「稲妻(いなづま)」「稲光(いなびかり)」とは、いずれも雷光の別名です。
古来、「つま」とは、男女を問わず配偶者を呼ぶ呼称です。「稲妻」とは、「稲」の「夫(つま)」のことで、稲妻が光ると稲が実ると言うのです。古来、稲が結実する時期に雷が多いので、こんな言葉が生まれたようです。
ちなみに「雷」は古くは,「イカヅチ」と読んだようで「カミナリ」と読むのは相当時代が下って、中世以降に優勢になる読み方であるようです。
そういえば、平安初期の『伊勢物語』に「神さへいといみじう鳴り」「神鳴るさわぎ」という表現が出てきました。神様が鳴るのが雷(かみなり)なのですね。
「稲妻」「稲光」は視覚を、雷(かみなり)は聴覚を、それぞれ刺激します。
ところで、『伊勢物語」「芥川」のこの場面は、以前
この記事であらすじを書いたことがありますが、今日は、念のために原文を引用しておきます。
昔、男ありけり。女の、え得まじかりけるを、年を経てよばわたりけるを、辛うじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率て行きければ、草の上に置きたりける露を、 「かれは何ぞ」
となむ男に問ひける。行く先遠く、夜も更けにければ、鬼あるところとも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥 におし入れて、男、弓・胡?を負ひて、戸口にをり。はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に喰ひてけり。 「あなや」 と言ひけれど、神鳴るさわぎに、え聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、みれば、率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。 白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを
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「稲妻」「稲光」が稲を実らせるとの言い伝えはもっともなことですが、「稲」を明るく輝かせる朝の光も、稲を着実に太らせているのではないでしょうか?これがホントの「稲光」。---そんな説は聞いたことがありませんが。
昨日掲載した写真は,サイズが小さくて小さな部分がわかりにくかったかも知れません。少しトリミングしてみます。
ついでに、これなあに?の最初の鳥さんも、小さくしか見えませんね。トリミングします。
トンビではないような気が、,,?
「小出しの幸せ自慢」を続けます。
昨日の,自動車での朝散歩。
こんな朝の光を浴びて、きらきらと輝いている稲の波を見ていられるのは、幸せなことだとしみじみ感じたりしていました。
悪魔、メフィストフェレスと契約したファウストの禁句「時よ止まれ!おまえは美しい("Verweile doch! Du bist soschon.")」を、何度でもつぶやいてみたくなります。
そういえば昔、私が木下透のペンネームで習作をしていた高校生の頃、「もしも俺が,安楽椅子に寝そべって、ファウストの『時よ止まれ!おまえは美しい』という禁句をつぶやくようなことがあったら、、」云々という、気取った言い回しをどこかで書いた記憶があって、古い資料をぱらぱらと探ってみましたが、見つかりません。
「時よ戻れ、お前はもったいない」と言いたい,徒労の時間でした(汗)。
話を戻します。
光をまとった稲の間に見え隠れするものは?
そうです。
ご存じ、「ケリ」です。
トリミングして、そのエレガントな姿と顔かたちをとっくりとご覧いただきます。
足元に,青い花が映り込んでいるのにお気づきでしょうか。外来植物の「アメリカコナギ」ではないかと思っています。
今日の「幸せ自慢」のテーマは、「佳い光に恵まれる幸せ」。同じ機材でも、光線の具合で,まるで違った売る理方をするものなのですねえ。
少し前に,「ケリをつける」と書いたばかりなのに、なかなかけりがつきません(汗)。
【今日の付け足し】
ところで、今日の幸せ自慢とはナンの関係もありませんが、報道によりますと、
安保関連法案反対のデモを行う学生集団を<「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく>と批判したことで知られる武藤貴也・自民党衆院議員(36)に金銭疑惑が発覚した。
ンですってね。(この
週刊文春webサイト参照)
どうなんでしょうか?こんな「利己的考えに基づく」政治家さんの行動こそ、ケリを付けるべきではないんでしょうかね?
鬼の首を取ったかのように,居丈高に追い詰め糾弾するのは、どうも趣味じゃありませんが、まだ若く将来のある身、ここはいったんみずから「ケリ」をつける潔さを発揮されてこそ、浮かぶ瀬もあるというものではありますまいか?それとも、「時よ止まれ!政治家の椅子は甘美なるゆえ」と、強気強気で乗り切れるとでもお考えですか?