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私版 備忘のためのおすすめ記事、の巻 [私の切り抜き帳]

物忘れを嘆く記事を、何度も書いています。
たとえば、夕焼け その2の記事は、一昨年の秋に書きました。
一部を引用します。
 ショックです。
いたく落ち込んでいます。
自分の記憶の曖昧さ、でたらめさに、改めて気づかされ、「老人力」がついたなどと笑い流す余裕もありません。
というのは、こういうわけです。
一昨日、吉野弘さんの詩「夕焼け」の記事を書きました。
その続きを書きたくて、あれこれ思い巡らしていました。
そういえば、何かの映画で、この詩を生徒に朗読して聞かせるシーンがあったっけ。確か、松村達雄さん演じる国語教師が、夜間学校の生徒に読んで聞かせる場面だったよなあ。というわけで、一所懸命思い出そうとしましたが、思い出せません。
最近しょっちゅうこんなことがあります。先日は、テレビでチラリと顔を見た女優さんの名前が浮かびません。もと夫の方のお名前は浮かび、周縁のエピソードはあれこれ浮かぶのですが、名前が思い出せないのです。
あいうえお、かきくけこ---わをん。と、何度も繰り返して、これにつなげて名前を思い出そうとしますが、無理です。ほとんど二日半、この努力をしましたが、断念。ネット検索で確認するまで思い出せませんでした。
その女優さん、大ファンというわけでもないですけれど、デビューの頃からどちらかというと好感をもって見てきて、最近は、円熟味の増した演技に魅力も感じるし、レパートリーの広い歌での活躍にも注目していて、CDを買ってカーオーディオで聴く数少ないお気に入りアーティストの一人といってもいいのに。
現実の交際でも、こんなことがしょっちゅうあり、「名前を忘れた人」リスト作って、二度と忘れないようにしようと思ったりしますが、それも面倒で、二度目三度目の忘却に直面して愕然としたりするのです。トホホ。

白状します。この、名前が思い出せなかった女優さんというのは、大竹しのぶさんのことでした。もちろん、「もと夫の方」はサンマさんです。
 この話題を、現代の高校生にしましたら、「IMALU」さんの父母、としてインプットされているようですネ。
wikipediaでは、こんな紹介がありました。
 『いまる』は父親であるさんまの座右の銘「いきてるだけでまるもうけ(生きてるだけで丸儲け)」からと、一方大竹は「いまをいきる(今を生きる)」から命名したと述べている。

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ノ-パサランあれこれ、の巻 [私の切り抜き帳]

昨日は、ある「新春のつどい」があり、誘われて参加しました。
そのアトラクションのひとつに、国鉄合唱団「じれん」の合唱がありました。
国鉄合唱団「じれん」は、旧国鉄(現JR)労働者で作る合唱団で、歌声を通して、労働者の生活・権利、平和や民主主義をまもる運動を励まし続けてきました。とくに、「国鉄分割・民営化」に伴う思想差別と解雇・迫害にさらされながら、節を曲げずにたたかいつづける労働組合員の誇りと気概を歌いあげ、そのことを通して広く労働者国民に元気を提供し続けてきたのでした。
「じれん」とは、"自動連結器" の略で、連結器同士をつきあてると"ナックル"が自動的に閉まり、 車両同士が連結される連結器のことだと言います。
アコーディオン伴奏と男声7人による、明るく澄んだ、清らかで美しく、ちからづよい歌声に魅了されつつ、差別と選別に基づく「解雇」反対のたたかいから三〇年というお話に、深く感慨を覚えたことでした。

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あ-またこの2月の月が来た、の巻 [私の切り抜き帳]

2月になりました。

2月が来ると、この一節が思い出されます。

あー またこの二月の月か きた

ほんとうに この二月とゆ月
いやな月 こいを いパいに
なきたい どこい いても なかれ
ない あー ても ラチオで
しこし たしかる
あー なみたか てる

めかねかくもる


プロレタリア作家、小林多喜二の母小林セキさんの遺品の中から、見つかったどたどしい鉛筆書きの、一枚の紙片に書き込まれていた文章です。


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はてさて?大競争狂騒曲とな?の巻 [私の切り抜き帳]

以前(2004年)、こんな文章を、ある教育系雑誌に投稿したことがありました。「10年ひとむかし」と言いますがそれ以上の昔の話です。でも、読み返してみて、今なお、根本的な変化(改善)は、認められないと思えましたので、ここに再掲させていただきます。

岡山発「大競争」狂騒曲

一、トカトントン、あるいはハラホロヒレ
太宰治に「トカトントン」という小品がある。玉音放送の後、なお「徹底抗戦、自決」を叫ぶ若い中尉の姿に厳粛を感じた「私」は、「死のう、死ぬのが本当だ」と決意する。が、折しも兵舎の屋根からトカトントンと金槌の音が聞こえ、なぜか途端にすべてが白けてしまう。高校教師出身のミステリー作家、北村薫氏が、エッセイ集『謎物語ーあるいは物語の謎』で、これに触れておられるのを、最近、愉快に読んだ。
「たとえば、太宰の『トカトントン』を読んで、何も見えない人に向かい、《トカトントンはハラホロヒレである》と言ってしまうのが評論家ではないか。そのおかげで何かが見え、《ああ、そうか》という人が出て来る。/すると別の評論家が《いや、あれは断じてハラホロヒレではない。ガチョーンである》と演出するのである。そこで、まことに不敬ではあるが《トカトントン》を《ハラホロヒレ》に差し替えれば、こういうことになる。/もう、この頃では、あのハラホロヒレがいよいよ頻繁に聞こえ、新聞を広げて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、ハラホロヒレ、局の人事について伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮かんでも、ハラホロヒレ、(中略)もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもハラホロヒレ、自殺を考え、ハラホロヒレ。」(中公文庫p二一〇)

二、「人皆か 吾のみやしかる」(山上憶良)
私は、五年間の夜間定時制経験を経て、「普通科単位制」を掲げる現任校での三年目を迎えている。当初、高速道路に自転車で迷い込んだような不安と居たたまれなさに、心身の不調が続いた。ある不登校経験者は、「校門が近づくと、ゴオッと大型ダンプに襲われるような威圧感を覚えた」と述懐していたが、今日の学校状況に内在するある種のテンションは、教師をも射すくめるものらしい。定時制では、多くの生徒が「三K=競争・脅迫(強迫)・強制が少ないから好き」と異口同音に語るが、その受容的な空気やゆったりとした時間感覚の対極に、今置かれている、と感じる。
もう十年近く前、高一で不登校のただ中にあった我が長男が、一切の「学校的なもの」に、怯え混じりの嫌悪を示したことがあった。その感性に波長をシンクロさせることで自己の安定を維持してきたせいか、私には「学校の息苦しさ」に過敏に反応する傾きがあるのだろうか。あるいは、五十代に入り教職最後の十年を消費しつつある私の適応能力にとって、環境の変化がいささか過酷に過ぎたかもしれないと解釈してもみる。

三、「一将功成って万骨枯る」(曹松)
だが、それらをさておいても、職場は多忙だ。どの学校でも、年々それは強まっている。
新指導要領実施に伴い、「総合的学習」の導入、シラバス(年間授業計画)作成、観点別評価など、教育内容・実務において激変とも言える変化が生じている。学校五日制で、逆に平日の過密化が進んでいる。「自主的」と称して、土曜日も補習講座に拘束される状況が広がっている。
近年、岡山では、長く続いた小学区・総合選抜制が廃止され、「特色づくり」の名による差別化と、「生き残り」強迫にせかされての熾烈な学校間競争が仕組まれてきた。例えば私の学校では、地域四校の総合選抜廃止に対応して、県下初の「普通科単位制」、「65分授業」、「2学期制」へと大幅な転換をはかることで、かつての兄弟校との序列競争・中学生獲得競争を生き延びようとしてきた。
今、こうした多大なエネルギーを傾注しての「特色づくり」の努力を総括・吟味する間もなく、県下全域に及ぶ大規模な高校再編(リストラ)が、問答無用で強行されている。それは、これまで職場や地域で培ってきた「学校づくり」の蓄積や合意を乱暴に消去・リセットする一大クーデターの様相を呈している。教職員、生徒、父母・住民という当事者が、学校づくりの主体から遠ざけられている。
これらの経緯の中で、「一将功成って万骨枯る」という事態が、少なからず現出している。手柄を買われて「栄達」の道を歩む元同輩を尻目に、茫々たる荒れ野に置き去りされた「兵卒」たちは、言いようのない徒労感と無力感にとらわれている。だが、スクラップ化の運命にある学校でも、「今いる生徒たちにはつらい思いをさせない」ために、涙ぐましい粉骨砕身を続けている。

