毎年毎年、この季節になると蝉の姿ばかりをカメラで追います。ブログを始めてからも、蝉の記事も多いし、蝉の画像も見飽きるほど掲載しています。
今日の記事は、蝉を中心に載せようかと思いついて、いざ書きかけると、話題が皆、二番煎じであることに気づきます。
ちなみに、過去の記事から、蝉に関する蘊蓄を引用してみました。
「空蝉のなほ登らんとてや見上げたる」 空蝉のフォルムに惹かれます。フィルム時代から、何枚も写した覚えがあります。 すでに本体は、殻を脱ぎ捨ててはばたき、そしてわずか七日間の生命を謳歌して、もはや静かに眠っているのでしょう。でも、脱ぎ捨てられた空蝉は、今なお、樹皮や木の葉にがっしりと爪を食い込ませ、さらに上方を志すかのように、遙か高みを見据えているようにも思えます。 近所の樹林では、いつしかクマゼミの声は聞かなくなり、もっぱら、アブラゼミが鳴いたり飛び交ったりする姿を見かけます。 (中略) 「アブラゼミ」の命名は、「ジリジリ」という鳴き声が、煮えたぎる油に似ているからだとか。朝夕の蝉の声は、心なしか、ものわびしく聞こえるようになりました。秋もそこまで近づいている、、、でしょうか? |
「ツクツクホウシを見た」
ツクツクホウシは、「ツクツクホーシ」と鳴くのか、「オーシツクツク」と鳴くのか「論争」があるそうですが、どうしても聞き定めることが出来ません。 (中略) 藤沢周平氏の「蝉時雨」は、ヒグラシでしょうか。直木賞作家葉室麟 氏の「蜩ノ記」も。「カナカナカナ」と哀感を含んだ鳴き声は、涼しさと物寂しさを演出しますね。 |
「蝙蝠を日傘に虫撮る夏休み」 そういえば、去年の夏もこんな記事を書いていました。 そこにも書きましたが、最近はクマゼミの姿が一番目につきます。 体格も勇ましいので、以前は、珍しい蝉だと思って珍重したものですが、今は一番ポピュラーです。 「シャンシャンシャン」と余計に暑さを増幅する鳴き声が、うるさいことです。 南方系の蝉だそうです。
アブラゼミ。 「ジージー」という鳴き声が加熱した油の音に似ているための名付けと言います。 子ども時代は、これを捕まえると少し自慢でした。
ニイニイゼミ。小さくて地味な蝉です。樹皮の模様に隠れて、動かずにいると気づきません。 子ども時代は、この蝉が一番身近でした。そっと近づいて、手で捕まえても、幽かにばたばたと暴れますが、じきに観念して静かになります。そのまま、服やシャツに しがみつかせても逃げないので、何匹も装着して歩いたものでした。バッジか何かのように。 環境の変化によるのか、近年生息数が減少しているようです。 松尾芭蕉が山形の立石寺(りゅうしゃくじ)で詠んだ 閑さや岩にしみ入る蝉の声 の蝉はニイニイゼミだったかと思われます。 「閑かさ」は外界の静かさではなく、心の中の静謐さだ、とはいえ、クマゼミではうるさすぎましょう。アブラゼミの鳴き声も、やはり耳障りです。心を逆なでしないレベルのニイニイゼミの鳴き声が妥当でしょうか。 ハルゼミや、ヒグラシ、あるいはツクツクホウシというアイディアも浮かばなくはありませんが、芭蕉が立石寺を訪ねたのは元禄2年旧暦5月27日(新暦で1689年7月13日)だといいますから、やはりニイニイゼミの活動時期でしょうかね。 |
漸(ようよ)うに姿見せたか法師蝉 ここのところ、つつつくほうしの声はしょっちゅう耳にしますが、目を凝らしても姿を捕らえることが出来ず残念な思いがしていました。 ところが今日は、孫のお供で図書館に行ったとき、玄関前の植木から、威勢のよいツクツクホウシの鳴き声が聞こえますので。じっと目を凝らすと、やっと見つけ出しました。 |
直接蝉には関係ありませんが、角田 光代作「八日目の蝉」について触れた記事がこれです。
八日目の蝉 (中公文庫)
- 作者: 角田 光代
