SSブログ
<

日替わりで小出しの自慢がまだ続き [折々散歩]

昨日の記事で、「雷」を「神鳴る」と表現する例を,伊勢物語に拾いました。

その時、とっさに思いつかず、後で思い出したのが、「学問の神様」「天神様」として知られる菅原道真が、「雷神」として畏れられたというエピソードです。



例のごとく、ウィキペディアの記事をお借りします。まずは「菅原道真」という項
 菅原 道眞(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) -
延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。


忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。

小倉百人一首では菅家。



また,同じく、清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)という項目にはこうあります。

 この年、平安京周辺は干害に見舞われており、6月26日に雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれることとなった。ところが、午後1時頃より愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それから凡そ1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃した。


この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となった。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されたが、希世も程なく死亡した。落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包が髪を、同じく紀蔭連が腹を、安曇宗仁が膝を焼かれて死亡、更に警備の近衛も2名死亡した。

清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは大混乱に陥り、醍醐天皇も急遽清涼殿から常寧殿に避難した。だが、惨状を目の当たりにして体調を崩し、3ヶ月後に崩御することとなる。



天皇の居所に落雷したということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫がかつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。また、道真の怨霊が雷を操ったということとなり、道真が雷神になったという伝説が流布する契機にもなった。



ちなみに、雷よけのまじないに「くわばらくわばら」と唱える習わしは、京の都が雷を伴う大雨に襲われた際、菅原道真の屋敷があった桑原町には雷が落ちなかった。その落雷は道真の祟りだとおそれられ、雷が落ちない桑原で「くわばら、くわばら」と手を合わせる習慣が出来た事に由来するといいます。この「桑原町」という地名は、現在も京都府京都市中京区に現存するそうです。



去年の早春の頃、梅の花が咲き初めたころ,道真の「匂いおこせよ梅の花」の歌にちなんで、歴史物語『大鏡』から「道真と時平」の段を斜め読みしてみました(この記事参照)。続いて、太宰府八幡宮の梅のエピソードにも触れ、「東風ふかば---」の歌などを引き合いに出したこの記事で、「道真と時平」の段の続きの場面を読みました。

さらにその続きの場面に,こんな記述があり、ここにまさしく「神鳴り』が登場してきます。

 また、北野の神にならせ給ひて、いと恐ろしく神鳴りひらめき、清涼殿に落ちかかりぬと見えけるが、本院の大臣、大刀を抜き放けて、「生きても、我が次にこそ
ものし給ひしか。今日、神となり給へりとも、この世には、我にところ置き給ふべし。いかでかさらではあるべきぞ。」とにらみやりてのたまひける。一度は鎮まらせ給へりけりとぞ、世の人申し侍りし。されど、それは、かの大臣のいみじうおはするにはあらず、王威の限りなくおはしますによりて、理非を示させ給へるなり。


【地方のオッサン語訳】 
また、(道真ハンが)北野の神サンにならはって、えっと恐ろしう雷が鳴り(稲妻が)光って、いまにも清涼殿(天皇ハンのお住まいになる建物やで)に落ちかかるんやないかと見えましたんやが、(そのとき、)本院の時平ハンは太刀を抜き放って、「(あんさんは、)生きておいでやした時も、私の次のナンバーツ-の地位でおわしましたがな。今日、雷神となられたからゆうても、この世では私にたいしては、遠慮というものをなさって当然どすやろ。どないして、その逆(さか)しがあり得ますかいな。」と、雷の方をにらみやって言わはったそうですがな。

雷はんも、その時だけは、お鎮まりになったんやゆうて、世間の人は、申しておりましたんやで。

せやけど、それは、なんにも、あの大臣(時平)はんが偉うおしたゆうわけやなく、天皇はんの御威光が、この上なくおいでやしたさかいに、(道真はんの霊が、)スジを通さはった(官位の順序を乱してはならぬということ)んですな。


道真は、祟りをなす怨霊として畏れられますが、古来「日本三大怨霊」と呼ばれる人びと(祟り神)があります。この菅原道真と、平将門、崇徳天皇の三人でした。

と書いたあたりで、私のブログから「日本三大怨霊」で検索してみました。すると、ここで大鏡のまったく同じ場面を引用していました。さっき、とっさにでっち上げた怪しげな「オッサン語訳」も、変わりばえしない「瓜二つ」の代物でした(汗)。「真理は一つ」と突っぱねる荒技もありますがね。


今日は思い立って、娘の「安産祈願」のために倉敷市児島由加山の由加神社をお参りしてきました。九月の「戌の日」頃に、犬帯を着用しはじめようとの段どりです。「不妊治療」も視野に入れつつ、待った甲斐あってようやく授かった「子宝」です。小出しの幸せ自慢、お許しあれ。

ひところの猛暑も遠のき、またうっそうとした樹木に囲まれた環境の中で、背広・ネクタイをしても汗まみれになるということのない快さでした。樹木やハスの花、社殿のたたずまいなどなど、被写体として絶好だったのですが、あいにくカメラを保ってくるのを忘れました。残念。