四、再びトカトントン、あるいはハラホロヒレ
「進学校」を掲げる諸校の例に漏れず、我が校でも、ほぼ夏休み一杯進学補習が続く。新任の校長は、その期間に全教員と順に面談をするとおっしゃる。曰く、「進学重視型普通科単位制高校として、地元国立大学を中心に、進路目標を実現させることが重要。そのために、自分は何がしたいか、また、何ができるかを、聞かせてほしい。」近隣校でも、同様の動きが流行中との情報を、呆れた思いで聞いてはいたが、いざそれに当面すると答えに窮してしまう。
私の場合は、盆明け早々の補習の午後、校長室に呼ばれて開口一番「この学校のために何がしたいか。何ができるか。」へえ、本当にそうきましたか。日頃の仕事へのねぎらいの言葉すらなく?
私「いろいろ考えましたが、私にできることはなさそうなので、来年の三月にはよろしくお骨折りを願いたい。」/校長「それは、転勤希望と言うことかね。」/私「はい。」/校長「わずか三年目で、どういう事?」/私「前任校では、一応自分なりに自己完結したという思いがありましたが、この学校では、役割が見いだせない。仰るような学校には、別の適任の方がありそうです。」/校長「定時制の方がよかったと?では、どうして転勤したの?」/私「通院と健康管理の上から昼間の学校を希望したら、縁あって本校に。転勤に際しては前任校の校長にも本校の前校長にも義理を感じて、自分に鞭打って働いてきましたが、石の上に三年いても根が生えそうにありませんので・・」
語りつつ、私の耳にしきりにトカトントンが聞こえて、平静でいることが難儀だった。あるいはいっそ、ハラホロヒレ、ガチョーンと、口に出してしまいたい衝動に駆られる。衝動に駆られながら、その感情の正体がつかみかねていたが、後で胃の痛みとともにはっきりと気づいた。不当な仕打ちに対する屈辱感と、傷ついた自尊感情への憐憫。そして、全国津々浦々でこのような愚劣な問が発せられる状況のへの寒々とした白け。
「学校のため、君は何がしたいか、何ができるか」この問は言外に、「まつろわぬ者、働きが足りぬ者はおらぬか。”不適格”の烙印がイヤなら進んでもっと働け。さもなくば立ち去れ」という頭ごなしのメッセージを含んでいよう。そのような不信感むき出しの脅迫に怯え、失敗やつまづきへの不安にかられながら、果たして、教育という創造的な営みが成りたつのだろうか?さらに、この問は、従順なだけでなく、「上意」を自ら先読みし、すすんで遂行する「忠誠」競争を強いるものだ。だが、互いの事情や条件をふまえた、職場の合意形成への努力やプロセス抜きに「これがやりたい、あれがやれます」と名乗り出るお調子者が輩出したとしても、そんな学校に何が期待できるのだろうか?
小一時間に及ぶ、その日の校長面談の模様を克明に綴る気力はないが、もう一つだけ問答を付け加えておく。
校長「本校についてどう思う?」/私「みなさん忙し過ぎませんか?」/校長「定時制と比べたらね。だが、他の普通科進学校より特別に多忙だとは認識していない。」
職場の民主的リーダーたるべき校長が、職員の希望や提言に直接耳を傾けながら学校づくりをすすめる事は歓迎だ。その糸口となるなら、という微かな期待は、しかし、問答無用で切って捨てられた。再びトカトントンに襲われて、私は沈黙した。が、その沈黙を、後でひどく後悔した。その論法は、「職場に憲法なし」「働くルールの確立を」という要求に、どこそこの国よりましだろうとうそぶく経営者と同じではないか。そもそも人間として許せない酷い状態を、まだ下があるからと合理化されては困る。
その時言いそびれたことを、かいつまんで事実のみ記す。①私の転勤の前年。単位制移行のただ中に、S先生が38歳の若さで急逝。「次は自分かも」という不安を誰もが拭いきれないまま、慢性的なオーバーワークの実態は衰えをみせない。「健康は自分で守って下さい」「勤務時間が過ぎたら、帰れる時には出来るだけ早く帰ってください」という管理職の言葉が、苦笑混じりに聞き流される。②この4月、年度初めの勤務を終えて帰宅されたF先生が、ひとり暮らしのアパートで倒れ、意識不明のまま二日以上も推移して発見された。緊急入院・手術を経て、幸い生命に別状はなかったものの、復帰の見通しはなお立たないでいる。③今年転勤してこられた一人職種のT先生は、夏休み以来、長期の病気休暇に入られた。これらの欠如をお互いの「奮起」で補い合いながら、学校の歯車はうなりをあげて高速回転を続けている。この回転の先に、子どもと教育の未来の、信じられる者は幸いである。私の耳には、トカトントンが響いてやまない。 

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リユース2題、の巻 [私の切り抜き帳]

瞬く間に、正月休みが終わりました。

孫たち(当人同士はいとこたち)は、どこへつれても行けませんでしたが、近所の公園で、楽しく遊びました。

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またまた異質共存を思う、の巻  [私の切り抜き帳]

昨年末に書いたこれらの記事で、「多様性」「異質共存」という話題がつづきました。

みんな違ってみんないい、の巻

いや高に凍空翔(かけ)ん鳥のごと


勢いで、またまたその話題です。

今朝の「しんぶん赤旗」(1月4日付け朝刊)の、作家の高橋源一郎さんと文芸評論家の斎藤美奈子さんによる「新春対談」が掲載されており、興味深く読みました。おふたりは、『民主主義』をキーワードに語っておられますが、その一節にこんな下りがあって、目を引かれました。

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いや高に凍空翔(かけ)ん鳥のごと [私の切り抜き帳]

年の瀬も押し迫りました。 大掃除のシーズンですが、決まって古い新聞や本、冊子や手帳など、長く放置していた持ち物に目が止まり、ついつい時間を費やしてしまう、という経験をお持ちの方もおありでしょう。
引っ越しの時の大掃除などは、特にそうですね。 パソコン内の物探しや、ファイルの整理をしていると、同じ事が起こります。
昨日も実は、記事を書いている途中で、「みんな違ってみんないい(金子みすゞ)」の詩句や「異質共存」について触れた文章を探しているうちに、ついつい一連の文章を辿り読みしてしまい、思わぬ時間を消費しました。
少し思うところもありましたので、ごくごくプライベートな話題で失礼いたします。
以前、ある教育関係の雑誌にこんな投稿をしたことがありました。夜間定時制高校に勤務しはじめた頃で、記録には1996年とあります。

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イーハトーブのパクリです、の巻。 [私の切り抜き帳]

先日のこの記事に、momotaro様からありがたいコメントをいただきました。

 こちらをお訪ねするといつも驚きます。多様な生物に溢れているので。
海辺で山があるからなのでしょうが、まるで別世界です。
ふと、ナードサークとはどういう意味なのかなぁと思って検索してみました。するとずらっとこのブログ関連のことが出てきました。ということは、これは一般用語ではないのでしょうか。宮沢賢治の小説に出てきそうですが…
機会がありましたら教えてください、恥ずかしながらお尋ねします!

わたしの思わせぶりなブログタイトル「ナードサークの四季」の名づけに関して、興味を持っていただき、検索までしていただいたとのこと。恐縮至極です。
取り急ぎ、以下のコメントをお返ししましたが、あるいは、ほかの読者の方にも同様お手数をおかけするかも知れないと思い、再掲することにします。
> 多様な生物に溢れている
コメントいただいて、改めて思い至りました。日頃は有り難みに気づきませんが、ほとんど近隣エリアで、あれこれの生き物に会えるのは幸せなことです。
> ナードサークとは
お手間を取らせて申し訳ないです。全くのでっち上げの造語ですm(_ _)m ゴメンナサイ
ご推察の通り、宮沢賢治が岩手をモチーフに「イーハトーブ(イーハトヴォ)」という理想郷を想い描いたのにあやかって、わが居住地の地名をもじってみました。2003年頃から数年間、見よう見まねで作って遊んでいたホームページに、「ナートサークの四季」と名づけた写真コーナーを置いたのが始まりです。その後、「平成の大合併」のあおりで、もとの地名は消滅してしまいましたが、、、。
> 恥ずかしながらお尋ねします!
恥ずかしながらお答えしました(汗) 

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ジャイアンとスネ夫に関する覚え書き、の巻 [私の切り抜き帳]

こんなニュースがありました。

「仮に日本の関係者が対象になっていたことが事実であれば、同盟国間の信頼関係を揺るがしかねないものであって、深刻な懸念を表明せざるを得ない」というアベさんの発言。「仏独両国は強い怒りを表明した。これに対して日本政府の反応は抑制ぶりが目立つと指摘されている。」とありますが、国会会議中のアベサンの「抑制」のない答弁や不規則発言を思い浮かべると、失礼ですが、「相手に合わせて態度を変える」小人物の本性を浮き彫りにしただけと思えて、寂しくなります。






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はしけやし昭和末年17歳 [私の切り抜き帳]

前回ご紹介した生徒の句は、s55年当時、HR担任をしていた生徒の作品でした。

古典的定型の表現様式が、意外に彼らを惹きつける事実に気づくと共に、生徒の感性に魅了されるところ大でした。味を占めて、その後も、別の生徒達に、何度か試したことがありました。



次の作品群は、それから数年後、たぶん昭和の「末年」頃の生徒の作品、数クラス分の抜粋です。

たぶん、授業の一環か,宿題だかで作った句でしたから、動機に半強制があったり,私とのよそよそしい間柄が反映したりして、必ずしも心を開いた作品ばかりとは言えないかも知れませんが、まとめてご紹介してみます。

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懐かしの切り抜きメモ、の巻 [私の切り抜き帳]

昨日の記事で、「ストップ戦争法 緊急 集会&パレード IN 玉野」に触れたついでに、玉野市という町のことを少し書きました。

それがきっかけで、走馬燈のように思い出されることがあります。思い出しついでに、身辺を探してみると、以前、仲間内の小さな、「ミニミニコミ紙」に「時事新聞」という表題でこんなコラムを書いたことがありました。

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吾、まさに「非公式」主義者なりき。 [私の切り抜き帳]

「正しいやり方」知りません。
損な性分だと思います。
素直じゃないのです。
小学校の時、先生に「聞くは一時の恥、聞かぬは一生(または、末代)の恥」という金言を教わり、まさに自分に当てはまると自覚したものの、生来、自分から問うたり、手ほどきを受けたりすることが、大の苦手というか、とにかく億劫なのです。
できれば人に聞かずに、自分で見つけたいのです。
私、折り鶴の正しい折り方知りません。でも、私流の折り方で、できあがりはそれっぽい折り鶴が折れます。
子どもの頃、折り方を人に聞くのが恥ずかしく、人の折り鶴を元にほぐして、折り跡通りにたどって折ってみて覚えたので、折り順が違い、できあがりも不格好です。

でも今更矯正できません。

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心にしみる年賀状 [私の切り抜き帳]

2007年に手術した脳血管疾患の後遺症でしょうか、それとも加齢による海馬の衰えのせいでしょうか、記憶の揺らぎを自覚する場面がしばしばあります。いえ、揺らぎと言うよりも、曖昧模糊化ですね。時と場合によって普通に思い出せる記憶が、いくら頭をひねってもさっぱり思い出せないことが多いです。
これを嘆かわしく思ったり、不安に感じたりすることが、とみに増えましたが、どうやってうまくこれとつきあっていくかが、実は大事かも知れません。

「老人力」という言葉を聞きかじって、なかなかこれは痛快だわいと思って、テイク・ノートしてきたのですが、これを提唱された赤瀬川原平さんの著書は読まないうちに、ご本人が昨年の10月26日に亡くなられました。その事実も、リアルタイムにはスルーしてしまっていて、最近になって気づくような始末です。

老人力

老人力

  • 作者: 赤瀬川 原平
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1998/09
  • メディア: 単行本

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夕焼け その3 [私の切り抜き帳]

