今日から10月ですね。
早いものです。

今朝は雨。

昨日見つけたツマグロヒョウモンの幼虫が、我が家のコンクリート塀でサナギになっていました。











気温も下がって、日中も最高気温で24度c。冷え冷えした秋雨といった風情です。
今日は、私の使っている車の車検。この車、以前私が乗っていた8人乗りの車を大家族の長男一家と取り替えて使っているのですが、長男名義のままですので、納税通知書・証明書が、そちらに届きます
車検には納税証明書が必要と思いつつ、探しても手元にありません。長男の家においたままかも知れません。ところが、今日は、小三の孫がサッカーの練習試合でパパ・ママは送り迎えと応援、中1生は、これまた部の試合でお出かけ。保育園児2人は、保育園に預かってもらっているそうです。
というわけで、長男家は朝から留守。納税証明書の所在を確かめようがありません。
ディーラーにお願いして、再交付をお願いしてもらうしかありません。そのことで頭がいっぱいで、車検証をテーブルにおいたまま、ディーラーに向かいました。すごすごととんぼ返りして、先ほど代車で帰ってきたところです。快適な新型車です。キーをささず、ボタンスイッチでエンジンが始動します。でも何となく心許なくて落ち着きません。
昨日一昨日と、国会中継を聞いておりましたら、キーレスカーどころか、自動運転車の本格導入が話題になり、バラ色の未来図が描かれていました。が、日頃のパソコン使用の経験から推しても、突然のフリーズやプログラムエラーなど、思いがけないにトラブルに巻き込まれるのはしょっちゅうです。家庭の静的な環境でさえこれですから、炎熱から寒冷という苛酷な環境、間断ない振動や衝撃がつきものの自動車を、コンピューター制御にゆだねることなど、おっかない限りではありませんか?(開発途上の、現在の技術水準のもとでは、と限定を付けておく必要があればそうしましょう。)
1960年代から70年代にかけて少・青年時代を送った私などにとっては、当時流行したバラ色の「未来学」などは、どうにもうさん臭く感じられました。その感性が、決してお門違いではなかったことを、後の時代の推移の中で実感したとも思います。
科学や学問の発展、技術の進歩を全否定して、原始に帰れ、と唱えるつもりは毛頭ありませんが、「風の谷のナウシカ」の登場する「巨神兵」のような、人力と人知で制御することのできない破滅的な超常的な力を操るには、人類は未熟に過ぎると思います。大自然の秩序、均衡と齟齬しない、大自然への「畏敬の念」(保守派の方々もお好きな言葉かもしれませんが)を踏まえた、身の丈にあった科学・技術のありかたを構想したいものだと思います。
ところで、昨夜の演劇鑑賞は【グループ る・ばる】「八百屋のお告げ」。

こちらに紹介があります。


 
予言が当たると大評判の八百屋さんが、
ある朝、言いにくそうにこう言った。
「今夜の夜中の12時までに、
 あなた、その、つまり、死にます。」
さあ、大変。やり残したことは?
会っておくべき人は?
人生の宝物っていったい何?
熟年離婚仲間の女友達や、
たまたま居合わせた
男たちを巻き込んでの大騒動。


あなたなら、
最後の一日をどう過ごしますか?




作=鈴木聡
演出=鈴木裕美
出演=松金よね子
   岡本麗
   田岡美也子
   ほか
出演はこんな人たち。




この作品は、2006年に初演、2012年に再演され、今回が3度目の上演とか。
東日本大震災直後の前回講演では、「生と死」をめぐる作品の問いかけが、強く観衆の胸を打ったと言われます。劇団ラッパ屋の鈴木聡氏の作品を、今回は木野花氏が演出し、また、大谷亮介、酒向芳、本間剛の3人の男優を迎えて、新しい仕上がりとなっていると評されています。---ネット上の記事の受け売りです(汗)
すでに別の会場でこの作品をごらんになった友人・知人から、いささかの感想を漏れ聞いておりました。
第一の情報は、家庭用品の訪問セールスマンを演じる坂手川正信役の俳優が、大谷亮介さん。連続テレビドラマ「相棒」で三浦刑事役を長く務めた名脇役としてお茶の間でもおなじみ、というか、私の余暇のかなりの部分が、「相棒」の録画の視聴ですから、三浦刑事とはしょっちゅうお会いしております。人間味のある重厚な役作りに、好感を持っています。

