当ブログの執筆動機は、そもそも、家族・友人知人への安否情報と、私個人の備忘録的記録が主なものでした。

2015年8月のこの記事に、いみじくもこう書きました。


私のブログ開始は、正確には、退職の瞬間から即時というわけではなく、いくらかタイムラグがありまして、癌手術を経てのリハビリ過程で、退屈しのぎのすさびごととして始めたというのが、経過です。
その時漠然と期待したのは、①忘れっぽい自分の備忘録(紙に書く日記は,続けられないので)、②日頃ご無沙汰している友人、知人への消息、安否報告、生存確認、③自分自身の何らかの存在確認、などの雑多な要素を、お気軽に満たしてくれそうだという点。今、三年目を迎えられていることをみれば、この予感は、まんざら外れてはいなかったようです。
もちろん、当初は予期してさえいなかった、「読者」の皆様や、「ブロガー」仲間の皆様方からの、閲覧、ナイス、コメントなどなど、多大な励ましをいただいたことが,継続の最大の支えでした。
何やら、「終わりの挨拶」みたいな流れになってきましたが、そんなことはありません。まだまだ、細く長く、続けるつもり、ひきつづき、よろしくお願い申します。


昨今、時に流されて、その備忘録の記録がおろそかになっています。

小学生の夏休みの宿題さながらに、最近数日分の日記を書き溜めておきます。

5日(木)は、発熱の保育園児の保育(記事に書きました)。

6日(金)は、作品展の店番8これも記事に書きました)。

この日、入れ替わりに午後を担当してくださった方の一人は、新見在住で、早めに切り上げて帰宅されたタイミングがきわどくセーフで、180号線も水没、高速道路も通行止めになる寸前の最後の通行者だったそうです。小中学生はこの日から臨時休校。孫らは、午前中はおとなしく子供らだけで過ごし、午後はちらほら遊びにきた子もいました。

7日(土)は、午前中の早い時間に溢水状況をカメラに納めました(記事にしました)。

まもなく、ママが、災害に伴う用務多忙で、職場から呼び出しを受け、保育園児だけを私に預けていきました。この日はいつになく聞き分けよく、途中から姉も合流して穏やかに雨籠りをしたことでした。

お昼ご飯は残りの小中学生も招いて、じいじ特製焼きそばを振る舞うなどするうちに、一日がくれました。何度も防災メールが着信し、消防車がサイレンを鳴らして、なにやら放送を流しながら走る物々しい雰囲気はありました。

8日(日)は、朝方まだ雨は残り、各種警報も出されていましたが、毎年この時期に開かれる退職同業者の親睦組織の総会に出席。JRも不通、高速道路など主要道路の多くが通行止めという悪条件で、やむなく欠席された方もありながら、遠路悪路を厭わずの出席で、熱気ある会となりました。

一番の遠方は、近年埼玉に移住されたTさんで、例年通りの常連参加ですが、今回は新幹線は動いたが在来線全面ストップのあおりで、駅で一泊されての出席とか。「避難勧告」どころか「避難指示」が出されている地域からの出席も少数ではなく、総会終了後、夜に計画されている懇親会もよていどおり「決行」されました。(勝手ながら、私は、失礼しましたが。)

開会に先立ち、例年のようにHさんのアコーディオン演奏で、「鐘の鳴る丘」を合唱。



緑の丘の赤い屋根

とんがり帽子の時計台

と始まるこの曲ですが、結びの部分の歌詞に、感慨を覚えました。

昨日にまさる 今日よりも

明日はもっと幸せに

みんななかよく おやすみなさい


「歌声喫茶のび」このページに、midi音源が紹介されており、こんな記事も掲載されています。


戦争が終わった時に、戦争孤児は12万人とか。

この物語のきっかけは、アメリカ駐留軍のカトリック的な施策。

1917年にカトリックのフラナガン神父によってアメリカで「少年の町」が創設されます。



「この世に悪い子はいない。愛を持って接すれば、非行少年も必ず立ち直る」というその精神を、菊田一夫が日本人向けにアレンジしたものが「鐘の鳴る丘」。

菊田一夫は、さらに「戦災孤児は誰が作ったのか、彼らがカッパライをするのは生きるためではないか」というメッセージも込めています。




戦争が終わり、国中が貧しい中でもどこかに希望が存在していた時代。その希望の根拠が憲法に集約されていたはずの時代。そういう明るさを湛えた歌が、眩しいほどに愛おしく思われました。

「万引き家族」が話題を呼ぶなか、「『万引き家族』の主人公一家が現在の日本で決して特殊な存在でない」(是枝監督)だけでなく、そのような人々が、貧困バッシングにさらされる現代の陰湿さをおもうにつけても、是枝監督の次の指摘を、改めてかみしめたことでした。

「日本は経済不況で階層間の両極化が進んだ。政府は貧困層を助ける代わりに失敗者として烙印を押し、貧困を個人の責任として処理している。映画の中の家族がその代表的な例だ」

総会の模様は、また機会を改めて紹介する予定。

総会終了後、作品展会場を片付けて、作品を持ち帰り、一つの行事が終わりました。

9日(月)午前中、留学生相手のアルバイト。小中学校は休校が続き、おとなしく家に閉じこもっていたようです。

夕方、水位の下がった用水路で、小魚掬いをしてみました。エビや各種の小魚が捕れました。小5の孫はオタマジャクシを掬いましたが、これは逃がしてやりました。

10日(月)。

朝コンビニまでパンを買いに行きました。品揃えが薄いです。

その足で、倉敷川を見てきました。

水は引き。いつもの穏やかな表情を見せています。












暑い一日です。避難所生活は大変だろうと思いながら、クーラーを効かせた部屋で、TVや録画を見ながらうとうとしていました。子どもたちは、やっと日常に戻り登校。プールも楽しんで帰ったようです。