今日は、田舎の父親の通院につきあっての帰り、ちょっと回り道をして、児島湖に沈む夕日を眺めてみました。

眺望スポットにやっと到着した頃は、夕日がほとんど山の端に沈みかけていました。

急な思いつきでしたので、あり合わせのカメラで撮影しましたが、よく晴れて、うつくしい夕日でした。

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 ほとんど山に隠れます。

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広角で全景を見ると。

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常山=別名児島富士を夕映えが包みます。
 
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 シルエットの鳥たちが安息の時を迎えます。
 
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締め切り堤防上の道路も日暮れていきます。
 
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遠く街の灯が見えます
 
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 すっかり夕暮れに包まれました。
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昨日の記事で、夕焼け、夕日にちなんで、夜間定時制の中学を描いた映画「学校」(山田洋次)と、 夜間定時制高校に通う少女(伊藤蘭)が登場する 『寅次郎かもめ歌』(山田洋次)を話題にしてきましたので、勢いでもう一つ夜間定時制高校を描いた映画の話題です。
岡山県立烏城高等学校と言えば、勤労青年に学ぶ機会を保障するために設立された夜間高校でした。
以前は、旧制のナンバ-スク-ルの後身である伝統校の敷地の片隅にある木造校舎が、その学舎でした。現在は、岡山県生涯学習センターのなかにあるコンクリート校舎に移転し、昼間部と夜間部のある単位制高校として、様相を異にしていますが、まだ木造時代の烏城高校の卒業生堂野博之さんの詩画集に「あかね色の空を見たよ」があります。

あかね色の空を見たよ―5年間の不登校から立ち上がって

あかね色の空を見たよ―5年間の不登校から立ち上がって

  • 作者: 堂野 博之
  • 出版社/メーカー: 高文研
  • 発売日: 1998/01
  • メディア: 単行本

 

 

 

これを原作にして、映画「あかね色の空を見たよ」が市民運動の手で制作された頃、ちょうど私も、別の夜間定時制高校に勤務していました。 そして、その頃高校生だった長男が、原作者の堂野さんが経験したと同じく、不登校の長いトンネルのなかに迷っていました。

 



【映画チラシ】あかね色の空を見たよ 中山節夫

 

【映画チラシ】あかね色の空を見たよ 中山節夫

  • 出版社/メーカー: moviestock2
  • メディア: おもちゃ&ホビー




その頃、ある雑誌に投稿した私の文章があります。些末な説明や個人情報がらみの文言はいくらか訂正・省略した部分もありますが、ほとんどそのまま掲載させていただきます。
ひろしがんばれ わしもがんばる---映画「あかね色の空を見たよ」
     
(1)夢のような話
 「市民の手で映画をつくる」、「子どもと親と教師への応援歌を、岡山から全国に発信する」---そんな夢のような話が現実になりました。
 そもそもの発端は、98年春。15年来、「不登校」をテーマとする映画制作を構想しておられた中山節夫監督が、堂野博之さん(県立西大寺高校校務技術員)の詩画集「あかね色の空を見たよ」(98年1月高文研刊)に感銘を受け、地元の人々の力で映画化を、と提起。それに応えて、堂野さんの職場の同僚でもあり、岡山県の教育相談活動のリーダー的存在である森口章先生らが、映画化への県民運動を呼びかけられたのです。
 初め、その計画を聞いたとき、正直重い気分にとらわれました。何よりも、およそ1億2千万円という気が遠くなる制作費用を、市民の手で調達しなければならないというのですから、「苦労」の度合いすら想像のレベルを越えていて、現実味を伴わなかったのです。
 でも、自らの五年間の不登校の苦しみと「自分さがし・自分づくり」への葛藤を、飾らぬ絵と詩文で綴った原作への愛着は、人後に落ちません。「学校に行ってない私はきらいですか 言うこと聞かない私はきらいですか」「明日は行こうと思う夜 明日にしようと思う朝」「最後に笑ったのいつだっけ 最後にうれしかったのいつだっけ 今度笑うのいつかな」。---この切ない思いを、あたたかく共感できる社会にしたい気持ちも、人並みには持ってるつもり。
 それ以上に、さわやかな好青年そのものの堂野さんの存在は、不登校児の親の一人である私の「希望」でもありました。さらに、「制作委員会」の事務局長を、敬愛する高垣章二氏が引き受けられたと聞き、後には引けない思いと同時に、「これは成るかもしれない」という気にもなったのです。
(2)地域に「人と人との絆」をつくる運動
 映画制作・上映運動の歩みを駆け足で振り返ってみます。
 98年9月映画化準備会発足、10月第一回映画制作実行委員会/その後各地に「地域制作委員会」設置、 99年2月~6月シナリオ検討委員会、7月映画制作発表/地元キャスト募集、8月オーディション申し込み終了(申込者約400人、実参加者360名)/ロケ開始、9月配役決定、9~11月岡山にて撮影、2000年3月完成試写会、3月~県内各地で一般公開。  
 主として一枚千円の「映画制作協力券」の普及により制作費と上映経費を捻出する、少なくとも半額の六千万円に達しない場合は制作断念もやむなし、その場合には返金できるよう、住所氏名を確認して販券する、という、背水の陣の出発でした。中途断念しても事務所費など必要経費分は赤字とならざるを得ず、「その際は退職金を充当することも覚悟の上」という高垣事務局長の発言も、冗談とばかりは言えない切実味を持っていました。そうした財政問題をクリアして、映画完成にこぎつけたことは、文字通り快挙といっていいはずです。
 このとりくみは、もちろん教職員組合や、民主的諸団体の全面協力ぬきには成り立ち得なかったでしょう。でも、そこにとどまる規模の運動では、映画完成は不可能でした。何よりも、不登校に苦しむ子ども自身とその親たち、そして子育て・教育の悩みに直面している無数の人々の、切実な願いが紡ぎあわされてはじめて成し遂げられた「偉業」でした。
 私自身も、学校で生徒・保護者への券普及にとりくむとともに、居住地域の実行委員会の一員として、制作・上映運動に参加しましたが、一人で数十枚単位の普及を気軽に引き受け、追加また追加を申し出て下さるお母さん方のバイタリティに、圧倒され、励まされもしたものでした。
(3)すばらしい映画が完成
 「映画化が実現したというだけで、十分」と口にしてきたのは、不遜でした。期待を超えた、すばらしい作品が完成したのです。
 映画は、雨に煙る美しい田園風景を、豊潤な情趣とともに描きながら、静かに展開します。深い部分で私たちを癒してくれる上質な絵画のように、時を忘れていつまでも見入っていたいと感じさせる、しみじみと懐かしい画像です。したたり落ちる水滴。濡れてゆらゆらと心もとなげに揺れる蓑虫のアップ。そんなデティルにも、日頃すり減り、忘れかけている感性を呼び醒ます瑞々しさが凝縮されています。
 乳色の朝霧に包まれた川面の静謐、水田の稲苗の滴る緑、そよぐ風のかぐわしさ、黄金色に輝く稲穂の波、蒼天の野道を鮮やかに彩る曼珠沙華の紅---、随所に散りばめられている岡山の自然。私達の郷土がこのように美しい四季の彩りに恵まれていることを、映画は改めて気付かせてくれます。この自然描写ひとつで、この映画を観た価値はあったと、一瞬考えたのも、私の不遜でした。
 このような自然に囲まれて、主人公=藤田弘の不登校の日常と、それを取り巻く家族や教師の対応が、抑えたタッチで淡々と描かれます。私自身の経験や、日ごろ学校で付き合っている生徒たちの不登校経験の述懐をあれこれ思い浮かべ、ああ、これも思い当たる、あれも思い当たるとうなずきながらも、でも、そんなに生易しいものではなかったはずとの思いも拭えないまま、画面を追います。
 そのうち、場面は、一人だけの中学校卒業式、家を離れ下宿しながらの高校生活へと進みます。私自身なじみの深い夜間定時制での授業、部活動、交友やアルバイトを通して成長する弘。「登校拒否だった僕が、今では帰宅拒否」と楽しそうに笑う弘の姿は、私の学校でもしばしば目にする光景です。こんな健全な学園ドラマも、今の世では新鮮だし、それだけでもこの映画の価値はある---と思ったのも、またまた、私の不遜です。
 私の不遜は、弘の「二度目の不登校」の場面で打ち砕かれました。勤め先にも学校にも足が向かわず、飲まず食わずで布団を被り、絶望的な閉じこもりに陥ってしまう弘。そこにオーバーラップする不登校時代の回想。これまでの抑制は、この場面のためにあったのだと気づかされるほどのインパクトの強烈さです。苦しみの深さが共感されて、嗚咽をこらえかねました。その苦しみを経てこそ、あかね色の空は美しく胸にしみるのです。
 地元の上映会でのアンケートに71歳の男性がこう書いてくださいました。「ひろし、がんばれ。わしもがんばる」。辛さ苦しさを越えて、自分らしく生きていくための元気の素を老若男女に与えてくれる映画です。人間って見捨てたものではないな、と気づかされ、ほっとうれしくなれる映画です。「ありがとう」の言葉も多く見受けました。私自身も、この映画に出会えたこと、この映画づくりの運動にささやかながら協力できたことに、「ありがとう」と言いたい気持ちです。
(4)全国の子ども・親・教師への応援歌に
 映画は、県内各地で好評のうちに上映され、劇場公開では、予定を延長して再上映されたほどでした。少なくない学校で児童・生徒の団体鑑賞も実施され、「音響効果に恵まれなかったにもかかわらず、授業では騒がしい生徒たちが、静まり返って画面に見入り、弘の夜間高校卒業場面では、拍手や『がんばれ』の声援が起こるほど、作品世界に入りきって我が事として鑑賞していた。」と聞きます。秋には、私の学校の生徒たちにも団体鑑賞を計画しているところです。
 県外でも各地で上映の計画が進んでいます。全国の子ども、父母、教職員への応援歌として、鑑賞の輪を広げて欲しいものです。 
 
