この渾沌だけは何もないズンベラボーである。大変不自由だろう。気の毒だから御礼として、ためしに穴をあけてみよう、と相談して、毎日一つずつ穴をほっていった。そうしたら、七日したら渾沌は死んでしまった。

 これがこの寓話の筋である。何故この話を思い出したのか。
 私は長年の間、素粒子の研究をして いるわけだが、今では三十数種にも及ぶ素粒子が発見され、それらが謎めいた性格をもっている。こうなると素粒子よりも、もう一つ進んだ先のものを考えなければならなくなっている。一番基礎になる素材に到達したいのだが、その素材が三十種類もあっては困る。それは一番根本になるものであり、あるきまった形を もっているものではなく、またわれわれが今知っている素粒子のどれというものでもない。さまざまな素粒子に分化する可能性を持った、しかしまだ未分化の何物かであろう。今までに知っている言葉でいうならば渾沌というようなものであろう、などと考えているうちに、この寓話を思い出したわけである。
  素粒子の基礎理論について考えているのは私だけではない。ドイツのハイゼンベルグ教授は、やはり素粒子のもとになるものを考え、それをドイツ語でウルマテリー(原物質)とよんでいる。名前は原物質でも渾沌でもいいわけだが、しかし私の考えていることとハイゼンベルグ教授のそれとは似たところもあるけれども、またちがったところもある。

 最近になってこの寓話を前よりもいっそう面白く思うようになった。儵も忽も素粒子みたいなものだと考えてみる。それらが、それぞれ勝手に走っているのでは何事もおこらないが、南と北からやってきて、渾沌の領土で一緒になった。素粒子の衝突がおこった。こう考えると、一種の二元論になってくるが、そうすると渾沌というのは素粒子を受け入れる時間・空間のようなものといえる。こういう解釈もできそうである。
 べつに昔の人の言ったことを、無理にこじつけて、今の物理学にあてはめて考える必要はない。今から二千三百年前の荘子が、私などがいま考えていることと、ある意味で非常ににたことを考えていたということは、しかし、面白いことであり、驚くべきことでもある。
  科学は主としてヨーロッパで発達していた。広い意味でのギリシャ思想がもとにあって、それを受けついで科学が発展してきたのだといわれている。最近亡くなったシュレーディンガー教授の書いたものをみると、ギリシャ思想の影響のないところには、科学の発展はないと言っている。歴史的にそれは正しいであろう。明治以降の日本をみても、直接ギリシャ思想の影響を受けたかは別として、少なくとも間接的にはそこから始まってヨーロッパで発達した科学を受けついでいる。
 過去から現在まで大体そうなっているのだから、それでいいとしよう。しかし、これから先のことを考えてみると、何もギリシャ思想だけが科学の発達の母胎となる唯一のものとは限らないだろう。東洋をみると、インドにも古くから、いろいろの思想があった。中国にもあった。中国の古代哲学から、科学は生まれてこなかった。たしかに今まではそうであったかもしれない。しかしこれから先もそうだと決めこむわけにはいかない。
 中国の古代の思想家の中で、私が最も興味を持ち、好きなのが、老子と荘子であることは、中学時代も今もかわらない。老子の思想は、或る意味で荘子より深いことはわかるのだが、老子の文章の正確な内容はなかなかつかめない。言葉もいい廻しもむつかしく、注釈を読んでも釈然としない点が多い。結局、思想の骨組みがわかるだけである。ところが荘子の方は、いろいろ面白い寓話があり、一方では痛烈な皮肉を言いながら、他方では雄大な空想を際限なく展開させてゆく。しかもその根底には一貫した深い思想がある。比類のない名文でもある。読む方の頭の働きを刺激し、活発にしてくれるものが非常に多い気がする。前の渾沌の話も、それ自身はべつに小さな世界を相手にしたものではなく、むしろ大宇宙全体を相手にしているつもりであろう。自然の根本になっている微少な素粒子とか、それに見合う小さなスケールの空間・時間を論じたものでないことは明らかである。ところが、そこにわれわれが物理学を研究して、ようやく到達した、非常に小さな世界がおぼろに出てきているような感じがする。これは単なる偶然とは言いきれない。そう考えてくると、必ずしも科学の発達のもとになりうるのはギリシャ思想だともいえないように思う。老子や荘子の思想は、ギリシャ思想とは異質なように見える。しかし、それはそれで一種の徹底した合理主義的な考え方であり、独特の自然哲学として、今日でもなお珍重すべきものをふくんでいると思う。
 儒教にせよ、ギリシャ思想にせよ、人間の自律的、自発的な行為に意義を認め、またそれが有効であり、人間の持つ理想を実現する見込みがあると考えるのに対して、老子や荘子は、自然の力は圧倒的に強く、人間の力ではどうにもならない自然の中で、人間はただ右へ左へふり廻されているだけだと考えた。中学時代には、そういう考えを極端だと思いながらも強くひかれた。高等学校の頃からは、人間が無力だという考え方に我慢がならなくなった。それで相当長い間、老荘思想から遠ざかっていた。しかし、私の心の底には、人間にとって不愉快では あるが、そこに真理がふくまれはていることを否定できないのではないかという疑いがいつまでも残った。
 「老子」に次のような一節がある。