と同時に、世間では、週刊新潮などの記事で、あの高畑裕太クンの父親と報道されて一躍ゴシップの俎上に乗って、ありがたからぬ「時の人」となっていることで関心度が高いかも知れません。

その大谷亮介さんが、この作品では、度重なる自殺未遂経験を経て、今はおいしいラーメンを食べることに生き甲斐を見いだして、訪問セールスマンの仕事に精を出し、一方ではラーメン屋を題材とする人気ブロガーとして活躍しているという設定の中年男性を、コミカルに軽快に、かつシリアスに演じていて、ますます好感を覚えました。
好感と言えば、酒向芳さん演じる宅配運転手松原光男もまた、「近日死ぬ」との八百屋のお告げに悩むさえない中年男ですが、ラーメンを愛しラーメンブログ界では有名人。その二人のブロガーの軽妙な掛け合いも、可笑しくて、ほほえましい限りです。
この酒向芳さん、ググってみれば、エンパシイ」所属の役者さんで、舞台でもテレビでも活躍中。その出演番組に、相棒10・第9話「あすなろの唄」(2011年12月14日)があり、城南大学教授高松肇役で出演とありました。よく覚えています。細菌から石油成分を生み出す画期的な研究を進めていたが研究室で遺体で発見される、、、というストーリー。味のある性格俳優ですね。
この作品、別のある方は、「特に女性には高評価だったようだが、自分には価値がわからない。ただ生きていればそれで良い、ということか?」と疑問を呈しておられました。
実際に観ての私の感想。
客席に笑い声がよく響く舞台でした。その笑いの質は、侮蔑や嘲笑とは対極的な、共感の笑い、泣き笑いに近い、身につまされる笑いだと感じました。それだけでも、ひとときをともに過ごす価値はあります。
笑いについては、以前こんな記事を書きました。

