なぜこんな書籍が送られてきたかというと、実はこの中に、ずっと以前に私の撮影した澪標の写真が、無償ですが(笑)、1枚採用され、その記念に献本をいただいたという次第です。
ご縁のはじまりは、このブログの写真を編集者の方が見つけてくださり、使用を打診してこられたのでした。澪標などという題材は、よほどレアなものであるようです。
妻に自慢していますと、「早速、ブログに載せたら?」とからかいます。
自慢話になるのも気が引けますし、個人情報の問題もあって、いったん躊躇はしましたが、ブログネタの一つとして紹介させていただく事にしました。。
小倉百人一首には、紅葉を歌った歌が幾つかあります。
B堂版の「原色小倉百人一首」により紹介します。
005 奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声きくときぞ秋はかなしき 猿丸太夫
歌意 人里離れた奥山で、散り敷いた紅葉を踏み分けて鳴いている鹿の声を聞く時こそ、いよいよ秋は悲しいものと感じられる。
017 ちはやぶる神代もきかず竜田川 からくれなゐに水くくるとは 在原業平朝臣
歌意 不思議なことの多い神代でも聞いたことがない。竜田川が唐紅色に水をくくり染めにしているとは。
24 このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦 神のまにまに 菅家
歌意 この度の旅は、幣を捧げることもできない。さしあたって手向の山の紅葉の錦を幣として捧げるので、神のお心のままにお受け取りください。
026 小倉山峰のもみぢ葉こころあらば 今ひとたびのみゆき待たなむ 貞信公
歌意 小倉山の峰の紅葉よ、もしおまえに人間と同じ心があるのならば、もう一度の行幸があるまで、散らずに待っていて欲しい。
032 山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬ紅葉なりけり 春道列樹
歌意 谷川に風がかけたしがらみとは、実は流れることもできないでいる紅葉なのだったよ。
069 嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 龍田の川の錦なりけり 能因法師
歌意 嵐の吹きおろす三室の山のもみじ葉は、竜田の川の錦なのだった。
017の歌は、落語「千早振る」で楽しい珍解釈が展開されます。
と、話題を継ごうとして、ふと気になって検索して見ますと、去年のこの記事で、似たようなことを書いていました。
いやはや、健忘症は、去年のことをすっかり忘れさせます。というか、発想がワンパターンということですね。
後楽園の紅葉の写真の追加です。
ところで、歴史物語の「大鏡」には、天下のトップエリート藤原道長が、一目置いた藤原公任(きんとう)のエピソードが載せられています。
ひととせ、入道殿の大井河に逍遥せさせ給ひしに、作文の船・管絃の船・和歌の船と分かたせ給ひて、その道に堪へたる人々を乗せさせ給ひしに、この大納言殿の参り給へるを、入道殿、「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき。」とのたまはすれば、「和歌の船に乗り侍らむ。」とのたまひて、詠み給へるぞかし。
小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦着ぬ人ぞなき
申し受け給へるかひありてあそばしたりな。御みづからものたまふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さて、かばかりの詩を作りたらましかば、名の挙がらむ
こともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな。さても、殿の『いづれにかと思ふ。』とのたまはせしになむ、我ながら心おごりせられし。」とのたまふなる。
一事のすぐるるだにあるに、かくいづれの道も抜け出で給ひけむは、いにしへも侍らぬことなり。 (太政大臣・頼忠)