 天地は不仁、万物を以て芻狗(すうく)と為す 聖人は不仁、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗と為す。

 芻狗は草で作った犬の人形。祭が済んだらすててしまう。天地は自然といってもいいだろう。不仁というのは思いやりがないということであろう。老子はこういう簡単な表現で、言い切る。

「荘子」の方は、面白いたとえ話を持ち出す。

  人、影を畏れ、跡を悪(にく)んで之を去(す)てて走る者有り。足を挙ぐること愈々(いよいよ)數々(しばしば)にして、跡愈々(あといよいよ)多く、走 ること愈々疾(と)くして影身を離れず、自ら以為(おもへ)らく尚遅しと、疾(と)走って休まず、力絶って死す。知らず陰に処(お)りて以て影を休め、靜に処にて以て跡を息(や)むるを。愚も亦た甚し。

 ある人が自分の影をこわがり、自分のあしあとのつくのをいやがった。影をすててしまい たい、足あとをすてたい、そこからにげたいと思って、一生懸命ににげた。足をあげて走るにしたがって足あとができてゆく。いくら走っても影は身体から離れない。そこで思うのには、まだこれでは走り方がおそいのだろうと。そこでますます急いで走った。休まずに走った。とうとう力尽きて死んでしまった。この人は馬鹿な人だ。日陰におって自分の影をなくしたらいいだろう。静かにしておれば足あともできていかないだろう。

 このような考え方は、宿 命論的で、一口に東洋的といわれている考え方にちがいないが、決して非合理的ではない。それどころか今日のように科学文明が進み、そのためにかえって時間 に追われている私たちにとっては、案外、身近な話のように感ぜられるのである。私の心の半分はこういう考えに反撥し、他の半分は引きつけられ、それが故 に、この話がいつまでも私の記憶に残るのであろう。本の面白さにはいろいろあるが、一つの書物がそれ自身の世界を作り出していて、読者がその世界に、しば らくの間でも没入してしまえるような話を私は特に愛好する。その一つの例として、先ず「荘子」をとりあげてみたのである。

―湯川秀樹著『本の中の世界』「荘子」より引用―

 

 


昨日の記事で、アトリの遊んでいた木の名前がわからなかったので、おたずねしたところ、Sさんが、「楓(ふう)でまちがいないだろう」 と教えてくださいました。
そういわれると確かにそうで、合点がいきました。
今日は、久しぶりに雨。 気温も3月下旬並みとかで、暖かでした。
 
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撮影には向きませんが、雨傘をさして、深山公園を歩いてみました。「楓」の木立には覚えがありました。確かに、あの実がなっていました。葉っぱがあればわかったのですが、、
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メジロ
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 これはウグイスでしょうか?
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ウグイスとくれば梅 。遠くで鳴き声も聞こえました。春ですね。
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