由加山は、733年、行基により十一面観音が祀られ、神社仏閣一体の瑜伽大権現(由加大権現)と呼ばれる神仏習合の山となり、明治時代、神仏分離令により、
由加神社と蓮台寺に分離されたそうです。その後もあれこれの経緯があるようですが、ほぼ隣り合わせに神社とお寺が,それぞれ独自の空間を形作っています。

その、神社側の一角に、「由加天満宮」があり、道真が祭られています。







解説表示板によると,延喜元年(901)道真が九州大宰府に配流される途中、児島唐琴(からこと)の浦に数日滞在し、思い出のこの地に帰ることを誓い大宰府へ出立。

道真公の死の直後、この地に光明がさし瑞雲が現れ、道真公の魂魄が帰ったといわれ、この地に祀られたのがはじまりだそうです。

道真はこの地で、次のような歌を詠んだそうです。

船とめて波にただよう琴の浦通うは山の松風の音

風により波の緒かけて夜もすがらしおや引くらむ唐琴の浦

(現代仮名遣いに改めてありますね)



ところで、河井康夫氏という方が昭和53年に自費出版されたという「玉野の伝説」という書物を、著作者の許可を得て掲載しておられるサイトがあります。

無断で一部分を孫引きさせていただきます。

 平安時代は吉備の児島は大きな島であった。中国大陸、北九州と大和を結ぶ主な交通は瀬戸内海を通る海上交通であった。

菅原道真が延喜元年(901)に北九州の大宰府に左遷された時、この地に立ち寄った。

身辺には京都から連れて来た幼い子が二人いるだけで、妻や娘は京都に残り、ごくわずかの領送使に伴われたさみしい旅であった。

途中の国々が食糧とか伝馬を給することもまかりならぬというぐらい、つめたいというよりも罪人のあつかいであった。


道真は健康もすぐれず、琴をひいて来し方行く末を思い嘆いた。こうしたことから、このあたりの海を琴の浦といい、沖の方を琴の海ともいう。
ここに泊った道真公は海岸に井戸を掘らせた。この井戸は昔、底が海に続いていて、しかも真水が出たといわれる。現在の井戸の石枠は明治29年に造られたも
ので、ゆかりの梅鉢がほられたものである。その時、泊った長者の屋敷に植えた梅の木には一つの芽から八つの花が咲き、八つの実がなった。人々は、この梅の木を八つ房の梅といった。今もこの木の種をお守りにする人が多いという。


監視の厳しい道真公は、唐琴でひとときのやすらぎをえたが、警護の役人は道真一行を早く出発させようと鶏を前の晩から節を抜いた竹に止まらせておいて、まだ夜が明けないのに、その竹の筒に湯を流し込んだ。
鶏は足が暖まって、朝が来たと思って鳴いた。そのため、道真公は未明のうちにせき立てられて出発した。以来、唐琴では今も鶏を飼う人はいないという。

道真公はその時三首の和歌を残した。

「船とめて 波の漂う琴の浦 通うは山の松風の音」

「しらがより 今朝から琴の聞ゆるは はるの夕陽に引く網の浦」

「白波や 波の譜かけて 夜もすがら  汐やひくらん 唐琴の浦」

   一説に「風により波の緒かけて夜もすがら しほや引くらん唐琴の浦」ともいう。



さて今日はカメラ忘れのために、美しく咲いている蓮の花を見ながら、横目に見て通り過ぎました。

その代わりと言ってはなんですが、先日の朝撮影した,レンコン田のハスの花をご紹介します。十分清楚で美しいと思います。

























蓮の実です。

蓮の古名「ハチス」は、ハチの巣そっくりのこの姿にちなんで名づけられたそうです。





色が黒く変わっています。実が熟しているのでしょう。

この蓮の実(種)は、食用になるそうで、平安時代の文章などにはしばしば登場します。(過去の記事にも書きました)





これはなんでしょう?

ハスの葉に,朝露が小さな水玉を為しています。

ヨーグルトなどの食品の銀色のウラ蓋が、食品がこびりつかないように加工されているヒントが,ハスの葉のミクロ繊毛にあったそうですね。









トリミングにより、少し拡大してみます。




朝露の間にたたずむシラサギ。

ダイサギでしょうか。





これはコサギ?

近いので大きく映っていますが、身体は小さかった,はずです。











これはアオサギでしょうか?

ちょっと印象が違うような気もしますが。





追伸。

前回まで続けてご紹介した、茶色い大型鳥。ワシタカの仲間かと、ちょっと興奮しましたが、M師によれば、トンビで正解!とのことでした。がっかりでしたが、トンビも精悍と,改めて思ったことでした。

今日はここまで。


nice!(46)  コメント(2)  トラックバック(1) 

nice! 46

コメント 2

johncomeback

拙ブログへのコメントありがとうございます。
岡山にも美味しいモノがいろいろありますね。
以前にもコメントしましたが、後楽園の茶屋で
食べた「ままかり寿司」の美味しさが忘れられません。
by johncomeback (2015-08-21 07:24) 

kazg

johncomeback様
我が地方の山海の恵みは、新鮮さ、繊細さがいのちです。どうぞまた、お越しくださいませ。
by kazg (2015-08-21 14:27) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 1

フォト蔵にアップしている私の写真はこちらです。

写真販売サイトにも画像を掲載しています。
写真素材 PIXTA


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。