昨日は、梅雨の合間の薄曇りの一日、岡山市の半田山植物園を歩いてみました。
季節の花が目を楽しませてくれましたが、今日はバラの花をアップします。
ところでバラの花といえば、以前書いたこの記事のように、シェークスピア「ロミオとジュリエット」の、このセリフを想起させます。

ジュリエット「ああ、ロミオ様、ロミオ様! なぜあなたは、ロミオ様でいらっしゃいますの? お父様と縁を切り、家名をお捨てになって!
もしもそれがお嫌なら、せめてわたくしを愛すると、お誓いになって下さいまし。そうすれば、わたくしもこの場限りでキャピュレットの名を捨ててみせますわ」

ロミオ「 黙って、もっと聞いていようか、それとも声を掛けたものか?」

ジュリエット「わたくしにとって敵なのは、あなたの名前だけ。たとえモンタギュー家の人でいらっしゃらなくても、あなたはあなたのままよ。モンタギュー ――それが、どうしたというの?
手でもなければ、足でもない、腕でもなければ、顔でもない、他のどんな部分でもないわ。ああ、何か他の名前をお付けになって。名前にどんな意味があるというの?
バラという花にどんな名前をつけようとも、その香りに変わりはないはずよ。ロミオ様だって同じこと。ロミオ様という名前でなくなっても、あの神のごときお姿はそのままでいらっしゃるに決まっているわ。ロミオ様、そのお名前をお捨てになって、そして、あなたの血肉でもなんでもない、その名前の代わりに、このわたくしのすべてをお受け取りになって頂きたいの」

新潮文庫 『ロミオとジュリエット』シェークスピア作 中野好夫訳
ところで、昨年の定年退職以降の、生活習慣の変化の一つは、「朝ドラ」を観るようになったことです。「あまちゃん」の頃はまだその習慣はありませんでしたが、「ごちそうさん」を何となく観はじめ、「花子とアン」に続いています。今年は4月から、週三日のアルバイト生活に入っていますが、出勤時間には余裕があって、ほぼ欠かさず観ることが出来ます。朝観られなくても、録画というものもありますし。
その「花子とアン」で、はなが女学校の文化祭に「ロミオトジュリエット」のシナリオ・演出を引き受ける一場面がありました。
その一こま(第26話)。

「ロミオ・モンタギュー、あなたの家と私の家は互いに憎しみ合う宿命 …

その忌まわしいモンタギューの名前をあなたが捨ててくださるなら、私も今すぐキャピレットの名を捨てますわ」

「名前が何だというのであろう ~ ロミオの名前を捨てたところで私は私だ!」

「ええ、バラはたとえほかのどんな名前でも、香りは同じ … 名前が何だというのでしょう?」

というシェークスピアのセリフが、はなには納得できず、

「もしバラがアザミとかキャベツなんて名前だったら、あんな素敵に感じられるかしら?私のお父が吉平ではなく権兵衛って名前だったら、お母は好きになってるかしら?」
と、思案します、とはいえ、にわかに書き直すいとまもなく、時間をせかされて、稽古を続けていたところ、
ロミオ訳の醍醐亜矢子の、
「名前が何だというのであろう ~ ロミオの名前を捨てたところで私は私だ!」
のセリフを受けて、
ジュリエット役の葉山凛子(白蓮さん)が、即興でセリフをこう改変したのでした。

「ロミオ様、それはどうでしょうか …
もし、バラがアザミやキャベツという名前だったら、同じように香らないのではありませんか?
やはり名前は大事なものです」

ネット情報によると、このセリフは、本家本元モンゴメリの「赤毛のアン」のエピソードらしい。「赤毛のアン」のシリーズはもちろん、大昔、好んで読みましたが、ディテールは忘れておりました。

「そうかしら」アンは思いに耽った顔をした。「薔薇はたとえどんな名前で呼ばれても甘く香るって本で読んだけれど、絶対にそんなことはないと思うわ。薔薇が薊(あざみ)とか座禅草(スカンク・キャベツ)とかいう名前だったら、あんないい香りはしないはずよ」(第五章「アンの生いたち )

名前は大事というのは、「アン」自身もこだわったことのようでした。
ところで、このバラの名前ですが、半田山植物園には品種名の表示がされていて、いずれ劣らぬ尊いお名前。一応はメモって帰ったのですが、画像と対照する手間に耐えられず、赤いバラ、黄色いバラ、ピンクのバラ、白いバラと呼ばせてもらいます。あしからず。

赤いバラ

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

黄色いバラ

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

ピンクのバラ

 

 

白いバラ 

 
 
青空とバラ
 
 
滝とバラ