 西の空があかね色に染まり、やがて濃紺に暮れていく時間帯まで、宣伝カーを運転して路地から路地へと入場お誘いの宣伝をしたことが思い出されます。テープには、臆面もなく私の声を吹き込みました。
映画には、 実際の烏城高校教師OBなども、教師役で出演されました。中には、すでに鬼籍に入られた方もあり、その年月に感慨を覚えます。
この映画上映運動をきっかけに「フリースペースあかね」 がつくられ、今も不登校生たちのほっとできる居場所となっています。11月9日(日)には、『第5回あかねのつどい 不登校経験者が語る!本当の気持ちと居場所のちから』というイベントも開かれるそうです。
以下、そのあらましを、facebookの記事から引用させていただきます。
プログラム1(午前)
映画『あかねの色の空を見たよ』上映。
 フリースペースあかねが生まれた原点であり、原作者の実体験を元に作られた映画『あかね色の空を見たよ』を上映します(以下作品紹介)。不登校で苦しんだ少年が定時制高校に入り、暖かい仲間や先生に出会い、人間への信頼と人生への希望を見いだして立ち上がっていく様を描く。不登校を「誰もが長い人生で乗り越えなければならない壁」のひとつとしてとらえ、「突き当たって悩み苦しむことになっても、それは悲しいことではない」「いつか今まで自分を覆って苦しめていたこの雲さえも美しい茜色に変わる」と著者は言います。

プログラム2(午後)
『経験者が語る!シンポジウム』
 フリースペースあかねに通っている不登校の子ども達やOB・OG。そして、不登校の我が子と向き合ってきた親たちに集まってもらい、当事者だからこそ言える本当の気持ち、そしてフリースペースあかねという居場所から何を学んできたのか、居場所のちからとはどの様なものなのかを、共に考えたいと思います。会場に来て下さった方からの発言や質問なども歓迎しております。

日時:11月9日(日) 10:00〜16:00
場所:福祉交流プラザ三友 2階大会議室
    (岡山市北区岩井2丁目4-1)
参加費:500円
主催:フリースペースあかね
後援:岡山市教育委員会
お問い合わせ :TEL / 086-256-7122
※会場準備のため、参加される方はご連絡下さい
(当日参加も可)

 
 
 
 

 

 

 

 

 


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夕焼け その2 [私の切り抜き帳]

ショックです。
いたく落ち込んでいます。
自分の記憶の曖昧さ、でたらめさに、改めて気づかされ、「老人力」がついたなどと笑い流す余裕もありません。
というのは、こういうわけです。
一昨日、吉野弘さんの詩「夕焼け」の記事を書きました。
その続きを書きたくて、あれこれ思い巡らしていました。
そういえば、何かの映画で、この詩を生徒に朗読して聞かせるシーンがあったっけ。確か、松村達雄さん演じる国語教師が、夜間学校の生徒に読んで聞かせる場面だったよなあ。というわけで、一所懸命思い出そうとしましたが、思い出せません。
最近しょっちゅうこんなことがあります。先日は、テレビでチラリと顔を見た女優さんの名前が浮かびません。もと夫の方のお名前は浮かび、周縁のエピソードはあれこれ浮かぶのですが、名前が思い出せないのです。
あいうえお、かきくけこ---わをん。と、何度も繰り返して、これにつなげて名前を思い出そうとしますが、無理です。ほとんど二日半、この努力をしましたが、断念。ネット検索で確認するまで思い出せませんでした。
その女優さん、大ファンというわけでもないですけれど、デビューの頃からどちらかというと好感をもって見てきて、最近は、円熟味の増した演技に魅力も感じるし、レパートリーの広い歌での活躍にも注目していて、CDを買ってカーオーディオで聴く数少ないお気に入りアーティストの一人といってもいいのに。
現実の交際でも、こんなことがしょっちゅうあり、「名前を忘れた人」リスト作って、二度と忘れないようにしようと思ったりしますが、それも面倒で、二度目三度目の忘却に直面して愕然としたりするのです。トホホ。
ハナシが横道にそれました。
松村達雄さん演じる国語教師について、ネットで調べると、山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズの第26作  『寅次郎かもめ歌』でした。



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死んだ旧友の墓参りに北海道を訪れた寅さんは、旧友の娘・すみれ(伊藤蘭)の、定時制高校に通いたいという望みを叶えるために、柴又へ連れ帰ります。その定時制高校の国語教師を演じたのが松村達雄さんでした。松村達雄さんといえば、森川信さんの後を継いで2代目「おいちゃん」(3代目は下條正巳)を演じたほか、寅さんシリーズには、医者、大学教授、お坊さんなど、いろんな役で登場しました。
余談ですが、以前、このブログで過去に、この記事この記事この記事で触れた映画「まあだだよ」で、内田百閒を演じたのもこの松村達雄さんでした。人なつっこく、ひょうひょうとした、柔らかくて人間味ある人柄が、魅力的です。

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ショックなのは、『寅次郎かもめ歌』で夜間高校国語教師の松村達雄さんが朗読したのは、吉野弘さんの「夕焼け」ではなくて、実は、この詩でした。

便 所 掃 除        濱 口 國 雄  


 扉をあけます
 頭のしんまでくさくなります
 まともに見ることが出来ません
 神経までしびれる悲しいよごしかたです
 澄んだ夜明けの空気もくさくします
 掃除がいっぺんにいやになります
 むかつくようなババ糞がかけてあります

 どうして落着いてしてくれないのでしょう
 けつの穴でも曲がっているのでしょう
 それともよっぽどあわてたのでしょう
 おこったところで美しくなりません
 美しくするのが僕らの務めです
 美しい世の中も こんな処から出発するのでしょう

 くちびるを噛みしめ 戸のさんに足をかけます
 静かに水を流します
 ババ糞におそるおそる箒をあてます
 ポトン ポトン 便壺に落ちます
 ガス弾が 鼻の頭で破裂したほど 苦しい空気が発散します 
 落とすたびに糞がはね上がって弱ります

 かわいた糞はなかなかとれません
 たわしに砂をつけます
 手を突き入れて磨きます
 汚水が顔にかかります
 くちびるにもつきます
 そんな事にかまっていられません
 ゴリゴリ美しくするのが目的です
 その手でエロ文 ぬりつけた糞も落とします
 大きな性器も落とします

 朝風が壺から顔をなぜ上げます
 心も糞になれて来ます
 水を流します
 心に しみた臭みを流すほど 流します
 雑巾でふきます
 キンカクシのうらまで丁寧にふきます
 社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます

 もう一度水をかけます
 雑巾で仕上げをいたします
 クレゾール液をまきます
 白い乳液から新鮮な一瞬が流れます
 静かな うれしい気持ちですわってみます
 朝の光が便器に反射します
 クレゾール液が 糞壺の中から七色の光で照らします

 便所を美しくする娘は
 美しい子供をうむ といった母を思い出します
 僕は男です
 美しい妻に会えるかも知れません



私はこれを、茨木のり子さんの『詩のこころを読む』で知りました。

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濱口さんは、国鉄(現JR)の労働者で、「国労」(国鉄労働組合)の文化活動に取り組む中、1956年、国鉄詩人連盟第五回国鉄詩人賞を、この「便所掃除」で受賞します。彼は太平洋戦争では中国、フィリピンなどを転戦し、戦争体験をきっかけに詩を書き始めたと言います。
この詩を、確かに私は好きですが、松村達雄さんが朗読したのが「夕焼け」だと思い込んでいて、この詩を思い出さなかったのは、トホホでした。

だとすると、山田洋次監督の映画「学校」で、西田敏行演じる「黒ちゃん」先生が、夜間中学の生徒立ちに向かって、この詩を朗読したのだったかも知れない。と思って、調べてみると、これも違いました。

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「黒ちゃん」先生が読んだのは、実はこの詩でした。

  夕日   大関松三郎

    夕日にむかってかえってくる
    川からのてりかえしで
    空のはてからはてまで もえている
    みちばたのくさも ちりちりもえ
    ぼくたちのきものにも 夕日がとびうつりそうだ
    いっちんち いねはこびで
    こしまで ぐなんぐなんつかれた
    それでも 夕日にむかって歩いていると
    からだの中まで夕日がしみこんできて
    なんとなく こそばっこい
    どこまでも歩いていきたいようだ
    遠い夕日の中に うちがあるようだ
    たのしいたのしいうちへ かえっていくようだ
    あの夕日の中へかえっていくようだ
    いっちんち よくはたらいたなあ

 この詩の作者、大関松三郎は、1926年新潟県生まれ。小学校時代、生活綴方運動に取り組んでいた教師寒川道夫の指導で、多くの生活詩を残しますが、海軍通信隊員としてマニラに向かう途中乗っていた船が魚雷攻撃を受け、1944年(昭和19年)12月19日、一八歳で亡くなります。
没後の1951(昭和26)年、戦時中、反戦教育者として治安維持法により弾圧を受けていた寒川道夫は、没収されていた松三郎の詩を集めて、詩集「山芋」として出版しました。
次の「虫けら」という詩が、彼の代表作としてよく知られています。

虫けら  大関松三郎

一くわ
どしんとおろして ひっくりかえした土の中から
もぞもぞと いろんな虫けらがでてくる
土の中にかくれて
あんきにくらしていた虫けらが
おれの一くわで たちまちおおさわぎだ
おまえは くそ虫といわれ
おまえは みみずといわれ
おまえは へっこき虫といわれ
おまえは げじげじといわれ
おまえは ありごといわれ
おまえらは 虫けらといわれ
おれは 人間といわれ
おれは 百姓といわれ
おれは くわをもって 土をたがやさねばならん
おれは おまえたちのうちをこわさねばならん
おれは おまえたちの大将でもないし、敵でもないが
おれは おまえたちを けちらかしたり
ころしたりする
おれは こまった
おれは くわをたてて考える

だが虫けらよ
やっぱりおれは土をたがやかさんばならんでや
おまえらをけちらかしていかんばならんでやなあ

虫けらや 虫けらや


もうひとつ、「みみず」という詩も紹介しておきます。

みみず  大関松三郎

何だ こいつめ
あたまもしっぽもないような
目だまも手足もないような
いじめられれば ぴちこちはねるだけで
ちっとも おっかなくないやつ
いっちんちじゅう 土の底にもぐっていて
土をほじっくりかえし
くさったものばかりたべて
それっきりで いきているやつ
百年たっても二百年たっても
おんなじ はだかんぼうのやつ
それより どうにもなれんやつ
ばかで かわいそうなやつ
おまえも百姓とおんなじだ
おれたちのなかまだ

 

わたしは、夜間定時制高校に勤務している頃、生徒たちに映画「学校」を観せたことがありました。それ以前、昼間の学校でも好評で、生徒たちはあんな学校がうらやましいともらしていました。夜間定時制の生徒たちは、自分に引き寄せて観たようで、こんな感想を寄せてくれました。

幸福ってなんだろう?
 人と人とが裸でつきあっていくことに、見栄も何もないもんだと思った。私もいろんな人達と、いろんな形で今までに出会えてきたし、これからもいろんな人達と出会えてゆくんだと思うけど、その時その時の素直な気持ちを大切に、そして人に無条件にやさしくできたらなぁと思う。 
 この映画は初めて観たのだけど、うん、本当によかった。でも、前の私はこーゆう映画を観ると必ずボロボロ泣いていたんだけれど、何でかな、涙が出てきませんでした。本当になんでかなぁー?
 