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2011/01/22
- メディア: 文庫
夏にクリーム色の花を見て。「大豆」と勘違いしたこの植物は、やはり小豆でした。小豆は「あずき」と呼びます。「小豆島」は「ショウドシマ」と読みます。 (このハナシ以前書きました) そして最近話題にしている尾崎放哉は、小豆島に流れ着いて庵を結び、その島で人生を閉じます 。 映画化もされ話題を呼んだ角田 光代作「八日目の蝉」の舞台も小豆島でした。 |
長い地中生活を終え、地上に躍り出た蝉の成虫が、7日間の青春を謳歌して、子孫を残して土に帰る。ドラマチックで、少々もの悲しい一生。連日凄まじい勢いで
鳴き騒ぐ蝉時雨を聞きながら、この中には7日目の蝉もいるだろうし、タイミングに遅れて、この世に未練を残す8日目の蝉もいるかもしれない、と思ったりします。
いま、自民党武藤貴也議員という方の、ツイッターでのこの書き込みが世間を騒がしています。
SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。 |
彼ら彼女らが、「だって戦争に行きたくないじゃん」という考えから行動しているというのは、一面的な決めつけでしょう。
若者達が異口同音に唱える「殺し殺される国にしたくない」という願いは、「(自分一人が)戦争に行きたくない」という個人的願望を超えて、より大乗的な思いであるはずです。批判者をより卑小に描く事に躍起で、人間的な想像力を働かすことをしない、プチ権力者の醜悪さが鼻につき、どうにも気分が悪いことです。
同時に、「だって戦争に行きたくないじゃん」という思いもまた、決して「自分中心、極端な利己的考え」なんかじゃありません。最近、安倍政権の方々が、真実味のないコマーシャルフレーズのように、軽々しく口にされる「幸福追求の権利」の最も基本を為す。きわめて切実で、ゆるがせにできない人間的な思いでしょう。
表立ってこの思いを表明することすら抑圧されて、「欲しがりません勝つまでは」と、一切を我慢し、「御国のために死ぬ」ことを最大の美徳と教えた、戦前の教育を、この36歳のジミントーギインさんは、ありがたがっておられるのでしょうか?
古い記事
「だまされも だましもせぬと 誓うた日」で、「秘密法」を話題にしたなかで、「子どもを守る歌」(【作詞】上野博子【作曲】荒木栄)を引用しました。
その一節です。
御(み)国(くに)の為に 死ねと教えた昔
命を散らした教え子の顔が目に浮かぶ 目に浮かぶ
良心の呵責が弱さを支え
平和を守る心が 私を鍛えた
明るい太陽の その下ですくすくと伸びる子供達よ
笑い顔 おこり顔 おどけた顔で
野の花のように美しく
育てよ育て
平和な未来を 築くために
続けて、私は書きました。
この歌を、今の世に再び蘇らせなければならないのは悲しいことですが、子どもたちが、「野の花のように美しく」育つためには、知る権利と言論表現の自由、平和と真実の教育の自由が死活的に必須だと、改めて思うのです。
そして、いま、改めて付け加えることにしましょう。老若男女、年齢、性別、資産、社会的地位の如何を問わず、誰もが、自らの幸福を追求する権利を心おきなく主張し、それを互いが存分に享受できるように、社会全体の成熟を目指したいものだ、と。そしてその、幸福を追求する権利の根幹に、「平和のうちに生きる権利」がしっかりと座っていないかぎり、どのような「幸福追求の権利」も画餅に帰するだろう、と。
いかがですか?武藤貴也議員サン!これって、「自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義」ですか?
八日目の蝉も、こころおきなく、いのちを謳歌して欲しいものです。
アブラゼミ。
クマゼミ。
ヒャクニチソウに止まるクマゼミ
空蝉