昨日の記事の続きです。
大逆事件(幸徳秋水事件)の連座者の中に、崎山栄と言う人物は存在しません。
念のために、作者は『わんぱく時代』の一節にこう記しています。
これで、ぼくが当年見聞きした大逆事件というもののあらましは書いたつもりである。
まえにあげた歌(引用者注「洛陽の酒徒にまじりし我が友のまゆの太さを思う秋風」という歌)で崎山を洛陽の湖徒にまじりしわが友」とうたつて「大逆事件に連坐せし」と ありのままをうたわないのは、歌の調子のために事実を作りなおした歪曲(デフォルメ)である。
詩歌であると小税であるとを問わず、文芸の作品は美と真実とのために事実を変更する自由を持つことは、新聞記事や一般の記録とはおのずからちがう。それゆえ、文学上の作品は真実ではあっても必ずしもいつも事実どおりであるとはかぎらない。 しかし読者の大部分は小説と事実とを混同している。それをうまく利用した作品もある。ところが、潔癖でもの知りの読者には小税のなかにでてくる郷土誌的なおぼえちがいや、時代史的な錯覚などをうつかり書いた場合、それがたとい瑣末なものであつてもぞんがい気になるものらしく、いちいち親切に教えてくれるのは、作者にとつて便利でありがたいものである。それらはいまにできるだけ事実に即して訂正したいと思つている。
しかしこと、大逆事件に関するかぎり、たとい裁判記録などに精通した人がいて、それを持ちだして事実と相違しているという注意や抗議があったとしても、ぼくはいっさいこれには耳をかたむけないつもりである。