あと、個人的に、萩原聖人さんの演技って、すごく好き。大好きですねー。それと、幸福って何だろうって、私もよく考えたりすることがあるのだけど、やっぱり今、自分が生きているということにほこりがもてて、自信がもてて、自分の中で何か満たされる気持ちがあることなんだろうなあー、と私は思う。 
 これからもがんばれるのは、きっと周りに大切な人達が増えていっているからなのだろうって思います。


              夜の学校 ---最初はいやだったが
 
私は最初この学校にはいるのがすごくいやでした。夜、学校から帰るのがいやだったからです。でもビデオを見て、夜学校から帰るのがこわくても、学校での生活が楽しければいいなと思いました。先生と生徒と言うよりも、みんなで輪になっているという感じがしました。みんなと仲よくなって、みんなと一緒に卒業したいです。先生が生徒のことをいっしょうけんめい考えていることがわかりました。
 中学の時より楽しい生活ができているのでよかったです。
 
あのビデオでは、不良になっている人でも、必死に立ち直らせて、いろんな人がいる中で、一人一人をいっしょうけんめい考えていたからすごいなと思いました。定時制という学校は、恥ずかしい学校だと思っていました。でも、全日制と全然違わないことを、ビデオで見て知りました。
 私もこれから、頑張りたいです。


       この学校に似ている           
今日「学校」という映画を見て一番に思ったことは、この学校にとても似ているというか、近いものを感じました。ひとつ気になっていたのは給食です。なぜか、こことは違ってパンではなく普通の食事だったような気がします。この映画を観て改めてこの学校のすばらしさを教えてもらった気がします。


 
       すごいな、と思った
「学校」という映画を見たのは、2度目だったんですが、前見たときはちゃんと見なかったので、あまり内容をおぼえていませんでした。
 
50歳を過ぎてから中学に行く人とか、いろいろいるんだなと思いました。夜間の学校に通っている人は昼間は働いて、夜は学校で勉強するのですごいと思いました。私は別に、午前中や昼間は何もすることがないので、学校に来るのはそんなに大変ではないですが、映画のなかの人は、働いていたり、家の事情とかあって、大変だと思いました。
 イノさんは50歳を過ぎてから、初めてはがきを出したりとか、ひらがなを学んだりしているのは偉いと思います。戦争
や、いろんなことで勉強できなかった人とかが、年を取ってから中学に行き、勉強するのがすごいことだと思います。夜間中学があるということは、あまり知らなかったのですが、結構いいところなのかな、と思いました。



 こんなクラスになれたら---
 今でも夜間中学が本当にあるとは思わんかった。おわりごろにイノさんが死んで、クラスのみんなで幸せだったかどーか考えてた。うちは幸せだったと思う。で、クラスで”幸福”について考えよーたけど、うちはわからん。みんながひとつになったクラスは、いいなーと思った。うちの学校も、こーゆークラスばっかりになれたら、すばらしい学
校ができると思った。 
 中学校なのに、給食が”ごうか”だと思った。


   今ここにいられるのが幸福
 この映画は、前に少しだけTVで見たことがある。その時初めて夜間中学の存在を知った。そして思ったことは、すごくあったかとした、家族みたいな感じのクラスだなと思ったのと同時に、私もそこに入ってみたいなという気持ちがあった。
 私達の高校と夜間中学とでは、ただ高校と中学っていう名前が違うだけで、中身は全く変わらないなと思った。今、ここにいれることが”幸福”だと思う。 
 
中学の時に学校へ行かなかったのは、いじめなんてなかったし、クラスの人達みんないい人だった。でも、たぶん、今わかることは、その時自分は何も考えてな
かったからだと思う。したいこととかも別になかったし、義務教育だから行かなければならないっていうことだけしかなかった。
 私は、~しないといけないというのが大嫌いだ。しばられているというか、強制的みたいなかんじで、逆にやりたくなくなる。それが登校しなくなった理由の一つだと思う。なんにもおもしろいとか思わなかったし、ただ時が過ぎていくだけと言った感じで、今までを無駄に過ごしてきた。
 今の学校は、本当に楽しい。とてもじゅうじつしているとはっきり言える。自分にあったトコに入れて、本当によかったと思う。今まで、今の風景を想像していた。それが実現してとてもうれしい。
 今はやりたいこと、やっていっていること、いろいろなことが浮かんでくる。私は精思高校が「学校」のような家庭的なのんびりとした学校に方向づいていってほしいなと思った。クロちゃん先生をこの学校にたくさん増やしていきたい。
 この学校の生徒がみんなやさしい&仲がいいのは、どこか似ているとこがあるからだ。パンピーな人には味わったことのないつらさや痛さを。しかしパンピーな人には味わえないこともあるのが、私にはうれしい。


    思っていたより大切な場所
 今日のビデオを見て、いろんなことに対して考えが変わったと思う。
 私が思っていたより、学校っていうのは大切な所だった。別に学校行って、卒業すればいいと考えを持っていたわけでもない。でも大切さが違っていたように、今は思う。
 勉強ももちろんだけれど、それより、自分とがった人とつきあって、色んな面で力がついて、大きくなっていくのに必要なところだ、学校は。
 
昼間の学校では、自分と同じ年や同じような生活を送っている人とばかりで、映画でも言っていた「人生」の勉強はあまりできないと思う。映画を見てもそうだ
けど、自分は夜間高校へ来て、普通の学校へ行ってる人より、いろんな「経験」をするチャンスが多い。 自分と違った生活の人と一緒に、毎日頑張っていて、
学校っていうところの意味が少しずつ変わってくる。最初は「勉強」としか思いつかないのに、そのうち「第2の家」って感じがしてくる。先生達も友達も、みんながみんなのことを思って、一緒に何かの向かって歩いていくのに、頑張ることを教えてくれるところだ、学校は---。
 書きすぎてわけがわからなくなったのかもしれないけれど、今日はそう思った。


       見習って頑張りたい
 映画を見て思ったことは、この学校とちょっと似ているなと思った。この学校にもいろんな人がいるんだろうけど、うちのクラスにはあんなに大変な人はいなくてよかったと思う。あんなにまで勉強したいと思っている人がいっぱいいるんだなあと感心しました。
 夜、学校に来るって、すごく大変なことなんだと思った。学校にはいるというのはとても勇気のいることだと思う。あの映画のなかの人達は、その、みんな大変そうな人ばかりでも、ちゃんと学校で学ぼうと思っていて、少し見習った。 
 入ってきた時と今の気持ちは全然違うけど、今の方が自分のしたいことがやれて、すごくうれしいです。仕事しながら学校に来るのはしんどいけど、卒業するまできちんと頑張りたいです。


     夕陽の当たる教室で、一時間目がはじまり、暗く更けた夜中に下校していく夜間定時制の生活には、夕日も夕焼けも切り離せません。

10年以上前の、定時制勤務当時の写真を見つけました。
窓の外は夕焼け。

DSCF0216.JPG

 

 灯のともる校舎。

dscf0999.jpg
 
夕暮れ時の教室 。
PDRM0059.JPG
 
夕闇迫るグラウンドで。
PDRM0107.JPG


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さむいねと幽かに声のきこゆるか [私の切り抜き帳]

ちょっと過去のブログ記事をチェックする必要があり、蛙を主題にしたこの二つの記事を引っ張り出してきました。
2013-08-08

2013-08-09

ほかにも、こんな記事に、カエルが出てきます。
2013-08-16
2014-04-12
2014-05-15
2014-06-14
何しろ私のアバターは、アマガエルの後ろ姿です。
そうなんです。実は、私はカエルです。
というのは個人情報につき、伏せておきますが。

けれども、草野心平サンの正体がカエルだったことは、多くの方がご存じでしょう。
私はてっきり、このブログで、草野心平さんの詩を話題にした記事をもっとたくさん書いていたと思い込んでいましたが、

検索してみると、さっきの、この記事のほかには、

これがあるだけでした。

ですので、ちょっと季節が早いですが、この詩を紹介させてください。

秋の夜の会話  草野心平
さむいね
ああさむいね
虫がないてるね
ああ虫がないてるね
もうすぐ土の中だね
土の中はいやだね
痩せたね
君もずゐぶん痩せたね
どこがこんなに切ないんだらうね
腹だらうかね
腹とつたら死ぬだらうね
死にたくはないね
さむいね
ああ虫がないてるね

 

昨日、今日と朝の気温が20℃を下回り、肌寒さを感じるようになりました。

数日前の芋畑には、ツチガエルがたくさん跳ねておりましたが、今朝あたりは、こんな会話をしているかも知れません。

IMGP1749_R_R.JPG
 
IMGP1775_R_R.JPG
 
IMGP1767_R_R.JPG

 

実家の畑のサツマイモは、今年はすっかりイノシシに荒らされたそうです。

農家の知人にお借りしているこの畑は、手入れもしないで放りっぱなしですが、昨日イモのためし掘りをしてみました。

紅いのはベニアズマ、ややオレンジ色っぽいのは安納芋です。まだ小振りで、焼き芋サイズですね。

IMGP5935_R.JPG

 

少々時節遅れですが、今頃、オクラがよく実っています。

IMGP5941.JPG

 

 

枝豆も、何度めかの収獲です。

実家の父が種から育てていた、ハクサイやキャベツなどの野菜の苗を、先日、この畑に定植しておいたのでしたが、昨日言ってみましたら、すっかり姿を消していました。
水切れで萎びたものもあるようですが、虫たちに囓られ尽くした様子が見受けられます。覚悟もなしに「無農薬」で育てるのは至難と、身にしみました。
わずかにダイコンだけが、カイワレダイコン状態を超えて、本葉が伸び始めています。
とにもかくにも、実りの秋は、たのしいものです。
 

実りの秋をひもじく送る蛙たちに、さいわいが訪れますように。

 

 


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なんと言っても峠三吉でした。 [私の切り抜き帳]

8月にちなんで、原爆にまつわる作品を、いろいろ取り上げてきましたが、なんと言っても筆頭に話題にすべきは峠三吉でした。
ただ、この人に触れようとすると、一言では終わりそうにないので、後回し後回しになってしまいます。

まあ、そうはいっても、研究論文を書くわけではないですからね。気軽に、思いつくまま、書き散らすことにしましょう。

まずは「原爆詩集」から。引用は青空文庫版によります。
この詩集には、このような冒頭文が添えられています。

 

一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。


そして巻頭に置かれているのが、この詩です。

 



ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

広島市中区平和記念公園にはこの詩を刻んだ碑が建てられ、次の英訳が添えられています。

"Give Back the Human" Hiroshima Peace Park (August 6, 1963)
Give back my father, give back my mother;
Give grandpa back, grandma back;
Give my sons and daughters back.
Give me back myself,
Give back the human race.
As long as this life lasts, this life,
Give back peace
That will never end.



