先日書いた、◇ムルデルの干拓堤防、の巻の記事で、麦飯山(麦飯山)の説明を、「角川日本地名大辞典 33 岡山県」から引用しました。


  むぎいいやま 麦飯山<玉野市>

玉野市八浜町大崎と槌ヶ原の間にある山。 標高232m。 古生代泥質片岩からなる。近くの金甲山・怒塚(いかづか)山・ 常山などとともにその突出した山容から「屋根破り」の異称がある。
戦国期に山城があったことが知られ, 麦飯山の西約2.5kmにある常山にあった常山城主明石景行の弟明石源三郎が弘治・永禄年間のころ居城していたという。
麦飯山城はのち毛利氏の手に落ち, その毛利軍と岡山城主であった宇喜多氏の軍勢が激突したハ,浜合戦はよく知られている。北麓を J R宇野線が走り,

南麓は国道30号が通る。

ここに「金甲山・怒塚(いかづか)山」という山の名前が出てきます。

金甲山は、地元民にとっては比較的よく知られた山の名ですし、また機会を改めて話題にするかも知れません。

今日の話題は、怒塚(いかづか)山。

難読地名の一つでしょうね。

名前の由来などが気になりましたので、「角川日本地名大辞典 33 岡山県」で調べてみましたが、残念ながら見あたりません。

ネット上に細川英明さんのブログ岡山の風というサイトに岡南富士 「怒塚山」 歴史編というページがありました。記事の一部を借用してご紹介します。


 
岡南富士怒塚山(いかつかやま)


地図です.クリックすると別窓に開きます。

http://www.mapion.co.jp/m2/34.58746749531399,133.95378826184054,15

 

岡山市南区郡~玉野市八浜の境に位置し、 金甲山に次いで

児島半島で2番目に高い、標高332mの山です。



かつて、「児島」が浮かんでいた吉備の穴海 (現、岡山平野~

児島湾~児島湖)の海岸線からそびえ立ち、現代の岡南地域

(下記)に雄々しい姿を魅せる山容から 「岡南富士」(こうなん

ふじ)と呼ばれています。










岡南(こうなん)

江戸時代から数世紀に亘って行われた児島湾干拓のうち

特に藤田組(現、同和鉱業株式会社)により明治時代から

行われた児島湾内の大規模な干拓 「藤田開墾」 によって

埋め立て・造成、新田開拓・宅地開発・工業・商業立地され

た岡山県岡山市南部、旭川(東)から笹ヶ瀬川(西)に至る

地域です。



1964年(昭和39年)、同地域を中心とした岡山市・玉野市・

倉敷市、及び周辺町村とともに新産業都市建設促進法に

基づく 「岡山県南新産業都市」 に指定されました。

 (中略)


怒塚城跡
山頂に室町・安土桃山時代の城跡、「怒塚城」跡(土塀・堀切)が

あります。

古代の児島を開拓し、備前国児島郡三宅郷
(下記)を治めてい

た土豪(首長) 三宅氏
(下記)の一族、宇多見氏(児島郡波智

荘歌見:現、玉野市八浜町見石大雲寺周辺出身)の居城です。






これまでの過去記事中に、それと知らずに掲載した画像の中に、何度か金甲山と並んで、あるいは見る方角によっては単独でご紹介したことがあったように思われます。

今朝の散歩で撮影したこの山が、おそらくその怒塚山ではないかと思います。



霧の朝でした、墨絵の逆さ富士のようなたたずまいです。「岡南富士」(こうなんふじ)の命名もむべなるかなと納得できます。

霧の朝の児島湖の眺望です。



方角を変えて見ると中央右寄りに常山が見えます。







今日はこれにて。