立春にまつわる蘊蓄は、ずっと以前、◇木蓮のつぼみ柔らに春立ちぬの記事に書きました。
春立ちける日詠める・紀貫之 袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つ今日の風やとくらむ 古今集の撰者の一人、紀貫之の歌です。 学研全訳古語辞典を引用します。 [訳] 夏の日の袖がぬれるまでにして手にすくった水が、冬の間凍っていたのを、立春の今日の風が解かしていることであろう。 鑑賞:季節の推移を水の変化(水→氷→水)によって巧みに表現して、立春を迎えた喜びを詠んだもの。「むすび」は「掬(むす)び」と「結び」との、「春」は「張 この歌を現代語で解釈しようとすると、理屈っぽくなってしまい、歌としてはどうなの?と突っ込みたくなりますね。 そもそも、歌っている季節は春なの?夏なの?冬なの? 極めつけは、これでもかと言わんばかりの修辞や技巧。「サムイ親父ギャグ」並の言葉遊びですか? 古今集の歌風の特徴をなす、「優美・繊細・理知的」といった傾向は、大なり小なり「理屈っぽさ」と形式重視の頭でっかちに傾きがちで、貫之はといえばその歌風の推進者ですから、無理もないのですが。 でもこの歌、その鼻につく理屈っぽさと言葉遊びの を少々大目に見てやると、こめられている季節感なり歌の調べなりは、なかなか捨てたものでもなさそうです。 「立春」という知的認識がもたらす観念的・論理的連想が、情緒的・体感的な感覚を伴って心象風景となって繰り広げられ、みずみずしいといってもいい季節感を醸しているではありませんか。特に「泉の水」というピンポイントに照準を合わせて、うつりゆく季節の時間的推移が複層的に読み込まれています。 それを図式化してみると、 といった具合でしょうか?実際のその目で確かめた春ではありませんが、「立春」であるからには、今頃は、かならずや山の泉の氷も溶けて春が訪れているだろうと、心の中にはありありと、穏やかな春の訪れが「体感」されているのです。 |
今朝の散歩道は、白い霜に覆われていました。
コガモたちが寛いでいる小径は、春になると桜のトンネルになる並木道です。
ハクセキレイも霜の中。
ツグミも寒そう。
こんなもっこりしたスズメをふくらすずめというらしい。
するとさしずめこれなどは、ふくらヒヨドリ?
きょうはこれにて。