先日の高知行の補遺です。

高知行の目当てのひとつだった「槇村浩詩碑」を訪れることができたことは、前回書きました。

この詩碑について、「草の家」学芸員の藤原義一さんがネット上にこのような記事を書いておられたことを、後で知りました。

 【槇村浩(まきむらこう)が歌っている 番外編 「間島(かんとう)パルチザンの歌」の詩碑
一九七三年九月二十一日午後、高知の反戦詩人・槇村浩さんの「間島(かんとう)パルチザンの歌」の詩碑の除幕式が高知市横浜のロイヤルホテル前でおこなわれました。
 碑面には、槇村さんの間島パルチザンの歌」の冒頭の一小節が刻まれていました。
 除幕式の主催は、槇村浩詩碑建設実行委員会。この詩碑は、同実行委員会が、四年前から募金活動など準備をすすめていたものです。小雨の中、約五十人が集まりました。
 式では、日本共産党高知県委員長、日本民主青年同盟高知県委員長、槇村さんとともに活動した旧友があいさつ。日本社会党の代表や、作家の大原富枝さんのメッセージが披露されました。
 一九八九年四月二十二日、この碑が、いまの高知市の城西公園に移設されました。
 この日、午後三時から詩碑移転除幕式がおこなわれました。主催は、槇村浩五十周年記念事業実行委員会(西森茂夫事務局長)でした。
 詩碑移転にようする費用は、すべて寄付でまかなわれました。
 司会は、武市暢久さん。
 開会の言葉、あいさつは、信清悠久さん。
 高校生や若い後継者たちで詩碑が除幕されました。
 西森事務局長の経過報告。
 渡辺進、土佐文雄、井上泉、山原健二郎、島崎鋭次郎、鍋島啓子、須田若枝と横山龍夫・高知市長と島根県の大谷従二さんの祝電が披露されました。
 この詩の一節を国常光正さんが朗読。
 泥川石材店への詩碑作成感謝状の感謝状を贈りました。
 北岡照子さんが閉会の言葉をのべました。除幕式には、高知県知事からも祝電が寄せられました。
 この地は、槇村さんが三年間、捕えられていた高知刑務所の跡地です。

一九七三年九月、高知市横浜のロイヤルホテル前で行われた詩碑の除幕式に参列またはメッセージ、祝電を寄せられた方型のお名前を見ると、すでに亡くなられた方も少なくなく、感慨を覚えます。
土佐文夫氏の「人間の骨」は、以前、この◆懐かしき便り嬉しき聖夜かなの記事で紹介しました。

人間の骨 (1974年)

  • 作者: 土佐 文雄
  • 出版社/メーカー: 東邦出版社
  • 発売日: 1974
  • メディア: -
大原富枝さんについては、この◆高知の夏は、静かな雨だった。の記事で「婉という女」とともに話題にしました。江戸時代初期の土佐藩家老として、藩政改革に手腕を発揮しながら、政敵の反感を買い、失脚、幽閉されて自身も不遇な最期を遂げ、一族も40年もの間赦されることのなかった野中兼山の娘=「婉」を主人公とする物語です。
そのの中検算の屋敷跡が、高知城の麓にあります。





碑の後ろには、3年前と同じく、たくさんの睡蓮がとりどりに花を咲かせていました。











その彼女に、槇村浩を題材にした『ひとつの青春』(大原富枝、講談社、1968年)という作品があったことを、思い出しました。

山内一豊やその妻の銅像は、3年前にも載せました。





そしてこれは、板垣退助。




板垣死すとも自由は死せず、とあります。


銅像は、巨木の陰に成って涼しげです。


この巨木は、栴檀(栴檀)です。
こんな掲示がありました。


栴檀については過去記事でも度々登場していますが、◆栴檀の枝あたりまで溢水す   透にはこう書きました。
 木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。

 栴檀の枝あたりまで溢水す  透

前にも書いたが、私の故郷は、岡山三大河川の一つ 吉井川の支流にあたる「吉野川」の流域にある。三大河川の中でも、治水が遅れているとの指摘があるとおり、かつてはよく氾濫し、耕地や民家の流出・浸水被害がよくあった。

