暑くて寝苦しい夜はとっくに過ぎ去って、逆に、昨夜などは足先が冷たくて目が覚めるほどでした。二時、三時にいったん目ざめると、目が冴えてそれから一睡もできない、、、などと思いつつ、覚醒状態でいろいろあれこれとりとめもないことを考えている、、つもりが、どうも考えていることがトンチンカンでおかしい。登場者の年齢があり得ない若さであったり、やることなすことでたらめであるので、なにやら違和を感じながら、冷静に思いをめぐらすと、どうも夢を見ていたか、それとも寝ぼけていたかのうちに、時刻は四時、五時になっている、、というようなパターンが最近続きます。もうこれ以上眠れそうもないので、起き出して、朝散歩でもするのが生産的だろうかという次第で、昨朝も今朝も、夜明け時にひと歩きしてきました。
昨日(10月4日)の朝の写真です。





今朝(10月5日)の写真です。











昨夜は十五夜でした。
今朝の地元新聞「山陽新聞」は、岡山城・後楽園や瀬戸大橋、備中国分寺などを見事な月の写真を添えて、第一面に「中秋の名月」の記事を載せていました。それによると、十五夜=満月という思い込みは、どうやら勘違いだったようです。




今年の十五夜は、暦の関係で2009年以来八年ぶりに10月にずれ込んだ。美星天文台(井原市)によると、新月から満月になる'までの日数は13・9日~15・ 6日とばらつきがあるため、今年は満月より2日早い「名月」となった。



我が家から見あげた月は、始め、雲に遮られて、なかなか全体像を見せませんでした。


まさに徒然草のこんな一節が浮かびます。以前もこの記事で書きましたが、、、。↓

◇「展望レストラン」再訪、の巻





花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、垂れ込めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。
【地方語訳】
桜の花は満開を、月は曇りのねえもんだけを見るもんじゃろうか、いや、そんあこたあねえ。
降りようる雨に向こうて月を恋い慕うたり、簾を垂れえて部屋の中に閉じこもり春が暮れていく行方を知らずにおるのも、やはりしみじみ趣が深いことですなあ。




これに対して、江戸時代の国学者本居宣長は、こんないちゃもんをつけてます。




 兼好法師が徒然草に、
「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。」
とか言へるは、いかにぞや。
 いにしへの歌どもに、花は盛りなる、月はくまなきを見たるよりも、花のもとには風をかこち、月の夜は雲をいとひ、あるは待ち惜しむ心づくしをよめるぞ多くて、心深きもことにさる歌に多かるは、みな花は盛りをのとかに見まほしく、月はくまなからんことを思ふ心のせちなるからこそ、さもえあらぬを嘆きたるなれ。いづこの歌にかは、花に風を待ち、月に雲を願ひたるはあらん。さるを、かの法師が言へるごとくなるは、人の心にさかひたる、のちの世のさかしら心の、つくりみやびにして、まことのみやび心にはあらず。
【地方語訳】
兼好法師の徒然草に、「桜の花は満開を、月は曇りのねえもんだけを見るもんじゃろうか、いや、そんあこたあねえ。」とか言うとるのは、どねえなもんじゃろうか?
 昔の歌に、花は満開を、月は無欠の満月を見たのよりかは、花を散らす風を嘆き、月の夜は雲を嫌がり、あるいは待ったり惜しんだりする気持ちを詠んだ歌が多くて、特にそういう歌に趣深いのが多いゆうのは、誰もがみな、桜は満開を心のどかに見たいし、月は満月を願う心が切実じゃからこそ、そうできんことを嘆いとるんじゃろう。花に風が吹くのを待ち焦がれたり、月に雲がかかるのを願う歌が、どこにあろうにい。あの法師が言うとるようなことは、人の心に逆ろうた、のちの世の賢こぶった心の、つくりもんの風情であって、本当の風流心じゃあねえ。





しばらくすると、すっきり晴れて、明るい月が全身をあらわしました。
PENTAXK5Ⅱ+AFBORGED60mm。


pentaxK10D+kenko500mmミラーレンズ。

FUJIFINEPIXs1。いつも使わないデジタルズームをめいっぱい効かせるとここまで大きくなります(ノートリミング)。

孫宅から電話があり、まず、小4男子が、2歳の末娘が話したいことがあるから変わるね、と紹介してくれて、電話口に出てきた末娘が「お月見をするのでお団子食べに来てください」と、招待してくれました。
中秋の名月は、別名「芋名月」とも呼ばれ、サトイモを供えて月見をする風習があるそうです。「芋名月」という言葉だけ聞きかじっていたので、サツマイモを掘ってきて、焼き芋にして孫宅に持って行きました。実りの秋のうれしさです。