手元の地図と道路の案内標識を頼りに、岬の分教場に向かいます。
やっと、岬の分教場専用駐車場に到着。
徒歩で50m歩きます。
小豆島町公式ホームページをのぞいてみると、岬の分教場について、このように紹介してあります。
校舎横の植木も、さすが小豆島らしく、オリーブの木ですね。
220円の入場料で、校舎の中に入ってみます。
廊下から教室が見通せます。
5・6年の教室もあります。
「二十四の瞳」では、確か、低学年の間だけ分教場に通い、上級学年になると本校に通うようになるという設定でしたっけ。
教室の中が、タイムカプセルのように、当時のまま、保存されています。
大きな算盤。
裸電球が郷愁を誘います。
毎日見上げる正面の壁には、こんな目標が掲げられています。
こんなメッセージも書き残されていました。
教室にはいろいろな展示や掲示が飾られています。
これは「二十四の瞳」の作者壺井栄の自筆の書。
「二十四の瞳」のワンシーンを思わせる人形。
興味深いのは、何度も何度も釘で補修された机。
どの机にも、小刀で刻んだらしい傷があります。懐かしい無邪気ないたずらです。
展示物の一つに、教育勅語がありました。
ウィキペディアは、教育勅語のポイントを「12の徳目」としてこのようにまとめています。
もちろん、このうち、最大の眼目は12で、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」ることのできる忠良な臣民を育成することが、学校教育に課せられたのでした。
以前、◇自民HP「密告フォーム」と「二十四の瞳」、の巻(4)の記事に、「二十四の瞳」からこんな一節を引用しました。
このような時代の再来は、ごめんこうむりたいものです。
明日から週末にかけて、県外に出かけます。ネット環境も整っていませんので、ブログの更新も訪問もしばらくの間お休みします。
では、ごきげんよう。
やっと、岬の分教場専用駐車場に到着。
徒歩で50m歩きます。
小豆島町公式ホームページをのぞいてみると、岬の分教場について、このように紹介してあります。
「二十四の瞳」の舞台となった田浦分校。明治35年(1902)8月田浦尋常小学校として建築された切妻瓦葺平屋建校舎で2教室と教員住宅を含んでいます。その後、明治43年から苗羽小学校田浦分校として使用され、昭和46年(1971)閉鎖されました。 「二十四の瞳」の小説の舞台となってから一躍有名になり、訪れる人が絶えません。教室には当時のままの机やオルガン、子供たちの作品などが残っており、椅子に腰かけて目をつむるとありし日の想い出がよみがえるでしょう。 | |
校舎横の植木も、さすが小豆島らしく、オリーブの木ですね。
220円の入場料で、校舎の中に入ってみます。
廊下から教室が見通せます。
5・6年の教室もあります。
「二十四の瞳」では、確か、低学年の間だけ分教場に通い、上級学年になると本校に通うようになるという設定でしたっけ。
教室の中が、タイムカプセルのように、当時のまま、保存されています。
大きな算盤。
裸電球が郷愁を誘います。
毎日見上げる正面の壁には、こんな目標が掲げられています。
こんなメッセージも書き残されていました。
教室にはいろいろな展示や掲示が飾られています。
これは「二十四の瞳」の作者壺井栄の自筆の書。
「二十四の瞳」のワンシーンを思わせる人形。
興味深いのは、何度も何度も釘で補修された机。
どの机にも、小刀で刻んだらしい傷があります。懐かしい無邪気ないたずらです。
展示物の一つに、教育勅語がありました。
ウィキペディアは、教育勅語のポイントを「12の徳目」としてこのようにまとめています。
12の徳目 1.父母ニ孝ニ (親に孝養を尽くしましょう) 2.兄弟ニ友ニ (兄弟・姉妹は仲良くしましょう) 3.夫婦相和シ (夫婦は互いに分を守り仲睦まじくしましょう) 4.朋友相信シ (友だちはお互いに信じ合いましょう) 5.恭儉己レヲ持シ (自分の言動を慎みましょう) 6.博愛衆ニ及ホシ (広く全ての人に慈愛の手を差し伸べましょう) 7.學ヲ修メ業ヲ習ヒ (勉学に励み職業を身につけましょう) 8.以テ智能ヲ啓發シ (知識を養い才能を伸ばしましょう) 9.德器ヲ成就シ (人格の向上に努めましょう) 10.進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ (広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう) 11.常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ (法令を守り国の秩序に遵いましょう) 12.一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ (国に危機が迫ったなら国のため力を尽くし、それにより永遠の皇国を支えましょう) | ||
もちろん、このうち、最大の眼目は12で、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」ることのできる忠良な臣民を育成することが、学校教育に課せられたのでした。
以前、◇自民HP「密告フォーム」と「二十四の瞳」、の巻(4)の記事に、「二十四の瞳」からこんな一節を引用しました。
人の命を花になぞらえて、ちることだけが若人の究極の目的であり、つきぬ名誉であるとおしえられ、信じさせられていた子どもたちである。日本じゅうの男の子を、すくなくもその考えにちかづけ、信じさせようと方向づけられた教育であった。校庭のすみで本を読む二宮金次郎までが、力ンコの声でおくりだされてしまった。なん百年来、朝夕をしらせ非情を告げたお寺の鐘さえ鐘楼からおろされて戦争にいった。 大吉たちがやたら悲壮がり、命を惜しまなくなったこともやむをえなかったのかもしれぬ。 しかし大吉の母は、 一度もそれに賛成はしなかった。 「なああ大吉、おかあさんはやっばり大吉をただの人間になってもらいたいと思うな。 名誉の戦死なんて、一軒にひとりでたくさんじゃないか。死んだら、もとも子もありゃしないもん。おかあさんが一生けんめいに育ててきたのに、大吉ァそない戦死したいの。おかあさんが毎日泣きの涙でくらしてもえいの?」 のぼせた顔にぬれ手ぬぐいをあててでもやるようにいったが、熱のはげしさは、ぬれ手ぬぐいではききめがなかった。 かえって大吉は母をさとしでもするように、 「そしたらおかあさん靖国の母になれんじゃないか」 これこそ君に忠であり親には孝だと信じているのだ。 | ||
このような時代の再来は、ごめんこうむりたいものです。
明日から週末にかけて、県外に出かけます。ネット環境も整っていませんので、ブログの更新も訪問もしばらくの間お休みします。
では、ごきげんよう。