◇沖縄慰霊の日に思い出すこと(その2)
その記事で、1980年代に書いた「担任通信」の一節を引用していました。部分的に割愛しながら再掲させていただきます。


 ぼくは落語を愛する。そこには各種の笑いの類型がある。機知のヒラメキに思わず漏らす、愉快な笑い。芸の確かさに裏打ちされた話術による笑い、、、。


そ して、長屋の八っつぁん、熊サンのふるまいに誘われる笑い。彼らには、地位も名誉もゼニもない。そして教養もズル賢さもない。ウマク立ち回ることは根っからできない。至ってまっとうに生きている。曲がったことは大(で)ェキライ。何事にも真っ向からぶつかる。手加減できない。ササイな出来事にも顔色を変
え、怒り、泣き、イサミ立ち、芯からおろおろし、打開を企て、策を練り、世話を焼きあい、失敗し、挙げ句の果てにはショゲカエル。いかにも不器用で不格好な彼らの、欠陥だらけの渡世、、、。そこに漂う笑いは、嘲笑でも同情でもなく、我が姿そのものを見る泣き笑いであろう。「フーテンの寅さん」の笑いもこの種の笑いに他ならない。
(中略)
与太郎のしでかすふるまいも笑いを誘う。与太郎は、強者ではないではないか。与太郎は、善良な、冷や飯食いの庶民ではないか。彼を笑う気持ちのウラには残酷な優越意識が働いているのではないか。
いや、そうではないとぼくは思う。そうではなくて、与太郎への笑いは、身内への親愛のあらわれではないか。与太郎のもつ無邪気さ、善良さ、人間味への親しみの笑い、心あたたまる思いのあらわれとしての笑いではないかと、ぼくは思う。与太郎は、「われわれ」に属する人間なのだ。
(中略)
歴史上のあらゆる独裁者が、庶民の笑いを恐れたのは、笑いのもつ批判力のためである。そしてまた、人間的健全さこそは、独裁を根本から揺るがす要因であることを知り抜いているからである。
「国家の大事の時に、笑っている場合か!歯を食いしばれ!」という声が、ファシストたちのお得意のかけ声であったことを、思い出してくれればよろしい。
だからぼくは、オカシイ時に笑えないような事態を恐れるし、涙と同等の価値を笑いに認めるのである。
(中略)
今、空前のマンザイブームだという。うっとうしいことの多すぎる現代。大いに笑いが求められていることのあらわれかもしれない。そして、期待通りに、心やすまり、心なごむ芸に巡り会う機会も決してまれではない。
しかし同時に、下卑て、クダラなくて、しかも押しつけがましくて、後味の悪い「笑い」もハンランしている。もちろん、人生の教訓とならずとも、ばかばかしいおわらいであっても、サワヤカさの残る笑いであればいいと、ぼくは思う。しかし、ぼくの恐れるのは、無理矢理押しつけられて笑わされて、(ディレクターの合図か何かに強要されて)いるうちに、薄汚い毒入りまんじゅうを、美味なごちそうであるかのように錯覚させられていくことである。それに似た感覚のマヒを知らず知らず注入されていはすまいかと恐れるのである。
容姿の美醜をあたかも人格そのものであるかのように取りざたして、笑いの題材とするネタ。学校格差や学力差を、そのまま肯定しつつ、それを人格的優劣に結びつけて取り扱う笑い。老人を厄介者扱いする笑い。社会道徳上の無軌道をあたかも英雄視し、市民常識を笑い飛ばす笑い。・・・・
この調子で行けば、今に身障者や社会的弱者、他民族をも嘲笑の種にしかねまじき状況ではないか?
しかし、それは、寄席の場だけの笑いであって、実生活ではいたわりの心を保ちうると言うのかもしれない。だが、人間をさげすむところに立脚する笑いの感覚は、無自覚であると否とを問わず、人の痛みへの鈍感さ、人間の価値へのいびつな感覚(センス)を肥やさずにはいないだろう。それは、人の痛みを共感し、人の喜びを喜ぶ感覚とは、和解しがたく対立する感覚であるはずだ。その二つが、ひとりの人間の中で、自在に使い分けられようはずがないではないか。
現国(現代国語)の授業の続きではないが、我々はセンスを研ぎ澄まさねばなるまい。何に怒り、何に悲しみ、何に喜びを見いだし、そして何に笑みを誘われるか。オシキセのそれではなく、自前の(すなわち不断の自己洞察の上に築かれる)良き感覚を磨かねばなるまい。
観客席の後ろの方から、「面白えのが一番じゃ」と、年配女性同士が小声で--実際は、かなり大きい声でしたが(笑)--話しなが相槌を打ち合っているのが聞こえて来ました。それを聞きながら、私も「ごもっとも」とひそかに相槌を打ったことでした。そして前掲の文章のことを思い出していたのでした。
感想その2
自殺未遂経験者の訪問セールスマン坂手川(大谷亮介)のセリフ。
「どうせほっといても死ぬんです。
自分から死ぬ必要なんかない!
ただ 生きていれば いいんです!」
「生きているから何かが生まれる」、「生きているから何かに会える」、「生きていることが奇跡的に幸せ」、等々のフレーズが思われます。
そういえば、明石家さんまさんの座右の銘が、「生きているだけでもうけもの」だそうですね。
私的体験に引き寄せて言えば、2007年2013年の二度の入院手術の際に口ずさんだセリフが「まあだだよ」だったことがふと思い返されます。

◇私の病気自慢 再び2007年問題
自己確認のために再掲してさせていただきます。




 私は教師として,これまで、「悔いのないようにがんばれ」というメッセージを常に送ってきたと思います。次の文章を引用したこともありました。

 岩波文庫の訳で紹介します。

「人間にあって、もっとも大切なもの──それは生命だ。それは一度だけしかあたえられない。だからあてもなく過ぎ去った歳月にいたましい思いでを痛めることのないように、いやしく、くだらなかった過去に、恥で身を焼くことないように、また死にのぞんで、生涯を一貫して、持てるすべての力が、世の中でもっとも美しいもの──人類解放のたたかいのために捧げられたと言いきれるように、この生命を生き抜かなければならない。」

ロシアの革命運動に参加した作家であるオストロフスキーが、作者の分身ともいえるパーベル・コルチャーギンという登場人物に語らせている言葉です。

これにはさらに続きがあって、「しかも急いで生きなければならない。いつ偶然のアクシデントによって、突然生命が絶たれることがあるかもしれないからだ」という趣旨のことを付け加えています。

