加藤剛さんの逝去を知り、いろいろな物思いをしています。
おおやけになったのが、西日本災害の時機であったため、意識の大半がそちらへと向かい、悼む思いに現実味が備わらないまま、記事にする余裕もありませんでした。
そんなとき、今日の地元紙「山陽新聞」に、ペリー萩野氏による追悼記事が掲載されていました(おそらく共同通信系の各紙にも掲載されていたのでしょうか)



ペリーさんが、「常に姿勢が正しく、言葉を丁寧に選ぶ人だった。」「あまりにも規則正しい生活をするので加藤さんを見ていると時間がわかる』とさえ言われていた。」「まじめ一本でこちらがふざけて放したこともまじめに受け取られてしまって、謝ったこともある。そうした人柄も素敵だった」「何をやっても加藤さんの役になる。折り目正しく、正義感がある。」と書いておられるそのいずれもが、まさに腑に落ち、まったくそうだったに違いないと確信されるのでした。
もちろん、私にとっては、テレビや映画を通してしか知る機会のない俳優さんでしたが、中・高校生頃に熱心に視聴した「三匹の侍」(平幹二朗さん、長門勇さんと、絶妙ののコンビネーションでした)、「大岡越前」(竹脇無我さんとの、相互に敬しあう友情と、無欲の処世の潔さに、清涼感を与えられました)など、役柄そのものの高潔さを疑うことはありませんでした。映画「砂の器」で演じた天才音楽家の陰影深い哀しみも、人間洞察のなせるわざと感じました。
その加藤剛さんについて、日刊スポーツはこのような記事を寄せています。

加藤剛さんが6月18日、落語家桂歌丸さんが7月2日に亡くなった。剛さんは80歳、歌丸さんは81歳だった。2人が歩んだ世界は違ったが、ある共通点がある。それは戦争体験があり、反戦への思いが強かったことだった。

 加藤さんは、木下恵介監督の映画「この子を残して」で長崎の原爆で被爆し、子どもを残して亡くなった医学博士の永井隆氏を演じ、舞台「コルチャック先生」ではユダヤ人孤児院の院長で、子どもたちを救うためナチスによってガス室に送られたコルチャックを演じ、何度も再演を重ねた。 加藤さんは戦争で身内を2人も亡くしている。1人は軍医だった義兄で、南方の島で戦死した。2番目の姉は結核を患い、戦後の食糧難の中で満足な治療も受けられず、28歳の若さで亡くなった。

 だから、改憲に走る安倍晋三首相に批判的だった。「憲法は、戦争で命を奪われた人たちの夢の形見だと思っています。多くの犠牲の上に、今の平和な世の中がある。だから私たちには、子どもたちのために憲法を守る使命があると思います」。

 歌丸さんも、戦時中の空襲で横浜の生家が焼失している。千葉に疎開し、道端の草やサツマイモばかり食べていたため、戦後になっても「私はね、サツマイモが食えねえんだよ」と話していた。

 加藤さんと同じく、安保法制をめぐって議論が沸騰した当時、テレビの報道番組のインタビューに対し、「戦争を知らない政治家が戦争に触れるなと言いたくなるんです。戦争を知らなかったら、戦争をもっと研究しろって言うんです。戦争っていうのは良い物なのか悪い物なのか、この判断をきっちりとしろって言いたくなるんです」と熱く話していた。

 毎年8月には浅草にある「はなし塚」法要を欠かさなかった。戦時中、時局に合わないとして、「明烏」など53の落語を高座にかけることを禁止された。当時の苦い経験を風化させないようにと、「はなし塚」が建立され、歌丸さんも「そのまま封印しちゃいけない。できる限り(法要を)続けていく」と使命感を持っていた。

 知性ある端正な演技で魅了した加藤さん、怪談噺で円熟味を増していた歌丸さん。その演技、芸をもう見られない喪失感がある一方で、戦時中に少年時代を過ごした数少なくなっている戦争体験者で、反戦を発信してきた2人の切実な思いを忘れてはいけないだろう。      【林尚之】


加藤さんも歌丸さんも、「しんぶん赤旗」に何度か登場しておられました。












ひとまず今日はこれにて。