先日、退職同業者の先輩から、「謹呈」としてある冊子をお送り戴きました。丁寧な私信も添えてくださっていました。ある冊子とは、おかやま人権研究センター刊行の「人権21 調査と研究」という雑誌の、2016.6(No.2429)号です。定期購読の勧めも同封されていました。

この雑誌は、前身の「部落問題 調査と研究」の頃から、折に触れ、必要に応じてひもといておりましたし、「人権21」となってからも、一定期間、定期購読してもいたのですが、生来の怠け癖・勉強嫌いから、ページを開くことも間遠になり、「経済的」理由もあって、しばらく前から、購読を中断していたところでした。 
このたび、これをお送りくださったのは、ながく「調査と研究」にも関わり、また、現役時代は教職員組合運動のリーダーとして、退職後はわが退職同業者親睦団体の事務局を長らく担ってくださってもいた、吉永隆光先生です。少し迷いましたが、ここにお名前を紹介しましたのは、お送りくださった冊子の中に、「戦時中の国民学校教科書の実相」という文章を連載執筆されていて、今号に(その1)が掲載されていますので、その紹介を、今日のブログの記事にしたいと思ったからでした。

吉永先生は、高校生の部落問題・社会問題研究活動の指導にも、長く携わってこられ、その分野でも、私が青年教師であった頃から面識がありましたし、昨日の記事に登場する恩師U先生=内田喬先生と、ある時期には同じ職場に勤務されていた等、浅からぬ縁がありました。

その吉永先生が、近況も交え、また現今の社会状況への思いも綴って、お手紙をしたためてくださり、拙い当ブログへの感想も寄せてくださったのですから、恐れ多いことでした。

思い出モードに陥ると、とりとめもない方向へと話が及び、到底引き返せなくなりそうですので、本題に入ります。



先生の論攷「戦時中の国民学校教科書の実相(その1)」は、「--死を礼讃・皇国の小国民が錬成された--」と副題が添えられています。

「はじめに」の最初に、二つの唱歌が紹介されます。





「はじめに」は、こう続きます。
 明治一九(一八八六)年に義務教育が定められて以来、なれ親しんだ小学校の名称が、一九四一(昭和一六)年四月一日から「国民学校」と改称されました。この国民学校は六年間だけ続いただけで〈中略)、筆者は一年生から六年生まで在学した数少ない児童の一人でした。

 いま安倍政権のもとで教育行政の改悪が進められ、自治体の首長の権限を強化し、また秘密保護法で国民の目を覆い、集団的自衛権によって海外で「戦争のできる国」づくりをしようとしています。これらの動きと連動し、政権の見解を反映させる教科書検定が強化されて、かつて子どもたちを軍国主義思想一色に刷り込んだ国定教科書時代への逆もどりが見られます。国民学校時代の教科書を見る機会がほとんどできない読者諸子のことを考え、できるだけ教科書の原文を載せるようにし、当時の少国民がどのような教育を押しつけられたかを振り返ってみることにします。
以下、小見出しを追ってみます。
一 国民学校の発足と教科
二 芸能科 音楽
三 国民科 国語
いずれも、知ってたつもりで知らなかった、興味津々の話題満載です。

内容の紹介と感想は、また機会を改めて書こうと思います。

今日は、妻に命じられて、半日かけて私の部屋の掃除を試みました。出てくるゴミとくずと埃は相当のもの(中サイズのゴミ袋四つ分)でしたが、少しも片付きません。途中、余計な力が加わったらしく、パソコンのusb端子に挿入してあった無線lan子機が、破損。使えなくなりました。泣き面に蜂、踏んだり蹴ったりです。

夕方、演劇鑑賞に出かけます。



早朝散歩はしてきましたが、朝からむし暑いことでした。












イトトンボ。



モンシロチョウ。



ウチワヤンマ〈ウチワトンボ)



画面真ん中あたりに、ご注目。



トリミングしてみます。

ダイサギ、アオサギが、くつろいでいます。



すぐ側にカモが。カルガモ♀ですか?

今日持ち歩いたレンズは17-50mmの広角系ズームですが、これはトリミングしていません。



朝顔。







今日はこれにて。