実は、近年私は、「がんばれ」という言葉を封印して、滅多に使わないようにしてきましたし、さっきのオストロフスキーの言葉も,長くお蔵入りさせていました。

というのも、私の長男が高校時代、不登校の長いトンネルに迷い込み、親子共々非常に苦しい経験をしたことと、前任校である夜間定時制のS高校でも、多くの不登校経験者と接する中で、「がんばれ」という言葉が、時に人を追い詰め、責めたて、ひどく傷つける場合があることに気づいたことも、きっかけでした。

しかし、今年は最後だからという思い入れからか、授業などでも例年以上にがんばれメッセージを発する機会が増えているかもしれません。そこを汲み取って受け止めてくれたらうれしいと思います。

さて、授業に皆さんには、4月の最初の自己紹介で話しましたが、2007年の暮れに、私は、脳動脈瘤という病気の手術を受けました。

ボールペンの先ほどの太さの脳の血管が直径3センチほどに、タマゴを飲んだヘビのようにふくれて瘤になって、他の組織や神経を圧迫するのです。何年か経過観察するうちにそのスピードが速まってきたので、手術しましょうということで、当時担任していた3年生の推薦入試の時期でしたが、急いで推薦書や必要出願書類は作り上げて、緊急に入院手術ということになりました。クラスの生徒が受験準備のさなかに折ってくれた千羽鶴,病室に飾って励みにしました。

心のこもった鶴を見て、看護師さんたちもしきりに感心してくれました。そんな彼らの卒業式にも出席できないまま、お別れしてしまい、心苦しい思いが残っています。

初めての入院手術が命がけ
大手術控えて心境まとまらず
これきりと言われちゃ困る命かな

『まあだだよ』『まだまだだよ』と口ずさみ


川柳風に心境を詠んでみました。最後の、「まあだだよ」というのは、夏目漱石の弟子で岡山出身の文学者内田百間をモデルにして、「七人の侍」で知られる世界の黒沢明監督が作った映画の題名です。「もういいかい」とあの世からのお迎えが呼びかけても「まあだだよ」と返事をする,という軽妙洒脱な生き方が、愉快に描かれています。私は、入院中、先ほどのオストロフスキーの文章を思い浮かべる一方で、この映画にあやかって、声を張り上げて「まあだだよ」を唱え続けたいと思ったことでした。



昨日の散歩で、ごく近くでチイーチイーという鳴き声が聞こえました。聞き覚えがあるけれど難だっけ?と思出そうとするのと、目の前にカワセミの姿を見つけるのとがほとんど同時でした。カメラを取り出すいとまもなく、カワセミは用水路沿いに飛び去ってしまいました。残念に思って逃げ去った方向を眺めやっておりますと、かなり離れたところに姿がありました。ソオッと近づいて写したのがこれ。トリミング画像です。



9月末の散歩道のカワセミ posted by (C)kazg

よく見ると、近くにもう一羽いるようです。



9月末の散歩道のカワセミ posted by (C)kazg

どうやら手前が♂、向こうが♀のようです。だんだん接近しているのかな。

(訂正 手前が♀、向こうが♂?)






9月末の散歩道のカワセミ posted by (C)kazg



9月末の散歩道のカワセミ posted by (C)kazg

9月末の散歩道のカワセミ posted by (C)kazg

これがらしい。

(訂正♂)





9月末の散歩道のカワセミ posted by
(C)kazg



これが♂




9月末の散歩道のカワセミ posted by (C)kazg





9月末の散歩道のカワセミ posted by (C)kazg

並んで何見てる?



9月末の散歩道のカワセミ posted by (C)kazg

9月末の散歩道のカワセミ posted by (C)kazg



遊び半分でしょうか?ジャガイモ畑の中に入ったりしています。



9月末の散歩道のカワセミ posted by (C)kazg





9月末の散歩道のカワセミ posted by (C)kazg



採餌の様子は見えませんでしたが、寛いだカワセミの姿に満足満足。これも、生きてればこそのもうけものでした。

今日はここまで。