い つもは穏やかで優美とも言える川の流れが、突如として怒濤となって荒れ狂う姿は、被害を受けた方々には申し訳ないが、子供心に 一種の「小気味よさ」を覚えるものだった。堤から大きな網で掬えば、フナやナマズやハエといった雑魚が、大きなものから小さなものまで、バケツに一杯捕れ るという非日常も、気持ちを高揚させた。

学校帰りなど、川沿いに下校路をすすんでいると、みるみる水かさが増していき、茶色い水が渦巻きながら、一切合切を押し流していく。

炭俵ぼこりぼこりと流れゆく   透

芭蕉の句集の名にあやかったわけでもなく、実景を詠んだ。

川の匂いが一面に拡がり、鼻腔を満たす。胸一杯に吸い込むそれは、決して深いな匂いではない。

山土を 匂わせながら土砂崩れ  透

土砂崩れで、山の土があらわになった場所は、むせるような濃密な匂いが漂ってくる。山土の匂いに違いない。それは、「臭」の表記は当てはまらない「匂い」だった。自然の生命をはぐくむ故の、懐かしくかぐわしい「香り」「薫り」であった。


栴檀(センダン)は、オウチとも呼ぶ。樹勢強く、10m、以上の喬木となって枝葉を茂らせる。通行人に木陰を提供するために、全国各地の街道端や、農地の畦などに植えられていたという。

夏には青い実がなり、秋・冬にはそれが黄色く色づいて、小鳥たちに貴重な食糧を提供する。

私の毎日の散歩コースにも、何本も植えられていて、四季折々に装いを変える。

(中略)
 

「栴檀は双葉より芳し」と中国のことわざに言う香木の栴檀は、別種だそうだが、誤解に基づくにせよ、その名前自体に、芳香を放つ香木というイメージがそなわっている。この句は、洪水による浸水で,岸辺の栴檀の枝までが川水に洗われたという実景を詠んだ。烈々たる水しぶきを浴びて、栴檀の枝葉全体が、あたり一面に芳香を放っている様を想像していただけるとありがたい。

夏に高知であった同窓会で、世話役の一人で、司会やお料理のお世話をしてくれたH女史は、奇し き縁で高校の同級生でもある。その時の会話で、その彼女が、私のこの句を覚えていてくれたのは、感激だった。ありがとう。旦那さんの手作りのおでん、とて も美味しくいただきました。


そのH女史、今回も、たくさん骨を折ってくださいました。
このコーナーはそのH女史(=「浜ちゃん」と名乗っています)が、土佐の名品を紹介してくれています。お土産に上等な「花かつお」=削り節を戴きました。感謝。

しかも後日談があります。
当日、会の模様を撮影して、消耗したストロボ用の充電池を、充電器にセットして会場炭のコンセントにさしたまま、忘れて帰っておりました。問い合わせのメールを戴き、わざわざ郵送してくださったのがH史でした。感謝×2。
さて、記事はいよいよ大団円に向かいます。
久しぶりにJRに乗りました。
予讃線→瀬戸大橋線の特急「南国」「南風」に乗って、阿波池田や大歩危小歩危など懐かしい撮りを車窓に見ながら、香川県に入り、あれはどのあたりだったでしょうか?列車が急停車し、車内アナウンス。「線路上のイノシシに接触したため、緊急停止しました」とのこと。いろいろ、予期せぬ事故があるものです。
特急を児島駅で降り、快速電車に乗り換えます。
電車待ちの間、ホームに入線してきたのがこれ。

アンパンマン列車は、高知県出身のやなせたかしさんにちなんで、土讃線を走ります。そういえば、前夜、カラオケで、誰かがアンパンマンの歌を歌っていましたっけ。
そうだ おそれないで
みんなのために
愛と 勇気だけが ともだちさ
何のために 生まれて
何をして 生きるのか
答えられないなんて
そんなのはいやだ

この電車に乗り換えて帰りました。


今日はここまで。