  八月六日と、まさしく今日の日付を冠した詩があります。

八月六日

あの閃光が忘れえようか
瞬時に街頭の三万は消え
圧(お)しつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え

渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルディングは裂(さ)け、橋は崩(くず)れ
満員電車はそのまま焦(こ)げ
涯しない瓦礫(がれき)と燃えさしの堆積(たいせき)であった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿(のうしょう)を踏み
焼け焦(こ)げた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列

石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれた筏(いかだ)へ這(は)いより折り重った河岸の群も
灼(や)けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光(かこう)の中に
下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも
焼けうつり

兵器廠(へいきしょう)の床の糞尿(ふんにょう)のうえに
のがれ横たわった女学生らの
太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分らぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭(いしゅう)のよどんだなかで
金(かな)ダライにとぶ蠅の羽音だけ

三十万の全市をしめた
あの静寂が忘れえようか
そのしずけさの中で
帰らなかった妻や子のしろい眼窩(がんか)が
俺たちの心魂をたち割って
込めたねがいを
忘れえようか!




姿勢を正さずには読めないこんな詩の、凄まじいイメージの上にこそ、「にんげんをかえせ」の叫びの切実さがあり、「にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ」の訴えの重みがあるのでしょう。
続いてこの詩も、忘れることはできません。

仮繃帯所にて

あなたたち
泣いても涙のでどころのない
わめいても言葉になる唇のない
もがこうにもつかむ手指の皮膚のない
あなたたち

血とあぶら汗と淋巴液(リンパえき)とにまみれた四肢(しし)をばたつかせ
糸のように塞(ふさ)いだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
たれがほんとうと思えよう

焼け爛(ただ)れたヒロシマの
うす暗くゆらめく焔のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのラカン頭を苦悶(くもん)の埃(ほこり)に埋める

何故こんな目に遭(あ)わねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために
そしてあなたたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない

ただ思っている
あなたたちはおもっている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を
(いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)
そして眠り起きごはんをたべた家のことを
(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)

おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を

 不意の惨禍によって、「かつて娘だった、にんげんのむすめだった日」の平安、ささやかなしあわせを根こそぎ奪い去られてしまった女学生たちの、みずから言葉にできない思いを、代わりに声にし、語り、訴えるのが、彼の役目でした。

彼のまなざしは、原爆で多くを奪われた年取ったお母さんにも、温かくそそがれます。

としとったお母さん

逝(い)ってはいけない
としとったお母さん
このままいってはいけない

風にぎいぎいゆれる母子寮のかたすみ
四畳半のがらんどうの部屋
みかん箱の仏壇のまえ
たるんだ皮と筋だけの体をよこたえ
おもすぎるせんべい布団のなかで
終日なにか
呟(つぶや)いているお母さん

うそ寒い日が
西の方、己斐(こい)の山からやって来て
窓硝子にたまったくれがたの埃をうかし
あなたのこめかみの
しろい髪毛をかすかに光らせる

この冬近いあかるみのなか
あなたはまた
かわいい息子と嫁と
孫との乾いた面輪(おもわ)をこちらに向かせ
話しつづけているのではないだろうか
仏壇のいろあせた写真が
かすかにひわって
ほほえんで

きのう会社のひとが
ちょうどあなたの
息子の席があったあたりから
金冠のついた前歯を掘り出したと
もって来た
お嫁さんと坊やとは
なんでも土橋のあたりで
隣組の人たちとみんな全身やけどして
ちかくの天満川(てんまがわ)へ這い降り
つぎつぎ水に流されてしまったそうな
あの照りつけるまいにちを
杖ついたあなたの手をひき
さがし歩いた影のないひろしま
瓦の山をこえ崩れた橋をつたい
西から東、南から北
死人を集めていたという噂の四つ角から
町はずれの寺や学校
ちいさな島の収容所まで
半ばやぶれた負傷者名簿をめくり
呻きつづけるひとたちのあいだを
のぞいてたずね廻り
ほんに七日め
ふときいた山奥の村の病院へむけて
また焼跡をよこぎっていたとき
いままで
頑固なほど気丈だったあなたが
根もとだけになった電柱が
ぶすぶすくすぶっているそばで
急にしゃがみこんだまま
「ああもうええ
もうたくさんじゃ
どうしてわしらあこのような
つらいめにあわにゃぁならんのか」
おいおい声をあげて
泣きだし
灰のなかに傘が倒れて
ちいさな埃がたって
ばかみたいな青い空に
なんにも
なんにもなく
ひと筋しろい煙だけが
ながながとあがっていたが……

若いとき亭主に死なれ
さいほう、洗いはり
よなきうどん屋までして育てたひとり息子
大学を出て胸の病気の五、六年
やっとなおって嫁をもらい
孫をつくって半年め
八月六日のあの朝に
いつものように笑って出かけ
嫁は孫をおんぶして
疎開作業につれ出され
そのまんま
かえってこない
あなたひとりを家にのこして
かえって来なかった三人

ああお母さん
としとったお母さん
このまま逝ってはいけない
焼跡をさがし歩いた疲れからか
のこった毒気にあてられたのか
だるがって
やがて寝ついて
いまはじぶんの呟くことばも
はっきり分らぬお母さん

かなしみならぬあなたの悲しみ
うらみともないあなたの恨みは
あの戦争でみよりをなくした
みんなの人の思いとつながり
二度とこんな目を
人の世におこさせぬちからとなるんだ

その呟き
その涙のあとを
ひからびた肋(あばら)にだけつづりながら
このまま逝ってしまってはいけない
いってしまっては
いけない


 
そして、彼は、声を振り絞って真実の歌を歌うことを自らに課するとともに、うちひしがれて生きる意欲も萎えている被爆者たちに、「二度とこんな目を人の世におこさせぬ」ために、生き続け語り続けるよう励まします。

いまでもおそくはない

あなたのほんとうの力をふるい起すのはおそくはない
あの日、網膜を灼く閃光につらぬかれた心の傷手から
したたりやまぬ涙をあなたがもつなら
いまもその裂目から どくどくと戦争を呪う血膿(ちうみ)をしたたらせる
ひろしまの体臭をあなたがもつなら

焔の迫ったおも屋の下から
両手を出してもがく妹を捨て
焦げた衣服のきれはしで恥部をおおうこともなく
赤むけの両腕をむねにたらし
火をふくんだ裸足でよろよろと
照り返す瓦礫(がれき)の沙漠を
なぐさめられることのない旅にさまよい出た
ほんとうのあなたが

その異形(いぎょう)の腕をたかくさしのべ
おなじ多くの腕とともに
また墜ちかかろうとする
呪いの太陽を支えるのは
いまからでもおそくはない

戦争を厭(いと)いながらたたずむ
すべての優しい人々の涙腺(るいせん)を
死の烙印(らくいん)をせおうあなたの背中で塞(ふさ)ぎ
おずおずとたれたその手を
あなたの赤むけの両掌(りょうて)で
しっかりと握りあわせるのは
さあ
いまでもおそくはない

 



 峠三吉(とうげさんきち 本名みつよし)は、1917(大正6)年、大阪府豊中市に生まれ、幼い頃に広島に移ります。子供の頃から病気がちだった彼は、少年時代から詩や短歌、俳句などを作りはじめます。広島商業学校卒業後、肺結核で入院・療養をくり返す青春時代を過ごします

そのころの作品を少し見ておきます。

短歌
はるばると八重の潮路を吹きてくる南の風に海の香のあり(1939年 19歳)

浴衣縫う姉かそけくもひとりいて今宵の窓の月の清けさ(1937年 20歳)

若き命突撃にあまた散るときも雲は黙(もだ)しすぎゆくらんか (1937年 20歳)

花売りと父が話す声聞こえ寝覚めの痰を吐きに立ちけり (1938年 21歳)

元気を出せ元気を出せと兵隊の友は言いつつゆきて帰らず (1939年 22歳)
褪せ果てし小旗斜めに垂れ立てる戦士の墓を夕かげに読む(1940年 23歳)
肩抱だき髪かい撫でば堪え難し此の人を嫁(や)りて如何にか生きん!(1941年 24歳)
拷問に手足の爪を失うと噂されたる兄と入る風呂((1942年 25歳)
独りになりて心ゆく迄吐くべしと寝覚めの痰に身じろがずにいる(1944年 27歳)


俳句

春惜しむ宵や青磁の壺一つ
ゆすらうめ昔恋ほしと噛むべかり

血を吐いて氷山のにおい睡うなる

物言えぬままに死ぬのか霧は銀



 夏祭

汐の香が夜風にのってそっと
私しを誘ふ
月が窓からのぞいて私しの胸に
うす青い灯をともした、
ツルゲェネフは瞬間が永遠だといった
けれど、
 お月さま
あの時が私しの永遠だったので
せうか――
花火があがる、わたしはもう
長い間病んでゐる。
 

 

美しい日は去る

少年の日は去った、
少年の日は去った、
  コスモスの花の倒れるやうに――
  僕の頬の青ざめるやうに――

洋館の校舎には見知らぬ生徒が通ひ
 へう へう と、哀歓に鳴り渡るポプラ……
ぐみの実は凋み、ああこの川の水の冷たさ……

少年の日は去った、
少年の日は去った、
  銀の絃(いと)の錆びるやうに――
  血の色の褪るやうに――


 

夏の花


軟らかな 青い たそがれ、
紅づいた 石榴のたわみ枝(え)、
水に浸けた わたしの 指の白さに
われがちに寄って来る 金魚の中の一尾を
たなごころに重く のせるとき
頭の上の空は薔薇色に燃え初めます、
静かに 鮮麗な わたしの たそがれ――。
 樹蔭のアンターレスが南に廻り、白鳥座が追憶にそのうなじを
 伸すと、幾万光年の星雲を窺(のぞ)き
 木星がいくつかの月の無韻のロンドを観れば、
更けて おそろしい 人の世ではありませんか……
青い衣に、青い袖に、
私は寂び寂びと 神を祈るのです。


 原民喜だけでなく、峠三吉にも「夏の花」がありました。

心に

広葉いっぱいに 濡れて
ぱさと垂れた 雨の日の篠懸(すずかけ)を潜って
行く ときも
 心よ! 寂しがってはいけない、
一週毎に 此の並木を通った人の
深みどりの傘を 搏(う)ち触れたであらう
その同じ 枝葉であっても、

晴れた日 堤路を 歩みながら
対岸の街並みごしに
静かに
川面に影をつらねる
山脈(やまなみ)に 手翳す ときも
こころよ! 寥(さび)しがってはいけない、
山麓の 小家に住んだ人が
朝夕に 眸をやったであらう
その同じ 山容であっても、

 さあ! 心よ! 思ふのだ、
此の振り仰ぐ碧空は
踏みしむる土は、其の人のいまも現に
強く祟(たか)くと生きつつある土地、
幸ひを歌ひ降らしつつある
輝く碧空であることを!