【 解釈】 ある年、入道殿(藤原道長)が、大井河で散歩がてらに船遊びをなさった時に、漢詩の船・音楽の船・和歌の船とお分けになって、それぞれの道に堪能な人々をお乗せ遊ばしたところ、この大納言殿(公任)が参上なさったのを、道長公は、「あの大納言は、どの船にお乗りになるおつもりであろうか。」とおっしゃるので、(公任は)「和歌の船に乗りましょう」とおっしゃって、お詠みになったのですわい。
小倉山と嵐山から吹いてくる強風が寒いので、(誰もが紅葉を身体にまとい)紅葉の錦の衣を着ない人はいない。
(ご自分から)申し出て、(和歌の船に乗ることを)お受けになっただけの甲斐があって、見事にお詠みになったことじゃなあ。ご自身もおっしゃったということに
は、「漢詩の船に乗ればよかったなあ。そして、これと同じくらいのレベルの漢詩を作ったとしたら、名声が上がることももっとまっていたに違いない。。残念なことだったな。それにしても、道長殿が、『どの船に乗ろうと思うか。』とおっしゃったのには、我ながら得意な気持ちになった事よ。」と、おっしゃったと
か。
一つの事にすぐれることでさえまれだのに、こんなにどの道にもぬきんでていらっしゃったとかいうことは、昔にもござらぬことです。
漢詩・音楽・和歌の三つは.当時の貴族にとって必須の教養とされていました。中でも、漢詩漢文は、教養中の教養であり、これに堪能であることが最大の栄誉だったのでした。
さて、同じエピソードが『十訓抄』十の三ではこう記載されています。
御堂関白(藤原道長)、大堰川にて遊覧の時、詩歌の舟をわかちて、おのおの堪能の人々を乗せられけるに、四条大納言(藤原公任)に仰せられていはく、「いづれの舟に乗らるべきや」。公任いはく、「和歌の舟に乗るべし」とて、乗られけり。
さて、よめる、
朝まだき嵐の山の寒ければ散るもみぢ葉をきぬ人ぞなき
のちにいはれけるは、「いづれの舟に乗るべきぞ、仰せられしこそ、心劣りせられしか」、また、「詩の舟に乗りて、これほどの詩を作りたらば、名はあげてまし」と後悔せられけり。
この歌、花山院、捨遺集を撰ばせ給ふ時、「もみぢの錦」とかへて入るべきよしを仰せられけるを、しかるべからざるよしを申されければ、もとのままにて入りにけり。
同じ公任の歌が、ここでは
朝まだき嵐の山の寒ければ散るもみぢ葉をきぬ人ぞなき
という形で採られており、「早朝で寒いので」 と、具体的状況が説明され、「散るもみじ葉を」と、より直截的な表現になっています。
「拾遺集」編纂に当たって花山院が「もみぢの錦」と言い換えようとしたところ、それに同意せずもとのままで入れるよう主張してそうなったというのです。
「紅葉の錦」という表現が、実景から次第に遊離して、装飾的、慣用的な、お決まりの常套的修辞に化していったことが伺えます。
(別の歌集には
朝まだき嵐の山の寒ければ紅葉の錦きぬ人ぞなき
という中間的な形態のものも残っています。)
紅葉の歌は、古来多数残されていますが、「時の人」石田三成サンの歌。彼が、関ヶ原の戦いに出陣する前に詠んだ歌とされます。
散り残る紅葉はことにいとほしき秋の名残はこればかりとぞ
滋賀県長浜市の石田会館(光成屋敷跡)近くの石田神社には、三成一族と家臣の供養塔をはじめ、三成自筆の和歌が石碑に刻まれているそうです。
光成を敗北に追いやった直接のきっかけは、小早川秀秋の裏切りだと言われます。
戦に敗れてとらわれの身になった光成は、様子をうかがいに行った秀秋を面罵してこう語ったと伝えられています。
「汝に二心があるを気づかぬとは、愚かだった。しかし、太閤の恩義を忘れ、義を捨て、人を欺いて裏切ったことは武将の恥辱、末代まで語り伝えられよう。」
その小早川秀秋は、西軍の主力となって破れ、八丈島に流刑となった宇喜多秀家の跡を承けて岡山藩を与えられ、岡山城主となりました。しかし、2年後の1602年秀秋はわずか21歳で急死し、嗣子がないまま小早川家は断絶します。
その後、姫路藩主・池田輝政の次男・忠継以来、池田家の治世が長く続きます。
後楽園は、池田綱政が津田永忠に命じて造らせた庭園で、関ヶ原から100年後の1700年に完成しました。
例のごとく、にわか仕込みの蘊蓄で、失礼しました。