 

繊細でもの悲しい、そして清澄で透明な叙情詩が、彼の持ち味でした。

 

戦後(被爆後)の作品にも、やさしく美しい叙情詩はときおり姿をあらわしています。

手紙

夕明かり み空に残り
貝殻の 雲は ちらばふ

しのびやかに ポストに 手入れ
祈るごと 放せば
かさりと 底に収る
わたしの 手紙

その時
海を越えた
向ふの 貴女の心の上に
かさりと
白い羽根が
重たく かさなる

わたしの 分身の
白い羽根が
重なる

もし被爆という事件がなかったら、峠三吉の文学はどのような花を咲かせたことでしょうか?
その彼は、1945(昭和20)年、28才の時、爆心地から3km離れた広島・翠町の自宅で被爆します。直接の傷は軽かったものの、親戚、知人を捜して市内を歩きまわったため、放射能被曝による原爆症で、入院します。この時の見聞を書き留めたことが

後の『原爆詩集』に生かされました。
1950年、国立広島療養所で、米トルーマン大統領が、朝鮮戦争でも原子爆弾使用の可能性と発言を聞き、原爆使用への抗議をこめて、療養所の一室で『原爆詩集(げんばくししゅう)』の25編の詩のうち、18編を書き上げたと言います。

『原爆詩集』は、1951(昭和26)年のドイツ、ベルリンで開かれた世界青年学生平和祭に送られ、反響をよびました。1952年(昭和27)年には、子供達の詩を集めた詩集、『原子雲の下より』を編集する場度、病気をおして奮闘しました。

1953(昭和28)3月10日、彼は、創作活動・社会活動に耐えうる健康な身体をとりもどすため、持病の肺の手術を決意します。国立広島療養所で挑んだ肺葉切除手術中は、しかし、成功せず、手術台上で帰らぬ人となりました。享年36歳でした。

私の本棚には、増岡敏和著『八月の詩人 原爆詩人・峠三吉の詩と生涯』という本があります。学生時代に読んだ本です。

八月の詩人―原爆詩人・峠三吉の詩と生涯 (1970年)

八月の詩人―原爆詩人・峠三吉の詩と生涯 (1970年)

  • 作者: 増岡 敏和
  • 出版社/メーカー: 東邦出版社
  • 発売日: 1970
  • メディア: -


 

人間として、芸術家として、社会運動家としての峠三吉の実像を、実資料にもとづいて克明に浮かび上がらせた労作です。

改めて読み返してみますと、昔、私が鉛筆で印をほどこしている部分がありました。闘病に明け暮れる青年前期の頃の日記です。

人世は厳粛なものである。
渾身の勇をふるって自分の人生を創造すべきものである。自分の一生はもう駄目だ、まあこの次に生まれた時はうまくやるさ、等とは冗談にも言うべき言葉では無い。諦念的ヒロイズムに一時でも酔生することは許されるべきでは無い。
 
『あるがままの人生を認め、しかもそれを愛してゆく」というのは良い言い草には違いないが、それを看板にすることは間違いである。
人生は唯一のもの、荘厳極まるものである。総力を尽くして自分の人生を彫み、拓き、造らねばならない。
「病身」という事はこれに何の関係も無い。人間は長生きが目的で無い以上、自分の人生創造の戦いに何で「病気」が逃避の理由に出来ようか。
もしそれによって、人生行路開拓の途上に仆れたならば、それは戦死である。美しき凱旋である。ああ三吉よ、汝のコースをしんしんと測定せよ。然してりんりんと蹂躙に進め

 

その頃彼は、こんな歌を詠んでいます。

あるがままなる人生を愛せよというは負くるに似たる

 でも、病気の方はなかなかの強敵で

生きるというは虚しきものか一本の鉛筆を冬の雲に転がす

物言えぬままに死ぬのか雲は銀

などと、弱気になったりもする青春でした。

後に、被爆詩人、反戦・平和運動家としてその筆に全霊を傾けるようになってからの彼は、生きることに意欲を燃やします。

彼が座右においたのは「髪にそよぐ風のように生き、燃え尽くした炎のように死ぬ」(ルイ・アラゴン)という詩句や、「人間にあって一番大切なもの、それは命だ。それは人間に一度だけ与えられる。そしてそれを生きるには、当てもなく生きつづけてきた年月だったと胸を痛めることのないように生きねばならぬ。卑しいくだらない過去だったという恥に身を焼くことのないよう生き通さねばならぬ。そして、死にのぞんで、全生涯が、またいっさいの力が、世界で最も美しいこと、つまり人類解放のための闘争にささげられたといい切ることができるよう生きなければならぬ。」(「鋼鉄はいかに鍛えられたか」)というオストロフスキーの文章の一節だったそうです。後者は、彼自身が筆書きで病室の壁に貼っていた文章だと言います。

二年前には五分五分といわれた手術の成功率が、1953年には七分三分に向上したという時点で、彼は、七分の成功率に賭けて、果敢に手術を受けたのです。その決意を、仲間のひとりに「一年に二度も三度も喀血し、貧しい友らの輸血を貰い、貧しい友らのカンパを貰い思うように詩も書けず、十年おびえて生きのびるより、科学を信じて肺摘を受け、健康をかちとる生き方こそいまの僕らのものではないか」と語ったと言います。
しかし、十四時間もの奮闘も適わず、手術台上で彼は息を引き取ったのです。

まさしく彼の愛した、「髪にそよぐ風のように生き、燃え尽くした炎のように死ぬ」(ルイ・アラゴン)という言葉通りの人生だったといえるでしょう。彼は若くして逝きましたが、彼の作品は、今もなお、輝きを失うことはありません。


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原民喜『原爆小景』のことなど [私の切り抜き帳]

勢いづいて、8月6日の記事のつづきを書くことにします。

原民喜の『夏の花』には触れました。

彼の詩は、それとは別の強いインパクトで読者を撃ちます。
片仮名書きの独特の表現のなかから、現出する地獄絵、とても正視するに堪えません。 しかし、原水爆による被害の種子が、世界中から消滅してしまうその日まで、後の世の私たちは、悲しみに堪えて見つめなければならないのでしょう。

悲惨と恐怖のみを強調する「平和教育」には賛同できません。取り巻く環境のすべてが平和で安全で、身も心も安らかにくつろぎ、未来への希望が輝いているような、名実ともに「平和」な状態を、子ども達に感得させる事のできる教育が本当の「平和教育」だと信じます。

同時にそれを脅かし踏みにじる凶暴で理不尽な力に対しては、それを排除して、子ども達を守ることが、大人の責務と言わねばならないでしょう。

青空文庫版『原爆小景』から、数編引用させていただきます。

  コレガ人間ナノデス

コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
肉体ガ恐ロシク膨脹シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス

 

  燃エガラ

夢ノナカデ
頭ヲナグリツケラレタノデハナク
メノマヘニオチテキタ
クラヤミノナカヲ
モガキ モガキ
ミンナ モガキナガラ
サケンデ ソトヘイデユク
シユポツ ト 音ガシテ
ザザザザ ト ヒツクリカヘリ
ヒツクリカヘツタ家ノチカク
ケムリガ紅クイロヅイテ

河岸ニニゲテキタ人間ノ
アタマノウヘニ アメガフリ
火ハムカフ岸ニ燃エサカル
ナニカイツタリ
ナニカサケンダリ
ソノクセ ヒツソリトシテ
川ノミヅハ満潮
カイモク ワケノワカラヌ
顔ツキデ 男ト女ガ
フラフラト水ヲナガメテヰル

ムクレアガツタ貌ニ
胸ノハウマデ焦ケタダレタ娘ニ
赤ト黄ノオモヒキリ派手ナ
ボロキレヲスツポリカブセ
ヨチヨチアルカセテユクト
ソノ手首ハブランブラント揺レ
漫画ノ国ノ化ケモノノ
ウラメシヤアノ恰好ダガ
ハテシモナイ ハテシモナイ
苦患ノミチガヒカリカガヤク

 

 

  日ノ暮レチカク

日ノ暮レチカク
眼ノ細イ ニンゲンノカホ
ズラリト河岸ニ ウヅクマリ
細イ細イ イキヲツキ
ソノスグ足モトノ水ニハ
コドモノ死ンダ頭ガノゾキ
カハリハテタ スガタノ細イ眼ニ
翳ツテユク 陽ノイロ
シヅカニ オソロシク
トリツクスベモナク

 

 

  水ヲ下サイ

水ヲ下サイ
アア 水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ
死ンダハウガ
アア
タスケテ タスケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー

天ガ裂ケ
街ガ無クナリ
川ガ
ナガレテヰル
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー

夜ガクル
夜ガクル
ヒカラビタ眼ニ
タダレタ唇ニ
ヒリヒリ灼ケテ
フラフラノ
コノ メチヤクチヤノ
顔ノ
ニンゲンノウメキ
ニンゲンノ
枠内の背景色をラベンダーに設定

 
『夏の花』でも見たとおり、原民喜は、被爆の前年、妻を病気で亡くしています。

 

「もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残らう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために・・・と突飛な烈しい念想がその時胸のなかに浮上つてたぎつたのだつた。」(「遙かな旅」)という痛切な悲しみを抱えた彼は、皮肉にも、妻の死の1年後、疎開先の幟町の生家で被爆するのです。四十歳の時でした。幸い便所にいたため、いのちは助かりますが、家は倒壊し、二晩野宿するという経験します。その間に彼の目に映るすべての出来事は、阿鼻叫喚の地獄絵図そのものでした。

「今後生キノビテコノ有様ヲツタヘヨト天ノ命ナランカ」 (『原爆被災時のノート』)と感じた彼は、その後、生き残った者の責任として、原爆で逝った人々への鎮魂と妻への哀悼の思いを込めて、被爆体験・惨状を伝える作品を多数書き続けました。

しかし、人々の願いを踏みにじる朝鮮戦争の勃発や、トルーマン米大統領の「原爆使用もありうる」との声明に大きく失望し、1951年
3月13日、東京中央線の線路に身を横たえ自殺するのです。46歳でした。

広島市中区大手町の原爆ドーム前に「遠き日の石に刻み  砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか  一輪の花の幻」 と遺書に添えられていた詩句を刻んだ詩碑が建てられています。

この碑は、もとは、亡くなった年1951年の11月に、梶山季之ら、親交のあった作家や文学者たちが故人を偲んで建立したもの。もとは広島城跡の大手門前に石垣を背にして建てられていました。

設計は谷口吉郎(東京工大教授)。碑文の陶板は加藤唐九郎作。さらに、裏面の銅板には、佐藤春夫の追悼文が刻まれていました。

しかし子どものいたずらか、心ない人達の悪ふざけか、無思慮な石投げの的とされ、表面の陶板は穴だらけとなり、裏面の銅板も盗まれてしまったことから、1967(昭和42)年7月29日に修復移設されたそうです。その後、歩道工事に伴い、数メートル移設され現在に至っているそうです。その際に、陶板が黒みかげ石に替えられています。

さらに詳しくは、広島市立中央図書館の広島文学資料室のページをオススメします。



  


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『原子雲の下より』 のことなど [私の切り抜き帳]

今日は八月六日です。
去年の今日はこんな記事を書いていました。
病み上がりで根気が続かなかったせいもありましょうが、あっさりしたものです。
再読してみて、このようなスタイルも好ましいかなと、最近の記事を反省しました。
が、たちまちこの反省を投げ棄てて、今日は冗長な記事になりそうな予感。御免なさい。

最近、読書という営為から遠ざかってしまい、とんと本棚からご無沙汰です。

購読意欲が湧く新刊書はまれですし、古本屋に出かけても、分厚い本は断捨離を妨げますので、いきおい買いひかえることになります。調べ物は、重たい本のページをめくらなくとも、たいがいネットで間に合います。紙データは、老眼鏡なしには一行も読み進めませんし、めがねをかけてもすぐに目が疲れます。
こんなことを口実に、本を読まないまま日々が過ぎます。

ブログを始めて、アウトプットする機会は増えたものの、この間とんとインプットというものにご無沙汰ですので、もはや話題も月形半平太ですわ(ギャグです)。
そんなことを思いながら、久しぶりに本棚を眺めるうちに、先日来、『日本の原爆記録』という全集ものを何冊か斜め読みしています。
今日の話題は、その『日本の原爆記録 第一九巻 原爆詩集広島編』です。
子どもたちから、やや年上の少年少女、市民、詩人、各界の方々の、多彩な詩が収められています。そのかなりのものは、すでにいろいろな機会に見知っているものでもありました。
これを読みながら思い出しましたが、高校時代の私の本棚には、当時、田舎の書店で手に入れることのできた原爆を題材とした詩集が何冊か並んでいました。今あいにく手元に見あたりませんが、青木文庫版の「詩集 原子雲の下より」、同じく青木文庫の峠三吉「原爆詩集」のほか、出版社も書名も忘れましたがハードカバー版の現代詩集に収められた峠三吉や原民喜や栗原貞子の詩に強い衝撃を受けたものでした。

原子雲の下より―詩集 (1952年) (青木文庫〈第62〉)

原子雲の下より―詩集 (1952年) (青木文庫〈第62〉)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 青木書店
  • 発売日: 1952
  • メディア: 文庫




原子雲の下より―新編8・6少年少女詩集

原子雲の下より―新編8・6少年少女詩集

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 亜紀書房
  • 発売日: 1989/06
  • メディア: 単行本



『日本の原爆記録 第一九巻 原爆詩集広島編』には、当然のことながら、それらの印象深い詩もちゃんと収められています。
「詩集 原子雲の下より」は、被爆七年目1952年、峠三吉と山代巴の編集で、小学生から大人までの民衆の原爆詩が集められています。前回引用した「よしこちゃんが やけどで ねていてーー」の詩も、これに収められていました。

ほかに、目にとまった詩を、あと二つほど紹介しておきます。

無題   小学5年香川征雄

よしお兄ちゃんが
げんばくで
死んだあくる日
おかあちゃんが
まい日   まい日
さがしたが
きものも
かばんも
べんとうばこも
骨も
なかった
おかあちゃんは
よしお
なぜ死んだのと
ないて
ないた
ぼくは
げんしばくだん
だいきらいだ

 

  とうとう帰ってこない 中学一年 徳沢尊子

「お母さん お母さん」
まっても まっても
夜まで まっても帰らない。

次の日も
その次の日もかえってこない。

八月六日の朝
出て行くときに元気な声で
「たか坊 いってくるよ」
といったが
どこへ行ったのか帰っては来ない

それから
七年たったが
まだ帰ってこない
このつづきは、また今度。ごきげんよう。
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原爆歌集句集長崎編から(その1) [私の切り抜き帳]

この記事に書いたものと同じ本棚の並びに『日本の原爆記録 第一八巻 原爆歌集句集 長崎編』というのがありましたので、手に取ってみました。全く初めてページを開くわけでもないのですが、その圧力にとらえられて、しばし目を離せませんでした。
「長崎編」とありますが、「原爆歌集」については、広島編・長崎編の両方を、便宜上この巻に収めたものだそうです。

p50から一九六六年刊の『炎の歌集』が収められています。
阿部正路、島内八郎、豊田清史編とあります。前回長歌を引用した島内八郎氏の名がここにも登場し、自身の短歌も掲載されています。
巻頭には、「序歌」として、日本初のノーベル賞受賞者湯川秀樹博士のこの歌が載せられています。

まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは

「まがつび」とは、災害・凶事を起こす神だそうです。
この句を刻んだ句碑は、広島平和公園にもあると言います。
余談ですが、日本初のノーベル賞受賞者である理論物理学者として、科学者の責任を重く受け止め、原水爆禁止運動にも積極的に取り組んだ博士は、同時に文学的素養の豊かな方でしたが、「余技」として短歌をたしなみ、核兵器についての歌も他にもいくつか残しています。
    天地のわかれし時に成りしという原子ふたたび砕けちる今 
    今よりは世界ひとつにとことはに平和を守るほかに道なし
    この星に人絶えはてし後の世の永夜清宵何の所為ぞや
   ふたたびは歌も詠まじと思いきし秋更くる夜に残る虫の音[ね]
    雨降れば雨に放射能雪積めば雪にもありといふ世をいかに 

この歌集に収められた歌人は多岐に渡りますが、特に正田篠枝さんの歌に目がとまります。
最初に載っているのが、
太き骨は先生ならむ そのそばに小さきあたまの骨あつまれり
この歌は、「広島県原爆被爆教師の会」によって広島市中区平和大通に建立された「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれています。(以前写した画像を残していたはずですが、どこに散逸したのか、見あたりません。)
戦争末期、国民学校初等科の3年生以上の児童は強制的に田舎に疎開させられていました。そのため、原爆被害を受けた小学生は、幼くて親元に残っていた1・2年生と、建物疎開作業に従事させられた高等科の生徒たちでした。国民学校教師約200人と子ども約2,000人が、広島の原爆で犠牲になったそうです。
歌碑を見たとき、私は「大き骨は先生ならむ そのそばに小さきあまたの骨集まれり」の誤記ではないかと疑いました。「太き骨」「頭の骨」では即物的に過ぎて、ポエジーを乱していないかと感じたのでした。
でも、ポエジーを仮に犠牲にしたとしても、リアル(現実)の悲惨に忠実であろうとした表現なのだろうと、今は考えています。最後まで教師を信頼してその周囲に身を寄せる幼い児童たちと、彼らを自らの身体でひな鳥のように覆いかばう教師。ある意味美談、聖談ですが、それだけにむごさ無念さが際だちます。

他に、このような歌に心がとらえられました。

帰りて食べよと見送りし子は帰らず仏壇にそなうそのトマト紅く
ひとに会うこころおこらず裏道を選びて通う原爆病院へ
学生がわが短歌をば歌誌に見ておばさんの歌いつも寂しいね


季節が夏ですので、トマトはつきものです。
トマトというと、この詩を思い出します。
無 題   小学五年  佐藤 智子

よしこちゃんが
やけどで
ねていて
とまとが
たべたいというので
お母ちゃんが
かい出しに
いっている間に
よしこちゃんは
死んでいた
い(※)もばっかしたべさせて
ころしちゃったねと
お母ちゃんは
ないた
わたしも
ないた
みんなも
ないた
(広島市南観音小学校)




いわさきちひろさんの絵本「わたしがちいさかったときに」でも取り上げられています。このページ参照


わたしがちいさかったときに―原爆の子 他より (若い人の絵本)

わたしがちいさかったときに―原爆の子 他より (若い人の絵本)

  • 作者: 長田 新
  • 出版社/メーカー: 童心社
  • 発売日: 1967/07/20
  • メディア: 単行本

 


原爆の子―広島の少年少女のうったえ〈上〉 (岩波文庫)

原爆の子―広島の少年少女のうったえ〈上〉 (岩波文庫)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1990/06/16
  • メディア: 文庫

 

原爆の子―広島の少年少女のうったえ〈下〉 (岩波文庫)

原爆の子―広島の少年少女のうったえ〈下〉 (岩波文庫)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1990/06/18
  • メディア: 文庫



原爆の子 [DVD]

原爆の子 [DVD]

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  • メディア: DVD









    つづきは次回です。



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